2015/09/10 - 2015/09/13
407位(同エリア827件中)
明石DSさん
6:49
窓を開ければ青空が広がる好天気!
よし!と身体に力がみなぎってくる
歩き回る一日が始まる
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3日目:9月12日(土):晴れ
ウラジオストク市内の散策
2015/平成27年9月12日(土)
■ウラジオストク三日目の朝!
朝目覚めて窓外を見れば晴れ!それも快晴だった。こんな嬉しいことはない。来る前日本で見ていたウラジオストクの週間予報では私の旅の期間中晴れ予報は一日もなかった。そして来る直前に台風が近づきそれが大陸の方に向かって行きそうだった。
そんなことで晴れは諦めていたのでラッキーの一語に尽きる。そして昨日は散策ウォーミングアップであり、昨日歩いた感じで地図と現実の街の広さの感じも何となく分り、これなら歩いて周れるだろうとの感触を得た。それにプラスしてのこの快晴!朝からテンションは上がり、やる気満々のスタートになった。
まず昨日と同じく朝食を食べに一階レストランに行く。「アメリカン」「コンチネンタル」「ミルク」「ベジタリアン」「フレンチ」の五つのメニューがある。昨日はアメリカン、今朝はコンチネンタルを頼みコーヒーを選んだ。あとで写真を見比べても違いは分らない。トースト・ハム・タマゴ・ポテトの組み合わせ。文句はない。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
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朝食は「コンチネンタル」を頼む
コンチネンタルとは何ぞや?
ヨーロッパ大陸の意味とのこと -
7:48
ホテルから出たら、まず“いの一番”は浦潮駅
そこから私の散歩は始まる
?ここが起点であり終点だ
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■浦潮散策スタート
午前7時40分5階31号室「531」の部屋を出て7時48分にはウラジオストク駅前に居た。土曜日の朝、8時前の駅前アレウーツカヤ(Алеутская)通りを歩く人も少なく車も少ない。さわやかな秋を感じる空気のなかウォーキングには最適だった。通りの両側に古めかしいロシア風、ヨーロッパ思わせる建物があるがいつの時代の物か分らず。時々立ち止まって写真を撮る。
7時55分にはアルセーニエフ博物館(旧横浜正金銀行)に到達している。そこから旧日本領事館に歩く。到着は8時、駅からゆっくり歩いて10分で着く。真清も貿易事務館だった頃に何度も来ただろう。
明治の初めから日露戦争の間の数年を除いてスターリンの大粛清が始まる昭和11年頃までウラジオストク中心部の大通りに面して多くの日本人商店・企業・銀行などが軒を連ねていた。
『「浦潮の日本人商店・企業」1915/大正4年−1922/大正11年』
http://www.jp-club.ru/wp-content/uploads/2010/12/jstores.pdf
この大正時代の地図を見れば日本人がこの地で如何に生き生きと活動していたのか一目瞭然だ。ロシアはウラル山脈を越えて極東まで領土を拡大したといえ、サンクトペテルブルクやモスクワなどのヨーロッパから来る者少なく。この地を発展させるには隣接している国々からの移民を奨励するしかなかった。互いの利益の為の日本人街である。
1910/明治43年当時 ウラジオストク市内に在留する中国人数5万人 朝鮮人8445人 日本人約2500人。以上を綜合するとアジア系三民族の在留者は約6万人となる。1917年には日本人3700人となっていた。
この総領事館二階にはいつも日章旗が翻りバルコニーの上の壁に埋め込まれている菊の御紋章が燦然と輝いていた。初代総領事は大鳥富士太郎。五稜郭の戦いで榎本武揚を総裁とする幕府軍の陸軍奉行をつとめた大鳥圭介の息子として知られた人物である。
世界に冠たる帝国日本ここにあり。維新を経て列強渦巻く世界のなかで独立自尊を堅持するために精魂傾けた日本人たちがここにも居た。皆日本人としての誇りと名誉を大切にし胸を張って生きていたのだろう。戦後日本で生まれ育った私には、日章旗も菊の御紋章も軍隊も軍人もどこか気が引ける。
祝祭日に我が家は日の丸の旗を玄関に掲げている。周囲は皆無。私は右翼でもタカ派でもない普通の一日本人なのに・・・もう20年近く掲げているが今でも国旗掲揚に気が引ける。誰も出さないから。我が家の前を通り掛かった幼女が「これなあ〜に?」と一緒に歩いていた“おばあちゃん”に聞いた。「これは日の丸の旗よ、きれいでしょ」と言った。家の中から窓越しに聞いていて胸が詰まった。
日本国が安泰であってこそ日本人の幸せはある。日本国の誇りと名誉を守ってこそ日本人の誇りも名誉も保ち得る。国家と国民は不可分だ。戦争は相手があって起きる。独立自尊を守るために踏み切った。踏み切らざるをえなかった。結果敗れたが、そんな先人たちを誇りに思えこそすれ非難しては、あまりにも先人が浮かばれない。
1902/明治35年、日露戦争開戦の二年前に発行された「浦潮案内」を見れば当時の浦潮の風景と日本人の様子が浮かんでくる。面白いのは「コマ番号58」に湯屋の紹介があるが『日本風湯屋は三軒あり、浴價は十哥(10ルーブル?)にして、露人も清韓人も来たり浴す、男女混浴なり』とある。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767171
「へぇ〜ホンマに混浴だったのか?」江戸時代もそうだがおおらかだった日本人がいる。案内本の最後には広告頁があるがそれを見るだけで日本人のここでの活躍が手に取るかのように思い浮かぶ。この「近代デジタルライブラリー」の資料は凄いとしか言いようがない。無尽蔵だ!
http://kindai.ndl.go.jp/ -
土曜の朝、アレウーツカヤ通りは
人も車も少なく、散歩は爽やかの一言
https://www.google.co.jp/maps/@43.1136975,131.8815767,3a,75y,22.39h,97.32t/data=!3m6!1e1!3m4!1s8YoAR7MWXqnSEtKZEkxlzw!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja -
8:02
旧浦潮日本総領事館まで
浦潮駅から“ゆっくり”歩いて徒歩10分ほど -
バルコニーの上の丸い穴に菊の御紋章が嵌めこまれていた
-
左:旧日本総領事館・・・右:旧朝鮮銀行(旧デンビー商会?)
