総社・吉備路旅行記(ブログ) 一覧に戻る
吉備津神社は、吉備津彦命を主祭神とする山陽道屈指の大社です。『続日本後紀』にその名が記された由緒も格式もある社は、歌枕にも詠まれたご神体「吉備の中山」の西麓に鎮座しています。<br />平安時代には朝廷が崇める「名神神社」に名を連ね、神階の最高位である「一品」の位を授けられたことで「一品吉備津宮」あるいは吉備国総鎮守「三備(備前・備中・備後)の一ノ宮」と称していました。朝廷や武家の篤い庇護を受け、今の姿を留めています。<br />全国で唯一の独創的な日本建築の傑作「吉備津造(比翼入母屋造)」の優美な本殿および拝殿が国宝に指定されています。<br />また、国の重要文化財に指定されている南・北随神門や室町時代中世の建築様式を色濃く残した見応えのある建造物が配置されています。そして本殿から続く総延長398mの美しい廻廊も吉備津神社の見所のひとつです。信仰の場ではありますが、歴史文化遺産としての興味も尽きない社です。えびす宮など多くの摂社を繋ぐ廻廊沿いには季節の花々や樹齢600年以上と伝わる大銀杏をはじめ樹木が整備され、参詣客の目を和ませてくれます。<br />また、釜の鳴る音で吉凶を占う鳴釜の神事や桃太郎伝説のモデルなどでも知られ、神話と吉備国の古代ミステリーが渦巻く興味の尽きない神社でもあります。<br /><br />吉備津神社 境内マップです。<br />http://www.kibitujinja.com/map/

青嵐薫風 吉備路逍遥④吉備津神社

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2016/05/01 - 2016/05/01

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

吉備津神社は、吉備津彦命を主祭神とする山陽道屈指の大社です。『続日本後紀』にその名が記された由緒も格式もある社は、歌枕にも詠まれたご神体「吉備の中山」の西麓に鎮座しています。
平安時代には朝廷が崇める「名神神社」に名を連ね、神階の最高位である「一品」の位を授けられたことで「一品吉備津宮」あるいは吉備国総鎮守「三備(備前・備中・備後)の一ノ宮」と称していました。朝廷や武家の篤い庇護を受け、今の姿を留めています。
全国で唯一の独創的な日本建築の傑作「吉備津造(比翼入母屋造)」の優美な本殿および拝殿が国宝に指定されています。
また、国の重要文化財に指定されている南・北随神門や室町時代中世の建築様式を色濃く残した見応えのある建造物が配置されています。そして本殿から続く総延長398mの美しい廻廊も吉備津神社の見所のひとつです。信仰の場ではありますが、歴史文化遺産としての興味も尽きない社です。えびす宮など多くの摂社を繋ぐ廻廊沿いには季節の花々や樹齢600年以上と伝わる大銀杏をはじめ樹木が整備され、参詣客の目を和ませてくれます。
また、釜の鳴る音で吉凶を占う鳴釜の神事や桃太郎伝説のモデルなどでも知られ、神話と吉備国の古代ミステリーが渦巻く興味の尽きない神社でもあります。

吉備津神社 境内マップです。
http://www.kibitujinja.com/map/

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
JRローカル

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  • 北参道 社号標<br />吉備津彦神社から10分程で到着です。<br />社号標は、5・15事件で凶弾に倒れた犬養毅の揮毫になります。犬養家は、吉備津彦命の吉備平定に従った犬飼建命(いぬかいたけるのみこと)に始まる家系とされ、建命は犬を飼うのが役目だったそうです。犬養毅の敬神の心は、ここに刻まれた「随身後裔犬養毅敬題」の文字からも読み取ることができます。<br />因みに、神社の授与品の吉備津狛犬という土人形は、吉備津彦と温羅の戦いの折、家来の犬が手柄を立てたことに由来します。<br />神域への入口、境界線を表すのが注連縄です。注連縄が張られた鳥居を潜って神域へと入ると自然と背筋が伸びます。

    北参道 社号標
    吉備津彦神社から10分程で到着です。
    社号標は、5・15事件で凶弾に倒れた犬養毅の揮毫になります。犬養家は、吉備津彦命の吉備平定に従った犬飼建命(いぬかいたけるのみこと)に始まる家系とされ、建命は犬を飼うのが役目だったそうです。犬養毅の敬神の心は、ここに刻まれた「随身後裔犬養毅敬題」の文字からも読み取ることができます。
    因みに、神社の授与品の吉備津狛犬という土人形は、吉備津彦と温羅の戦いの折、家来の犬が手柄を立てたことに由来します。
    神域への入口、境界線を表すのが注連縄です。注連縄が張られた鳥居を潜って神域へと入ると自然と背筋が伸びます。

  • 矢置岩<br />社号標の反対側には、主祭神の吉備津彦が鬼神である温羅を討った時に使った矢を置いたとされる岩が史跡として大切に保存されています。<br />吉備路を舞台に繰り広げられた古代の熱い戦いには、いずれにも正義があり、それ故に1700年以上の時を超え、温羅が根城としたとする「鬼城」をはじめ、矢と岩がぶつかって落ちた場所「矢喰宮」、吉備津彦が放った矢が温羅の左目を射抜き、噴き出した血で川が真っ赤に染まったとされる「血吸川」、鯉に変身した温羅と鵜に変身した吉備津彦が攻防を繰り広げた「鯉喰神社」などが今に伝承されています。<br />毎年、1月3日に「矢立ての神事」が行われ、この矢置岩に神事で使用する矢が置かれます。温羅が射た矢を空中で捉えたのが矢取明神で、本殿に合祀されています。

    矢置岩
    社号標の反対側には、主祭神の吉備津彦が鬼神である温羅を討った時に使った矢を置いたとされる岩が史跡として大切に保存されています。
    吉備路を舞台に繰り広げられた古代の熱い戦いには、いずれにも正義があり、それ故に1700年以上の時を超え、温羅が根城としたとする「鬼城」をはじめ、矢と岩がぶつかって落ちた場所「矢喰宮」、吉備津彦が放った矢が温羅の左目を射抜き、噴き出した血で川が真っ赤に染まったとされる「血吸川」、鯉に変身した温羅と鵜に変身した吉備津彦が攻防を繰り広げた「鯉喰神社」などが今に伝承されています。
    毎年、1月3日に「矢立ての神事」が行われ、この矢置岩に神事で使用する矢が置かれます。温羅が射た矢を空中で捉えたのが矢取明神で、本殿に合祀されています。

