2015/05/19 - 2015/05/19
22位(同エリア408件中)
junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
普段の生活が営まれている、人々のざわめきが感じられる小さな古い町の散策は、ただ歩いているだけでも沢山の発見があります。その上レッチェでは、狭い町のあちこちで、手作り感溢れる教会や優雅なパラッツォが忽然と姿を現してくれるので、これまでになかった街歩きの醍醐味を味わうことが出来ました!
歩き疲れたのと、少し「落ち着け!」と自分に言い聞かせるために休憩を取りました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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おいしいチーズあります。
おいしいパニーニあります。
おいしいワインあります。
ごゆっくりどうぞ。
と日本語で書かれたパニーニ屋さんで、まったりと昼食を取りました。安くてヴォリュームたっぷりでした! -
さて、再び街歩きの続きです。壁にめり込んだような柱、微妙なカーヴを持つバルコニーが古い歴史を物語るこちらの建物、どうしてこんなひどい落書きをする人がいるんでしょう。心が痛みます。
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バルコニーに花が植えられた小道を通りすぎて、午後一番に見つけたのは、・・・
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こちらの福音記者ヨハネ教会とその修道院です。教会としてはロマネスクでおとなしめ。左にある小学校の建物の方がよほど年季が入っているように見えます。
ベネディクト派の修道院で、創建は1133年。16世紀から18世紀にかけて何度も改修が行われた結果、創建当時のものは殆ど残っていないようです。ロマネスクっぽい鐘楼は16世紀の建造。 -
通りすがりの個人宅があまりに素敵だったので、撮らせてもらいました。
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階段の欄干も邸宅にふさわしい品格あり。
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窓枠も装飾がさりげなく施されていて素晴らしい。中はすっかり改装されているのでしょうが、外観は古いものにこだわるイタリアの人達の思いが伝わってきます。
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階段も一段ごとに異なったタイルを使っていますよ。お洒落〜!!
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ちょっとした広場に出ました。ペルッツィ広場です。左側の建物は16世紀に建てられたパラッツォ・ジャコニア。レッチェのモンシニョールだったアンジェロ・ジャコニアが建てた宮殿です。
奥に見えるのは、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会(パオラの聖フランチェスコ修道院を兼ねているようです)。 -
フィレンツェの貴族ベルッツィの遺贈として1524年に建築が始まった教会ですが、その後度重なる修復を行っていて、ここもオリジナルの要素はほとんど残っていません。ルネッサンスとバロックが入り混じったような外観ですね。
修道院の部分は、イタリア統一後、刑務所、兵舎として利用されてきたようです。
ファサードの二層目の窓から空が見えるということは、ひょっとしてファサードだけ残っているのかなと思いましたが、そばにあった解説板に、祝日にミサが行われると書いてありましたので、教会は一応現役! -
中央扉の周りの装飾は大変綺麗でした。半円形部分には天使たちから王冠を授かる聖母子・・・・あらっ! 幼子キリストの首がない!! ひょっとして聖母の足元に落ちているのがそうかしら? ブラックユーモアですねえ・・・
エンタブラチュア下の馬に乗ったキューピッドの装飾が細かくて鮮明です。
扉の脇の2本の柱の装飾も凄いですね。よーく見ると、ところどころに怒ったような怖〜い顔があるのに気が付きました。 -
またまた、未完成と思しき教会にぶち当たりましたよ。コンスタンチノープルの聖母教会、またの名をサンタンジェロ教会と言います。アウグスティヌス修道会により1061年に創建された、レッチェでも一番歴史のある教会の一つです。
1663年におなじみの、ジュゼッペ・ツィンバーロの設計により再建されたとされていますが、アウグスティヌス会とツィンバーロの関係は希薄で、完成直後から欠陥が次々と露呈したところから、これを疑問視する声もあります。 -
二層に分かれたファサードのエンタブラチュア下を装飾の帯が流れています。上の列には、アルファベットを抱えたプット、ライオン、鷲らのパレードが続いています。
こちらは向かってファサード左側部分。 -
こちらが右側部分です。
下の列には大きな鷲=アウグスティヌス会のシンボル、大司教の帽子=ローマ教皇のシンボルなどがちりばめられています。柱頭も凝っていますよ。アカンサスの葉の上にはうつぶせに近い恰好で柱を支える男たち。これもカリアティードって呼ぶのかしら? -
中央扉の上部の拡大です。 二人の女性(天使?)をお供に中央に立つのは聖母子像。背景部分の王冠の透かし彫りの緻密さに、また口あんぐりです。
アーチ部分にぶら下がったプット達の乗る太い花綱もインパクトありますね。 -
果物や花々で縁取られた低層部分のカーブのあるニッチェ、二層部分の平らなニッチェともども、空っぽでした。
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緑色のブロンズ製扉は1750年の制作です。
いやあ〜 ここまで凝りに凝ってファサード未完というのは惜しいですねえ。レッチェの町の教会は殆どが同じ時期に集中して作られたもの。その時期は潤沢だった資金がその後続かなかったということの表れかもしれません。 -
どっちに行こうかな? 旧市街のこういった無秩序に伸びている道大好き!
