総社・吉備路旅行記(ブログ) 一覧に戻る
吉備国は、岡山県全域と広島県東部、香川県島嶼部および兵庫県西部に跨る広大な領地に少なくとも75以上の部族がまとまり、統治されていたと考えられています。吉備国の中心は現在の総社市周辺であり、この付近には大小2万を超える古墳が存在しています。渡来人から学んだ水運や海運、造船技術を磨いた吉備の豪族は、4世紀には吉備水軍と呼ばれ、海上を支配して吉備を繁栄させました。また、渡来人や大陸との交流でもたらされた製鉄、製塩技術を持ち、実り豊かな自然と温暖な気候に恵まれ農業も盛んでした。奈良の箸墓(あしはか)、纏向(まきむく)古墳からは吉備起源の埴輪や装飾土器、装飾器台が多数発掘され、吉備国の経済力はヤマト王権に拮抗し得る経済・文化圏をなしていたと考えられています。<br />5世紀、ヤマト王権は武力や権力を強固にし、その支配は九州から東国にまで及びました。地方豪族を支配し、畿内の豪族が政治の実権を握るようになり、吉備一族とも度々争いました。吉備国も継体天皇の時代に反乱を起こして失敗していますが、その後ヤマト政権との衝突は影をひそめます。<br />7世紀、天武天皇の時代にヤマト王権は吉備勢力の切り崩しを図り、律令国として備前、備中、備後、美作に分け、吉備4国を支配下に置きました。<br />連綿と後世まで続く吉備文化は多彩な人材を世に輩出し、風土と併せて歴史書、文学作品など多数の文字記録に登場します。奈良時代には有能な学者であり右大臣まで昇進した吉備真備、平安時代には清少納言や後白河法皇の編纂『梁塵秘抄』でもその美しさを褒め称えられ、歌枕にもなった吉備の中山等々。瀬戸内海は源平争乱の平家物語の舞台にもなり、浄土宗の開祖 法然や臨済宗の栄西もこの地に生誕しました。また室町時代中期に活躍した日本水墨画の巨匠 雪舟もこの地で誕生し、画聖となるまでの秘話も多数残されています。<br />古代ロマンという想像力を刺激するドラマチックな伝説や神話の舞台に立ち、時間旅行という名の妄想に浸ることのできた旅でした。<br /><br />吉備路自転車道マップです。<br />http://www.kibiji.ne.jp/scci/kibiroad/html/map/index.htm

青嵐薫風 吉備路逍遥⑤古墳群・備中国分寺

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2016/05/01 - 2016/05/01

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

吉備国は、岡山県全域と広島県東部、香川県島嶼部および兵庫県西部に跨る広大な領地に少なくとも75以上の部族がまとまり、統治されていたと考えられています。吉備国の中心は現在の総社市周辺であり、この付近には大小2万を超える古墳が存在しています。渡来人から学んだ水運や海運、造船技術を磨いた吉備の豪族は、4世紀には吉備水軍と呼ばれ、海上を支配して吉備を繁栄させました。また、渡来人や大陸との交流でもたらされた製鉄、製塩技術を持ち、実り豊かな自然と温暖な気候に恵まれ農業も盛んでした。奈良の箸墓(あしはか)、纏向(まきむく)古墳からは吉備起源の埴輪や装飾土器、装飾器台が多数発掘され、吉備国の経済力はヤマト王権に拮抗し得る経済・文化圏をなしていたと考えられています。
5世紀、ヤマト王権は武力や権力を強固にし、その支配は九州から東国にまで及びました。地方豪族を支配し、畿内の豪族が政治の実権を握るようになり、吉備一族とも度々争いました。吉備国も継体天皇の時代に反乱を起こして失敗していますが、その後ヤマト政権との衝突は影をひそめます。
7世紀、天武天皇の時代にヤマト王権は吉備勢力の切り崩しを図り、律令国として備前、備中、備後、美作に分け、吉備4国を支配下に置きました。
連綿と後世まで続く吉備文化は多彩な人材を世に輩出し、風土と併せて歴史書、文学作品など多数の文字記録に登場します。奈良時代には有能な学者であり右大臣まで昇進した吉備真備、平安時代には清少納言や後白河法皇の編纂『梁塵秘抄』でもその美しさを褒め称えられ、歌枕にもなった吉備の中山等々。瀬戸内海は源平争乱の平家物語の舞台にもなり、浄土宗の開祖 法然や臨済宗の栄西もこの地に生誕しました。また室町時代中期に活躍した日本水墨画の巨匠 雪舟もこの地で誕生し、画聖となるまでの秘話も多数残されています。
古代ロマンという想像力を刺激するドラマチックな伝説や神話の舞台に立ち、時間旅行という名の妄想に浸ることのできた旅でした。

吉備路自転車道マップです。
http://www.kibiji.ne.jp/scci/kibiroad/html/map/index.htm

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
  • 楯築遺跡<br />村落の脇にある細い道を直登すると、今はなき楯築神社の鳥居が見えてきます。その鳥居を潜り、鬱蒼とした森を抜けた所に忽然と楯築遺跡が現れます。<br />楯築遺跡は、倉敷市矢部西山の片岡山と呼ばれる小高い丘の上にある弥生時代後期(1世紀半〜3世紀半)に造営された全国最大の巨大墳丘墓です。墳頂にあるストーンサークルは、磐座と言うよりも人為的に作られた祭祀場あるいは会議場の姿を彷彿とさせるものです。<br />この遺跡は、岡山大学の考古学グループにより、1976年からの10年間で6回の発掘調査が行われました。総数60基にも及ぶ古墳群からなる楯築遺跡の核心地とも言え、真上から俯瞰するとリボン状の形をした双方中円墳と呼ばれる墳墓です。墳丘墓の規模は、全長72m、直径約50mの円丘部の高さは4〜5mあり、そこに2つの方形突出部が北東と南西にあったそうです。このスケールは弥生時代後期の最有力者が吉備国にいたことの証と言え、前方後円墳のルーツもこの楯築遺跡だと言われています。<br />楯築遺跡は、吉備津彦の温羅退治伝承の舞台のひとつでもあり、吉備津彦が温羅の矢を防ぐための「楯」としたことからこの名が付けられています。

    楯築遺跡
    村落の脇にある細い道を直登すると、今はなき楯築神社の鳥居が見えてきます。その鳥居を潜り、鬱蒼とした森を抜けた所に忽然と楯築遺跡が現れます。
    楯築遺跡は、倉敷市矢部西山の片岡山と呼ばれる小高い丘の上にある弥生時代後期(1世紀半〜3世紀半)に造営された全国最大の巨大墳丘墓です。墳頂にあるストーンサークルは、磐座と言うよりも人為的に作られた祭祀場あるいは会議場の姿を彷彿とさせるものです。
    この遺跡は、岡山大学の考古学グループにより、1976年からの10年間で6回の発掘調査が行われました。総数60基にも及ぶ古墳群からなる楯築遺跡の核心地とも言え、真上から俯瞰するとリボン状の形をした双方中円墳と呼ばれる墳墓です。墳丘墓の規模は、全長72m、直径約50mの円丘部の高さは4〜5mあり、そこに2つの方形突出部が北東と南西にあったそうです。このスケールは弥生時代後期の最有力者が吉備国にいたことの証と言え、前方後円墳のルーツもこの楯築遺跡だと言われています。
    楯築遺跡は、吉備津彦の温羅退治伝承の舞台のひとつでもあり、吉備津彦が温羅の矢を防ぐための「楯」としたことからこの名が付けられています。

  • 楯築遺跡<br />石段を登り切ると円丘状の墳頂に出ます。<br />正面やや右に立派な石組みの祠があります。ここにかつて「楯築神社」が建てられていました。<br />この石祠を囲むように立石と大きな石が環状に配されていますが、これといった規則性は見られません。

    楯築遺跡
    石段を登り切ると円丘状の墳頂に出ます。
    正面やや右に立派な石組みの祠があります。ここにかつて「楯築神社」が建てられていました。
    この石祠を囲むように立石と大きな石が環状に配されていますが、これといった規則性は見られません。

  • 楯築遺跡<br />墳頂には5個の巨石が整然と置かれています。板状のもの2個、棒状のもの2個、ベンチ状のもの1個(立石が倒れたものか?)。このような巨石を配した遺跡は弥生時代には類例がなく、巨石については諸説ありますが、平たくて楯のような形をしているため、吉備津彦が温羅と戦った時にここに陣を構え、矢を防ぐために築いた石の楯であるとされています。しかし、そんなお伽話で茶化すようなものではありません。このストーンサークルは、古代の祭祀場だったのではないかと思いました。

    楯築遺跡
    墳頂には5個の巨石が整然と置かれています。板状のもの2個、棒状のもの2個、ベンチ状のもの1個(立石が倒れたものか?)。このような巨石を配した遺跡は弥生時代には類例がなく、巨石については諸説ありますが、平たくて楯のような形をしているため、吉備津彦が温羅と戦った時にここに陣を構え、矢を防ぐために築いた石の楯であるとされています。しかし、そんなお伽話で茶化すようなものではありません。このストーンサークルは、古代の祭祀場だったのではないかと思いました。

