![大洲城(おおずじょう、愛媛県大洲市大洲)はJR予讃線・伊予大洲駅から徒歩約20分、肱(ひじ)川を臨む小高い丘にあり、歴史的には14世紀中葉に宇都宮豊房(うつのみや・とよふさ、1293~1369)による築城とされ、その後四国平定に戦功あった小早川隆景(こばやかわ・たかかげ、1533~1597)の統治を経て文禄4年(1595)入封した築城の名手である藤堂高虎(とうどう・たかとら、1556~1630)により本格的に近世城郭として大規模に修復され現在に至ります。<br /><br /><br />大洲城で入手した小冊子「復元大洲城」によれば大洲城の歴史については次の通り記されています。<br /><br /><br />「 大 洲 城 の 歴 史<br /><br />大洲城の歴史は、鎌倉時代末期、伊予国守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城に始まると言われています。その後戦国時代を経て、近世初頭に大洲の地を治めた小早川隆景以降、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰ら各大名たちの造営を経て近世城郭が整備されました。<br /><br />大洲城のはじまり(1331~)<br /><br />大洲はもと港を意味する「津」という文字を用い、大津と称していました。大津における城の創建は、元弘元年(1331)伊予国守護の宇都宮豊房に遡ります。戦後末期の永禄11年(1568)までの237年間の間宇都宮氏の居城でした。永禄11年(1568)宇都宮は河野・毛利連合軍に敗れ、城は河野の武将大野直昌が預かるところとなりました。<br /><br />小早川隆景・戸田勝隆の時代(1585~)<br /><br />天正13年(1585)、羽柴秀吉は四国平定を果たします。この戦いで、秀吉方の小早川・吉川連合軍に敗れました。戦後、小早川隆景は、伊予35万石を与えられ湯築城を居城とし、大津城を枝城としました。隆景が九州に転付となった天正15年(1587)、戸田勝隆が宇和・喜多郡16万石を封ぜられ主城を大津とし、板島、松葉、黒瀬の各城には城代を置きました。<br /><br />藤堂高虎の時代(1594~)<br /><br />文禄3年(1594)に朝鮮で病死した勝隆の後を受け、文禄4年(1595)6月に藤堂高虎が宇和郡板島7万石の城主として封ぜられました。併せて宇和・喜多・浮穴各郡約6万6千石の蔵入り代官を命じられた高虎は、板島に城代を置き、大津城を居城としました。慶長5年(1600)高虎は。関ヶ原の戦いの恩賞として、今張国分山城を追増され20万石となり、さらに、慶長7年(1602)には今治城の普請を始め、大津には養子の高吉を城代に据えました。慶長10年(1605)奉行田中林斎は、命を受けて城下に塩屋町を創設した商人に褒状を送っています。このころから大津が城下町として形態を整え始めたのです。<br /><br />脇坂安治の時代(1609~)<br /><br />慶長14年(1609)、淡路国洲本より高虎と同じ近江出身の脇坂安治が喜多・浮穴・風早の三郡において5万3500石を与えられ、大津城を居城としました。これは、高虎の後、瀬戸内対岸の福島正則に対する備えであったと解する見方もあります。脇坂は、給人所法度や庄屋体制を確立し、大津藩での近世的封建制度を形付けたと考えられます。脇坂は、元和3年(1617)5万5000石で信濃飯田城主として移りました。大洲天守の基本設計を行った(故)宮上茂隆氏は、脇坂安治が天守を洲本から移築し併せて地名を大津から大洲に変更したのではないかと推定しています。<br /><br />加藤貞泰の時代(1617~)<br /><br />同年、伯耆国米子から加藤貞泰が6万石で大津城に入城します。以来、加藤氏の治世は版籍奉還まで続きました。加藤氏入城の際には、すでに城郭の大枠はほぼ整備されていたものと考えられます。」](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/11/07/77/650x_11077794.jpg?updated_at=1697764819)
2015/11/05 - 2015/11/05
131位(同エリア228件中)
滝山氏照さん
大洲城(おおずじょう、愛媛県大洲市大洲)はJR予讃線・伊予大洲駅から徒歩約20分、肱(ひじ)川を臨む小高い丘にあり、歴史的には14世紀中葉に宇都宮豊房(うつのみや・とよふさ、1293~1369)による築城とされ、その後四国平定に戦功あった小早川隆景(こばやかわ・たかかげ、1533~1597)の統治を経て文禄4年(1595)入封した築城の名手である藤堂高虎(とうどう・たかとら、1556~1630)により本格的に近世城郭として大規模に修復され現在に至ります。
大洲城で入手した小冊子「復元大洲城」によれば大洲城の歴史については次の通り記されています。
「 大 洲 城 の 歴 史
大洲城の歴史は、鎌倉時代末期、伊予国守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城に始まると言われています。その後戦国時代を経て、近世初頭に大洲の地を治めた小早川隆景以降、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰ら各大名たちの造営を経て近世城郭が整備されました。
大洲城のはじまり(1331~)
大洲はもと港を意味する「津」という文字を用い、大津と称していました。大津における城の創建は、元弘元年(1331)伊予国守護の宇都宮豊房に遡ります。戦後末期の永禄11年(1568)までの237年間の間宇都宮氏の居城でした。永禄11年(1568)宇都宮は河野・毛利連合軍に敗れ、城は河野の武将大野直昌が預かるところとなりました。
小早川隆景・戸田勝隆の時代(1585~)
天正13年(1585)、羽柴秀吉は四国平定を果たします。この戦いで、秀吉方の小早川・吉川連合軍に敗れました。戦後、小早川隆景は、伊予35万石を与えられ湯築城を居城とし、大津城を枝城としました。隆景が九州に転付となった天正15年(1587)、戸田勝隆が宇和・喜多郡16万石を封ぜられ主城を大津とし、板島、松葉、黒瀬の各城には城代を置きました。
藤堂高虎の時代(1594~)
