2016/04/08 - 2016/04/08
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bakanekoさん
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実は昨年も行ったが、未掲載なので今年が初吉野である。いきなり、吉野の桜、そして奈良の桜の最終回である。
今年の桜は、開花が早くあっという間に過ぎ去ってしまった。本掲載までの間、京都に行き宇陀を走った。それを飛び越えて吉野である。
今年は奈良盆地の開花と同時に、下千本、中千本が満開であった。
今、4月16日もう下千本、中千本散すぐである。
昨年は、始発電車で行、バスで上まで上がった。そのため、今回バイクで行くこととした。天王寺 吉野までは下道で70キロ 生駒・和泉山脈を越えての出撃である。
さて妄想へ 著者注)
本紀行は、写真撮影記に私の妄想が入り、過去の人物などが出る事があります。入江:入江泰吉 土門:土門拳 佐藤:佐藤義清 楠木:楠木正成
佐藤 「bakanekoさん、いや災行さん 吉野へ行きましょう」
おぉ!!!! とうとう私は、佐藤義清さんより、災行の名を今回からいただいたのだ。その話は、後日書けたら書きましょう。
私以下災行「どないいきまひょ」
佐藤「河内国分まで25号線でいき、165号線で当麻寺まで、高田バイパス桜井、169号で吉野川へ行きましょう。吉野へいざまいらん。」
佐藤「諸共に われをも具して 散りね花
浮世をいとふ 心ある身ぞ」
桜への賛歌は、ついに散る花に最高の美を見出し、死ぬことに生の極限を見ようとする。とりわけ、「諸共に」の歌は、花と心中したいとまでいっており、桜を愛する心が、そのまま厭離穢土・欣求浄土の祈りへと昇華されていく。
八尾までの25号線は、たった2車線の狭小な道であるが深夜4時では空いていて信号の連携もよい。佐藤さんは騎馬でどんどん進んでゆく。さすが北面の武士である。
4時前、大和川を渡ろうとすると
「まってたで」と大きな声が聞こえる。
災行「楠木さん」
楠木「河内とおるんやったら言うてや。吉野までお供するがな」
佐藤「だんだん花見行列の役者がそろってきましたねえ」
もう寒くはないが、暗い165号線をみな駆け抜けてゆく。
とうとう高田バイパスへ。右に月夜の畝傍山を見ながら、騎馬武者2名の後をバイクで追ってゆく。なかなかシュールな光景です。妄想ならではです。
桜井から吉野へ向かう途中で、給油して、うどんを食う・・・・なか卯である。
楠木「災行はん。肉、食わな力でえへんであかんで」
佐藤「みなさん、懐具合がありますから。肉よりさあ吉野へ」
災行「もう佐藤さん早く行きたくて仕方がない」
佐藤笑いながら「ばれましたか。あとは吉野川で あの2人を待つだけ」
災行「ゲゲッ。やっぱり出ますか」
明日香を越え吉野へ
夜が明け始めたころ、吉野大橋につく。
2人の男がもめている。
入江「土門さんは、吉野の風景は撮っていないから行く資格はない。ここで待ってもらおう」
土門「そんな・・・・」
土門先生大泣きです。
入江「下で待つのもいいもんだよ」
災行「入江先生も、奈良の桜は撮らないと書いていたじゃないですか。吉野は、花より血塗られた歴史のほうが合うと言ってたんじゃ・・・」
土門「入江さん。あんたも吉野には登れんねえ」
入江「何を言うか・・・・」
2人は格闘になります。
災行「さあ早く、佐藤さん楠木さん登りましょう」
騒ぐ二人を残して、吉野の駐車場に6時過ぎ到着。
吉野山
吉野山(よしのやま)は奈良県の中央部・吉野郡吉野町にある吉野川(紀の川)南岸から大峰山脈へと南北に続く約8キロメートルに及ぶ尾根続きの山稜の総称、または金峯山寺を中心とした社寺が点在する地域の広域地名である。
古くから花の名所として知られており、その中でも特に桜は有名で、かつては豊臣秀吉が花見に来た事がある(後述)。現代でも桜が咲く季節になると花見の観光客で賑わう。地域ごとに下千本(しもせんぼん)、中千本(なかせんぼん)、上千本(かみせんぼん)、奥千本(おくせんぼん)と呼ばれている。
1924年(大正13年)12月には国の名勝・史跡に指定され、1936年(昭和11年)2月 には吉野熊野国立公園に指定された。また2004年(平成16年)7月には吉野山・高野山から熊野にかけての霊場と参詣道が『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。1990年(平成2年)には日本さくら名所100選に選定された。
桜花の吉野山
吉野山は平安時代頃から桜が植え続けられてきた。 特に桜が数多く集まる所があり、いずれも一目千本と呼ばれ山下の北から山上の南へと順に下千本・中千本・上千本・奥千本と呼ばれている。 植えられている桜の種類は、ほとんどが白山桜(シロヤマザクラ)であり、その数は約3万本にも及ぶという。 これらの桜は、4月初旬から末にかけて、山下の下千本から順に山上へと開花してゆく。この時期の吉野山は花見客で大変、賑わう。
下千本 - 近鉄吉野駅から山上へ上がる七曲坂周辺にあたる。
中千本 - 五郎兵衛茶屋から如意輪寺にかけての一帯。
上千本 ? 火の見櫓から花矢倉にかけての坂周辺にあたる。
奥千本 - 吉野水分神社から金峯神社にかけて。また苔清水、西行庵付近。
桜が多い理由
吉野山に桜が多いのは、桜が蔵王権現の神木であるとされたことによる。
修験道の開祖とされる役小角は、金峰山(現在の大峰山系)で修行を積み、その結果、金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)が出現して、これを感得し蔵王権現像を彫ったとされる。その時に用いられた木材が桜樹であった。以降、行者達は桜材を使い権現を彫刻し、これを祀る習わしとなった。これより桜は神木となり、桜の枯れ木といえども薪にさえせず、一枝を折る者は指一本を切るといったような厳しい信仰が厳守されたという。そのため蔵王権現に祈願する際には、神木とされる桜の苗を寄進するのが最善の供養となる風習が起こり、平安時代の頃から多くの桜が植えられるようになった。
