2016/10/14 - 2016/10/16
108位(同エリア407件中)
naoさん
JR秋の乗り放題パスを使って広島と岡山を訪れました。
旅の行程
10月14日 山陽道 神辺宿、鞆の浦
10月15日 備中高梁、備前福岡
10月16日 津山、美作勝山
岡山県中央部の西寄りに位置する高梁市は、日本三大山城の中で最も高い場所に建つと言われる備中松山城の城下町で、高梁川の水運で栄えた商家などが数多く残る古い町並みは「備中の小京都」とも呼ばれています。
寛永19年(1642年)に備中成羽藩から5万石を拝領して入封した水谷勝隆は、山や畑を水田に転換する新田開発にはじまり、高梁川水運の整備や水路建設、城下町の整備などに努め、松山藩の経営安定に功績を残します。
なお、水谷氏に跡継ぎが居ないためお家断絶になり、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が松山藩の在番を命じられたことにより、元禄6年(1693年)城代となった家老大石良雄をはじめ、不破数右衛門、武林唯七など、後に赤穂義士で有名になった人々が一時在城したことがありました。
松山城が山城だったため、藩主の日常生活の場であり、また、政務を行う政庁である御根小屋を城下に設け、廻りに武家屋敷を配して事実上の本丸として機能させていました。
この御根小屋跡が県立高梁高校に残され、また、城下町特有のあて曲げや桝形を設けた周辺一帯には、土塀の続く格式ある門構えの武家屋敷を見ることができます。
一方、備中の交通の中心となっていた高梁川を上下する高瀬舟により流域の生産物が集散し、多くの商人が集まる物流拠点として賑わった高梁は、今も小高下川と紺屋川の間の高梁川沿いに多く見られるナマコ壁の土蔵群や、漆喰塗の外壁に虫籠窓や千本格子をしつらえた重厚な商家や伝統的な町家が軒を連ねる町並みに、当時の繁栄ぶりが窺える面影が残っています。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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この日は福山駅からスタートです。
JR山陽本線からJR伯備線へと乗り継いで、備中高梁駅へ向かいます。 -
今年は、福山市の市制100周年とのことで、こんな汚水枡の蓋がありました。
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備中高梁駅に到着しました。
日本三大山城の一つ、備中松山城の城下町として知られる高梁市には、「備中の小京都」と呼ばれる風情豊かな町並みが広がっています。 -
「備中の小京都」と呼ばれる町並みは、駅の東から北にかけて広がっているので、早速、南町から町歩きを始めます。
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小さな町家ですが、ナマコ壁と出格子が大きな存在感で目に入ってきます。
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「珍果」って、どんな果物を扱っておられるのか興味が湧いてきます。
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珍果店さんの持ち送りには、見事な彫刻が施されています。
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下町の町並みに入る角に、黒い一文字の塀で囲まれた町家がありました。
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果たして、一文字の正体は瓦でした。
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2階のガラス窓の桟に手の込んだ職人仕事が見られます。
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出格子の木材を壁土で塗籠めています。
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正面側の下屋を銅板のさらし葺きにした町家。
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2階の窓を一つの虫籠窓にまとめた町家。
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町家のガラス戸の向こうでは、かわいい猫ちゃんが日向ぼっこの最中です。
猫ちゃんは暖かいところが好きですからね・・・。 -
僅かにあしらわれたナマコ壁ですが、この町家の外観をきりっと引き立てています。
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かつての虫籠窓はそのままに、板壁に改修した町家。
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瓜型の虫籠窓と出格子が並んだ町家。
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駒寄せをめぐらせた町家。
駒寄せの頭部が擬宝珠加工されています。 -
精悍な面構えの町家。
「精悍」という表現がピッタリだとお思いになりませんか・・・。 -
観光駐車場の一角に、高梁川の水運を担っていた高瀬舟が展示されています。
この高瀬舟は平成4年に復元されたものだそうです。 -
観光駐車場のお向かいの酒屋さんには・・・
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重厚な虫籠窓がしつらえられています。
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格式のある立派なお屋敷です。
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黒漆喰で塗籠められた虫籠窓の、瓜型の形状が秀逸です。
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そのお屋敷が面しているのが・・・
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紺屋川美観地区です。
地元では、高梁川にそそぐ伊賀谷川に沿いに連なる町並みを紺屋川美観地区と称して、大切に保存されています。 -
こちらは、高梁川沿いの国道180号線の歩道に設けられた漆喰塗の土塀です。
見渡す限り、延々と続いています。 -
高梁川の水運が盛んだった頃に活躍した商家のお屋敷です。
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復元した高瀬舟が展示されていた観光駐車場の一角に建つ土蔵群。
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漆喰塗の土塀がある歩道から、国道180号線越しに見た紺屋川美観地区の光景。
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こちらは、明治時代に建てられた木造三階建ての旅館です。
寅さんでおなじみの「男はつらいよ」にも登場したとのことで、撮影中はスタッフの宿として使われ、山田洋次監督や渥美清さんもお泊りになったそうです。 -
では、紺屋川美観地区を歩きます。