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旧日本総領事館前から南方向
中央広場に立つ革命戦士の像が見える
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■中央広場・ニコライ皇太子凱旋門・軍艦
旧日本総領事館の前からゆるい傾斜をなすオケアンスキー大通りの坂下を眺めるとスヴェトランスカヤ通りの向こうに戦士の群像が見える。この中央広場に並ぶ群像は左・中央・右の三つの部分からなる。オケアンスキー大通りから見えるのは軍旗を高く掲げた中央の像である。
その台座の正面には「極東のソビエト連邦樹立(1917〜1922年)に尽力した戦士たち」と記されている。反対側の面には「この日の栄光はやまず、その輝きは失われぬ、パルチザン部隊が都市を占領した」と言う文字が刻まれている。ソビエト市民に愛唱された「パルチザンの歌」の一節である。
中央広場の「金・土」だけ開かれる市場を見歩いた。こんな風景も中国満洲の広場で見かける市場の風景とまったく同じだ。車を並べ屋台を並べ、テントを張ったりひしめき合うように一杯の店・店。まだ8時過だったので開店準備中で、人は少なかったが直ぐに賑やかになるだろう。
スヴェトランスカヤ(Светланская)通り。ソ連時代のレーニンスカヤ街を東に歩いた。そして又「ニコライ皇太子凱旋門」を潜ると潜水艦博物館があり、そのすぐの岸壁に帆柱のある小さな軍艦?が係留されている。『クラースニー ビムピエル号。ソビエト連邦太平洋艦隊初の軍艦。1923年から1958年まで活躍した。』とある。今は内部公開はしていないようだ。 -
「戦士の群像」“Google”より
「極東のソビエト連邦樹立(1917〜1922年)に尽力した戦士だち」
ソビエト連邦
1922/大正11年〜1991/平成3年まで72年間存在した国家
日本はほぼ単一民族・単一国家として建国2675年(2015年現在)
そこそこ大きな国としては、これこそ世界で唯一無二。誇るべし -
8:10
中央広場は市場の開店準備中
すでに立錐の余地なきほど埋まっていた -
8:25
1891皇太子時代の23歳の訪日時日本で巡査に襲われた
明治天皇(39歳)は神戸に停泊のロシア軍艦に見舞う
1918年7月17日未明に革命派に家族全員殺害される(50歳) -
潜水艦博物館の前に係留されているロシア軍艦
「クラースニー ビムピエル号」
ソビエト連邦太平洋艦隊初の軍艦
ロシアは陸軍大国というイメージしかない -
ロシアにおける柔道発祥の地
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■ロシアにおける柔道発祥の地へ
散策マップを手に海岸沿いのカラベーリナヤ(Корабельная наб)通りを東に向かった。金角湾をまたぐ黄金橋の真下直ぐのところに地図の写真と同じ「柔道発祥の建物」があった。玄関が開いていたので入りたかったが人影なく声出す勇気なく外からのぞいた。今も中は綺麗な体育館で玄関には「Спортивныи центр:スポーツセンター」との看板が掛かっていた。
1914/大正3年、ロシアで初めて柔道が始まったのがこのウラジオストクのこの場所。ナホトカ生まれのオシチェブコフの尽力により最初の柔道サークルが結成され練習に励んだ。1917年、オシチェプコフはウラジオストクで世界初の国際柔道団体戦を開催。小樽市の民間学校の団体を招いた。その後日本に出張した際、昇段試験に合格し2段になっている。
しかし1937/昭和12年、スターリンの大粛清で日本のスパイ容疑でモスクワで逮捕され獄死した。当時このウラジオストクでも粛清の嵐が襲い日本人と関係したロシア人が次々拘引され拷問によって罪を認めさせられ処刑されている。「リラの花と戦争」戸泉米子(著)の米子の養父も日本関係の教授も友人たちも日本人に関わったロシア人が逮捕され消えていった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%B2%9B%E6%B8%85
米子の主人:浦潮西本願寺最後の住職となった戸泉賢龍氏も1936/昭和11年暮れに不当な罪を着せられ禁固一年となり刑務所に送られた。その翌年、米子たち残された日本人は外交官を除いて全員が強制退去となり、米子と子供は福井県の主人の実家に戻る。その昭和12年12月、夫も米子の養母を伴って日本に戻っている。
スターリンは、日本人と関係したロシア人を無差別に逮捕し流刑や銃殺に処した。それは粛清の極一部でありソ連全土で実数60万人から700人万人まで定かではない。独裁者は狂気を生み惨劇をもたらす。
日本は万世一系男系継承による天皇陛下の存在があり、こういった独裁者の出現も共産主義が台頭することもあり得ない。共産主義は言葉では「平等」を謳い、天皇陛下のような特別な存在を認めない。その言葉とは裏腹に共産主義社会は徹底した厳しい階級社会を構築する。でなければ能力ある者に自分たちの権力の座を奪われるからだ。
日本は天皇陛下という誰にも取って代わることの出来ない存在の下にその他の万民は平等の立場を得る。それが日本の国体であり、こんな素晴らしい仕組みを持つ国はこの地球上に日本しかない。その素晴らしさを理解できない日本人はまことに不幸だと思う。天皇陛下万歳は日本万歳と同義であり、天皇陛下万歳を叫んで死んでいった兵士の胸中は良くわかる。
私が誰かに「日本人として誇りに思うことを一つ上げて下さい」と問われれば、一も二も三も四も五も六も七八九十も「天皇陛下の存在があること」と迷わず即答する。権力を有さず国民の安寧を祈り続ける皇室。自由なく権利なく私心も言えず、どんな修行僧にも真似はできない。個人崇拝はしない。ただ「ありがたく」思う。その存在にこそに価値があり「愚帝賢帝」は問う必要もない。
柔道発祥の建物は外観も昔のままのようで内部も現在進行形で体育館として使われているようだった。ヴァシリー・オシチェプコフ(1892−1937:享年45)は柔道家であったが、その他の格闘技を競合した「サンボ」の創始者の一人でもある。サンボって名前は聞いたことがあるけど馴染みないし見たこともないが日本でもそこそこやっているようだ。2014年世界サンボ選手権大会は日本で開催されている。
「日本サンボ連盟」
http://www.japan-sambo.com/index.html -
ヴァシリー・オシチェブコフはヨーロッパでは四人目
ロシアで最初の柔道有段者となる -
黄金橋を下から見上げる
-
8:52
黄金橋の真下直ぐ近くに柔道発祥の建物はあった
第5戦隊司令官、海軍少将、柔道家である加藤寛治は
1918年2月23日の日記に「スポーツ協会で柔道を見た
ヴァシリーは見事!思わず一緒に組みを実演」と書いた -
