2015/02/21 - 2015/02/21
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junemayさん
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うんだもこら いけなもんや
あたいどんが 茶碗なんだ
日に日に三度も洗(あ)るもんせば きれいなもんごわんさ
茶碗についた虫(む)じゃろかい
目籠(めご)など蹴あるく 虫(む)じゃろかい
ほんにげんねこっじゃ ワッハッハ
以前勤めていた会社には多くの鹿児島人がいて、これは、今でも付き合いのあるそのうちの一人から習った「茶碗蒸しの歌」の歌詞です。客人が食堂に入り、茶碗蒸しを注文したところ、店の主人が茶碗蒸しを知らず、「茶碗に虫がついていましたか? 茶碗は日に三度も洗っていて綺麗なはずなのに、籠につく虫が入ったのかな。まことに恥ずかしい限りで。」と謝ったという歌詞だったと記憶しています。耳で聞く限りにおいては、全く意味が分からないのですが、単純な節回しなので、あっという間に覚えて、わらべ歌のように始終口ずさんでいました。変われば変わるね日本語! というのが正直な気持ちでした。
今回旅の目的地を鹿児島にしたのは、日本の端っこに展開された独自の文化を肌で感じたかったから と言うと大げさですが、単純に、鹿児島にしかないものを沢山見つけたいと考えたからでした。さあ、「茶碗蒸しの歌」をいくつ見つけられたでしょうか??
2/19鹿児島 桜島
2/20西大山 指宿
★2/21鹿児島
2/22鹿児島
2/23鹿児島 知覧
2/24串木野 鹿児島
かごんま3日目です。今日は観光客向けのバス鹿児島シティビューに乗ってお出かけです。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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昨日の朝は、「西郷隆盛生誕の地」から始まりましたが、今朝は薩摩出身のもう一人の重鎮「大久保利通生いたちの地」で幕を開けます。鹿児島市程、こういった説明板が多い町は他に例を見ないのではないでしょうか?
何かにつけて比較される西郷隆盛と大久保利通は、ここ下加治町の同じ町内で生まれたのですね。薩摩独特の武士階級の教育法 郷中(ごじゅう)を通じて、西郷と大久保は兄弟以上の絆で結ばれていたと説明板には書かれていました。 -
生誕の地にわざわざこんな石碑まで立ててしまうのですから、かごんまの人達の大久保に寄せる愛情は西郷に負けない位深いのかと思いきや、そうではないみたい(汗)・・・
生誕の地には何も残っていないというのが常ですが、石碑はこの風土が人と文化を育んだのだという確固たる自信の表れであることは間違いないようです。 -
今日は、維新ふるさと館の北側に位置する甲突川沿いの「歴史ロード維新ふるさとの道」から散策をスタート。
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さっそく、鹿児島独自の暦であった薩摩暦が刻まれた地面に注目しますが、読み方が分からない! ここは「時を刻むかたらい広場」と呼ばれていました。
島津家第25代島津重豪は1779年(安永8年)、天文観測所である「明時館」を創設。渾天儀、枢星鏡、ゾンガラスなどを用いて天文観測を行い、その成果を元に作成したのが、こちらの「薩摩暦」なのだそうです。
そう言えば、鹿児島一の繁華街で、今私が宿泊している「天文館」は「明時館」の別名なのだとも記されていましたよ。あのあたりに天文観測所があったんですね。
蛇足ですが、重豪は蘭癖=西洋かぶれで湯水の如く金を使う藩主だったということでも有名です。重豪の影響を大いに受けた斉彬が藩主になれば、藩の財政の一層の悪化が必至と思われたことが、その後藩を二分するお家騒動が起こった要因の一つだと聞きました。 -
木々の向こうにちらっと見える赤い炎は一体何だったのでしょう? 確認しないで通り過ぎちゃいました。
今日は、これから昨日確認したナポリ通りの乗り場から観光客向けのバス「鹿児島シティビュー」に乗って、市内を移動。まずは、天気が崩れないうちに一番の高台城山を目指します。 -
こちらは、後刻撮った写真です。鹿児島市交通局が運行しているシティビューにはご覧の赤と緑の車体の他に青と白のツートンカラーのバスもあります。コースは、1城山・磯コース、2ウォーターフロントコース、3夜景コースの3つ。
今日は城山・磯コースを利用したいと思っているのですが、なにせ一方通行で逆回りがないため、使い勝手にやや難ありなんです。1日500円で乗り放題なんですが、極めるのは至難の業! -
不思議なのは、民間のいわさきバスネットワークが同じようなコースを「まち巡りバス」という名前で走らせていること。バスはあっちゃん号(篤姫)とせごどん号(西郷ドン)の2種類でこちらも1日500円。
両方のバスに乗れたらばん万歳なのですが、勿論NG。なので、結構ストレスが溜まりました。待たされている時に来るのは大抵こちらのせごどん号。両方のバスが利用できるよう、何とかしてくれ~!! -
