2015/11/05 - 2015/11/05
798位(同エリア1400件中)
滝山氏照さん
湯築城(ゆづきじょう、愛媛県松山市道後町)はJR予讃線松山駅から市電で約25分、道後温泉に隣接する「道後公園」一帯に在り、室町時代伊予国守護である河野氏が約250年に亘って居城していた平山城です。
天正13年(1585)当主通直(みちなお、1500~1572)の頃、秀吉の四国攻めで小早川隆景(こばやかわ・たかかげ、1533~1597)の包囲を受け河野氏は籠城するも降伏開城、秀吉より伊予を与えられた隆景の城となります。
2年後の天正15年(1587)隆景は筑前国名島に転封、替わって秀吉子飼いの福島正則(ふくしま・まさのり、1561~1624)が11万石で入城するも後に国分山城に移ったため湯築城は廃城となります。
道後公園入口に掲示された湯築城跡案内板には次の記事があります。
「 湯 築 城 跡
湯築城跡は、二重の堀と土塁を巡らせ、その中に居住空間を持つ先駆的な「平山城」の形態をなす中世伊予国(現在の愛媛県)の守護河野氏の居城として、約250年間存続しました。
南北朝時代の初め頃(14世紀前半)、公の通盛によって築かれたといわれています。
通盛の祖先には、12世紀末の源平合戦の際、水軍を率いて活躍した通信13世紀後半の蒙古襲来の際活躍した通有がいます。
通盛は、それまでの河野氏の拠点であった風早郡河野郷(現在の北条市)からこの道後の地に移りました。
築城に関する文献は残っていませんが、河野郷の居館が寺(善応寺)になった時期や、忽那家文書の記述から、遅くとも建武年間(1334~1338)には築城されたと推測されています。
河野氏は、その後讃岐から攻め入った細川氏との戦いに敗れ、湯築城は一時占拠されましたが、守護職とともに湯築城を奪い返しました。
しかし、近隣諸国から幾度となく攻撃を受けたり、お家騒動(惣領職の継承をめぐる分裂)や内紛(家臣の反乱)を繰り返し、その地位は決して安泰ではありませんでした。
天正13年(1585)、全国統一を目指す羽柴(豊臣)秀吉の命を受けた小早川隆景に湯築城は包囲され、河野通直は降伏し、やがて湯築城は廃城となりました。」
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- JR特急 私鉄 ジェットスター
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道後公園入口
宵闇迫る「道後温泉」駅の一つ手前の「道後公園」駅に到着しました。 -
湯築城跡・看板
公園入口には国史跡として湯築城跡の看板が立てられています。 -
湯築城・見取図
公園案内図を見るとほとんどの部分が公園化されており、右半分の赤字破線で囲まれた部分のみが往時を偲ばせる復元区域となっています。 -
湯築古城跡・平面図
図面では公園入口は搦手門となっており、追手門は反対側の東側に配されています。 -
湯築城・内堀
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湯築城・資料館
入場時間を過ぎてしまい入館できませんでした。 -
湯築城・土塁
土塁の左側には内堀が配されています。 -
内堀・内堀土塁説明
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武家屋敷2
家臣団居住区に配されたエリアには家屋敷2が再現されていますが、既に閉館となっており内部見学は不可能です。 -
武家屋敷・説明板
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湯築城・内堀
2m程の土塁を登ると左手に内堀が見えます。 -
湯築城・内堀風景
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上級武士屋敷方向板
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最大土坑説明板
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最大土坑説明板(近景)
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露出した岩肌
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イチオシ
湯築城・内堀風景
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遮蔽土塁
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遮蔽土塁説明板
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岩崎神社・鳥居
夕刻の暗くなるなか早めに本丸跡に行くため最短距離を取るべく岩崎神社の背後に廻ることにします。 -
岩崎神社・説明板
祭神の一つとして「河野家累代の霊」が記載されています。 -
岩崎神社・拝殿
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本丸跡方向
岩崎神社を経て本丸跡に向かいます。 -
本丸跡
切削された本丸跡にはすっかり公園化されており、中央部には展望台が配されているだけで湯築城の遺構を示すものは何もありません。 -
松山城天守
展望台から松山市街の夜景を一望します。正面山頂部で光っているのは松山城天守と思われます。 -
松山市街展望
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石造湯釜
本丸跡を離れ公園入口に向かう途中には珍しい石物が鎮座しています。 -
石造湯釜説明板
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