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■秋の四国車旅〜四国の西半分(愛媛・高知県)を走り回ってきました。<br /><br /> 歴史的建造物「臥龍山荘」&復元天守閣は全て木造「大洲城」 の巻<br /><br />∇臥龍山荘/愛媛県大洲市大洲<br /> 臥龍山荘は、肱川流域随一の景勝地臥龍淵に、明治の貿易商河内寅次郎氏が京都や神戸の名工を呼び寄せ構想10年・工期4年の歳月をかけ建てた別荘です。<br /> 肱川と冨士山を借景とした庭と茶室をもち、日本古来の美と品性に出会える風情漂う稀代の名建築です。<br /><br />∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br />・大洲の歴史・沿革 <br /> 大洲城の歴史は、鎌倉時代末期、伊予国守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城に始まると言われています。その後、戦国時代を経て、近世初頭に大洲の地を治めた小早川隆景をはじめ、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰ら各大名たちの造営を経て近世城郭が整備されました。<br />・大洲城のはじまり(1331〜) <br /> 大洲はもと港を意味する「津」という文字を用い、大津と称していました。大津における城の創建は、元弘元年(1331)伊予国守護の宇都宮豊房に遡ります。<br /> 戦国末期の永禄11年(1568)までの237年の間宇都宮氏の居城でした。永禄11年(1568)宇都宮は河野・毛利連合軍に敗れ、城は河野の武将大野直昌が預かるところとなりました。<br />・小早川隆景・戸田勝隆の時代(1585〜) <br /> 天正13年(1585)、羽柴秀吉は四国平定を果たします。この戦いで、秀吉方の小早川・吉川連合軍に敗れました。<br /> 戦後、小早川隆景は、伊予35万石を与えられ湯築城を居城とし、大津城を枝城としました。<br /> 隆景が九州に転封となった天正15年(1587)、戸田勝隆が宇和・喜多郡16万石を封ぜられ主城を大津とし、板島、松葉、黒瀬の各城には城代を置きました。<br />・藤堂高虎の時代(1594〜) <br /> 文禄3年(1594)に朝鮮で病死した勝隆の後を受け、文禄4年(1595)6月に藤堂高虎が宇和郡板島7万石の城主として封ぜられました。<br /> 併せて宇和、喜多、浮穴各郡約6万6千石の蔵入り代官を命じられた高虎は、板島に城代を置き、大津城を居城としました。<br /> 慶長5年(1600)高虎は、関ヶ原の戦いの恩賞として、今張国分山城を追増され20万石となり、さらに、慶長7年(1602)には今治城の普請をを始め、大津には養子の高吉を城代に据えました。<br /> 慶長10年(1605)奉行田中林斎は、命を受けて城下に塩屋町を創設した商人に褒状を送っています。このころから大津が城下町としての形態を整え始めたのです。<br />・脇坂安治の時代(1609〜) <br /> 慶長14年(1609)、淡路国洲本より高虎と同じ近江出身の脇坂安治が喜多・浮穴・風早の三郡において5万3500石を与えられ、大津城を居城としました。<br /> これは、高虎の後、瀬戸内対岸の福島正則に対する備えであったと解する見方もあります。