2016/05/01 - 2016/05/01
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montsaintmichelさん
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「晴れの国 おかやま」と言うキャッチフレーズには、岡山県の魅力が凝縮されています。確かに岡山県の晴れの日は277日/年で全国1位なのですが、気候だけではなく、恵まれた自然がつくりだす景観や山・海の幸、フルーツ王国など、元気印いっぱいの「あっ晴れ~!」なスポットです。
また、大和地方と並ぶ古代吉備の文化発祥の地として栄え、現在に至るまで多様な産業、経済、文化の振興に大きく寄与してきました。正史『日本書紀』では編纂者の藤原不比等によって蘇我氏や物部氏との絡みから出雲同様に意図的に抹殺されていることから、古代吉備は藤原氏にとって「不都合な真実」に満ちた歴史に彩られていたことが窺えます。ですからミステリアスな古代ロマンが膨らむスポットでもあります。
今回の旅行は、JRおでかけネットの「岡山・倉敷ぐるりんパス」を利用し、超お得に愉しんできました。岡山・倉敷自由周遊区間までの往復切符と、観光施設(14施設)の入場券、自由周遊区間内のJR在来線普通列車普通車自由席、路面電車、路線バス、下津井循環バス「とこはい号」、ジーンズバス、夕景鑑賞バス、レンタサイクルがセットになっています。
今回は、岡山県名の由来ともなった丘の名「岡山」に築かれた、川面に映える漆黒の城「岡山城」をレポいたします。豊臣秀吉に身内並みに厚遇されて大大名となった宇喜多秀家が、16世紀末に築き、黒い外観から別名「烏城(うじょう)」とも呼ばれた名城です。
JRおでかけネットのHPです。
https://www.jr-odekake.net/railroad/ticket/tokutoku/gururin/
岡山城のパンフレットです。
https://www.okayama-kanko.net/ujo/guide/pdf/pamphlet.pdf
岡山城マップです。
http://shiro.travel.coocan.jp/07chugoku/okayama/map.jpg
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 新幹線
-
「桃太郎」の銅像
JR岡山駅の東口正面には、1971(昭和46)年に故 岡本錦朋氏が制作された桃太郎の銅像が立てられています。吉備国は、日本五大お伽話のひとつ『桃太郎の鬼退治』の舞台になった場所でもあります。吉備国の鬼城(きのじょう)を根城にして人々を苦しめた温羅(うら)を吉備津彦が退治したという伝承をベースに桃太郎伝説が生まれました。
従って、桃太郎のモデルは吉備津彦ということになります。この伝説は、吉備の中山の麓の吉備津神彦社や吉備津神社を拠点に全国津々浦々に広まり、やがて童話として完成されたようです。 -
JR岡山駅
まず、身軽になるために手荷物を宿泊施設に送ってもらいます。これには、「ねこのてステーション」が便利です。13:00までに預ければ、岡山市内・倉敷市内の指定宿泊施設に17時頃までに配達していただけます。500円でこうしたサービスが受けられるのはありがたいです。
JR岡山駅から岡山城にアプローチするには路面電車も情緒満点でいいのですが、時間に追われながら各所を「はしご」する場合は「駅リンくん(レンタサイクル)」の利用がお勧めです。勿論、ぐるりんパスを使えば無料になります。
ねこのてステーションのサイトです。
http://www.okayama-kanko.jp/modules/kankouinfo/pub_kihon_detail.php?sel_id=7357&sel_data_kbn=0
駅リンくんのサイトです。
http://www.okayama-kanko.jp/modules/kankouinfo/pub_kihon_detail.php?sel_id=3787&sel_data_kbn=0 -
岡山城 西丸西手櫓(重文)
西丸西手櫓は、岡山城本丸の外周を固める帯曲輪「二の丸内屋敷」の西側に位置する郭「西丸」の西端を守るために築かれた隅櫓です。
建築年代は不明ですが、小早川氏の時代、あるいは1603(慶長8)〜1615(元和元)年間の池田忠雄の時代に行われた西丸改修の際に創建されたようです。
