2013/08/04 - 2013/08/11
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TENKOさん
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昨年に続きオーストリアの家族が日本を訪れました。
関西空港着で福山、倉敷、尾道、広島、松山、天橋立、大阪と廻られます。
その内、瀬戸内を孫も一緒に巡ります。
築100年の古民家 に泊まり、日本の小学校を体験し、ヒロシマを肌で体験し、日本旅館に泊まり会席料理に舌つづみをうちました。
写真を撮っていない場所が多いのは、ご愛嬌です。
44年前に出会った、22歳だった私と9歳だったクリスティーネは40年ぶりに再開でき、今家族を巻き込んでの交流が復活しています。
(詳しくは海外旅行記一冊目に)
日本とオーストリア、三世代にわたっての交流がいつまでも続き ますように。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- タクシー 新幹線 JRローカル 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
8月4日。
今日は、オーストリアの家族がドバイ経由で関西空港に到着しました。
空港で出迎え、「はるか」「のぞみ」に乗って夜9時過ぎ我が街に着きました。
築100年になる古民家(農家)です。 (写真は5月です!)
ここに泊まって頂きます。 -
この家は築100年の両親の家でした。
そして、私が生まれた家です。 -
田の字型(四つ間取り)の、昔の農家です。
今は、ふすまを取り外して広々しています。
ふすま(スライディングドアー)は便利でいいと、興味深々。
畳をとても喜んで下さいました。 -
彼らは、昨年も日本に来ています。
成田着で、東京・箱根・名古屋・伊勢・奈良・京都・東京を周遊されました。
初めてなので日本周遊のツアーで回られ、フリーの1日私が京都まで会いに行きました。
今年は、私が住む西日本へということで再訪して下さいました。
写真は清水寺。 日本の旅の話で盛り上がりました。 -
8月5日
午前中はゆっくりと日本の民家を楽しみ、ランチは尾道ラーメンと冷やし中華。
午後、福山市鞆の浦に行きました。
古くから海を行き交う船の「潮待ち・風待ち」の港として栄えた港町です。
写真は、福禅寺対潮楼から見る景色。
元禄年間に造られた福禅寺の客殿のお座敷からの海の眺めが素晴らしいです。
読みづらいですが、窓の上に「日東第一形勝」と見えます。
1711年に訪れた朝鮮通信使の李邦彦という方が、対馬から江戸までで最も美しい景勝地ということで、この言葉を残されました。 -
マクシミリアンはすっかりこの景色が気に入りました。
1時間はいたでしょうか。。。
オーストリアは海のない国です。
でも、瀬戸内海の多島美に「ここは海?」 -
目の前の島は「弁天島」 無人島です。
-
弁天島の後ろに仙酔島(せんすいじま)があります。
周囲6Kmの小さな島。
日本で最初に国立公園に指定された瀬戸内海国立公園の中心です。
島には遊歩道があります。台風で道が崩れ途中で引き返しましたが、海がないオーストリアの家族は景色に癒されていました。
マクシミリアンは、潮が引いた後歩き回っている「カニ」に興味をそそられていました。
孫2号は、彼に「カニさん歩き」の意味を教えていました。
孫は日本語オンリー。でも通じるのが可笑しかったです。 -
市営渡船。「平成いろは丸」
鞆の浦沖で、坂本龍馬率いる海援隊の「いろは丸」が沈没しました。
その蒸気船を模した黒い船体の渡船です。
約5分の船旅です。 -
仙酔島から帰って、町を散策します。
鞆の津の商家や路地などひと昔前にタイムスリップしたような街並みが続きます。
残念ながら写真を撮っていません。 -
港の先端に「常夜灯」
古くから鞆の港を照らしていました。
この常夜灯のすぐ下に、階段状の石造物「雁木」が残っています。
「浜の大雁木」です。
階段状になって、潮の干満に関わらず船着けができます。
満潮時には最上段が岸壁となり、干潮時には最下段が荷揚げ場になります。
鞆の浦の雁木は、全国でも類のない雄大さだそうです。
後世に残したい石階段ですが、いつも見慣れている私は、写真を撮ろうともしませんでした。
鞆の浦から仙酔島への渡船の乗り場で、雁木を体験できます。 -
高台から見た鞆の港。
最近では、宮崎駿さんが「ポニョ」の構想を練った町としても知られるようになっています。 -
鞆の浦を去り、福山市沼隈町へ来ました。
瀬戸内は、どこからみても素敵な海です。
本土と島を結ぶ「内海大橋」が掛かっています。
彼らは、海にかかった橋を歩いて渡りたいと言いました。
私は車で先に渡って待つことにしました。 -
晩御飯は、友人の「広島風お好み焼き」のお店でいただきました。
私のキッチンです。
小さなビールのグラスがあります。
オーストリアではビールは16歳から飲めます。
(お酒の強さによって、飲酒できる年齢が違うそうです)
マクシミリアンは19歳になりましたが、今まで飲酒はさせてもらえなかったそうです。
来日時のトランスファーで、ドバイのホテルに泊まった時高層のラウンジで初めてビールを飲ませてもらえたそうです。
今日も日本のばばちゃんに免じて、「カンパーイ」 -
8月6日
今日は広島の原爆記念日
広島県の孫2号の小学校では登校日です。
(今は、広島県全体ではなく、任意登校日になっているのかな?)
