2016/07/09 - 2016/07/10
110位(同エリア234件中)
ひま人さん
日本百名城にも選定されている福島の三名城を訪ねました。一日目は二本松城、別名を「霞ケ城」といい、城域一帯は県立霞ケ城公園となっています。見学後、会津若松市へ向いホテルに一泊。二日目は、戊辰戦争の時の白虎隊悲劇の城としても知られている会津若松城を訪れた。別名「鶴ヶ城」は一番有名かもしれません。そして、会津若松城の南に位置する交通の要衝である、白河で戊辰戦争で新政府軍との戦いに先陣した「白河小峰城」を訪ねました。この三城はいずれも戊辰戦争の悲劇の城です。
表紙写真は会津若松城天守閣です。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 3.5
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 観光バス 新幹線 JRローカル 私鉄 自家用車 徒歩
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「史跡旧二本松藩戎石(かいせき)銘碑」。藩士を戒めるために、5代藩主丹羽高寛公が藩儒学者岩井田昨非に命じて、藩士通用門前の自然石に刻ませた4句16文字の銘文。教育資料として、また行政の規範としての価値が高く評価され、昭和10年国史跡に指定されました。
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旧二本松藩戎石銘碑。この自然石に「戎石銘」が刻まれています。
4句16文字が刻まれていますが、読み方は「爾(なんじ)の俸 爾の禄は 民の膏(こう) 民の膏 民の脂なり 下民は虐げ易きも 上天は欺き難し」。
意味は「お前がお上から戴く俸禄(給料)は、民の汗と脂の結晶である。下々の民は虐げやすいけれども、神をあざむくことはできない。」 -
霞ケ城址碑。城の歴史は古く、畠山満泰が嘉吉年間(1441〜44)に築いたという。戦国時代、畠山氏が伊達政宗に攻められ落城し、天正18年(1590)に蒲生氏郷が会津若松城に入ると、その支城となり、石垣の城へと造り替えている。その後、加藤嘉明を経て、丹羽長秀の孫にあたる光重が入り、三の丸御殿、箕輪門などを造り、以来、幕末まで11代続いて丹羽氏がこの地を支配している。戊辰戦争の時、丹羽氏が奥羽越列藩同盟に加わって新政府軍との戦いとなり、落城した。
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二本松少年隊群像。戊辰戦争二本松最大の激戦地・大壇口における二本松少年隊の奮戦姿と、我が子の出陣服を仕立てる母の姿のブロンズ像です。正式に編成された会津の「白虎隊」と違って、二本松藩の場合は新政府軍が二本松城下に切迫する直前に、出陣を志願した13歳から17歳までの少年たちの緊急に各部隊に配属されたため正式な名前はありませんでした。最近の調査研究によれば、61人で戦死者は14人、負傷者は7人となっています。
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箕輪門。初代藩主丹羽光重公入部まもなく、城内整備のための御殿とともに最初に建造した櫓門。主要材料の巨木は領内箕輪村山王寺山のご神木を用いたことからこの名があります。
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箕輪門石垣。
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空堀、土塁。
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天守台石垣。天守閣は建設されず。
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自尽の碑。戊辰戦争の敗戦により切腹した家老他の碑。
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洗心亭。城内に唯一残る江戸期の建造物で、木造茅葺・寄棟平屋造りの茶亭。当時は「墨絵の御茶屋」と言われていました。天保8年(1837)に城外に移されたため、戊辰戦争の戦火を免れた経緯があり、明治40年(1907)に現在地に移築されたものです。
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史蹟若松城跡碑。戊辰戦争の時の白虎隊悲劇の城として知られている。会津を支配していた戦国大名・蘆名(あしな)氏累代の居城。摺上原(すりあげはら)の戦いで蘆名義広を破った伊達政宗の入城後は蒲生氏郷が入り、それまで黒川といっていた地名を若松に改めた。蒲生氏の後、加藤嘉明が入り、さらに徳川3代将軍・家光の異母弟・保科正之が入り、保科氏はその後、松平姓を与えられ、幕末の松平容保に至る。容保は、会津若松城で薩摩・長州を主力とする新政府軍と戦った。会津戦争といわれ、籠城して戦ったがついに降伏した。
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会津若松城天守閣。この天守は昭和40年、古写真をもとに復元されたものです。瓦は黒っぽかったが、江戸時代末期の姿に近づけるため黒瓦を赤瓦に葺き替えたのです。天守を赤瓦で葺いた城は、現存する城の中ではここだけで、極めて珍しいです。
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桝形跡。敵の侵入を遅らせるための桝形の通路。
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石垣と堀。
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階段状の石垣。
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本丸跡。
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史蹟 小峰城址碑。暦応3年(1340)に結城親朝が小峯ケ岡に築城して小峰城と名づけたのが始まりとされる。天正18年(1590)、城主の白河結城氏が豊臣秀吉の奥州仕置により改易されるとこの地は会津領となり、蒲生氏、続いて上杉氏、再度蒲生氏が支配したが、寛永4年(1627)に丹羽長重が10万石で棚倉城から移封されると、幕命により寛永6年(1629)より城郭の大改修に着手、3年後に完成した。その後丹羽氏、榊原氏、本多氏、松平氏、阿部氏と7家21代の城主の交代があったが、慶応3年(1867)に最後の阿部氏が棚倉藩に移封された後、白河藩は幕領となり城郭は二本松丹羽氏の預かるところとなりました。
慶応4年(1868)、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、5月1日大半を焼失し落城しました。 -
三重櫓(復元)。寛永9年に建てられた複合式塔型3重3階の櫓で実質的な天守であった。三重櫓の建つ櫓台に余裕を持たせた付櫓や2階に出窓を付けた姿は、若松城天守に共通する。黒漆塗りの下見板張りで、風雨にさらされることを考慮して窓を小さく開いています。この櫓は戊辰戦争で焼失し、1991年に復元されたものです。
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前御門。平成6年(1994)に当時の資料を基に復元されました。
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三重櫓と前御門。
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石垣。平成23年(2011)3月11日に発生した東日本大震災で、計10ヵ所の石垣が崩落しました。一部修復しましたが、現在も元の石垣に積み直しています。
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石垣。
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石垣。
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修復された石垣。
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本丸御殿跡。
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多聞櫓跡。
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白河集古苑。鎌倉時代から室町時代にかけての武家白河結城家の古文書を保存展示。また、江戸時代に譜代大名として6人の幕府老中を輩出した阿部家の名品を保存展示しています。
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