現在はこのように手前が駐車場になり、石垣の上に聳え立つ西手櫓が正面から見られるようになっています。今まではここに建っていたNHK岡山放送局がブロックしていて全く見られなかったそうです。またビルが建てられる可能性も高いそうですので、興味のある方は、お早めにどうぞ! -
岡山城 西丸西手櫓
構造は、重層土蔵造、本瓦葺で、1・2階とも桁行(南北)10.36m、梁間(東西)7.27m、棟高10.60mの重箱櫓です。月見櫓と比べると、上下同じサイズの平面を重ねた簡素な構造であり、旧い形態と窺えます。
規模もさることながら、石落しの上部という非常に珍しい位置に鉄砲狭間が設けられています。
石垣も、この地にあった巨大な天然石をそのまま用いた大胆なものです。
場所は、JR岡山駅から東へ走る県道42号線から県道27号線を南(右)に折れて直ぐの左側、岡山禁酒会館の右隣になります。岡山城のある烏城公園からは、かなり距離があります。 -
岡山城(烏城公園)
JR岡山駅から東へ2km弱の距離にあり、自転車なら10分弱で到着です。
右側に架けられているのが内下馬橋です。烏城公園となっていますが、鬱蒼とした樹木が覆い被さってここから天守を見ることはできません。
岡山市街は、桃太郎大通り〜表町という都市の主軸と、烏城公園〜旭川〜後楽園という自然・緑地・水辺という優しい緑の軸線とが、人々の歩幅や視線の高さにしっくりマッチしているように感じられます。これこそ、岡山市街地が持つ親近感の源泉なのかもしれません。 -
岡山城(烏城公園)
内濠は、この土橋「内下馬橋」によって本丸の西(左)と南(右)に画されています。かつては木造の内目安橋が架けられていたそうです。 -
岡山城 内下馬門跡
石垣の石積は、岡山城本丸の正面としての風格を湛えています。下馬橋付近の松も形が良く見事です。
現在の大阪城にも蛸石と呼ばれる有名な巨石がありますが、岡山城の建設時にも大名が勢威を誇る目的で石垣に巨石を集めて築くことが流行っていたそうです。ですから内下馬門跡の石垣は犬島産の花崗岩を用い、鏡石とも言われる巨石が沢山埋め込まれており、石垣ファンには見逃せないスポットです。
因みに、犬島は花崗岩の山地として知られ、大坂城や江戸城の石垣にもここの石が使われています。 -
岡山城 内下馬門跡
内下馬門は、本丸の大手口となり、枡形形式をした重要な門でした。
石垣の隅部に大きな立石を入れるのは古式な手法なので宇喜多秀家時代に築かれたものと考えられていましたが、近年の調査により関ヶ原の戦い直後に池田氏によって築かれたことが判ったそうです。 -
岡山城 大納戸櫓跡
自転車に乗り、下段を石垣に沿って時計回りに進みます。
関ヶ原の戦い後に、小早川秀秋が築き、池田利隆が大幅に改修した石垣です。この打込ハギの石垣の高さは11mあります。長年の変化で石材がせり出していたため、平成11〜13年にかけて解体修理を行った際、この石垣の奥12mの位置に宇喜多秀家が築いた石垣が埋め込まれていることが判ったそうです。
かつて本丸中段の南西隅には、1階平面が長辺20m、短辺10mの城内最大の櫓「大納戸櫓」が建っていました。この櫓は3重4階の望楼型で、壁には黒い下見板が張られており、藩政のための書類や道具類が保管されていたそうです。小早川秀秋時代に沼城天守を移築したものと伝えられています。
沼城とは宇喜多秀家の父 直家が永禄年間(1558〜70)に築いた城で、江戸時代の絵図には天守台らしき高台が描かれています。1602(慶長6)年以前に遡る相当に古い天守であることが考えられ、城郭史を考える上でも重要な建物でした。
本丸は高さの異なる上中下の3段からなっており、それぞれ本段・中段・下段と呼びます。このような高さの異なる曲輪で形成された本丸は、豊臣秀吉の築いた大坂城に似ており、秀吉の寵愛を受けた宇喜多秀家が大坂城を真似て築いたものと考えられています。本段は秀家築城時の様子をよく残しており、その特徴は郭の輪郭に直角部がほとんどなく、緩い鈍角を多用した縄張りであることが上げられます。 -
岡山城 石垣群
右手には表書院跡下(中段)の石垣が続き、途中凹んだ部分には一風変わった雰囲気の石垣群が見られます。これが築城時の「野面積(のづらづみ)」です。