城山の手前にある西郷洞窟には行きは止まらず、帰りに停車します。私は城山からの眺めを楽しみたいがために山の表側を歩いて下ったので、再度この洞窟まで山道を上るはめになってしまいました。まあ自業自得っていうやつですが、30分おきの運行だとなかなか時間が合わない・・・
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そうこうしているうちに、城山に到着です。城山観光ホテルの入口で下車。城山の標高は107mで、うっそうとした亜熱帯の森になっていました。
眼下に見える鳥居は島津家第28代当主島津斉彬を祭神とする照国神社の大鳥居。神社の社殿は第二次大戦中に焼失しましたが、この大鳥居だけは残りました。高さが20mもあります。 -
イチオシ
展望台をもう少し右方向へ進むと、じゃーん! 雲が多いですが、桜島のナイスバディが姿を現しましたよ。天気によって、こんなに変わるのかと思えるほど、今日の桜島はくすんで見えますね。
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かなり南風が強いのか、噴煙が北にたなびいていて、それがどんどん濃くなっていき、雲と一体化します。海に浮かぶ巨大な火口。世界でここでしか見られない風景がありました。
はっきり言って、ナポリとベスビオスよりこちらの方が数倍いいわあ・・・ -
錦江湾の南側の海面には太陽光に照らされて一筋の光の帯が出来ていました。光の降り注ぐ様はまことに神秘的。
流石に今日の天気では開聞岳は見えないけれど、晴れた日には望めない神々しい風景を崇めることができました。 -
城山は江戸時代、鶴丸城の後背地として一般の人の立ち入りが禁じられていたため、うっそうとした照葉樹林の原生林で覆われています。
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大きな洞のある楠。樹齢400年を超えているそう。右側の木の根っこにも逞しい生命力を感じます。
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所々にこのような歌碑が埋もれていました。
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下りなので、快適な散策コースです。あっという間に地上が近づいてきました。
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手前に見える建物は鹿児島県の歴史資料センターである黎明館(れいめいかん)。鹿児島の歴史、美術、工芸を知るにはもってこいの総合博物館です。その黎明館の裏庭に、伝統的な建築物発見!
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現在屋根の葺き替え工事が行われているようですが、「樋の間(てのま)二つ家」と呼ばれる鹿児島県の伝統建築です。客人をもてなす格式ある建物「おもて」と日常生活の場である「なかえ」が直角に接し、間に板張りの間である「樋の間」がある、川内川流域から旧姶良郡一帯によく見られた建築様式だそうですよ。
現在修復のため一般公開を中止していたので、こうして、背後から眺められて良かったわ。 -
黎明館の裏側を下りると、ゴールはもう目の前です。
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で、たどり着いたのは、先ほど城山に上る直前に「シティビュー」バスから見えていた薩摩義士の碑です。
ピラミッドのように並んだこちらの碑は、1753年から55年(宝暦3年から5年)にかけて、幕府の命令により施工された木曽川、揖斐川、長良川の治水工事に動員された藩士のうち、51名が自害、33名が病死したことを供養するために、1920年(大正9年)に建てられたものです。 -
「宝暦治水事件」として知られるこの事件、手伝普請という名前で、幕府の監督下において薩摩藩に莫大な工事費と人的動員を負担させる方法での治水工事ですが、度重なる幕府側の嫌がらせ、地域住民との衝突に抗議の意味で自害する者が相次ぎました。また、過酷な環境の中での赤痢の流行により、大勢の犠牲者を出したのです。
石碑には、苗字が分からなかったのか、名前だけが刻まれたものも多数見受けられました。 -
中央一番高い場所にあったのは、工事が完了し、藩にその旨報告した後に自害した総奉行平田靱負(正輔)の碑でした。
ひどい話もあったものですが、この工事により財政が破たんした薩摩藩は、その後奄美大島で貴重な黒糖を根こそぎ年貢として納めさせ、島民を見殺しにしたという話を聞きました。2017年初頭に放映された「ブラ〇モリ」でもその話が出たような記憶。 -
治水工事現場である現在の岐阜県海津市には、1938年(昭和13年)、平田靱負他84名の薩摩藩殉職者を祭神とする治水神社が建立されたそうです。
犠牲者を神様にしてしまうところが日本文化の摩訶不思議な部分ですが、この事件がきっかけで、岐阜県と鹿児島県は姉妹県の契りを結び、人材交流が今に至るまで活発に行われていると聞きました。 -
おお~ものすごい数の克灰袋が土嚢のように積まれていますよ!
