2015/05/31 - 2015/05/31
41位(同エリア483件中)
junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
今日はキリスト教で言う安息日の日曜日。旅に出て3週間以上経ち、今日で5月もお終い。毎日たっぷりと歩いてきたので、ここらで暫し休息をと、今朝は遅くまで惰眠をむさぼる予定だったのですが、やはりボローニャは今日1日しかないと思うと、そんなに寝てもいられません。家にいる時には考えられないほど早起きです。なんという貧乏性! そして本当に欲張り! 旅に関してのみすこぶる貪欲な私です。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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今日もこのクラシックなリフト(エレヴェーターよりリフトというイメージ!)で出かけますよ。すっかり「お気に入り」のリフトになりました。3日前には部屋に入ることが出来ず、リフトを見ながら20分間立ちん坊だったというのにねえ。
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いつも、駅へと向かう途中、横目で見て来たボローニャの中世の門の一つポルタ・ガッリエーラをくぐって、今日は南の旧市街へと向かいます。
ポルタ・ガッリエーラは中世の時代、ボローニャを取り巻いていた城壁の中で最も北に位置し、12あった門の中で最も装飾が美しい門と言われています。最初の門は1200年に建てられましたが、現在の門は、建築家バルトロメオ・プロヴァーリャによるものです(1659年?~1661年)。 -
20世紀に入り、増え続ける人口増加に対処するため、周りの城壁を取り壊してしまったので、現在は門のみが残っています。ここからの道は北東に向かい、ガッリエーラの町を経てフェッラーラに通じていました。
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門の入口に二つ並んでいた彫像の一つです。もう片方は写しませんでしたが、共に登場人物は悪魔と人魚のようですよ。
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門の手前には、古い遺跡が残っていました。
ここは陸路だけでなく、水路との重要な合流点だったようで、門の前には運河が掘られ、農作物の運搬などに使われていたそうです。
1494年にはガッリエーラ門内に港が作られたという記録が残っていますので、その施設の一部でしょうか?
フェッラーラでも見たけれど、あの球体の石は石弓用かしら? -
大変複雑そうな地下の遺構が続いています。かなり深そうですが、運河の跡も含まれているように見えますね。
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ふと目をあげると、道路の向こう側にも何か見えますよ。隣にあるモンタニョーラの丘に登る優雅な階段スカリナータ・デル・ピンチョとは好対照の殆ど崩れ落ちた城砦の跡。
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こちらはガッリエーラ城の遺構です。
1330年頃、枢機卿ベルトラン・デュ・ポウジェは、アヴィニョン捕囚時代のローマ教皇ヨハネス22世の滞在用にここに要塞兼城を建てたのですが、教皇領になることを嫌っていたボローニャ市民によって、ボウジェは追放され、城は壊されてしまいました。
その後も世紀をまたいで、城は4度建てられましたが、そのたびにボローニャ市民によって壊されています。
ということは、これは最後に建てられた城の残骸ですね。教皇ユリウス2世の命を受けて1507年に建てられ、1511年に壊されました。周りを濠で囲まれ、警備用の塔が8つもあった頑強な造りだったそうですよ。にもかからず・・・徹底的にやられましたねえ。 -
ボローニャは自由都市、ミラノのヴィスコンティ家による支配、教皇領、神聖ローマ皇帝領、共和制等々目まぐるしく政治体制が入れ替わり、お馴染みのギベリン派、ゲルフ派の対立も相まって、人々の間には絶えず相手への不信感、緊張関係があった町だったようです。
果てしなく続いた内部抗争に一応の終止符を打ったのが、ベンティヴォーリオ家の台頭です。彼らは公的な爵位を持たない「一等市民」という立場でしたが、初代のサンテ(在位1445年~1462年)、そしてジョヴァンニ2世(在位1462年~1506年)の時代、ボローニャでは有能な建築家や芸術家が次々と誕生しました。16、17世紀には、ボローニャ派と呼ばれる画家達が活躍し、ローマ、フィレンツェに次ぐ芸術の都と言われるまでになりました。
話が脱線しました。5回目の城を破壊したのは、ベンティヴォーリオ家による支配が終わった後。ボローニャは再び教皇領となるのですが、教皇への反発が強かったのでしょうね。 -
