2015/05/30 - 2015/05/30
9位(同エリア47件中)
junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
大満足の大聖堂付属美術館を見学しているうちにお昼休みが終わって、大聖堂訪問に良い時間となりました。まずはとてもユニークな大聖堂の外側からじっくりと見ていくことにしましょう。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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大聖堂付属美術館のある旧サン・ロマーノ教会を背にして立っています。今見えているのはトレント・エ・トリエステ広場に面した大聖堂の南側面部分です。
ちょうど正面に、18世紀まで存在した大聖堂の扉の一つ、12か月の扉(ポルタ・ディ・メジ)の跡が見えています。あそこに、見てきたばかりの素朴で味のある彫刻が飾られていたんですね。感慨無量です・・・ -
さて、大聖堂の側廊部分をファサード側から見ていきましょう。とてもユニークな、他では見られない建築でしたよ。
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大聖堂の南面にあるのは、それぞれ異なる方法で彫られた柱頭のある白い大理石の柱が続く柱廊です。ここは旧い名前で「商人たちのロッジア」または「繊維業者のロッジア」と呼ばれていました。ある意味、フェッラーラの商工業の中心地で、あらゆるものがここで取引されていたのだそうです。
現在はと言うと、衣料、宝石からジェラテリアまで、幅広い分野の商店が軒を連ねていますが、大聖堂とは全く関係のない、「庶民」のロッジアなんですね。 -
長いロッジアは、ファサードと同じピンクと白の大理石で縞模様に作られた鐘楼まで続いていました。この鐘楼4層から成っていて、レオン・バッテイスタ・アルベルティにより、1451年〜93年にかけて建てられたルネッサンス様式。16世紀末に現在の形となりました。
美術館で完成予定の尖塔部分のある美しいシルエットのある模型を見なければ、「はは〜ん、なるほどぉ〜 」で済んでしまったのでしょうが、やたらと中途半端な高さが気になります。 -
細長い広場の反対側から写真を撮りましたが、どうしても1枚では収まりません。
ここでも注目は、アレッツォでも楽しんだ、様々な形状の柱のオンパレードです。下から数えると3段構造の柱廊です。 -
特に、一番高い場所にある段の柱!
ズームすると、こんなユニークな柱が続いているんですよ。 -
このセンス。日本人には絶対真似できないですねえ・・・
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最下段のロッジアの上に窓のある屋根が続いているのを見て驚きました。たくましい商人たちは、店だけでなく、ちゃっかり居住スペースまで確保していたんですね。随分天井低そうだけれど、壁の色が様々に塗られていて、それを見て歩くだけでも楽しい場所です。
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こうやって見ると、大聖堂の側面とはとても思えないですねえ。柱廊の上に突き出ている横に3つ並んだ切妻屋根も、教会建築では今までに見たことがありません。
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大聖堂のファサード前に戻って参りました。先ほどはちらっと見ただけなので、もう一度じっくりと観察することにしましょう。
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ファサード前には、何やら赤に着色された跡のあるライオンさんが方々にてんでバラバラの方向に向かって寝そべっていました。
このライオンは、ファサードの右側。 -
そして、こちらのライオンさんは、ファサード向かって左側の階段付近。あるガイドブックによれば、これはライオンではなくて、えっ ヒッポグリフって書いてある・・・
ヒッポグリフとは、頭部・前足はワシで翼を持ち、胴体・後ろ脚は馬の形をした怪獣 とありますから、ブブー。違いますね。やはりライオンさんでしょう。ヒッポグリフもいたのに、見逃したんですね。きっと。
それにしても、なぜ、赤いのでしょう? 悪戯・・・ではなさそうです。 -
ファサード中央にあるメイン扉は、三角形のティンパヌムを持つポーチの中にありました。もう少し近づいてみましょう。
ファサードを見ていると、作られた年代が異なるのが分かります。下の方はロマネスクですが、第二層より上は明らかにゴシックです。 -
まずはティンパヌムの部分から。赤く見える箇所は、現在修復中らしいですが、イタリアらしいいい加減さの目立つ作業ですねえ。もう少し目立たない色を使うという考えはなかったのでしょうか?