脇坂は、給人所法度や庄屋体制を確立し、大津藩での近世的封権制度を形付けたと考えられています。<br /> 脇坂は、元和3年(1617)5万5000石で信濃飯田城主として移りました。大洲城天守の基本設計を行った(故)宮上茂隆氏は、脇坂安治が当天守を州本から移築し併せて地名を大津から大洲に変更したのではないかと推定しています。<br />・加藤貞泰の時代(1617〜) <br /> 同年、伯耆国米子から加藤貞泰が6万石で大津城に入城します。以来、加藤氏の治世は版籍奉還まで続きました。<br /> 加藤氏入城の際には、すでに城郭の大枠はほぼ整備されていたものと考えられます。 <br /><br />≪ 1日目 ≫<br />▼早朝、広島市の自宅を出発<br />▼東広島・呉自動車道ON<br />▼山陽自動車道高屋JCT<br />▼山陽自動車道福山西インタOFF<br />▼新尾道大橋/広島県尾道市尾崎町−向島町<br />▼西瀬戸自動車道しまなみ海道ON⇒因島大橋<br />▼生口大橋⇒多々羅大橋⇒大三島橋⇒伯方・大島大橋⇒来島海峡大橋<br />▼西瀬戸自動車道今治インタOFF⇒今治バイパス<br />▼今治小松自動車道今治湯ノ浦インタON<br />▼今治小松自動車道いよ小松JCT<br />▼松山自動車道伊予灘SA<br />▼松山自動車道大洲インタOFF<br />▼大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br />▼おはなはん通り/愛媛県大洲市大洲<br />▼煉瓦館/愛媛県大洲市大洲<br />▼ポコペン横丁/愛媛県大洲市大洲<br />▼臥龍山荘/愛媛県大洲市大洲<br />▼大洲城/愛媛県大洲市大洲<br />▼大洲道路→松山自動車道大洲松尾料金所ON<br />▼松山自動車道宇和島別当インタOFF<br />▼県道37号線⇒県道345号線⇒県道346号線<br />▼遊子水荷浦の段畑/愛媛県宇和島市遊子<br />▼だんだん茶屋/愛媛県宇和島市遊子<br />▼国道56号線(宿毛街道)<br />▼津島古い町並み散策/愛媛県宇和島市津島町<br />▼国道56号線(宿毛街道)⇒県道34号線(西海道路)<br />▼宇和海展望タワー/愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城<br />▼紫電改展示館/愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城<br />▼県道34号線(西海道路)<br />▼外泊石垣の里/愛媛県南宇和郡愛南町外泊<br />▼愛南町内BH泊/愛媛県南宇和郡愛南町<br />≪ 2日目 ≫ へつづく・・・<br /><br />【 手記 】<br /> 突然ですが、老体にムチ打って^^四国の西半分(愛媛・高知県)をのんびりゆったりと走り回ってきました。ほぼ無計画、いつものようにホテルの予約はなし、当てのない出たとこ勝負の気ままなひとり旅です。<br /><br />【 追記 】<br /> 4トラの皆様、今年もよろしくお願い申しあげます。<br /> 今が旬の旅日記を優先してアップしてきたため、昨年の四国車旅編を新年を跨いだこの日にアップすることになりました。時期外れの旅日記ですが、ご容赦のほどお願いいたしまーす。

