2016/05/26 - 2016/05/26
151位(同エリア1060件中)
ベームさん
5月26日、2日目。
その1の続き、今日は一日チューリヒです。
パラデ広場からリートベルクへ、また市内に戻ってリマト川の左岸、ユートリベルクの丘などを歩き最後にスイス国立博物館を見ました。
写真はチューリヒ、ヴェーゼンドンクの家。現在リートベルク博物館。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 船
- 航空会社
- スイスインターナショナルエアラインズ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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地図上方、チューリヒin、チューリヒoutでスイスを一周しました。
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パラデ広場からトラム7に乗ってリートベルク博物館に向かいます。
途中チューリヒ・エンゲ駅前を通過。 -
ムゼウム・リートベルクで下車。
パラデ広場から駅数で4、5駅、チューリヒ湖の西岸の高台にあります。
ここに来るのは実は博物館を見るのが主目的ではなくて、その建物にまつわる恋の物語の跡をたどるのが目的です。 -
今博物館となっている建物、これこそヴァーグナーがチューリヒ在住時代恋の炎を燃え上がらせたマチルデ・ヴェーゼンドンク、豪商ヴェーゼンドンク夫妻の家だったのです。
1853年、ヴァーグナーが指揮するベートーベンコンサートを聴いた夫妻はヴァーグナーに心酔します。その才能、オーラ、カリスマ性に圧倒されました。
ヴァーグナーは外見は小男で風采は上がらなかったといわれますが。 -
博物館入口。
その後、ヴァーグナーのエッシャーハウス(旅行記その1に出てきます)時代、絹商人で豪商のオットー・ヴェーゼンドンクはヴァーグナーの音楽会を催すなど彼を後援します。オットーの若く美しい後妻のマチルデ(当時25歳)はヴァーグナーの音楽に心酔し、度々ヴァーグナーの住まいを訪れ芸術を語り共に音楽を楽しみました。 -
ミンナ夫人とうまく行っていなかったヴァーグナーが美貌で才媛のマチルデに惹かれていったのごく自然の成り行きでした。
この頃ヴァーグナーは「トリスタンとイゾルデ」の構想を練っており、自分とマチルデをトリスタンとイゾルデに重ねたりました。 -
建物が見えてきました。
1857年、ヴェーゼンドンクはチューリヒ湖西岸のこの地に新居を建て移り住み、ヴァーグナーにもすぐそばの一軒家を貸し与え作曲に専念できるようにしました。
ヴァーグナーはこの家をアジール/隠れ家と呼び、マチルデへの思いはますます募っていきます。 -
この隠れ家で「トリスタンとイゾルデ」の台本が完成し、それをマチルデに読み聞かせました。そのとき彼はマチルデに秘めたる恋情を打ち明けたのです。
マチルデもヴァーグナーに自作の詩を送るなどして応えました。ヴァーグナーはこの詩に曲をつけ「ヴェーゼンドンクの五つの詩」として残っています。 -
ヴェーゼンドンクの家、現リートベルク博物館。
しかしこの二人の交情もついに夫ヴェーゼンドンクとヴァーグナーの妻ミンナの知る処となります。1858年8月、ヴァーグナーはこの隠れ家を出、チューリヒを去ることになり、この恋は終わりをつげました。この時、ミンナのマチルデに対する嫉妬心はかなりのものだったようです。 -
その後ヴァーグナーがルツェルンにいる時ヴァーグナーとヴェーゼンドンク夫妻の交際は復活しました。その時はヴァーグナーの心も浄化され両者の交流は落ち着いた清らかなものだったと云います。
それにしても夫ヴェーゼンドンクは寛容でした。若い後妻の浮気(どれほど本気だったは分かりませんが)に嫉妬することなくヴァーグナーを責めることもなく許したのです。 -
側面。
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広い庭を持つ広大な敷地です。
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マチルデの胸像。
ルツェルン、トリプシェンのリヒヤルト・ヴァーグナー博物館にあります。 -
同。
名門の出らしく美しい気品のある顔です。 -
ヴァーグナーの隠れ家は今は無く、ヴィラ・シェーンベルクとなっています。
「ヴィラ・シェーンベルク。1850年ここに一軒の木組みの家が建てられ、1857~1858年にリヒヤルト・ヴァーグナーが”アジル/隠れ家”として使用した。」
この家でヴァーグナーはマチルデを近くに感じながら作曲、台本の作成に没頭します。 -
ヴィラ・シェーンベルク。
ここでヴァーグナーと妻ミンナ、マチルデ、指揮者ビューローの妻コジマ(リストの娘、のちのヴァーグナー夫人)とが一緒に顔を合わせたこともありました。
ヴァーグナーは3人の女性をどうもてなしたのでしょうね。こんなに美しい女性たちに崇められて、憎い男です。 -
前庭の隅にヴァーグナーの胸像。
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これで昨日今日とヴァーグナーのチューリヒにおける二か所のゆかりの地を訪ねました。
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鉢物の展示をやっていました。
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勿論博物館にも入りました。
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スイス唯一の「ヨーロッパ以外の芸術博物館」です。
チューリヒ市が旧ヴェーゼンドンク邸を買い取り1952年主に個人の寄贈品をもとに開館しました。