  • 楯築遺跡<br />発掘調査により、円丘の頂上中央には竪穴があり、そこに木郭・木棺が納められており、棺床には桁外れの32kgもの中国産とされる朱の顔料(硫化水銀)が敷かれ、ヒスイの勾玉や鉄剣、ガラス製小玉や管玉などが副葬されていたそうです。しかし、遺体はなく、歯のかけらだけが残されていたそうです。<br />水銀朱は不老長寿の薬や呪術用途として用いられ、卑弥呼が好んだと伝えられますが、これほど大量の水銀朱を集めることができた人物は、往時の日本で最強クラスの権力者であったと窺えます。「魏王から卑弥呼に与えられた銅鏡100枚と真珠(水銀朱)50斤」のその朱であると論じる学者もおられます。<br />木郭の上には小石が敷き詰められ、その厚さは1mにも及んだそうです。小石に混じって、1/8サイズのミニ亀石や特殊器台、高坏、人形土製品などの壊れたものが発見されています。これらは祭祀を行なう際に故意に壊して埋められたものの痕跡で、「破砕祭祀」と呼ばれるものだそうです。纒向遺跡などの3世紀後期の古墳でも同様のものが確認されています。<br />また、並べられた石は頂上部だけでなく、円丘部や突出部も2重の列石に囲まれていたそうです。いずれも、大きな石の間に少し小さい石が並べられていたそうです。

    楯築遺跡
    発掘調査により、円丘の頂上中央には竪穴があり、そこに木郭・木棺が納められており、棺床には桁外れの32kgもの中国産とされる朱の顔料(硫化水銀)が敷かれ、ヒスイの勾玉や鉄剣、ガラス製小玉や管玉などが副葬されていたそうです。しかし、遺体はなく、歯のかけらだけが残されていたそうです。
    水銀朱は不老長寿の薬や呪術用途として用いられ、卑弥呼が好んだと伝えられますが、これほど大量の水銀朱を集めることができた人物は、往時の日本で最強クラスの権力者であったと窺えます。「魏王から卑弥呼に与えられた銅鏡100枚と真珠(水銀朱)50斤」のその朱であると論じる学者もおられます。
    木郭の上には小石が敷き詰められ、その厚さは1mにも及んだそうです。小石に混じって、1/8サイズのミニ亀石や特殊器台、高坏、人形土製品などの壊れたものが発見されています。これらは祭祀を行なう際に故意に壊して埋められたものの痕跡で、「破砕祭祀」と呼ばれるものだそうです。纒向遺跡などの3世紀後期の古墳でも同様のものが確認されています。
    また、並べられた石は頂上部だけでなく、円丘部や突出部も2重の列石に囲まれていたそうです。いずれも、大きな石の間に少し小さい石が並べられていたそうです。

  • 楯築遺跡<br />立石と扁平の石を使って石祠が組まれています。石祠は墳丘築造当初からある物ではなく、後世にこの墳丘の葺石の石板を抜き取って組まれたものです。<br />楯築神社は1909(明治42)年に鯉喰神社に合祀され、その時に社殿は解体されました。ご神体の亀石も一時鯉喰神社に移されましたが、故あって1916(大正5)年に戻ることになり、納める場所に窮した村人は、社域中央よりやや北にこの石祠を造り、そこに納めたそうです。<br />地元の伝承では、楯築神社は吉備津彦と共に従軍して功を立てた片岡健(かたおかのたける=犬養健)を祀っていたとされています。吉備津彦神社の3つの末社のうちの十柱神社にも祭神として祀られている人物です。<br />何故、片岡健と犬飼健の名を使い分けているのかは、謎の部分です。犬飼建は楯築遺跡の麓「日畑」の住人と伝わっているため、吉備津彦が3人の家来を引き連れて来たという伝承に反するからでしょうか?

    楯築遺跡
    立石と扁平の石を使って石祠が組まれています。石祠は墳丘築造当初からある物ではなく、後世にこの墳丘の葺石の石板を抜き取って組まれたものです。
    楯築神社は1909(明治42)年に鯉喰神社に合祀され、その時に社殿は解体されました。ご神体の亀石も一時鯉喰神社に移されましたが、故あって1916(大正5)年に戻ることになり、納める場所に窮した村人は、社域中央よりやや北にこの石祠を造り、そこに納めたそうです。
    地元の伝承では、楯築神社は吉備津彦と共に従軍して功を立てた片岡健(かたおかのたける=犬養健)を祀っていたとされています。吉備津彦神社の3つの末社のうちの十柱神社にも祭神として祀られている人物です。
    何故、片岡健と犬飼健の名を使い分けているのかは、謎の部分です。犬飼建は楯築遺跡の麓「日畑」の住人と伝わっているため、吉備津彦が3人の家来を引き連れて来たという伝承に反するからでしょうか?

  • 楯築遺跡<br />お椀が割れて底部だけ残った様な形の石です。<br />この丘の南端には別の環状列石があり、それと楯築墳丘墓との間には「王墓山古墳群」があります。それ故に、この丘陵全体が吉備の中でも特別な祭祀を司る聖地だったと言われています。<br />こうしたことから、必然的に「邪馬台国吉備説」が登場したのです。同時に、吉備の特殊器台が奈良の唐古・鍵遺跡や纒向遺跡などから沢山出土していることからも、ヤマト王権は吉備国が東遷したものだという説も浮上しています。発掘調査によって少しずつ『記紀』に抹殺された古代日本の姿が見えてきたような気がします。<br />余談ですが、考古学では、3世紀後半〜7世紀前半に築造されたものを「古墳」、それ以前に造られた墳丘を持つ墓は「墳丘墓」と分類しています。墳丘墓は造成されたというよりも自然の地形を活かして造られたものです。

    楯築遺跡
    お椀が割れて底部だけ残った様な形の石です。
    この丘の南端には別の環状列石があり、それと楯築墳丘墓との間には「王墓山古墳群」があります。それ故に、この丘陵全体が吉備の中でも特別な祭祀を司る聖地だったと言われています。
    こうしたことから、必然的に「邪馬台国吉備説」が登場したのです。同時に、吉備の特殊器台が奈良の唐古・鍵遺跡や纒向遺跡などから沢山出土していることからも、ヤマト王権は吉備国が東遷したものだという説も浮上しています。発掘調査によって少しずつ『記紀』に抹殺された古代日本の姿が見えてきたような気がします。
    余談ですが、考古学では、3世紀後半〜7世紀前半に築造されたものを「古墳」、それ以前に造られた墳丘を持つ墓は「墳丘墓」と分類しています。墳丘墓は造成されたというよりも自然の地形を活かして造られたものです。

  • 楯築遺跡<br />近代造園界の鬼才 重森三玲氏が1974(昭和49)年に出版した『日本庭園歴覧辞典』に楯築遺跡の写真と説明文が載せられています。説明の最後には、「このような石組は庭園ではまったくないが、後世の庭園石組に対する源流となるものであって庭園源流考の意味で、これを本書に加えた次第であるが、日本民俗は、上代においてこのような石を組むことを発見し、石を神格化することを自識したことは大変なことである。そうした意識は日本民族の血の中に流れてきたから、今日の庭園石組の中にも、神のことを完全に忘れながらも、何か民族意識のなかに秘蔵される特殊なものがあることを注意すべきである」と記されています。<br />三玲氏もこの楯築遺跡のストーンサークルから上古のインスピレーションをもらったことでしょう。この付近で生まれ育ち、この磐座をいつも見ていた三玲氏の作品には、この磐座立石のエッセンスが濃縮されています。

    楯築遺跡
    近代造園界の鬼才 重森三玲氏が1974(昭和49)年に出版した『日本庭園歴覧辞典』に楯築遺跡の写真と説明文が載せられています。説明の最後には、「このような石組は庭園ではまったくないが、後世の庭園石組に対する源流となるものであって庭園源流考の意味で、これを本書に加えた次第であるが、日本民俗は、上代においてこのような石を組むことを発見し、石を神格化することを自識したことは大変なことである。そうした意識は日本民族の血の中に流れてきたから、今日の庭園石組の中にも、神のことを完全に忘れながらも、何か民族意識のなかに秘蔵される特殊なものがあることを注意すべきである」と記されています。
    三玲氏もこの楯築遺跡のストーンサークルから上古のインスピレーションをもらったことでしょう。この付近で生まれ育ち、この磐座をいつも見ていた三玲氏の作品には、この磐座立石のエッセンスが濃縮されています。

  • 楯築遺跡<br />楯築遺跡にあった不思議な紋様をした亀石は、元々は2個あったそうです。ひとつは楯築神社に祀られ、もうひとつは遺跡の木棺の上に100個以上の破片に砕かれて置かれていたそうです。神社のご神体の方の亀石は、今はこのコンクリート造の社殿風倉庫に厳重に保管されています。<br />左右に申し訳程度に設けられた小さな覗き窓からは、亀石を拝むことができます。亀石と呼ばれることが多いのですが、全体の形は亀には似ておらず、亀の形ではなく、石の表面に刻まれた模様が亀の甲羅の模様に似ているのがその由来のようです。江戸時代の縁起には、「白頂馬龍神石(はくちょうばりゅうじんせき)」とあります。<br />因みに、この亀石のレプリカが、東京国立博物館考古展示室に展示されています。

