2015/04/30 - 2015/04/30
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bunbunさん
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コスタ・デル・ソル(Costa del Sol)を走る高速道路:オート・ピスタ(Autopista)AP-7号線を、サン・ペドロ・アルカンタラ(San Pedro Alcantara)で降りて、A-397号線を北に向かい、シエラ・ベルメーハ(Sierra Bermeja)山脈を越えてしばらくすると、白い町ロンダが見えてきます。ロンダの西端は 100 m もの断崖絶壁となっており、その壮大な景観によって多くの観光客を集めていますが、近代闘牛発祥の地としても知られています。
本旅行記では、絶壁上にある5ヶ所の展望台からの絶景を中心に、街歩きを報告します。
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バスの窓から見たシエラ・ベルメーハ(Sierra Bermeja)山脈の風景。
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バスの窓から見たシエラ・ベルメーハ山脈の風景。
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バスの窓から見たシエラ・ベルメーハ山脈の風景。
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バスの窓から見たシエラ・ベルメーハ山脈の風景。
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バスの窓から見たシエラ・ベルメーハ山脈の風景。
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あっ!見えた。白い町。ロンダだ。
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この山脈を越えてきたということですねえ。
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ロンダの町が近づいてきた。断崖絶壁は町の左端にあります。
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ロンダのバスターミナルに着きました。表示パネルの上にあるのはロンダの紋章です。
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バスターミナルから徒歩でロンダ市内を散策しました。ルートを地図に赤線と矢印で示します。
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ヘレス通り(Calle Jerez)。右に見える建物はロンダ慈悲聖母教会(Iglesia de Nuestra Senora de la Merced Ronda、日本語は意訳です。日本語の公式名称はわかりません)。
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ヘレス通りを南に進むとポソ通り(Calle Pozo、左側)の交差点です。右側はエル・ニーニョ通り(Calle el Nino)です。
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交差点の西側にあるロンダ慈悲聖母教会とメルセー広場(Plaza de la Merced)です。
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ロンダ慈悲聖母教会の説明書き。
「慈悲の勲位は慈悲の聖母に捧げる修道院を設立するために、1551年この場所に移されました。しかし、教会が設立されたのは1585年のことです。菜園とともに、この教会は修道院のごく一部として残されています。
今日、この教会は、聖テレジアの手の遺骨を有する素足のカルメル会に所属しています。
1822年修道院が閉鎖されたあと、建物はアフリカの組織団体の住居として使われ、1896年には民間に引き継がれて世紀末まで大々的な改修が行われました。
この教会は3つの身廊からなり、中央の一番広い身廊はトンネルヴォールトで覆われ、翼廊は小さな窓とバルコニーを持った円筒の上を半球のドームで覆われています。
教会のファサードは石積みで、壁からはみ出した柱は堅固な煉瓦で、その他の全面はしっくいで覆われています。一つの顕著な特徴は、半円形のアーチを有する石の戸口です。塔は八角柱で石積みを模した煉瓦でできており、教会の片側から立ち上がっています。」 -
この交差点からビルヘン・デ・ラ・パス通り(Calle Virgen de la Paz)に進んで100 m も歩くと西側に、1572年設立の王立ロンダ騎士養成学校(Real Maesttanza de Caballeria de Ronda)あります。この写真はその北側のアラメダ・デル・タホ(Alameda del Tajo)公園内にあるロメロ家出身の伝説的闘牛士ペドロ・ロメロ・マルティネス(Pedro Romero Martinez, 1754-1839)の像です。(付録3参照)
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上の銅像から真直ぐ西南西に進めば断崖絶壁の崖淵に出でます。崖淵にはいくつも展望台がありますが、そこから絶壁に沿って走るブラス・インファンテ通りを南南東に 100 m程進むと、そこにまた展望台があります。
この写真は展望台から北側を見た風景です。 -
少し西に振って、崖下の平地。
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南西側の風景。
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南側の風景。
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絶壁の真下まで見えるように。
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絶壁の上の右端は展望台ですかねえ。民家の庭から続いているようだからからプライベート展望台ってとこですかねえ。贅沢だなあ。
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展望台からさらに南南東に進むと、闘牛場(Plaza de Toros)の塀にオーソン・ウェルズ通り(PASEO DE ORSON WELLS)と書かれた飾り額がありました。映画「第三の男」など知られるハリウッド俳優、オーソン・ウェルズ(1915-1985)は熱烈な闘牛ファンで、トップスター闘牛士アントニオ・オルドニェス(Antonio Ordonez,1932-1998、詳細は以下のアントニオ・オルドニェスの銅像のところで説明します)等とも親交がありました。彼の遺言で、死後の1987年、遺骨はオルドニェス(Ordonez)ファミリーが所有するサン・カジェターノの別荘に置かれました。
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絶壁に沿って走るブラス・インファンテ通りを南南東に進むと、テニエンテ・アルセ広場(Plaza Teniente Arce)に出ます。目の前に牛の像が現れた。
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北を見ると闘牛場(Plaza de Toros)ですね。全体が入らないんで何枚かに分けます。