アジア、アフリカ、オセアニア、アメリカの美術品が充実しています。 -
以下収蔵品の幾つか。
ウママヘシバラ大王とウマ女王。インド、12世紀。
インド、東南アジアの神についてはさっぱり知識がありません。 -
ガルーダ/金翅鳥に乗るヴィシュヌとその膝に座る妻ラクシミ。インド、16~17世紀。
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シバ王。インド、14世紀。
シバといえばすぐ旧約聖書のソロモン王とシバの女王を連想してしまいますが、シバとはヒンズー教の男の神なのですね、初めて知りました。 -
菩薩ロケシュヴァラ。インド、9世紀。
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愛する二人。インド、11世紀。
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寺院への途中。インド、11~12世紀。
どうして昔のインドの彫刻はは女性の胸を強調した官能的な像ばかりなのでしょう。 -
天の美女。インド、11世紀。
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水浴びする美女。インド、14~15世紀。
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聖人リシャブハナタ。インド、11~12世紀。
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踊るシバ。インド、12世紀。
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悪魔と戦う女神ドゥルガー。インド、11世紀。
昔のインドの彫刻は身体に躍動感があり独特の官能美で目を楽しませてくれます。 -
シバとウマ、息子スカンダ。インド、12〜13世紀。
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ヴァイロシュナ如来。チベット、14世紀。
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菩薩坐像。パキスタン、3~4世紀。
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マラの娘のブッダの誘惑。パキスタン、2~4世紀。
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ハスの玉座で冥想するブッダ。インド、7世紀。
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水牛の悪魔マヒシャを退治する戦いの女神ドゥルガー。インド、11~12世紀。
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展示室。
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水瓶を運ぶニンフ。インドネシヤ、14~15世紀。
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情熱と愛の女神ラティ。インドネシア、19世紀。
今まで日本の仏像以外東洋系の彫像を見たことはあまりないので新鮮味を感じました。性に対する感覚がおおらかです。 -
スイスのカーニヴァルのお面。
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同。
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女人像。メキシコ、7世紀。
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男子像。メキシコ、紀元前300年頃。
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祭式像。パプア・ニューギニア、19世紀。
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フラッシュなしで写真どうぞ、というので沢山撮りました。
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昼、併設のカフェにソバというメニューがあったので喜んで注文したらこんなものが出てきました。プラスチックの容器の底の方に蕎麦がありその上に野菜のサラダが乗っているだけです。これをフォークで突き刺して食べます。何とも味気ない、これで20フラン、約2300円です。
恐るべしスイスの物価高。 -
またトラムでパラデ広場に戻ってきました。
広場の先にある聖母聖堂/フラオミュンスター。 -
カール大帝の孫ルートヴィヒ王の娘ヒルデガルトが造った853年の修道院が前身という。
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シャガールのステンドグラス。
堂内撮影禁止なので絵葉書を借用します。 -
これと云いグロスミュンスターのジャコメッティのステンドグラスといい巨匠の競演ですね。
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対岸からのグロスミュンスター。
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聖母聖堂辺りは狭い路地があります。
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路地を抜けると聖ペーター教会。
中には入れませんでした。 -