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倉敷の美観地区を彷彿とさせるナマコ壁の土蔵群。
高梁川の水運が盛んだった頃の風情をしのばせてくれます。 -
蜘蛛の巣がお陽さまの光を浴びて、キラキラと輝いています。
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右側の白漆喰塗の町家は、柚子を使ったお菓子で有名な和菓子屋さんです。
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伊賀谷川は元々備中松山城の外堀だったもので、水の流れが少ないので、川床に遊歩道が整備されています。
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こちらは、明治22年(1889年)に建てられた高梁基督教会堂です。
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明治12年(1879年)に高梁で始まったキリスト教の布教活動は、翌13年に新島襄が訪れたことで急速に浸透し、この教会の建築に至ります。
玄関に「自由にお入りください」との張り紙があったので、内部を見せて戴きました。 -
アーチがしつらえられた祭壇。
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祭壇には、明治初期にキリスト教が迫害を受けたときに使われた「迫害石」が残されています。
高梁のキリスト教徒にも悲惨な歴史があったんですね。
こういう物に接すると、いつも考えさせられてしまいます・・・。 -
かつて使われていたんでしょうか、十字架が浮き出た鬼瓦。
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厳かな気持ちになったところで、町並みに戻ります。
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「有終館」は、正徳元年(1711年)に伊勢国亀山からこの地に入府した板倉勝澄が延享3年(1746)年に開いた学問所を礎として、四代勝政の寛政10年(1798年)頃に藩校として整備され、「有終館」と名付けたものです。
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こちらは、高梁市消防団の消防器庫です。
町の景観に配慮する以上に、貢献しています。 -
大きな柳の木が伊賀谷川に寄り添うように立っています。
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伊賀谷川に床を渡して建てられた小さなお社。
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高梁市の観光物産館です。
観光案内所やお土産物屋さんとして使われています。 -
倉敷の美観地区に比べると規模の小ささは否めませんが、紺屋川美観地区も見るべきものがあります。
では、紺屋川美観地区を後にして、本町の町並みを歩きます。 -
紺屋川美観地区と本町の角に建つ、風情あるお蕎麦屋さん。
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全身ナマコ壁といった観の土蔵造りの町家。
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袖卯建と出格子が際立つ町家。
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北側に続く町並み。
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全面格子戸の町家。
商売柄、格子はお手のものですね・・・。 -
デザインに一工夫凝らした千本格子のある町家。
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袖卯建と出格子が際立つ町家を、振り返って見た光景です。
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小さな丸窓がチャームポイントの町家。
丸窓の中にも格子が嵌められています。 -
手前の町家には、枡目格子の戸が使われています。
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この町家にも、僅かながらナマコ壁があしらわれています。
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北側に続く町並み。
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ベンガラ塗りの犬矢来がしつらえられた町家。
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家紋が浮き彫りにされた端正な町家です。
目にも鮮やかなベンガラ塗りの格子戸に魅了されてしまいました。 -
格子に吊られた竹製の掛け花活では、餅花が揺れています。
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出窓のように壁面から突き出た虫籠窓のある町家。
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同じようなガラス窓のある町家が隣り合っています。
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1階下屋の小口を覆う焼杉の板。
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住んでいるお年寄りの方のが町の人に安否を伝えているのか、「だいぢょうぶ。」や「ありがとう。」と書かれた木札が吊り下げられています。
ちょっと気になりますね・・・。 -
北側に続く町並み。
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こちらは、食べ物を入れる折箱などの製品を扱っているお店です。
店構えからでは何のお店か想像できませんね・・・。 -
こちらは、真新しい看板が示すようにお醤油屋さんです。
これなら判りやすいですね・・・。 -
下屋の軒先に垂壁を下ろした町家。
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こちらは、無料休憩所として運営されている高梁市商家資料館です。
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元々は、八代将軍吉宗の享保年間(1716年~1736年)の小間物屋に始まり、高梁川水運で活躍した高瀬舟の船主、両替商、醤油製造で財をなした・・・
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高梁を代表する豪商、池上家の建物で、天保14年(1843年)に建てられたものだそうです。
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内部は一般にも公開されていて・・・
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旧商家棟、管理棟、商家資料棟、醤油製造棟など・・・
