2017/03/26 - 2017/04/04
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azianokazeさん
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2017年4月1日午後 カルナック神殿に続き、ルクソール神殿を観光 夜はカルナック神殿の「サウンド&ライトショー」へ
深夜便でカイロに戻るはずでしたが・・・・フライト変更のため、空港で一夜を過ごすことに。
表紙写真は、ルクソール神殿の仲睦まじげな若きツタンカーメン王と妻のアンケセナーメン
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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4月1日、カルナック神殿に続きルクソール神殿を観光しますが、市街地中央に位置するルクソール神殿の外観は、これまでもアップしたようにホテルからも眺めていますし、食事なども神殿周辺ですませています。
写真は、昨日朝、ホテルから眺めたルクソール神殿 -
昨夜のライトアップされた神殿
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今日も、市街を散策した際にも、神殿の周囲をほぼ一周しています。
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お昼に散策した際の神殿外観
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同上
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散策途中にルクソール神殿外部から撮影したスフィンクス参道
現在は、写真撮影場所で途切れていますが、昔はカルナック神殿まで、このスフィンクス参道がつながっていた・・・ということでしょうか。
ただ、アムン神などの神様はナイル川を聖船でお運びしたのではないでしょうか? -
そんな訳で、半分見たような気分にもなっているルクソール神殿ですが、日も傾き始めた頃、現地係員とともに改めて内部へ。
入場料は60ポンド(約370円) -
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もともとカルナック神殿の中心を形成するアメン大神殿の付属神殿として、エジプト第18王朝(紀元前1550-1295年頃)ファラオのアメンホテプ3世(紀元前1390-1352年頃)によって中心部分が建立された。(中略)
アメン大神殿とはスフィンクスの参道で結ばれていた。
神殿入口となる第1塔門の前には1対のラムセス2世(紀元前1279-1213年頃)の坐像、その手前にはオベリスク(高さ25メートル)が1本立っている。
オベリスクは本来左右2本あったが、右側の1本(高さ22.55メートル)は1819年、フランスに贈られてパリに運ばれ、現在コンコルド広場にある。
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“フランスに贈られ”とはありますが、自主的に感謝の意を込めて・・・という話ではないでしょう。(ナポレオンから贈られた大時計のお礼として、「持って行ってもいい」と言ったら、軍隊を動員して本当に持って行った・・・という話もあるようです)
世界の多くの文化財が、略奪、強要、あるいは“贈られて”、欧州などの先進国に存在しています。(日本も無関係ではないでしょう) -
パリ・コンコルド広場に立つ、もう1本のオベリスク
画像は【ウィキペディア】より -
第1塔門のラムセス2世坐像
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第1中庭(ラムセス2世の中庭)から第2塔門のラムセス2世像を望む
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ラムセス2世像はあちこちの遺跡で見られます。それだけ権威が大きかったということでもありますが、自己顕示欲も相当に強かった・・・ということかも。
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ラムセス像台座の壁画 上に立つのはファラオ 下で踏みつけられているのは敵国捕虜
捕虜も左はヒッタイト系でしょうか。 -
右はヌビア系みたい
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ラムセス2世の中庭の一画にはイスラムモスクがあります。
ルクソール神殿は1884年に発掘が開始されるまで、その3分の2は砂や瓦礫に埋もれていたそうです。
そのため、発掘されるまでは普通に神殿の上にイスラム教徒たちが暮らしており、モスクも建てられたということのようです。
このアブ・エル・ハッジャージというモスクは今も現役で、信者たちもたくさん来るそうです。 -
こちらは若きツタンカーメン王と妻のアンケセナーメン
主にルクソール神殿を建設したのはアメンへテプ3世とラムセス2世ですが、ツタンカーメンは修復に尽力したそうです。
権勢を誇るかのようなラムセス2世の夥しい巨像に比べると、なんともつつましやかで、仲睦まじそうな坐像です。
*****アンケセナーメン****
アンケセナーメン(紀元前1344年頃-不明)は、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオ・アクエンアテンと正妃ネフェルティティの三女であり、ファラオ・ツタンカーメンの妻である。
当初の名をアンケセンパーテンといい、実父アクエンアテンの妻だった時期もあり、父親との間に娘がいたという説もあるが、アクエンアテンの死後、異母兄弟ツタンカーメンの妻となったさいにアテン神からアメン神に信仰を変えアンケセナーメンと改名した。
ツタンカーメンとは幼なじみだったといわれ、若くして亡くなったツタンカーメンの棺の上に(発掘時)置かれていた、ヤグルマギクの古く乾燥した花束は王妃アンケセナーメンの贈り物との説もテレビで流されている。
ツタンカーメンの早世後は、ファラオを継いだアイの妻となるが、アイは、祖母ティイの兄弟にあたるといわれ、実際に祖父アメンホテプ3世の時代から名を馳せていた神官であるので、年齢差が相当大きかったのではないかと思われる。
この新しい夫には前夫ツタンカーメン暗殺説もあり・・・・【ウィキペディア】
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古代エジプトでは父親と娘、兄弟間の近親婚は珍しくなく、それは王族に限った話ではなかったとの説もあるようです。(王族の場合は、血統の純潔性を保とうとする意味もあるようです。) -
高さは19mの開花式パピルスが2列14本並ぶ「大列柱廊」を抜けて「アメンヘテプ3世の第2中庭」に向かいます。
カルナック神殿の「大列柱室」を見た後なので、やや印象は薄れます。 -
「アメンヘテプ3世の第2中庭」から振り返る「大列柱廊」
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同上