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1534年製、径8.7mの時計です。
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教会の前に立つ意味不明のモニュメント。
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パラデ広場からリマト川左岸を北、駅の方に進んでいます。
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狭い急な階段を登ると、
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リンデンホーフの丘に出ました。
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チューリヒ発祥の地で紀元前のローマ時代の遺跡があります。
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逆光で真っ黒けですが、1292年にハプスブルク家と勇敢にたたかった女性兵士の像だそうです。
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丘からの眺め。
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対岸の丘の上のチューリヒ大学。
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リマト川。
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チューリヒ大学のドームとプレディガー教会の尖塔。
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グロスミュンスター。
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チューリヒ中央駅に戻りユートリベルクまで行きます。
そろそろ足が痛みはじめましたがまだ見るべき所は残っているので我慢我慢。 -
Sバーンに乗ります。
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ユートリベルク駅到着。
中央駅から約27分。 -
駅から山道を10分強登ります。
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こんな感じでそれほど急でもありません。前を歩く女性はかかとの高いハイヒールです。
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キリンですね。山頂展望台のテレビ塔です。
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山頂到着。
チューリヒ湖の西岸の後ろにある海抜869mの山。 -
チューリヒ市街とチューリヒ湖が一望のもと。
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天気がよくて良かった
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チューリヒ湖はずっと東南の方に長く伸びて、はるかにアルプスの山々が見えます。
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ブラジル、リオの山頂にこんな像がありますね。それを真似たのでしょう。
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132mのテレビ塔。
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下山します。
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ユートリベルク発チューリヒHB行。
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スイス国立博物館。
今4時10分。昨日買ったチューリヒカード24時間用の有効期限が4時12分、まだ間に合うとがめつく駅の傍のスイス国立博物館に駆け込みました。
係員はカードをじっと見てニヤリ、OK。 -
1898年の設立で、先史から現代までスイスのあらゆる文化、政治、経済に関する膨大な資料が保管されています。
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スイスの歴史。
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いきなり19世紀に移住してきた人たちの写真です。
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スイスは歴史的に移民に門戸を開いてきました。今スイスの外国人比率は20%ほどで飛びぬけています。ドイツでさえ8%くらいだったと思います。
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スイスにかかわりの深い外国人のパネル写真が並んでいました。いかにスイスが抑圧された外国人に寛容であったかを示しています。コメントはパネルに付けられている説明文を主に私の勝手なものを付け加えています。
ロマン・ロラン。1866~1944年。
フランスの作家。1914年ジュネーヴ滞在中に第1次世界大戦が勃発。ロランは直ちに独・仏政府に戦争中止を訴える。仏政府から反国民とみなされ帰国できずスイスに留まる。思想を越えた平和主義者で赤十字運動にも深くかかわる。