1784年にホセ・マルティン・アルデウェラによってバロック様式で建設されたスペイン最古の闘牛場です。建設後に客席の一部が崩壊したために改修が行われ、1785年、闘牛士ペドロ・ロメロ(Pedro Romero)やペペ・イジョ(Pepe Hillo)出席のもと再オープンされ、王立ロンダ騎士教会(Real Cuerpo de la Maestranza de Caballeria de Ronda、日本語は意訳です。日本語の公式名称はわかりません。)に所属します。 -
闘牛場
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闘牛場とビルヘン・デ・ラ・パス通り
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闘牛の牛の像。これじゃ闘牛士さんも大変だ。
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広場の地面には有名闘牛士の名前、サイン、レリーフからなるタイルが張られてます。これはペデロ・ロメロ(付録3参照)ですね。
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これはカジェターノ・オルドニェスです。名前の下の “EL NINO DE LA PALMA” は彼のニックネームです。詳細は以下の彼の銅像のところで説明します。
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これはカジェターノ・オルドニェスの息子アントニオ・オルドニェスです。詳細は以下の彼の銅像のところで説明します。
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これはアントニオ・オルドニェスの孫のフランシスコ・リベラ・オルドニェスで、存命してます。詳細は以下のアントニオ・オルドニェスの銅像のところで説明します。
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これはフランシスコ・リベラ・オルドニェスの弟のカジェターノ・リベラ・オルドニェスで、存命してます。詳細は以下のアントニオ・オルドニェスの銅像のところで説明します。
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さて、この広場からプラス・インファンテ通りを南南西に進んで崖淵まで行くと、また展望があります。この展望台から東南東を望んだ風景。白い家々がある場所は旧市街です。中央右寄りの崖下に防御壁が見えますね。
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少し左にカメラを振って。
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真下も見えるように。
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さらに少し左にカメラを振って。
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北西を望む。右側の展望台プライベート用かなあ。
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この展望台にある、東屋とでも言ったらいいですかねえ。
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パラドール・デ・ロンダ(Parador de Ronda、ロンダ国営ホテル)の北西側の側崖淵にやってきました。北西を望む。先ほどまでいた展望台が見えます。
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パラドール・デ・ロンダの周囲を絶壁に沿って走る道路を北側に、絶壁の下が見える位置まで移動。
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パラドール・デ・ロンダの周囲を絶壁に沿って走る道路を南側に移動して、北西を望む。赤とピンクのお花が綺麗ですね。
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さらに南東へ移動すると、絶壁の最南端にまた展望台がある。ここから見える山の説明パネルです。左から、ブランキジャ山脈(Sierra Blanquilla)、パロ山脈(Sierra del Palo)、フアン・ディエゴ山脈(Sierra de Juan Diego)、モンテハケ山(Hacho de Montejaque)、グラザレマ山脈自然公園(Parque Natural Sierra de Grazalema)です。
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南東を望む。
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視野を横に広げて。
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左にカメラを振る。
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さらに左にカメラを振る。ヌエボ橋(Puente Nuevo)です。断崖絶壁の岩塊上に広がる旧市街と、エル・タホ峡谷(El Tajo Canyon)で隔てられた、これまで歩いてきた新市街を結びます。橋はもとも1735年、フェリペ5世の時代にたった8ヶ月で造られましたが、1741年に崩落し、約50名の死者を出しました。その後1751年、現在の橋の建設が始まり、完成したのは1793年です。橋中央のアーチの上に窓が見えますね。かつてこの橋は牢獄として使われたこともあるそうだから、そのなごりかな。
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旧市街もちょっと入れて。
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ソニー・コンピューターエンタテイメントのゲームソフトシリーズ:「グランツーリスモ6」のフォトステージにロンダを加えた功績により、ロンダ国営ホテルの南側道路は、2013年「グランツーリスモ」シリーズプロデューサー山内一典氏の名前をとって、カズノリ・ヤマウチ通り(Paseo de Kazunori Yamauchi)と命名されました。
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カズノリ・ヤマウチ通りを北東(スペイン広場、Plaza Espana、ヌエボ橋側)に移動して、ヌエボ橋と旧市街を望む。
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さらにヌエボ橋側に移動して、ヌエボ橋と旧市街を望む。
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ヌエボ橋から北東側エル・タホ渓谷(El Tajo Canyon)を望む。こんなところにレストランか。いいねえ。渓谷にはグアダレビン川が流れる。
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視野を横に広げる。右上にも展望台があるな。
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ヌエボ橋から北東側渓谷と新市街を望む。
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ヌエボ橋から北東側渓谷、グアダレビン川、新市街を望む。