文禄3年(1594)に朝鮮で病死した勝隆の後を受け、文禄4年(1595)6月に藤堂高虎が宇和郡板島7万石の城主として封ぜられました。併せて宇和・喜多・浮穴各郡約6万6千石の蔵入り代官を命じられた高虎は、板島に城代を置き、大津城を居城としました。慶長5年(1600)高虎は。関ヶ原の戦いの恩賞として、今張国分山城を追増され20万石となり、さらに、慶長7年(1602)には今治城の普請を始め、大津には養子の高吉を城代に据えました。慶長10年(1605)奉行田中林斎は、命を受けて城下に塩屋町を創設した商人に褒状を送っています。このころから大津が城下町として形態を整え始めたのです。
脇坂安治の時代(1609~)
慶長14年(1609)、淡路国洲本より高虎と同じ近江出身の脇坂安治が喜多・浮穴・風早の三郡において5万3500石を与えられ、大津城を居城としました。これは、高虎の後、瀬戸内対岸の福島正則に対する備えであったと解する見方もあります。脇坂は、給人所法度や庄屋体制を確立し、大津藩での近世的封建制度を形付けたと考えられます。脇坂は、元和3年(1617)5万5000石で信濃飯田城主として移りました。大洲天守の基本設計を行った(故)宮上茂隆氏は、脇坂安治が天守を洲本から移築し併せて地名を大津から大洲に変更したのではないかと推定しています。
加藤貞泰の時代(1617~)
同年、伯耆国米子から加藤貞泰が6万石で大津城に入城します。以来、加藤氏の治世は版籍奉還まで続きました。加藤氏入城の際には、すでに城郭の大枠はほぼ整備されていたものと考えられます。」
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- JR特急 徒歩 ジェットスター
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JR高知駅南口広場
早朝よりJR高知駅より西進します。ルートは高知駅~窪川駅(土讃線)、窪川駅~宇和島駅(予土線)、宇和島駅~大洲駅(予讃線)、大洲駅~松山駅(予讃線)となります。先ずめざすは伊予大洲城跡です。 -
高知駅前広場の立像
右から中岡慎太郎、坂本龍馬そして武市半平太です。 -
JR高知駅前風景
ホームから高知駅南口方向を捉えます。 -
特急「四万十1号」
高松発(6:04)特急「四万十1号」中村行が8:17分入線、窪川(9:26着)まで乗車します。 -
JR四国企画切符「バースデイきっぷ」とグリーン指定席券
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グリーン車輌シングルシート風景
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宇和島行企画車輌
JR窪川駅で宇和島行(10:04発)に乗り換えます。偶然にも新幹線0系を模した車輌に乗車することになります。 -
新幹線0系模擬車輌内部風景
多数の特急列車のミニチュアがケースにセットされており、鉄道ファンなら思わず近寄ってしまいます。但し乗客のほとんどは高齢者ばかりで特段の関心を持っている人はいないようです。 -
車輌内部風景(近景)
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車輌内部風景
歴代の新幹線がケース内に展示されています。 -
江川崎駅
停車時間6分とのことでトイレタイム、小雨のなか自分たちが乗っている車両を撮ります。 -
宇和島駅車止め
これ以上進めない終着駅である宇和島駅の車輌止めが印象的です。 -
特急「宇和海14号」車輌
伊予大洲駅行くにはこの特急(12:56発)に乗車します。予讃線の宇和島から松山までは非電化区間につきディーゼル車輌となっています。 -
アンパンマンラッピング車輌
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アンパンマンラッピング車輌
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「バースデイきっぷ」とグリーンシングルシート指定券
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グリーン車輌内部
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大洲城跡遠景
伊予大洲到着を目前に肱(ひじ)川鉄橋を渡る車窓から大洲城の遠景を捉えます。 -
大洲城跡
JR伊予大洲駅から徒歩約20分、肱川橋から大洲城を撮ります。 -
肱望亭説明
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大洲エリアマップ
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二の丸大手門跡
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大洲城案内板
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大洲城案内図
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櫓下御門(二の丸大手門)跡説明板
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大洲城遠景
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下台所
城内の食糧庫としての役割を果たしていたと言われています。 -
下台所説明板
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二の丸御殿跡
城主が政務を執り行う表御殿と城主の住居となる奥御殿とで構成されています。この石垣は説明板の図面を見ると表御殿と奥御殿とを分ける位置に配されています。 -
二の丸御殿跡説明板
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大洲城天守礎石
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天守閣礎石説明板
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大洲城天守全景