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シティビューの到着には時間があり過ぎたので、次の目的地西郷洞窟までは徒歩で行くことにしました。薩摩義士の碑から北西方向に進むと、鹿児島本線の線路を越えます。
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城山の下に掘られた右側のトンネルの入口(出口?)には、「敬天愛人」の4文字が!
「天を敬い、人を愛する」これは西郷隆盛が好んでよく使った言葉で、扁額は彼自身の揮毫によるものです。傍にあった説明板には、「天を相手に人生を全うした誠心の英雄」とありました。 -
「敬天愛人」の扁額からてくてくと山道を上ることおよそ5分。な~んだ! あっけなく着いてしまいました。西郷隆盛洞窟と呼ばれる場所です。1877年(明治10年)9月24日、西南戦争最終日4万の政府軍が城山攻撃を開始。その時西郷軍はわずか300名余だったそうです。
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「おはんらにやった命」。西郷は死を決意して、5日間過ごしたこの洞窟を出て、山道を下り、先ほど渡った鹿児島本線の跨線橋にほど近い場所で、官軍の流れ弾に被弾。別府晋介の介錯で自刃したのです。
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洞窟には300人が寝起きできるようなスペースはありません。説明板には西南戦争最後の司令部と書かれていましたが、後の脚色のようにも思えます。西郷ドンが最後にこもった洞窟です! ってあまりに出来過ぎのような気がしませんか?
それよりも、元々ここはどういった場所だったのか?、洞窟はいつから存在していたのか?、何故西郷はここを選んだのか?、次々と疑問符が頭をよぎりましたが、説明板には答えはありませんでした。 -
西郷洞窟前からシティビューに乗り、磯庭園(仙巌園)に移動しました。結構時間かかりましたよ。ここまではとても歩けません。仙巌園はおよそ50,000㎡(15,000坪)という広大な敷地を誇る島津家の別邸および庭園です。
旧正月の頃に咲くので「ガンタンザクラ」とも呼ばれるカンヒザクラ(寒緋桜)の一種が、濃いピンクの花を宝石のように枝に散りばめて出迎えてくれました。 -
カワヅザクラとも兄弟のような桜だそうです。
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仙巌園内に入場する前に、まずはこちらの鶴嶺(つるがね)神社に参拝しました。こちらは、島津氏の歴代当主とその家族、分家である玉里家歴代当主とその家族たちを祀る神社で、1869年(明治2年)に創祀されました。これは廃仏毀釈により、菩提寺福昌寺を廃寺にするしかなかったためにこちらに先祖の霊を移したもので、この頃多くの藩で同様の神社が創祀されています。
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第16代当主島津義久の三女で、美人の誉れ高い亀寿姫(じめさぁ)も祭神の一人ですが、彼女がここで一番の有名人のように扱われていました。彼女は1571年(元亀2年)、義久が豊臣秀吉に降伏した後、人質として京都に送られました。その後国に戻り、従兄弟である島津家久と結婚。国分城で暮らしたことから国分様とも呼ばれています。とても心優しい性格の女性だったようで、薩摩人には大変慕われていると聞きました。亀寿姫のようになりたいと神社に詣でる女性が多いのだそう。
島津の神社なので当然ですが、至る所に、島津家の家紋丸十が見られます。 -
こちらは入母屋造りの拝殿です。
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装飾の少ない拝殿ですが、階段にはこのような美しい金具が取り付けられていました。
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そして、拝殿の裏にある本殿。こちらは入ることはできませんでした。
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西南戦争時、島津家は中立を守ったにもかかわらず、この神社は官軍に荒らされ、古くからの島津家のお宝が総て略奪されたという話です。
賑やかな仙巌園の隣にありながら、訪れる人は大変少なく、ひっそりと静まり返っていました。本殿、拝殿とも落ち着いた色合いの木の温もりが感じられて好印象の神社でしたよ。 -
さて、神社のお隣、仙巌園に入場しました。最初に出迎えてくれたのは、亀寿姫の父第16代島津義久の弟で、勇猛果敢な戦国時代の武将として名高い第17代当主島津義弘公の兜です。
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兜の前立てには白狐がついていました。島津家初代の忠久が狐火の灯りに守られて誕生したという言い伝えから、代々の島津家当主は兜に白狐を飾るようになったと言われています。
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庭園の入口には、御存じ幕末の名君第28代当主島津斉彬が西欧の列強に対抗して建設、製造したものが並んでいました。やはり金遣いが荒かった?!