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ふと見上げたら、鯉のぼりと目が合っちゃった。昨年のルッカでお目にかかって以来です。
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お次はギリシャ(人)の聖ニコラス教会。ギリシャの教会として知られています。同じバーリのサン・ニコラ(ミラのサン・ニコラ)に捧げる教会なのですが、一般のカトリックと区別するため、わざわざギリシャ(人)がついています。
中には入れませんでしたが、内部はビザンチン様式だそうです。正教会ではなく、ギリシャ起源のカトリックなのだそう。ローマでも見かけた東方典礼教会ということかしら?。こちらは主に信徒はアルバニア系住民のようです。 -
ギリシャ起源のカトリック教会は規模の小さなものを他でも見かけましたよ。奥に見える建物はあまり教会らしくない、質素な佇まいですが、「ギリシャ教会」キエザ・グレカと書かれた札がありました。
この辺りは、アルバニア系住民が多い地域なのかもしれません。 -
裏通りをなおもうろつきます。イタリアの政治家ミケーレ・デ・ピエトロが住んでいた家 というパネルが貼られていた建物です。
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ウンベルト1世通りに出ると、ひと際美しい装飾を施した完成度の高い建物があったので入ってみることにしました。
ガイドブックにも何の案内も出ていませんでしたので、その時点ではなんという建物かわかりませんでした。ひょんなことから、本日名前が判明しました。パラッツォ・アドルノ。1568年にガブリエーレ・リッカルディが建てた、カルロ5世配下の帝国海軍将軍だったジェノヴァ人アドルノの邸宅でした。 -
どうやら現在は市役所関連の建物らしく、内部の案内図が置いてありました。凝った造りなので、写真を撮らせてもらいました。アシュラー張りのレッチェ石が大層美しい!! ヴォールトも凝っています。
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古いフレスコが一部残っていたので、全面改装したわけでもなさそうですが、全体に石が光り輝いています
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今まで見てきたレッチェのバロック建築も、17世紀の建設当時は、このように太陽の光を受けて煌めいていたに違いありません。
いやあ〜 犬も歩けば棒に当たる。本当に素敵なものを見せていただきました。 -
政府関係の建物のお向かいにも、ご覧の壮麗な建物が続きます。
サンタ・クローチェ教会に続く以前の修道院の建物はパラッツォ・チェレスティーニ レッチェ県の県庁になっていました。
1549年、カルロ5世(ハプスブルグ家)が城壁の要塞化を行い、それに敬意を表して凱旋門が建てられたことは前回書きました。
城壁が強化されるのに伴い、その敷地内にあった修道院を新たに建て直す必要が生じ、同年この地に新しい建物の建設が始まりました。 -
建築家リッカルディ(こちらの建物も最初の建築家はリッカルディでした!)はこちらの建物と併設するバシリカ、回廊の工事に取り掛かりましたが、建物が出来上がるまでに実に146年かかっています。
最も工事が進んだのは1600年代になってからでした。そしてここにまたわれらがツィンバーロ、そしてもう一人ジュゼッペ・チーノが加わったことで、17世紀末にようやく完成にこぎつけたのです。
1階と2階の窓枠の装飾をご覧ください。デザインが隣同士異なっていますね。これぞレッチェとも言うべきバロック様式てんこ盛りです。 -
目の前にある扉を中心に左右対称の作りとなっています。石の積み方はクリア・カット工法と呼ばれるもので、柱の輪郭がはっきりと浮き立つように見えます。
1階の窓枠がより線を強調した厳格なイメージであるのに対し、2階の窓枠はより洗練された華やかさを感じます。解説によると、1階部分はツィンバーロが、2階部分はチーノが担当したのだそうです。 -
中央扉の上部のデザインです。ここにも花綱が見られますね。
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悲しいかな! 県庁のパラッツォに続くこの工事中のファサードは、本日の目玉サンタ・クローチェ教会ではないですか!
またしても修復中から逃れられなかった私です(泣)!
前の通りが狭すぎて、全体像はこの方向からしか写せなかったのですが、これじゃあ、意味ないですね。 -
こんな事情なので、本来の姿をお伝えすべく、こちらの写真をウィキペデイアよりお借りしました。
先ほどの県庁(元修道院)の建物と同じく、新しいサンタ・クローチェ教会の工事は1549年に始まり、完成を見たのは146年後の1695年のことです。レッチェバロックの至高の体現とも呼ばれる壮麗なファサードをとくとご覧ください。
1606年から始まったファサードの工事の陣頭指揮を取っていたのは、リッカルディ(ファサード下部)とツィンバーロの父アントニオ(中央ポータル部分)でした。そしてアントニオの後継者チェザーレ・ペンナ(ファサード上部とバラ窓)、アントニオの息子ジュゼッペ(ファサード上部の装飾)が見事に完成へと導いたというわけです。 -
工事で見えない部分は飛ばします。上から参りましょう。なるべく不細工なものを入れたくなかったのですが、致し方ありません。二層目上部のエンタブラチュアには、先ほどサンタンジェロ教会で見たのと同じような、プット達が碑文のアルファベットを運んでいる場面が続いています。
その下のバラ窓の装飾ときたら、もう表現するすべがありません。内側も外側も、ハスの花、プット、フルーツでびっしり!