話を元に戻して、ここにあるのは、最後の審判のレリーフです。ガイドブックにはフランスのゴシックの影響が感じられると書かれていましたが、製作者がわかっていません。中央にはアーモンド形の玉座に座る審判役のキリスト。その左右にはキリストの受難のシンボルを持って立つ天使と人類のために跪いて祈る聖母とヨセフがいました。
その下の部分にはラッパを吹く天使と天秤を携えた天使がいて、向かって左側は天国組、右が地獄組です。残念ながら彫像はかなり傷んでいます。
写真の一番下の部分に注目! ほらほら、墓場からどんどんゾンビが這い上がって来ていますよ! -
で、ティンパヌムの左側には、まるっきり動が感じられない、穏やかな、祝福された天上の世界のレリーフが。
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勿論右側は、激しく迫力のある動の世界です。人間が想像できる最も恐ろしいと思われる場面が生々しく描かれていますね。
いつものセリフですが、こちらの方が断然楽しい! -
ティンパヌムの下にあるロッジア部分には、これもゴシック時代になってから追加された聖母子像がありました。
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ファサードから少し離れて撮った1枚です。
聖母子の頭上に、這い出したゾンビ達がいるのは、ありえない光景ですねえ。 -
さて今度は下から。
ティンパヌムのあるポーチの柱はライオンさんの背中が支えていて、その上にテラモン(アトラス像)がさらに柱を支えています。
この辺りは、モデナの大聖堂に似ていますね。 -
横から撮ると、こんな感じです。
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こちらは向かって右側のライオンさんとテラモン。左側は両腕を使って支えていたのに、右側は横着して片手のみですよ!
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レッチェのサンタ・クローチェ教会にも、手抜きしているトルコ人のテラモンがいましたっけ。
レッチェはこちらからどうぞ。
http://4travel.jp/travelogue/11102643 -
中央扉のルーネット部分には、フェッラーラの守護聖人であるサン・ジョルジョの騎馬像がありました。この部分の彫刻は、大聖堂付属の美術館で見たニコラウスという職人とその工房の手によるものだそうです。
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ルーネット部分のアップです。その下のリンテル部分には、「キリストの生涯の物語」が、同じくニコラウスの手により彫られていました。「訪問」、「キリスト降誕」、「エジプトへの逃避」、「キリストの洗礼」等の場面がありますね。
大聖堂に関わる碑文には、ニコラウスが建築当初の大聖堂の設計を任されていた旨が書かれていたそうですが、名前以外については、殆ど記録が残っていません。
ロマネスク時代の四頭身の彫刻は、いつ見ても作者のひたむきで一途な思いが直に伝わってくるようで、見ていて飽きません。 -
最後に、メイン扉の束ね柱の部分です。むむむ 複雑!!
柱の小さなアーチや四角い枠の中には、想像上の動物の素晴らしいレリーフを沢山見ることが出来ました。教会の外壁や柱にはガーゴイル等の奇妙な動物達が良く見られますが、彼らは聖なる空間=教会を防御していると同時に、信者たちに「悪は常に近くにいて、隙あらば魂を頂こうと潜んでいること」を気づかせるために存在しているのだと聞いたことがあります。
では心して、そろそろ中に入るとしましょう。 -
この大聖堂は、入るとすぐにこのような廊下があり、そこから更に階段を数段上る様式になっていました。ファサードのものと同様のライオンの背中とテラモンが支える柱が置いてありましたが、こちらがオリジナルなのかしら・・・
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柱が途中で折れているところを見ると、多分こちらがオリジナル。現在ファサードに置かれているものはコピーのようですよ。
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同じく廊下に置かれていた石棺です。解説がないから良く分かりませんが、四頭身のキリスト像、聖人達のレリーフを見ると、ニコラウスが活躍した頃の制作だと思われます。
一番右側の人物は王冠を捧げ持っていますね。
大聖堂付属美術館は現在の場所に移る以前、大聖堂の2階部分にあったという話を聞きましたので、もしかしたら移転しなかったお宝の一部なのかもしれませんね。 -
内部は三廊式。18世紀初めに火事で全焼し、その後フェッラーラ出身の建築家フランチェスコ・マッツァレッリにより、バロック様式で建て替えられたようです。
教会の素晴らしいファサードを見た後に、期待してやってきただけに少々がっかり・・・バロックが嫌いなのではなく、外部と内部のギャップが大きすぎます。 -
おまけに、天井部分を覆うように白い布が掛けられていて、よく見えないのです。はっきり言って邪魔!