一時パリに帰国後1922~1938年までスイスのヴィルヌーヴに住む。
1916年ノーベル文学賞受賞。代表作:ジャン・クリストフ、魅せられたる魂。 -
フリートリヒ・ニーチェ。1844~1900年。
ドイツの哲学者。1869年24歳でバーゼル大学のギリシャ語、文学の教授。1879年退職後は在野の哲学者として活動。晩年は精神の異常をきたした。病気療養を兼ね夏の間をスイス、サン・モリッツの近郊エンガディン地方のジルス・マリアで過ごし、その間に「ツァラトゥストラかく語りき」を表す。
今回旅行中ジルス・マリアの彼の住まいを訪ねましたが工事中で中に入れませんでした。 -
ナポレオン3世/3世の前はルイ・ナポレオン。1807~1873年。
ナポレオン1世の甥で、フランス第2帝政大統領。
1815年のナポレオン1世の失脚でルイは母と共にスイス、ボーデン湖畔のアレネンベルク城で亡命生活を送っている。
1832年にはスイス、トゥールガウの名誉市民の称号を受けた。
なんでナポレオン3世がスイスと関係があるのか分かりました。 -
アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール/スタール夫人。1766~1817年。
フランスの作家、批評家。フランス・ロマン主義の先駆者とされる。ジュネーヴの銀行家の娘としてパリに生まれる。
フランス革命には積極的に参加したが革命が過激化する中彼女の穏健思想が反感を買い、1792年スイスの父の領地コペに亡命する。ナポレオン体制後はナポレオンと対立し何度もフランスを追放されヨーロッパ各地を回り、スイスのコペではサロンを開きバイロンなど著名文化人が集まった。
長ったらしい名前よりも”スタール夫人”の方が人口に膾炙している。 -
リヒヤルト・ヴァーグナー。1813~1883年。
ドイツの作曲家。
スイスにはチューリヒに1849~1858年、ルツェルン(トリプシェン)に1866~1872年と2回住んでいる。 -
アルベルト・アインシュタイン。1879~1955年。
ドイツの物理学者。
1895年ミュンヘンからチューリヒに、1896~1900年チューリヒ工科大学で学ぶ。1903~1905年ベルンに住み数々の論文を発表。1912年チューリヒ工科大学教授。1921年度ノーベル物理学賞受賞。
1922年11月に日本を訪れている。その来日の途上船の中で受賞の知らせを聞いた。1933年ナチを避けアメリカ移住。 -
ヘルマン・ヘッセ。1877~1962年。
スイス人と言っても良いかもしれません。人生の多くをスイスに住み、スイス国籍をとり、スイスで亡くなりスイスにお墓があるのですから。
4歳~8歳:バーゼル。
22歳~27歳:バーゼル。
35歳~42歳:ベルン。
42歳~85歳(死の時まで):モンタニョーラ。
大人になってからは殆どスイスに居を構えまています。勿論一か所にじっと住んでいたわけではありません。夏、冬、季節に応じ、また体調に応じチューリヒ、バーデン、バーゼル、ジルス・マリアなどで過ごし執筆活動を続けています。 -
パウル・クレー。1879~1940年。
スイスの画家。ドイツ人の移民の父とスイス人の母との間にベルンで生まれる。
若いころはカンディンスキーら青い騎士派と行動を共にする。1914年のチュニジア旅行が色彩豊かな画風へと一変させた。
今回ベルンのパウル・クレー・センターに行きましたのでその旅行記で作品を紹介します。 -
エリカ・マン。1905~1969年。
ドイツの女優。トーマス・マンの娘。
ナチの台頭により1933年父と共にスイスに身を避ける。1936年まで滞在し胡椒ひき劇団を率い反ファシズム劇を公演して回る。1936年アメリカに亡命。 -
ヴォルテール。1694~1778年。
フランスの啓蒙主義哲学者。フランス革命の先駆者と云われる。
イギリスの自由な風潮の影響からフランスの政治体制を度々批判、宮廷からにらまれパリを追放される。ジュネーヴ市の招きで1755~1760年滞在。その間1759年に代表作「カンディード」を発表。
プロイセンのフリードリヒ大王との交遊、ジャン・ジャック・ルソーとの論争は有名。 -
ジャン・ジャック・ルソー。1712~1778年。
ジュネーヴ生まれでフランスで活躍した作家、哲学者。民主主義、近代教育学の先駆者とされる。
スイス人とされているが当時ジュネーヴ共和国はスイス連邦に加盟していなく、ルソー自身自分はジュネーヴ人、と称していた。
1762年教育論「エミール」が禁書となりパリを追放されスイスに逃れる。
代表作:人間不平等起源論、社会契約論、新エロイーズ、エミール、告白。 -
ジャン・カルヴァン。1509~1564年。
フランスの神学者、宗教改革運動者。
24歳の時プロテスタントに改宗、弾圧が厳しくなり翌年バーゼルに亡命。
1541年ジュネーヴの教会界の指導者となり以降強力に宗教改革を指導していく。カルヴァン派の神学はヨーロッパ中のプロテスタント派に影響力を持った。 -
エラスムス・フォン・ロッテルダム/デジデリウス・エラスムス。1466~1536年。
オランダの人文学者、神学者。ヨーロッパの人文主義の指導者。
宗教改革の先駆者とされる。しかし彼はキリスト教界の分裂を恐れプロテスタント側に与しなかった。マルチン・ルターにも最初理解を示したがルターの活動が過激化するにつれ離れて行った。ラテン語新約聖書をギリシャ語に翻訳、ルターはそれを底本にドイツ語訳を完成させた。代表作:痴愚神礼賛。
1521年バーゼルに居を構え、以後居を移すも最後はバーゼルで死去。 -
時計、カウベル、チーズ、チョコレート、マッターホルン、ウイリアム・テルの矢と林檎などなどスイスを代表するもの。
観光客へのPRも忘れません。 -
館内のレイアウトが工夫されています。
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1315年モルガルテン文書。