岡山城は豊臣時代の城が中段の増改築を繰り返して江戸時代にも継続して使われていたため、その石垣に構築技法の変遷が見られます。写真中央部の凹部には「野面積」、右側に見られるのは大納戸櫓跡の江戸時代初頭の「打込ハギ」、そして左端には最後期の伊部櫓跡下の「切込ハギ」と各時期の石積みを見比べて観察することができます。 -
岡山城 月見櫓下の石垣
この辺りの石垣は拡張最終期の石積みになります。犬島で切り出された白色度の高い花崗岩を丁寧に整形した切石を積み上げた「切込ハギ」になっています。
注目すべきは、隅石の切り揃えっぷりが半端ないことです。まるでナイフエッジのようです。秀家が朝鮮半島での戦いに大勝利を収めた際、朝鮮半島の石工を連れてきた影響もあり、岡山城では石垣積みの新技術が他の地域より早く入ってきています。それ故に、切石を規則的に積み、勾配は扇のような優美な曲線を描いています。
月見櫓は城外から見るとこのように2階建に見えますが、城内から見ると3階建になっています。また、城外には石落としを配した戦闘モードですが、城内からは異なる雰囲気の櫓に見えます。これについては、後ほど紹介いたします。 -
岡山城 銃眼(石狭間)
月見櫓の南と東に続く城外側の石垣の頂部には、徳川期大坂城などと共通する半円形のえぐりを入れた切石の銃眼が組み込まれています。
通常は壁に設けるため、珍しい狭間です。敵に気付かれ難いという利点があったのかもしれません。 -
岡山城 廊下門手前
天下人 豊臣秀吉の養子になり、秀吉から慕われた大大名 宇喜多秀家が、秀吉の指導の下、8年間を費やして1597(慶長2)年に完成させたのが岡山城です。築城以来、多くの人を魅了してやみません。梟雄としても名高い父 直家の居城だった石山城から300mほど東隣にある丘陵「岡山」に新しく旭川の流れを付け替え、掘削した土砂を盛り上げて3段の地形を造成して本丸を構えました。
その後、秀家は、戦国大名として豊臣家五大老を務めましたが、関ヶ原の戦いでは西軍の総師として敗北したために改易となり、八丈島へ流刑されました。代わりに小早川秀秋が入封し、備前・美作の51万石を所領としました。しかし、無嗣子で没したため、小早川家は廃絶となり、姫路藩主 池田輝政の次男 忠継が28万石で入封し、その死後は、「西国将軍」と呼ばれた池田輝政の嫡孫 池田光政の家系が江戸期を通じて治世しました。
天守の壁に黒漆塗りの下見坂を取り付けるこの時代の特徴から、外観が黒かったために「鳥城(うじょう)」や「金鳥城」とも呼ばれ、戦災前は国宝に指定されていました。 -
岡山城 廊下門
岡山城の正門は不明門ですが、不明門は藩主と側近のみが使用する門のため、ほとんど開かずの門でした。一方、通用門だったのがこの廊下門です。本丸の北側から中段に上るための門で、本段の張出部から中段にかけて上屋が渡され、その下に門扉を設けた櫓門が造られています。上屋は本段の御殿に住む藩主が中段の表書院に降りるための専用廊下に当たり、この門の名の起こりとなっています。
月見櫓と同じく1620年代に池田忠雄の代に建てられましたが、明治時代に解体され、現在の廊下門は鉄筋コンクリート製で再建されたものです。建造が池田氏の時代なので、家紋は「輪蝶(池田蝶)」となっています。
右手にある石垣はかつて池田忠雄が築いた小納戸櫓下のものになり、刻印のある石も見られるそうです。 -
岡山城 下段
廊下門(下段)から天守へのアプローチは、階段のすぐ先で九十九折れの坂になっています。鉄砲狭間などが設けられた土塀が迫り、戦国時代の気分を愉しむことができます。 -
岡山城 廊下門
廊下門の鬼瓦には、秀家が豊臣秀吉から拝領した家紋「五七桐」が見られます。
秀家が豊臣秀吉の養子となったことから、宇喜多家の剣片喰や兒文字の家紋に加え五七桐も使っています。 -
岡山城 廊下門
九十九折の坂から「コの字」状の狭い坂に入ります。
周りには狭間が配され、普通なら生きてここまで辿り着くのは至難の業です。 -
岡山城 天守
坂を登り切ると本段に到着です。
本格的な城郭造りの基礎とされる織田信長の安土城を模して作られた日本を代表する城郭建築で、城研究の鍵となる貴重な天守です。外観は2層の大入母屋の上に各層の入母屋屋根を交互に重ねています。また、防御の面では、西向きの城構えだったため、旭川を城の背後に移動させる大土木工事を行い、天然の外堀を完成させた特徴ある城となっています。