遠景で申し訳ありません。こちらはガッリエーラ城に隣接するモンタニョーラの丘へと続く階段「スカリナータ・デル・ピンチョ」です。国王ウンベルト1世の即位を祝して、1893年にティット・アッツォリーニ、アッティリオ・ムッジャによって設計されました。
大きく分けると構造物は、美しい階段の他、インデペンデンシア通り沿いに続く柱廊とその上のポーチから成っています。
階段と階段の間には大きな噴水も見えていますね。 -
町の入り口で時間を食ったので、少し急ぎ足で旧市街へと向かいます。今日は日曜日なのですいていますが、イタリア北部は自転車天国。平日はどこの駐輪場も満杯です。
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ボローニャ名物のポルティコ(柱廊)が現れました。ボローニャでは1088年にヨーロッパ最古のボローニャ大学が創立されています。かのダンテもこの大学で学んだそうです。
ヨーロッパ各地からやってくる学生達の住まいを確保するために、道に張り出すように2階部分を作ったのがポルティコの始まりとされていますが、本当かしら? 11世紀から12世紀に建築が始まったポルティコの総延長は38kmにも及ぶそうです。 -
「道路という公共的空間の上に作られた私的部分」だと思っていたら、ボローニャのポルティコは他の都市とは異なり、れっきとしたプライヴェートな空間なんです。
1288年には、公共の使用に資するため、有用と考えられる全ての道路にポルティコを設置することが義務化される法律が作られています。この法律は今も有効なのだそうですよ。 -
1363年には「木製ポルティコの柱の建築禁止」が打ち出され、1567年には木製の柱のポルティコをレンガや石で作り替えるよう命令が出されています。
にもかかわらず、いまだに13世紀に遡る木製の柱のポルティコが残っているとか。いやはや、俄然楽しくなってきました(^^♪
今日はポルティコの町を彷徨ってみようっと! -
ガッリエーラ通りを進んで、小さなピオッジァ広場までやってくると、すっかりフレスコが剥げてしまった教会がありました。サンタ・マリア・デッラ・ピオッジァ 雨の聖母教会です。こちらの教会もよく見ると、左側のアーチ部分がポルティコになっていました。面白~い!
教会を覗いてみましたが、ちょうどミサが行われていたので入るのを遠慮しました。 -
時には階段のあるポルティコや・・・
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ポルティコより更に飛び出した出窓があったりして、目を楽しませてくれます。雨の日でも傘を持たずに町を歩けそうですね。
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ここは18世紀のオペラ歌手で作曲家のアントニオ・ベルナッキ(1685年~1756年)が住んでいた家だそう。
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心を奪われてしまったのか、写真はポルティコばかりです。この一角は床も凝っていました。
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ガッリエーラ門からずっと歩いてきたガッリエーラ通りは、ここでこの家にぶつかって、道幅が極端に細くなります。
15世紀半ばにゴシック様式で建てられたこちらの屋敷は、最初に住んでいたカステッリ家の名前をとってカーザ・カステッリと呼ばれています。この建物には1768年ボローニャで初となる郵便局が置かれていたそうです。 -
フレスコが気になったこちらの建物は、様々な宗教団体が使用してきた複合施設で、1591年以降は聖コロンバーノ祈祷所と呼ばれてきました。聖コロンバーノは6世紀の人でアイルランド出身。彼の弟子で、ボローニャの司教だったピエトロ1世が7世紀にここに教会を建てたのが始まりと言われています。
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教会がフレスコで装飾され始めたのは1600年頃ですが、最近になって教会内部にボローニャ派を代表するルドヴィコ・カラッチの弟子達による一連のフレスコが次々と発見され、注目を集めています。
というのも、カラッチの弟子の中には、フランチェスコ・アルバーニ、ルチオ・マッサリ、ドメニキーノ、フランチェスコ・ブリツィオ、グイド・レーニ等々、バロック初期の巨星達が多く含まれていたからです。 -
フレスコがあまり鮮明でなかったし、ガイドブックにも出ていないので、そんなこととは露知らず、外側だけ写して中には入らずじまいだったのが悔やまれます。
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内部のフレスコについては解説があるのですが、今見えている表のフレスコには全く触れていないところをみると、ファサードは別の時代に別の画家によって描かれたものかもしれませんね。
現在祈祷所はある財団が管理していて、ボローニャ出身の音楽史研究家オスカル・ミスキアティから寄贈された古い楽器のコレクションが90種類以上、フレスコのあるホールに展示されて、一種の博物館になっているそうです。楽器にはあまり興味がないけれど、フレスコに囲まれた空間は観てみたかったなあ・・・ -
