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金森長近により築城が始められましたが、数年間を要し、完成したのは天正8年頃(1580年頃)とされます。天守は、亀山の山頂にある天守曲輪に建てられました。(ウィキペディア)

2016春、福井県の名城(12/15):越前大野城(2):土井忠利公像、本丸からの眺望、大天守

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2016/05/18 - 2016/05/18

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旅人のくまさん

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金森長近により築城が始められましたが、数年間を要し、完成したのは天正8年頃(1580年頃)とされます。天守は、亀山の山頂にある天守曲輪に建てられました。(ウィキペディア)

交通手段
観光バス
  • 織田信長の家臣・金森長近により天正3年(1575年)に築城された大野城には、青木秀以、長谷川秀一、信長の次男の織田信雄が入りました。信雄(のぶかつ)は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため戦後に改易され、関ヶ原後の大野城は家康の子の結城秀康の支配下に入りました。秀康の三男・松平直政が大野に5万石で入ったことで、大野藩が立藩しました。親藩の越前松平氏による統治が四代続き、その後、譜代の土井家による統治が八代続き、明治維新を迎えました。銅像の土井忠利公は、その七代目になります。立派な石垣の上に建ったこの銅像は、南と西の登り口の合流地点の休憩所近くにありました。

    織田信長の家臣・金森長近により天正3年(1575年)に築城された大野城には、青木秀以、長谷川秀一、信長の次男の織田信雄が入りました。信雄(のぶかつ)は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため戦後に改易され、関ヶ原後の大野城は家康の子の結城秀康の支配下に入りました。秀康の三男・松平直政が大野に5万石で入ったことで、大野藩が立藩しました。親藩の越前松平氏による統治が四代続き、その後、譜代の土井家による統治が八代続き、明治維新を迎えました。銅像の土井忠利公は、その七代目になります。立派な石垣の上に建ったこの銅像は、南と西の登り口の合流地点の休憩所近くにありました。

  • 聡明そうな面立ちの土井忠利公の像のズームアップ光景です。文化8年(1811年)に生まれ、明治元年(1869年)に亡くなりました。官位官職は従五位下、能登守でしたが、没後に従三位を贈られました。

    イチオシ

    聡明そうな面立ちの土井忠利公の像のズームアップ光景です。文化8年(1811年)に生まれ、明治元年(1869年)に亡くなりました。官位官職は従五位下、能登守でしたが、没後に従三位を贈られました。

  • 晴れ渡った青空と、新緑の光景です。紅葉のように見えるのは、ノムラモミジ(野村紅葉)の新緑のようです。カエデ科カエデ属の植物で、ノムラカエデとも呼ばれます。

    晴れ渡った青空と、新緑の光景です。紅葉のように見えるのは、ノムラモミジ(野村紅葉)の新緑のようです。カエデ科カエデ属の植物で、ノムラカエデとも呼ばれます。

  • 亀山公園として整備された越前大野城址と、その周りの施設が記された平面図です。東側の百間坂のほか、北、西、と南の登り口が記されていました。登って来たのは『南の登り口』でした。その入口門が、この図に『城門』と記されていました。現在位置は、南と西の登り口の合流地点の休憩所に記されていました。

    亀山公園として整備された越前大野城址と、その周りの施設が記された平面図です。東側の百間坂のほか、北、西、と南の登り口が記されていました。登って来たのは『南の登り口』でした。その入口門が、この図に『城門』と記されていました。現在位置は、南と西の登り口の合流地点の休憩所に記されていました。

  • 『天空の城・越前大野城』の文字と、その写真がプリントされた自販機の光景です。この場所に置くための特注品かも知れませんが、城下町にも置かれているかも知れません。『天空の城』をPRするため、地元では、『ラピュタの会』が活動しているようです。『天空の城ラピュタ』は、スタジオジブリ制作の長編アニメーション映画作品です。監督は宮崎駿さんが務めました。『ラピュタ』という名称は、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』に登場する、空を飛ぶ島にある『ラピュタ王国』からとったものです。ジョナサン・スウィフト(1667~1745年)は、イングランド系アイルランド人の諷刺作家、随筆家、政治パンフレット作者、詩人で司祭でした。1976年から発行されていたアイルランドの10ポンド紙幣に肖像が使用されていました。