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巨大な柱のフレスコの1枚は、グレゴリウス1世を描いたものでした。
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左側のモノクロームのフレスコは、いわゆるだまし絵と呼ばれているもので、遠くから見るとレリーフに見えます。
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比較的新しいフレスコをもう1枚。毎度おなじみのサンミケーレとルシファーです。自分の知っている人物のみ写したようですね。
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こちらは入口から入ってすぐの身廊左側にあった洗礼堂です。赤っぽい色をした洗礼盤は13世紀の制作で、大理石の一塊から彫りあげたものだそうです。背後の幕屋は、尖塔がいくつも並んだネオクラシカル様式で、大変精巧に出来ています。制作は19世紀後半。
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洗礼堂の対面 身廊右側にあったのは、マドンナ・デッレ・グラッツェの礼拝堂です。アガピート・ポッジとアンドレア・フェッレッリが黒と白の斑の大理石を使っって制作した祭壇は大変豪華。18世紀の作品です。
中央の小さな聖母子のイコンは、地元の人々の厚い信仰の対象のようです。
見て下さい。献灯台のこの蝋燭の数! -
「マドンナ・デッレ・グラッツェ」(恩寵の聖母)のアップです。15世紀の描かれたフレスコ画ですが、その上から加工が施され、聖母は彼女の頭には大きすぎる王冠と、とても重たそうなイアリングをつけています。母を見つめる幼子の表情が愛くるしいですね。
10月7日の記念日には、イコンは玉座に乗せられ、主祭壇へと移されるのだそうですよ。 -
こちらは、主祭壇右側の礼拝堂、大司教ルッジェーロ・ボヴェッリの横臥像の上にあった、珍しいブロンズ製の磔像(+聖母、聖ヨハネ)です。フェッラーラ出身の彫刻家ニッコロ・バロンチェッリの傑作です。
そして町の守護聖人達 左聖マウレリオ、右聖ジョルジョ像は、パドヴァ出身のドメニコ・ディ・パリスの作品。二人とも15世紀の人と言う以外、詳細についてはわかっていません。 -
守護聖人達をアップで撮ってみました。
聖マウレリオ。前の旅行記でも書きましたが、彼は7世紀の人でシリア出身の僧侶。フェッラーラ近郊の町ヴォゲンツァの司教でした。
1106年、当時の神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世(イタリア語ではエンリコ5世)が聖人からヴィジョンを得て、聖ジョルジョ大聖堂へと聖遺物を移したのだそうです。現在彼の聖遺物は、フェッラーラの聖ジョルジョ・オリヴェターニ修道院に収められています。 -
そして聖ジョルジョ。
彼は3世紀後半のパレスチナ出身の軍人でした。現在のトルコ、カッパドキア地方で、龍退治をしたという伝説が伝わっています。信仰を貫き、ディオクレティアヌス帝の迫害に会い殉教しました。 -
早くも主祭壇にやって参りました。だいぶ端折っているようです。モデナとフェッラーラ2つの都市を1日で廻るという、私にしては強行軍のスケジュールでお疲れだったのか、それともバロックがお気に召さなかったのか、今となっては忘却の彼方です。
今までに見たことのない不思議な主祭壇でしたよ。それは美しい青みがかったステンドグラスを背景に、浮かび上がる4体の胸像(これももしかして、聖遺物箱でしょうか?)と長い6本の蝋燭、中央の十字架から成り立っていました。 -
主祭壇は、ヴェネツィア生まれでラヴェンナ在住だった彫刻家チェリオ・ティリーニの手による豪華な大理石製。この祭壇の大理石、実はラヴェンナにある東ゴート王テオドリックの宮殿遺跡から持ち出されたリサイクルなのだそうですよ。また遺跡荒らしをやらかしましたね。
祭壇は1728年に献堂されています。 -
分からないのは、この胸像あるいは胸像型の聖遺物箱です。首を中央の方にちょっと傾げたポーズで4つ並んでいましたが、この方々が一体どなたなのか、どこにも書いてありませんでした。モヤモヤ・・・
先ほど美術館で見た聖ジョルジョと聖マウレリオとは顔が異なるように見えます。こちらは左側の二人。 -
そしてこちらが右側の二人です。この二人は、双子と言ってもいいほど似ていませんか?
