2016/11/22 - 2016/11/22
309位(同エリア587件中)
滝山氏照さん
唐津城(からつじょう、佐賀県唐津市東城内)は唐津湾に面した満島山(まんとうざん)の山頂を本丸とし、西に連なる平地を二ノ丸、三ノ丸とする連郭式の平山城となっています。
築城者は寺沢広高(てらざわ・ひろたか、1563~1633)で父広政(ひろまさ、1525~1596)に従い織田信長の家臣でありましたが信長が本能寺の変で横死した後は秀吉の側近として仕えます。
文禄の役では秀吉の命により肥前名護屋城の普請役を務めた後、輸送担当の指揮官として陣頭指揮を執った功績により8万3千石を以て名護屋を含む上松浦郡が与えられます。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは家康方に属し、戦後軍功によって西軍の旧小西行長領の肥後国天草一郡4万石を加増され、それまでの知行地の8万3千石を合わせて12万3千石を所領する大名となります。
寛永4年(1625)12月広高が隠居したあとは広高二男の堅高(かたたか、1609~1647)が二代目として家督を引継ぎますが、寛永14年(1637)島原の乱が勃発するとその乱が天草にも飛び火し、島原藩主の松倉氏と同様に堅高も有効な対応を取ることができません。
事態の拡大を懸念した幕府は九州諸大名に命じ鎮圧軍をを投入させるも攻略に手間取り、ついには幕閣老中松平信綱を討伐責任者として現地に派遣、天草四郎らが籠る原城に向けて一斉攻撃によりようやく反乱軍は粉砕されます。
この乱後堅高は幕府より知行地の施政を咎められ天草郡4万石は没収、堅高は心労がたたったのか正保4年(1647)江戸藩邸で自害、堅高には継嗣がなかったため寺沢氏はお家断絶改易となり、以降譜代の大名が入れ替わり小笠原氏が城主となったあとは明治維新までその治世が続くこととなります。
唐津神社ホームページにはその由緒が下記の通り紹介されています。
『 由緒
その由緒を神功皇后に見る唐津神社は、唐津城の祈願所rと定められた神社で、唐津くんちで広く知られています。
神功皇后は、新羅征伐に向かった折、渺茫と広がる海に新羅への航路を定めますが、船師(水軍)はその路が分かりませんでした。神功皇后は、住吉三神に『神若し吾をして新羅を征しめんと欲せば、一条の船路を示せ、吾依て以て師を進めん』と祈願しました。すると、たちまちのうちに海上に光が輝いて航路を示し、皇軍を導きました。三韓征伐を成し遂げた神功皇后は、凱旋の後、住吉大神の御神徳に感謝して松浦の海岸に宝鏡を懸けて三神を祀ったのが創始とされています。
数百年を経て、神殿も消滅せんとしていた天平勝宝7年(755)地頭の神田宗次公が、神夢を見たことから海浜に赴くと、漂着してきた宝鏡入りの筐を得ます。これは神功皇后の捧げた鏡に間違いないと奏聞しに、叡感を得て、9月29日の勅にて「唐津大明神」の神号を賜ったとされています。
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 私鉄
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満島山周辺散歩
大手口に下りてそこから本丸を配した満島山周辺を巡ります。まず左側に早稲田佐賀高校敷地を見ながら帯曲輪(おびくるわ)跡を海岸方向に歩きます。 -
唐津城説明板
説明にあるように「唐津城は平山城と言われていますが、本丸部分が山城でかつ水城で、二ノ丸、三ノ丸は平城」と見ることができます。 -
案内標柱
進んで行くと「唐津城下の散歩道(北海岸)」と「西の浜・石垣の道」の分かれ道が記された標柱が建っています。 -
帯曲輪
まず海岸方向を散策します。左手は松林を経て海岸、右手は山麓側となって入ます。散策道は帯曲輪で満島山を取り囲み、海岸側には石垣が積まれており堅固な海城という印象があります。 -
山頂エレベ-タ-発着場
ここから山頂の本丸まで登るエレベ-タ-設備があり片道100円で利用できます。 -
帯曲輪跡
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解体された石垣
海岸に施された石垣から広がる空地には解体された石材が並べられています。 -
唐津湾風景
帯曲輪の海岸よりからは唐津湾に浮かぶ高島が視界に入ります。 -
帯曲輪跡
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帯曲輪跡
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西の浜・石垣の道方向
分かれ道に戻り、次は西の浜・石垣の道方向を歩きます。 -
二ノ丸を囲む石垣
二ノ丸は藩主の住居・藩庁として最も重要な城域となっており、そのためか二ノ丸周囲を堅めるため石垣が施されています。 -
二ノ丸を囲む石垣
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御住居・学問所入口
現在は早稲田佐賀高校の敷地ですが、かつては藩主の住居並びに藩庁という中枢の建物が建っていた所で、またグランドにあたる場所には藩校の学問所、蔵、馬場などがあったそうです。 -
御住居・学問所説明板
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石垣の道
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石垣の道
右手の水野旅館の前には長い年月を印象付ける苔むした石垣となっています。 -
唐津藩武家屋敷門
西の浜にはいくつかの旅荘が点在しており、その中に水野旅館と称する旅館には唐津藩武家の、門が移築されています。 -
唐津藩武家屋敷門説明板
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武家屋敷門
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石垣の道
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石垣の道
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石垣の道と唐津城
振り返ると後方に唐津城の天守閣がよく見えます。 -
二ノ門外堀
この堀は藩主の住居・藩庁が配された二ノ丸と藩士たちが住んでいる三ノ丸を区分ける堀で、藩士たちは堀の中央部にある橋を渡って出仕していたそうです。 -
二ノ門外堀
堀幅が20mにもなる大規模な堀でまるで一見河川のように見えます。 -
二ノ門外堀・北ノ門説明門
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二ノ門外堀
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旧高取邸入口