左右の柱の柱頭にも注目! 左側の羽を広げたこうの鳥の足元には、ひなが3羽親鳥を見上げています。細か〜い! -
個人的な趣味で参りますよ。お次は、二層部分のバルコニーを支えるコーベルの彫像とその下のエンタブラチュアの部分です。
左側から順に写していますが、彫像はダブって写しています。
髭を生やした男性はトルコ人だという話でした。1571年のレパントの海戦で、キリスト教国(実際は教皇、スペインとヴェネツィアの連合軍)がオスマン帝国に対して勝利をおさめたことが背景にあるようです。 -
右側の男性は、トルコ人らしいですね。罰として、一生担いでいろ!っていう感じ。
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想像上の生き物も満載です。
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あらら・・・右側の男性はズルをして肩で支えていますよ。
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エンタブラチュアのどんちゃん騒ぎは一体何でしょうか?教会にあるまじき裸のオンパレードです。グロテスク様式っていうのかな?
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はい。右側まできましたよ。お楽しみいただけましたか?
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最後は6本の柱の柱頭部分です。順不同。解説不能。
こちらは男性陣。下半身がうろこに覆われているから人魚?海神? これもグロテスク様式(文様)ですね。 -
男性陣もう一つ発見!
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こちらはグラマーな女性たち。やはり足がないなあ・・・
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羽が生えているけれど、天使というよりは鳥でしょうか? スフィンクスでしょうか?
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全くなんだか分かりません???
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お終いは少々こわもての仮面でした。噂には聞いていたけれど、実際に目の当たりにすると、すごい迫力です。首が痛くなるほど、上を見続けていました。これだけのものをすべてファサードにのっけるって、どういう考えからなんでしょうね?
工事中で写真が撮れなかった部分があるので、全体の偶像数はもっと多いと思われます。
時刻は午後2時40分。教会の内部に入るのには、開場までまだ時間があるので、街歩きを続けて後ほど戻ってくることにしましょう。 -
お隣のチェレスティーニ宮殿に戻って、中央の扉を潜り抜けます。
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リッカルディが最初に作った回廊部分に出ました。ファサード部分の装飾に比べると、大変地味で落ち着いた雰囲気。これはまたこれで良いと感じます。
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更にその先の通路を抜けると、25ルチョ通りを越した先に市民公園Giardini Publiciが広がっていました。
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数十メートルおきに、どなたかの胸像が立ち並んでいます。本当に彫像の好きな国だこと!
ここはベンチで一休みするのにはもってこいの公園です。遠くに見える東屋の緑の屋根が大層綺麗でした。 -
誰も見ていないのに、しぶきを上げ続ける噴水。
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ここにもいらっしゃいましたよ。イタリア中にこの方の銅像があります。ジュゼッペ・ガリバルディ氏。
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赤い鮮やかな大きな花が目につきました。
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公園を抜けた先にあったのがカルロ5世城。四角形の四隅にハートをくっつけたような形をしています。カルロ5世が城の軍備を強化して要塞化が完成したのが1549年でした。サンタ・クローチェ教会に隣接した修道院は以前はここにあったんですね。
残念ながらこの城も目下修復工事が行われていました。 -
中に入ってはみたものの、通せんぼされていました。まあ、元々入場する気はなかったのですが、修復中ばかりなのは気が滅入りますなあ。
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で、次に向かった場所が、ドゥオモ広場と並んで、レッチェの町の重要な広場である聖オロンツォ広場。てっぺんに聖オロンツォが乗ったローマの円柱が目印になっています。
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何層もの地層が積み重ねられてきたこの広場は、古の時代から市民の憩いの場でした。商業市場ピアッツァ・デイ・メルカンティと呼ばれていたのです。
広場のかなりの部分を占めるローマ時代の円形闘技場も残されていました。それがまた大変規模が大きく、良好な保存状態であることにも驚いてしまいました。
周囲をきょろきょろ見回しながら、この闘技場を一周することにしました。 -
教会を見つけると、どうしてもそちらに目が行ってしまいます。広場の一角にあったのは、小さなサンタ・マリア・デッラ・グラッツェ教会。バロック様式で1590年に建てられました。中央のペディメントには聖母子、その上にプットたち、低層部分のニッチェにはピエトロとパオロの彫像が置かれていました。
14世紀に描かれたという聖母子のフレスコが教会の宝となっているそうです。 -