また大海人王子(のちの天武天皇)が、吉野の寒中で、庭の桜が満開の夢を見て、これが動機となって天下を定めたので、桜は霊木であり神木であるとされ、桜の愛護が始まったとも伝えられる。
歴史に登場する吉野山
672年、大海人皇子(のちの天武天皇)は、当時の大津の都を離れて出家して吉野山に隠棲したが、兄の天智天皇の死の知らせを受けて美濃へ脱出し兵を上げ、天智天皇の子の大友皇子を倒して政権を握った。→壬申の乱
このとき大海人皇子が吉野について詠んだ歌。「よきひとのよしとよくみて、よしといひし、よしのよくみよ、よきひとよくみつ」(『万葉集』)は有名。
1185年(文治元年)冬、源頼朝の討伐を受け、義経・弁慶らは吉野山に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前と別れ、東国へ脱出したと言われている。吉野山内には、いくつかの旧跡が残る。
1332年(元弘2年)、鎌倉幕府討幕運動である元弘の変の際、大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)が一時、吉野山(吉野城)を拠点として活動した。しかし、翌1333年(元弘3年)には幕府方、二階堂貞藤率いる軍勢に攻め入られ陥落。この時、村上義光が大塔宮の身代わりとなって蔵王堂で自害し、宮は高野山方面へと逃れたとされる。
1336年(建武3年)、後醍醐天皇は神器を持って京都を逃れ、吉野山に別の朝廷(南朝または吉野朝とも呼ばれる)を置いた。1339年(延元4年/暦応2年)に後醍醐天皇は吉野で崩御し、後村上天皇が即位する。しかし1348年(正平3年/貞和2年)には楠木正行らが四條畷の戦いにおいて足利方の高師直に敗北し、さらに吉野にも攻め入られ南朝は賀名生へ移った。このあと長慶天皇・後亀山天皇の南朝側天皇が続いた。
のちに東花坊(蕉門十哲の一人、各務支考)が南朝の悲しい歴史に思いを寄せて「歌書よりも軍書に悲し吉野山」と詠んだ。
1594年(文禄3年)、太閤秀吉が吉野山で花見を行った。この時の一行は5千名ほどであったという。太閤が花見を行った場所として太閤の花見塚が残っている。
- 旅行の満足度
- 4.5
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吉野の下千本駐車場で驚く。6時に観光バスが数台。客がぞろぞろ登ってゆく。中国人ではない・・・・・
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下千本展望所にて
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佐藤「ええねえ。何度来ても」
楠木「南朝が・・・」
災行「楠木さん。別れたのは湊川の後やから」
楠木「そうか・・・・」 -
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曇り空の中、少し朝焼け
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これは中千本
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バイクで一気に上千本
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花矢倉 バイクで奥千本より降りてきました。
佐藤「奥千本にでも住みましょうか」 -
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ああええ景色です。
楠木「この下に関東の武者どもをくぎ付けにしたろか」 -
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佐藤さんニコニコ。
佐藤「この前の京都や弘川寺もいいっすけど、本数はやっぱりここやねえ」 -
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木の向こうに
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そろそろ7時半。人が続々上がってきます。こちらは降りるだけ。
歩行者天国は8時半からです。車の乗り入れができるのはこの時間だけ。
バイクなら人をかき分け走れますが、車は無理です。 -
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人ごみの中、楠木さんが知人を見つけます。
楠木「ああ後醍醐天皇様おなつかしい」
後醍醐「朕の花見を邪魔するでない。花見が終わった後、京に戻るぞ」
災行「でもお公家さんは、裏切りまっせ」
佐藤「都の人は、裏切りやすし」 -
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一目千本
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蔵王堂を見る
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そろそろ桜もげっぷが出るかも。
佐藤「まだまだですよ」 -
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上千本展望所あたり