こちらは、1863年(文久3年)の薩英戦争で使われた鉄製150ポンド砲のレプリカです。本物でないので、迫力に欠けますが、大砲製造までこの場所で行われていたというのを聞いてびっくり! のっけからただの大名庭園ではありませんでした。
150ポンド砲の背後には、反射炉跡の石組が見えています。そうそう、これは鉄を溶かすのには欠かせない設備でしたね。 -
石段を上ると、旧反射炉が姿を見せてくれました。
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鉄を溶かすのに使われていた旧反射炉の基礎部分です。こちらは1857年(安政4年)に完成した2基目の反射炉の炉床部分のオリジナルですが、この上にあった炉や煙突部分は薩英戦争時に失われてしまいました。
2015年末に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界遺産に認定された遺構の一つです。訪れた時にはまだ候補の段階でした。 -
この反射炉、佐賀藩が持っていたオランダの技術書を見て、試行錯誤しながら薩摩人だけで作り上げたそうです。この上にあった炉には数万個の耐火煉瓦が使われていたため、その重量に耐えられるよう、大変頑丈な石組が施されていました。
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反射炉跡の奥には小さな祠が二つ並んでいました。江戸時代の中期に祀られた山神と水神の祠で、鳥居の手前にある手水鉢には、江戸時代に祠を補修した記録が残されていました。
地元の神様に対する崇敬の念は日本どこに行っても変わりません。 -
反射炉の白い2本の煙突のある炉の部分も、園内にレプリカが用意されていました。
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先ほど見た反射炉は、完成当時このような姿をしていたとされています。2本の煙突が乗っかった屋根の形が純和風であるところが興味深いですね。
模型は実寸の1/4で作られているそうです。伊豆の韮山の反射炉とは少々異なる外観です。 -
反射炉のお隣にあった巨大な実をつける晩白柚の木です。
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これじゃあ、大きさが分かりませんが、でっか~い!!
他にボンタンの木などもありましたが、実がついていませんでした。 -
売店やレストランの間を潜り抜け、奥にある庭園の入口前の広場にやって来ると、このような丸十印のある石のモニュメントが置かれていました。
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こちらは島津家水天渕(すいてんぶち)発電所記念碑ですって。山ヶ野金山ってご存知でしたか? 江戸時代に発見されて、一時佐渡の金山よりも多い産金量を誇ったことのある島津家所有だった金山です。よく幕府の天領にされなかったものです。
1907年(明治40年)その金山に電力を供給するために島津家は天降川に発電所まで作ってしまうんですね。発電所はヨーロッパ風の石造りの建物だったそうで、モニュメントはそのほんの一部です。
その後は新たな鉱脈が見つからず、金山は1965年(昭和40年)に閉山となってしまいました。 -
磯庭園への入口にあったのは「正門」です。この門はNHKで放映された「篤姫」で有名になりましたが、実のところは島津一族が鶴丸城から仙巌園に居を移した1895年(明治28年)に、斉彬の養子第29代島津忠義が建てた門です。
島津家の門として建てられたためか、国道10号線を向いて建っていました。 -
門の中と思しき写真が2枚。中央には御馴染丸十マークが目立っていました。
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しかしよく見ると、門の両サイドは桐の紋になっています。あれ~と思い、調べてみたら、島津家の家紋には丸十だけでなく、桐紋、牡丹紋もあることが判明しました。
こちらは花序につく花の数が5、7、5の五七桐と呼ばれている紋だそうです。 -
庭園への入口の門は、地味な正門ではなく、朱塗りが鮮やかなこちらの錫門。屋根が瓦ではなく、錫で葺かれている珍しい門で、日本に一つしかないものだそうです。
鹿児島では錫が産出したこともあったのですね。 -
仙巌園は第19代当主島津光久の時代(1638年-1687年)に彼の命により建てられたと言われていますが、この門もその時代のもので、1848年(嘉永元年)までは正門として使われて来ました。
当主しか通ることを許されなかった門を、何のためらいもなくくぐりますよ。 -
ほぉ~
これが桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた磯庭園ですかぁ・・・スケールが桁外れ! 曇っていて、今にも泣きだしそうな空なのが惜しいなぁ・・・ -
庭園を前にして建つのは、短く「御殿」の二文字で呼ばれています。光久の時代には別邸でしたが、明治に入り、第29代忠義の時代以降はここが島津家の本邸となりました。
御殿には、お抹茶付きのガイドツアーがあったようですが、今回は参加しませんでした。 -
2月なので、流石に芝は枯れていますが、梅が見ごろを迎えていました。面白い形の灯篭を沢山見ることが出来ましたよ。
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イチオシ