サンタ・マリア・デッラ・グラッツェ教会のすぐ裏のアカイヤ通りにあったこちらの地味な教会はサン・ジュゼッペ教会(パドヴァの聖アントニオ教会を兼ねる)。扉の装飾を見るだけのために、ちょっと寄り道。
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円形闘技場が見渡せる広場のテラスにあった街灯はえらいことになっていました。鍵、鍵、鍵・・・
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闘技場の半分以上は、先ほどのサンタ・マリア・デッラ・グラッツェ教会や商店が立ち並んでいる下に今も埋まったままなんですね。
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円形闘技場が作られたのは、アウグストゥス帝からハドリアヌス帝時代にかけての1〜2世紀、観客席は五層構造で、25000人収容可能だと言われています。20世紀初頭、イタリア銀行建設工事の際に発見され、考古学者コジモ・デ・ジョルジの監督下で発掘は1940年まで続けられました。
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折れたオベリスク? 説明がないからわからないなあ・・・
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観客席へと通じる部分や、地下に残された建物も発掘されたようです。その中には、競技場で戦いに使われた獣たちや奴隷、囚人の檻もあったと聞いています。
石で作られた部分や連続した煉瓦のアーチの部分がご覧のように見えています。 -
また、外野席の下や競技場の外側に、環状の廊下が少なくとも2本あったことも確認されています。
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左側に見える建物は、1592年に建てられ、1851年まで使われていた市役所の建物。
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現在は観光案内所として使用されています。
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その隣にちょこんと建つ小さな建物は、ヴェネツィア人が作った聖マルコ礼拝堂Chiesetta di San Marco。故郷ヴェネツィアへの思いを馳せて作ったものなのでしょうか。
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茶色い塔のある建物は、国立保険協会。円形劇場に合わせて、建物が弓なりにカーヴしています。
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イチオシ
そして、こちらがレッチェの守護聖人聖オロンツォが見守るローマの円柱です。元々はアッピア街道の終点ブリンディシに建てられた2本の円柱のうちの1本です。
レッチェがブリンディシから奪ったという説と、聖オロンツォがブリンディシで流行したペストを鎮めてくれたので、人々がレッチェに贈ったという説とありますが、ここは性善説をとって、ブリンディシからの贈り物ということにしておきましょう。
ブリンディシを襲ったペストの流行は1656年、円柱が聖オロンツォの像を乗せて現在の広場に建てられたのは1666年のことだそうです。 -
イチオシ
伝説によれば、聖オロンツォは1世紀の人で、聖ピエトロ本人から直接レッチェの司教に任じられたと言われています。
守護聖人の記念日は8月26日。その日レッチェでは盛大に聖人とその殉教を偲んで祭りが行われます。 -
聖オロンツォ広場を抜けて、まだ見ていない教会を求めてうろうろします。こちらは、聖オロンツォ広場のすぐ裏のフランチェスコ・ルビキ通りにあったサンタ・キアラ教会です。
創建は1491年ですが、1687年〜91年にかけてジュゼッペ・チーノにより全面的に改装されます。ファサードはまたしても一番高い場所のペディメントを欠いた未完成のようですが、不自然さはあまり感じません。 -
ファサード全景です。下層部は中央扉の両側に二本の太いコリント式壁柱が伸び、その両脇には飾りのあるメダリオンのついたニッチェが並んでいます。どのニッチェも彫像はありません。
上層は大きな窓を中心として、やはり彫像を欠いたニッチェが二つ。 -
今まで見てきた教会とは異なるバロック装飾を見ることが出来ます。中央扉の縁取りの植物の装飾が特に印象に残りました。メダリオンは薄れて、はっきりと確認できませんね。
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扉の上の装飾のアップです。この部分は特に彫刻が素晴らしい状態で残っていることに感激してしまいました。
一番上にある紋章は、アッシジのフランチェスコ会の一派である女子修道会聖キアラ会のものだそうです。
こちらも相変わらず開いていませんね。レッチェで宿泊するならまだしも、バーリからの日帰りとなると、教会内部の見学はあきらめた方が良さそうです。 -
サンタ・キアラ教会前の小さな広場には、ヴィットリオ・エマニュエーレ2世の銅像が立っていました。
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教会の横には、不思議な物が浮かんでいる建物がありました。その建物の前を通り過ぎ、
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狭い通りをなおも進んでいくと
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いきなりローマのボッロミニを思い起こさせるような、波打つファサードの教会の前に出ました。サン・マッテオ(聖マタイ)教会。建てられたのは1667年から1770年にかけてで、建築家はアキーレ・ラルドゥッチ。
な、なんとこの方、ボッロミニの甥なんですって! 彼はボッロミニの建てたローマの教会サン・カルロ・アッレ・クアトロ・フォンターネをひどく気にいっていたというのですから、この曲線の交差・連続はまぎれもないボッロミニ様式です。
ボッロミニのサン・カルロ・アッレ・クアトロ・フォンターネについては、こちらをどうぞ!