尚もポルティコの中を進みます。光と影が織りなすポルティコの一瞬一瞬の変容にいちいち反応して感動している自分がいます。
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遠くに、サン・ピエトロ大聖堂の鐘楼が見えて来ました。方向は間違っていませんね。
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町の目抜き通りウーゴ・バッシ通り周辺では舗装工事が行われていて、立入禁止部分が多く、思った方向に進めませんでした。
こちらは、ウーゴ・バッシ通りから1本横道を入ったところにあった、聖グレゴリオと聖シロ教会。シンプルなルネサンス様式の教会です。 -
ウーゴ・バッシ通りを見下しているのは、ウーゴ・バッシ本人です。1800年生まれのカトリックの司祭でイタリア民族主義者だったバッシは、主にボローニャで活躍し、その後イタリア統一運動(リソルジメント)に参加し、ガリバルディらと共に祖国イタリア統一のために戦いました。1849年志半ばにして捕えられ、ボローニャで銃殺刑に処されています。
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ボローニャ名物並んで2本立つ斜塔のうちの高い方の塔アシネッリの塔が「おいでおいで」と言っていますが、真っすぐ進めません。
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横町に入ったり出たりしながら、なんとか進みます。
おお~ ここのポルティコは天井までゴージャス! -
ウーゴ・バッシ通りには日本では御馴染のこのお店もありましたが、店の前まで行けないし・・・
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右手にどこまでも続く巨大な建物が見えてきました。アックルシオ宮殿とも呼ばれているパラッツォ・コムナーレ(市庁舎)です。
一言では到底表現できない歴史の重みを感じさせるこの建物は、13世紀末には市政府がアックルシオ邸、ボローニャ大学等として使われてきたいくつかの建物を手に入れ、その後時代と共に修復と拡大、そして合体を繰り返して来ました。
歩くとどこまで行っても、市庁舎が続いているように思えてきます。とても大きい! 1336年には市長老の住居と共に市政府がここに置かれました。 -
右側はどこまでも続く市庁舎の建物。斜塔は低い方の塔も見えて来たけれど、まだ遠いなあ・・・
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途中、市庁舎の壁に張りつくようにあった噴水はフォンターナ・ベッキア(古い噴水)です。1563年にシチリア生まれの建築家トマゾ・ラウレティにより作られました。
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工事中のため、道路の反対側から噴水全体を撮るのは断念。壁のモニュメントも写し損ねてしまいました。
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ようやく市庁舎の壁が切れ、ネットゥーノ広場へと入ることが出来ました。右側にある市庁舎の扉の上にSala Borsaとありますが、こちらは巨大な吹き抜けのある部屋で、元は証券取引所。現在は図書館になっています。
この建物のある場所は、ローマ帝国時代〜古いエトルリア時代の遺跡の上に立っていて、図書館の床の一部に開けられたガラスを通して、古い時代の「穴」を覗き込むことが出来るのだそうですよ。
事前の情報不足故、建物に入ったのに、観ないで出てきてしまいました(泣)。 -
市庁舎の壁際にずらりと並んだ何千枚もの古い写真に注目しました。第二次大戦中のレジスタンス運動で亡くなった方々です。
小さくてこれではなんだかわからないでしょうが、「祖国の独立と名誉のために、自由と正義を求めて抵抗した人々」の写真です。なんとその数2000枚以上とか! こんなにたくさんの写真が展示されているのを初めて見ました。 -
ネットゥーノ広場の語源となったネプチューン(イタリア語ネットゥーノ)の噴水にやって参りました。ネプチューンはローマ神話の海と地震を司る神で、ギリシャ神話のポセイドンと同一視されています。彼は丁度今、豪快なポーズで海の水を自在に操っている最中のようですよ。右手には三叉の矛を持っていますね。
制作したのはフィレンツェのロッジア・ディ・ランツィにある彫刻で著名なルネサンス期の彫刻家ジャンボローニャ。設計は先ほど見た「古い噴水」の制作者トマゾ・ラウレティ。1567年頃の作品です。 -
そうそう、ネプチューンの下に座っているのは、海のニンフ ネレイド達です。噴水が出ている時間には、彼女たちの立派な乳首から勢いよく水が噴き出るのが見ものなのですが、日曜日なので噴水もお休みなのかしら?