説明文を読んでもよく分かりませんが、1315年11月15日モルガルテンの戦いでスイス原初3州/ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン同盟軍がハプスブルク家のレオポルト1世軍に大勝した後に締結された永久同盟の更新文書ではないかと推測します。3州は自由への努力、互いの援助を為すことが表現されている。
最初の永久同盟は1291年8月1日、リュトリの丘で上記3州で締結された。スイス同盟の始まりで、8月1日はスイスの建国記念日となっています。 -
その後加盟州が増えて行ったときの契約文書のようです。
ぶら下がっているのは州の紋章。 -
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1515年9月、イタリアのミラノ近郊マリニアーノでミラノ公国を奪おうとするフランス軍と公国を実質支配するスイス傭兵軍が激突、フランス側の大勝となった。
それまで連戦連勝だったスイス同盟は初めて破れ、以降領土拡大を諦め同盟の結束の強化に専念する。ただし外国への傭兵輸出は州単位、個人単位でその後も行われその持ち帰る財と情報がスイスの国富増大に大きく寄与していく。 -
同盟唯一の政治機構は連邦議会でした。
これは1531年バーゼルで開かれたもので各州の代表が輪を作っています。 -
「言い寄られるスイス。ヨーロッパ諸国はスイスの好意を得ようとした。スイスの兵士が欲しかったからである。しかしスイス各州は一つの大国に傾斜(肩入れ)することは望まなかった」。
真ん中でちやほやされているのがスイスでしょう。別々の国に雇われた傭兵同士が戦うこともあったそうです。
しかし傭兵がもたらす財と情報はスイスの国力増大に大きく寄与しました。 -
ヘルヴェティア共和国の成立。
1798年、スイスに侵攻したフランス軍はスイスの連邦制を廃し中央集権制の濃いヘルヴェティア共和国を設立した。1291年のスイス建国以来初めて外国の支配を受けたのである。オーストリアなどフランスに対する反革命勢力をけん制する役目をスイスに負わそうというナポレオンの意図とみられている。
しかし建国以来直接民主制をとっているスイスの国情に合わず、反乱なども起き政情は不安定であった。
ナポレオンは効果なしとみて1803年ヘルヴェティア共和国を廃止して元の連邦制に戻した。僅か4年の共和国だった。 -
政治的なシーソーゲームをするナポレオン。
ナポレオンを風刺したポスター。1802年。 -
1815年、ナポレオン失脚後のウイーン会議において新たに加入したジュネーヴなどを含め22の州が連邦国家として認められ、永世中立国として承認された。
中央、スイスのシンボル赤十字の周りを”スイス連邦共和国”の文字が取り囲み、その周りを各州の紋章、一番外側を各州の代表者が囲んでいる。 -
金融大国スイス。
地下の貸金庫。 -
銀行の地下に眠る金塊。
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最近のスイスをめぐるカリカチュアがありました。
幾つか拡大します。 -
OECDから飛び出してきた金持ち「今やっと誰がわしの本当の友人なのか分かったぞ!」。
そこにはリベリア、ケイマン、ガーンジー諸島の税金天国の国がニコニコ顔で控えています。 -
金持ち「わしは自分の国の税務署に申告したくないのだ」。
銀行「ご心配なく、お役にたてますよ」。 -
おめえ一体海に関係があるのかよ。
おいらはは島国なんだ。
スイスも少ないながら外国商船を持っています。イタリア辺りの港を基地にしているのでしょう。
スイス国立博物館はただ古い遺物を並べているのではなく工夫を凝らした展示方法で、もっと時間とドイツ語が解ればとても興味深い所です。 -
チューリヒ最後なので駅周辺を一歩きしました。
5時過ぎなのに日は高いです。 -
中央駅目に建つ像はアルフレッド・エッシャー。1819~1882年。
チューリヒ発展の功労者。クレディ・スイス銀行の設立、ゴッタルト鉄道の設立、チューリヒ連邦工科大学学長等々。
このエッシャーとヴァーグナーが住んでいたエッシャーハウスは関係があるのかどうかは分かりません。 -
バーンホフ通りを少し行くと右手にペスタロッチ公園。
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ペスタロッチ像。
ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ:1746~1827年。
スイスの教育者。現代幼児、小学教育の基礎を作った教育実践家。
チューリヒに生まれチューリヒ大学に学んでる。 -
バーンホフ通り。
駅前からチューリヒ湖まで続いています。 -
マノール。スイス中に展開するデパート。
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マノールの筋向いの天文台。
バーンホフ通りとウラニア通りの交差点です。 -
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チューリヒ市庁舎。
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ごみの分別回収は徹底しています。
ビンも緑、茶色、白等色別に回収します。 -
ここにもくだらない流行。
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駅周辺にもこんな所が。
チューリヒは観光地としてはあまり評価が高くありませんが、リマト川とチューリヒ湖の美しい景観、充実した美術館、博物館があり、私には楽しい町でした。
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