http://4travel.jp/travelogue/11051436 -
この反対方向に緩やかにカーヴする曲線の連続は、直線のファサードの多いレッチェではひと際新鮮に感じました。
太陽の光を受けて、ピンクっぽく輝くレッチェ石の美しいこと!!! -
ファサードの第一層部分はご覧のような蛇のうろこ模様で全体が覆われています。装飾は奇抜なものはなく、全体におとなし目ですが、調和が保たれています。
こちらにもフランチェスコ会の紋章が高いところに見られました。教会はフランチェスコ会の第三会(在俗会)という修道院を併設しています。 -
時刻はまだ4時にはなりませんが、ラッキーなことに開いていますよ。というわけで早速中に入ります。
その前に、中央扉の両側の円柱に注目。向かって右側の柱の下部にのみ装飾が施されていますよね。左側は全く手つがず状態。実は、彫刻家が仕事を終える前に嫉妬深い悪魔に食われたのだ というのが地元での噂でしたよ! -
内部は一廊式。楕円形をしており、白を基調としているたか、とても明るく感じられました。壁に沿って、12使徒たちの石の彫像と礼拝堂が並んでいます。12使徒像はレッチェ近郊アレッサーノ出身の石工プラチド・ブフェッリが1692年に完成させました。
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礼拝堂を見て回ります。こちらは聖オロンツォ礼拝堂です。祭壇画は1736年の制作。
十二使徒像は左がマティア、右がフィリポ。 -
セラフィーノ・エルモによる聖家族と洗礼者ヨハネが描かれた祭壇のある右側二番目は聖誕の礼拝堂。
使徒の左側はタダイ(ヤコブの子ユダ)です。 -
右側三番目のスペースには寓意像を四体従えた木製の説教壇が置かれていました。
左側の使徒はヤコブ(アルフィの子)。 -
右四番目はマリアの母聖アンナにささげる礼拝堂でした。こちらの祭壇画もセラフィーノ・エルモの作品です。
左側使徒はヤコブ(ゼベダイの子)。 -
五番目です。光の聖母の祭壇です。この礼拝堂だけ、レッチェ石の色が途中で変わっているのが気になりました。祭壇画は、古代の教会サンタ・マリア・デッラ・ルチェから移された古いフレスコの一部です。聖母の目つきがちょっと気になりますねえ。
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主祭壇、聖マタイにささげられた装飾豊かな祭壇です。中央のマタイ像はナポリ出身のガエターノ・パタラーノによって1691年に作られました。
星型のヴォールトが美しい! -
主祭壇の両脇には、左サン・ピエトロ、右サン・パオロ像が立っています。この二人の位置は定位置です。右にピエトロが立っているのを一度も見たことがありません(笑)。
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さて左側に移ります。こちらは以前はピエタ像にささげられていた礼拝堂ですが、今はキリストの復活像に変わっていました。生花が祭壇の一部となっていて、ピンクのバラが綺麗でした。
左側の使徒はアンデレ。 -
左側ニ番目は無原罪の礼拝堂です。祭壇画は聖母被昇天。左側の使徒は福音記者ヨハネです。
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下の方に膨らみを持たせた柱の装飾が目に飛び込んできました。まるで植物のつぼみのようですね。スパイラル一辺倒の礼拝堂が続いたので、新鮮に映りました。カスチアの聖リタの礼拝堂です。
使徒はバルトロマイ。 -
アッシジのフランチェスコの礼拝堂です。祭壇画はフランチェスコが昇天する場面かな?やや暗いなあ・・・
使徒はトマス。 -
最後の礼拝堂アガタの殉教の場面が強烈です。
それにしてもこのおじさま、どうして写りたがっているのでしょう???
2枚続けて写っているということは 私と一緒に移動したということですよね!?
最後の使徒は熱心党のシモンでした。 -
カウンターファサードも1枚。この扉の上の衝立も曲線が良い具合です。
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内部も充実していた聖マタイ教会でした。久しぶりにボッロミニやベルニーニと再会した気分です。ルンルン。
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教会に合わせたように、周囲の建物も緩い弧を描いていました。少々くたびれているけれど、かつては立派なコーベルだったように思います。
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バロックの装飾はまだまだ見つかりそう・・・レッチェも1日では足りなかったなあ・・・
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レッチェらしい教会がまた現れましたよ。カルミネ教会。元修道院だった建物との複合施設です。
カルミネ会は1481年にレッチェの町の城壁の外側サン・ビアジョ門近くに最初の教会を作りました。1546年の地震で教会が倒壊したため、この地には1711年に新たな教会と修道院の建設を開始しています。この教会の設計もジュゼッペ・チーノ。彼は1722年に亡くなるまで、この教会の建設に携わりました。仕事を引き継ぎ、1737年に完成させたのはマウロ・マニエーリです。 -
ファサードは三層に分かれていて、豪華な装飾が目をひきます。サン・マッテオを見た後のせいか、微妙に波打っているにもかかわらず、のっぺりした印象があるのは気のせい? サンタ・キアラ教会との共通点もありますね。
中央扉の上にはカルミネの聖母、左右の4つのニッチェには、カルミネ会の聖人たち エルサレムの聖アンジェロとトラパニの聖アルベルトと、預言者のエリヤとエリシャの彫像が、第二層のニッチェにはアビラの聖テレサとカルミネ会の聖人パッツィのマリア・マッダレーナの彫像がそれぞれ置かれていました。 -
中央扉上の装飾のアップです。
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そしてファサード第二層の両端に置かれたトロフィーと呼ばれる花鉢にもズーム。こちらは左側
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そして右側です。
全体にまとまりすぎてしまっていて、面白みに欠けるような気がしますが、「教会に面白味なんて不要!」と言われれば、ハイ、その通りでごぜーますです。 -
人気のない通りにひっそりと建っていたのは、神の母の教会。正式名はそれに聖ニコラがついています。chiesa della Madre di Dio e di San Nicolò。それより簡単な教会のニックネームは「裸足の教会」。レッチェに着いて最初に見た教会の名前覚えていらっしゃいますか?