Solitary Journey [1673] 肱川沿いの歴史的建造物「臥龍山荘」&復元天守は全て木造「大洲城」<秋の四国車旅・大洲編>愛媛県大洲市

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2015/11/21 - 2015/11/23

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MechaGodzillaⅢ&703

MechaGodzillaⅢ&703さん

■秋の四国車旅〜四国の西半分(愛媛・高知県)を走り回ってきました。

 歴史的建造物「臥龍山荘」&復元天守閣は全て木造「大洲城」 の巻

∇臥龍山荘/愛媛県大洲市大洲
 臥龍山荘は、肱川流域随一の景勝地臥龍淵に、明治の貿易商河内寅次郎氏が京都や神戸の名工を呼び寄せ構想10年・工期4年の歳月をかけ建てた別荘です。
 肱川と冨士山を借景とした庭と茶室をもち、日本古来の美と品性に出会える風情漂う稀代の名建築です。

∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
・大洲の歴史・沿革
 大洲城の歴史は、鎌倉時代末期、伊予国守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城に始まると言われています。その後、戦国時代を経て、近世初頭に大洲の地を治めた小早川隆景をはじめ、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰ら各大名たちの造営を経て近世城郭が整備されました。
・大洲城のはじまり(1331〜)
 大洲はもと港を意味する「津」という文字を用い、大津と称していました。大津における城の創建は、元弘元年(1331)伊予国守護の宇都宮豊房に遡ります。
 戦国末期の永禄11年(1568)までの237年の間宇都宮氏の居城でした。永禄11年(1568)宇都宮は河野・毛利連合軍に敗れ、城は河野の武将大野直昌が預かるところとなりました。
・小早川隆景・戸田勝隆の時代(1585〜)
 天正13年(1585)、羽柴秀吉は四国平定を果たします。この戦いで、秀吉方の小早川・吉川連合軍に敗れました。
 戦後、小早川隆景は、伊予35万石を与えられ湯築城を居城とし、大津城を枝城としました。
 隆景が九州に転封となった天正15年(1587)、戸田勝隆が宇和・喜多郡16万石を封ぜられ主城を大津とし、板島、松葉、黒瀬の各城には城代を置きました。
・藤堂高虎の時代(1594〜)
 文禄3年(1594)に朝鮮で病死した勝隆の後を受け、文禄4年(1595)6月に藤堂高虎が宇和郡板島7万石の城主として封ぜられました。
 併せて宇和、喜多、浮穴各郡約6万6千石の蔵入り代官を命じられた高虎は、板島に城代を置き、大津城を居城としました。
 慶長5年(1600)高虎は、関ヶ原の戦いの恩賞として、今張国分山城を追増され20万石となり、さらに、慶長7年(1602)には今治城の普請をを始め、大津には養子の高吉を城代に据えました。
 慶長10年(1605)奉行田中林斎は、命を受けて城下に塩屋町を創設した商人に褒状を送っています。このころから大津が城下町としての形態を整え始めたのです。
・脇坂安治の時代(1609〜)
 慶長14年(1609)、淡路国洲本より高虎と同じ近江出身の脇坂安治が喜多・浮穴・風早の三郡において5万3500石を与えられ、大津城を居城としました。
 これは、高虎の後、瀬戸内対岸の福島正則に対する備えであったと解する見方もあります。脇坂は、給人所法度や庄屋体制を確立し、大津藩での近世的封権制度を形付けたと考えられています。
 脇坂は、元和3年(1617)5万5000石で信濃飯田城主として移りました。大洲城天守の基本設計を行った(故)宮上茂隆氏は、脇坂安治が当天守を州本から移築し併せて地名を大津から大洲に変更したのではないかと推定しています。
・加藤貞泰の時代(1617〜)
 同年、伯耆国米子から加藤貞泰が6万石で大津城に入城します。以来、加藤氏の治世は版籍奉還まで続きました。
 加藤氏入城の際には、すでに城郭の大枠はほぼ整備されていたものと考えられます。

≪ 1日目 ≫
▼早朝、広島市の自宅を出発
▼東広島・呉自動車道ON
▼山陽自動車道高屋JCT
▼山陽自動車道福山西インタOFF
▼新尾道大橋/広島県尾道市尾崎町−向島町
▼西瀬戸自動車道しまなみ海道ON⇒因島大橋
▼生口大橋⇒多々羅大橋⇒大三島橋⇒伯方・大島大橋⇒来島海峡大橋
▼西瀬戸自動車道今治インタOFF⇒今治バイパス
▼今治小松自動車道今治湯ノ浦インタON
▼今治小松自動車道いよ小松JCT
▼松山自動車道伊予灘SA
▼松山自動車道大洲インタOFF
▼大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
▼おはなはん通り/愛媛県大洲市大洲
▼煉瓦館/愛媛県大洲市大洲
▼ポコペン横丁/愛媛県大洲市大洲
▼臥龍山荘/愛媛県大洲市大洲
▼大洲城/愛媛県大洲市大洲
▼大洲道路→松山自動車道大洲松尾料金所ON
▼松山自動車道宇和島別当インタOFF
▼県道37号線⇒県道345号線⇒県道346号線
▼遊子水荷浦の段畑/愛媛県宇和島市遊子
▼だんだん茶屋/愛媛県宇和島市遊子
▼国道56号線(宿毛街道)
▼津島古い町並み散策/愛媛県宇和島市津島町
▼国道56号線(宿毛街道)⇒県道34号線(西海道路)
▼宇和海展望タワー/愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城
▼紫電改展示館/愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城
▼県道34号線(西海道路)
▼外泊石垣の里/愛媛県南宇和郡愛南町外泊
▼愛南町内BH泊/愛媛県南宇和郡愛南町
≪ 2日目 ≫ へつづく・・・