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旧高取邸
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旧高取邸玄関
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旧高取邸
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旧高取邸見学者用駐車場
車輌で訪れた見学者専用の駐車場が設置されています。 -
旧高取邸見取図説明板
付近には旧高取邸見学者専用駐車場が設置され、その入口には見取図と共に説明板が建っています。 -
埋門ノ館正面
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埋門ノ館説明板
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埋門の館玄関
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二ノ門交差点
藩主住居・藩庁が設置された二ノ丸と藩士らが居住していた三ノ丸とを隔てる二ノ丸外堀が再び見ることができます。また北西角には時の太鼓が配されています。 -
時の太鼓
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時の太鼓(全景)
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時の太鼓説明板
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二ノ門外堀(北側)
再び二ノ門外堀を通ります。説明板によれば従来の松浦川の流れを満島山の内側に付け変えたことにより、二ノ丸と三ノ丸の間に流れていた旧川筋を堀として活用したとされます。 -
二ノ門堀説明板
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二ノ門外堀(南側)
二ノ門外堀を渡る橋から南側を一望します。 -
旧唐津藩藩校中門
享和元年(1801)水野氏時代の藩校である「経誼館」の中門として建てられ、後に小笠原氏に引き継がれ「志道館」の中門となります。 -
旧唐津藩校中門標柱
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旧唐津藩藩校中門説明板
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旧唐津藩藩校跡内部
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曳山展示場
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唐津神社
曳山展示場の隣には唐津神社が鎮座しています。 -
唐津神社石標
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唐津神社第一鳥居
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唐津神社由緒説明板
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唐津神社第二鳥居
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取水舎
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神社内
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唐津神社第三鳥居
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唐津神社大型絵馬
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唐津神社説明板
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唐津神社拝殿
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唐津神社拝殿
拝殿上部には「唐津大明神」と記された扁額が掲載されています。 -
唐津神社境内風景
例によって拝殿から鳥居方向に向けて展望します。 -
唐津神社本殿
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唐津神社境内風景
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肥後堀
市役所入口には肥後堀が一部復元されています。唐津城は九州諸大名の助力のもと築城されていますが、この辺りの堀は肥後藩により造られています。 -
肥後堀風景と説明板
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肥後堀
復元された堀ですが当時の状況がよく伝わっています。尚石垣の内部は唐津市役所の敷地となっています。 -
肥後堀
この堀は三ノ丸と外曲輪の間に掘られたもので、長さは300m、幅は20~25mmの規模であったそうです。 -
肥後堀説明板
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隅櫓
肥後堀に配された模擬隅櫓は内部から見ると手洗所となっています。 -
旧唐津銀行建物
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入館無料の案内板
旧唐津銀行の入口には入館無料の案内板が設置されています。 -
三ノ丸辰巳櫓(全景)
この櫓は唐津城三ノ丸東南隅に建てられた櫓で見張や防御のために造られています。 -
三ノ丸辰巳櫓から見る唐津城天守
満島山に建つ本丸天守がしっかり見えてます。 -
三ノ丸辰巳櫓外側
この辰巳櫓は松浦川に面しており敵の侵入に対して見張の役割をしていました。 -
三ノ丸辰巳櫓内側
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三ノ丸辰巳櫓説明板
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唐津駅一番ホ-ム
JR筑肥線と福岡地下鉄の相互乗り入れに使用するJR九州車輛が見えます。唐津-福岡空港直通で85分という所要時間のため福岡市内への移動は簡単です。 -
唐津駅三番ホ-ム
佐賀行きディ-ゼル車輌が出発を待っています。唐津-佐賀は約70分程度で連絡できます。
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