靴を履いた聖フランチェスコ教会でした。それに対し、カルミネ会という修道会は「靴を履かない修道会」として有名なのだそうです。創建は1631年。レッチェの貴族ベリサリオ・ペルディーニによって建てられました。ここに来る前に立ち寄った教会もカルミネ会でしたね。 -
ファサード中央のサン・ミケーレの彫像が見事です。大天使ミケーレ(ミカエル)が堕天使ルシファーをやっつけている最中です。ルシファーはかつて6枚の羽を持つ熾天使よりずっと高位の12枚の羽を持つ最高位の天使だったのですが、神に背き、人間を堕落させ、ミケーレによって地獄に落とされ悪魔となりました。
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左のニッチェには、腕が欠けてしまっていますが、守護天使の彫像がありました。人間の一人一人についてその人を守り導く天使です。前にも書きましたね。守護天使の像は必ずそばに子供の姿があります。
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右側のニッチェには、アレキサンドリアの聖カタリナ。彼女は信仰を貫き通したため、刃のついた車輪に手足を繋がれて転がされるという刑に処せられましたが、彼女が触れると車輪が壊れてしまい、結局最後は斬首刑となりました。彼女が右手で持っているのはその車輪ですね。
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祠発見!
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この先のベッケリエ・ヴェッキエ通りが非常に風情がありました。車の通らない細い道の片側に豪勢なパラッツォが建っていました。むむむ、壁にアラベスク模様!
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パラッツォはご覧のミナレットのような塔まで伴っていました。他のレッチェの建物とはそぐわない、ここだけが別世界のような一角でしたよ。
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コーランの文字が見えます。スペインならムデハル様式と言うけれど、イタリアでは何と呼ぶのでしょう?
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レッチェの城門3つ目はサン・ビアジョ門。これも外から見なくっちゃね。
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あらあら、またしてもオベリスクらしきものが、門の先にある公園ピアッツァ・イタリアに立っていました。第一次大戦の記念塔だそうです。
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振り向いて、こちらがサン・ビアジョ門です。レッチェの南の玄関口で、4世紀のアルメニアの司教サン・ビアジョに捧げられています。現在の門は1774年に再建されたもの。アーチの上の紋章は、ブルボン朝のフェルディナンド4世のものです。
その左右にレッチェのシンボル「メスオオカミにトキワガシ」が見えますね。 -
サン・ビアジョ門から戻る途中のペッローニ通りで、また豪華なカリアティドのあるパラッツォを見つけましたよ。パラッツォ・グラッシ。17世紀後半の建物で、ジュゼッペ・チーノの設計でした。
本当に玉手箱のような町です!! 何が出てくるかわからないドキドキワクワク感に満ちています。 -
再びサンタ・キアラ教会。
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4時はとっくに過ぎたというのに、サンタ・キアラ教会は開く気配すらありません。ファサード右側にあったこちらの祠はまだ写していなかったな。ジュゼッペ・マンツオ作のサンタ・ルチアでした。
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後刻ようやく開いた教会を急ぎ足で回った時の写真はこちらです。三度目の正直で中に入ることが出来ました。
内部は一廊式で、細長い八角形をしています。ご覧の通り、視界を遮るものがないので、主祭壇とその両脇の礼拝堂が一度に目に飛び込んできます。スパイラル祭壇の三重奏といった感じ。装飾の金色部分は、1950年代にすべて本物の金で装飾し直したそうなので、純金の輝きに満ちた空間です。 -
天井を見ると、教会内部の形が容易に想像できると思います。この天井は18世紀半ばにマニエーリによって作られたものです。木製に見えますが、実は張り子のトラ ならぬ天井です。つまり、イミテーション。
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礼拝堂の6つの祭壇に置かれた木像は17世紀の終わりから18世紀にかけて、ナポリ出身のニコラ・フーモ、ガエターノ・パタラーノによって作られました。サン・マッテオ教会の主祭壇にあったマタイ像もガエターノの制作でしたね。
サンタ・キアラはアッシジのフランチェスコに最初に帰依した一人。その方に捧げられた教会なので、当然ここはフランチェスコ修道会の教会なのですが、なぜかイエスズ会の方がいらっしゃいましたよ。
日本では最も有名な宣教師フランシスコ・ザビエルです。 -
こちらはアッシジのフランチェスコ…だと思います。沢山の彫像に囲まれたにぎやかな祭壇です。一体何人いるのでしょう? 腕白プットたちを入れると総勢30人以上!