こちらは、獅子乗大石灯篭。ここを本邸とした島津忠義が1884年(明治17年)に作らせたもので、園内で一番大きな灯篭です。写真ではわかりにくいですが、桜島に向かって吠えている獅子が乗っている笠石の大きさは、なんと畳8枚分もあります。
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こちらは鶴灯籠。鶴が羽を伸ばしている姿だそうですが、見えなくはない? という程度かなあ。
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あらあら、今にも倒れそうなヤクタネゴヨウ松は、種子島と屋久島にしか自生しない珍しい松ですって。どうしてこんなに傾いてしまったのかしら? つっかえ棒が今見えているだけで6本!
樹齢350年、幹囲5.4m、高さ約30mと書かれていました。どうやら幹の中央が空洞化していることにより、枝の重みや台風の影響で傾いてしまったようです。 -
ヤクタネゴヨウ松の前にあったのは、亀石です。これも見えなくはないけれど、微妙ですなあ・・・
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御殿とその裏山です。山腹右側に見えている白っぽい細長い岩には、「千尋巌(せんじんがん)」の3文字が刻まれています。
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アップで撮ると、こんな具合です。1814年(文化11年)に、第27代島津斉興が作らせたもので、中国文化の影響が色濃く出ています。中国では山に入ると至る所このように彫った文字を見かけますが、日本ではほかにあまりお目にかかりませんね。
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磯庭園を更に進むと、もう一つ、中国ムード漂うものがありましたよ。望嶽楼という東屋です。
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仙巌園を作った光久の時代に、琉球王から献上された建物と言われています。壁には中国東晋時代の書家王義之(おうぎし)の書の模写とされる額が掲げられていました。
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床には273枚の磚(せん)とよばれる漢の時代のタイルが敷き詰められています。模様が無くなっているものもありますが、手前の2枚には唐草模様がはっきりと残っていました。
ここで、薩摩と沖縄の歴史を簡単に振り返ってみましょう。薩摩藩は1609年(慶長14年)に琉球に侵攻し(琉球征伐と呼ばれています)、あっという間に琉球を制圧。薩摩軍の持つ鉄砲の威力に琉球軍は手も足も出なかったようです。和睦が行われて以降、琉球は薩摩藩の服属国としての歴史を歩むことになります。望嶽楼はそんな歴史を背景に献上されています。 -
園内図には「大池」とありましたが、そんなに大きな池ではありません。錦江湾が大きな池だとしたら、こちらは控えめな裏池と言ったところでしょうか。
ソテツが南国的なムードを醸し出しています。 -
園内をゆっくりと歩いて、大きな灯篭の近くまで戻ります。
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梅が見事! 巨石とは最高のコンビネーションです。
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中央に五葉松、両側を梅でまとめてみました。そして勿論、背景は「お山」です。
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鶴には見えない?鶴灯篭再び。
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こちらは巨石と灯篭だけの世界。芝生の部分は江戸時代はどうしていたのでしょう?
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庭の突き当りには「宝蔵庫」と書かれた建物が建っていました。明治の中頃の建造で、かつては島津家歴代の宝物が納められていたようです。有名な島津斉彬の銀板写真は1975年(昭和50年)になってから、この宝蔵庫内で見つかりました。
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宝蔵庫裏にあった石塀に魅了されました。鹿児島は石が豊富らしく、高い石組みの技術を伴った建造物を随所に見ることができます。
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これは何でしょう? 高枡とありました。仙巌園内の湧水を一旦ここに集めてから量を調整、分岐させて、各所に配水する水道施設という説明が書かれていました。
こちらも立派な石造り。仕組みはそう複雑なものではなさそうですが、独自のアイディアに溢れているように思いました。 -
50,000㎡といってもピンとこないのですが、仙巌園が思っていたよりずっと広いのは確かで、園内を川が流れていました。その保津川にかかる祥福橋を渡ります。
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橋を渡り終えたところで、またまた石に囲まれた池に出ましたが、今度はいくら探しても説明板が見つかりませんでした。えっ ここはどこなのかな?