    楯築遺跡
    楯築遺跡にあった不思議な紋様をした亀石は、元々は2個あったそうです。ひとつは楯築神社に祀られ、もうひとつは遺跡の木棺の上に100個以上の破片に砕かれて置かれていたそうです。神社のご神体の方の亀石は、今はこのコンクリート造の社殿風倉庫に厳重に保管されています。
    左右に申し訳程度に設けられた小さな覗き窓からは、亀石を拝むことができます。亀石と呼ばれることが多いのですが、全体の形は亀には似ておらず、亀の形ではなく、石の表面に刻まれた模様が亀の甲羅の模様に似ているのがその由来のようです。江戸時代の縁起には、「白頂馬龍神石(はくちょうばりゅうじんせき)」とあります。
    因みに、この亀石のレプリカが、東京国立博物館考古展示室に展示されています。

  • 楯築遺跡 亀石(重文)<br />亀石は、350kgの石灰岩系の紅柱石質蝋石の表面全体に奇怪な紋様が線彫りされています。一定の幅を持つ帯状のものが石をグルグル巻にしているように見えることから、この紋様は「弧帯文(こたいもん)」と呼ばれ、弥生時代後期に吉備地方で作られたとされる特殊器台の装飾とも似ています。その独特の形状から、考古学上は「施帯文石(せんたいもんせき)」と呼び、重文に指定されています。この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通すると言われています。半肉彫りの部分もあり、ダイナミックな紋様です。<br />しかもこの亀石は、覗き窓からは両壁面しか観察することができませんが、正面の卵形の凸部には人面が刻まれ、浅い線彫りで眼や鼻、口が描かれているそうです。表面に刻まれた紋様や人面がどんな意味を持つのか定説はありませんが、弥生時代の人々が亀石を神聖なものと崇めてきたことだけは間違いありません。見るものの想像力を掻き立てる不思議なパワーストーンです。

    楯築遺跡 亀石(重文)
    亀石は、350kgの石灰岩系の紅柱石質蝋石の表面全体に奇怪な紋様が線彫りされています。一定の幅を持つ帯状のものが石をグルグル巻にしているように見えることから、この紋様は「弧帯文(こたいもん)」と呼ばれ、弥生時代後期に吉備地方で作られたとされる特殊器台の装飾とも似ています。その独特の形状から、考古学上は「施帯文石(せんたいもんせき)」と呼び、重文に指定されています。この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通すると言われています。半肉彫りの部分もあり、ダイナミックな紋様です。
    しかもこの亀石は、覗き窓からは両壁面しか観察することができませんが、正面の卵形の凸部には人面が刻まれ、浅い線彫りで眼や鼻、口が描かれているそうです。表面に刻まれた紋様や人面がどんな意味を持つのか定説はありませんが、弥生時代の人々が亀石を神聖なものと崇めてきたことだけは間違いありません。見るものの想像力を掻き立てる不思議なパワーストーンです。

  • 楯築遺跡 亀石<br />考古学者 薬師寺慎一氏は、楯築遺跡で行われていたであろう祭祀に着眼し、魏志倭人伝に登場する卑弥呼が行ったとされる祭祀がここ吉備の地、楯築を中心とする地域で行われていたと推論しています。その最たるものがこの亀石で、道教で重んじる四神のひとつである玄武と見做し、「卑弥呼の鬼道」の影響を説かれています。また楯築遺跡周辺の田圃からは竜神が発見されており、これは5行になぞらえれば水の神となり、鬼道を操る卑弥呼の墓のイメージを裏付けています。<br />また春成秀爾氏によると、箸墓古墳が卑弥呼の墓とすれば、楯築墳丘墓は卑弥呼の父あるいは母の墓だったとの説を唱えています。<br />つまり、いずれにしても卑弥呼がこの地で暮らしていたことになります。卑弥呼まで吉備由来だとすれば、これこそ古代ロマンの醍醐味と言えます。

    楯築遺跡 亀石
    考古学者 薬師寺慎一氏は、楯築遺跡で行われていたであろう祭祀に着眼し、魏志倭人伝に登場する卑弥呼が行ったとされる祭祀がここ吉備の地、楯築を中心とする地域で行われていたと推論しています。その最たるものがこの亀石で、道教で重んじる四神のひとつである玄武と見做し、「卑弥呼の鬼道」の影響を説かれています。また楯築遺跡周辺の田圃からは竜神が発見されており、これは5行になぞらえれば水の神となり、鬼道を操る卑弥呼の墓のイメージを裏付けています。
    また春成秀爾氏によると、箸墓古墳が卑弥呼の墓とすれば、楯築墳丘墓は卑弥呼の父あるいは母の墓だったとの説を唱えています。
    つまり、いずれにしても卑弥呼がこの地で暮らしていたことになります。卑弥呼まで吉備由来だとすれば、これこそ古代ロマンの醍醐味と言えます。

  • 鯉喰(こいくい)神社<br />楯築遺跡から自転車で5分強の距離にあるのが、吉備津彦と温羅の戦いの手に汗握る伝説の舞台のひとつの鯉喰神社です。旧山陽道に沿う小高い丘(古墳)の上に佇む古社です。<br />吉備津彦の射た矢に左目を射抜かれた鬼城の温羅は、雉から更に鯉に変身し、自らの血で赤く染まった血吸川を逃げ下りました。吉備津彦は鷹から鵜に変身して追跡し、そしてこの地で鯉(温羅)は鵜(吉備津彦)に捕らえられました。

    鯉喰(こいくい)神社
    楯築遺跡から自転車で5分強の距離にあるのが、吉備津彦と温羅の戦いの手に汗握る伝説の舞台のひとつの鯉喰神社です。旧山陽道に沿う小高い丘(古墳)の上に佇む古社です。
    吉備津彦の射た矢に左目を射抜かれた鬼城の温羅は、雉から更に鯉に変身し、自らの血で赤く染まった血吸川を逃げ下りました。吉備津彦は鷹から鵜に変身して追跡し、そしてこの地で鯉(温羅)は鵜(吉備津彦)に捕らえられました。

  • 鯉喰神社 狛犬<br />昨年の暮れのニュースにもなった、備前焼狛犬の盗難事件の現場でもあります。<br />2015年12月に片方の狛犬が盗まれ、近隣住民が狛犬がないことに気付いて事件が発覚したそうです。この狛犬は、1901(明治34)年に建立された歴史ある狛ものです。石像に比べて重量が軽いため、この付近を中心に同様の事件が散発しているようです。盗品と判っていながら欲しがる罰当たりコレクターの気がしれません。

    鯉喰神社 狛犬
    昨年の暮れのニュースにもなった、備前焼狛犬の盗難事件の現場でもあります。
    2015年12月に片方の狛犬が盗まれ、近隣住民が狛犬がないことに気付いて事件が発覚したそうです。この狛犬は、1901(明治34)年に建立された歴史ある狛ものです。石像に比べて重量が軽いため、この付近を中心に同様の事件が散発しているようです。盗品と判っていながら欲しがる罰当たりコレクターの気がしれません。

  • 鯉喰神社 狛犬<br />どことなく寂しそうな表情を漂わせた吽形の狛犬は、体の一部が割られています。<br />どうやら盗賊を見ているのはこの狛犬だけのようです。<br />精悍な顔つきをしていることから名工の作と思われますが、残念ながら作者名の刻はありません。やや社殿の方を向いているのが、意図的なのかどうか気にかかるところです。

    鯉喰神社 狛犬
    どことなく寂しそうな表情を漂わせた吽形の狛犬は、体の一部が割られています。
    どうやら盗賊を見ているのはこの狛犬だけのようです。
    精悍な顔つきをしていることから名工の作と思われますが、残念ながら作者名の刻はありません。やや社殿の方を向いているのが、意図的なのかどうか気にかかるところです。

  • 鯉喰神社 随身門と廻廊<br />鯉喰神社の建つ丘全体は、弥生時代の墳丘墓です。今から10年ほど前、墳丘から楯築墳丘墓の「亀石」にそっくりな紋様の「弧帯文石」の破片が発見されたため、それまでの単なる丘が一躍、弥生墳丘墓としてクローズアップされました。<br />鯉喰神社の墳丘墓が築かれた時代は、楯築墳丘墓のすぐ後、弥生時代の最期です。楯築遺跡に眠る主に続く、吉備の大首長の墓と見做されています。そして、温羅の終焉の地を卑弥呼の王墓として「邪馬台国吉備説」を唱える研究家もおり、古代ロマンが果てしなく広がります。<br />拝殿に手を合わせていると、風の音に混じって温羅や卑弥呼のささやく声が聞こえてきそうな気がします。

    鯉喰神社 随身門と廻廊
    鯉喰神社の建つ丘全体は、弥生時代の墳丘墓です。今から10年ほど前、墳丘から楯築墳丘墓の「亀石」にそっくりな紋様の「弧帯文石」の破片が発見されたため、それまでの単なる丘が一躍、弥生墳丘墓としてクローズアップされました。
    鯉喰神社の墳丘墓が築かれた時代は、楯築墳丘墓のすぐ後、弥生時代の最期です。楯築遺跡に眠る主に続く、吉備の大首長の墓と見做されています。そして、温羅の終焉の地を卑弥呼の王墓として「邪馬台国吉備説」を唱える研究家もおり、古代ロマンが果てしなく広がります。
    拝殿に手を合わせていると、風の音に混じって温羅や卑弥呼のささやく声が聞こえてきそうな気がします。