祭壇についての説明はみつかっても、胸像についてはないということは、「一体だ〜れ??? 誰かおせ〜て!!!」と悩むほどの有名人ではないと判断しました。
こういうスタイルの祭壇上の装飾初めてなので、気になりますよね。 -
後陣の半球部分には、暗すぎて写真がうまく写せませんでしたが、セバスティアーノ・フィリッピ(バスティアニーノ)による「最後の審判」のフレスコがありました(1580年〜83年)。彼はヴァティカンのシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの作品に大いなる影響を受けたと書かれていました。
バスティアニーノのフレスコは、エステンセ城の天井でも沢山見ることが出来ました。 -
クリアに写すことは叶いませんでしたが、主祭壇から後陣にかけてのレイアウトや装飾は、最初の印象よりずっと良かったです。主祭壇脇には1187年にフェッラーラで客死した教皇ウルバヌス3世の墓やクレメンス11世の胸像などがあったそうですが、全く気づくことなく、バスティアニーノの壮大な「最後の審判」を見つめていました。
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大聖堂お終いの1枚はカウンターファサードです。両端にある2体の彫像は、何度も登場した町の守護聖人達で、左聖マウレリオ、右聖ジョルジョ。1746年に司教ジョヴァンニ・マルキオーリが作らせたものです。こちらも作者不明。
中央の二本の柱に飾られている聖ピエトロと聖パオロのフレスコは、廃教会の壁から剥がされたもので、ガロファロの作品と言われています。だいぶ傷んでいますが、顔の部分が無事で良かったぁ。 -
外に出て参りました。ちょっと駆け足過ぎたかしら? このくらいで十分ですって? まあ、そうおっしゃらずに。
目の前には、もう何度も紹介した市庁舎の建物。 -
そして振り返ると、三連ファサードが実に優美な大聖堂です。
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先ほど写し忘れたファサードの彫像発見! 中央にある小さなニッチェに立っていたのは、巡礼服姿のアルベルト5世・デステ(1347年〜1393年)。非常に信仰心の厚い人だったそうです。彼の時代からエステ家はフェッラーラとモデナの唯一の領主となりました。
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まだ時間があるので、もう少し町をうろつきましょう。大聖堂南脇の柱廊と、広場に店を広げている露店を見て回ります。
ちょうどシャボン玉売りのお姉さんが、ちびっ子の歓声を浴びながら、巨大シャボン玉製造中でした。シャッターチャンスが中々難しい・・・ -
でもあまり私の興味を惹くものは陶器位しかありませんでした。もう少し日常生活で使えそうな陶器があると嬉しいんだけれど・・・
フェッラーラの陶器は、グロテスクとアラベスク模様が有名なのだそうですよ。 -
柱廊を歩き終えると、またこの鐘楼にぶつかります。左側にレンガの壁がくっついているのが気になります。以前はここに別の建物があったのか、大聖堂の中から行けるようになっていたのか、定かではありません。
先っぽの尖塔が付くことはありませんでしたが、今この鐘楼だけ見ていると、これはこれで完成された美しさがあるように感じました。 -
トリエステ・エ・トレント広場が終わると、向かって右側の賑やかな通りを進みます。
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幅の狭い通りには、こんな良いお天気なのに、色とりどりの傘が沢山吊るされていました。「スカイ・アンブレラ」と呼ばれている、ジュゼッペ・マンツィーニ通りの名物なんですって。
何でも4月23日から6月30日までの2か月間限定で、通りを飾るそうです。道は歩行者専用になっているので、上を見ながら歩いても大丈夫ですよ。 -
サラチェーノ通りにあった、工事中だった教会。フェラッラの町で見かける典型的なスタイルの教会です。