惜しくも岡山大空襲で焼失しましたが 1966(昭和41)年に鉄筋コンクリート造りで3層6重の天守の外観を復元し、岡山のシンボルとして多くの観光客を集めています。広い範囲に残る石垣の殆どは昔の状態のままで保存され 全国的にもあまり例がない希少なお城です。
天守の観覧時間は午前9時〜午後5時で、入城料は300円(後楽園との共通入場券なら520円)です。ぐるりんパスが使えます。 -
岡山城 天守
天守の最大の特徴は、不等辺五角形の天守台を持つ特異な形をした初層平面の形状です。並行となる辺は一切もなく、東西方向に長細くなっています。石垣築造技術が未発達な時代、正確な四角形の天守台を造るのが困難なことがあり、そうした場合には初層を天守台と同じ不整形にし、2層に入母屋の大屋根を掛け、その上部に正方形の望楼部を建てて天守台の歪みを吸収していました。
望楼型天守は数多ありますが、ここまで複雑な形状の天守台は岡山城と織田信長が築いた安土城(不等辺八角形の天守台)以外に例がありません。そのために岡山城は安土城を模したという伝承もあります。また、天守北面の大入母屋の隅を隠すための唐破風、一見すると3層目のように見える巨大な入母屋造りの出窓など、安土城と類似する点が多々見られます。 このことから、秀吉が自身の権威が信長を超えたことを誇示する目的で、家臣の秀家に安土城を模した天守を建てさせたという説もあります。
左手前にある白い櫓が附櫓の塩蔵です。塩蔵とは、籠城時に蓄えて塩を備蓄するための蔵です。2重2階の塩蔵の2階部分が本来の天守の入口となっていたそうです。 -
岡山城 天守
本丸は、現在も殆ど往時のまま残されており、約4ha広さがあります。天守は、石垣からの高さが20.45mあり、2階建の建物を大中小の3つに重ねた3層6階の複合式望楼型です。屋根には金箔を貼った鯱や鬼瓦、軒瓦が葺かれ、黒地に金が映えて燦然と輝く天守の偉容を演出しています。
よく見ると、各層で意匠が違えてあります。軒丸瓦は、上3層は金箔塗りですが、下3層は黒いままです。窓の格子も下4層は白漆喰ですが、上2層は黒いままです。上と下で色彩に変化を与え、違う印象を与えています。
この本段が城主の生活の場(勝手方)で、中段は城主の御座所と藩政を行う表書院が建ち並ぶ政庁の場(公事方)だったそうです。現在の中段には、多数の部屋や茶室や台所さらには土間・板の間・廊下などの間取りの表示と泉水が復元整備されています。 -
岡山城 天守
この方向から見ると整然とした平面になっているため、レゴブロックで作ったおもちゃのようにも見えます。
岡山城は、天守外壁の下見板に黒漆が塗られ、太陽光に照らされると烏の濡れ羽色によく似ていたため、「烏城(うじょう)」と呼ばれました。因みに、長野県松本市にある国宝 松本城は「烏城(からすじょう)」と呼ばれています。
壁が黒いのは秀吉が好んだからであり、戦国時代の名残です。家康が天下を取ってからは、黒を嫌って姫路城のように白壁となっていきました。
岡山藩は外様大名ゆえに幕府から睨まれない様に質素な暮しを心掛けたと言われていますが、かつての岡山城の範囲は現在の県道27号線の電車通りまで拡がり、建物の数は櫓が35棟、城門が21棟もあり、往時は日本を代表する名城だったと窺えます。 -
岡山城 天守
天守はエレベータで4階まで上がり、そこから6階へ階段で登るのが正解です。
岡山城の金鯱は、金箔押鯱瓦です。粘土製の素焼きの鯱瓦に漆を塗り、その上に金箔を施しています。他には、広島城や松本城など豊臣恩顧とされる大名の居城に見られる様式です。
金鯱や鬼瓦、軒瓦と黒漆塗りの外見板とのコントラストは、美しさを極めています。現在の岡山城の鯱は全身が金色ですが、安土桃山時代は鰭や牙、耳など部分的に金箔が施されていたそうです。そして唇は朱に染められ、黒い城の上でかなり目立つ存在だったそうです。
金鯱と言えば名古屋城が有名ですが、純金215.3kgの金が使用されていたそうです。高さは約2.6mあり、日本一の大きさを誇っていました。尾張藩の財源として2度に亘り、換金のために鱗部分の金板が剥がされ、その都度低品位の鱗が換装されています。その際、輝き具合から改鋳したことが露見することを恐れ、盗難防止という口実で金網で覆ってカモフラージュしたそうです。盗難にも2回遭っています。徳川家の金鯱の中では最も長く現存していましたが、名古屋大空襲で焼失し、現在のものは、復興天守建造の時に大阪の造幣局の地下室で製造されたものだそうです。 -
岡山城 天守 月見橋
