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[奈良市一の神聖地]<br />奈良市一のパワースポットが春日大社だとしたら、一番の裏パワースポットは大社の神体山・御蓋山(別称:春日山・297m)だろう。この山の山上部を浮雲嶽と呼び、浮雲神社とも呼ばれる式内社・本宮神社が鎮座しているが、そこは春日大社の祭神の一神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、常陸の鹿島より伊賀国等を経て、神護景雲二年(768)11月9日に降臨した場所であり、同時に下総香取から経津主(ふつぬし)命、河内枚岡から天児屋根(あまのこやね)命と比売神(ひめがみ)を勧請して春日大社社殿を造営したと「春日神社小志」等の古文書に記されている。<br /><br />つまり、現在は春日大社の摂社となっている本宮神社が、春日大社の前身である「本(もと)」の「宮」と見ることができる。が、御蓋山(みかさやま)は三輪山のように神社神道が成立するよりはるか前からの原始信仰の場で、本宮神社付近からは古代の祭祀遺構も発掘されている。<br /> 一方、大社北の吉城川(水谷川)沿いを遡る春日山遊歩道沿いには、永正17年(1520)に建立された六角柱の珍しい石仏がある。仏頭石と呼ばれるもので、六角柱の上に仏の頭があり、こけしを彷彿させる。他にもこの道沿いには明治期、知事の迎賓館だった料亭もあり、散策するのに良い。<br /><br />御蓋山は上述のような歴史を持つ神聖な山だけに、大社南門と若宮神社との間にある本宮神社遥拝所(本宮への参道口の一つ)には立入禁止看板が設置されている(当時は設置されていたか否か記憶にないが)。毎年一度、そこから関係者のみが神事のため登山するのみ。<br />しかし当時、市史や県史、式内社調査報告書、白水社発行の神社文献等、どれを見ても御蓋山が禁足地であることの記述はなかった。<br /><br />そこで、遥拝所以外からだと入山可ではないかという解釈をして、地形図に記載されている南東の紀伊神社付近からの山道を探してみたが、既に登山口は消滅していた。実際は藪の中に伏石の参道が眠っているらしい。<br />仕方なく、南門方向へ引き返し、適当な所から玉垣を乗り越えて山中に入り、道なき斜面を登って行った。<br /><br />標高の割に本宮神社へは短時間で到達できた。靴も普通の短靴。<br />手前には「本宮嶽 一名浮雲峯」と刻字された古い石碑がある。展望は望めない。社殿は朱塗りされた祠ほどのもので、前は斎場となっている。この東側からは昭和15年、経塚遺物が発掘されている。<br />神聖な場所なだけに御神酒を供え、祝詞を奏上した。<br /><br />帰路は、地形図に記載されている山頂から東の尾根に付けられている裏参道とも呼べる道を下った。<br />鞍部に下りると南に折れ、南部の春日山遊歩道(呼称は違ったかも)へ出て西進、途中で北に折れ、若宮神社から春日大社宝物殿前を通って水谷茶屋に出、東に折れて吉城川沿いを遡る。<br /><br />道沿いには春日山遊歩道から本宮神社へ登るかつての参道方向を示す道しるべや旧氷室神社神燈と思しき大きな石燈籠等がある。<br />仏頭石はいくつもの地蔵群の中にあった。全高109cmのそれは異彩を放っている。六角の各面には各種観音像が半肉彫りされている。<br />手前に寝かされている自然石の板碑状地蔵は「洞の地蔵」と呼ばれるもので、建長6年(1254)に建立されたもの。<br /><br />更に川を遡ると左手上に明治36年建設の迎賓館跡である料亭旅館・月日亭が現れる。建設当時から今日に至るまで関西の財界人等も利用しているらしい。<br />月日亭は市内等にレストラン型料亭を何店舗か展開しており、接客店員は皆、着物姿。<br />料亭の名の由来である月日磐は当時、場所を知らなかったので探さなかった。<br />来た道を引き返す途中、吉城川の支流・御手洗川沿いの小径に折れ、辿った。この道は春日大社の裏に繋がっていることから、もし明治期に造成されていたとすれば、奈良県知事や政財界人らが人力車に乗って行き来していたことが想像される。<br /><br />PS:「とびしま海道・山と龍馬と戦跡とロケ地」の「5日目」は史跡の数が多く、旅行記を作成するのに通常の何倍もの時間を要するため、なかなか投稿できずにいます。