    『天空の城・越前大野城』の文字と、その写真がプリントされた自販機の光景です。この場所に置くための特注品かも知れませんが、城下町にも置かれているかも知れません。『天空の城』をPRするため、地元では、『ラピュタの会』が活動しているようです。『天空の城ラピュタ』は、スタジオジブリ制作の長編アニメーション映画作品です。監督は宮崎駿さんが務めました。『ラピュタ』という名称は、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』に登場する、空を飛ぶ島にある『ラピュタ王国』からとったものです。ジョナサン・スウィフト(1667~1745年)は、イングランド系アイルランド人の諷刺作家、随筆家、政治パンフレット作者、詩人で司祭でした。1976年から発行されていたアイルランドの10ポンド紙幣に肖像が使用されていました。

  • 本丸に近い休憩所付近から眺めた大野市の市街光景です。かつての城下町になるようです。土井家が藩主だったのは、初代の土井利房の天和2年(1682年)から、幕末の利忠の子の利恒までの約180年間でした。

    本丸に近い休憩所付近から眺めた大野市の市街光景です。かつての城下町になるようです。土井家が藩主だったのは、初代の土井利房の天和2年(1682年)から、幕末の利忠の子の利恒までの約180年間でした。

  • 同じく、本丸に近い休憩所付近から眺めた大野市の市街光景です。 越前大野城は、明治5年(1872年)に入札により、商人など20人以上に払い下げられ、約290年の歴史に幕が下ろされました。

    イチオシ

    同じく、本丸に近い休憩所付近から眺めた大野市の市街光景です。 越前大野城は、明治5年(1872年)に入札により、商人など20人以上に払い下げられ、約290年の歴史に幕が下ろされました。

  • 道案内標識の光景です。左向きの矢印が『百間坂』、右向きの矢印が『南・西登り口』でした。百間坂以外は、明治木尾港に整備された登り口です。

    道案内標識の光景です。左向きの矢印が『百間坂』、右向きの矢印が『南・西登り口』でした。百間坂以外は、明治木尾港に整備された登り口です。

  • 標識の近くにあった、この険しい坂道が『百間坂』のようでした。険しい坂ですが、きちんと整備されているようでした。

    標識の近くにあった、この険しい坂道が『百間坂』のようでした。険しい坂ですが、きちんと整備されているようでした。

  • 越前大野城の天守台の石垣と、その横にあった石標の光景です。見落としてしまいそうな場所でした。

    越前大野城の天守台の石垣と、その横にあった石標の光景です。見落としてしまいそうな場所でした。

  • 行き過ぎたところで、バックして撮影した石標の光景です。『本丸城門あと』らしい文字が刻まれていました。

    行き過ぎたところで、バックして撮影した石標の光景です。『本丸城門あと』らしい文字が刻まれていました。

  • こちらは目立つ場所にあった、『越前大野城』の大きな石標の光景です。連郭・梯郭弊様式平山城とされる天守ですが、遺構としては、天守台、櫓台、石垣、と堀だけです。金森長近公が越前大野城を築城したのは、天正3年(1575)年以降のことです。亀山に本丸を置き、その東側に堀や二の丸などの曲輪を配置しました。しかし長近公が実際にどのような城を築いたのかは、その当時の記録が残っていないため不明とされます。<br />(追記) 2017年(平成29年)、続日本100名城の138番に選定されました。<br />

    こちらは目立つ場所にあった、『越前大野城』の大きな石標の光景です。連郭・梯郭弊様式平山城とされる天守ですが、遺構としては、天守台、櫓台、石垣、と堀だけです。金森長近公が越前大野城を築城したのは、天正3年(1575)年以降のことです。亀山に本丸を置き、その東側に堀や二の丸などの曲輪を配置しました。しかし長近公が実際にどのような城を築いたのかは、その当時の記録が残っていないため不明とされます。
    (追記) 2017年(平成29年)、続日本100名城の138番に選定されました。

  • 野面積の城壁の光景です。長近公が大野に入った天正3年(1575年当時、大野には15ほどの山城があったとされます。大野城を造る前に最初に入った山城が、戌山(いぬやま)城と言われています。

    野面積の城壁の光景です。長近公が大野に入った天正3年(1575年当時、大野には15ほどの山城があったとされます。大野城を造る前に最初に入った山城が、戌山(いぬやま)城と言われています。