旭川に架かかる、岡山城と後楽園を繋いでいる橋です。
見た目からも判る通り、この橋は近年架けられたものです。1957年に開催された『岡山産業文化大博覧会』へ向け、開催場所でもある岡山城と後楽園をスムーズに往来できるようにするのが目的でした。
実はこの月見橋には有料の時代があったそうです。1954年の完成から、5年間は有料の橋として運営されており、当時の金額で10円の通行料が必要だったそうです。
余談ですが、この月見橋のデザインに関しては長く賛否があります。歴史あるお城と大名庭園を結ぶ橋にしては、素材もデザインも近代的なものであり、景観にマッチしてないと言う意見があり、新たな橋の建造を求める声も少なくないようです。 -
岡山城 天守 後楽園
眼下には後楽園が広がっています。 -
岡山城 天守
5階の窓からは、2層目の千鳥破風の上に載せられた金鯱が間近に見られます。
後楽園と旭川をバックにした絶景ショットが撮れるビューポイントでもあります。 -
岡山城 天守
岡山県宮浦に自生していた推定樹齢数百年と言われる笠松の幹を使って制作された衝立です。天然記念物にも指定されていた傘を立てたような形をした松でしたが、1969(昭和44)年に松くい虫により枯れたそうです。 -
岡山城 天守 2階
天守内部は 城主が生活していた「城主の間」の遺構が再現され、大名駕籠体験コーナー、お殿様やお姫様に変身できるコスプレサービス(無料)もあるなど 歴史を学べる体感アミューズメント施設といった趣です。 -
岡山城 本段
十二村哲(とにむら てつ)作詞、飯田景応(けいおう)作曲の「岡山城」という歌があり、天守の傍らに歌碑が立てられています。
このコンビで生まれた「月の法善寺横丁」は、藤島桓夫が歌って大ヒットしました。
「岡山城」
1.栄華の夢を 現(いま)にして 雲井に映ゆる 天守閣 月見櫓よ 石垣よ
鶴が羽ばたく 後楽園も 姿変わらぬ 岡山城 -
岡山城 本段 六十一雁木上門(要害門)
旭川に臨む下段の「水の手」から直接本段に通じる門です。江戸時代初期の池田氏の時代に整備された門で、「六十一」の名は石段の数に因むものだそうです。本段御殿に勤める武士以外の者の通用口として使われていました。
石段の下には櫓門形式の六十一雁木下門、石段の上には高麗門形式の六十一雁木上門がありましたが、両門ともに明治時代に取り壊され、1966(昭和41)年に上門だけを再建しています。ただし、当時の構造とは異なり、薬医門形式となっています。 -
岡山城 本段 天守礎石群
かつての天守の礎石を本段北東の一画に配置しています。
天守は、岡山大空襲で焼け落ち、礎石だけが残ったそうです。1966(昭和41)年に鉄筋コンクリートで天守を再建する際、礎石をこの場所に移設しています。空襲で赤く焼けた痕が残され、戦争の悲惨さを物語っています。
1869(明治2)年に岡山城は国有化されましたが、維持費が嵩むことなどから不要な建物は解体され、残されたものは天守、塩蔵、月見櫓、西丸西手櫓、石山門のみでした。これらの建物は、昭和時代初期に2度に分けて国宝に指定されましたが、岡山大空襲により天守と塩蔵、石山門は灰燼に帰しました。 -
岡山城 不明門(あかずのもん)
4代藩主 池田忠雄(ただかつ)の代に完成した岡山城は、全域が32棟の城門で守られていましたが、明治維新後の廃城でこの石山門1棟を残すだけとなりました。不明門と呼ばれた石山門は、正門に相応しい風格を備えた間口9間の大型櫓門でした。ここを潜った先の本段には藩主が日常生活を営んだ御殿があり、入ることができたのは限られた身分の人だけでした。そのため通常は閉じられたままだったため、不明の名はこれに由来します。明治期に解体され、現在のものは天守閣と共に再建された鉄筋コンクリート製です。 -
岡山城 不明門
文字通り重厚な扉構えです。 -
岡山城 不明門
門左横の人の前にある巨石に書かれているのは、「岡山中学の阯」です。
この中段には、かつて表向御殿が建てられていました。この御殿は表書院とも呼ばれ、城中で最大規模かつ最高格式の殿舎群でした。南向きに建てられ、表側には玄関、広間、書院が並び藩政上の重要な儀式の場となっていました。裏側には台所と中奥があり藩主の日常生活の場、および藩政を執る政庁となっていました。
この右手にある石段を降りた所が鉄門跡です。 -
岡山城 中段