  • 北随神門(重文)<br />北の参道の急峻な石段の上に建つ、入母屋造、桧皮葺、三間一戸の8脚門で、室町時代中期(15世紀半)の建造とされています。<br />木部は全て丹塗りで壁は白塗り、左右に随神(夜目山主命・夜目麿命)が安置されています。温羅を退治する際、楯築遺跡の西方から駆けつけたという武勇の父子です。

    北随神門(重文)
    北の参道の急峻な石段の上に建つ、入母屋造、桧皮葺、三間一戸の8脚門で、室町時代中期(15世紀半)の建造とされています。
    木部は全て丹塗りで壁は白塗り、左右に随神(夜目山主命・夜目麿命)が安置されています。温羅を退治する際、楯築遺跡の西方から駆けつけたという武勇の父子です。

  • 割拝殿<br />随神門を潜ると更に石段が続き、今度は割拝殿があります。そして割拝殿を潜ると漸く境内に入ります。<br /><br />吉備津神社は、吉備津彦を主祭神とし、その異母弟の若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)とその子 吉備武彦命(きびたけひこのみこと)などを合祀しています。<br />神話の世界まで遡るという吉備津神社の社伝によれば、吉備津彦が陣を張った場所がこの地で、その後、吉備の中山に茅葺宮を築き、仁政を行ったと伝えられています。281歳まで生きたとされ、平安と秩序を築き、中山の頂上にある茶臼山古墳に薨去しています。その子孫が後世に吉備の国造となり、古代豪族 吉備臣になったと伝承されています。後に仁徳天皇が吉備国に行幸した際、吉備津彦の功績を称え、宮跡に社殿を創建したことが社のはじまりとしています。

    割拝殿
    随神門を潜ると更に石段が続き、今度は割拝殿があります。そして割拝殿を潜ると漸く境内に入ります。

    吉備津神社は、吉備津彦を主祭神とし、その異母弟の若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)とその子 吉備武彦命(きびたけひこのみこと)などを合祀しています。
    神話の世界まで遡るという吉備津神社の社伝によれば、吉備津彦が陣を張った場所がこの地で、その後、吉備の中山に茅葺宮を築き、仁政を行ったと伝えられています。281歳まで生きたとされ、平安と秩序を築き、中山の頂上にある茶臼山古墳に薨去しています。その子孫が後世に吉備の国造となり、古代豪族 吉備臣になったと伝承されています。後に仁徳天皇が吉備国に行幸した際、吉備津彦の功績を称え、宮跡に社殿を創建したことが社のはじまりとしています。

  • 北随神門<br />振り返ると眼下に桧皮葺の北随神身門が佇んでいます。<br />吉備津彦神社のレポでは、ヤマト王権から派遣された吉備津彦が吉備国を治めていた豪族 温羅一族を攻め滅ぼし、この討伐の伝承が『桃太郎伝説』の元になったと記しました。<br />温羅一族が住んでいた「鬼ヶ島」は、今も「鬼城山」として総社市に存在し、古代城郭遺跡が残されています。発掘調査によると、朝鮮式の山城で、城壁の総延長は2.8km、城内の面積は30haにもおよぶ巨大要塞だそうです。吉備津彦は、『記紀』にも登場する人物で、吉備という名前から察してこの地方と関わりのあった人物と考えられ、恐らく吉備という名は後世に付与されたものと思われます。

    北随神門
    振り返ると眼下に桧皮葺の北随神身門が佇んでいます。
    吉備津彦神社のレポでは、ヤマト王権から派遣された吉備津彦が吉備国を治めていた豪族 温羅一族を攻め滅ぼし、この討伐の伝承が『桃太郎伝説』の元になったと記しました。
    温羅一族が住んでいた「鬼ヶ島」は、今も「鬼城山」として総社市に存在し、古代城郭遺跡が残されています。発掘調査によると、朝鮮式の山城で、城壁の総延長は2.8km、城内の面積は30haにもおよぶ巨大要塞だそうです。吉備津彦は、『記紀』にも登場する人物で、吉備という名前から察してこの地方と関わりのあった人物と考えられ、恐らく吉備という名は後世に付与されたものと思われます。

  • 割拝殿<br />一方、別の『桃太郎伝説』も存在します。それは、温羅は、ヤマト王権の吉備国侵略に立ち向かって侵略者 吉備津彦と戦った英雄とも解釈できる伝承です。<br />温羅は、唐・新羅との戦いに敗れて古来より交流のあった吉備国に逃れてきた百済の皇子でした。この地に山城を築き、製鉄技術等の先進技術を吉備国にもたらし、これにより吉備国は急速に繁栄していきました。これを脅威に感じたヤマト王権は、吉備国の山地の製鉄民と平地の農耕民との争に介入し、吉備津彦を派遣して温羅を滅ぼすと同時に吉備国を征服すると言う漁夫の利を得たと言う説話です。<br />歴史は勝者が創ると言われる通り、やがて温羅は悪人に刷り替えられ、終いには『桃太郎』の中では鬼にされたのです。この点は、出雲神話におけるスサノオの八岐大蛇退治の解釈と同様です。<br />一般には、これらの伝承はヤマト王権による吉備国征服の歴史が描かれたものと解釈されます。凶悪な支配者に苦しむ民衆を救うために悪人を討ったとするのは侵略者の常套手段に過ぎず、要はヤマト王権が吉備国を攻め、その版図の下に置いた歴史を正当化するための伝承と考えられます。<br />しかしこの社を見る限りでは、後者の伝説の方が信憑性がありそうです。何故かと言えば、南・北随神門が、この地に祀られた精霊を封印しているように窺えるからです。いずれにしても、この地方がヤマト王権を脅かすような繁栄を続けていたことは疑いようもなく、その後のヤマト王権の発展に寄与した可能性は高いと思われます。「吉備王朝」とまでは言えないまでも、相当な権力を持った豪族達が、出雲やヤマトと肩を並べるような国家を形成していたことになります。<br />吉備路を辿ると、史実と伝説が入り交じったミステリアスな古代ロマンの香が漂ってきます。