  • 鯉喰神社 <br />社殿は、1842(天保13)年に造営され現在に至ります。その後、1916(大正5)年に楯築遺跡にあった楯築神社を合祀し、同年に神饌幣帛供進神社に指定されています。<br />祭神は、温羅を退治する際、楯築遺跡の西方から駆けつけた武勇の父子 夜目山主命と夜目麿命を祀っています。配祀神は、元々は温羅の家来でしたが吉備津彦側に寝返った裏切り者 狹田安是彦、千田宇根彦を祀っています。<br />ご神体は包丁と俎板と言われており、地元では温羅を捕えた後に夜目山主命が鯉を料理してもてなしたという伝承もあるそうです。

    鯉喰神社
    社殿は、1842(天保13)年に造営され現在に至ります。その後、1916(大正5)年に楯築遺跡にあった楯築神社を合祀し、同年に神饌幣帛供進神社に指定されています。
    祭神は、温羅を退治する際、楯築遺跡の西方から駆けつけた武勇の父子 夜目山主命と夜目麿命を祀っています。配祀神は、元々は温羅の家来でしたが吉備津彦側に寝返った裏切り者 狹田安是彦、千田宇根彦を祀っています。
    ご神体は包丁と俎板と言われており、地元では温羅を捕えた後に夜目山主命が鯉を料理してもてなしたという伝承もあるそうです。

  • 鯉喰神社 <br />若井正和著『吉備の邪馬台国と大和の狗奴国』は、魏志倭人伝における邪馬台国と卑弥呼の記述を検証し、大和説や九州説共に不備な点が多く、邪馬台国を吉備と比定すると辻褄が合うと論述しています。<br />魏志倭人伝に登場する「狗奴国」をヤマト王権、「邪馬台国」を吉備にあって倭国をまとめた女王国と仮定することで『記紀』の記述と合致すると言われています。結論としては、卑弥呼の墓は楯築遺跡に近い、「桃太郎伝説」にも登場する「鯉喰神社」であるとしています。<br />『記紀』が真実を伝えているとする前提には首を傾げたくなりますが、造山古墳の応神天皇陵説と合わせると、「邪馬台国吉備説」は、古代における吉備の位置付けが、単にこれまで言及されてきたようなヤマト王権に対抗する王国にとどまらず、「倭国」の中心地であった可能性を示唆しています。秦氏や賀陽族など渡来人集団とその技術や文化との係わりを見ていけば、古代吉備の真実の姿が浮かび上がってくるのかもしれません。

    鯉喰神社
    若井正和著『吉備の邪馬台国と大和の狗奴国』は、魏志倭人伝における邪馬台国と卑弥呼の記述を検証し、大和説や九州説共に不備な点が多く、邪馬台国を吉備と比定すると辻褄が合うと論述しています。
    魏志倭人伝に登場する「狗奴国」をヤマト王権、「邪馬台国」を吉備にあって倭国をまとめた女王国と仮定することで『記紀』の記述と合致すると言われています。結論としては、卑弥呼の墓は楯築遺跡に近い、「桃太郎伝説」にも登場する「鯉喰神社」であるとしています。
    『記紀』が真実を伝えているとする前提には首を傾げたくなりますが、造山古墳の応神天皇陵説と合わせると、「邪馬台国吉備説」は、古代における吉備の位置付けが、単にこれまで言及されてきたようなヤマト王権に対抗する王国にとどまらず、「倭国」の中心地であった可能性を示唆しています。秦氏や賀陽族など渡来人集団とその技術や文化との係わりを見ていけば、古代吉備の真実の姿が浮かび上がってくるのかもしれません。

  • 造山古墳( 国指定史跡)<br />後円部はこんもりと盛り上がり、頂上は平らな円形の草地になっています。これは戦国時代、豊臣秀吉に対峙した毛利軍がここに陣地を築いた名残のようです。墳形が崩れて現在のような形になったそうです。<br />造山古墳群は、大山古墳(仁徳天皇陵)、誉田山古墳(応神天皇陵)、陵山古墳(履中天皇陵)に次ぐ、全国第4位の規模(全長350m、高さ31m平面積約7.8ha)を持つ前方後円墳の造山古墳と、その西側一帯に築かれた6基の中小規模の古墳とで構成されています。<br />造山古墳は、上・中・下の3段からなり、円筒埴輪列を巡らせていた跡が確認されており、自由に立ち入ることのできる古墳としては全国最大の古墳であり、5世紀初頭に造営された吉備を支配した「王」の墓と言われています。6基の中小規模の古墳は、その王に仕えた近臣たちの墓(陪塚=ばいちょう)とされています。 <br />造山古墳は国の史跡に指定されていますが、発掘調査は1度も実施されていません。岡山市教育委員会は「史跡を守ることが大事」と理由を述べ、古墳の主については諸説あるミステリアスな古墳となっています。

    造山古墳( 国指定史跡)
    後円部はこんもりと盛り上がり、頂上は平らな円形の草地になっています。これは戦国時代、豊臣秀吉に対峙した毛利軍がここに陣地を築いた名残のようです。墳形が崩れて現在のような形になったそうです。
    造山古墳群は、大山古墳(仁徳天皇陵)、誉田山古墳(応神天皇陵)、陵山古墳(履中天皇陵)に次ぐ、全国第4位の規模(全長350m、高さ31m平面積約7.8ha)を持つ前方後円墳の造山古墳と、その西側一帯に築かれた6基の中小規模の古墳とで構成されています。
    造山古墳は、上・中・下の3段からなり、円筒埴輪列を巡らせていた跡が確認されており、自由に立ち入ることのできる古墳としては全国最大の古墳であり、5世紀初頭に造営された吉備を支配した「王」の墓と言われています。6基の中小規模の古墳は、その王に仕えた近臣たちの墓(陪塚=ばいちょう)とされています。
    造山古墳は国の史跡に指定されていますが、発掘調査は1度も実施されていません。岡山市教育委員会は「史跡を守ることが大事」と理由を述べ、古墳の主については諸説あるミステリアスな古墳となっています。

  • 造山古墳<br />息を切らしながら前方部に登り切ると、江戸時代に建てられた鄙びた荒神社が佇んでいます。その神社の脇には、手水鉢として用いられていた刳り抜き式の長持形の石棺が置かれています。5世紀中頃のものとされ、古墳前方部から出土したという説と近くの新庄車塚古墳で発掘されて運ばれてきたとの説があります。しかし問題は、この石棺の材料が九州産「阿蘇溶結凝灰岩」である事実です。このことから九州勢力と外交関係があったことが窺われ、畿内からの石棺の授受を快とせず、吉備の力で造られた九州系の棺と解釈されています。因みに、サイズは、長さ193cm、幅75cm、高さ58cmあります。 <br />近臣たちの墓のひとつとされる千足古墳の石室は、九州特有の構造を持ち、九州産や四国産の石材を使っています。また榊山古墳では、朝鮮半島からの輸入品とされる馬形帯鈎(ベルトのバックル)が出土しており、半島とも交易があったことを窺わせます。また、ヤマト王権との関係の特筆すべき点は、造山古墳と履中天皇陵(ミサンザイ古墳)とが酷似していることです。履中天皇陵のおよそ96%のサイズで造られています。

    造山古墳
    息を切らしながら前方部に登り切ると、江戸時代に建てられた鄙びた荒神社が佇んでいます。その神社の脇には、手水鉢として用いられていた刳り抜き式の長持形の石棺が置かれています。5世紀中頃のものとされ、古墳前方部から出土したという説と近くの新庄車塚古墳で発掘されて運ばれてきたとの説があります。しかし問題は、この石棺の材料が九州産「阿蘇溶結凝灰岩」である事実です。このことから九州勢力と外交関係があったことが窺われ、畿内からの石棺の授受を快とせず、吉備の力で造られた九州系の棺と解釈されています。因みに、サイズは、長さ193cm、幅75cm、高さ58cmあります。
    近臣たちの墓のひとつとされる千足古墳の石室は、九州特有の構造を持ち、九州産や四国産の石材を使っています。また榊山古墳では、朝鮮半島からの輸入品とされる馬形帯鈎(ベルトのバックル)が出土しており、半島とも交易があったことを窺わせます。また、ヤマト王権との関係の特筆すべき点は、造山古墳と履中天皇陵(ミサンザイ古墳)とが酷似していることです。履中天皇陵のおよそ96%のサイズで造られています。

  • 造山古墳<br />巨大古墳の築造年代を比べると、最大の仁徳天皇陵と2番目の応神天皇陵は5世紀前半から中頃の築造とされ、造山古墳より新しいようです。3番目の履中天皇陵と造山古墳がほぼ同時期の築造であり、畿内の大王に匹敵する勢力が往時の吉備にいた証になります。形も大きさも似通った履中天皇陵と造山古墳の違いは周囲に水を湛える周濠の有無だけとされてきましたが、これも最近の調査で周濠があったことが確認されたそうです。<br />造山古墳に葬られている人物は、通説ではヤマト王権に拮抗した吉備国の大首長とされ、一説には吉備下道臣とも言われています。『日本書紀』には、吉備で反乱が度々起きた事が記され、5世紀後半の雄略〜清寧天皇の時代には様々な策略で吉備国の解体を進めていたことが窺われます。そして、反乱を制圧したヤマト王権は大化の改新による部民制や国造制を持ち込んで在地勢力を押さえると共に、吉備五郡や児島に屯倉を設置してこの地の支配を強化していきました。最期の仕上げは、吉備の分国でした。7世紀末に吉備を備前・備中・備後の3ヶ国に分割し、さらに8世紀初頭に備前の一部を割いて美作としたのです。