今も体育館として使われている
-
柔道発祥の建物の外観は格闘技の激しさと違って美しい
柔道の先駆者でありサンボの創始者オシチェブコフが
日本や日本人に関係しただけで殺害されるとは
スターリンの粛清の実態は狂気の沙汰だ
独裁者の末路は猜疑心の塊となり殺人鬼となる -
軍事大国ロシアの兵器展示公園
今の日本にはない光景だ
日本以外の国はどことも軍隊軍人に最大の敬意を払っている
国の安泰あっての国民の幸せがあり家族の幸せもある
国を守る根幹が軍隊であり軍人なのは言うまでもない
敗戦後の日本は“もどき”はあるが未だ軍隊も軍人もない
米国に安全保障を依存し誤魔化す日本人は卑怯者でしかない
拉致被害者を放置し平気な顔で日本は平和だと嘯く恥知らず
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■「地図No13」旧東洋学院
ここから次に「地図No13」旧東洋学院(現:極東国立工科大学)を目指した。当たり前だが散策マップの地図と同じ現実の道が前方にあれば「あっここであってるな」とホッとし歩く。蛇行した登り勾配の道を行くと各種兵器を展示した公園があった。小さなタンクもある。
その直ぐ上のスヴェトランスカヤ通りに面して日露戦争慰霊碑があった。「1904−1905」と書かれていたので「きっと日露戦争のだろう」と思って写真を写す。「Героям русско японской войны :露日戦争の英雄たち」「благодарных потомков:感謝の子孫」と像の下に表記あり。
慰霊碑の横の古めかしい建物にはロシア国旗が掲げられ「с праздником великой победы:戦勝記念日を祝う」という看板が掛かっていた。その少し上に写真で見ていた「地図No13」旧東洋学院(現:極東国立工科大学)があった。
建物はレンガ造りで今も歴史建築として重厚さがある。東洋学院は1899/明治32年開校。1920/大正9年から国立極東大学となった。1920年と言えば尼港事件(にこうじけん)の惨劇が起きた年であり、1921/大正10年戸泉米子が九歳で浦潮に来る一年前のことだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E6%B8%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6
シベリア出兵の日本軍もこの浦潮にまだ駐屯していた。そして翌1922/大正11年10月25日日本軍がウラジオストクから撤兵し、ウラジオストク在留の邦人も米子や叔母を含む百余名(八百名程との説も)だけを残し10月24日最後の引揚げ船で日本に帰郷し領事館も一時閉鎖となった。
日本軍の撤退期限が近づくにつれて国外脱出をのぞむ白衛派や無党派の市民軍人とその家族の群れで市内はごったがえす。中国と日本の総領事館は数日の間に1万5000枚以上の査証を発給した。1922/10月24日スタルク提督の指揮下で編成された合計18隻の船団の最後が金角湾をあとにする。目的地は朝鮮半島の元山(ウオンサン)
翌25日三代目の浦潮派遣軍司令官立花小一郎は一個大隊を率いて最後の輸送船で ウラジオストクを撤収する。これと入れ代わりに人民革命軍は装甲列車でペルヴァヤ・レチカ駅に到着。午後5時には先頭の隊列がキタスカイヤ通りを行進して市中に入った。ボリシェヴィキ政権の支配が太平洋岸にまで及んだ歴史的な日である。
米子来訪一年後日本軍撤兵と入れ代わりウラジオストクは赤軍派が進駐し、ロシアがソ連になって行く。幸い赤軍進駐後も尼港のような惨事は起きなかったがウラジオストク人口は大きく減少した。ロシアがソ連に変わり1923年を最後に復活祭も出来なくなった。
1924年にレーニンが死亡。1925/大正14年には日本との国交も回復しウラジオストクの領事館に再び日章旗が翻った。この時在留していた邦人が招かれ米子もそのパーティーに出席している。
しかしスターリンが権力の座に付き、急速に社会主義化を推し進め「宗教は阿片」「異分子反動分子の摘発」等々街の雰囲気も暮らしも人々の心もおかしくなっていく。牧師・旧華族・豪農・富豪・商人たちが次々と追放され二度と姿を現さなかった。
そんな状況の中で米子は尋常小学校を1927/昭和2年(15歳)卒業を迎え日本への帰国も考えたが、ウラジオストクでロシアの「茶色女学校」に入学する。学校で日本人は米子一人。大勢住んでいる朝鮮人の娘で入学したのはロシアに帰化したインテリ家族の娘一人だけ。
満人娘の入学はなかった。学校は極東大学と同じプーシキンスカヤ(Пушкинская)通りにあった。米子が入学した「茶色女学校」は制度が変わって一年早く二年で卒業し、新しく出来た全寮制のラブファーク(労働学院)に入学。
そして1930/昭和5年一年で卒業し極東総合大学教育学部に入学することになる。米子18歳。しかし9月1日の入学はこのレンガ造りの校舎ではなく、学生急増で新しく出来たキタイスカヤ通りの新校舎で学ぶことになる。同じこの年、ウラジオストクの朝鮮人全員が強制移住されウラジオストクに朝鮮人は一人もいなくなった。米子はこの重厚な校舎で学ぶことを楽しみにしていたようだったが。
米子も知っている日本関係の教授を含め、この大学の有能な主任教授等が17名もスターリンの粛清によって亡くなっている。その中には米子が家まで送ってもらった当時最年少の日本語教授で日本人の母を持ちハンサムで女学生の憧れの的だったマドマエフ教授。その教授が姿を消し後任となったフョークリン教授などの日本語教授も含まれている。 -
日露戦争慰霊碑
碑文の中の一節、パソコンの翻訳では
「露日戦争の英雄たち」「感謝の子孫」
戦後日本は敗戦利得者及び在日勢力によって変質した
日本の再生は政治を真の日本人の手に取り戻す以外ない -
9:09
慰霊碑傍にロシア国旗を掲げた古めかしい建物
「с праздником великой победы」
「戦勝記念日を祝う」
何の建物か不明 -
■「地図No13」旧東洋学院
③浦潮旧日本人街散策マップ(11~16)
https://youtu.be/wvUVzx0B0HY -
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1899/明治32年竣工。今もレンガ造りの重厚さで存在感がある
建物に品格あれば、人はそれだけで身が引き締まる
1930/昭和5年、学生の急増で新にキャンパスが出来
教育学部入学の米子はこの校舎で学ぶことは出来なかった
明治32年1月勝海舟、77歳でこの世を去る -
現在:極東国立工科大学
スターリンの粛清によってこの大学の有能な教授17名が処刑された -
「地図No15」プーシキン劇場
