2016/11/22 - 2016/11/22
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滝山氏照さん
唐津城(からつじょう、佐賀県唐津市東城内)は唐津湾に面した満島山(まんとうざん)の山頂を本丸とし、西に連なる平地を二ノ丸、三ノ丸とする連郭式の平山城となっています。
築城者は寺沢広高(てらざわ・ひろたか、1563~1633)で父広政(ひろまさ、1525~1596)に従い織田信長の家臣として仕官していましたが信長が本能寺の変で横死した後は秀吉の側近として仕えます。
文禄の役では秀吉の命により肥前名護屋城の普請役を務めた後、輸送担当の指揮官として陣頭指揮を執った功績により8万3千石を以て名護屋を含む上松浦郡が与えられます。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは家康方に属し、戦後軍功によって西軍の旧小西行長領の肥後国天草一郡4万石が加増され、それまでの知行地の8万3千石を合わせて12万3千石を所領する大名となります。
寛永4年(1625)12月広高が隠居したあとは広高二男の堅高(かたたか、1609~1647)が二代目として家督を引継ぎますが、寛永14年(1637)島原の乱が勃発するとその乱が天草にも飛び火し、乱の平定に対応しますが島原藩主の松倉氏と同様に堅高も有効な対応を取ることができません。
事態の拡大を懸念した幕府は九州諸大名に命じ鎮圧軍をを投入しますが制圧に手間取り、ついには幕閣老中松平信綱(まつだいら・のぶつな、1596~1662)を討伐責任者として現地に派遣、天草四郎らが籠る原城に向けて一斉攻撃によりようやく反乱軍は粉砕されます。
この乱後堅高は幕府より知行地の施政を咎められ天草郡4万石は没収、堅高は心労がたたったのか正保4年(1647)江戸藩邸で自害、堅高には継嗣がなかったため寺沢氏はお家断絶改易となります。
改易後1年の幕領を経て当藩には大久保・松平・土井・水野そして小笠原と譜代大名を配置し、九州における有力な外様大名の動向を監視する重要な役割を担うことになります。
大手道入口に建てられた「唐津城」と題する説明板には次の通り記されています。
「 唐 津 城
唐津城は慶長13年(1608)に完成した平山城です。城を築いた寺沢志摩守広高は豊臣秀吉の側近で、築城には名護屋城の解体資材を用いたといわれます。
城は本丸・二ノ丸・三ノ丸・外曲輪(そとくるわ)に分かれ、本丸には天守台、二ノ丸には藩主の住居と藩庁があり、三ノ丸にはほとんどの藩士が住み、外曲輪には町人が居住し町奉行がおかれていました。
城には寺沢氏以後代々譜代の大久保・松平・土井・水野・小笠原の諸氏が入城しました。寺沢氏の12万3千石ではじまり、廃藩前は6万石でした。明治10年から本丸跡は現在の舞鶴公園として一般に開放され、藩主の住居は高校敷地となっています。
周囲約1キロ、面積4.3ヘクタ-ル、海抜43メ-トルにそびえる現在の唐津城天守閣は天守台跡に慶長様式で、文化観光施設として昭和41年に完成したものです。天守閣は5層5階、地下1階で博物館、展望所等があり、展望所からは、松浦潟の全景が一望におさめられます。また唐津城は別名舞鶴城ともいわれ、観光唐津のシンボルとして皆様に親しまれております。」
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 私鉄
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唐津駅舎と広場
駅構内に設置された観光案内所にて唐津城アクセスを問合せると「駅から昭和バス市内線東コ-スに乗ると便利だ」との説明がありました。 -
曳山像赤獅子
唐津駅前広場に鎮座している曳山像が見えます。 -
唐津市総合案内
地図によれば秀吉の朝鮮出兵の拠点となった名護屋城と各大名の陣屋が連なる鳴子エリアが確認できます。 -
唐津市総合案内(拡大)
唐津城の位置を地図にて確認します。唐津駅の北方で海岸に接する地に唐津城が在ることがわかります。尚当駅は福岡空港・博多駅-西唐津駅(地下鉄+JR筑肥線)直通電車利用のため利便性は相当高いです。 -
羽ばたく鶴像
唐津城は別名舞鶴城と称され、唐津城本丸が配された満島山を中心に鶴が翼を広げたように見えることから名付けられたそうです。 -
唐津城入口
唐津駅から途中の市役所を経て約15分、「唐津城入口」にて下車すると唐津城大手道入口が控えています。 -
唐津城周辺案内
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唐津城下町絵図
陶板には三方に海に囲まれた唐津城本丸を始めとする城郭と城下町が描かれています。 -
唐津城下町絵図(拡大)
海に突き出た半島の先端は陸繋島となった満島山があって山頂部に唐津城の本丸が配され、砂州となっている満島山の西側部分が二ノ丸で藩主の居住と藩庁でありました。 -
唐津城天守
麓の入口から唐津城天守を見上げます。 -
唐津城大手通り
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天守閣案内板
天守閣は展示改修工事のため休館とのことです。 -
唐津城石垣再築整備事業説明
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唐津城説明板
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休館お知らせ
残念ながら展示改修工事のため天守閣の休館で、平成29年夏からリニュ-アルオ-プンとの事です。 -
鶴舞公園案内図
別名「鶴舞城」とも呼ばれている唐津城は公園化されています。 -
多宝塔一部
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多宝塔説明
築城以前は社寺が集まっていた所で、その一つとして海仙寺という寺にあった多宝塔の一部が設置されています。 -
大手道
石畳の階段を上がって行きます。 -
本丸石垣
大手道から左方向には野面積みと思われる石垣が聳えています。 -