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巨石ごろごろ、松が植えられ、滝が流れ、石橋が渡してあり、立派な石灯篭もあるのだけれど、園内マップにその名がないという不思議な場所でした。多分「曲水の庭」の下の部分に当たると思われますが、肝心の曲水部分は写さなかったみたいです。
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この際なので、隅から隅までと、仙巌園の一番東の端っこまで足を伸ばしました。ここは桜島ビューポイントその2です。庭園の先には国道10号線と並行して走る日豊本線の線路しかなく、その先はもう海です。
一昨日、桜島から薩摩半島側を眺めた時に見えた、鹿児島市の北東部に続く「カルデラの縁のように見えるギザギザの垂直の崖」下に、今まさに立っているのでした。遮るものが何もないので、島津家の当主達が眺めたのとあまり変わりがないと思われる景色を存分に楽しむことが出来ました。 -
ビューポイントの周りは少し高台になっていて、眼下に茶室秀成荘を見下ろすことが出来ます。この茶室は明治中期になってから建てられた島津家の事業施設「就成所」(しゅうせいじょ)の跡地に建てられたものです。
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少し戻って、曲水の庭に至る丘を上っていくと、今度は見事な竹林が右手に現れました。「江南の竹林」です。
江南の竹とは所謂「孟宗竹」のことで、これは元々は日本には自生していなかったものでした。それを島津家第21代吉貴が、1736年(元文元年)に琉球から取り寄ものせて、ここに植えたのがルーツなんですって。 -
日本のタケノコが薩摩から広まったものとは! サツマイモだけじゃなかったんですね。
竹林と梅林のコラボも良い雰囲気。 -
天然の大きな岩の裂け目に祀られていたのは・・・
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水神様でした。農耕国家である日本で一番大切にされてきた水の神様です。
ここから更に裏山を上ると、第25代島津重豪が滝の景観を楽しむために建てた観水舎跡、同じく重豪が錦江湾の絶景を楽しんだと言われている集仙台跡などがあるそうですが、雨が降りだしてきているし、30分位かかると書かれていたので断念しました。 -
ようやく建物のあるエリアに戻って参りましたよ。すでに入場してから1時間半以上経過していました。
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御殿の玄関はこちら。ガイド付きツアーはこちらで受け付けています。今考えれば、御殿の内部も見学すればよかった!
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丁度その時、私の気をそらしたものがこちら。爆音が鳴り響いて見ると、桜島が噴火を始めていました。おお~何度見ても怖い!
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ひぇ~!!!
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というわけで、急きょ薩摩切子のギャラリーに逃げ込みます。ここがまた、美しすぎて、高すぎて・・・まずは薩摩切子のお雛様がお出迎え。
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薩摩におけるガラス製造の歴史は、1846年(弘下3年)、第27代当主島津斉興によって始められ、次の第28代斉彬の時代には、薩摩藩の近代化ビジネスである集成館事業の一つとして本格的に取り組みを開始しています。
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江戸切子の職人などを呼び寄せ、紅、藍、紫、緑、黄、金赤の6つの色のガラスが誕生。短期間で技術の向上を遂げ、贈答品としても珍重されるようになりましたが、薩英戦争の際に集成館の工場が殆どが焼失、また、斉彬が急逝したこともあり、わずか10数年で事業は途絶えてしまいます。
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現在の薩摩切子は、島津家子孫により1985年(昭和60年)から始まった復元への取り組みによるものです。それからもうすでに30年以上の歳月が経ち、オリジナルの6つの色の復刻にも成功したそうですよ。
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一度途絶えているので、伝統的工芸品には分類されませんが、お値段だけは同じ位しそうです。見ていると、吸い込まれるような輝きにうっとり!