    割拝殿
    一方、別の『桃太郎伝説』も存在します。それは、温羅は、ヤマト王権の吉備国侵略に立ち向かって侵略者 吉備津彦と戦った英雄とも解釈できる伝承です。
    温羅は、唐・新羅との戦いに敗れて古来より交流のあった吉備国に逃れてきた百済の皇子でした。この地に山城を築き、製鉄技術等の先進技術を吉備国にもたらし、これにより吉備国は急速に繁栄していきました。これを脅威に感じたヤマト王権は、吉備国の山地の製鉄民と平地の農耕民との争に介入し、吉備津彦を派遣して温羅を滅ぼすと同時に吉備国を征服すると言う漁夫の利を得たと言う説話です。
    歴史は勝者が創ると言われる通り、やがて温羅は悪人に刷り替えられ、終いには『桃太郎』の中では鬼にされたのです。この点は、出雲神話におけるスサノオの八岐大蛇退治の解釈と同様です。
    一般には、これらの伝承はヤマト王権による吉備国征服の歴史が描かれたものと解釈されます。凶悪な支配者に苦しむ民衆を救うために悪人を討ったとするのは侵略者の常套手段に過ぎず、要はヤマト王権が吉備国を攻め、その版図の下に置いた歴史を正当化するための伝承と考えられます。
    しかしこの社を見る限りでは、後者の伝説の方が信憑性がありそうです。何故かと言えば、南・北随神門が、この地に祀られた精霊を封印しているように窺えるからです。いずれにしても、この地方がヤマト王権を脅かすような繁栄を続けていたことは疑いようもなく、その後のヤマト王権の発展に寄与した可能性は高いと思われます。「吉備王朝」とまでは言えないまでも、相当な権力を持った豪族達が、出雲やヤマトと肩を並べるような国家を形成していたことになります。
    吉備路を辿ると、史実と伝説が入り交じったミステリアスな古代ロマンの香が漂ってきます。

  • 拝殿<br />拝殿前には、漢学者 三島毅の揮毫の扁額「平賊安民(賊を平らげ、民を安くす)」が掲げられています。まさに、吉備津彦と温羅との戦い「桃太郎伝説」を語っているのだと思いますが、勝ち組の視点になるものです。<br />ヤマト王権が中央集権化を進めるに当たって平定された地方勢力は、全て野蛮、粗暴であり、「民衆を苦しめる鬼」とされました。本来はどちらかが善でどちらかが悪ということではなかったはずです。しかし、単なる征服ではヤマト王権にとって不都合な真実のため、「敗者は鬼」にされ、「勝者は英雄」として祀り上げられたのです。<br />扁額が奉納されたのは1918(大正7)年だそうでから、日本が欧米列強と謀って「シベリア出兵」を行なった年に当たります。すなわち、ここでいう「賊」とは、社会主義化したロシアを指し、「赤鬼」はボルシェビキを指していたとも考えられます。鬼の対象は時代毎に変遷し、権力者に都合よく利用されてきたのでしょう。<br />因みに、三島毅は、幕末に倉敷市に生まれ、西洋文化の摂取に躍起になっていた明治時代にあって、東洋の文化を学んで日本人の本来の姿を知ることこそが重要だと考え、漢学塾「二松学舎」を創立し、多くの逸材を輩出した人物です。ここで学んだ人物には、犬養毅をはじめ夏目漱石、女性の権利を訴えた平塚雷鳥、日本オリンピックの父 嘉納治五郎など多彩な顔触れです。一方、大正天皇の皇太子時代の教育係を務めるなど皇室とも深い関わりがあり、それがこの扁額の所以なのかもしれません。

    拝殿
    拝殿前には、漢学者 三島毅の揮毫の扁額「平賊安民(賊を平らげ、民を安くす)」が掲げられています。まさに、吉備津彦と温羅との戦い「桃太郎伝説」を語っているのだと思いますが、勝ち組の視点になるものです。
    ヤマト王権が中央集権化を進めるに当たって平定された地方勢力は、全て野蛮、粗暴であり、「民衆を苦しめる鬼」とされました。本来はどちらかが善でどちらかが悪ということではなかったはずです。しかし、単なる征服ではヤマト王権にとって不都合な真実のため、「敗者は鬼」にされ、「勝者は英雄」として祀り上げられたのです。
    扁額が奉納されたのは1918(大正7)年だそうでから、日本が欧米列強と謀って「シベリア出兵」を行なった年に当たります。すなわち、ここでいう「賊」とは、社会主義化したロシアを指し、「赤鬼」はボルシェビキを指していたとも考えられます。鬼の対象は時代毎に変遷し、権力者に都合よく利用されてきたのでしょう。
    因みに、三島毅は、幕末に倉敷市に生まれ、西洋文化の摂取に躍起になっていた明治時代にあって、東洋の文化を学んで日本人の本来の姿を知ることこそが重要だと考え、漢学塾「二松学舎」を創立し、多くの逸材を輩出した人物です。ここで学んだ人物には、犬養毅をはじめ夏目漱石、女性の権利を訴えた平塚雷鳥、日本オリンピックの父 嘉納治五郎など多彩な顔触れです。一方、大正天皇の皇太子時代の教育係を務めるなど皇室とも深い関わりがあり、それがこの扁額の所以なのかもしれません。

  • 本殿<br />拝殿は、本殿の前方部に接続される切妻、妻入の一重屋根を持つ建物であり、本殿とは元々一体のものとして設計されています。前面と左右の3方に本瓦葺の裳階(こもし)と呼ばれる飾り屋根が付くのが特徴です。<br />本殿と拝殿は過去2回の火災によって焼失していますが、現在の本殿と拝殿は今から約600年前の室町時代、将軍 足利義満の時代に25年の歳月をかけて1425(応永32)年に再建されたものです。それ以来、屋根の葺き替え以外は解体修理もなく、その雄大かつ流麗な姿を今に伝えています。

    本殿
    拝殿は、本殿の前方部に接続される切妻、妻入の一重屋根を持つ建物であり、本殿とは元々一体のものとして設計されています。前面と左右の3方に本瓦葺の裳階(こもし)と呼ばれる飾り屋根が付くのが特徴です。
    本殿と拝殿は過去2回の火災によって焼失していますが、現在の本殿と拝殿は今から約600年前の室町時代、将軍 足利義満の時代に25年の歳月をかけて1425(応永32)年に再建されたものです。それ以来、屋根の葺き替え以外は解体修理もなく、その雄大かつ流麗な姿を今に伝えています。

  • 拝殿<br />本殿内部の構成も異例です。一般的には本殿の内部には人が入れないものですが、この本殿は江戸時代までは俗人も立ち入れ、各所に祀られている諸神を順拝できたそうです。<br />内部は3重構成になっており、外陣、中陣、内陣と内側に行くほど床と天井を高くしています。これは礼拝儀式に関連しているともの考えられ、機能上これだけの広さと高さが必要だったようです。<br />この規模の建物にひとつの巨大な屋根を架けると、自重が重くなって構造的に不利になり、また外観が単調になるというデメリットもあります。これらを避けるために屋根の複数化というアイデアが採られました。これを現代に応用したのが、村野藤吾氏の設計になる大阪新歌舞伎座と言われています。