【 手記 】
 突然ですが、老体にムチ打って^^四国の西半分(愛媛・高知県)をのんびりゆったりと走り回ってきました。ほぼ無計画、いつものようにホテルの予約はなし、当てのない出たとこ勝負の気ままなひとり旅です。

【 追記 】
 4トラの皆様、今年もよろしくお願い申しあげます。
 今が旬の旅日記を優先してアップしてきたため、昨年の四国車旅編を新年を跨いだこの日にアップすることになりました。時期外れの旅日記ですが、ご容赦のほどお願いいたしまーす。

同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
自家用車

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  • ■秋の四国車旅〜四国の西半分(愛媛・高知県)を走り回ってきました。<br /> 歴史的建造物「臥龍山荘」&復元天守閣は全て木造「大洲城」 の巻<br /> おはなはん通り・煉瓦館の巻( http://4travel.jp/travelogue/11082149 )の続きです。<br />

    ■秋の四国車旅〜四国の西半分(愛媛・高知県)を走り回ってきました。
     歴史的建造物「臥龍山荘」&復元天守閣は全て木造「大洲城」 の巻
     おはなはん通り・煉瓦館の巻( http://4travel.jp/travelogue/11082149 )の続きです。

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br /> 臥龍山荘へ向かう路地にも古い家並みが続いています。果物を置いてあるこじんまりとしたお店がありました。

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
     臥龍山荘へ向かう路地にも古い家並みが続いています。果物を置いてあるこじんまりとしたお店がありました。

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br /> 休憩がてら暫し間コーヒーを飲みながらお店のお爺ちゃんとお話しました。御歳70歳だそうで器用に萱の葉でバッタを作られていました。

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
     休憩がてら暫し間コーヒーを飲みながらお店のお爺ちゃんとお話しました。御歳70歳だそうで器用に萱の葉でバッタを作られていました。

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br /> 萱の葉で作られたバッタ

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
     萱の葉で作られたバッタ

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br /> 柿1袋とみかん1袋と写真のバッタを1匹いただきました。安い!

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
     柿1袋とみかん1袋と写真のバッタを1匹いただきました。安い!

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br /> お店から1分ほど歩くと臥龍山荘が見えてきます。ここは2度目の訪問です。

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
     お店から1分ほど歩くと臥龍山荘が見えてきます。ここは2度目の訪問です。

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br /> 臥龍山荘前にあった錆びた井戸水ポンプ・・・なぜか蟹の置物がある。

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
     臥龍山荘前にあった錆びた井戸水ポンプ・・・なぜか蟹の置物がある。

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br /> 蟹の置物  シオマネキのよう・・

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
     蟹の置物  シオマネキのよう・・

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br />・臥龍山荘<br /> 臥龍山荘は、肱川流域随一の景勝地「臥龍淵」に臨む数寄屋造りの建物で、「大洲の桂離宮」の異名を持っています。

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
    ・臥龍山荘
     臥龍山荘は、肱川流域随一の景勝地「臥龍淵」に臨む数寄屋造りの建物で、「大洲の桂離宮」の異名を持っています。

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br />・臥龍山荘<br /> この地を『臥龍』と命名したのは、大洲藩第3代藩主加藤泰恒が「蓬莱山が龍の臥す姿に似ている」ことから名付けたものと言われています。

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
    ・臥龍山荘
     この地を『臥龍』と命名したのは、大洲藩第3代藩主加藤泰恒が「蓬莱山が龍の臥す姿に似ている」ことから名付けたものと言われています。

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br />・臥龍山荘<br /> 

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
    ・臥龍山荘
     

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br /> 臥龍山荘前の公園

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
     臥龍山荘前の公園

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br />・臥龍山荘<br /> 臥龍山荘は、肱川流域随一の景勝地臥龍淵に、明治の貿易商河内寅次郎氏が京都や神戸の名工を呼び寄せ構想10年・工期4年の歳月をかけ建てた別荘です。<br />

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
    ・臥龍山荘
     臥龍山荘は、肱川流域随一の景勝地臥龍淵に、明治の貿易商河内寅次郎氏が京都や神戸の名工を呼び寄せ構想10年・工期4年の歳月をかけ建てた別荘です。