1993年の調査で宇喜多秀家時代の野面積み石垣が地中から見つかりました。この石垣は角部が70度にも尖った全国的にも珍しい石垣で、元の地形をきっちり切り通したため、珍しい石垣の隅ができあがったと考えられています。 -
岡山城 中段 月見櫓(重文)
4代藩主 池田忠雄によって元和・寛永年間(1615〜32)に建てられた隅櫓です。
かつては城内に35棟の櫓が建っていましたが、月見櫓はその中でも最も美しい櫓だったそうです。文字通り「月見」という風流を愉しむためにも用いられましたが、本来の目的は中段にあった表書院の北西を防衛するための櫓であり、出格子窓には石落としを兼ねた実戦的な造りが見られ、櫓自体は武器の貯蔵庫になっていました。
城外から見ると2階建に見えますが、城内から見るとこのように3階建になっており、1階は土蔵になっています。また、城外側は狭い隙間から敵を監視したり、石垣を登る敵を迎撃するための石落などの軍備を高めていますが、城内側の最上階は開放的で、廻り縁側を設けて開放的な印象があります。また、唐破風の出窓や出格子を多用した華麗な意匠が施され風雅な印象です。内部は、天井板を張るなど居住性を高めた造りで、戦国時代の終結を象徴する和戦両用の特徴を持つユニークな櫓です。 -
岡山城 中段 銃眼(石狭間)
月見櫓の周辺に見られる 銃眼は大坂城と江戸城平川門とここの3ヶ所でしか見られない珍しいものです。
一列に並んでおり、城外からは単なる穴にしか見えませんが、城内から見ると狭間の感じがよく判ります。 -
岡山城 中段 穴蔵
月見櫓の右脇にあり、幅3.8m、奥行2.9m、深さ2.3mの長方形をした穴です。瀬戸内海の豊島産の凝灰岩をブロック状に加工して緻密に石積みしたもので、四面の壁には漆喰が塗られていたそうです。かつては屋根が設けられており、非常用の食料を保存していたものと考えられています。 -
岡山城 下段 廊下門先
背の高い樹木が邪魔になり、折角の不等辺五角形天守の見所がだいなしです。
手前には歴代城主の旗紋が入れられた石碑が立てられ、「岡山開府四百年記念 開祖 宇喜多氏顕彰之碑」と記されています。1973(昭和48)年に岡山開府四百年を記念し、有志によって建立されました。
左上の兒文字は代表的な旗紋です。これは、「兒」を旗紋とする百済の3人の王子が備前の島(児島半島)に漂着し、この島を「兒島」(児島)と呼び習わし、3兄弟は三宅氏と称したことから発します。その一流から宇喜多氏(浮田)と名乗ったとされています。
右上の剣片喰紋(剣酢漿草)は、よく繁るので子孫繁栄の意味から直家の時代に使用されました。五七桐紋は秀家が豊臣秀吉から拝領した家紋です。右下の手裏剣のような星型正八角形の紋は初めて見ますが、このような旗紋が使われていたのでしょうか? -
岡山城 下段
かつてこの辺りには、花畑御殿が建っていたそうです。花畑御殿は、池田忠雄が築造した御殿で、公的な意味合いを持つものではなく、藩主の休養の場だったようです。ただし、本丸の他の2つの御殿に比べて規模は小さなものでした。 -
岡山城 下段
不等辺五角形の歪になっている箇所です。
天守台が歪な形状のため、こうした壮麗な構えとするには、熱達した意匠感覚と建築造営に長ける専門職人の存在が不可欠です。ましてや天守が築かれた時代には、高石垣や直角に平面を仕上げる角石積みの技術が生まれていませんでした。ですから天守台は石垣天端が不等辺五角形を呈し、歪んだ平面となっています。この歪みを3重平面で消して本来の平面に修正し、多くの飾破風で偉容を造りだす技法は、往時の超一級の技術だったに違いありません。
岡山大空襲により市街地は焼け野原となり、天守も焼失し、天守台の石垣も焼けて赤く変色したそうです。その後、天守は再建され、石垣も一部が修復されたものの今も焼けて変色したままの姿を留め、空襲の激しさを伝える生き証人となっています。 -
岡山城 下段 天守台
天守の野面積による高石垣は、この時期の全国有数の石垣遺構と言えます。石垣の石は、岡山藩の領土「犬島」から運ばれたもので、その数は28000個にも及ぶそうです。
安土城では滋賀県坂本の穴太(あのう)の里人が石垣を積んだそうですが、岡山城も穴太の人が積んでいます。「野面積」は、ゴボウのように奥行きの長い石を奥へ長く積む工法です。石は寸法通りに割られたものではなく、自然のままの形なのでどうしても石の間には空洞ができます。そこに小さい石を挟んでいます。これを乱れ積みと呼んでいます。秀家は戦国の武将らしく、切り出した石にノミも当てないで荒々しい積み方をしています。