    造山古墳
    巨大古墳の築造年代を比べると、最大の仁徳天皇陵と2番目の応神天皇陵は5世紀前半から中頃の築造とされ、造山古墳より新しいようです。3番目の履中天皇陵と造山古墳がほぼ同時期の築造であり、畿内の大王に匹敵する勢力が往時の吉備にいた証になります。形も大きさも似通った履中天皇陵と造山古墳の違いは周囲に水を湛える周濠の有無だけとされてきましたが、これも最近の調査で周濠があったことが確認されたそうです。
    造山古墳に葬られている人物は、通説ではヤマト王権に拮抗した吉備国の大首長とされ、一説には吉備下道臣とも言われています。『日本書紀』には、吉備で反乱が度々起きた事が記され、5世紀後半の雄略〜清寧天皇の時代には様々な策略で吉備国の解体を進めていたことが窺われます。そして、反乱を制圧したヤマト王権は大化の改新による部民制や国造制を持ち込んで在地勢力を押さえると共に、吉備五郡や児島に屯倉を設置してこの地の支配を強化していきました。最期の仕上げは、吉備の分国でした。7世紀末に吉備を備前・備中・備後の3ヶ国に分割し、さらに8世紀初頭に備前の一部を割いて美作としたのです。

  • 造山古墳<br />社殿の脇には蒲鉾形石棺蓋が無造作に置かれています。<br />蓋石には直弧紋(ちょこもん)が刻まれているなど、ここにも九州地域の石棺の特徴が見られます。内側には水銀朱の色も僅かに残されています。<br /><br />『日本書紀』の記述を紹介すると、「雄略天皇7年8月条」には、「吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや:一書には国造吉備臣山(くにのみやっこきびのおみやま)が天皇と女で争い、物部の兵士30人に一族70人と共に殺された」とあります。 <br />また、「清寧天皇即位前紀」には、「雄略天皇の死後、吉備稚媛の子 星川皇子が王位を狙った。しかし白髪皇子(後の清寧天皇)の部下 大伴室屋らに焼き殺される。星川皇子を救おうとした吉備上道臣らは、援軍を送ろうとするが、星川皇子が殺されたことを知り引き返した。しかし白髪皇子は彼らを追い、その領地である山部を奪った」ともあります。<br />『日本書紀』からは、この時代の吉備の豪族が、天皇家と争えるほどの勢力を持っていたことが窺えます。この造山古墳の大きさを見ても、大王の地位を狙っても不思議ではない気がします。吉備はヤマト王権と盛んに姻戚関係を結んだようですが、これらの記事から察すると、その関係を背景にして大王の地位を狙っていたとも窺えます。しかし、これらの事件を契機に、やがて吉備はヤマト王権の前に屈し、その勢力は削がれて行ったのです。<br />しかし、反乱伝承は常に勝者側、つまり天皇側に立脚して書かれる運命にあります。吉備が巨大な勢力を持ったが故に、天皇の逆鱗を買ってゆえなくも滅びるというストーリーは、蘇我氏の乙巳の変と全く同じ系図です。天皇家への妃を吉備国から輩出するも、その子が天皇になった記録がないことから、婚姻関係ではなく戦国時代のような単なる人質だったのかもしれません。それだけヤマト王権も吉備を恐れていたことの証左と言えます。<br />一方、就実大学で造山古墳を研究する出宮講師は、造山古墳の主を中国の歴史書に登場する「倭の五王」のひとりと推測しています。「大和政権が奈良盆地から河内平野に出る間にワンクッションあり、吉備の首長が倭の大王に就任したと考えるのが自然。その大王とは五王の中の讃に当たり、一番可能性があるのは応神天皇」と説かれています。それを裏付けるのが『日本書紀』の記述です。他の天皇の陵墓の所在は記されていますが、応神天皇だけ記述が欠けており、編纂者の藤原不比等により、物部氏に関係する吉備の記事が抹殺された結果とも考えられるのです。<br />このように古代史に思いを馳せながら吉備路を旅するのも一興です。

    造山古墳
    社殿の脇には蒲鉾形石棺蓋が無造作に置かれています。
    蓋石には直弧紋(ちょこもん)が刻まれているなど、ここにも九州地域の石棺の特徴が見られます。内側には水銀朱の色も僅かに残されています。

    『日本書紀』の記述を紹介すると、「雄略天皇7年8月条」には、「吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや:一書には国造吉備臣山(くにのみやっこきびのおみやま)が天皇と女で争い、物部の兵士30人に一族70人と共に殺された」とあります。
    また、「清寧天皇即位前紀」には、「雄略天皇の死後、吉備稚媛の子 星川皇子が王位を狙った。しかし白髪皇子(後の清寧天皇)の部下 大伴室屋らに焼き殺される。星川皇子を救おうとした吉備上道臣らは、援軍を送ろうとするが、星川皇子が殺されたことを知り引き返した。しかし白髪皇子は彼らを追い、その領地である山部を奪った」ともあります。
    『日本書紀』からは、この時代の吉備の豪族が、天皇家と争えるほどの勢力を持っていたことが窺えます。この造山古墳の大きさを見ても、大王の地位を狙っても不思議ではない気がします。吉備はヤマト王権と盛んに姻戚関係を結んだようですが、これらの記事から察すると、その関係を背景にして大王の地位を狙っていたとも窺えます。しかし、これらの事件を契機に、やがて吉備はヤマト王権の前に屈し、その勢力は削がれて行ったのです。
    しかし、反乱伝承は常に勝者側、つまり天皇側に立脚して書かれる運命にあります。吉備が巨大な勢力を持ったが故に、天皇の逆鱗を買ってゆえなくも滅びるというストーリーは、蘇我氏の乙巳の変と全く同じ系図です。天皇家への妃を吉備国から輩出するも、その子が天皇になった記録がないことから、婚姻関係ではなく戦国時代のような単なる人質だったのかもしれません。それだけヤマト王権も吉備を恐れていたことの証左と言えます。
    一方、就実大学で造山古墳を研究する出宮講師は、造山古墳の主を中国の歴史書に登場する「倭の五王」のひとりと推測しています。「大和政権が奈良盆地から河内平野に出る間にワンクッションあり、吉備の首長が倭の大王に就任したと考えるのが自然。その大王とは五王の中の讃に当たり、一番可能性があるのは応神天皇」と説かれています。それを裏付けるのが『日本書紀』の記述です。他の天皇の陵墓の所在は記されていますが、応神天皇だけ記述が欠けており、編纂者の藤原不比等により、物部氏に関係する吉備の記事が抹殺された結果とも考えられるのです。
    このように古代史に思いを馳せながら吉備路を旅するのも一興です。

  • こうもり塚古墳<br />国分寺の傍にある全長約100mの前方後円墳です。<br />吉備の大首長の墓と考えられ、後円部には棺を納めた横穴式石室があります。石室は、全長19.4mで巨大な石を組合わせて造られており、奈良の石舞台古墳に匹敵するスケールであり、国内最大級です。<br />何故このような名前なのかというと、横穴の中が蝙蝠の棲み家だったからだそうです。<br />

    こうもり塚古墳
    国分寺の傍にある全長約100mの前方後円墳です。
    吉備の大首長の墓と考えられ、後円部には棺を納めた横穴式石室があります。石室は、全長19.4mで巨大な石を組合わせて造られており、奈良の石舞台古墳に匹敵するスケールであり、国内最大級です。
    何故このような名前なのかというと、横穴の中が蝙蝠の棲み家だったからだそうです。

  • こうもり塚古墳<br />国内最大の前方後円墳は大阪府堺市にある仁徳天皇陵ですが、造営は造山古墳の方が古く、ヤマト王権は造山古墳に対抗して仁徳陵を造ったという説まであります。大小合わせて2万もの古墳群が点在する風景は、古代吉備国が時のヤマト王権を脅かすほどの勢力と、巨大墳墓を造る豊かな財と土木技術を備えていたことを黙して語っています。

    こうもり塚古墳
    国内最大の前方後円墳は大阪府堺市にある仁徳天皇陵ですが、造営は造山古墳の方が古く、ヤマト王権は造山古墳に対抗して仁徳陵を造ったという説まであります。大小合わせて2万もの古墳群が点在する風景は、古代吉備国が時のヤマト王権を脅かすほどの勢力と、巨大墳墓を造る豊かな財と土木技術を備えていたことを黙して語っています。