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大洲城石垣
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大洲城跡石垣
打込みハギの石垣が雄姿を留めています。 -
御門版長屋
郭内の仕切塀の門に付随する長屋で、門番が詰めていた建物で絵図を参考に再現されています。 -
御門番長屋説明板
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登城道
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天守と高欄櫓
右側の高欄櫓は大洲城の中で唯一二階に縁と高欄のある櫓でここからは城内が一望のもとに眺められます。 -
かま櫓跡
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かま櫓跡説明板
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井戸丸
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井戸丸と石垣の修復説明板
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井戸丸
本丸に在する唯一の井戸で直径が3.8mあり最大級の井戸とされています。(落下防止のため網で覆われています) -
大洲城天守
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天守を支える石垣
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大洲城天守と高欄櫓
算木積みされた石垣の稜線はしっかり揃っています。 -
暗り門跡
天守に至る最後の門で城内でも最も大きい櫓門で、かつては門の正面に石垣が立ちはだかり、左に折れて石段を登ると台所櫓の前に出ることができ、通常の櫓門と異なり、折れ曲がり部分の上に渡り櫓が覆いかぶさって内部は「暗り」となっていたそうです。 -
暗り門跡説明板
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イチオシ
大洲城天守・台所櫓
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本丸跡
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本丸廻り櫓跡
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本丸廻り櫓跡説明板
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大洲城天守・高欄櫓・台所櫓
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大洲城縄張図
天守閣内は展示室となって当時の状況が資料等で説明されています。(入城料500円) -
大洲城年表
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大洲城の歴史
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鯱
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市街展望
天守閣から市街を一望します。 -
市街展望
先程自分が乗ってきた予讃線鉄橋方向を撮ってみます。 -
高欄櫓方向
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復元のあゆみ・天守の復元説明板
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高欄櫓説明
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イチオシ
大洲城ジオラマ
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大洲城ジオラマ(近景)
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大洲城ジオラマ
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大洲城ジオラマ
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大洲城ジオラマ
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大洲城・天守
高欄櫓より天守を撮ります。 -
市街展望
高欄櫓から市街を一望します。 -
市街一望
高欄櫓から更に市街を展望します。 -
石落し
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イチオシ
大洲城天守・高欄櫓
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二の丸西隅
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玉櫓跡
肱川越しの攻撃に備えた付櫓を伴う二層の櫓があったそうです。 -
大洲城・天守
二の丸から天守を捉えます。 -
鉄砲矢倉跡
肱川を越えての攻撃に備え鉄砲などの武器を貯蔵していたと言われています。 -
肱川
二の丸から肱川を一望します。 -
二の丸風景
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石垣
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イチオシ
大洲城天守・高欄櫓
大洲城を離れる際再び天守・高欄櫓を捉えます。 -
伊予大洲駅
宇和島駅からの特急「宇和海18号」(伊予大洲駅発15:40)にて松山に向かいます。
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