石垣の基底が3m近くも埋まっていますが、本来は高さ16mある野面積の石垣です。関ヶ原の戦以前の石垣として全国屈指の高さを誇ります。 -
岡山城 下段 天守台
宇喜多秀家による創建時のまま現在に残されています。関ヶ原の戦い以前の古い野面積みとなっており、非常に多くの丸い石材が使用されています。
不等辺五角形の不整形な形状のため、鈍角に折れ曲がる部分が多いのですが、隅部は石材の長辺を交互に振り分けた算木積み風の積み方をしており、念入りに施工されています。算木積みの原点と言えるかもしれません。築城後400年を経てなお健在なことから、石積み技術の高さを窺い知ることができます。 -
月見橋
旭川は、岡山県中央部を流れる旭川水系の本流で、吉井川と高梁川と並ぶ岡山三大河川のひとつです。支流は146あり、それらを含めた河川総延長は821.9kmに及びます。上流域では中国山地を流れて深い谷を形成し、中流域では吉備高原のたおやかな丘陵地や扇状地性の落合盆地などを形成しながら蛇行しています。下流域では川の堆積作用や干拓によって岡山平野が形成され、最後は瀬戸内海の児島湾に注ぎ込んでいます。
秀家が岡山城を築城した際、城の防御のために城の北面から東面に添わせるように旭川の流路を蛇行させる土木工事を行い、それまでの流路よりも西に付け替えました。これに伴う流路の不自然な蛇行と上流域での樹木の伐採による山の荒廃、河床の上昇などの要因が重なり、岡山城下は度々洪水に見舞われたそうです。
何故しこまでする必要があったのかは、城の縄張りを見渡せば判ります。基本的には梯郭式であり、3段の城郭配置が西側の一方だけに広がる平山城になっています。換言すれば、本丸の北から東には郭(外囲い)が無い、非常に防備が薄い縄張になっています。そのため旭川の流路を変更して、天然の堀として東側の備えに利用したと考えられています。更には、郭の代りに「後園(後楽園)」を築いたとも言われています。
因みに、洪水被害に関しては、藩主 光政に仕えた陽明学者 熊沢蕃山が「川除けの法」を考案し、百間川を開削して治水対策が講ぜられ解消したそうです。百間川は操山の北麓に添うように流れ、東岡山地区から南流して児島湾に注ぐ、全長12.9km、川幅約200mの放水路です。 -
月見橋
悠久の時の流れを刻むように悠然とたゆたう旭川の傍らには、ドラマティックな歴史を刻んだ烏城がその美しさを魅せてくれています。 -
蓬莱橋
岡山城を後にして向かったのは後楽園でしたが、写真枚数の関係で先に「夢二郷土美術館本館」をレポいたします。
後楽園からは目と鼻の先です。後楽園と夢二郷土美術館を繋ぐのが旭川に架けられたこの蓬莱橋です。
蓬莱橋の欄干には、このように夢二作品のパネルが展示されています。 -
夢二郷土美術館本館
後楽園の近所に1984年の竹久夢二生誕100年を記念して開館しました。正面から見るとアーチ型の玄関に風見鶏が印象的な三角屋根の赤煉瓦造の洋風建築ですが、横から建物の裏側にかけては、夢二が好んだ土蔵のような白壁に海鼠壁といった和洋折衷タイプで、夢二が活躍した大正時代の風情を偲ぶに相応しい雰囲気を湛えています。
設計者は倉敷市出身で倉敷国際ホテルやアイビースクエアなどを手掛けられた浦辺鎮太郎氏です。
本館には、夢二の描いた掛け軸や屏風、版画、油彩画、水彩画、スケッチや、夢二が書いた本やデザインした本・楽譜の表紙、手紙など、作品と資料あわせて3000点を収蔵しています。本館では、約100点の夢二作品を常設展示しています。
本館は、ミシュランのガイドブックで一ツ星にランクされています。 -
夢二郷土美術館本館
夢二の「里がえり」を願って1966(昭和41)年に創設されてから今年が50周年を迎えることから、夢二芸術の原点となる故郷をテーマとした企画展「創設50周年 郷愁の想い ふるさと岡山を愛した夢二」を開催しています。(〜2016年7月3日)
1918(大正7)年に夢二と共に滞岡した恋人 笠井彦乃が逗留先の友人にお礼として贈った屏風作品「あじさいの女」(大正7年 個人蔵)を30年ぶりに特別公開していました。彦乃が描いた肉筆作品は3点しか現存しておらず、その中でも「あじさいの女」は肉筆では最後の作品で大変貴重なものとされています。(「あじさいの女」の展示は5月15日までです。) -
夢二郷土美術館本館