  • こうもり塚古墳<br />横穴には自由に入ることができます。しかし、さすがに棺の安置されている玄室は施錠されており、通常は入ることができません。<br />内部の石室は 巨石を用いた横穴式石室で、長い羨道(せんどう)とその奥の玄室とから構成されています。羨道の天井には巨大な3枚の巨石が横たわっています。<br />玉砂利を敷き詰めた玄室には、井原市産の貝殻石灰岩(浪形石)で造られた家形石棺、土を焼いて作った陶棺、そして木棺が安置されていたそうで、後期古墳に一般的な複数埋葬であったことが窺われます。また、多くの労働力を集めることができた支配者層の墳墓であることを示しています。<br />盗掘されてはいましたが、須恵器や土師器などの土器の他、大刀や馬具をはじめとした鉄器などが多数出土しています。この古墳の出土品の一部は県立吉備路郷土館に展示されています。

    こうもり塚古墳
    横穴には自由に入ることができます。しかし、さすがに棺の安置されている玄室は施錠されており、通常は入ることができません。
    内部の石室は 巨石を用いた横穴式石室で、長い羨道(せんどう)とその奥の玄室とから構成されています。羨道の天井には巨大な3枚の巨石が横たわっています。
    玉砂利を敷き詰めた玄室には、井原市産の貝殻石灰岩(浪形石)で造られた家形石棺、土を焼いて作った陶棺、そして木棺が安置されていたそうで、後期古墳に一般的な複数埋葬であったことが窺われます。また、多くの労働力を集めることができた支配者層の墳墓であることを示しています。
    盗掘されてはいましたが、須恵器や土師器などの土器の他、大刀や馬具をはじめとした鉄器などが多数出土しています。この古墳の出土品の一部は県立吉備路郷土館に展示されています。

  • こうもり塚古墳<br />この石室は、地元では仁徳天皇との悲恋物語のヒロイン「黒媛」の墓とも伝えられ、かつては「くろひめ塚古墳」と呼ばれていました。仁徳天皇は、嫉妬深い皇后 磐之媛の苛めに耐えかねて吉備へ逃げ帰った側室 黒媛の後を追い、淡路島に行幸すると偽ってこの吉備を訪れたと伝えられています。その繁栄の跡から、古代この地方に「王国」があったとする説も根強く、「吉備王朝」などと形容されることもあります。<br />余談ですが、黒媛は舟に乗って吉備の里に帰ろうとしますが、その時に天皇が詠んだ歌に皇后はさらに怒りを爆発させ、黒媛をいったん舟で戻らせ、その後、歩かせて吉備まで帰らせたそうです。<br />何時の時代も女性の嫉妬は怖いものですね〜!

    こうもり塚古墳
    この石室は、地元では仁徳天皇との悲恋物語のヒロイン「黒媛」の墓とも伝えられ、かつては「くろひめ塚古墳」と呼ばれていました。仁徳天皇は、嫉妬深い皇后 磐之媛の苛めに耐えかねて吉備へ逃げ帰った側室 黒媛の後を追い、淡路島に行幸すると偽ってこの吉備を訪れたと伝えられています。その繁栄の跡から、古代この地方に「王国」があったとする説も根強く、「吉備王朝」などと形容されることもあります。
    余談ですが、黒媛は舟に乗って吉備の里に帰ろうとしますが、その時に天皇が詠んだ歌に皇后はさらに怒りを爆発させ、黒媛をいったん舟で戻らせ、その後、歩かせて吉備まで帰らせたそうです。
    何時の時代も女性の嫉妬は怖いものですね〜!

  • こうもり塚古墳<br />吉備海部直(きびのあまのあたへ)の娘の黒媛のことは『古事記』下巻に記されており、吉備を代表する美女でした。仁徳天皇は黒媛が忘れられず、彼女を追って吉備国にやってきて共に楽しい一時を過ごしたと記されています。<br />その時の歌が、「山縣に蒔ける菘菜も 吉備人とともにし採めば楽しくもあるか」。<br />それに応えて黒媛は、「大和べに西風吹きあげて雲離れ 退き居りとも我忘れめや」と離れ離れであっても決して忘れないと返しています。<br />「山縣」が何処かには諸説あり、ロマンチックな「悲恋物語」を地域振興に活用しようとの思惑も手伝い、岡山県内の何処かだということは一致しても、各地が名乗りを上げています。

    こうもり塚古墳
    吉備海部直(きびのあまのあたへ)の娘の黒媛のことは『古事記』下巻に記されており、吉備を代表する美女でした。仁徳天皇は黒媛が忘れられず、彼女を追って吉備国にやってきて共に楽しい一時を過ごしたと記されています。
    その時の歌が、「山縣に蒔ける菘菜も 吉備人とともにし採めば楽しくもあるか」。
    それに応えて黒媛は、「大和べに西風吹きあげて雲離れ 退き居りとも我忘れめや」と離れ離れであっても決して忘れないと返しています。
    「山縣」が何処かには諸説あり、ロマンチックな「悲恋物語」を地域振興に活用しようとの思惑も手伝い、岡山県内の何処かだということは一致しても、各地が名乗りを上げています。

  • こうもり塚古墳<br />右側にあるこんもりした杜がこうもり塚古墳です。<br />吉備国の美女と仁徳天皇の美しい古代ロマンは、あくまでも伝説であり、残念ながらこうもり塚古墳は黒媛が生きた時代よりかなり後に造られたことが判明しています。しかし『古事記』の時間軸は、神武天皇と崇神天皇を同一人物としながらも異なった時代として記すというテクニックもあり、検証の余地は多分にあると思われます。<br />因みに、仁徳天皇は応神天皇の皇子とされ、応神天皇へ吉備臣祖 御友別(みともわけ)の妹「兄媛」が嫁ぎ、仁徳天皇へ吉備海部直の女「黒媛」が嫁いでいます。<br />父子2代の妃が吉備から輩出されていたことを考えると、造山古墳には応神天皇が眠っている可能性も否定できません。

    こうもり塚古墳
    右側にあるこんもりした杜がこうもり塚古墳です。
    吉備国の美女と仁徳天皇の美しい古代ロマンは、あくまでも伝説であり、残念ながらこうもり塚古墳は黒媛が生きた時代よりかなり後に造られたことが判明しています。しかし『古事記』の時間軸は、神武天皇と崇神天皇を同一人物としながらも異なった時代として記すというテクニックもあり、検証の余地は多分にあると思われます。
    因みに、仁徳天皇は応神天皇の皇子とされ、応神天皇へ吉備臣祖 御友別(みともわけ)の妹「兄媛」が嫁ぎ、仁徳天皇へ吉備海部直の女「黒媛」が嫁いでいます。
    父子2代の妃が吉備から輩出されていたことを考えると、造山古墳には応神天皇が眠っている可能性も否定できません。

  • 備中国分寺<br />吉備平野に春が到来しました。<br />若葉が芽吹く4月末〜5月初旬にかけて備中国分寺の周辺では、冬季に植えられたレンゲの花が一斉に咲き始めます。辺り一面を目にも鮮やかな赤紫色に染め上げる姿は、まるで絨毯を敷き詰めたかのようです。<br />また、数ある史跡のなかでも、総社のシンボルとも言える備中国分寺は、外せないスポットです。五重塔は、遠方から眺めるだけで吉備路を旅する者なら誰でも一種の安らぎを感じます。<br />どこまでも広がる田園の中にぽつんと立つ五重塔が織りなす情景は、少しセンチメンタル風ですが、心に残る光景です。

    備中国分寺
    吉備平野に春が到来しました。
    若葉が芽吹く4月末〜5月初旬にかけて備中国分寺の周辺では、冬季に植えられたレンゲの花が一斉に咲き始めます。辺り一面を目にも鮮やかな赤紫色に染め上げる姿は、まるで絨毯を敷き詰めたかのようです。
    また、数ある史跡のなかでも、総社のシンボルとも言える備中国分寺は、外せないスポットです。五重塔は、遠方から眺めるだけで吉備路を旅する者なら誰でも一種の安らぎを感じます。
    どこまでも広がる田園の中にぽつんと立つ五重塔が織りなす情景は、少しセンチメンタル風ですが、心に残る光景です。

  • 備中国分寺 山門<br />山門は薬医門です。<br />ふと目線を落とすと、寺号標の台座には「善男善女」と刻まれています。この寺に参れば善男善女になれるのか、はたまた善男善女以外は参詣お断りなのでしょうか?<br />実は「善男善女」とは、 仏法に帰依した人や広く仏教を信仰する人、寺院に参詣したり霊場を巡礼したりする人を指すそうです。ですから誰でも気兼ねなく参詣できますよ!

    備中国分寺 山門
    山門は薬医門です。
    ふと目線を落とすと、寺号標の台座には「善男善女」と刻まれています。この寺に参れば善男善女になれるのか、はたまた善男善女以外は参詣お断りなのでしょうか?
    実は「善男善女」とは、 仏法に帰依した人や広く仏教を信仰する人、寺院に参詣したり霊場を巡礼したりする人を指すそうです。ですから誰でも気兼ねなく参詣できますよ!