奈良市一の裏パワースポットとこけし型石仏

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1990/02/13 - 1990/02/13

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マローズ

マローズさん

[奈良市一の神聖地]
奈良市一のパワースポットが春日大社だとしたら、一番の裏パワースポットは大社の神体山・御蓋山(別称:春日山・297m)だろう。この山の山上部を浮雲嶽と呼び、浮雲神社とも呼ばれる式内社・本宮神社が鎮座しているが、そこは春日大社の祭神の一神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、常陸の鹿島より伊賀国等を経て、神護景雲二年(768)11月9日に降臨した場所であり、同時に下総香取から経津主(ふつぬし)命、河内枚岡から天児屋根(あまのこやね)命と比売神(ひめがみ)を勧請して春日大社社殿を造営したと「春日神社小志」等の古文書に記されている。

つまり、現在は春日大社の摂社となっている本宮神社が、春日大社の前身である「本(もと)」の「宮」と見ることができる。が、御蓋山(みかさやま)は三輪山のように神社神道が成立するよりはるか前からの原始信仰の場で、本宮神社付近からは古代の祭祀遺構も発掘されている。
 一方、大社北の吉城川(水谷川)沿いを遡る春日山遊歩道沿いには、永正17年(1520)に建立された六角柱の珍しい石仏がある。仏頭石と呼ばれるもので、六角柱の上に仏の頭があり、こけしを彷彿させる。他にもこの道沿いには明治期、知事の迎賓館だった料亭もあり、散策するのに良い。

御蓋山は上述のような歴史を持つ神聖な山だけに、大社南門と若宮神社との間にある本宮神社遥拝所(本宮への参道口の一つ)には立入禁止看板が設置されている(当時は設置されていたか否か記憶にないが)。毎年一度、そこから関係者のみが神事のため登山するのみ。
しかし当時、市史や県史、式内社調査報告書、白水社発行の神社文献等、どれを見ても御蓋山が禁足地であることの記述はなかった。

そこで、遥拝所以外からだと入山可ではないかという解釈をして、地形図に記載されている南東の紀伊神社付近からの山道を探してみたが、既に登山口は消滅していた。実際は藪の中に伏石の参道が眠っているらしい。
仕方なく、南門方向へ引き返し、適当な所から玉垣を乗り越えて山中に入り、道なき斜面を登って行った。

標高の割に本宮神社へは短時間で到達できた。靴も普通の短靴。
手前には「本宮嶽 一名浮雲峯」と刻字された古い石碑がある。展望は望めない。社殿は朱塗りされた祠ほどのもので、前は斎場となっている。この東側からは昭和15年、経塚遺物が発掘されている。
神聖な場所なだけに御神酒を供え、祝詞を奏上した。

帰路は、地形図に記載されている山頂から東の尾根に付けられている裏参道とも呼べる道を下った。
鞍部に下りると南に折れ、南部の春日山遊歩道(呼称は違ったかも)へ出て西進、途中で北に折れ、若宮神社から春日大社宝物殿前を通って水谷茶屋に出、東に折れて吉城川沿いを遡る。

道沿いには春日山遊歩道から本宮神社へ登るかつての参道方向を示す道しるべや旧氷室神社神燈と思しき大きな石燈籠等がある。
仏頭石はいくつもの地蔵群の中にあった。全高109cmのそれは異彩を放っている。六角の各面には各種観音像が半肉彫りされている。
手前に寝かされている自然石の板碑状地蔵は「洞の地蔵」と呼ばれるもので、建長6年(1254)に建立されたもの。