全校で平和学習をします。
クリスティーネはオーストリアの小学校の校長先生。
日本の小学校に興味があり、校長先生の許可をいただいて参加することにしました。
全校生徒で「折り鶴」の歌を歌いました。
「生きていてよかった それを感じたくて
広島のまちから 私は歩いてきた〜」
児童たちの澄んだ歌声に感激したクリスチーネは、訳してほしい、、、と言いました。 -
全校集会が終わり、教室に入りました。
少し授業があります。
「ソロバン」の授業を興味深く見学しました。
休憩時間、子供達がクルスチーネを囲みました。
「何歳?」 最初の質問は年齢でした。
彼女は、オーストリアの子供も同じ、、、と笑っていました。 -
こちらは孫1号の教室。
習字も珍しそうです。
校長先生とのんびりお話をしていて、帰るのが遅くなりました。
実は、彼らに泊まっていただいている母の家に、お寺様が来て下さる日でした。
お盆のお勤めです。
私がいないので、ご住職さんはびっくりなさり、「外国の人が神妙に座っていて下さった」と後日聞きました。
マクシミリアンにとって、仏教のお経は不思議な響きだったことでしょう。
昼食にカレーを食べ、「おいしい〜」
午後は尾道に行きました。
千光寺でのおみくじの翻訳に四苦八苦のばばちゃんでした。 -
夜は回転寿しに行きました。
初めての体験です。
このお店は、回ってくるお皿を取る方法と、iPadで注文する方法があります。
「あなたの部屋のiPadで注文しても、オーストリアまで配達しないよ!」と大笑いをしました。 -
お箸も上手に使えるようになりました。
-
8月7日。
自宅の前で。 -
今日は倉敷に来ました。
なんと、倉敷での写真は2枚、、、、。 -
い草の帽子が気に入ったようです。
この帽子は、帰りのドバイの海でも活躍したそうです。
倉敷の帰りに児島まで足を伸ばし、瀬戸大橋を下から眺めました。
海に浮かぶ橋に大興奮。
写真を撮りまくっておられました。 -
夜は娘夫婦も一緒に、ファミリーレストランへ。
女子会。 -
男子会。
-
8月8日。
宮島に来ました。
着いた時が満潮で、海に浮かぶように立つ厳島神社が優美です。
寝殿造りの様式を取り入れ、平清盛が造営(改修)しました。
この後、豊国神社に行きました。豊臣秀吉が読経を行なうために建築を命じましたが、未完成のままです。
畳を敷き詰めれば857畳あるという広さから千畳閣とも呼ばれます。
この経堂で休んでから紅葉谷を歩き、弥山にロープーウェーで登りました。
ばばちゃんは、ロープウェーの獅子岩駅でお留守番。
4年生の孫娘は、オーストリアの家族と頑張って弥山山頂まで登り、頑張ったと褒めてもらいました。 -
厳島神社のシンボル、大鳥居。
弥山から下りてくると、干潮の時刻です。
歩いて鳥居の所まで行くことが出来ます。
この大鳥居、土に埋まっておらず地面に自分の重さだけで立っているそうです。
総重量は約60tで、そのうちの7tは屋根の下の箱型の横木に詰め込まれた石の重し。
大鳥居の主柱材は楠です。
柱長 13.64m 元周り 7m 末口 4.24m
材料となるクスノキの大木を探すのに、数年を要したとか。
現在の鳥居は8代目で、明治8年(1875年)に再建されたものです。 -
お宿で早めの夕食を終え、海上参拝に行きます。
クリスティーネと孫は、浴衣を着ました。
海上から船で大鳥居をくぐってお参りするのが、厳島神社の正式な参拝方法だったそうです。 -
遊覧船(屋形船)に乗り、ぐんぐん大鳥居に近づいて行きます。
写真は下手ですが、ライトアップされた大鳥居は素晴らしい!!