  • 備中国分寺 大玄関客殿<br />茅葺屋根の雰囲気がいい感じです。<br />山門を潜ると、正面に大玄関客殿、その東に本殿、西に庫裏・表書院が配置されています。西の庭には丹精な松が聳え、その後方に五重塔が青空に向けて突き抜けています。国分寺の南側には旧山陽道が通されており、往時は交通の要衝であったことを窺わせています。

    備中国分寺 大玄関客殿
    茅葺屋根の雰囲気がいい感じです。
    山門を潜ると、正面に大玄関客殿、その東に本殿、西に庫裏・表書院が配置されています。西の庭には丹精な松が聳え、その後方に五重塔が青空に向けて突き抜けています。国分寺の南側には旧山陽道が通されており、往時は交通の要衝であったことを窺わせています。

  • 備中国分寺 勅使門<br />天皇の使者として赴く者が用いる門のことで、位階ある使者といえども下馬して潜ることになっています。 <br />築地塀には、格式の高さを表す5本線が入れられています。<br />

    備中国分寺 勅使門
    天皇の使者として赴く者が用いる門のことで、位階ある使者といえども下馬して潜ることになっています。
    築地塀には、格式の高さを表す5本線が入れられています。

  • 備中国分寺 <br />吉備路風土記の丘に佇む備中国分寺は、岡山県総社市にある真言宗御室派の寺院です。山号は日照山、本尊は薬師如来像を祀ります。<br />奈良時代の741(天平13)年に聖武天皇がうち続く疫病や藤原広嗣の乱、天災・飢餓などに心を悩ませ、「今は唯だ仏の加護に縋るのみ」と思いたって諸国に発した「国分寺建立の詔」により、日本各地に建立された金光明四天王護国之寺のうちの備中国国分寺に当たります。国の華であることから、必ず好処を選んで建てることが定められたそうです。<br />往時の境内の広さは東西160m、南北180mあり、周囲は1.3m程の高さの土塀で区画され、その中に南門や中門、金堂、講堂、塔などの伽藍が配置されていました。しかし、創建当時の伽藍は南北朝時代の1336(延元元)年に足利直義勢が九州から北上した福山合戦の兵火によって焼失したとも、1332(元弘2)年の落雷によって焼失したとも伝えられています。その後、廃寺となりましたが、浅尾領主 蒔田家の援助を得た増鉄和尚により、江戸時代中期の1717(享保2)年から19年の歳月を費やして再興されています。現存の五重塔は、証旭和尚が1821(文政4)年から20数年をかけて再建したもので、岡山県内唯一の五重塔となっています。

    備中国分寺
    吉備路風土記の丘に佇む備中国分寺は、岡山県総社市にある真言宗御室派の寺院です。山号は日照山、本尊は薬師如来像を祀ります。
    奈良時代の741(天平13)年に聖武天皇がうち続く疫病や藤原広嗣の乱、天災・飢餓などに心を悩ませ、「今は唯だ仏の加護に縋るのみ」と思いたって諸国に発した「国分寺建立の詔」により、日本各地に建立された金光明四天王護国之寺のうちの備中国国分寺に当たります。国の華であることから、必ず好処を選んで建てることが定められたそうです。
    往時の境内の広さは東西160m、南北180mあり、周囲は1.3m程の高さの土塀で区画され、その中に南門や中門、金堂、講堂、塔などの伽藍が配置されていました。しかし、創建当時の伽藍は南北朝時代の1336(延元元)年に足利直義勢が九州から北上した福山合戦の兵火によって焼失したとも、1332(元弘2)年の落雷によって焼失したとも伝えられています。その後、廃寺となりましたが、浅尾領主 蒔田家の援助を得た増鉄和尚により、江戸時代中期の1717(享保2)年から19年の歳月を費やして再興されています。現存の五重塔は、証旭和尚が1821(文政4)年から20数年をかけて再建したもので、岡山県内唯一の五重塔となっています。

  • 備中国分寺 <br />木鼻には龍と獅子が彫られています。<br />龍の木鼻は珍しいと思います。

    備中国分寺
    木鼻には龍と獅子が彫られています。
    龍の木鼻は珍しいと思います。

  • 備中国分寺 <br />虹梁の曲がり具合も絶妙です。 <br />手挟の彫刻も手が込んでいます。

    備中国分寺
    虹梁の曲がり具合も絶妙です。 
    手挟の彫刻も手が込んでいます。

  • 備中国分寺 宝篋印塔と大師堂<br />国分寺は、表向きには薬師如来を本尊に祀って疾病治癒を唱えていますが、実際は律令制度を全国津々浦々に定着させるために一国に一寺建てられた官製のお寺です。全国にヤマト王権の権威を見せつける狙いもあり、広大な敷地に壮大な寺院が建てられました。<br />何故そう言えるかというと、どの国分寺も律令制度が弱まって朝廷からの支援がなくなると衰微し、その多くが廃寺となっているからです。真に民衆の長寿を願うためのものであれば、廃ることはなかったことでしょう。<br />備中国分寺も中世に廃寺となったものを江戸時代に再興し、真言宗御室派の寺院としています。

    備中国分寺 宝篋印塔と大師堂
    国分寺は、表向きには薬師如来を本尊に祀って疾病治癒を唱えていますが、実際は律令制度を全国津々浦々に定着させるために一国に一寺建てられた官製のお寺です。全国にヤマト王権の権威を見せつける狙いもあり、広大な敷地に壮大な寺院が建てられました。
    何故そう言えるかというと、どの国分寺も律令制度が弱まって朝廷からの支援がなくなると衰微し、その多くが廃寺となっているからです。真に民衆の長寿を願うためのものであれば、廃ることはなかったことでしょう。
    備中国分寺も中世に廃寺となったものを江戸時代に再興し、真言宗御室派の寺院としています。

  • 備中国分寺 基礎石<br />現国分寺の境内は、旧国分寺の金堂が建っていた周辺になります。<br />山門付近では南門・中門跡の基礎石を見ることできます。<br />袴腰鐘楼の奥にも2基あります。<br />

    備中国分寺 基礎石
    現国分寺の境内は、旧国分寺の金堂が建っていた周辺になります。
    山門付近では南門・中門跡の基礎石を見ることできます。
    袴腰鐘楼の奥にも2基あります。

  • 備中国分寺 袴腰鐘楼<br />この鐘楼は2階で鐘を突く構造です。外部から見ると袴をはいているように見えるため「袴腰造」と呼ばれます。<br />禅宗のお寺では、よく見かけるタイプです。<br />

    備中国分寺 袴腰鐘楼
    この鐘楼は2階で鐘を突く構造です。外部から見ると袴をはいているように見えるため「袴腰造」と呼ばれます。
    禅宗のお寺では、よく見かけるタイプです。

  • 備中国分寺 袴腰鐘楼<br />梵鐘の響きをよくするためでしょうか、床下に8角形の穴が開けられています。

    備中国分寺 袴腰鐘楼
    梵鐘の響きをよくするためでしょうか、床下に8角形の穴が開けられています。

  • 備中国分寺 五重塔(重文)<br />奈良時代には高さ50m程の七重塔だったと考えられ、南北朝時代に伽藍が焼失してその後に荒廃しました。現在の五重塔は、1821(文政4)年に再建を始め、弘化年間(1844〜47)に完成したもので、奈良時代にあった塔とは別の場所に建っています。屋根の上層と下層がほぼ同じ大きさの低逓減の造りで相輪も短いという江戸時代後期の建築様式を色濃く残し、当初は三重塔で計画されたものを五重塔に変更したものだそうです。思いのほか寄付金が多く集まったため、急遽五重に計画変更されてそうです。そのため、3層までは総欅造、4・5層は松材が主体になっています。<br />1990年に始まった部分解体修復の途中、大型台風19号の影響で破損したため、全面解体工事に切り替えて3年半を費やし、3億5千万円を投じて現在の美しい姿に復旧されています。<br />因みに、この写真は、平山郁夫画伯が「備中国分寺五重塔」の制作のために取材した時の立ち位置からのものです。

    備中国分寺 五重塔(重文)
    奈良時代には高さ50m程の七重塔だったと考えられ、南北朝時代に伽藍が焼失してその後に荒廃しました。現在の五重塔は、1821(文政4)年に再建を始め、弘化年間(1844〜47)に完成したもので、奈良時代にあった塔とは別の場所に建っています。屋根の上層と下層がほぼ同じ大きさの低逓減の造りで相輪も短いという江戸時代後期の建築様式を色濃く残し、当初は三重塔で計画されたものを五重塔に変更したものだそうです。思いのほか寄付金が多く集まったため、急遽五重に計画変更されてそうです。そのため、3層までは総欅造、4・5層は松材が主体になっています。
    1990年に始まった部分解体修復の途中、大型台風19号の影響で破損したため、全面解体工事に切り替えて3年半を費やし、3億5千万円を投じて現在の美しい姿に復旧されています。
    因みに、この写真は、平山郁夫画伯が「備中国分寺五重塔」の制作のために取材した時の立ち位置からのものです。

  • 備中国分寺 五重塔<br />総高約34.3m、木造本瓦葺で青銅製の相輪を立てています。木造五重塔としては7番目の高さになります。初層の4面にある頭貫の上には、十二支の禽獣彫刻が嵌め込まれており、また初層の尾垂木の上には龍の彫刻なども載せられています。心柱は、大面取りをした松材が用い、床下の礎石から塔の中心を貫いて相輪に達しています。また、初層の内陣には、大日如来(中央心柱)を中心にして金剛界の五智如来像が奉られています。東西南北には大日如来から派生した4如来が奉られます。天井は格子状にされ、天井板の一枚一枚には備前長船の住人 横山春篤が欅板に描いた四天柱の脇にある4枚の天女や花鳥の彩色画(前104枚)が嵌め込まれ、堂内を一層荘厳にしています。<br />