背後に見える狭間が沢山ある建物はエンツォ王宮殿。元々隣接するポデスタ館の延長として建てられましたが、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の息子でサルディニア王エンツォが幽閉されていたことからその名が付きました。1249年ギベリン(皇帝)党を率いて戦ったエンツォは宿敵ボローニャの捕虜となり、1272年に亡くなるまでの23年間を、この宮殿で過ごしました。 -
広いマッジョーレ広場の向こう側に見えるのは、ファサードの一部しか完成していないのが目立つサン・ペトロニオ聖堂。5世紀のボローニャの司教で町の守護聖人である聖ペトロニオに捧げられている聖堂です。
こちらは後で見学するとして・・・ -
まずは、ようやくファサードにたどり着いた古い市庁舎を見ることにします。半分隠れてしまっていますが、一番左側には時計塔。1階部分にはゴシック様式のアーチのあるポルティコが続いています。この部分が旧アックルシオ邸部分だそう。
美しく装飾された中央扉の上には、バルコニーのある大きなニッチェがあり、ボローニャ生まれの教皇グレゴリウス13世(在位1572年~1585年)のブロンズ像が祝福のポーズで鎮座していました。アレッサンドロ・メンガンティによる作品です(1576年~80年)。なんと、彼の在位中に作られていたんですねえ。
グレゴリウス13世と言えばなんといってもグレゴリオ暦を採用したことで有名ですね。毎日の生活を送るのに西暦がなかったらと考えると、ぞっとしてしまいます。
ここからだと目立たないですが、教皇の左横には、ニッコロ・デッラルカによる「広場の聖母子」のテラコッタ像がありました(1478年)。 -
中央扉をくぐると、「最初の中庭」と呼ばれている中庭に出ます。沢山の建物から成る施設だから当然、いくつも中庭がありそうですよ。
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目立たないけれど、よくよく見ると、窓の上のルーネットにフレスコが描かれていました。消えかかっていますが、中央に鷲のいる紋章のようです。
他にも手の込んだフリーズや装飾を方々に見ることが出来ました。 -
寄せ集めの建物であることが良く分かるのは、中庭を挟んで、反対側を見ると全く異なった雰囲気になること。この部分1661年に改修されています。
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日曜日でも開館しているみたいで、中に入れそうです。ラッキー♪ と喜んで階段を上っていきます。こちらは地上階から1階(日本で言う2階)への階段。
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そして、こちらは1階(日本で言う2階)から2階への階段です。壁の照明が優雅ですね。
実は正確にはこれは階段ではなく、滑り止めのあるスロープと言った方が良いかもしれません。どうやら、昔はここを馬で駆け上がったようですよ。2頭の馬に乗った人間が並んで駆け上がることの出来る幅なんですって! -
残念ながら、ウルバーナの間(サラ・ウルバーナ)は修復中でした。
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市庁舎の芸術品コレクションのポスターです。市庁舎そのものが芸術品であることに加え、ボローニャ歴代の治世者達の住居を飾っていたお宝も眠っているようです。羨ましい限り・・・
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こちらは「ファルネーゼの間」です。儀式を行った部屋で、以前はフレスコで覆われたヴォールト天井でしたが、19世紀後半に取り壊され、現在ある格間天井に置き換えられました。16世紀半ば以降、奥の壁にはファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世の大理石像が置かれていましたが、18世紀末ナポレオン軍によって取り除かれたそうです。今いらっしゃるのはどなたかしら?