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ヌエボ橋を渡って、さっき見えた展望台に行ってみよう。
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展望台から見た、絶壁と新市街。
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視野を横に広げて。
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展望台から(さっきと反対側)見たヌエボ橋。
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視野を横に広げて。
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ヌエボ橋ズームイン。
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展望台から見た、エル・タホ渓谷上の新市街。
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展望台から見た、エル・タホ渓谷上の新市街。
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旧市街のアルミニャン通り(Calle Arminan)とテノリオ通り(Calle Tenorio)の交差点にあるパネル。“RONDA A LOS VIAJEROS ROMANTICOS”。「ロマンチックな旅行者達のロンダ」とでも訳すんですかねえ。真ん中にタイルで描かれたロンダの町、周辺は1828年から1863年にロンダを訪れた有名人の感想、サインと訪問年が記載されたパネルです。
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ロンダの町の部分だけ拡大してみますか。右が旧市街、左が新市街ですね。
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テノリオ通りに入って行きます。白壁の家が綺麗ですね。花はないな。
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テノリオ通りに面したホテル、モンテリリオ(Montelirio)か。入口の上の旗は右からアンダルシア州旗、スペイン国旗、欧州旗だな。
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ホテルの入口を過ぎて後ろを振り返る。
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ベアト・ディエゴ・ホセ・カディス広場(Plaza Beato Diego Jose de Cadiz)に出ました。
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後ろを振り返ると何やら立派な家があります。入口の右上にパネルが貼ってある。
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“En este casa vivio el ilustre hijo predilecto de esta ciudad.
D. Federico Serratosa Marquez
Medico del Pueblo y para el pueblo
Ronda 2002”
訳すと、
「この家に、この街のお気に入りの著名な息子が住んでいた。
D. フェデリコ・セラトサ・マルケス
町の、そして町のための医者。
ロンダ 2002」
ふーん。 -
立派な玄関ですね。
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さて、またテノリオ通りを南に進みますか。もう少し花があったらミハスだな。
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テノリオ通りを南に進む。
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オーギリアドーラ広場(Plaza de Maria Auxiliadora)の展望台にでたぞ。北を望む。新市街の断崖絶壁がよく見えますねえ。
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南を望む。赤い部分はアヘンを取るためのケシ畑だそうだ。
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カメラを右に振っていく。
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広場にピンサポ・ボイシエルもみ(Abies Pinsapo Boissier、日本語は意訳です。日本語の公式名称はわかりません)があった。新生代古第三紀から存在する植物で、地中海のもみの中では最も古い種類です。
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拡大するとこんな葉っぱです。
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ヒガンテ広場(Plaza del Gigante)に向かいます。
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ヒガンテ広場(Plaza del Gigante)に向かいます。
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水飲み場。熊さんですかねえ。
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窓に花を飾った家。
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ヒガンテ広場に向かいます。
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ヒガンテ広場に向かいます。
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ヒガンテ広場に出ました。ヴィセンテ・ゴメス・マルティネス-エスピネル(Vicente Gomez Martinez-Espinel,1550-1624)の胸像がある。彼はロンダ生まれの作詞・作曲家です。彼が編み出した8音節10行の詩は、彼の名前をとったエスピネラ(espinela)として知られています。
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ホセ・マリア・オルガド通り(Calle Jose Maria Holgado)の家。
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家の紋章。
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玄関。観葉植物もランプもその他の飾りも、スペインだなあ。
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後光が射してるなあ。ベアト・ディエゴ・ホセ・デ・カディス広場(Plaza del Beato Diego Jose de Cadiz)から見る聖母平和教会(Iglesia de Nuestra Senora de la Paz、日本語は意訳です。日本語の公式名称はわかりません)。