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日も傾いてきた「アメンヘテプ3世の第2中庭」
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同上
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同上
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同上
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「アメンヘテプ3世の第2中庭」から奥へ続く「列柱室」を抜けたあたり
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先ほどから何枚かの写真に写りこんでいる若い夫婦が、ツタンカーメン夫婦のイメージとダブります。
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「アレキサンダー大王の間」への入り口
ローマ時代に改装されたとのことで、ローマ風です。 -
キリスト教徒の礼拝堂として使われたため、壁に刻まれた古代エジプトの壁画が削られ、その上からキリスト教のフレスコ画が描かれたようです。
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同上
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「アレキサンダー大王の間」内部
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アレキサンダー大王はエジプト文化に憧れ、エジプト征服後自らファラオとして即位したそうです。
アレキサンダーはアメンヘテプ3世による建造物を廃して、自分の祠堂を作ったそうで、現地係員が「その痕跡だ」と言っていたような、いないような・・・柱を取り除いた跡ということでしょうか?わかりません。忘れてください。 -
「アレキサンダー大王の間」壁画
アモン神に捧げものをするのはアレキサンダーでしょうか?よくわかりません。 -
この奥に至聖所があるようですが、私らはここで引き返しました。
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第1塔門外に戻ってきました。
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かつてはカルナック神殿まで続いていたスフィンクス参道
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夕日に照らされるスフィンクスに別れを告げて出口へ向かいます。
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ここで現地係員とは別れます。
このあと、夜行われるカルナック神殿の「サウンド&ライトショー」に行きますが、車での送迎、ショー終了後のルクソール空港への移動をドライバー氏に頼みます。
タクシー移動もできますが面倒ですし、費用的にも、吹っ掛けられることを考えると大差はないでしょう。
旅行も後半になると、面倒なことはしたくなくなります。
ドライバー氏には30分後にホテルでピックアップしてもらうことにして、近くのマクドナルドで買ったハンバガーを夕食代わりにルクソール神殿前の広場ベンチで食べます。 -
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カルナック神殿の「サウンド&ライトショー」
料金は100ポンド(約620円)日本語の音声ガイド装置を無料で借りることができます。 -
第一塔門前から始まって、数分間のショーの後、次のポイントに移動して・・・と、観客が移動することで場所を変えながら行われます。
観客は立ったまま鑑賞します。 -
折れたオベリスク先端
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ライトアップされたスカラベ
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最後は、聖なる池の向かいに設置されたスタンドに腰かけて、比較的長めのシューを鑑賞する形になります。
夜になると気温も下がり、長袖が必要な寒さでした。
ショーの内容も、アブシンベルのショーに比べると散漫・冗長で、寒さが身にしみるよう・・・・と言うと言いすぎかもしれませんが、まあ、そんな感じでした。 -
ショーの後、途中でホテルによって荷物をピックアップし、そのまま空港へ向かいます。
フライトは深夜0時過ぎで、まだ空港移動には少し早いのですが、市内でやることもないので、空港で待つつもりでした。
空港到着が9時過ぎ頃だったでしょうか?入口係員の「まだ早いので、ここで待て」との指示で、建物内ではあるが、施設入口の外という中途半端な場所で一人待機することになりました。
写真は空港内に掲げられていたものですが、「一路平安を祈る」という前半が中国語、後半が日本語というユニークなものです。
このときまでは、もうしばらく待てば・・・と余裕でした。(どうして他の乗客は来ないのか?という疑問はありましたが) -
写真は空港内部のコーヒーショップ付近
メッカ巡礼といった雰囲気の乗客
入口外でネットをしながら待つのにも飽きて、トイレにも行きたくなったので、入口係員に中のトイレを使わせてもらうように頼むと、「ちょっと待て」との指示。
別の係員がやってきて何やら相談、その係員がいったん奥へ引っ込んで、数分後に航空会社職員らしき人物とと一緒に戻ってきました。その手には何やら紙が。
彼によれば、00:15の予定フライトが05:40に変わったとのこと。連絡をとったが、ノーアンサーだったとも。手にした紙には“ノーアンサー”と表記されています。
もともと深夜便を空港で待つつもりで早く来たのですが、変更後のフライトまでは8時間もあります。
しかし、今更市内に戻っても行くところもありませんので、このまま空港で待つことにしました。
空港側の計らいで、施設内部には入れてもらえ、写真には写っていませんが、コーヒーショップの横になれるソファが利用できますので、なんとか・・・といったところです。それにしても8時間は長いです。
“連絡をとったが、ノーアンサーだった”というのは、どういうことでしょうか?誰に、どういう形で連絡をとったのでしょう?
今更そのあたりをとやかく言っても仕方ありません。
前倒しの変更で、「もう出てしまったよ」といった事態ではないだけまし・・・・と考えることにしましょう。 -
誰もいないチェックインカウンター
カイロでは出迎えを頼んであったので、手配してもらっている「ベニス細川家」に連絡して、ピックアップ時間を変更。
こういうトラブル時は、日本語で対応できるのは心強いです。
ソファで横になっていたので、時間はそれほどもありませんでしたが、大敵は冷房の寒さでした。
それと、蚊にもあちこちやられました。
03:40 コーヒーショップ店員に起こされ、ようやくチェックイン
なんとかカイロには着けそうです。
カイロでの最終日については、次編で。
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