サンタントニオ・アバーテ(大アントニオ)に捧げられた教会で、14世紀にフランスのヴィエンヌの僧侶達によって建てられました。現在のファサードは1864年〜66年頃、ネオゴシック様式で再建されたもの。よく見ると、メイン扉のアーチの縁、そして窓の下の壁伝いに美しいフリーズの装飾がありました。 -
道はどんどん細くなっていくけれど、こっちで良いのかなあ・・・でも、思わず入っていきたいような路地です。
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よく使いこまれている、こういう建物が好き。でも地震が来たら、ひとたまりもないだろうなあ・・・
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こちらはスカンディア通りにあった大きなサンタ・マリア・イン・ヴァード教会。ヴァードとは浅瀬の意味で、教会が建てられた頃には、この辺りには数多くの運河が縦横無尽に交差していたようです。
1171年の復活祭の日に起こった奇跡が元で巡礼地となったため、1495年、エステ家エルコーレ1世の時代に、建築家ビアージョ・ロゼッティにより教会は拡張工事が行われました。 -
今見ているのは、脇にある第二ファサードとでもいうべき部分。身廊右側にあるコンスタンティノポリのマドンナ像が必見とか。
でも急いでいるので、後回しに。 -
大聖堂から歩くこと20分強。ようやく到着したのは、エステ家のかつての別荘だったスキファノイア宮殿。
といっても派手な建物ではなく、扉の文字を注意深く読まなかったら通り過ぎてしまいそうな、レンガ造りの何の変哲もない建物でした。ということで、ファサードの写真はこれしか撮っていません。
元々、この屋敷は1385年にアルベルト5世が「宴会・バンケット」用に庭に面した小さな屋敷を建てたのが始まりで、ローマ近郊の別荘と同じような意味合いでした。スキファノイアSchifanoiaとは、「退屈から逃れる」という意味があるそうです。 -
1452年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世からモデナとレッジョの公爵の称号を得たボルソ・デステ(以下ボルソ公)は、1471年に今度はローマ教皇パウロ2世から待ちに待ったフェッラーラの爵位を叙任します。各地より大使や代表団を迎えることが多くなった別荘内の大広間に、エステ家治世の元、平和と安定、そして秩序が保たれ、未来の繁栄が約束されていることを客人にアピールするのには、これはまたとない機会だったのです。
ボルソ公は建築家ピエトロ・ベンヴェヌートにプレゼンテーションに相応しいサロンと新たに2階部分に客人用のアパルトメントの建設を命じました。そしてそのサロンが、この館の至宝「12か月の間」です。
なんでも、壁のフレスコはフランスがこの地を支配した時代にスタッコで塗り込められ、19世紀に発見されたものなのだそうです。部屋によっては、殆ど絵が原型を留めていないものもありました。 -
と言うわけで、一番奥の部屋サロン・デイ・メジ「12か月の間」に突入です。わあ〜と思わず歓声を上げたくなるフレスコが待ち構えていました。
そこには、エステ家の宮廷画家だったフランチェスコ・デル・コッサとコスメ・トゥーラらの企画による寓意的フレスコ画が壁一面に描かれていたのです。 -
フレスコ画は部屋の名前からも想像がつく通り、1月から12月までの月を代表するローマ(ギリシャ)の神々(上段)、占星術の12宮の寓意像(中段)、そしてボルソ公の宮殿における生活の場面(下段)から構成されていました。
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フレスコは、長方形の部屋の長い方の辺に4枚。短い方の辺に3枚、それぞれ描かれていました。
10月から2月までは残念ながら、薄いフレスコの痕跡程度しか残されていませんでした。
現在の技術でも復元は難しいのか、今のところは手つかずの状態のようでしたが、テーマだけは突き止められているそうです。コスメ・トゥーラのフレスコは、この中にあったのかしら? それとも企画だけだったのかなあ・・・、見ることが出来ないのが返す返すも残念。 -
メモ代わりに撮った、「12か月の間」を説明したパネルです。