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壁には、同じファルネーゼ家出身の枢機卿ジローラモ・ファルネーゼの命により、1665年「教皇の支配によるボローニャの栄光の時代」をテーマにした一連のフレスコが描かれています。完全に教皇によるプロパガンダですねえ。
フレスコはカルロ・チニャーニが率いる複数の画家チームが担当しました。 -
1095年10月、最初の十字軍がボローニャを出発した時を描いた絵だそうです。右側にいるのは教皇ウルバヌス2世。かれは初めて十字軍の派遣を呼び掛けた人物として知られています。
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壁の上部を照らす照明により、フレスコ画が浮き上がって見える演出がにくい・・・
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教皇クレメンス7世による神聖ローマ皇帝カール5世の戴冠式が描かれています。この豪華な式典は、マッジョーレ広場で先ほど見た聖ペトロニオ聖堂で行われました。
フレスコで描かれたテラモンがユニークですね。
左側下に描かれた人物は上の人に足蹴にされているように見えます。 -
ナポレオン軍が持ち去ったパウルス3世の代わりに、17世紀に作られ、隣の部屋にあった教皇アレクサンデル7世の彫像が1845年にここに置かれたそうです。この人はキージ家の出身ですね。
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青い長いマントを羽織った王様と隣にいるうなだれた女性。曰くありげだなと思っていたら、こちらは、奇跡の物語。
王様はフランスのフランソワ1世。彼が「ハンドパワー」のみで、結核の女性に対し治癒力を行使したと言われる伝説の一幕でした。1515年、ボローニャ滞在中の出来事だそうです。 -
最後は1543年にカール5世との会談を終えた後、ボローニャをパレードするパウルス3世の姿が描かれていました。1543年のことです。
足蹴が続くテラモンも楽しみましたよ。虐めですよね。これって! -
イタリア語が読めたら面白そうだと思ったのは、こちらの「ナポレオン3世の宣言」文が書かれたパネルです。
イタリア人へ という言葉で始まっていて、日付は1859年になっています。 -
続いて入ってきたのは、かつてのファルネーゼ礼拝堂です。1561年〜65年にかけて枢機卿ジローラモ・サウリの命により、アリストーレ・フィオラヴァンティによって造られました。19世紀に隣のファルネーゼの間を改装中、厚い漆喰の下からフレスコ画が出てきたのだそうです。
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礼拝堂内のフレスコは、プロスペロー・フォンターナの作品と言われていますが、はっきり言ってフレスコの状態はあまり良くありません。
フォンターナは1512年ボローニャ生まれ。後期ルネサンスの画家として知られています。短い間ルドヴィコ(アンニバーレの従兄弟)とアゴスティーノ(アンニバーレの兄)・カラッチの師匠だったことがあるそうです。 -
題名も作者も控えて来ませんでしたが、結構気に入っています。聖母子にしては子供の数が多すぎる? 女性の胸が露わすぎる? と今頃になって悶々としています。
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扉の上にどなたかの胸像が見えています。どうやら二重に絵が描かれていたみたいですよ。
礼拝堂を抜けた後にも、フレスコと絵画の飾られた部屋がありました。 -
こちらの「聖母被昇天」のフレスコは、割合良好な状態でした。聖母の物語については、プロスペロー・フォンターナの作だとしている解説書もありました。
プロスペロー・フォンターナは1512年ボローニャ生まれ。ミケランジェロもジョルジョ・ヴァザーリとも親交がありました。後期ルネサンスの画家ですが、マニエリスムの影響を感じますね。 -
これなどは、マニエリスム期の特徴が良く出ていると思います。ストーリがわかると面白いのだけれど・・・
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もう少し丁寧な解説が欲しかったなあ。入場無料だから仕方ない?
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続いての部屋は、イタリアの国旗のような赤と緑と白の縦ストライプが目を惹きました。治世者のアパルトメントだったところでしょうか?
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こちらは大変興味深い作品 「炉内にいる3人のジョヴァン」I tre Giovan nella fornace と言うタイトルで、作者はバルトロメオ・チェージ。カルトゥジオの聖ジローラモ修道院の客間にある暖炉の壁からこちらへ移されたものです。
3人のジョヴァンとは、洗礼者聖ヨハネ、福音記者聖ヨハネと12使徒の一人ゼベダイの子ヤコブのようです。 -
こちらは、ピエトロ・ディ・ジョヴァンニ・リアノーリの「聖母子」。1410年頃の作品です。
アンサルディのサンタンドレア教会の墓地にあったものですが、1981年にこちらのコレクションに加えられました。 -
イチオシ
ピエトロ・ディ・ジョヴァンニ・リアノーリの二つ目の作品は、こちらの「カルテオゥジオの聖母子」です。うつむき加減の聖母の眼差しが穏やかでとても魅力的!