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フランチェスコ会の修道士でスペイン出身のサン・ペドロ・デ・アルカンタラ。
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聖キアラに捧げられた主祭壇です。下のニッチェにキアラの木像が置かれています。祭壇後方の半月形の絵の内容が気になるのですが、説明がどこを探しても見つかりません。キアラとフランチェスコ以外の登場人物も残念ながらわからずじまい・・・
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主祭壇手前の勝利の門(凱旋門)には大天使サン・ミケーレ(ミカエル)と堕天使ルシファーの姿が! この絵個人的には好みです。
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主祭壇に向かって左側の礼拝堂。こちらはパドヴァの聖アントニオですね。この方もアッシジのフランチェスコに共感し、フランチェスコ会に入会した修道士です。
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先ほど訪れたレッチェの町の南門ビアジョ門にいらした4世紀の司教聖ビアジョの大きな像がありました。日本ではブラシウスと呼ばれているのだそうです。カトリック教会、正教会、アルメニア教会、東方典礼カトリック教会ですべて聖人となっています。
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こちらは特に手の込んだ祭壇の一つ、「無原罪」礼拝堂です。あまりにたくさんの顔があって、くらくらしてしまいます。
そうそう、先ほどの主祭壇の両脇にもありましたが、高いところに細かい金属の格子があるのにお気づきでしょうか? この教会に付属していた修道会の修道女たちは、人に見られることなく、この格子越しにミサに参加したのだそうですよ。 -
最後の礼拝堂は修道会テアティノ会の創始者の一人聖ガエターノです。
これだけのヴォリュームのある教会なのに、内部についての解説がほとんど見当たらず、ほぉ〜とか、はぁ〜とか言っているだけで終わってしまったのが少し残念でした。 -
サンタ・キアラ教会の前の道、フランチェスコ・ルビキ通りをそのまま進んでいくと・・・
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こちらの立派な建物は、パラッツォ・カラファ。そう、18世紀のレッチェの司教ソジー・カラファが、古い修道院を壊して作り直した建物です。1764年。
18世紀にもなると、バロックは姿を変えてロココ様式が入ってきています。窓枠や扉などにその影響が濃く出ていますね。
扉の上の装飾はレッチェの町の紋章と花綱。優雅な扉にはめ込まれた丸いブロンズが目立っています。 -
パラッツォ・カラファの前の通りを見ると。ここだけ異なった石が使われていることに気が付きます。
現在のレッチェの町はほぼ古代の町の上に建っていますが、円形競技場とローマ劇場以外は地中深く埋まったままです。この部分は最近地下を掘り返した工事で見つかった、ほぼ完ぺきな姿で残っていたローマ時代の道を再現したものだそうです。4mの幅で、地元の石灰岩で作られた道で、旧市街から海へと向かっている道だと推定されるとのことです。なんともロマンあふれるお話。市役所の粋な計らいにも感謝! -
パラッツォ・カラファのお隣にあったのはジェズ教会。おなじみイエスズ会の教会です。ここも工事中でした(泣)!
教会は、のちに列聖されたベルナルディーノ・ダ・カルピについてレッチェにやってきたイエスズ会により、1575年から建設を開始しましたが、完成までにかなりの年月を費やしています。
ファサードはシンプルで直線的。空のニッチェも寂しそう。中央扉の上、二人の天使によって崇められているイエスズ会のエンブレムがで〜んと目立っています。 -
ジェズ教会の前の道を進むと、今度は象に遭遇! なんじゃ こりゃ〜!
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こちらは、パラッツォ・ペルソーネ。現在はB&Bですが、13世紀にはシナゴグとして使われていました。1495年のユダヤ人排斥運動後には受胎告知のマリア教会に換えられたという歴史があります。
中にはユダヤ人の公共浴場「ミクヴァ」がまだ残っているそうです。 -
歩き疲れたのとトイレ休憩のためにマックに入ります。ここで面白い話を一つ。テークアウトして、外でコーヒーを飲んでいると、二人の女性が近づいてきて、「トイレに行きたいから、そのレシートをくれない?」と私のレシートを指さすのです。
「ごめんね。私も行きたいから」と断って、レシートを見ると4ケタの数字が目に入りました。実はここのマック、トイレを使うのにはレシートが必要なのです。 -
イタリアに来てから一二を争うような、美しいトイレでしたよ。自動洗浄なんてイタリアで初めてかも。エアタオルもダイソン製の強力なマシンでした。レッチェの町と同じくらいマックのトイレの美しさに感激!!
トイレに入る際には、右に見えるテンキーで、数字を入力します。セキュリティ万全でした。レシートをなくさないでね。 -
象の次はこちらの彫像がお出迎え。神様にリンゴを届けに来たのかしら?