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■「地図No15」プーシキン劇場
赤レンガ造りの極東国立工科大学と道を隔て向かい合って建っているのが女優松井須磨子が1915/大正4年出演した「地図No15」のプーシキン劇場。当時のままなのか白亜の瀟洒(しょうしゃ)な館が重厚な赤レンガ造りの大学と対象的な装いで建っていた。
「松井須磨子」(1886/明治19年 - 1919/大正8年 享年33)が、この劇場でレフ・トルストイ「復活」劇中歌「カチューシャの唄」を日本語で歌って大好評を博したのは1915年12月21日。米子がウラジオストクに来る4年前。
石光真清は日露戦争を経て1909/明治42年から、日本で三等郵便局局長「郵便局の旦那」として穏やかな日々を過ごしていたが、弟から列強の権益獲得争いになっている満洲での再起を促され関東都督府の命によって錦州に1916/大正5年満蒙貿易公司を開店させた(真清48歳)。
松井須磨子がプーシキン劇場に出演していた時、真清は錦州で満蒙貿易公司の設立準備に奔走していた。無論両者に何の関係もないけれど・・・。
松井須磨子のことは名前を聞いたことがあっただけで旅行記を記しながら初めて知った。33歳で演出家島村抱月の後追い自殺とは。それも浦潮来訪四年後のことなのか・・・。美容整形で鼻を高くし、その後遺症で苦しんだとある。最近日本でも美容整形が盛んだが、偽顔は偽心に通じ良いことは何もない。怪我や障害による整形は別として。特に鼻をさわれば絶対醜くなる。顔のバランスが崩れる。
この劇場は今もプーシキン劇場として使われているようだ。扉が開いていたので中に入ったら女性が居た。「私は日本人です。Я японц ヤ イポーニエッツ」とだけ言って身振りで「中を見せて欲しい」と伝えたがダメだった。今年は松井須磨子がこの劇場で出演した1915年からちょうど100年に当たり、その演出をした島村抱月の出身地である島根県が「9月20日」ここで演劇公演を行う。
http://www3.pref.shimane.jp/houdou/files/26CA7E59-E9EF-404E-805A-42D2511DB2C2.pdf -
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?2015/平成27年の今年から、ちょうど百年前の12月21日
このプーシキン劇場に松井須磨子は出演した(29歳)
この4年後に島村抱月の後追い自殺をするとは・・・ -
松井須磨子は日本初の「整形美人女優」だったのか
下と鼻筋が違うような感じがする -
今の女性タレントも十分可愛いのに
美容整形で醜くなる女性が多過ぎる -
プーシキン劇場の玄関を入った部屋
これ以上進入できず -
旧東洋学院とプーシキン劇場
道を挟み向かい合って建っている
重厚と瀟洒 雲ひとつなき青空の下 -
この写真をパッと見て「上り?」か「下り?」か
一瞬分りにくいが、下から上を写している
?ケーブルカーは錆び付いているようだ
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■“鷹の巣展望台”
ここから鷹の巣展望台(Орлинное гнездо смотровая площадка:標高192)へ行く。ケーブルカーは運転していなかった。確かに登り勾配だが十分歩いて行ける。プーシキン劇場から歩いて10分ほどで到着した。
仕事で来るなら別だが浦潮観光なら此処からの眺望を見ずして帰るのはあり得ない。私は旅先では高台から周囲を眺めたい。それはいつも自分の今いる場所を確認し、周囲を警戒する動物的本能だと思う。今自分がどこにいるのか?分らないのは不安で面白くない。
ガイドの“M君”がこの「鷹(タカ)の巣展望台」は誤訳で「鷲(ワシ)の巣展望台」と執拗に言っていた。何故?と思っていたがロシア語では「Орлинное гнездо(巣)」は「鷲の巣」だから。
分類学上の違いはないようだが大型が「鷲」で小型が「鷹」・・・『ワシとタカの違いって何?』・・・日本では鷲ではなく「鷹の巣」と呼ばれたのか?真相は知らないが言葉の響の良し悪しの問題だろう。でもロシア人に「ワシ」と「タカ」のニュアンスの違いは分らない。
http://www.pefmix.com/wasi.html
市街を望むにはちょうど良い高さでウラジオストクが一望できる。この展望台が何時出来たのか知らないがウラジオストクに少しでも滞在した日本人は、ここからの風景を楽しんだろう。ごく最近まで私にとってウラジオストクはソ連時代のまま未知の街だった。その街の高台に立っている自分が不思議でもあった。
この展望台には恋人同士が別れないようにと南京錠を掛けている。神戸の観光スポット「ビーナスブリッジ」にも沢山の南京錠が掛かっているようだが地元なのに一度も見に行っていない。韓国人ツアー客や中国人ツアー客が次々来ていた。そして結婚式後なのか?写真撮影のカップルも・・・。
そこに民族衣装を着た大きな身体、もじゃもじゃ髭を蓄えたロシア人“おっちゃん”が登場。手には槍ならぬ長い柄の先にホークのような武器?を持っていた。姫路城にちょん髷帯刀侍姿で観光客を喜ばしてくれる人のように。
写真を撮り、記念に私とのツーショット写真を頼んだら肩からぶら下げている袋にお金を入れてとのジェスチャー。ポケットに50ルーブル紙幣が一枚あったので見せたら、もう一枚ということで百ルーブルを出したら笑顔でOK。
そばにいた人にシャッターを頼んでツーショット写真を何枚も撮ってもらった。サービス精神旺盛でポーズを変えながら何枚も。いくらほどの小遣い稼ぎなるのか知らないがそのサービス精神に嬉しくなった。百ルーブルは安い。ここで日本語を話すロシア人青年から声を掛けられた。
この青年に“おっちゃん”の年齢を聞いてもらったら二歳年下の63歳だった。元気溌剌赤ら顔のロシア人、もう定年隠居の身なのかも?好感の持てる人だった。
眼下に金角湾(ザラトイ・ローグ)に掛かる黄金橋。金角湾の名前はトルコ・イスタンブールの金角湾に似ていることから名付けられたそうだ。2005/平成17年10月19日JTB旅物語「大満喫トルコ8日間」のツアーで金角湾を見た。
http://4travel.jp/travelogue/10056717
ヨーロッパ大陸に位置するトプカプ宮殿観光時の自由時間に喫茶店に一人で座ってお茶を飲みながら金角湾、そして右方向にボスボラス海峡を隔ててアジア大陸を眺めた。これでヨーロッパとアジア:東西の金角湾を見たことになる。40分くらいここからの景色を堪能して次に向かうことにした。 -
中国韓国からの団体客多し、見たくなくとも目に入る
金角湾に掛かる黄金橋
金に金・・・か
我ウラジオストクに来たり -
一体この南京錠の数の内
何組が結ばれたのだろう?