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きりがありませんが、不思議なグラデーションの変化に心を奪われました。
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イチオシ
中でも一番のお気に入りはこちらのグラス。青と緑が合わさった初めて見る深い海の色をしていました。
春節に合わせて、中国人、台湾人向けにも様々なPRがされていました。これでお酒を飲んだら、絶対に美味しいはずですねえ・・・ -
目の保養が済んで外に出てみると、桜島はだいぶ落ち着いて見えました。良かったぁ・・・
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ここにしかないものをもう一つ紹介。こちらは猫神神社。大の猫好きだった第17代島津義弘が1592~1598年にかけての文禄・慶長の役の際に朝鮮に連れて行った7匹の猫のうち、生還した2匹の猫を祀る神社だそうですよ。
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島津義弘は猫の瞳孔の開き具合を見て時を知り、出撃の合図をしたと言われています。ちなみに、その2匹の猫の名前はミケとヤスだそう。400年経っても、猫の名前はあまり変わり映えしていませんね。
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沖縄の桜と言ったらこれ! 元祖ヒカン桜と
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ガンタンザクラを再度愛でます。
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そして、楽しみにしていたB級グルメ? を賞味するお時間となりました。鹿児島名物ぢゃんぼ餅です。
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ぢゃんぼ=Jumbo(大きい)という意味かと思ったら、全く違いました。両棒と書いて、中国語で2という意味のLiang(リャン)に棒(ボウ)がなまってぢゃんぼ。日本語じゃあなかったんだ?!
これは刀の二本差しのことで、お餅に差してある竹串2本を刀に見立ててこしらえた餅とのこと。
味は下がみたらし、上が味噌味でした。1本ずつではやや不満が残ります。見たところ皆さん、平均3本ずつ食べてらっしゃいました。 -
出口を出て、鶴嶺神社に向かって西側に位置する尚古集成館にやって参りました。「明治天皇行幸所集成館」との碑が立っています。
初期の集成館は薩英戦争の際に焼失しましたが、現在の建物は1865年(慶応元年)に建てられた石造りの洋風建築で、国の重要文化財。2015年末に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の施設の一つとして、世界遺産にも登録されました。 -
集成館は、金属加工や船舶の修理が行われていた機械工場、イギリス人技術者を招いて作られた鹿児島紡績所他 造船、製鉄、ガラス、印刷、電信、医療、福祉等から成り、日本初の西洋式産業施設とされています。
入口付近には、1967年(昭和42年)に、日本紡績協会によって作られた「紡績百年の碑」が立っていました。 -
日本初のアーチを採用した集成館の玄関部分です。集成館の別名はストンホームというのだそう。もしかしてStone Homeという意味でしょうか?
石の原料は溶結凝灰岩。建築者が誰かは記録がありませんが、一説によると、長崎の西洋館を見た者が建てたとのこと。西洋建築ぽく見えますが、見様見真似で作ってしまう日本人建築家の手によるもののようです。現在は仙巌園同様、島津興業(SHIMADZU)の博物館となっています。 -
展示室は撮影禁止だったため、中の写真はありません。海洋国家薩摩、近代における薩摩藩の文化、 そして集成館事業による近代化の歩みという博物館の大きなテーマがパネルと映像で綴られていました。
島津斉彬による藩の富国強兵政策には目を見張るものがありました。彼が1858年(安政5年)に急死していなければ、その後の歴史は変わっていたかもしれません。
尚古集成館と前庭です。綺麗に刈られた松がバックの建物と妙な一体感を醸し出していますね。 -
本館に向かって左側にあった集成館別館で、こちらでは企画展が年に数回開催されます。今は丁度季節柄、島津家伝来の「人形とひな道具展」開催中でした。
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1897年(明治30年)の古い写真には、機械工場として使われていた集成館本館と鋳物場、そしてその後取り壊された紡績工場(手前の煙突のある建物)が写っていました。
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国道10号線に面して建つ磯工芸館は、薩摩切子のギフトショップでした。内容的には先ほど仙巌園にあったものとほぼ同じ。
工芸館という言葉に釣られて入った私は、またもや薩摩切子に釘付けになってしまいました。 -
島津家が経営するお店ですから、趣向は同じですが、こちらの切子お雛様はまた少し雰囲気が異なりますね。先ほどのお店のものと比べてみてください。