イタリア語で、右下から反時計回りで3月、4月、5月.上辺に行って、6月、7月、8月、9月。図では、左辺に10月、11月、12月、そして下辺に1月,2月と言う記載がありました。サロンは24m×11mの長方形。天井までの高さが7.5mありました。
では残された7枚のフレスコを1枚ずつ見ていくことにしましょう。 -
西側の壁にある3月を担当したのは、初期ルネッサンスの画家 フランシスコ・デル・コッサ(1430年頃〜1477年頃)です。この壁は最も保存状態が良いそうです。
上段には、ギリシャ神話の女神「ミネルヴァの勝利」。2頭の白馬に曳かれた馬車に乗っているのが知恵の女神ミネルヴァ。「無知」に対する「英知」の勝利を表現したものだそう。
中段は、12宮のうちの「牡羊座」の寓意像です。
そして下段には、左側に正義を司るボルソ公。右側には狩猟に出掛ける場面が描かれていました。 -
そのお隣の4月もフランチェスコ・デル・コッサの作品。
上段には「ヴィーナスの勝利」。白鳥2羽に曳かれたボートに乗って、水中で誕生した美の女神が陸に到着する姿です。
中段は、12宮のうちのおうし座。寓意像の男性は銀色に輝く鍵を携えています。なんでも「春」を「開ける」鍵なのだそう・・・
下段は、左側に狩りから戻ってきたボルソ公。右には、城の道化師スコッコーラにコインを与える場面が描かれていました。この場面、非常に意味深長で、よく理解できていません。中央のアーチの上辺りで、サギとハトが戦っている場面も、何か別の意味がありそうです。
ピエロ・デッラ・フランチェスカを思い起こす素晴らしい描写に圧倒されました。3月、4月ともに堪能しました。 -
5月はコッサとその弟子たちによる作品です。この月は、下段部分が出入り口になっていた時代があったようで、フレスコはご覧の惨めな有様です。ボルソ公の部分は絶望的。
上段はこの月の神「アポロ」が4頭立ての馬車に乗ってやってくる場面です。彼は片手に弓、もう一方には何か丸いものを持っています。右側には、ミューズと小さな子供たちが溢れんばかり。難解ですなあ・・・
中段は12宮のふたご座。双子の上には、殆ど裸同然なのに、なぜか赤い靴を履いてラッパを吹いている男性。これも全く意味がわかりません???
下段は、左側に草刈りの場面。右手に馬がちらっと見えますが、おそらくボルソ公が乗っていたんでしょう。 -
北の壁に移ります。
6月はマエストロ・デッリ・オッキ・スパランカティ 直訳すると、視野の広い工房??? 一体どなただったのでしょうね。
上段。6月の神は水星。マーキュリーです。コッサのものと比べて平面的で、色遣いも暗いですねえ。マーキュリーは黒い鷲の曳く馬車に乗って登場です。
中段の「かに座」には笑ってしまいました。どう見てもこれはロブスターじゃないですか? その上に乗る白い服を着た女性は、ステッキを持っています。これは何の意味なのかなあ? 右側の怪物のような足を持つ男性はドラゴンと戦っています。
エステ家は寓意像がお好き。ティヴォリのヴィッラ・デステでも寓意像に「苦しめられた」ことを今思い出しました。はっきり言って解説するのは無理な話なので、描いてあるものの説明に留めることにしましょう。
下段部分は状態悪いですね。何かの行列の場面と、ボルソ公に嘆願書を手渡している男性が左側に描かれていました。 -
7月も6月と同じ工房の作品です。
上段の神はジュピター。木星ですね。彼の乗る車はライオンによって曳かれています。
中段はこちらもライオン。しし座です。ライオンの上に乗る男性は色が浅黒く、弓と矢を持っているので、多分戦士でしょう。
下段には、ボルソ公の善政の様子が描かれています。右側には、各国の大使らを出迎えている彼の姿がありました。左側は、麻を生産している村を訪れるボルソ公だそうです。 -
8月は「8月の工房」、またはゲラルド・ダ・ヴィチェンツァの作品。はっきりとわかってはいないようです。
上段は、収穫の女神セレスの勝利。なんとドラゴンに曳かれていますよ! ドラゴンと龍の違いがはっきりと分かるフレスコですね。セレスは乙女座のシンボル。
中段は寝そべっているおとめ座。というよりは「処女」と言った方が良さそうですね。
下段には、優雅な宮殿の前に、大勢の人達といるボルソ公が描かれています。 -
フレスコの最後の月9月は、エルコーレ・デ・ロベルティか、またはビランチャの工房 ということで、これまたはっきりとしていません。コスメ・トゥーラの絵はやはり、消えてしまった中に入っていたようです。