学歴も地位も名誉も糞食らえ
この世に命を与えられし者は
結婚し子を産み育て次代に繋ぐことこそ
最大の義務であり責任なり
それを果たさぬ者は誰であっても認めない -
1958/昭和33年〜1991/平成3年までの33年間
浦潮斯徳は軍港として閉鎖都市だった
日露戦争でバルチック艦隊を殲滅した日本帝国海軍
その歴史事実があまりに強烈でロシア海軍など目に入らぬ -
参上!
これぞロシアの勇者、カッコイイ! -
確かに腕の太さは倍だけど
抜刀しての白兵戦では
命捨てる覚悟で向かえば互角なり
いや軽き命の精神あれば勝れり -
下界から“鷹の巣展望台”を望む
ウラジオストク行くなら是非ともここからの眺望を -
“鷹の巣展望台”から?「スハーノフ(Суханова)通り」を歩いて館員宿舎に向かう。
正面がヒュンダイホテル。写真突き当たり右側がスハーノフ広場
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■日本国総領事館員宿舎
ウラジオストク中心部は碁盤の目のように交差点と信号機、或いは道路を渡る地下道があるが、すこし外れると坂道や見通しの悪いカーブもあり信号機も少なく横断歩道も少ないので道路を渡りにくいことが多かった。“鷹の巣展望台”からスハーノフ通り(旧ナゴールナヤ通り)をヒュンダイホテルの方向に歩いてスハーノフ広場に着いた。
この広場の道を隔てて少し中に入ったところに1930年代の日本国総領事館館員宿舎がある。そして当時日本人学校も浦潮居留民会も同じ建物内にあった。1930年からだと2015年の今年は85年目になる建物は外観からは二階建てだが三階の屋根裏部屋もありそうだ。
宿舎であり学校にも使われていただけあって大きい。ヒュンダイホテルの近くで、当時はこの辺りに多くの日本人が暮らしていた。今もアパートなのか?住居として使われている。1920年頃は6000人くらいの日本人が浦潮で生活していた。 -
日本国総領事館員宿舎
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日本国総領事館員宿舎
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10:57
木造で大きな建物だった
すでに85年くらい経っている
館員宿舎でもあり日本人学校として使われ
浦潮居留民会もここにあった
このあたりに日本人が多く暮らし
その中心的存在だったのだろう -
リフォームしながら住んでいるのだろうが
今も住居としての役割を十二分に果たしている
中に入らなかったが見た感じアパートのようだった -
■「地図No4」旧松田銀行部の建物
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■「地図No4」旧松田銀行部の建物
領事館員宿舎からフォンタンナヤ(Фонтанная)通りを西に歩きオケアンスキー(旧キタイスカヤ)通りに出た。この角に「地図No4」の旧松田銀行部の建物が建っている。
説明によれば
『1907年日露戦争後、長崎市の十八銀行の支店として開かれた。1916年朝鮮銀行に段階的に吸収され1919年には朝鮮銀行浦潮斯徳支店となる。今この建物は電話通信会社の顧客サービスセンターとして使われている。』
建物は今も美しい外観を保って交差点角にあった。この浦潮で暮らす日本人は1917/大正6年ロシアで革命が起こり、それが浦潮に波及しシベリア出兵の日本軍が撤退する1922/大正11年までは浦潮での生活を謳歌していたのだろう。 -
■「地図No4」旧松田銀行部の建物
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?11:13
旧キタイスカヤ通りの角に今もそのまま美しく建っていた
『ロシア語で中国は「キターイ」(Китай)
「キターイスカヤ(китайская)」は
「中国の」という形容詞形の女性形』(抜粋) -
世界に宗教多々あれど
私の宗教は「八百万の神」「ご先祖様」
そして我が家の菩提寺は「真言宗」なり
『神道(しんとう)は、日本の宗教。
山や川などの自然や自然現象、
また神話に残る祖霊たる神、
怨念を残して死んだ者などを敬い、
それらに八百万の神を見いだす多神教。』
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■ポクロフスキー聖堂
キタイスカヤ通りの坂道を登っていくと右手に教会が見える。ポクロフスキー聖堂(Собор Покрова Пресвятой Богородицы)。1885/明治18年に木造の礼拝所が造られ、1902/明治35年同じ場所に石造りの教会が完成した。
哈爾濱に写真館を開いた石光真清はその前年1901/明治34年10月日本に戻る“お花”をこの浦潮の港から見送った後、12月に自らも一旦日本に戻り、翌明治35年2月にウラジオストクに戻っている。日露戦争開戦二年前。
石造りのポクロフスキー聖堂も完成の33年後、1935/昭和10年、宗教を否定するソ連政府によって爆破され公園となった。ふ〜ん爆破か。ソ連崩壊後再建機運が高まり2007年この聖堂が再建されている。中にも入ったが写真は撮れず。
この聖堂の前にジプシーと思われる母親が幼子二人と共に地べたに座って娘が物乞いをしていた。息子は一歳くらい。娘の方は小学校低学年くらいの歳だと思う。手を出す娘に小銭をやった。教会から出て来て別の道を通ったらまたその娘が待ち構えていた。この娘が大人になり母親になればまた同じことを繰り返すのだろうか?
「大聖堂」「聖堂」「教会」の名称の違いの理由は一応ネットで検索したが様々ありすぎてよくわからない。 -
恵みを乞うジプシーの母娘?
何故ジプシーだと思ったのか?