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br />・臥龍山荘<br /> 趣のある建物です。

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
    ・臥龍山荘
     趣のある建物です。

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br />・臥龍山荘<br /> 

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
    ・臥龍山荘
     

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br />・臥龍山荘<br /> 

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
    ・臥龍山荘
     

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br />・臥龍山荘<br /> 現在の山荘は、明治時代に新谷出身の豪商で木蝋貿易に成功した河内寅次郎(常住地:神戸)が、老後の余生をここで過ごしたいと大洲随一の景勝地であるこの地に明治30年頃から10余年をかけて築造した別荘です。

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
    ・臥龍山荘
     現在の山荘は、明治時代に新谷出身の豪商で木蝋貿易に成功した河内寅次郎(常住地:神戸)が、老後の余生をここで過ごしたいと大洲随一の景勝地であるこの地に明治30年頃から10余年をかけて築造した別荘です。

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br />・臥龍山荘<br /> 肱川と冨士山を借景とした庭と茶室をもち、日本古来の美と品性に出会える風情漂う稀代の名建築です。

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
    ・臥龍山荘
     肱川と冨士山を借景とした庭と茶室をもち、日本古来の美と品性に出会える風情漂う稀代の名建築です。

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br />・臥龍山荘  心和みます。

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
    ・臥龍山荘  心和みます。

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br />・臥龍山荘  肱川と新富士橋

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
    ・臥龍山荘  肱川と新富士橋

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br />・臥龍山荘<br /> 昭和31年9月に大洲の名勝として大洲市の文化財に指定されました。

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
    ・臥龍山荘
     昭和31年9月に大洲の名勝として大洲市の文化財に指定されました。

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br />・臥龍山荘<br /> 

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
    ・臥龍山荘
     

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br />・臥龍茶屋

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
    ・臥龍茶屋

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br />・山荘画廊 

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
    ・山荘画廊 

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br /> 天高く 甘柿実る 大洲かな

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
     天高く 甘柿実る 大洲かな

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br /> お嬢さんも柿の実を撮られていました。

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
     お嬢さんも柿の実を撮られていました。

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br /> 古い町並みに似合う なんともステキなピカピカの赤い街灯

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
     古い町並みに似合う なんともステキなピカピカの赤い街灯

  • ∇大洲の町並み/愛媛県大洲市大洲<br /> 大洲神社北側の通り・・・屋根が朽ちている。住民も家屋も歳老いて寂れていく。これも世の常か。

    ∇大洲の町並み/愛媛県大洲市大洲
     大洲神社北側の通り・・・屋根が朽ちている。住民も家屋も歳老いて寂れていく。これも世の常か。

  • ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲<br />・大洲まちの駅あさもや<br /> 先ほど買った萱の葉で作られたバッタです。大洲城へ移動します。

    ∇大洲古い町並み散策/愛媛県大洲市大洲
    ・大洲まちの駅あさもや
     先ほど買った萱の葉で作られたバッタです。大洲城へ移動します。

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br />・大洲の歴史・沿革 <br /> 大洲城の歴史は、鎌倉時代末期、伊予国守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城に始まると言われています。もとは大洲=大津と称していました。

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
    ・大洲の歴史・沿革
     大洲城の歴史は、鎌倉時代末期、伊予国守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城に始まると言われています。もとは大洲=大津と称していました。

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br /> 今から約400年前の藤堂高虎・脇坂安治の時代に完成したといわれ、元和3年(1617年)に加藤貞泰が入城して以来、明治維新まで加藤家の居城となりました。

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
     今から約400年前の藤堂高虎・脇坂安治の時代に完成したといわれ、元和3年(1617年)に加藤貞泰が入城して以来、明治維新まで加藤家の居城となりました。

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br /> その後、戦国時代を経て、近世初頭に大洲の地を治めた小早川隆景をはじめ、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰ら各大名たちの造営を経て近世城郭が整備されました。<br />

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
     その後、戦国時代を経て、近世初頭に大洲の地を治めた小早川隆景をはじめ、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰ら各大名たちの造営を経て近世城郭が整備されました。