    拝殿
    本殿内部の構成も異例です。一般的には本殿の内部には人が入れないものですが、この本殿は江戸時代までは俗人も立ち入れ、各所に祀られている諸神を順拝できたそうです。
    内部は3重構成になっており、外陣、中陣、内陣と内側に行くほど床と天井を高くしています。これは礼拝儀式に関連しているともの考えられ、機能上これだけの広さと高さが必要だったようです。
    この規模の建物にひとつの巨大な屋根を架けると、自重が重くなって構造的に不利になり、また外観が単調になるというデメリットもあります。これらを避けるために屋根の複数化というアイデアが採られました。これを現代に応用したのが、村野藤吾氏の設計になる大阪新歌舞伎座と言われています。

  • 割拝殿<br />参拝を終えて割拝殿を振り返ると、赤い提灯の上には「敬神」とあります。<br />

    割拝殿
    参拝を終えて割拝殿を振り返ると、赤い提灯の上には「敬神」とあります。

  • 本殿・拝殿(国宝)<br />不思議なことに吉備津神社本殿の外陣の4隅には御崎神社があります。それぞれ、艮(うしとら)、坤(ひつじさる)、巽(たつみ)、乾(いぬい)と名付けられ、これらは方角を表しています。そして表鬼門の丑寅(北東)にある艮御崎神社の所には、鬼面が置かれています。実は、ここの厨子に祀られているのは、吉備津彦と戦って破れた温羅の精霊です。本殿の中に温羅が祀られているというのがミソです。<br />こうしたことから、温羅一族の怨霊を鎮めるために創建された神社と噂されるのかもしれません。温羅が祟ったというのは、温羅に正義があったことの証左と言えます。事実、温羅の怨霊が強く、人々を畏敬させたため、備中各地には御崎神社(御崎大明神もしくは園崎神社)と称する神社が多く建てられており、その多くは吉備津神社の末社として艮御崎宮を祀っています。<br />後白河法皇の撰になる今様歌謡集『梁塵秘抄』に「丑寅みさぎは恐ろしや」とあり、平安末期、すでに艮御崎神の怨霊が人々に畏怖され、庶民の信仰の対象として歌にまで詠まれていたことが窺えます。<br />また、現在でも備中・備後の村々の中には「丑寅みさき」を氏神として祀る家が多くあるそうです。これは平安朝から陰陽道的な信仰によって温羅成敗の神話が潤色されたものと察しますが、吉備津彦の温羅成敗という神話に歴史的事実の投影があったことを物語るものと考えられます。

    本殿・拝殿(国宝)
    不思議なことに吉備津神社本殿の外陣の4隅には御崎神社があります。それぞれ、艮(うしとら)、坤(ひつじさる)、巽(たつみ)、乾(いぬい)と名付けられ、これらは方角を表しています。そして表鬼門の丑寅(北東)にある艮御崎神社の所には、鬼面が置かれています。実は、ここの厨子に祀られているのは、吉備津彦と戦って破れた温羅の精霊です。本殿の中に温羅が祀られているというのがミソです。
    こうしたことから、温羅一族の怨霊を鎮めるために創建された神社と噂されるのかもしれません。温羅が祟ったというのは、温羅に正義があったことの証左と言えます。事実、温羅の怨霊が強く、人々を畏敬させたため、備中各地には御崎神社(御崎大明神もしくは園崎神社)と称する神社が多く建てられており、その多くは吉備津神社の末社として艮御崎宮を祀っています。
    後白河法皇の撰になる今様歌謡集『梁塵秘抄』に「丑寅みさぎは恐ろしや」とあり、平安末期、すでに艮御崎神の怨霊が人々に畏怖され、庶民の信仰の対象として歌にまで詠まれていたことが窺えます。
    また、現在でも備中・備後の村々の中には「丑寅みさき」を氏神として祀る家が多くあるそうです。これは平安朝から陰陽道的な信仰によって温羅成敗の神話が潤色されたものと察しますが、吉備津彦の温羅成敗という神話に歴史的事実の投影があったことを物語るものと考えられます。

  • 本殿・拝殿<br />桁行14.6m、梁間17.7m、棟高12m、建坪255平方mの桧皮葺の巨大な本殿は、京都 八坂神社に次ぐ大きさを誇り、また出雲大社の2倍以上の広さがあります。<br />白漆喰で築いた異様に高い亀腹の上に北面して建つ一重の神殿で、軸部の円柱は直径48cmあり、高さ6mのアスナロウと言う木材を内外合わせて68本使っています。屋根は、入母屋の千鳥破風を前後に各2つ並べ、それらを同じ高さの棟で結んで桧皮で葺き、ひとつにまとめた大胆な構造です。上から見ると棟はカタカナの「エ」の字型に見えます。破風が隣り合う様子は、「番(つがい)の鳳(おおとり)が翼を広げた姿」とも称され、優美で軽やかな印象があり、見惚れるほどの社殿です。<br />建築学では「比翼入母屋造」と言います。全国で唯一無二の独創的な様式として単に「吉備津造」とも呼ばれていましたが、近年、千葉県市川市の法華経寺祖師堂の本殿にかつて同様の屋根が架けられていたことが判明し、2007年に比翼入母屋造で再建されたため、現在は日本に2つと言うことになっています。

    本殿・拝殿
    桁行14.6m、梁間17.7m、棟高12m、建坪255平方mの桧皮葺の巨大な本殿は、京都 八坂神社に次ぐ大きさを誇り、また出雲大社の2倍以上の広さがあります。
    白漆喰で築いた異様に高い亀腹の上に北面して建つ一重の神殿で、軸部の円柱は直径48cmあり、高さ6mのアスナロウと言う木材を内外合わせて68本使っています。屋根は、入母屋の千鳥破風を前後に各2つ並べ、それらを同じ高さの棟で結んで桧皮で葺き、ひとつにまとめた大胆な構造です。上から見ると棟はカタカナの「エ」の字型に見えます。破風が隣り合う様子は、「番(つがい)の鳳(おおとり)が翼を広げた姿」とも称され、優美で軽やかな印象があり、見惚れるほどの社殿です。
    建築学では「比翼入母屋造」と言います。全国で唯一無二の独創的な様式として単に「吉備津造」とも呼ばれていましたが、近年、千葉県市川市の法華経寺祖師堂の本殿にかつて同様の屋根が架けられていたことが判明し、2007年に比翼入母屋造で再建されたため、現在は日本に2つと言うことになっています。

  • 本殿・拝殿<br />一童社へ登る石段からは、このように屋根の全体を見渡すことができます。<br />本殿には東大寺の再建に尽力した僧 重源が大陸から持ち込んだという大仏様「挿肘木」の組物が備えられ、本殿の深い軒や回縁を支柱を使わずに一軒で造り、美しく調和した建築美を創出しています。また、神社建築に大仏様が使われているのは、吉備津神社だけです。その規模、特異性が中世を代表する大型神社建築を象徴しています。