  • 同じく石垣のコーナー部分御光景です。角には大きな石が積まれていますが、算木積とは言えない形状でした。

    同じく石垣のコーナー部分御光景です。角には大きな石が積まれていますが、算木積とは言えない形状でした。

  • 前方に見えてきた、越前大野城の天守光景です。明治5年(1872年)に入札により、天守を始め破却されました。このため、大天守は戦後二再建された模擬天守です。天守の手前にある石垣が、元々は小天守があった場所です。

    前方に見えてきた、越前大野城の天守光景です。明治5年(1872年)に入札により、天守を始め破却されました。このため、大天守は戦後二再建された模擬天守です。天守の手前にある石垣が、元々は小天守があった場所です。

  • 同じ場所からズームアップした、2階2層の越前大野城の天守光景です。かつては、2層4階建ての大天守、2層2階の小天守があったようです。

    イチオシ

    同じ場所からズームアップした、2階2層の越前大野城の天守光景です。かつては、2層4階建ての大天守、2層2階の小天守があったようです。

  • 本丸から眺めた、かつての城下町の大野市の市街光景です。話を戻して、初代藩主の金森長近公の紹介です。長近公は、大永4年(1524年)に美濃で生まれたようです。幼名は五郎八可近です。金森の苗字は、近江国の野洲郡金ヶ森(現在の滋賀県守山市金森町)に一時住んだことから、その地名を使ったようです。

    本丸から眺めた、かつての城下町の大野市の市街光景です。話を戻して、初代藩主の金森長近公の紹介です。長近公は、大永4年(1524年)に美濃で生まれたようです。幼名は五郎八可近です。金森の苗字は、近江国の野洲郡金ヶ森(現在の滋賀県守山市金森町)に一時住んだことから、その地名を使ったようです。

  • 同じく、木の間から眺めたかつての大野城下町光景です。長近公は、天文10年(1541年)、18歳のときに尾張の織田家に仕え、当時8歳だった織田信長の身のまわりの雑用をしたと伝えられています。信長の『長』の一字をもらい『長近』と名乗ったのは、 弘治元年(1555年)、今川義元の軍との戦いでの手柄によるものとされます。

    同じく、木の間から眺めたかつての大野城下町光景です。長近公は、天文10年(1541年)、18歳のときに尾張の織田家に仕え、当時8歳だった織田信長の身のまわりの雑用をしたと伝えられています。信長の『長』の一字をもらい『長近』と名乗ったのは、 弘治元年(1555年)、今川義元の軍との戦いでの手柄によるものとされます。

  • 文字が消えかかって、うまく読み取れませんでしたが、強いて紹介すれば、『駕篭道』のようでした。その後、長近公は、朝倉氏を破った姉川の合戦、武田氏を破った長篠の合戦など、織田信長に従っていくつもの戦に加わりました。長近公が大野を治めた期間は、天正3年(1575年)から飛騨高山へ移る天正14年(1586年)までの約11年間でした。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の合戦では、柴田勝家側につき敗北しました。長近公は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた有能な武将でした。茶道に通じ、千利休などとも親交を結んだ文化人であり、文武両道に通じた武将でした。

    文字が消えかかって、うまく読み取れませんでしたが、強いて紹介すれば、『駕篭道』のようでした。その後、長近公は、朝倉氏を破った姉川の合戦、武田氏を破った長篠の合戦など、織田信長に従っていくつもの戦に加わりました。長近公が大野を治めた期間は、天正3年(1575年)から飛騨高山へ移る天正14年(1586年)までの約11年間でした。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の合戦では、柴田勝家側につき敗北しました。長近公は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた有能な武将でした。茶道に通じ、千利休などとも親交を結んだ文化人であり、文武両道に通じた武将でした。

  • 『越前大野城跡(福井県指定文化財)』のタイトルがあった説明パネルです。左下に示された絵図面は、寛永2年(1749年)のものです。安永4年(1745年)の大火で焼失する前の2層3階の望楼付きの本丸などです。

    『越前大野城跡(福井県指定文化財)』のタイトルがあった説明パネルです。左下に示された絵図面は、寛永2年(1749年)のものです。安永4年(1745年)の大火で焼失する前の2層3階の望楼付きの本丸などです。