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br />・俳人「松根東洋城」大洲旧居<br /> 高浜虚子と並ぶ俳壇の巨匠。母敏子は宇和島8代藩主伊達宗城の二女です。

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
    ・俳人「松根東洋城」大洲旧居
     高浜虚子と並ぶ俳壇の巨匠。母敏子は宇和島8代藩主伊達宗城の二女です。

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br />・大洲城のはじまり(1331〜) <br /> 大洲はもと港を意味する「津」という文字を用い、大津と称していました。大津における城の創建は、元弘元年(1331)伊予国守護の宇都宮豊房に遡ります。<br /> 

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
    ・大洲城のはじまり(1331〜)
     大洲はもと港を意味する「津」という文字を用い、大津と称していました。大津における城の創建は、元弘元年(1331)伊予国守護の宇都宮豊房に遡ります。
     

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br /> 戦国末期の永禄11年(1568)までの237年の間宇都宮氏の居城でした。永禄11年(1568)宇都宮は河野・毛利連合軍に敗れ、城は河野の武将大野直昌が預かるところとなりました。<br /> 

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
     戦国末期の永禄11年(1568)までの237年の間宇都宮氏の居城でした。永禄11年(1568)宇都宮は河野・毛利連合軍に敗れ、城は河野の武将大野直昌が預かるところとなりました。
     

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br />・小早川隆景・戸田勝隆の時代(1585〜) <br /> 天正13年(1585)、羽柴秀吉は四国平定を果たします。この戦いで、秀吉方の小早川・吉川連合軍に敗れました。戦後、小早川隆景は、伊予35万石を与えられ湯築城を居城とし、大津城を枝城としました。 ※写真は中江藤樹像

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
    ・小早川隆景・戸田勝隆の時代(1585〜)
     天正13年(1585)、羽柴秀吉は四国平定を果たします。この戦いで、秀吉方の小早川・吉川連合軍に敗れました。戦後、小早川隆景は、伊予35万石を与えられ湯築城を居城とし、大津城を枝城としました。 ※写真は中江藤樹像

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br /> 隆景が九州に転封となった天正15年(1587)、戸田勝隆が宇和・喜多郡16万石を封ぜられ主城を大津とし、板島、松葉、黒瀬の各城には城代を置きました。<br />

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
     隆景が九州に転封となった天正15年(1587)、戸田勝隆が宇和・喜多郡16万石を封ぜられ主城を大津とし、板島、松葉、黒瀬の各城には城代を置きました。

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br />・藤堂高虎の時代(1594〜) <br /> 文禄3年(1594)に朝鮮で病死した勝隆の後を受け、文禄4年(1595)6月に藤堂高虎が宇和郡板島7万石の城主として封ぜられました。<br /> 

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
    ・藤堂高虎の時代(1594〜)
     文禄3年(1594)に朝鮮で病死した勝隆の後を受け、文禄4年(1595)6月に藤堂高虎が宇和郡板島7万石の城主として封ぜられました。
     

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br /> 併せて宇和、喜多、浮穴各郡約6万6千石の蔵入り代官を命じられた高虎は、板島に城代を置き、大津城を居城としました。<br />

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
     併せて宇和、喜多、浮穴各郡約6万6千石の蔵入り代官を命じられた高虎は、板島に城代を置き、大津城を居城としました。

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br /> 慶長5年(1600)高虎は、関ヶ原の戦いの恩賞として、今張国分山城を追増され20万石となり、さらに、慶長7年(1602)には今治城の普請をを始め、大津には養子の高吉を城代に据えました。<br />

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
     慶長5年(1600)高虎は、関ヶ原の戦いの恩賞として、今張国分山城を追増され20万石となり、さらに、慶長7年(1602)には今治城の普請をを始め、大津には養子の高吉を城代に据えました。

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br /> 慶長10年(1605)奉行田中林斎は、命を受けて城下に塩屋町を創設した商人に褒状を送っています。このころから大津が城下町としての形態を整え始めたのです。<br /> ※写真は井戸丸。大洲城の本丸は、上段と下段に分かれ、井戸のある下段の曲輪を井戸丸と呼んでいます。