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江戸時代の豪商の格式を感じさせる佇まいを見ることができます。
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伝統的な佇まいの町家。
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こちらは伝統的な町家を活用したカフェです。
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北側から見た高梁商家資料館。
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枡目格子をメインに使った町家。
こちらのご主人は、枡目格子にこだわりがあるようです。 -
こちらは鮮魚店さんです。
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南側の町並みを振り返って見た光景です。
本町の町並みはここまでなので、次へ向かいます。 -
この町家の角を曲がって・・・
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東西方向に延びる通りを歩きます。
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ナマコ壁をしつらえた白漆喰塗の土塀が見事としか言いようがありません。
では、この先でJR伯備線の踏切を渡ってさらに東の方へ向かいます。 -
ナマコ壁の土蔵や土塀があるのは県立高梁高等学校になります。
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白漆喰塗も、これはこれで素晴らしいんですが・・・
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なぜか浅黄色の土壁に、より惹かれるものを感じます。
では、少し戻って、石火矢町ふるさと村の町並みへ向かいます。 -
石火矢町ふるさと村の町並みです。
この辺りは臥牛山南麓に広がる備中松山城の城下町にあたり、当時の町割りや白漆喰塗の長屋門や土塀をめぐらせた武家屋敷が当時の面影を今に伝えています。 -
これは、武家屋敷の警固にあたり、外の様子をうかがうために土塀に設けた武者窓です。
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武者窓のあるこちらのお宅は、板倉藩時代の家老、野中丈左衛門の屋敷跡の一部で、古い土塀に付けられていたものを再現したんだそうです。
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こちらは旧折井家のお屋敷です。
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白漆喰塗の長屋門や土塀が残されています。
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鏡の中の旧折井家。
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こちらの門もかつては武家屋敷のものだったんでしょうね・・・。
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今まで歩いてきた、石火矢町ふるさと村の北側の町並みと・・・
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南側に延びる町並みです。
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こちらは、旧埴原家のお屋敷です。
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旧埴原家にも、立派な長屋門と・・・
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高い石積みの土塀が残されています。
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秋の装いを身にまとった旧埴原家。
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これらの門のあるお屋敷も・・・
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武家屋敷だったんでしょうね・・・。
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石火矢町ふるさと村の町並みはこの辺りまでです。
延べ250m余りの町並みなので、ここに立てばほぼ全容が見渡せます。 -
見事な石垣の上に、見上げるようにそびえる町家。
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高梁基督教会堂が見える辺りまで戻ってきました。
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こちらは向井町にある高梁市郷土資料館です。
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この資料館は、明治37年(1904年)に建てられた旧高梁尋常高等小学校の校舎を活用したもので、かつて農作業や日常生活で使われていた貴重な道具類が集められています。
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長屋門を備えた大きな町家です。
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向井町の町並みです。
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町並みの一角に、たわわに実をつけた柿の木が、大きく枝を広げる町家がありました。
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こちらは、旧日本海軍の杉政人海軍中将の生家だそうです。
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明治13年(1880年)に生まれた杉政人は、日露戦争で活躍した後、佐世保海軍工廠や横須賀海軍工廠に赴任し、軍艦装備の充実に多くの功績を残しています。
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こちらは、岡山県初の女学校として創設された順正女学校の跡地です。
順正女学校は、新島襄のキリスト教伝道に共鳴してキリスト教徒となった福西志計子が、明治14年(1881年)に設立した私立裁縫所を前身として発展したもので、多くの女性に教育の道を開きました。
さて、「備中の小京都」とも呼ばれる高梁の町も歩き尽したようなので、そろそろ駅へ戻ります。 -
こちらは鍛冶町にある染物屋さん。
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駅のすぐ手前の歩道で見つけた「備中松山城」のタイル絵。
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