    本殿・拝殿
    一童社へ登る石段からは、このように屋根の全体を見渡すことができます。
    本殿には東大寺の再建に尽力した僧 重源が大陸から持ち込んだという大仏様「挿肘木」の組物が備えられ、本殿の深い軒や回縁を支柱を使わずに一軒で造り、美しく調和した建築美を創出しています。また、神社建築に大仏様が使われているのは、吉備津神社だけです。その規模、特異性が中世を代表する大型神社建築を象徴しています。

  • 一童社<br />学術神・遊芸の神として江戸時代の国学者達も篤く信仰した社です。<br />近年は受験の神様として信仰されています。願いを書いた絵馬を吊るす場所が、ユニークなトンネル状になっています。絵馬に願いを書き、「祈願トンネル」に吊るし、トンネルを潜った先にある「一童社」でお祈りをすると願いが叶うと言われています。

    一童社
    学術神・遊芸の神として江戸時代の国学者達も篤く信仰した社です。
    近年は受験の神様として信仰されています。願いを書いた絵馬を吊るす場所が、ユニークなトンネル状になっています。絵馬に願いを書き、「祈願トンネル」に吊るし、トンネルを潜った先にある「一童社」でお祈りをすると願いが叶うと言われています。

  • 一童社 祈願トンネル<br />絵馬がびっしりと奉納されています。<br />

    一童社 祈願トンネル
    絵馬がびっしりと奉納されています。

  • 一童社<br />祈願を達成した両目のダルマが沢山奉納されていました。<br />霊験あらたかなようです。

    一童社
    祈願を達成した両目のダルマが沢山奉納されていました。
    霊験あらたかなようです。

  • 銅鐘(国指定重要美術品)<br />拝殿前の授与所脇には、永正17年(1520年)の銘を持つ吉備津宮の銅鐘が展示されています。大工林但馬守藤原家朝として阿曾村に住む鋳物師 林家朝の名が見られます。

    銅鐘(国指定重要美術品)
    拝殿前の授与所脇には、永正17年(1520年)の銘を持つ吉備津宮の銅鐘が展示されています。大工林但馬守藤原家朝として阿曾村に住む鋳物師 林家朝の名が見られます。

  • おみくじの販売機<br />桃太郎のモデルとされている「吉備津彦」を主祭神としていることから、境内にあるおみくじの販売機は、各面に昔話『桃太郎』の場面が色彩豊かに描かれています。

    おみくじの販売機
    桃太郎のモデルとされている「吉備津彦」を主祭神としていることから、境内にあるおみくじの販売機は、各面に昔話『桃太郎』の場面が色彩豊かに描かれています。

  • 南随神門(重文)<br />本殿から本宮や御釜殿につながる廻廊の入口にある、入母屋造、本瓦葺、三間一戸の8脚門です。屋根以外は北随神門と構造・様式とも似ています。<br />社記・棟札などから、南北朝時代の1357(延文2)年の再建とされ、この神社の数多い社殿群の中では最古の建物です。<br />犬飼健命・留霊臣命(=中田古名命)の2柱(桃太郎伝説の犬と雉に相当)を随神としているのが特徴です。<br />確かに桃太郎伝説由来の神々を祀った南北の随神門で、温羅の怨霊を封印しているようにも窺えます。

    南随神門(重文)
    本殿から本宮や御釜殿につながる廻廊の入口にある、入母屋造、本瓦葺、三間一戸の8脚門です。屋根以外は北随神門と構造・様式とも似ています。
    社記・棟札などから、南北朝時代の1357(延文2)年の再建とされ、この神社の数多い社殿群の中では最古の建物です。
    犬飼健命・留霊臣命(=中田古名命)の2柱(桃太郎伝説の犬と雉に相当)を随神としているのが特徴です。
    確かに桃太郎伝説由来の神々を祀った南北の随神門で、温羅の怨霊を封印しているようにも窺えます。

  • 廻廊(県文化財)<br />本殿と南端にある本宮社や御釜殿などを繋ぐ長い廻廊が延々と伸びています。地形に沿って造られたもので、総延長398mあります。緩やかなスロープに規則正しい配置の柱が雅に映り、普段見ることのない不思議な景観です。<br />廻廊が現在の姿になったのは、戦国時代の天正年間(1573〜91)と推定されています。廻廊建立の棟札が29枚現存しているそうです。<br />かつて新宮社は本宮社の南400mの位置にあり、廻廊は新宮社から南随神門に延び、その長さは800mもあったそうですから、吃驚ポンです。

    廻廊(県文化財)
    本殿と南端にある本宮社や御釜殿などを繋ぐ長い廻廊が延々と伸びています。地形に沿って造られたもので、総延長398mあります。緩やかなスロープに規則正しい配置の柱が雅に映り、普段見ることのない不思議な景観です。
    廻廊が現在の姿になったのは、戦国時代の天正年間(1573〜91)と推定されています。廻廊建立の棟札が29枚現存しているそうです。
    かつて新宮社は本宮社の南400mの位置にあり、廻廊は新宮社から南随神門に延び、その長さは800mもあったそうですから、吃驚ポンです。

  • 御竈殿(おかまでん)(重文)<br />廻廊を途中で右折するとその突き当りが御竈殿です。<br />「鳴釜神事」は吉備ではよく知られています。釜を焚いて湯を沸かし、釜の上に置かれた蒸籠(せいろ)の中で1合の玄米を振り回すと、蒸籠を通る湯気により神秘的な低い唸り音が2分間ほど響くというものです。発せられた音の大小長短により、吉凶禍福を判断する占いです。<br />面白いのは、祝詞を奏上する神官も神事に仕えている阿曾女(あぞめ)も何も言わず、祈願者自身がその音を感じて自己判断することです。初めて聞く音に優劣を付けられないのは明白であり、その人の心象風景で判断が変わるものと思います。神事と言うと異世界の事と思ってしまいますが、一般の参拝者がお願いして占ってもらうものであり、結構庶民的な神事だそうです。<br />この神事は、室町時代末期には遠く都にまで聞こえていたことが『多聞院日記』に記されています。また、江戸時代には、上田秋成の『雨月物語』の中に『吉備津の釜』があり、怪奇物として話題を集めました。延長元年(923)の日付のある『鬼之城縁起』には、この神事の由来は温羅(=鬼)の唸りにあると記されています。<br />ボランティアガイドさんによると、お正月など混み合う時は、大勢の人がこの御竈殿に入って、それぞれ音を聞き分けて吉凶を占うようです。