根拠はないが見てそう感じた
物乞いは
病なく生保を受ける者より高貴なり -
11:42
?12人を出産(うち一人は生後二日で死亡)し育てた
与謝野晶子見事なり、それでこそ天下に物言える
鉄の女「サッチャー首相」も二人の子供(双子)を産み育てた
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■与謝野晶子記念碑
ポクロフスキー聖堂の道路を隔てた向かい側に「極東国立大学東洋学院」がある。1930/昭和5年プーシキンスカヤ通りのレンガ造りの校舎が手狭になり学部が分散された。極東大学に学ぶたった一人の日本人として戸泉米子が入学時からここに通うことになった。といっても入学後は学業よりコルホーズ・ソホーズへの「勤労奉仕」が主となって行く。
その後『ソヴィエト時代にはスターリンによって東洋関係の研究者が弾圧され、その煽りで1939年に閉鎖。フルシチョフにより1956年に再開した。』
校内の一角に1994/平成6年大学関係者の尽力で建立された与謝野晶子の碑がある。「校内のどこにあるのだろう?すぐに分るかなァ・・・」と思いながら行ったが、道路側のフェンスの外から碑らしき物が見えた。
1912/明治45年5月『7月30日 明治天皇崩御(大正に改元)』・・・晶子はシベリア鉄道でパリにいる夫、与謝野鉄幹に会いに行くために浦潮に来た。
晶子は12人の子供を生みしっかりと育てた。それこそ女性として何にもまして最高だ!「歌人、作家、思想家」として社会の矢面に立ちながら、そして不振の夫:鉄幹の稼ぎが少ない時は来る仕事すべて引き受け前借して家計を支えたとある。
今時の綺麗事ばかりで中味なく子供を生み育てない女性有識者?とは全てに違う。今までの私の与謝野晶子の認識は日露戦争時に詠んだ「君死にたまふことなかれ」のイメージしかなかったが、ただの薄っぺらな反戦詩人ではないと思いなおした。
『1910/明治43年に発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の 水の明りにしたためし 永き別れの ますら男の文」等約十篇の歌を詠み、第一次世界大戦の折は「戦争」という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っている』・・・現実を直視出来る女性なのだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%87
この場に来るまで知らなかったが晶子の碑のすぐ傍に阿弥陀如来像があった。「えっこれは何?」と見たが、その時は碑文を見ても分らず。写真を撮って帰国後調べたら『戦後のシベリア抑留で死亡した日本人を慰霊するロシア極東ウラジオストク市の平和祈念像(阿弥陀如来像)』だった。
「シベリア抑留者の慰霊仏を寄贈/鳥取の協会、ロシア極東で式典」
http://www.shikoku-np.co.jp/national/international/20130919000640
「木造の屋根をかける活動」・・・「へぇ〜そうだったのか」である。この屋根は米子工業高等専門学校学生が2011/平成23年9月10日から9月23日の日程で作ったようだ。そういえば頑丈そうな造りだった。
http://db.pref.tottori.jp/pressrelease.nsf/0/5968503A017B59C94925791F000A038E?OpenDocument -
与謝野晶子の碑
1912/明治45年(34歳)浦潮から鉄幹を追ってパリに行く
シベリア鉄道で欧州に行くために立ち寄っただけなのに
パリ行き出発に際して
「平塚らいてうなど総勢500余名が見送った」とある
当時はそれほど世間が注目することだったのか? -
シベリア抑留者の慰霊:阿弥陀如来像
学生が立派な屋根を作ってくれた -
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■「地図No2:C1」浦潮本願寺跡
次に帰国後知った「リラの花と戦争」戸泉米子(著)の米子が22代目で最後の住職:戸泉賢龍の嫁として嫁いだ浦潮本願寺跡に向かった。
http://jp.rbth.com/articles/2012/05/18/14392
最初場所が分からずアレウーツカヤ通り、左カーブの下り坂を下り過ぎたようで途中で振り返ってまた戻る。まだ浦潮本願寺が健在な時は、このアレウーツカヤ通りを下から見上げれば突き当たりの高台正面に寺が見えたのだろう。ロシア人の安らぎの象徴がポクロフスキー聖堂であるように浦潮日本人の精神的支柱だった。
西本願寺は1886/明治19年ウラジオストクに初めての海外布教所を開き、1894/明治27年セミョーノフスカヤ通りに赤煉瓦の建物を建立した。その後日露戦争で閉鎖され活動は休止。戦後布教所は転々とし1914/大正3年、二千坪の広大な敷地の一角にシベリア式のログハウスを新築した。
しかしそれは仮建築であり本堂は西側の一段と高い場所に建立予定だったが実現を見ず。1937/昭和12年、戸泉住職が逮捕拘留。そして日本人の強制退去によって閉鎖となった。その後も『1960年代初めには、浦潮本願寺の建物の一部がまだ残っており、極東大学の学生寮となっていた。(ウラジオストクと私)』
http://hakodate-russia.com/main/book/book-2005/2005-14.html
1996/平成8年米子(84歳)戦後五回目ウラジオストク訪問時にモルグン・ゾーヤ教授の案内で跡地を訪ね浦潮本願寺の土台石を確認。その場で米子はゾーヤに記念碑建立を頼み多くの支援と協力を得て四年後の2000年11月建立が実現した。
その碑には浦潮本願寺跡と刻まれ樹木に囲まれた高台にひっそりと立っている。時刻は昼の12時過ぎ、すぐ下のアレウーツカヤ通りは車が行き交う日常の光景があるが樹木に囲まれた碑の周囲は静かだった。「西本願寺のウラジオ開教」に詳しく書かれている。
http://bukkyotozen.blog.eonet.jp/default/cat3751116/?p=2
ウラジオストク訪問で必ず行きたかったのは「旧日本総領事館」「浦潮本願寺跡」「ウラジオストク駅」「ウラジオストク港」「鷹の巣展望台」。最低限の目標はクリアーした。“Google”地図などで見て「これなら歩いて見て周れそう」と思っていても実際現地に来れば街が大き過ぎ即座に諦める場合が多い。でもウラジオストクはその逆だった。勾配はあるが期待通り歩きで可能な大きさだった。私の旅は歩くこと。 -
浦潮西本願寺
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浦潮西本願寺
1914/大正3年、この場所にシベリア式ログハウス本願寺(仮建築)建立
建立23年後1937年、最後の住職:戸泉賢龍が不当逮捕され寺院は閉鎖となる
1886/明治19年、本願寺は浦潮で海外初の布教所を開き
閉鎖までの51年間、浦潮で日本人の精神的支柱となった -
浦潮本願寺跡に立つ記念碑
2000/平成12年建立
小さな公園に樹木に囲まれ静かに立つ
今も浦潮で眠る幾多の日本人の魂宿る -