大手道石段
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唐津城石垣再築整備事業説明
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唐津城の歴史説明板
「 唐津城の歴史
唐津城は、唐津藩初代の寺沢志摩守広高公によって慶長7年(1602)から築城が始まり、同13年(1608)に完成したとされていますが、それ以前の豊臣期に築城されたという説もあります。
満島山の頂部を削平・造成することにより、本丸・二の曲輪が造られ、裾部の平坦部を拡張し、藩主の御住居や武家屋敷、城下町が整備されました。
城主は寺沢氏に次いで、一時幕領を経て、大久保、松平、土井、水野、小笠原の諸氏へと移り変わり、廃藩置県により明治4年(1871)に廃城となりました。
その後、本丸跡は明治10年(1877)に唐津城址公園となり、昭和31年(1956)に舞鶴浜公園となりました。
そして、昭和41年(1966)に、天守台跡に天守閣が建設されました。 」 -
石垣再築説明板
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迂回路のお知らせ
石垣改修工事のため登城路の階段が一部通行止めとなっています。 -
本丸石垣
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石垣
石垣の隅は築城技術が発達し「算木積」のすっきりした線が出ています。 -
枡方虎口
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藤棚大手道
多数の枝を四方に広げた藤棚を見上げながら大手道の石段を上り続けます。 -
市街展望
広高は築城に際し東唐津側と地続きであった満島山を切り離して、松浦川が唐津湾に注ぐよう流れを変えています。 -
市街展望
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市街展望と斎藤茂吉歌碑
南側に向けて景色を楽しみ、左側の石碑には斎藤茂吉の歌碑が刻まれています。 -
斎藤茂吉歌碑
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市街一望
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唐津城と藤棚
石垣を再積みするためクレ-ン車両を投入しています。 -
舞鶴公園石標
藤棚の根元には舞鶴公園と刻された石標が建っています。 -
市指定天然記念物フジ
樹齢100年以上のフジが害虫(フジツボミタマバエ)寄生によって樹勢が衰えているそうです。 -
さが名木100選指定
当公園のフジは「さが名木100選」に指定されています。 -
石垣改修工事現場
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イチオシ
唐津城天守
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唐津城天守
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二ノ曲輪
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天守台石垣修復説明板
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神社と鳥居
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本丸西側
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唐津城天守
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本丸西側石垣修復説明板
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天守閣入口
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本丸
石垣再築工事のため右側の区域は壁により入場禁止となっています。 -
立入禁止地区
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唐津湾展望
西唐津駅方向を捉えます。ここにはフェリ-タ-ミナルがあってこの港から壱岐へフェリ-が連絡しています。 -
唐津湾展望
唐津城は満島山を本丸に持つため唐津湾を含む周囲は全て石垣が積まれています。 -
虹の松原
海からの風や砂を防ぐため藩主寺沢広高は「虹の松原」に松の植林をしたそうです。現在では国の特別名勝の地となっています。 -
唐津湾展望
湾に突き出た唐津城は海城とも言われる理由があります。 -
唐津湾展望
湾の北東に浮かぶ高島(たかしま)が小さく見えます。当該島とを結ぶフェリ-が連絡しています。 -
天守閣入口
いつもなら正面入口から入場して天守閣に登るようです。 -
唐津城天守閣
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市街展望
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石垣
近世築城に見られる「切込みハギ」石垣がすっきり積まれています。 -
井戸水
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石畳階段
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門台石跡
当時は枡形の手前に門が設置されていたようです。 -
門台石跡
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石畳階段
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