ゆっくりと鳥居をくぐりました。
マクシミリアン親子は、Toriigateを下から見上げ、大興奮。 -
船頭さんが、英語の説明を渡して下さいました。
-
8月9日
一夜明け、宮島に別れを告げます。 -
人類が初めて核兵器を体験した街。
43年前、9歳だったクリスチーネは私が「広島から来た」と言うと、「ヒロシマを知っている」といいました。 -
被曝当時のままの姿の原爆ドーム。
旧広島県産業奨励館。
原子爆弾は、この建物のほぼ真上600メートルの空中で爆発しました。 -
昭和42年、人々の寄金によって補強工事が施され永久に保存されることになりました。
-
原爆ドーム。
幾度もの修復工事を経て、1996年に世界遺産に登録されました。 -
原爆の子の像。
被曝による白血病と闘いながら、回復を祈って千羽鶴を折り続けた佐々木禎子さんの像。
禎子さんの幟町小学校の同級生は、原爆で死んだ子供たちの霊をなぐさめ、再び戦争がおこらないことを願って「原爆の子の像」をつくる運動を始めました。
私も小学生の時、寄付したことを覚えています。
像は1958年に完成しました。
この話は、今日では世界に広がり、折り鶴は平和のシンボルになっています。 -
てっぺんの少女は、折り鶴を掲げています。
そして、塔の中には折り鶴の形をした鐘があります。
石碑には
「これはぼくらの叫びです。
これは私たちの祈りです
世界に平和をきずくための」とあります。
孫たちの小学校では、4年生になると広島を訪れ千羽鶴をお供えします。
-
世界中から年間1千万羽の折り鶴が捧げられています。
*この旅行記を書いている2016年。
今年から、広島市では市立の学校を卒業する生徒たちの卒業証書に、国内外から送 られた折り鶴で作った再生紙を使用しているそうです。
手渡される証書には、色紙の小さな紙片が混ざっているのが分かります。
もちろんこれまでも、人々の祈りが込められた折り鶴が再生紙になり、学校等で使 われていました。
平和への願いが込められた、本当にすばらしい活動です。
-
原爆死没者慰霊碑を横から。
犠牲者の霊を雨露から守りたいとの思いから、はにわの家の形をしています。 -
広島平和記念資料館 内部。
原爆投下前の広島市内の模型。 -
投下後の市内の模型。
左上の川の側に、広島県産業奨励館(原爆ドーム) -
佐々木禎子さんが折った鶴。
-
原爆の子に関しての書籍。
右 「廃墟の光」 ロベルト・ユンク(オーストリア)作
中 「サダコは生きる」カール・ブルックナー(オーストリア)作
左 「サダコ」エレノア・コア(アメリカ)作
オーストリアの作家ロベルト・ユンクが自分の本の中で佐々木禎子さんについて書き、初めて禎子さんのことが世界に紹介されました。
その後、児童作家のカール・ブルックナーやエレノア・コアも禎子さんの物語を書きました。
43年前、9歳のクリスチーネが「ヒロシマを知っている」と言ったのは、SADAKOさんのことを知っていたからでした。
世界で最初に本が出版されたのがオーストリア。
SADAKOさんのことは、学校で教えてもらったと言っています。 -
広島を後に、瀬戸内海を渡り松山に来ました。
宿の能舞台。
能を鑑賞しました。 -
浴衣が少し乱れちゃいました。
-
お宿で懐石料理を頂きます。
-
お品書き。
-
お料理。
食べるのに夢中で、写真がありません、、、。 -
量の多さにびっくりしていました。
でも、和食が大好きなご家族は大満足です。
少し休んで、温泉に入りました。
ばばちゃんが用事を済ませている間に、孫娘とクリスティーネはさっさと露天風呂に行きました。
もう、隣のおばちゃんのような感覚です。 -
8月10日。
隣のおじちゃんと、、。
宿のロビーで、ドイツ語と日本語の会話をしていました。 -
松山城に行きます。
ロープウェーの乗り場に、袴姿の女の子が。
つい夏目漱石の「坊ちゃん」のマドンナの説明をしてしまいました。
ここからクリスティーネが質問攻め。
日本の女子教育について。
頭の中を活性化させ、細胞を総動員して歴史と英会話に翻弄されているばばちゃんをご想像下さい。 -
いざ、出陣じゃ!
松山を後にして、JRで今治へ。
車内で駅弁を楽しみました。
そして今治から福山へ。
島を渡る「しまなみライナー」で帰って来ました。 -
8月11日。
お別れの日。
二つの家族が何代も続く交流を願ってパチリ。 -
新幹線で新大阪まで。
彼らは、新大阪に泊まり、今日は「天橋立」に行きます。
西日本を観光しようと調べて、天橋立がヒットしたようです。
「股のぞき」もモチロン。
そして、8月12日ドバイに向けて関西空港を飛び立ちます。
ドバイで娘さんと合流し(彼女は仕事の関係で日本には来れませんでした。)、砂漠と海と高層ビルを楽しみ、オーストリアへ帰って行かれました。
再会後、日本に興味を持って下さり我が家を訪れ、一緒に旅したことは忘れられない思い出になりました。
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