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蔵王堂
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竹と絡める
佐藤「いいですねえ」
楠木「竹を切って下に落とせば、北条の連中泡吹きまっせ」 -
如意輪寺を見る。そのそばに後醍醐天皇陵がある。
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路傍の石仏
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そろそろ竹林院あたりまで降りてきました。車で行くと、止めながら撮影なんてできません。人が多く道が狭い。バイクが大正解。
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観光車道まで降りてきました。
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逆光ながらここはいつも絶景です。
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ここはいつもすごい。
佐藤「うんうんええ感じ」 -
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とうとう、朝8時半吉野山を降ります。
楠木「城から逃げるような」
佐藤「名残惜しい」
災行「いやいや奈良盆地の最後の桜がありますよ。ほら吉野駅で痩身の男が・・・・入江先生」
入江「待っていたぞ。要らんことを言うから、吉野を見損ねた。これからは私が先導する。君は災行からbakanekoへ名を改めてもらおう」
bakaneko以下私「いきなりバイクの後ろに立たないでください」
入江「いざ明日香に」 -
国道169号を北上する。バイクの後ろに騎馬の佐藤さんと楠木さんが続く。
楠木「主上が見られたら京都に遷都と思われるであろうが・・・・」
佐藤「お上は今吉野で花見ですよ」
と話しながら、橘寺につく。 -
入江「美しいのう」
私「先生はいつも明日香は血塗られた歴史というてますやん。」
入江「だまれ!!この春のうららかな日に無粋な」 -
佐藤「まあまあこの菜の花と桜に免じて」
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落ちる花びらを見る
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橘寺の中から、いかつい男が出てくる。
土門「おそかったな」
私「土門先生」
土門「橘寺は、塔址心礎を撮っているからな」
入江「土門君はアップばかり撮っているからな」 -
佐藤「少し遅かったかな。いやこのほうが風情がある」
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楠木「もののふは桜のように散りたいもんでんなあ」
私「忠も過ぎると・・・・・」 -
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飛鳥川の横、自転車道
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私「佐藤さん、急に更けて僧形になってまっせ」
佐藤「あまりに桜に酔って、西行になってしまいました。京の春もよいが大和もなかなか」
入江「お連れした甲斐がありました」 -
石舞台のそば
土門「えらく変わったな」
入江「悪いほうに」 -
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馬子の墓
私「2−30年前は、整備もされず原っぱだったのに」 -
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まだ10時過ぎなので人は少ないです。
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明日香資料館のレプリカ
楠木「これを山城から落としたら・・・」
入江「血の匂いがする千早赤阪」
私「どうせ夕焼けの時を狙うのでしょう」
入江「ばかもの」
土門「わしが撮ったのとそっくりな・・・
レプリカだ。リアリズムは本物だよ」 -
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春はゆるやかに流れてゆきます。
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猿石も春を満喫
土門「アップはいいな」 -
ガラスに映った桜を入れて
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いよいよ朝からの長旅も終焉に
藤原京に到着です。
入江「おおっ。昔の奈良の風景が」
人工物がないとすっきりします。 -
藤原京からは、二上山がくっきりと。
入江「血塗られた・・・・・」
皆さん「もう結構です」
ということで藤原京の菜の花と桜を鑑賞し解散いたしました。 -
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土門「後の写真の説明は!」
私「菜の花と桜。これでいいでしょ。先生」
土門「まあ久方ぶりの投稿だからこれで許してやる。」 -
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午後2時に、バイクで竹ノ内街道を通り帰阪。
これで終了。お粗末。
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