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ベアト・ディエゴ・ホセ・デ・カディス広場にある、ディエゴ・ホセ・デ・カディス(Diego Jose de Cadiz, 1743-1801)の銅像。
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聖母平和教会(Iglesia de Nuestra Senora de la Paz、日本語は意訳です。日本語の公式名称はわかりません)の入口(下)と鐘楼(上)Plaza del Beato Diego Jose de Cadiz
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聖母平和教会(Iglesia de Nuestra Senora de la Paz、日本語は意訳です。日本語の公式名称はわかりません)の説明パネル。
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教会につながった建物の入口横に
“COLEGIO SAGRADO CORAZON-ESCLAVAS
EDCATION INFANTIL
PRIMARIA Y SECUNDARIA OBLIGATORIA
CENTRO CONCELTADO”
と書かれた看板があります。意訳すると。
「 聖心信徒学校
幼児教育
初等、中等義務教育
私立センター 」
となりますかね。 -
中に入ると、真っ白な建物のパティオにキリストの像があります。
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聖母平和教会入口の左側にあるレリーフです。キリストを抱くマリア像の下には「私はロンダの守護聖人です。」と書かれてますね。
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聖母平和教会入口の右側にある看板です。「聖母平和教会のミサは毎週土曜日の午後8時からです。」か。
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ベアト・ディエゴ・ホセ・デ・カディス広場東側の家。
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テノリオ通りへ向かいます。
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途中の家の紋章。
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さっき通ったテノリオ通りに出ました。
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テノリオ通りとアルミニャン通りの三叉路近くまできました。断崖、その上のパラドール・デ・ロンダ、右にヌエボ橋です。パラドールはもともと1937年市庁舎として建てられ、1978年まで使われましたが、並行して、公共市場(1930-1980)、非常に人気の高い夏季映画館「タホ・シネマ」(Tajo Cinema、1950年代~1970年代)として使われました。パラドールとして使われ始めたのは1994年です。
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ヌエボ橋から北東を望む。さっき見たか。
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ヌエボ橋の北西端から北東を望む。
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ヌエボ橋の北西端から東北東を望む。
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ビルヘン・デ・ラ・パス通りの闘牛場手前まで来ました。
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ビルヘン・デ・ラ・パス通り沿いで、闘牛場北北東側の広場にある、闘牛士:カジェターノ・オルドニェス(Cayetano Ordonez,1904-1961)の像(左)と彼の息子:アントニオ・オルドニェス(Antonio Ordonez,1932-1998)の像。
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カジェターノ・オルドニェスの像。彼はロンダの靴屋:ラ・パルマ(La Palma)の子供として生まれ、ニックネーム:ニーニョ・デ・ラ・パルマ(Nino de la Palma、パルマの子)で呼ばれていました。1923年闘牛士としてデビューし、闘牛場のメインゲートを通って凱旋する最初の闘牛士となりました。彼の最後の闘牛は1942年でその後、リスボン闘牛学校の校長に就任しました。彼はまた、ヘミングウェイの小説「日はまた昇る(The Sun Also Rises)」の才能ある若き闘牛士:「ペドロ・ロメロ」のモデルでもあります。
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アントニオ・オルドニェスの像。彼はロンダ生まれで、当時のトップ闘牛士の一人です。彼は1968年に引退するまで、3000頭もの牛と戦い、引退の年だけでも60頭の牛と戦っています。カルメン・クリスティーナ・ゴンツァレス(Carmen Cristina Gonzalez)と結婚し、ベレン・ゴンツァレス(Belen Gonzalez)とカルメン・ゴンツァレス(Carmen Gonzalez)の2人の子供をもうけます。カルメンはマタドール(Matador、付録3参照)フランシスコ・リベラ・ペレス(Francisco Rivera Pérez, 1948-1985)と結婚しますが、パキリ(Paquirri)の闘牛士名で知られるフランシスコは1985年の闘牛中に死亡します。彼らの2人の子供は闘牛士フランシスコ・リベラ・オルドニェス(Francisco Rivera Ordonez, 1974- )とカジェターノ・リベラ・オルドニェス(Cajetano Rivera Ordonez, 1977- )です。フランシスコは、その闘牛での功績から2009年スペイン文化省より、ファイン・アート・メダルを受賞しております。
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カジェターノ・オルドニェスの像。
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カジェターノ・オルドニェスの像(左)とアントニオ・オルドニェスの像。
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ビルヘン・デ・ラ・パス通り脇の土産物店。
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ビルヘン・デ・ラ・パス通り。前方に先ほど見たロンダ慈悲聖母教会が見えてきました。
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パドレ・マリアーノ・ソウビロン通り(Calle Padre Mariano Soubiron)に入りました。
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パドレ・マリアノ・ソウビロン通りのホテルポロ(Hotel Polo)。ベージュの柱と白い壁、ロンダ慈悲聖母教会と同じ色の組み合わせだ。それにベランダの黒の手すりと青い空もいい。
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これはモリーノ通り(Calle Molino).