上段はヴルカーノ。ヴォルケーノ(火山)の語源にもなりました。つまり火の神です。車を曳いているのは猿たちでした。猿たちの上には、なぜかロムレスとレムスと雌狼が描かれた盾が風船のように浮かんでいました。
中段は絶妙なバランスを見せている天秤 てんびん座ですね。その天秤の上には、これまた上手にバランスを取っているサーカスの団員のような男性の姿がありました。
下段には、収穫の時期の田舎を回るボルソ公の姿が描かれていました。この下段シリーズ。割と単調でしたね。バラエティがあまりないように思いました。
これで、12か月の間は終了。結局、最初はわぁ〜と歓声をあげてはみたものの、ギリシャ神話と寓意像への理解が乏しい人間には所詮わからないと卑屈になったり、また開き直ったりで、実のところあまり楽しめませんでした。フェッラーラのルネサンス期は大変格調高いです。
解説書を読んでも、理解という段階までは行きつけませんでした。
ショボン(´・ω・`)、・・・ -
「12か月の間」に続いて入ったこちらの部屋は、素晴らしい格間天井に金メッキのスタッコで装飾が施された「美徳の間」です。彫刻家ドメニコ・ディ・パリスとボンジョヴァンニ・ジミニャーノ・ガブリエッリにより、1467年頃制作されました。
この部屋はボルソ公により公聴会の場として、また私的なアパートメントへの前室として使用されたそうです。 -
天井のベースとなる色はコバルトに近い美しい青で、この青色と金色の組み合わせが大変豪華です。
天井に近い壁には、豪華な金メッキや多色彩色されたスタッコのフリーズが一周していて、エステ家の紋章入りの盾(百合と帝国の鷲)や、花綱、花輪、天使達などで飾られていました。 -
壁のフリーズの中には、エレガントな寓意の女性像のレリーフ6体を見ることが出来ました。これらは神学的な寓意(信仰、希望、奉仕)と枢機卿の寓意(思慮分別、不屈の精神、禁酒)を表しているそうです。
ここには、ボルソ公自身が一番重要と考えていた「正義」が見当たりませんが、彼が公聴会で人々の訴えに耳を傾けていた時には、彫像かフレスコで作られた別の「正義」が存在したか、あるいはボルソ公自身が正義を自ら表したのではないかと言われています。
見えているのは「思慮分別」の寓意像です。 -
スキファノイア宮殿の入口に戻って参りました。
先ほど市庁舎前に父親のニッコロ3世の騎馬像とともに置かれていたボルソ公の彫像のコピーがありました。市庁舎前に置かれた彫像、実は1796年のナポレオン軍占領中に破壊されたのだそうです。ですから、こちらはコピーのコピーということになりますね。1927年頃のジャコモ・ツィロッキの作品。
像の両側に置かれていたのは、16世紀に作られたチェストです。 -
思ったよりずっと庶民的な、気持ちの良い芝生が続くスキファノイア宮殿の庭です。最近になってからのものらしい赤いモニュメントが芝生の緑と良くマッチしていました。
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庭から見たスキファノイア宮殿です。表通りから見ても、庭から見てもとっても地味ですねえ。
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とても疲れてしまったので、そろそろ帰路につくとしましょう。駅からはだいぶ離れてしまったので、バスを捕まえるためにエステンセ城前の大通りまで戻ることにします。
途中で見かけたパラッツォ・ボナコッシ。政治家ディトサルヴィ・ネローニは、フィレンツェのコジモ・ディ・メディチの最初の顧問でしたが、コジモの死後息子のピエロにより、反逆者とされました。フィレンツェから亡命してきたこの地で、彼はボルソ公の厚い庇護を受けます。
パラッツォ・ボナコッシはネローニのために1468年に建てられた宮殿で、胸壁のある塔が特徴です。この宮殿も極めて簡素な造りですね。 -
そうそう、サヴォナローラ通りで思い出しました。フェッラーラはフィレンツェで神権政治を行ったジローラモ・サヴォナローラの故郷でした。