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
     慶長10年(1605)奉行田中林斎は、命を受けて城下に塩屋町を創設した商人に褒状を送っています。このころから大津が城下町としての形態を整え始めたのです。
     ※写真は井戸丸。大洲城の本丸は、上段と下段に分かれ、井戸のある下段の曲輪を井戸丸と呼んでいます。

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br />・脇坂安治の時代(1609〜) <br /> 慶長14年(1609)、淡路国洲本より高虎と同じ近江出身の脇坂安治が喜多・浮穴・風早の三郡において5万3500石を与えられ、大津城を居城としました。<br /> 

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
    ・脇坂安治の時代(1609〜)
     慶長14年(1609)、淡路国洲本より高虎と同じ近江出身の脇坂安治が喜多・浮穴・風早の三郡において5万3500石を与えられ、大津城を居城としました。
     

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br /> これは、高虎の後、瀬戸内対岸の福島正則に対する備えであったと解する見方もあります。脇坂は、給人所法度や庄屋体制を確立し、大津藩での近世的封権制度を形付けたと考えられています。<br /> 

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
     これは、高虎の後、瀬戸内対岸の福島正則に対する備えであったと解する見方もあります。脇坂は、給人所法度や庄屋体制を確立し、大津藩での近世的封権制度を形付けたと考えられています。
     

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br /> 脇坂は、元和3年(1617)5万5000石で信濃飯田城主として移りました。大洲城天守の基本設計を行った(故)宮上茂隆氏は、脇坂安治が当天守を州本から移築し併せて地名を大津から大洲に変更したのではないかと推定しています。<br />  

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
     脇坂は、元和3年(1617)5万5000石で信濃飯田城主として移りました。大洲城天守の基本設計を行った(故)宮上茂隆氏は、脇坂安治が当天守を州本から移築し併せて地名を大津から大洲に変更したのではないかと推定しています。
     

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br />・加藤貞泰の時代(1617〜) <br /> 同年、伯耆国米子から加藤貞泰が6万石で大津城に入城します。以来、加藤氏の治世は版籍奉還まで続きました。<br />

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
    ・加藤貞泰の時代(1617〜)
     同年、伯耆国米子から加藤貞泰が6万石で大津城に入城します。以来、加藤氏の治世は版籍奉還まで続きました。

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br />  加藤氏入城の際には、すでに城郭の大枠はほぼ整備されていたものと考えられます。復元天守閣は全て木造なんだそうです。

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
      加藤氏入城の際には、すでに城郭の大枠はほぼ整備されていたものと考えられます。復元天守閣は全て木造なんだそうです。

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br /> 大洲はもとは大津と称していました。

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
     大洲はもとは大津と称していました。

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br /> 松根東洋城旧居に並ぶ古民家 下に降りてきました。

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
     松根東洋城旧居に並ぶ古民家 下に降りてきました。

  • ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲<br /> かっちょいいバイクだ。

    ∇大洲城/愛媛県大洲市大洲
     かっちょいいバイクだ。

  • ∇大洲道路→松山自動車道大洲松尾料金所ON<br /> 次の地へ向けて愛車を走らせます。

    ∇大洲道路→松山自動車道大洲松尾料金所ON
     次の地へ向けて愛車を走らせます。

  • ∇松山自動車道宇和島 <br /> =3 =3  宇和島別当インタOFF⇒県道37号線

    ∇松山自動車道宇和島 
     =3 =3  宇和島別当インタOFF⇒県道37号線

  • ∇遊子水荷浦の段畑/愛媛県宇和島市遊子<br /> 県道345号線⇒県道346号線を経由して宇和島市遊子へやって来ました。<br /> 次の旅行記は「遊子水荷浦の段畑」です。眺めが良い漁港に面した段畑です。<br /><br />   THE END.  つづく・・・

    ∇遊子水荷浦の段畑/愛媛県宇和島市遊子
     県道345号線⇒県道346号線を経由して宇和島市遊子へやって来ました。
     次の旅行記は「遊子水荷浦の段畑」です。眺めが良い漁港に面した段畑です。

       THE END.  つづく・・・

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