浦潮本願寺:最後の住職:戸泉賢龍と米子夫妻
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米子が書き残した「リラの花と戦争」
激動の時代、米子は浦潮・満洲で生き抜いた
米子 身長154 体重47kg 小柄なのに凄い
「函館日ロ交流史研究会」
http://hakodate-russia.com/main/web/urajio/ -
ここに本願寺は建っていた
この公園右手下はアレウーツカヤ通り -
「地図No3」旧日本人小学校
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■「地図No3」旧日本人小学校
浦潮本願寺跡の次は、そのすぐ南、アレウーツカヤ通り東角にある日本軍司令部跡があるのを気付かず通り過ぎフォンタンナヤ通り「地図No3」旧日本人小学校に行った。日本人小学校は1894/明治27年浦潮本願寺の一室で開校。1902/明治35年帝国貿易事務館に移転する。
この建物での授業は「1913/大正2年〜1931/昭和6年」までだが1937/昭和12年まで場所を変えながら授業は非公式に行われていたようだ。浦潮の日本軍が撤兵前1922年当時の生徒数256人。
今立っている小学校跡の校舎は米子が1992/平成4年ウラジオストク解放後に再訪した時はなかったそうだ。それ以降再建されたのだろう。メルヘンチックな尖がり屋根のある建物で外観は当時を復元したのか?美しい姿があった。
この小学校に戸泉米子も6年間通った。叔母の家は『公園から山へと伸びるメタリスト通りにあった』『プーシキンスカヤとメタリスト通りの角に満人のラフカ(雑貨屋)がありその隣に幼稚園、そして叔母の家があった』
https://www.google.co.jp/maps/@43.114749,131.9124381,20z?hl=ja
地図で見ても分るが叔母の家からこのフォンタンナヤ通りの学校まで相当遠いので慣れるまで通学は叔母が付き添った。
米子によれば『日本人町の外れに日本人学校があり、学校の向かい側に満人が住む二階建てが並んでいた。その奥はスラム街のような場所で、天気の良い日は路地から時折ボロボロの服をまとった満人が出て来て座り込んで「日向ぼっこをしたり」「虱取り」をしていたのが二階の教室の窓からよく眺められた』そうだ。 -
-
日本人小学校は1894/明治27年浦潮本願寺布教所の一室で開校
1902/明治35年帝国貿易事務館に移転する
この建物での授業は「1913/大正2年〜1931/昭和6年」まで
戸泉米子も遠い叔母の家から6年間(1921-1927)この学校に通った -
この小学校の校舎は1992/平成4年ウラジオストク解放後
米子が再訪した時、この校舎はなかったそうだ
この説明版によれば
1909年個人所有の建物が出来、1915−1922まで日本人小学校
1924−1925:ソ連政府所有、アパート。1960〜事務所として使用
2005-2007:記念建築として復元された -
浦潮在留邦人の子弟が通っていた小学校跡
日本の子供たちはどんな服装で通っていたのだろう? -
「地図No7」旧妹尾商店・堀江商店・太田商店
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■「地図No7」旧妹尾商店・堀江商店・太田商店
アレウーツカヤ通りに戻り南に少し下がれば西側道沿いに「地図No7」の写真で見ていた昔も今も同じ外観の「旧妹尾・堀江・太田商店跡」の建物があった。1922/大正11年当時この通りは両側とも日本人商店・企業がずらっと並んでいる。日本人町で一番繁盛していたのはこの建物から斜めに延びるカソイペレウローク通り(現:モルドフツェヴァ通り)。“ストリートビュー”の写真正面が「旧妹尾・堀江・太田商店跡」(現:極東大学所有)
堀江商店を設立した堀江直造(1870―1942:享年72歳)は1892/明治25年働いていた西澤商店の店主と一緒に22歳で浦潮に渡り西澤商店をその頃浦潮11軒しかなかった二等商店(ロシアでの格付け)にした。日露戦争で一旦帰国再渡航後には自ら事業を立ち上げると共に、浦潮日本人社会の中心的役割を果たすようになる。直造の孫娘堀江満智の「函館日ロ交流史研究会第3回研究会に参加して」で紹介されている。 http://hakodate-russia.com/main/letter/25-02.html
赤レンガ造りの建物は現在極東大学の所有となっているそうだ。建物には『19世紀末〜20世紀初頭、この建物内で当時の日本の有力な商業団体であった堀江商店・瀬能商店・太田商店が営業。』との日露両言語での説明プレートがあった。建物直ぐ南側下をシベリア鉄道が走っている -
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1878/明治11年、日本人商店は5軒
大工、左官、経師屋(表具師)、洋服仕立て屋、靴職
1892/明治25年、7軒
1等商店として外国人店と比肩できる杉浦商店があった
1903/明治36年、浦潮の全281企業のうち、92が日本人所有
全人口に占める日本人の割合は3・2パーセント
この数字だけをみても浦潮での日本人の活躍が分る -
今2015/平成27年、百年前日本人がこの地で活躍していた
明治大正の日本人は海外に雄飛し胸躍る時代だったろう
『「浦潮の日本人商店・企業」1915/大正4年−1922/大正11年』
http://www.jp-club.ru/wp-content/uploads/2010/12/jstores.pdf -
堀江商店建物のすぐ下をシベリア鉄道が通る
陸路欧州に続く -
「地図No2:C3」浦潮本願寺跡
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■「地図No2:C3」浦潮本願寺(布教所)跡
次に行ったのは「地図No2」の浦潮本願寺跡。堀江商店跡のすぐ近く(徒歩3分)にある。「アレウツカヤ通り」から「セメノフスカヤ通り」を東に少し歩き北側に入ったところにあった。地図にあった写真では二階建てで古そうな建物だったのですぐにピンと来なかった。今は増改築されて四階建てになっており新築ビルのように美しい建物に変身していた。
函館日ロ交流史研究会の2012/平成25年「ウラジオストク訪問記」 の写真では古いままの「ウラジオストク布教所(浦潮本願寺の前身)」が写真で紹介されている。ということはそれから三年の間に増築されたということになる。嬉しいことにこれでこの先も長くこの建物は浦潮に残り続けるだろう。
http://hakodate-russia.com/main/book/book-2005/2005-07.html
石光真清がウラジオストクに初めて立ったのは1899/明治32年8月25日(31歳)。到着二日後に田村怡与造大佐に連れられて西本願寺のウラジオストク出張所を訪れている。「曠野の花」には『西本願寺出張所は在留邦人の寄附によって出来た赤煉瓦の建物で、説教所と公会堂を兼ねていた』とある。
