2016/04/27 - 2016/04/27
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旅人のくまさんさん
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揚輝荘紹介の締め括り、南庭園の聴松閣の紹介です。10年ほど前に再発見され、新聞報道された、謎が多い地下トンネルの入口付近も見学できました。
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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この部屋の天井の光景は、数寄屋造りの意匠そのものに思えます。渋い色の天井と、ベンガラ色の壁の色が、何とも言えない雰囲気を醸します。
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初めて目にする光景でしたが、この造りもインパクトがありました。銅板張りの水屋のようでした。資料を基に、再現されたらしい造りでした。ただし、これを確認する白湯はまだ見付けていません。ステンレスの流し以前の最新設備だったかもしれません。
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伊藤家の子女が住んだ部屋のようです。伊藤祐民さんの娘さんだったかもしれません。説明を聞きましたが、失念しました。あとで調べましたが、ネットでは伊藤次郎左衛門家の当主は分かりましたが、詳細な家系図は見つかりませんでした。
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イチオシ
風流で、優しい姿をした照明器具です。これも伊藤家の子女が住んだらしい部屋にありました。伊藤家は、織田信長の家臣であった伊藤蘭丸祐道が、慶長16年(1611年)、清洲越しにより新しい城下町の名古屋に移り、名を源左衛門と改め、呉服小間物商・伊藤屋を創業したのが始まりとされます。
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『聴松閣』は、地上3階、地下1階の建物です。二階から見上げた三階部分の天井光景です。
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同じく、二階から見上げた三階部分の天井のズームアップ光景です。大きな明かり採りの窓が、ふんだんに外光を採り入れていました。
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この後、地階の見学もできました。10年ほど前のことになるようですが、地元新聞で、揚輝荘の地下トンネルのことが、大きく取り上げられたことがありました。その地下トンネルには、興味津々でした。
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『揚輝荘・聴松閣』貸室のご案内のパネルの光景です。地階にある集会室が、終日時間を区切って、多目的室が夜間だけ貸室として使えるようでした。
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『揚輝荘トンネル』のタイトルがあった説明パネルです。揚輝荘には、皇族、政治家、軍人、民間人などの要人が多く訪問していたことから、緊急時の避難場所、あるいは避難経路として使用されたようです。聴松閣が昭和12年(1937年)に建設された時と、同時期にこのトンネルも掘られたようです。
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『揚輝荘トンネル』のタイトルがあった説明パネルの周りの光景です。左手に、地下トンネルへの入口がありましたが、立入り禁止の赤いテープが張られていました。
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地下トンネルの入口までは見学させて戴きました。トンネルの大きさは、高さ2メートル、幅1.8メートル、壁厚25センチとされます。聴松閣と、かつての有芳亭、更に現在の姫池通に面した位置に建っていた愛知舎の付近を結んだ総延長170メートルのトンネルが見つかっています。
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当主の伊藤祐民さんが受け入れた留学生たちが描いた壁画のようです。絵には、『P. HARI HARAN INDIA』のサインがありました。
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同じく、『P. HARI HARAN INDIA』のサインがあった、素描に薄く彩色された壁画の光景です。留学生には、画家志望の人もいたかも知れません。
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地階の部屋の紹介が続きます。広いホールには、ステージも設けてありました。祐民さんの個人的な楽しみではなく、大勢の人を招くための施設のように見えました。
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地階と1階を繋ぐ階段光景です。地地下室から続く、『揚輝荘トンネル』については、現在もまだいくつかの謎が残されているようでした。その一つが、汪兆銘(1883~1944年)を匿う計画との関係です。10年ほど前に、マンション工事で地下トンネルが見付かった時の新聞報道のキーワードにもなっていました。その見出しが、『汪兆銘、幻の隠れ家』でした。汪兆銘は、日本の法政大学に留学した、知日派として知られた政治家でした。
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イチオシ
地階のホールの舞台光景です。汪兆銘は、民国14年(1925年)の孫文死去に際しては、孫文の遺言を起草しています。民国29年(1940年)3月、南京国民政府を樹立し、主席代理に就任しました。日中の戦争回避に働いたため、中国からは、裏切り者の意味の『漢奸』と呼ばれています。民国33年(1944年)11月、名古屋で客死しました。業績の見直しもされているようです。
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壁に掲示してあったレリーフの光景です。伊藤祐民さんがインド旅行で持ち帰ったお土産の品かもしれません。
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地下室の大広間がパーティー会場などになった時、料理の品を出したカウンターのようです。その背後に料理を持ち込むことが出来る扉がありました。
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ここにも、祐民さんが好んだ、船窓の形をした丸い窓がありました。明かり採りではなく、外側から照明されているようでした。
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伊藤祐民さんの外国土産らしいレリーフ像です。ウィキペディアの説明文から海外旅行・視察を抜き書きしますと、
?1909年(明治42年)8月、渋沢栄一を団長とする渡米実業団に、伊藤銀行取締役で参加。
②1931年(昭和6年)、名古屋商工会議所初代会頭として、千人の視察団を率いて中国訪問。
③自ら決めた55定年で一切の公職を退き、1934年(昭和9年)にビルマやインドへ仏跡巡拝の旅。
の3回がありました。一切の公職を退いた後のビルマやインドへの仏跡巡拝の旅で持ち帰った品のようです。その時には、大正7年(1918年)、揚輝荘の工事に着手し、大正11年頃に自宅として揚輝荘に定住しています。 -
ヒマラヤを模した窓の外の光景だったようです。1934年(昭和9年)に出かけた、ビルマやインドへの仏跡巡拝の旅で目にした冠雪の山並み光景かも知れません。
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ヒマラヤを模したらしい窓の外のズームアップ光景です。この辺りの造りにも、祐民さんの遊び心が入っているようです。ガラスに施したスリガラスの文様だったかもしれません。
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『聴松閣』の二階と三階の建物側面光景です。一階部分は青葉で覆われていました。
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イチオシ
玄関部分の上に迫り出した二階のズームアップ光景です。テラスがあったその窓の上に、『聴松』の扁額が懸かっていました。
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前庭にあった半円形の泉水の光景です。この辺りは枯山水の和風ではなく、西洋風の造りでした。水は抜かれ、タイルを張った底が見えていました。
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振り返って眺めた、揚輝荘の南庭園にあった建物光景です。手前が揚輝荘座敷、奥が聴松閣の建物です。揚輝荘座敷は、矢場町五ノ切にあった屋敷ですが、日本第1号の受有と言われる川上貞奴が一時期棲んでいた建物のようです。
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先ほど見学した、揚輝荘の南庭園にあった、『聴松閣(ちょうしょうかく)』の説明パネルです。昭和12年(1937年)に建設された、山小屋風の外観を持った迎賓館でした。カラー写真が現在、下のモノクロ写真は、昭和初期の頃です。
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締め括りに紹介する、現在の揚輝荘の施設案内です。『揚輝荘・総合案内』のタイトルがありました。開館時間帯は、9:30~16:30です。
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歩道の上に散り敷いた白い花びらの光景です。見学している間に散った分のようでした。街路樹の『ハナミズキ(花水木)』です。
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沢山の花びらを散らしていた街路樹の『ハナミズキ(花水木)』ですが、まだ沢山の花が残っていました。ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属の落葉高木です。白色のほか、薄いピンク色の花の種類もあります。
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