彼はフェッラーラ大学で学んだ後、ドメニコ会に入信し、1482年からフィレンツェのサン・マルコ修道院に移ります。その後については、皆様の方が詳しいと思います。裕福な医者の家に生まれたと聞いていますが、この辺りで生まれたのでしょうか? -
目指すバス停は、こちらのサンタ・キアラ教会近くにありました。やれやれ助かった。
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やがてやってきたのはガラガラのバスです。
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タバッキが見つからなかったので、切符購入どうしようかと思いましたが、珍しく切符を車内にある機械で買うことが出来ました。1.5ユーロだから、タバッキで買うよりは少々高いのかもしれません。おつりは出てこないのでご注意。
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バスはあっという間にエステンセ城を通り越し・・・
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フェラッラ駅に到着です。歩くと40分はかかったと思います。
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さあ、18:34発の列車に悠々間にあったので、ボローニャに帰りましょう。明日は日曜日。最終日にしてようやくボローニャを歩くことが出来そうです。
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約1時間でボローニャ・チェントラーレ到着。駅前の9月20日広場にあるポルタ・ガッリエーラが出迎えてくれました。
この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その79 ボローニャ1で。
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この旅行記へのコメント (2)
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- こあひるさん 2016/10/05 12:45:55
- 初めまして
- junemayさん、こんにちは。
イタリアの欲張り旅の旅行記、毎回楽しませていただいています。
それにしても・・・junemayさんの造詣の深さに驚きつつ・・・色々勉強になるな〜ぁと感嘆しながら拝見していますが・・・いくら好きになっても、熱しやすく冷めやすい・・・私には、好きだから・・・というだけで、ここまでの知識を重ねることができません。自分の旅行記の軽さに我ながら・・・笑っちゃいますね。
これからもどうぞよろしくお願いします〜!
こあひる
- junemayさん からの返信 2016/10/09 15:13:25
- RE: 初めまして
- こあひるさん こんにちは
薄っぺらな旅行記にご訪問頂き感謝しております。文才がないゆえ、自分では時間ばかりかかっていて、実がない旅の記録だと思っております。楽しんで下さる人が一人でもいればいいなと思い、書き始めたのですが、遅々として進まず、旅行から1年以上たってしまいました。もう忘却の彼方の部分が多いのですが、メモを見ながら書き連ねております。大変嬉しいコメントをありがとうございました。
お返事遅くなってごめんなさいね。明日からロシアに行ってまいります。
junemay
> junemayさん、こんにちは。
>
> イタリアの欲張り旅の旅行記、毎回楽しませていただいています。
>
> それにしても・・・junemayさんの造詣の深さに驚きつつ・・・色々勉強になるな〜ぁと感嘆しながら拝見していますが・・・いくら好きになっても、熱しやすく冷めやすい・・・私には、好きだから・・・というだけで、ここまでの知識を重ねることができません。自分の旅行記の軽さに我ながら・・・笑っちゃいますね。
>
> これからもどうぞよろしくお願いします〜!
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> こあひる
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