    備中国分寺 五重塔
    総高約34.3m、木造本瓦葺で青銅製の相輪を立てています。木造五重塔としては7番目の高さになります。初層の4面にある頭貫の上には、十二支の禽獣彫刻が嵌め込まれており、また初層の尾垂木の上には龍の彫刻なども載せられています。心柱は、大面取りをした松材が用い、床下の礎石から塔の中心を貫いて相輪に達しています。また、初層の内陣には、大日如来(中央心柱)を中心にして金剛界の五智如来像が奉られています。東西南北には大日如来から派生した4如来が奉られます。天井は格子状にされ、天井板の一枚一枚には備前長船の住人 横山春篤が欅板に描いた四天柱の脇にある4枚の天女や花鳥の彩色画(前104枚)が嵌め込まれ、堂内を一層荘厳にしています。

  • 備中国分寺 五重塔<br />現在、国分寺の塔として残されているのは、五重塔が備中国分寺、三重塔が越後国分寺、飛騨国分寺、豊前国分寺と信濃国分寺の五基しかありません。再建ながら国分寺の五重塔としてはここの五重塔が唯一無二の存在です。それ故に貴重な文化財と言えます。<br />

    備中国分寺 五重塔
    現在、国分寺の塔として残されているのは、五重塔が備中国分寺、三重塔が越後国分寺、飛騨国分寺、豊前国分寺と信濃国分寺の五基しかありません。再建ながら国分寺の五重塔としてはここの五重塔が唯一無二の存在です。それ故に貴重な文化財と言えます。

  • 備中国分寺 五重塔<br />塔は釈迦の遺骨(仏舎利)を納める墳墓として造られたもので、仏教寺院にあっては神聖視され、塔上に上がるべきものではないのですが、ここの塔は強度があるため五層まで上がれるようになっており、五重塔再建に尽力された證旭上人の木像が安置するなど、大変珍しい特徴を持っています。

    備中国分寺 五重塔
    塔は釈迦の遺骨(仏舎利)を納める墳墓として造られたもので、仏教寺院にあっては神聖視され、塔上に上がるべきものではないのですが、ここの塔は強度があるため五層まで上がれるようになっており、五重塔再建に尽力された證旭上人の木像が安置するなど、大変珍しい特徴を持っています。

  • 備中国分寺 五重塔<br />注目する点は、鬼瓦の下の軒丸瓦です。よく見ると玉を食んだ龍の形をしています。正面から見ると、両者が合体してエイリアンのようなグロテスクな生物のように見えます。<br />

    備中国分寺 五重塔
    注目する点は、鬼瓦の下の軒丸瓦です。よく見ると玉を食んだ龍の形をしています。正面から見ると、両者が合体してエイリアンのようなグロテスクな生物のように見えます。

  • 備中国分寺 五重塔<br />鬼瓦の目は、このようにくり抜かれています。

    備中国分寺 五重塔
    鬼瓦の目は、このようにくり抜かれています。

  • 備中国分寺 五重塔<br />今年の干支の申をアップしてみました。<br />長年の風雨に晒されたためか台風19号の悪戯か、左手や左耳が削がれているのは痛々しくもあります。

    備中国分寺 五重塔
    今年の干支の申をアップしてみました。
    長年の風雨に晒されたためか台風19号の悪戯か、左手や左耳が削がれているのは痛々しくもあります。

  • 備中国分寺 五重塔<br />初層だけ4隅の尾垂木の間に龍の彫刻が施されています。一ヶ所だけ口から勢いよく水を噴き出した龍がいます。恐らく、他の3ヶ所は欠損したものと推測します。<br />

    備中国分寺 五重塔
    初層だけ4隅の尾垂木の間に龍の彫刻が施されています。一ヶ所だけ口から勢いよく水を噴き出した龍がいます。恐らく、他の3ヶ所は欠損したものと推測します。

  • 備中国分寺 五重塔<br />総社は、大小無数の古墳も集中する、かつての吉備国の中心地でした。<br />今でこそ少し内陸に入った田園風景が広がる田舎となっていますが、かつてはすぐ傍まで「吉備の穴海」と言われる海があり、瀬戸内海の有力な港だったそうです。<br />その吉備の穴海は現在は陸地となり、海岸線が沖に伸びると共に中心地も臨海部の岡山市や倉敷市に移っていったことが奏功し、こうした景観が今に残されたのでしょう。

    備中国分寺 五重塔
    総社は、大小無数の古墳も集中する、かつての吉備国の中心地でした。
    今でこそ少し内陸に入った田園風景が広がる田舎となっていますが、かつてはすぐ傍まで「吉備の穴海」と言われる海があり、瀬戸内海の有力な港だったそうです。
    その吉備の穴海は現在は陸地となり、海岸線が沖に伸びると共に中心地も臨海部の岡山市や倉敷市に移っていったことが奏功し、こうした景観が今に残されたのでしょう。

  • 備中国分寺 五重塔<br />吉備の有名人と言えば、吉備真備を思い出します。受験勉強で必死に名前を暗記したことが懐かしく蘇ります。実際、それ以外ではほとんど聴く事のない人物だったような…。<br />奈良時代に日本をリードした学者・政治家の吉備真備は、備中国下道郡(倉敷市真備町)出身です。<br />716(霊亀2)年に遣唐留学生となり、阿倍仲麻呂や玄昉らと共に入唐します。そして735(天平7)年に多くの典籍を携えて帰朝します。唐では経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などを幅広く学びました。<br />その後、奈良時代に国分寺や国分尼寺の建立の詔を出した聖武天皇、光明皇后の寵愛を得て、急速に出世し、右大臣まで上り詰めます。これは地方豪族出身者としては破格の出世で、学者から立身して大臣にまでなったのは、この時代では吉備真備と菅原道真だけです。

    備中国分寺 五重塔
    吉備の有名人と言えば、吉備真備を思い出します。受験勉強で必死に名前を暗記したことが懐かしく蘇ります。実際、それ以外ではほとんど聴く事のない人物だったような…。
    奈良時代に日本をリードした学者・政治家の吉備真備は、備中国下道郡(倉敷市真備町)出身です。
    716(霊亀2)年に遣唐留学生となり、阿倍仲麻呂や玄昉らと共に入唐します。そして735(天平7)年に多くの典籍を携えて帰朝します。唐では経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などを幅広く学びました。
    その後、奈良時代に国分寺や国分尼寺の建立の詔を出した聖武天皇、光明皇后の寵愛を得て、急速に出世し、右大臣まで上り詰めます。これは地方豪族出身者としては破格の出世で、学者から立身して大臣にまでなったのは、この時代では吉備真備と菅原道真だけです。

  • JR総社駅<br />総社駅のロータリー内にある荒木レンタサイクルへ自転車を返却し、JRで倉敷駅へ向かいます。<br />備中一宮駅を13時スタートでしたので3時間半の充実した小旅行でした。<br />総社駅はJR西日本の伯備線の所属駅ですが、桃太郎線の終点駅でもあり、また井原鉄道井原線の起点駅でもありますので、乗り間違えのないようにしてください。

    JR総社駅
    総社駅のロータリー内にある荒木レンタサイクルへ自転車を返却し、JRで倉敷駅へ向かいます。
    備中一宮駅を13時スタートでしたので3時間半の充実した小旅行でした。
    総社駅はJR西日本の伯備線の所属駅ですが、桃太郎線の終点駅でもあり、また井原鉄道井原線の起点駅でもありますので、乗り間違えのないようにしてください。

  • JR総社駅 雪舟像<br />JR総社駅前にある、木魚の上に顔を乗せ、肩にネズミを乗せた小僧時代の雪舟像です。<br />水墨画で有名な画聖 雪舟は、1420(応永27)年に備中赤浜(現総社市赤浜)に生まれました。そして雪舟が幼少の頃に修行したと言われているのが、総社市にある名刹井山宝福寺です。JR総社駅から北へ2km程の距離にあります。<br />雪舟が少年の頃、折檻のため柱に縄で縛られた際、涙で鼠を絵を描いたところ、その鼠が縄を食い千切ってくれたと言う逸話が残されています。<br /><br />可愛いポーズをした雪舟に見送られ、本日の終着駅「JR倉敷駅」へ向かいます。10分程の電車の旅です。<br /><br />この続きは、青嵐薫風 吉備路逍遥⑥倉敷 美観地区<前編>にてお届けいたします。

    JR総社駅 雪舟像
    JR総社駅前にある、木魚の上に顔を乗せ、肩にネズミを乗せた小僧時代の雪舟像です。
    水墨画で有名な画聖 雪舟は、1420(応永27)年に備中赤浜(現総社市赤浜)に生まれました。そして雪舟が幼少の頃に修行したと言われているのが、総社市にある名刹井山宝福寺です。JR総社駅から北へ2km程の距離にあります。
    雪舟が少年の頃、折檻のため柱に縄で縛られた際、涙で鼠を絵を描いたところ、その鼠が縄を食い千切ってくれたと言う逸話が残されています。

    可愛いポーズをした雪舟に見送られ、本日の終着駅「JR倉敷駅」へ向かいます。10分程の電車の旅です。

    この続きは、青嵐薫風 吉備路逍遥⑥倉敷 美観地区<前編>にてお届けいたします。

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