2016/09/24 - 2016/09/25
2341位(同エリア4308件中)
ひま人さん
今回の百名城は、北海道の2城と青森の城を訪ねました。函館空港から真っ直ぐに松前半島の「松前城」へ。北海道内唯一の日本式城郭です。見学後、函館に戻り五稜郭前のホテルに宿泊。2日目はホテルから徒歩数分の「御陵郭」へ。ここは明治2年旧幕府軍と新政府軍が戦った城です。昼前に「新函館北斗」駅へ、北海道新幹線「はやぶさ」で青函海底トンネルを抜け、「新青森」駅で下車「弘前城」へ。ここは春の桜まつりが有名な城です。帰路は青森空港から伊丹空港へと帰りました。
ともあれ、1泊2日の北海道、東北の忙しい旅でした。
写真は移設前の桜爛漫の弘前城天守です。現在の天守は石垣修理のため70m後方へ曳家されています。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 3.5
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 観光バス ANAグループ 新幹線 自家用車 徒歩
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史蹟 松前奉行所趾。後方が松前町役場になっています。
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松前城搦手二ノ門。
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松前城天守閣。独立式層塔型3重3階。1960年RC造復元。内部は資料館になっています。福山城とも呼ばれています。
復元前の城は、長沼流兵学者・市川一学の縄張りにより旧福山城の拡張・改築を行い、安政元年(1854年)竣工しました。明治元年(1868年)11月5日に旧幕府軍元新撰組の土方歳三が700名ほどを率いて松前城を攻撃、わずか数時間で落城しました。しかし、翌明治2年(1869年)旧幕府軍は降伏しました。明治4年(1871年)廃藩置県施行、又、廃城令により明治8年(1875年)には天守など本丸の施設を除くほとんどの建築物が取り壊されました。
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松前城扁額。
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松前屏風。松前出身の絵師・龍円斉児玉貞良によって、宝暦年間(1751〜1763)に、松前城下の秋を描いたものと言われています。高さ1.57m、幅3.65mあり、六曲一双の屏風です。
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本丸御門(国指定重文)。
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本丸御門・天守閣。
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五稜郭タワー。2代目タワーとして、2006年4月1日開業。高さ98m、展望2階90m、展望1階86m。
五稜郭の星型は地上からは掴めないが、タワー展望階からは実感できます。 -
タワーからの五稜郭。築城のきっかけは、嘉永6年(1853年)アメリカ艦隊の来航(黒船来航)で、開国要求に屈した徳川幕府は、安政元年(1854年)日米和親条約を締結し函館を開港しました。この函館を治めるために幕府が設置した「函館奉行」は、産業の育成や開拓を進めると同時に函館の防備強化を図り、蘭学者の武田斐三郎に奉行所庁舎の移転に伴う新しい要塞の設計を命じました。ヨーロッパの「城郭都市」をモデルとする要塞を考案し、工事に約7年を費やした五稜郭は、蝦夷地の政治や外交、防衛の拠点として誕生したのです。
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五稜郭。アメリカの要求に屈した徳川幕府に対する不満から討幕運動へと発展し、戊辰戦争が起こります。大政奉還、江戸城明け渡しなど、風前の灯となった幕府勢力の中、旧幕府海軍副総裁榎本武揚は、陸軍諸隊を収容した艦隊を率いて蝦夷地へ渡り五稜郭を占拠しました。明治元年(1868年)12月、仮の政権を樹立し、徳川家臣による蝦夷地開拓の許可を政府に求めますが、翌2年(1869年)春、新政府は征討軍を派遣して旧幕府脱走軍への攻撃を開始、函館戦争が勃発。圧倒的な戦力で攻撃してくる新政府軍の前に土方歳三ら歴戦の面々の抵抗も空しく五稜郭は包囲され旧幕府軍は降伏。幕末維新の動乱は終結しました。
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五稜郭タワー展望2階の「土方歳三坐像」です。薬の行商をしながら道場に通い近藤勇、沖田総司らと出会う。上洛の機会を得て、京を取り締まる「新撰組」結成に参加。鬼の副長と名を馳せる。後に榎本軍に合流して函館戦争で戦死しました。
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五稜郭跡石碑。
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五稜郭堀。
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石垣。
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土塁。
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五稜郭の中心に設けられている函館奉行所。
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当時の兵糧庫。
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今年3月に開業した北海道新幹線。「はやぶさ18号」に乗車、津軽海峡海底トンネルを通過し、約1時間で「新青森」駅に到着、下車し「弘前城」へと向かった。
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北海道新幹線「はやぶさ18号」東京行。最速で4時間少々で東京に着くらしい。
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北海道新幹線の起点「新函館北斗(しんはこだてほくと)」駅。ここから乗車、約1時間で「新青森」駅に到着。
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史蹟 弘前城石碑。
弘前城は津軽統一を成し遂げた津軽為信によって慶長8年(1603年)に計画され、2代藩主信枚が慶長15年(1610年)に着手し、翌16年に完成しました。以後弘前城は、津軽氏の居城して廃藩に至るまでの260年間、津軽藩政の中心地でした。 -
追手門(重文指定)。
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南内門(重文指定)。
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石垣。ここに天守閣が建っていたが、石垣修理のため移動しました。
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石垣。補修ケ所の石垣の膨らみがわかる。
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天守閣(重文指定)。2代藩主信枚により慶長16年(1611年)に五層の天守が築城されましたが、寛永4年(1627年)落雷により焼失しました。現在の天守は、文化7年(1810年)に蝦夷地警備の功績を認められた9代藩主寧親(やすちか)が、隅櫓の改築を理由に天守再建に着手し、翌8年に完成したものです。江戸時代に再建された天守としては、東北地方に現存する唯一のものです。
この天守の位置は、石垣の膨らみを修理するために、3か月(平成27.8.16〜10.17)かけて約70m後方にそのまま曳家したものです。平成35年に石垣の修理が終わり元の位置に戻されます。 -
天守閣正面側。
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東内門(重文指定)。
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東門。
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