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いろいろ寄り道したけれど、やっと帰ってきましたよ。サンタ・クローチェ教会。ここだけは中を見たいと思っていたんです。長くなってしまったけれど、最後まで続けますね。
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内部は三廊式。デザインはガブリエーレ・リッカルディによるものです。身廊と側廊を隔てるのは素晴らしい柱頭のついた左右8本ずつの列柱です。
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スフィンクス、ザクロ、アカンサス、渦を巻いているのは植物の発芽? よく見ると柱頭には使徒達の顔も彫られていました。
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長い花綱が伸びた側廊の天井は、シンプルなクロスヴォールトでした。
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ドゥオモの天井と似た印象の木製の天井にはクルミ材が使われています。金メッキされた八角形のパネルが敷き詰められた天井の中央には、美しい金の額に縁取られた「三位一体」の絵がありました。
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いつもなら、ここで礼拝堂を紹介するのですが、腕の悪いカメラマンが撮ったのはボケた写真ばかり。ここではいくらかましなものだけ紹介します。
入り口に近い最初の礼拝堂は、パドヴァのアントニオの礼拝堂。聖なる子の幻影がアントニオの後ろに見えます。上にある小さな丸い絵は、コンスタンティノポリの聖母と言われる16世紀のフレスコです。 -
次からずっとNGで、お次は翼廊に飛びます。
右翼廊は三位一体と聖なる十字架(サンタ・クローチェ)の礼拝堂。聖なる十字架の上には、ドゥオモの扉で見たような太陽と月が並んでいます。チェザーレ・ペンナの1637年の作品です。 -
18世紀に作られた主祭壇は金色の光線に包まれていましたが、後陣のドームの石の装飾がモノトーンに近いため、派手さは全くありません。ドームの第二層にわずかにフレスコが残っているのが見て取れます。聖母の物語から羊飼いの礼拝、受胎告知、訪問、エジプトへの脱出などが描かれていると説明にはあったのですが、確認できませんでした。
左右の壁のパイプオルガンは1961年に導入された最新式でした。 -
おそらく、この教会で最も有名な礼拝堂が左翼廊にあるパオラの聖フランチェスコ礼拝堂です。設計したのはアントニオ・ツィンバーロ。そう、ジュゼッペのお父さん。1614年〜15年の作といわれています。
奥行きを持たせて立体的に演出した祭壇の構成がなんとも素晴らしいですね。6本の円柱とその間の壁に隙間なく施された浅浮彫も大変グレードの高いもの。壁のレリーフはパオラの聖フランチェスコの生涯と奇跡から全部で12の物語が展開されています。 -
聖顔布を持つヴェロニカ像。
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左側廊から身廊を眺めます。そそり立つ円柱は、光の具合で微妙にその色を変えます。
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右側廊の礼拝堂は全部で7つ。解説がないので、名前だけ紹介しますね。こちらはピエタの礼拝堂。祭壇は今まで見た中で一番装飾が少なく、すっきりしています。
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サンティレーネ テッサロニキの聖イレーネは、レッチェの古い守護聖人で、3世紀の殉教者です。
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聖アンドレア・アヴェッリーノ(ナポリ、シチリアの守護聖人)に捧げる礼拝堂。シンプルながら、蔓草のレリーフで覆われたレッチェらしさが現れている祭壇です。エンタブラチュアに彫られた人と植物が組み合わされた装飾も、いかにもレッチェらしいモチーフです。
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カルミネの聖母の礼拝堂。カルミネ(カルメル)山は、イスラエルにある美しい山の名前で、聖母が暮らしていた地からも近く、古くから神の祝福の象徴として称えられています。十字軍がエルサレム奪回を目指した頃からいつしか隠遁者がその山中で暮らすようになり、のちにそこから修道会カルミネ会(カルメル会)が発足しています。
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受胎告知の礼拝堂。聖母の描写はなかなかですが、大天使ガブリエルに迫力がありません。単なる使い走りの若造のように思えるのですが、私だけかな?
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無原罪の御宿りに捧げる礼拝堂。祭壇はさておき、手前の高さの異なる燭台の美しさに目を見張りました。
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お終いは、修道院の名前にもなっているサン・チェレスティーノ(日本語ではローマ教皇ケレスティヌス5世)に捧げる礼拝堂です。修道会チェレスティーノ会の創設者で、修道士として有徳の人でした。2年以上ローマ教皇が不在という事態の打開策として、1294年にローマ教皇の座につきましたが、教皇職を嫌い、わずか半年で自ら退位しています。
うう〜ん。期待していたほどではありませんでしたねえ。サンタ・クローチェ教会の魅力はやはりファサードに凝縮されていたようです。内部は時間のある人だけでも良いかもしれません。 -
名残惜しいけれど、そろそろ列車の時間も気になってきました。バーリまで2時間近くかかりますからね。 駅に向かう途中にあったこちらの彫像は、14世紀のイタリアのリーダー バルトロメオ・ファンフッラの像です。イタリア人はロダ出身のティトと、親しみを込めて呼んでいます。
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ちょっと寄り道をして、ローマ劇場のそばを通って駅に戻りました。住宅街の中にあるので、入り口が分からずうろうろしてしまいましたが、ドゥオモの鐘楼がすぐ近くに見える場所でした。
こちらの劇場は、円形競技場より前のアウグスティヌスの時代 紀元前27年〜紀元14年の建造とされています。コンパクトな造りですが、状態が大変良好なのに驚きました。 -
遺跡は1929年に偶然発見され、1937年から38年にかけて発掘されました。半円形部分の直径が13m。観客席は14列見えていますね。岩盤に直接掘られているそうですよ。
発掘された沢山の大理石の彫刻は修復されてレッチェの州立博物館で展示中とのことです。また、この劇場脇にあった博物館では、ローマン・モザイクや当時の文化、衣装等を見ることが出来るそうです。 -
それにしても、すごく立派ですね。今でも現役で利用可能な状態のようです。
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麗しのレッチェ。たった数時間の滞在でしたが、大満足の1日となりました。こんなにちっぽけな町なのに、つぎから次へと出てくるわ、出てくるわ、びっくり箱、ドラえもんのポケットのように魅力満載の町でした。車窓から青く光るアドリア海を見つめながら、しばらくその余韻に浸っていました。
明日はプーリア州最終日。この続きは「イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その50 オストゥーニ」で!
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