左右に置かれた長持ちには、丸十と五七桐紋が描かれていました。 -
お気に入りの二色タンブラー。左から瑠璃・緑、瑠璃・金赤、蒼・黄緑です。本当に美しい色ですねえ・・・
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イチオシ
ぼかし(グラデーション)技法とストロベリーダイヤモンド(魚子文)と呼ばれる薩摩切子の代表的文様の組み合わせたデザインです。
手前右から二番目の島津紫は2005年の新色。斉彬にちなんだ色だそうです。 -
手前右の黄色も復刻薩摩切子独特の色で、1989年に数年間の歳月の研究を経て生み出されました。
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大胆なカットデザインが目を惹く二色脚付盃。
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幕末から明治初頭にかけて生産した薩摩切子は生産期間が短かったこともあり、現存するのは150点余と聞いています。しかも個人所有のものが多いため、サントリー美術館に所蔵されている朝倉旧蔵品(朝倉彫塑館の朝倉文雄)と呼ばれる40点ほどは大変希少価値があります。
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こちらは、そのサントリー美術館に、オリジナルのものが残っている、「紫色被銚釐(ちろり)」と呼ばれる土瓶のような形の酒を温めるのに用いた容器です。
これで日本酒の燗をしたら、格別でしょうねえ。 -
イチオシ
そして、こちらも見事に復元された船形鉢と呼ばれる一品です。独特なデザインで、どこか中国風な雰囲気ですね。藍色をしたオリジナルがサントリー美術館にあります。
長々とガラスの写真ばかり失礼いたしました。磯工芸館で、また100枚を超える写真を撮ってしまいました(汗)! ギフトショップなのですが、私には集成館の展示よりずっと面白かったです。 -
外に出たら、本格的に雨が降り始めていました。
寄棟造りの右側に膨らみのあるムクリ屋根がくっついているのが特徴的なこちらの洋館は磯珈琲館(旧芹ケ野金山鉱業事業所)です。山ヶ野だけでなく、芹ケ野(いちき串木野市)にも金山があったんだぁ。1904年(明治37年)に島津家の金鉱山事務所として建てられましたが、閉山に伴い、1986年こちらに移設されたようです。1999年(平成11年)に登録有形文化財の指定を受けています。
入母屋屋根の矢切部分には丸十紋が目立っていますね。 -
磯珈琲館とありましたが、2015年2月現在は営業していないようでした。
しかしながら、最近のニュースを検索していたらヒットしましたよ。2017年3月29日にスタバになって再オープンするニュースが見つかりました。これから仙巌園に向かわれる方は、ここでコーヒーを楽しむことが出来そうです。
ちょっと中を覗いてみたかったなあ・・・ -
旧磯珈琲店の前には、ご覧のような登り窯が残されていました。集成館事業時代のものでしょうか?
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冬の雨の夕暮れ、4時半なのに薄暗くなってきました。宮崎~鹿児島中央間で運行される特急列車「きりしま」が黒い車体で駆け抜けていきました。
枕崎線の「指宿の玉手箱」といい、日豊本線の「きりしま」といい、黒い車体ばかりなのは何故なのでしょう? かと思うと、「にちりんーひゅうが」という極彩色の車体もあるそうですよ。 -
帰り道、興味本位から鹿児島中央(かつての西鹿児島駅)ではなく、「鹿児島駅」を一目見てみたいと思い、市電に乗って向かいました。
地図で見ると、鹿児島中央駅~鹿児島駅間は鹿児島本線、鹿児島駅から先は日豊本線となっていましたが、全ての列車は鹿児島中央まで乗り入れているようです。
九州新幹線の開業により、日豊本線の起点小倉から鹿児島まで走る列車はなくなってしまいました。九州新幹線みずほ号を利用すると、博多までわずか1時間17分。日豊本線経由だとどのくらいかかるんでしょうねえ・・・ -
トラム独特の乗り心地ににんまり。やはり乗り鉄が好きらしい・・・市電は文字通り市民の足として、大勢のお客さんが利用していました。これは終点で沢山の乗客が降りた後の市電を撮った1枚。
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日豊本線と鹿児島本線の終着駅 鹿児島駅です。とはいえ、鹿児島中央にお株を奪われ、鹿児島本線の列車がここまでやってくることはないというのが現実です。日豊本線に関しても、この駅発の列車は皆無。鹿児島駅が人間だったら、拗ねること間違いなし!
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駅を確認したので満足です。再度市電で宿に戻りましょう。鹿児島駅は2系統ある市電の終着駅となっていました。1系統のみがここから日本最南端の電停谷山へと向かいます。一番左の2系統は鹿児島中央駅経由で、途中の郡元止まり。路線図が極めて簡単なので、旅行者でもすぐに乗りこなせるようになります。
今日は3台の市電揃い組でおしまい。明日も鹿児島市内をうろつく予定です。この続きは よかとこかごんま その4 鹿児島市内(中心部・石橋記念公園)で!
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