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セビリア通り(Calle Sevilla)に入りました。
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セビリア通り
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セビリア通りとサン・ホセ通り(Calle San Jose)の交差点だ。そろそろバスターミナルだな。
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バスに乗って崖を下りて、
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崖下の平原を、
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次の目的地に向かって走る。Adios! Ronda!
付録
1.地形
数千万年~数百万年前、ユーラシアプレートとアフリカプレートの衝突によるアルプス造山運動によってスペイン南部の山脈も形成されましたが、ロンダが位置するシエラ・ベルメーハ山脈の北側山麓は古代の川によって浸食され、ロンダの西側に南北に走る高さ100 m もの断崖絶壁が造られたと考えられます。ガイドさんにも断崖絶壁の成因を聞きましたが、回答は「古代に起こった地震による断層」とのことでした。しかし、その形状や規模を考えると、断層での説明には無理があり、私は間違いだろうと思っております。さて、この断崖絶壁は、これとほぼ垂直に流れるグアダレビン川(Rio Guadalevin)の浸食によってできた深い峡谷:エル・タホ渓谷(El Tajo Canyon)によって南北に分断され、南側は絶壁上に直径約300 m の平地を有する岩塊となりました。現在も残る町が最初につくられたのは、軍事的防衛に適したこの岩塊上であり現在は旧市街と呼ばれ、その後その北に発展した街を新市街と呼んでいます。
2.歴史
1905年にホセ・ブジョン・ラバト(Jose Bullon Lobato)によって発見された、ロンダ西方約20 kmにあるピレタ(Pileta)洞窟の動物や魚の壁画、陶磁器は、旧石器時代中頃(約2万5千年前)から新石器時代(紀元前7000年頃~紀元前1700年頃)のものとされますが、この住民は青銅器時代(紀元前1700年頃~紀元前800年頃)には姿を消しています。ロンダの歴史的起源は紀元前6世紀にこの地に住み着き、この地を「アルンダ」(Arunda)と呼んだケルト人です。彼らはイベリア人と混血し、ロンダ周辺全域を支配下に収めます。その後フェニキア人がやってきて、ロンダの北約10 kmの位置にイベリア村アシニポ(Acinipo)を創りロンダを占領します。この村はマラガとカディスの間に位置し、植民地支配の重要な拠点となりました。しかし、その後ギリシア人によってロンダは占領され、名前をルンダ(Runda)に変えます。続いてカルタゴに支配されますが、紀元前3世紀末、ローマがイベリア半島に侵入し、カルタゴを破ります。ローマはその重要な地理的位置からロンダを城塞とし、ラウレル(Laurel)城が建設されました。このラウレル城を中心として人が集まり、人口が増加してロンダは都市の規模となります。現在のロンダの都市基盤はこの頃造られたとされています。5世紀にはローマの衰退によって、西ゴートの支配下となりますが、711年、イスラム教徒がイベリア半島に侵入し、713年、ロンダは戦わずしてその支配下となり、その都市名はイスン=ランド・オンダ(Izn-Rand Onda)となりました。コルドバ太守国(Cordoban Calipate)の分裂ににより、ロンダは独立小国(Taifa)ロンダ(Ronda)となりましたが、独立は長続きせず、マラガやセビリア王の支配下に入ります。レコンキスタにより、1485年、ロンダはイスラム支配から解放され、独立が承認されます。その後16~17世紀にかけて、現在見られるロンダへと発展していきます。町の主要部分は「市」として知られ始め、高い地域は精霊地区、低い地域は工業が盛んな聖ミゲル地区として聖十字に奉納されることになります。