  • 『亀山頂上・249メートル』の文字が中央に記されたブロンズ標識です。東西南北の方角も記されていました。1983年に地元のライオンズクラブが25周年記念に寄贈した標識でした、

    『亀山頂上・249メートル』の文字が中央に記されたブロンズ標識です。東西南北の方角も記されていました。1983年に地元のライオンズクラブが25周年記念に寄贈した標識でした、

  • 城下町の案内パネルです。左手の近代の城下町のシンボル、『時の鐘』の姿が見えています。棹の右の建物が、結(ゆい)ステーション・結楽座でした。

    城下町の案内パネルです。左手の近代の城下町のシンボル、『時の鐘』の姿が見えています。棹の右の建物が、結(ゆい)ステーション・結楽座でした。

  • 天守台址から眺めた、眼下の城跡光景です。山頂の石垣および堀が現存し、山麓部にも内堀および外堀の一部が残ります。建造物としては、不明門が市内中丁真乗寺山門として、櫓門だった鳩門の門部分が光明寺山門として、それぞれ移築され現存します。

    天守台址から眺めた、眼下の城跡光景です。山頂の石垣および堀が現存し、山麓部にも内堀および外堀の一部が残ります。建造物としては、不明門が市内中丁真乗寺山門として、櫓門だった鳩門の門部分が光明寺山門として、それぞれ移築され現存します。

  • 越前大野城から見える雪山のズームアップ光景です。白山連峰のようでしたが、別の連峰か、独立峰kaも知れません。

    越前大野城から見える雪山のズームアップ光景です。白山連峰のようでしたが、別の連峰か、独立峰kaも知れません。

  • 冬の間は閉館している雪深い越前大野城です。その本丸付近の新緑光景です。

    冬の間は閉館している雪深い越前大野城です。その本丸付近の新緑光景です。

  • 『越前大野城』の大きな表札が懸かった、本丸の入口光景です。正式名称は単に『大野城』ですが、他の大野城(筑前の古代大野城等)と区別するため、『越前大野城』と呼ばれています。

    『越前大野城』の大きな表札が懸かった、本丸の入口光景です。正式名称は単に『大野城』ですが、他の大野城(筑前の古代大野城等)と区別するため、『越前大野城』と呼ばれています。

  • 越前大野城の本丸近くにある『天狗櫓』の位置にある二層の小天守の建物光景です。小天守は、元々は別の場所に建っていました。創建当時の越前大野城は、本丸に望楼付き2層3階の大天守、2層2階の小天守と天狗櫓などを置き、麓に二の丸、三の丸があり、二重の堀と川を繋いで城を守っていました。『梯郭式(ていかくしき)』と呼ばれる構造でした。

    越前大野城の本丸近くにある『天狗櫓』の位置にある二層の小天守の建物光景です。小天守は、元々は別の場所に建っていました。創建当時の越前大野城は、本丸に望楼付き2層3階の大天守、2層2階の小天守と天狗櫓などを置き、麓に二の丸、三の丸があり、二重の堀と川を繋いで城を守っていました。『梯郭式(ていかくしき)』と呼ばれる構造でした。

  • 『天狗櫓』の文字が刻まれた石標の光景です。大天守と同レベルの高さにある『天狗櫓』は、古い縄張り図には、『天狗の間』とも記されているようでした。

    『天狗櫓』の文字が刻まれた石標の光景です。大天守と同レベルの高さにある『天狗櫓』は、古い縄張り図には、『天狗の間』とも記されているようでした。

  • 本丸の入口付近から見上げた大天守の光景です。1階部分は黒い下見板張の壁、その上に白い漆喰で塗り固められた軒下が見えました。中央付近に千鳥破風の光景もありました。

    本丸の入口付近から見上げた大天守の光景です。1階部分は黒い下見板張の壁、その上に白い漆喰で塗り固められた軒下が見えました。中央付近に千鳥破風の光景もありました。

  • 改めて、もう一度紹介する越前大野城の正面入口光景です。織田信長が天正3年(1575年)、金森長近に大野城の築城を命じ、天正8年(1580年)に完成したとされます。廃城になったのは、廃藩後の明治時代です。

    改めて、もう一度紹介する越前大野城の正面入口光景です。織田信長が天正3年(1575年)、金森長近に大野城の築城を命じ、天正8年(1580年)に完成したとされます。廃城になったのは、廃藩後の明治時代です。

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