この宮殿にあったものの中で一番のお気に入りとなりました。
作者のリアノーリについては、ボローニャ在住で、活動期が1412年〜1453年だったということ以外、生年月日を含めて殆どわかっていません。この作品は1435年頃の作と言われています。 -
再びファルネーゼの間を通って戻ります。この部屋の照明の使い方、本当に見事です。
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再びウルバーナの間のポスターです。2014年11月に改修が終わったと書いてありますね。こんな素晴らしい部屋を見て覚えていない、しかも1枚も写真を撮っていないということはあり得ないので、やはり見逃したとしか思えません。
旅から1年以上経つと、全てが忘却の彼方となりつつあります。 -
市庁舎の最上階から大きな中庭コルティーレ・デル・ポッツォを見下します。殆ど隠れているけれど、右側の建物が切れたところに、名前の由来となった大きな屋根付きの井戸が見えます。
広場に面した外側と比較して明るく、統一感があって、いかにもイタリアらしい景色。 -
これから下の絵画はどこにあったのかすら忘れてしまっています。
これは「羊飼いの礼拝」ですね。大きな牛の眼に癒されます。様々な登場人物が聖家族を取り囲んでいて、見ていて飽きない絵でした。 -
幻想的な風景が2点。右側の絵には、丘の上の聖堂まで続く柱廊が描かれています。今回行けなかったけれど、ボローニャ近郊にあるサン・ルカの聖母教会サントゥアリオ・デッラ・マドンナ・ディ・サン・ルカへの柱廊を描いたものだと思われます。
なんと3.5kmも柱廊が続くんですって。1674年~1793年まで、100年以上かけて作られたもので、666のアーチから成っています。 -
これも不思議な絵なので、思わず撮ってしまいました。無邪気な幼児とその母親らしい若い女性。大胆な姿勢で叢に横たわっています。あまり幸せそうには見えません。
不思議なのは、彼女らの背後を行く行列! 十字架に白いベール、女性たちも一様に白いベールをまとっています。結婚式? 聖人の記念日? それともお弔いかしら? -
イルネリオ(イルネリウス)は11世紀の人で、法律を学問として体系づけた、後の人々から「法の光」と崇められた人物です(ウィキペディア)。
ボローニャ大学で法学を講義し、彼の元にはたくさんの学生が集まり、大学の発展にも寄与しました。 -
こちらは、ノルマンディ出身のフランス人彫刻家ジャン・ゴウジョンによる「罪なき泉のニンフ達」ninfe della fontana degli innocentiと言うタイトルのレリーフです。
下の碑文には、「ゴウジョンは1568年ボローニャで亡くなった。1935年ルーブル美術館よりボローニャ市に寄贈された」と書かれていました。
市庁舎には、この他にも見るべきものが沢山あったのですが、2階部分だけ見て、さっさと下りてきてしまいました。まあ時間もなかったので、ちょうど良かったかもしれません。 -
マッジョーレ広場を横切って、サン・ペトロニオ聖堂へと向かいます。ボローニャについては殆ど何も調べないで街歩きをしたため、帰国するまで私はこの聖堂がドゥオモだと信じていました。本当は先ほど鐘楼が見えた聖ピエトロ大聖堂がドゥオモなのだそうです。
今日は日曜日なので、マッジョーレ広場では様々な催しが行われていました。ローマ帝国時代にはフォーラムがあったこの場所は2000年経っても、相変わらず人が集まってくる賑やかな町の中心でした。 -
市は建築家アントニオ・ディ・ヴィンチェンツォにゴシック様式の教会建設を依頼し、最初の礎石が1390年に置かれます。彼には世界一大きな聖堂を建てるという野心がありました。聖堂が一応の完成を見たのは80年後の、1479年のことでした。
ヴィンチェンツォの意思を継ぎ、市は1514年には更なる拡張工事を行おうとしましたが、規模に置いてローマのサン・ピエトロを超える大きさとなるため、当時の教皇に拒絶されたという伝説が残っています。
聖堂の大きなことには、本当に圧倒されました。世界で10番目、そしてレンガ造りとしてはなんと世界最大! 幅66m、奥行きが132m、天井までの高さは中で45m、外側では51mあるそうです。あまりに大きすぎて、ファサードの大理石が足りなかったのかな・・・と思ってしまいます。資金面以外にも問題があったのかな? -