更に川を遡ると左手上に明治36年建設の迎賓館跡である料亭旅館・月日亭が現れる。建設当時から今日に至るまで関西の財界人等も利用しているらしい。
月日亭は市内等にレストラン型料亭を何店舗か展開しており、接客店員は皆、着物姿。
料亭の名の由来である月日磐は当時、場所を知らなかったので探さなかった。
来た道を引き返す途中、吉城川の支流・御手洗川沿いの小径に折れ、辿った。この道は春日大社の裏に繋がっていることから、もし明治期に造成されていたとすれば、奈良県知事や政財界人らが人力車に乗って行き来していたことが想像される。

PS:「とびしま海道・山と龍馬と戦跡とロケ地」の「5日目」は史跡の数が多く、旅行記を作成するのに通常の何倍もの時間を要するため、なかなか投稿できずにいます。

旅行の満足度
4.0
観光
4.5
グルメ
3.0
交通手段
私鉄

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  • 若草山から見た御蓋山。三輪山や大和三山同様、古代信仰の神体山は皆、山容が円錐形。一般の者(神社関係者以外)が登頂することはまずない。

    若草山から見た御蓋山。三輪山や大和三山同様、古代信仰の神体山は皆、山容が円錐形。一般の者(神社関係者以外)が登頂することはまずない。

  • 御蓋山山頂に鎮座する本宮神社。ここで紹介した復路を上りに使用すれば、入山禁止の看板を見ることなく、登頂できるかも知れない。

    御蓋山山頂に鎮座する本宮神社。ここで紹介した復路を上りに使用すれば、入山禁止の看板を見ることなく、登頂できるかも知れない。

  • 「本宮嶽 一名浮雲峯」の山名碑。明治期頃の建立か?

    「本宮嶽 一名浮雲峯」の山名碑。明治期頃の建立か?

  • 本宮神社の手水鉢か?

    本宮神社の手水鉢か?

  • 御蓋山山頂北西にあった(現存しているか否かは不明)七本杉へのコース登山口方向を示すと思われる道しるべ

    御蓋山山頂北西にあった(現存しているか否かは不明)七本杉へのコース登山口方向を示すと思われる道しるべ

  • 旧氷室神社の神燈か。神社は和銅3年(710)、氷を貯蔵する氷室を護る神として祭られ、毎年、氷は平城宮へ献氷されていた。現在の奈良国立博物館の道路を挟んだ北東の地に移ったのは平安京遷都後の貞観2年(860)。今でも毎年5月1日、献氷祭が実施されている。<br />この付近の川沿いに月日磐があるものと思われる。

    旧氷室神社の神燈か。神社は和銅3年(710)、氷を貯蔵する氷室を護る神として祭られ、毎年、氷は平城宮へ献氷されていた。現在の奈良国立博物館の道路を挟んだ北東の地に移ったのは平安京遷都後の貞観2年(860)。今でも毎年5月1日、献氷祭が実施されている。
    この付近の川沿いに月日磐があるものと思われる。

  • 「右 月日磐 左 鶯瀧」の重厚な道しるべ

    「右 月日磐 左 鶯瀧」の重厚な道しるべ

  • 吉城川

    吉城川

  • 仏頭石。六角の面には十一面観音、准胝観音、如意輪観音、聖観音、千手観音、馬頭観音が彫られている。

    仏頭石。六角の面には十一面観音、准胝観音、如意輪観音、聖観音、千手観音、馬頭観音が彫られている。

  • 洞の地蔵。錫杖を右手に、宝珠を左手に持つ地蔵菩薩が薄肉彫りされている。

    洞の地蔵。錫杖を右手に、宝珠を左手に持つ地蔵菩薩が薄肉彫りされている。

  • 仏頭石と月日亭との間から分岐して御手洗川沿いを下る道。地形図には車道として描かれていたかも知れないが、倒木等があり、また幅員も狭く、車が通行できる状態ではない。明治に造られた俥(くるま)道か。

    仏頭石と月日亭との間から分岐して御手洗川沿いを下る道。地形図には車道として描かれていたかも知れないが、倒木等があり、また幅員も狭く、車が通行できる状態ではない。明治に造られた俥(くるま)道か。

  • 春日大社

    春日大社

    春日大社 寺・神社・教会

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