憂いを秘めた大きな瞳、独特の大きな手足とS字に描かれた女性たちの絵は、今でも通用する斬新さ、優しさ、乙女心をくすぐる何かを持っています。
夢二の記念館は、当方が知るだけでも全国に8つあります。岡山市、瀬戸内市邑久町の夢二生家と少年山荘、伊香保温泉、酒田市、東京都文京区、栃木県日光、金沢市です。しかし、これほどまで多くの記念館を持つ人物を他に知りません。それだけ人気があり、また各地で活躍した証と言えます。 -
夢二郷土美術館本館
この記念館を造る際、「郷土という文字は、ない方が簡潔でいい」という意見に対し、開館に尽力された初代館長 松田基氏は、郷土の2文字があることにこの美術館の意味があり、2つとない美術館なのだと静かに答え、その先は詳しく語らなかったそうです。 -
夢二郷土美術館本館
館内は、カフェ「松香(まつか)」を除いて撮影禁止です。
「松香」とは、夢二の姉の名前です。夢二郷土美術館分館(邑久町の夢二の生家)にある夢二が少年時代を過ごした部屋からは、生き生きとした豊かな農村風景が見られます。慕っていた姉があぜ道を嫁ぐ後ろ姿を格子の窓越しに眺め、姉を思って柱に墨で書いた姉の名「松香」と夢二の本名「茂次郎(もじろう)」が、百年を経た今でもうっすらと残っているそうです。
懐かしい母や黒髪の美しい姉への思いが、優しく憂いを秘めた夢二式美人の伏線になっています。また、夢二の作品には過ぎ去ったものを懐かしむ想いが秘められています。母や姉など女性のぬくもり、子供の哀歓、未だまだ見ぬものへの憧憬、自然の移ろいなど邑久郡本庄村で過ごした幼少時の情景が、作品の原点となっています。多くの美人画を残し、抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれ、「大正の浮世絵師」などと呼ばれていました。 -
夢二郷土美術館本館
玄関を入り展示室に進むと広い展示室の壁に作品が並び、中央のケースには夢二が制作した本の装幀や絵本などが並んでいます。
恋多き夢二の人生で、夢二が本当に愛したのは彦乃だったと言われています。
『夢二の恋文 』より
灯を消して、床へゆきます。
彦乃さん。
丈夫でゐて下さい。
静かに静かにねむりませう。
カーテンを深くたれてねむりませう。
ふたりの床を見られぬために。
灯をけしてねませう。
きみへのおもひを知られぬために。
そつとしづかにねませう。
それはいたづらな運命に このひそやかな幸福をねたまれぬために。
あはれきみしのびなくとも ねなたてそ ふたりがこひをしられぬがため。
恋の小鳥をのがさぬやうに。 -
夢二郷土美術館本館
売店の先にある中庭には枝垂梅が植えられ、春先には見所のひとつに加えられます。その他、モネを彷彿とさせる蓮や苔なども雰囲気を醸しています。
笠井 彦乃(1896〜1920年)
日本橋の紙問屋の娘として裕福に育ち、女子美術学校の学生となる。夢二のファンであり、絵を習いたいと「港屋絵草子店」を訪問して交際が始まりました。
岸他万喜と別れ京都に移り住んだ夢二としばらく同棲しましたが、九州旅行中の夢二を追う途中、別府温泉で結核を発病。父の手によって東京に連れ戻され、夢二は本郷菊富士ホテルに移るが、面会を遮断される。御茶ノ水順天堂医院に入院した彦乃は、わずか25歳で短い人生を終えました。
夢二は、その死後しばらくショックから立ち直れなかったようで、『彦乃日記』を綴っています。『秘薬紫雪』は夢二と彦乃がモデルの作品であり、まさに美人薄命で、夢二の心に永遠に残る人でした。 -
夢二の余韻に浸りつつ、JR岡山駅へ戻りました。
7000形7001号は猫耳が付けられ、猫の絵が書かれた「たま電車」です。何とJR九州の豪華寝台列車「ななつ星」を手がけられた水戸岡鋭治氏のデザインにより、可愛いたま駅長のキャラクターが35匹もデザインされています。
岡山電気軌道は、グループ会社「和歌山電鉄」の動物駅長ブームの火付け役となった貴志駅の駅長猫「たま」に因んで、車体に猫の絵を描いています。また、岡山生まれの後継駅長「ニタマ」の鳴き声を降車を知らせるブザー音として採用しています。押しボタンには、ニタマの顔と肉球のイラストが描かれているそうです。猫の手をとことん借りて電車の魅力を高めようという趣旨のものだそうです。
この続きは、松風水月 吉備路逍遥②後楽園でお届けいたします。
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