18世紀、ロンダは、農業、工業、鉱業で繁栄して、人口が増大し、ヌオボ橋(1793年築)、フェリペ5世門、ソコロ教会、サンタ・セシリア教会、重要な通りや広場が造られました。その後の独立戦争(1808-1812)やフェルナンド7世の独裁政治はロンダやその周辺地域にとって苦難の時代で、治安が悪化し、盗賊たちも横行します。しかし、自由主義的な傾向と優れた政治能力を持つロンダの市民は、共和党、自由党、保守党の政治グループを作って、時代の進歩に積極的に関与していき、1891年には共和党が多数を占める議会をマラガ地方で初めて設立しています。20世紀初頭には市民戦争による不幸な時期もありましたが、その後1909年にロンダを訪れたアルフォンソ13世によって、新たな水道施設は墓地が造られ、ホテル、アンダルシア中央貯蓄銀行(1909年)、アンダルシア軍事裁判所(1919年)も造られました。緑と白のストライプのアンダルシア州旗が創られたのもこの時です。豚肉加工、繊維、ワイン工場も造られ、周辺地域との交易の中心都市としての活力を反映して、多くのカフェや文化センターがオープンしました。1950~1960年代にかけては、移民による労働力の半減や工芸店の廃棄もありましたが、20世紀末には歴史遺産やアンダルシアにおいて最もよく自然環境が保存されている町の一つとして、多くの観光客が訪れるようになり、社会や労働の再活性化が進み、現在に至っています。
3.闘牛
スペインの闘牛の歴史は、貴族が馬に乗って野生の牛を狩ったことに始まったと言われています。しかし、この行為が禁止されたため、闘技場での闘牛が始まりました。現在の闘牛は3つの段階を踏みます。第一段階では防具をつけた馬にピカドール(Picador)と呼ばれる闘牛士が乗り、槍で牛を刺します。第二段階ではバンデリジェーロ(Banderillero)が短銛を牛の背に打ちます。第三段階では剣と赤いマント(ムレータ、Muleta)を持った、花形闘牛士であるマタドール(Matador)が登場し、ムレータで牛を何回もかわしながら、最後に急所の一突きで牛を死に追いやります。このムレータを使った闘牛を確立したのは、ロンダの闘牛士ペドロ・ロメロ・マルティネス(Pedro Romero Martinez, 1754-1839)で、このような闘牛はロンダ式と呼ばれ、スペインおよびかつての植民地で親しまれています。しかし、最近では動物愛護団体からの強い批判により、闘牛の衰退が進んでいます。
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この旅行記へのコメント (2)
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- kiyoさん 2017/10/16 11:20:44
- ロンダ
- bunbunさん、こんにちは。
いつも私の旅行記に投票していただき、ありがとうございます。
ロンダは来月、旅行で行く予定にしているのですが、
ガイドブックでの情報が少ない場所なので、
bunbunさんの旅行記、すごく参考になりました!
お天気が良くて、絶景ですね。
行くのが、ますます楽しみになりました。
ありがとうございます。
きよ
- bunbunさん からの返信 2017/10/17 23:52:47
- RE: ロンダ
- kiyoさん、こんばんは。
またのご訪問、私の拙い旅行記にいつも投票ありがとうございます。
私は何でも知りたがる質でして、ガイドさんにまつわり付いて皆さんのひんしゅくを買っていますし、分からないことはネットや書籍、時には原著論文、日本語や英語に限らず現地語の資料まであたりますし、国内外に限らず、著者とも直接連絡をとることもあります。従いまして、情報量はガイドブックを大幅に上回ると思いますが、好きでやっていることでして、一般の旅行者さんにはあまり役に立たない情報と思います。
kiyoさんのお役に立てたということでしたら、大変うれしく思います。
地中海沿岸は夏乾季、冬雨季ですが晴れるといいですね。楽しんで来てください。
それにしてもkiyoさんの活動力には脱帽です。私もまた一人旅をしてみたいと思いますが、最近は有名観光地をつまみ食いのツアーばかりです。
kiyoさんのロンダの旅行記を楽しみにしております。
bunbun
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