    御竈殿(おかまでん)(重文)
    廻廊を途中で右折するとその突き当りが御竈殿です。
    「鳴釜神事」は吉備ではよく知られています。釜を焚いて湯を沸かし、釜の上に置かれた蒸籠(せいろ)の中で1合の玄米を振り回すと、蒸籠を通る湯気により神秘的な低い唸り音が2分間ほど響くというものです。発せられた音の大小長短により、吉凶禍福を判断する占いです。
    面白いのは、祝詞を奏上する神官も神事に仕えている阿曾女(あぞめ)も何も言わず、祈願者自身がその音を感じて自己判断することです。初めて聞く音に優劣を付けられないのは明白であり、その人の心象風景で判断が変わるものと思います。神事と言うと異世界の事と思ってしまいますが、一般の参拝者がお願いして占ってもらうものであり、結構庶民的な神事だそうです。
    この神事は、室町時代末期には遠く都にまで聞こえていたことが『多聞院日記』に記されています。また、江戸時代には、上田秋成の『雨月物語』の中に『吉備津の釜』があり、怪奇物として話題を集めました。延長元年(923)の日付のある『鬼之城縁起』には、この神事の由来は温羅(=鬼)の唸りにあると記されています。
    ボランティアガイドさんによると、お正月など混み合う時は、大勢の人がこの御竈殿に入って、それぞれ音を聞き分けて吉凶を占うようです。

  • 御竈殿<br />神社の鬼門に佇む飾り気のない建物ですが、内部は煙に燻されて黒光りする柱や壁や梁、天井など簡素で清々しく、心を尽くして大切にされている様子が伝わってきます。竈の火は、神事が始まって以来千数百年間、1度も絶やされたことはないそうです。残念ながら、内部の撮影はNGです。<br />竈の8尺下に温羅の首が埋められていると伝わっています。吉備津彦に首を刎ねられ、晒し首にされても、唸り続けたという温羅。うるさいので犬飼建に命じて犬に食べさせたけれど、頭蓋骨になっても唸り続けたそうです。<br />仕方なく吉備津神社の御竈殿に頭蓋骨を埋めたものの、13年間唸り声がが止まず、温羅の妻の阿曽媛を呼び寄せて朝晩釜火を焚かせたところ、唸り声はピタリと静まったそうです。そして、世の吉凶を占うことを約束したのだそうです。<br />これにも異説があり、吉備国の人々に温かく受け入れられた温羅が、死してなお吉備の人々のことを思い、世に吉凶を告げるようになったとする伝承も残されています。<br />竈から立ち上る煙の漂う神秘的な空間の中に、吉備の民が絶えることなく抱き続けてきた知将 温羅と失われた吉備国への静かな慟哭が感じられます。 <br />御竈殿の北西の壁に掛けられているのは、能楽で使われた温羅の面だそうです。その温羅の視線の先に燃え立つ御竈があります。<br />年代は未詳ですが、備中に滞留していた黒田官兵衛が鳴釜神事に祈願し、「釜が動じた」ことに感謝を表わした直筆の書状も現存します。

    御竈殿
    神社の鬼門に佇む飾り気のない建物ですが、内部は煙に燻されて黒光りする柱や壁や梁、天井など簡素で清々しく、心を尽くして大切にされている様子が伝わってきます。竈の火は、神事が始まって以来千数百年間、1度も絶やされたことはないそうです。残念ながら、内部の撮影はNGです。
    竈の8尺下に温羅の首が埋められていると伝わっています。吉備津彦に首を刎ねられ、晒し首にされても、唸り続けたという温羅。うるさいので犬飼建に命じて犬に食べさせたけれど、頭蓋骨になっても唸り続けたそうです。
    仕方なく吉備津神社の御竈殿に頭蓋骨を埋めたものの、13年間唸り声がが止まず、温羅の妻の阿曽媛を呼び寄せて朝晩釜火を焚かせたところ、唸り声はピタリと静まったそうです。そして、世の吉凶を占うことを約束したのだそうです。
    これにも異説があり、吉備国の人々に温かく受け入れられた温羅が、死してなお吉備の人々のことを思い、世に吉凶を告げるようになったとする伝承も残されています。
    竈から立ち上る煙の漂う神秘的な空間の中に、吉備の民が絶えることなく抱き続けてきた知将 温羅と失われた吉備国への静かな慟哭が感じられます。
    御竈殿の北西の壁に掛けられているのは、能楽で使われた温羅の面だそうです。その温羅の視線の先に燃え立つ御竈があります。
    年代は未詳ですが、備中に滞留していた黒田官兵衛が鳴釜神事に祈願し、「釜が動じた」ことに感謝を表わした直筆の書状も現存します。

  • 御竈殿<br />鳴釜神事で使用する釜を納めるのは、代々「阿曽郷の鋳物師」と決められています。また、占いを行なう「阿曽女」と呼ばれる阿曽郷出身の女性が、巫女として現在でも神社に常駐しています。「吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をして命の釜殿の神饌を炊がしめよ」という『吉備津神社縁起』の一節を忠実に踏襲しています。<br />「阿曽」は、鬼城山山麓にある日本最古級の製鉄跡が多数発掘された血吸川流域一帯の地名です。温羅ゆかりの鉄の里「阿曽」と「吉備津神社」は鳴釜神事を通じて、この特別な関係を現在まで保ち続けています。討ち滅ぼした賊との約束事とは言え、まるで一目置いているかのような阿曽の民に対する神社側の千数百年にも亘る手厚い処遇は、いったい何を意味するのでしょうか?

    御竈殿
    鳴釜神事で使用する釜を納めるのは、代々「阿曽郷の鋳物師」と決められています。また、占いを行なう「阿曽女」と呼ばれる阿曽郷出身の女性が、巫女として現在でも神社に常駐しています。「吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をして命の釜殿の神饌を炊がしめよ」という『吉備津神社縁起』の一節を忠実に踏襲しています。
    「阿曽」は、鬼城山山麓にある日本最古級の製鉄跡が多数発掘された血吸川流域一帯の地名です。温羅ゆかりの鉄の里「阿曽」と「吉備津神社」は鳴釜神事を通じて、この特別な関係を現在まで保ち続けています。討ち滅ぼした賊との約束事とは言え、まるで一目置いているかのような阿曽の民に対する神社側の千数百年にも亘る手厚い処遇は、いったい何を意味するのでしょうか?