前述したように、聖堂は町の守護聖人で5世紀のボローニャの司教だった聖ペトロニオに捧げるため、ボローニャのコムナーレ(町政府)によって建造されました。通常は司教の命によりますが、この聖堂は町の権力の象徴として、1929年まで司教座が置かれませんでした。献堂されたのが1954年。聖ペトロニオの聖遺物が安置されたのは2000年になってからのことです。それまで、彼の聖遺物は市内のサント・ステファノ教会に置かれていました。
まずは3つある扉の右側から見ていきます。左右の扉の設計は1524年〜30年にかけて、エルコーレ・セッカデナーリによって行われました。扉の周りにはセッカデナーリ自身を含めた7人の彫刻家によるレリーフパネルがはめ込まれています。2本の柱には旧約聖書からの、扉上のリンテルには新約聖書からの場面が彫られていました。 -
ルーネットには、キリスト十字架降下の場面(アスペルテーニ)、聖母(トリボーロ)、聖ヨハネ(セッカデナーリ)の彫像が置かれていました。( )内は担当した彫刻家名です。
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こちらは左側の扉です。右側の扉と構成要素は変わりません。
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そして扉上のルーネットには、キリストの復活の場面が再現されていました。こちらはアルフォンソ・ロンバルディ単独による作品です。
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左側の柱部分の詳細です。レリーフの彫が深いのに驚きです。
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右側の柱部分。レリーフとレリーフの間にも細かいクジャクとブドウの蔓のフリーズが入っています。これまた凄〜い!
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中央の扉は、シエナ出身のヤコポ・デッラ・クエルチャの設計によるものです。昨日はフェッラーラで、飛びっきりのパンの聖母に出会い、そして今日はまた、彼の聖母子に会えるなんて、なんて幸運なんでしょう!
クエルチャは1425年にこの仕事を請け負ってから亡くなるまでの13年間、精力的に仕事をこなしましたが、まだ未完成部分があると言われています。 -
向かって左側の柱の上には、創世記から5つの場面を見ることが出来ました。アダムの創造、イヴの創造、禁断の木の実を食べる二人、楽園を追われる二人、そして、カインとアベルと共に農作業を行う二人(先祖の仕事)の姿が彫られていました。
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向かって右側の柱です。上からアベルの犠牲、アベルの殺害、ノアの方舟、酔っぱらったノア、イサクの犠牲が描かれていました。
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イチオシ
そしてルーネット部分には、15世紀で一番美しいと言われている聖母子! もっと近くで見たいなあ! 彼女は左側にはミラノの守護聖人である聖アンブロージョ、右側には聖堂を抱えた聖ペトロニオを従えています。
その下のリンテルには、キリスト生誕、東方三博士の礼拝、キリストの神殿でのお披露目、ヘロデ王の幼児虐殺、切れてしまいましたが、エジプトへの逃避のレリーフがありました。 -
遠くから眺めた時には、未完成が目立ったのですが、なんと充実した仕上がりでしょう!
白い大理石は現在はクロアチアに属するイストリア産。赤い大理石はヴェローナ産。ファサードはどことなくフィレンツェ風だと思ったら、トスカーナ・フィレンツェ スタイルと呼ばれているそうです。ファサードの設計はボローニャ近郊出身のドメニコ・アイモが行いました。 -
ファサードの一番左側部分。ここだけ、他の部分に比べ一層分高さが高いのが特徴。どうしてこうなったのでしょうね?
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それでは、一番右側の扉から中に入るとしましょう。
おっとっと。これから先は少々長くなりそうなので、一旦終了しますね。この続きは イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その80 ボローニャ2で!
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