  • 御竈殿<br />上と同じような構図の写真を載せているのには理由があります。<br />御竈殿に光のようなものを感じ、咄嗟にシャッターを押してみました。コーナーの太い柱から右側へ横梁が渡されていますが、下から2つ目の横梁とコーナーの太い柱が交差した所のすぐ下(中央やや上)を見てください。<br />四角い半透明の光の様なものが写り込んでいます。上の写真にはそのような光は写っていません。温羅の魂が写り込んだのでしょうか???<br />

    御竈殿
    上と同じような構図の写真を載せているのには理由があります。
    御竈殿に光のようなものを感じ、咄嗟にシャッターを押してみました。コーナーの太い柱から右側へ横梁が渡されていますが、下から2つ目の横梁とコーナーの太い柱が交差した所のすぐ下(中央やや上)を見てください。
    四角い半透明の光の様なものが写り込んでいます。上の写真にはそのような光は写っていません。温羅の魂が写り込んだのでしょうか???

  • 廻廊と庭園<br />吉備路を舞台に繰り広げられた古代の熱い戦いにはいずれにも正義があり、それ故に1700年以上の時を超えて語り継がれてきました。<br />温羅が根城としたとする鬼城をはじめ、矢と岩がぶつかって落ちた場所「矢喰宮」、吉備津彦が放った矢が温羅の左目を射抜き、噴き出した血で川が真っ赤に染まったとされる「血吸川」、鯉に変身した温羅と鵜に変身した吉備津彦が攻防を繰り広げた「鯉喰神社」などがあり、吉備津神社にも吉備津彦が矢を置いたとされる「矢置岩」が史跡として大切に残されています。

    廻廊と庭園
    吉備路を舞台に繰り広げられた古代の熱い戦いにはいずれにも正義があり、それ故に1700年以上の時を超えて語り継がれてきました。
    温羅が根城としたとする鬼城をはじめ、矢と岩がぶつかって落ちた場所「矢喰宮」、吉備津彦が放った矢が温羅の左目を射抜き、噴き出した血で川が真っ赤に染まったとされる「血吸川」、鯉に変身した温羅と鵜に変身した吉備津彦が攻防を繰り広げた「鯉喰神社」などがあり、吉備津神社にも吉備津彦が矢を置いたとされる「矢置岩」が史跡として大切に残されています。

  • 岩山宮<br />廻廊をえびす宮からさらに少し下った左側にあるのが岩山宮です。<br />吉備国の地主神である建日方別(たけひかたわけ)を祀っています。備中国の高梁川周辺にはこの神社の分霊が各所に祀られています。

    岩山宮
    廻廊をえびす宮からさらに少し下った左側にあるのが岩山宮です。
    吉備国の地主神である建日方別(たけひかたわけ)を祀っています。備中国の高梁川周辺にはこの神社の分霊が各所に祀られています。

  • ボタン園<br />黄冠という種類です。<br />庭園の一画がボタン園となっています。今年は咲くのが早かったのか、見頃はすでに終わっています。

    ボタン園
    黄冠という種類です。
    庭園の一画がボタン園となっています。今年は咲くのが早かったのか、見頃はすでに終わっています。

  • 南随神門<br />桃太郎のお伽話で誰もが抱く素朴な疑問があります。鬼ヶ島に向かう途中、犬と猿、雉を家来にしたのですが、何故よりによってこんな非力な動物たちを家来にしたのでしょうか?<br />調べてみると、滝沢馬琴が随筆集『燕石雑志(えんせきざっし)』で仮説を述べています。<br />十二支は年、日、時刻などに使われますが、方角を表すのにも使われ、古来、艮(うしとら、北東)の方角は鬼門とされ、不吉な方向とされてきました。その方角に住む鬼が頭に「牛」の角をはやし、「虎」皮のパンツを穿いている所以です。艮の正反対の方角が坤 (ひつじさる、南西)です。この方角の十二支は申、酉、戌になりますから、鬼を退治するために協力した家来に猿と鳥と犬が選ばれたのだと論破しています。坤の方角であれば、犬ではなく羊でも良いような気もしますが、羊に比べて犬の方が戦闘的という点が買われたのでしょうか? <br />もうひとつの説は、吉備津彦神社に伝わる『鬼城縁起(きのじょうえんぎ)』に見られます。温羅成敗の際、吉備津彦が犬飼健(いぬかいたける)、留玉臣(とめたまおみ)、樂々森彦(ささもりひこ)と言う3人の家来を引き連れて来たと記されています。<br />犬に当たる人物は吉備津神社の南随神門に吉備津彦の随神として祀られている犬飼建です。後世、犬養毅はその後裔を称しています。また雉には同じく随神として祀られている、鳥飼部との関わりがあったとされる留玉臣が、猿には足守地域を開発した砂鉄生産集団の舎人だった樂々森彦が当てられています。娘の高田姫が吉備津彦に嫁いだとも言われています。 <br />お伽話なのにこれほど古文書に忠実にキャスティングしているのは、後世に何かを伝えたいという強い意志があったからに違いありません。

    南随神門
    桃太郎のお伽話で誰もが抱く素朴な疑問があります。鬼ヶ島に向かう途中、犬と猿、雉を家来にしたのですが、何故よりによってこんな非力な動物たちを家来にしたのでしょうか?
    調べてみると、滝沢馬琴が随筆集『燕石雑志(えんせきざっし)』で仮説を述べています。
    十二支は年、日、時刻などに使われますが、方角を表すのにも使われ、古来、艮(うしとら、北東)の方角は鬼門とされ、不吉な方向とされてきました。その方角に住む鬼が頭に「牛」の角をはやし、「虎」皮のパンツを穿いている所以です。艮の正反対の方角が坤 (ひつじさる、南西)です。この方角の十二支は申、酉、戌になりますから、鬼を退治するために協力した家来に猿と鳥と犬が選ばれたのだと論破しています。坤の方角であれば、犬ではなく羊でも良いような気もしますが、羊に比べて犬の方が戦闘的という点が買われたのでしょうか?
    もうひとつの説は、吉備津彦神社に伝わる『鬼城縁起(きのじょうえんぎ)』に見られます。温羅成敗の際、吉備津彦が犬飼健(いぬかいたける)、留玉臣(とめたまおみ)、樂々森彦(ささもりひこ)と言う3人の家来を引き連れて来たと記されています。
    犬に当たる人物は吉備津神社の南随神門に吉備津彦の随神として祀られている犬飼建です。後世、犬養毅はその後裔を称しています。また雉には同じく随神として祀られている、鳥飼部との関わりがあったとされる留玉臣が、猿には足守地域を開発した砂鉄生産集団の舎人だった樂々森彦が当てられています。娘の高田姫が吉備津彦に嫁いだとも言われています。
    お伽話なのにこれほど古文書に忠実にキャスティングしているのは、後世に何かを伝えたいという強い意志があったからに違いありません。

  • 吉備津神社<br />童話『桃太郎』の原形となった伝承は、室町時代にまで遡ります。しかし、それは、古来より伝わる不思議な桃の霊力によって年老いた夫婦が桃を食したことで若返り、そして子供が授かったという奇想天外な物語であり、現在知られているものとは似て非なるものです。共通する部分は、「老婆が川から流れてきた桃を拾う」という設定だけです。<br />現在の『桃太郎』のストーリーの骨子が固まったのは明治時代初期のことだそうです。つまり、元々の桃伝承にヤマト王権などが繰り返した征服の伝承を加え、さらに『浦島太郎』にも見られるようなお伽話的なエッセンスを合体させて創作したものと考えられます。構想までにこれだけ時間がかっかったのには、それなりの理由があります。<br />世間に広まったのは、1887(明治20)年に『尋常小学読本』に採用されたのがきっかけです。しかし、この時の主人公は、江戸時代の赤本の影響を色濃く残し、「歌舞伎十八番」に例えれば『暫』に登場するヒーロー「鎌倉権五郎景政」のイメージだったそうです。<br />我々が知る「日本一」の旗指物を背中に差して陣羽織を着た紅顔の少年の姿を初めて描いたのは、1933(昭和8)に刊行された国定教科書の挿絵でした。当時、日本では国を挙げての戦時色が高まっていました。「軍国少年 桃太郎」として勝手にストーリーをエスカレートさせ、雑誌『少年倶楽部』は『桃太郎遠征記』を載せ、「大東亜共栄の理想を実現するため、暴君(鬼)が支配する非道な国々を征敗し、(慈悲深い天皇陛下の)大御心を世界に広く流布する」という、まるで現在の北朝鮮かISに代表されるテロ組織のプロパガンダのような内容です。極めつけは、1943(昭和18)年に海軍省が制作したアニメ映画『桃太郎の海鷲』です。その中で桃太郎は零戦のパイロットになって、真珠湾を攻撃しているそうです。<br />こうした例を挙げるまでも無く、『桃太郎』は、古代の中央集権国家の成立時においては先住民や反対勢力もしくは帰化人たちを征服したヤマト王権を正当化したものであったり、近代国民国家形成期においては大日本帝国に靡かない周辺諸国を侵攻することを正当化するために時の権力によって都合良く創り替えられてきた哀しい物語と言えます。しかも、敵を無敵の凶暴な鬼として描き、それを純真無垢な正義(忠君愛国)の気持ちさえ持てば少年でも倒せると洗脳し、犬・猿・雉に象徴される打算のない動物たちまで、主君の威徳に感服して家来として従うという意味では、権力によって「二重の創作」がなされた醜い話とも言えます。<br />今、我々は安部政権が唱える『桃太郎』を熟読し、憲法改正が本当に世界平和のための正義なのか、見極める時期なのかもしれません。

    吉備津神社
    童話『桃太郎』の原形となった伝承は、室町時代にまで遡ります。しかし、それは、古来より伝わる不思議な桃の霊力によって年老いた夫婦が桃を食したことで若返り、そして子供が授かったという奇想天外な物語であり、現在知られているものとは似て非なるものです。共通する部分は、「老婆が川から流れてきた桃を拾う」という設定だけです。
    現在の『桃太郎』のストーリーの骨子が固まったのは明治時代初期のことだそうです。つまり、元々の桃伝承にヤマト王権などが繰り返した征服の伝承を加え、さらに『浦島太郎』にも見られるようなお伽話的なエッセンスを合体させて創作したものと考えられます。構想までにこれだけ時間がかっかったのには、それなりの理由があります。
    世間に広まったのは、1887(明治20)年に『尋常小学読本』に採用されたのがきっかけです。しかし、この時の主人公は、江戸時代の赤本の影響を色濃く残し、「歌舞伎十八番」に例えれば『暫』に登場するヒーロー「鎌倉権五郎景政」のイメージだったそうです。
    我々が知る「日本一」の旗指物を背中に差して陣羽織を着た紅顔の少年の姿を初めて描いたのは、1933(昭和8)に刊行された国定教科書の挿絵でした。当時、日本では国を挙げての戦時色が高まっていました。「軍国少年 桃太郎」として勝手にストーリーをエスカレートさせ、雑誌『少年倶楽部』は『桃太郎遠征記』を載せ、「大東亜共栄の理想を実現するため、暴君(鬼)が支配する非道な国々を征敗し、(慈悲深い天皇陛下の)大御心を世界に広く流布する」という、まるで現在の北朝鮮かISに代表されるテロ組織のプロパガンダのような内容です。極めつけは、1943(昭和18)年に海軍省が制作したアニメ映画『桃太郎の海鷲』です。その中で桃太郎は零戦のパイロットになって、真珠湾を攻撃しているそうです。
    こうした例を挙げるまでも無く、『桃太郎』は、古代の中央集権国家の成立時においては先住民や反対勢力もしくは帰化人たちを征服したヤマト王権を正当化したものであったり、近代国民国家形成期においては大日本帝国に靡かない周辺諸国を侵攻することを正当化するために時の権力によって都合良く創り替えられてきた哀しい物語と言えます。しかも、敵を無敵の凶暴な鬼として描き、それを純真無垢な正義(忠君愛国)の気持ちさえ持てば少年でも倒せると洗脳し、犬・猿・雉に象徴される打算のない動物たちまで、主君の威徳に感服して家来として従うという意味では、権力によって「二重の創作」がなされた醜い話とも言えます。
    今、我々は安部政権が唱える『桃太郎』を熟読し、憲法改正が本当に世界平和のための正義なのか、見極める時期なのかもしれません。

  • 吉備路自転車道<br />吉備津神社を後にして、次の目的地である楯築(たてつき)遺跡へ向かいます。ここは吉備路自転車道のコースからは外れていますので、農道(一応舗装はされています)のような平坦な狭い道をひたすら走ることになります。<br />足守川の土手から走ってきたコースを振り返ると、大きな吉備中山の麓に比翼入母屋造の吉備津神社の雄姿をなんとか捉えることができます。<br /><br />この続きは、青嵐薫風 吉備路逍遥⑤古墳群・備中国分寺でお届けいたします。

    吉備路自転車道
    吉備津神社を後にして、次の目的地である楯築(たてつき)遺跡へ向かいます。ここは吉備路自転車道のコースからは外れていますので、農道(一応舗装はされています)のような平坦な狭い道をひたすら走ることになります。
    足守川の土手から走ってきたコースを振り返ると、大きな吉備中山の麓に比翼入母屋造の吉備津神社の雄姿をなんとか捉えることができます。

    この続きは、青嵐薫風 吉備路逍遥⑤古墳群・備中国分寺でお届けいたします。

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