その時真清が来たのはこの建物だ。そしてここに坊主の清水松月師がいた。松月師こそ「花田仲之助少佐」であり、彼は1897/明治30年から浦潮で僧侶に扮して諜報活動を行い日露戦争時には「満洲義軍」を率(満洲義軍総統)いて日本の勝利に貢献した。花田少佐(万延元年1860年 -1945/ 昭和20年享年85)はロシアで革命派支援の諜報活動をした明石元次郎(1864/明治元年9月1日ー1919/大正8年10月26日享年55)と同期。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E7%94%B0%E4%BB%B2%E4%B9%8B%E5%8A%A9
ロシアは1900年「義和団の乱」が起きた清朝国内の混乱を機にブラゴヴェシチェンスクの清国人を虐殺、そのまま一気に満洲に進攻し支配地域を広げて行った。そんなロシアに当時シベリアや満洲にいる日本人は女郎から出稼ぎ職人まで危機感を感じ「ロシアから日本を守らねばならない」という共通認識を持っていた。真清もそういった日本人との出会いを手記に書き残している。
1900/明治33年満洲:阿什河駅(現:阿城站)前で出会ったロシアに雇われている鉄道工事の石工:守田嘉吉(広島県)は真清に声を掛けられ外地で頑張っていることを誉められると『なあにこの鉄道が将来日本のものになると思えば腕が鳴って淋しいなんて思いませんよ』と語っている。
https://www.google.co.jp/maps/@45.5514049,126.9966883,18z?hl=ja
数多くの人たちが出入りし歴史が秘められた浦潮布教所は見事に増築され新築同然になっていた。 -
ウラジオストク布教所(浦潮本願寺の前身)
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1894/明治27年、自前の布教所を建て
その一室で小学校を開校していた
初代住職は多門速明
傑僧「太田覚眠」は日露戦争前1903〜1931まで住職だった
石光真清が初めて浦潮に来た1899/明治32年
清水松月(花田仲之助少佐)がこの布教所の僧侶だった -
地図掲載の写真では薄汚くなっていた布教所が
以前のままで四階に増改築され新築のようになっていた -
2012/平成25年の浦潮本願寺布教所の写真
函館日ロ交流史研究会「ウラジオストク訪問記」
http://hakodate-russia.com/main/book/book-2005/2005-07.html
浦潮には地震がないのか?
レンガ造りの建物も容易に増築できるようだ -
「地図No16」作曲家・入野義郎の生家
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■「地図No16」作曲家・入野義郎の生家
布教所からセメノフスカヤ通りを東に歩くと交差点角に旧浦潮日報編集部の入っていた建物がある。ここは昨日も訪れた。そのまま交差点を東にセメノフスカヤ通りを横切り北側に入ったところに「地図No16」作曲家・入野義郎の生家があった。入野のことは作曲家であることもその他何も知らず。この地図を見て初めて知った。
入野義郎とは?1921/大正10年11月13日 - 1980/昭和55年6月23日(享年59)1921年なら米子が9歳で浦潮に来たその時に生まれている。そして1927年父親が支店長として勤めていた鈴木商店が倒産し日本に帰国、その後作曲家の道を歩む・・・か。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E9%87%8E%E7%BE%A9%E6%9C%97
「入野義朗:弦楽六重奏曲」
https://youtu.be/WyNha2BGeT0
地図に掲載の写真がはっきりしていなくて実際の建物か否か?外観から判断が難しかったが近づくと入り口の横に日本語表記で『著名な日本の作曲家ウラジミール・入野義郎がこの家で貿易会社「鈴木商店」ウラジオストク出張所長の家庭に生まれた』との銘板が貼ってあったので分った。6歳までウラジオストクで暮らした入野だが葬儀は東京でロシア正教会によって行われたとある。ウラジミール入野とあるように洗礼を受けていたのだろう。 -
-
作曲家・入野義郎の生家
1921/大正10年この浦潮で出生。その年9歳の戸泉米子が浦潮に来た。
義郎は6歳の1927年までいたようだが、1922年大正11年日本軍撤退後
浦潮は革命派が占拠し日本人が住みにくい街へと急速に変貌して行った -
ここなのかなあ?と思いながら建物を見上げても確証なく
はたと玄関附近になにやら銘板らしきものを見つけた -
玄関に近づけば「ウラジミール・入野義郎」が
この家で生まれたと表記されていた
「太閤記 (NHK大河ドラマ)」の音楽担当
https://youtu.be/AwTiWtr3TZc -
Limoncello
http://limoncello-cafe.ru/contacts/
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■昼食休憩
そして地図を見直していて行き忘れていた場所があることに気付いた。そこは戦跡巡りが趣味の私が行きたい場所の一つでもあった「旧浦潮派遣軍司令部跡」の建物。シベリア出兵時にここが司令部になっていた。
司令部跡に行こうと入野の生家からセメノフスカヤ通りに出てオケアンスキー(旧キタイスカヤ)通りを北に歩く。パローガヤ(Пологая)通りを西に向かうつもりがフォンタンナヤ通りを歩いていた。
すでに昼を過ぎ足も棒になっていたので昼食休憩をしようと周囲を見ながら歩いているとピザ店があった。「Limoncello」という店に入りやっと休憩。窓側の二人掛けの席に案内される。時刻は午後1時半ごろ。メニューの写真を見て「これを」とピザを指差し頼む。そしてこの店で私が使える数少ないロシア語の一つを使う。
それは「トイレはどこですか?」(グジェ・トワイレット:Где туалет?)
ロシア語での返事は分らないが身振りと指差す方向で分った。
このピザ店は最近アープンしたのか?“Google”“ストリートビュー”では、このレストランの建物ではない。最初持ってきたピザを見た瞬間「これは一人で食べきれない」と思うくらい大きかったが全部食べてしまった。日本で食べるのと変わらぬ味で美味しかった。¥670ルーブル。さすが歩き疲れていたのかデジカメ時間では1時間くらいこの店にいて出たのは午後2時半頃。 -
ピザ/パスタの店に入ってホッと一息
窓側の二人掛けの席に案内された -
なかなか雰囲気の良い店だった
土曜日の昼下がり
お客さんもチラホラ -
写真で見るより実際は巨大ピザに見えた
一人では食いきれないと思ったが
食べ終わりエネルギーも充電 -
旧浦潮派遣軍司令部
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■旧浦潮派遣軍司令部
そして現在はロシア内務省沿海地方局となっている「旧浦潮派遣軍司令部」に行った。
シベリア出兵(1918/大正7年ー1922/大正11年)についての是非はいろいろあるが、もしあの時日本が優柔不断な戦略ではなくシベリアに極東共和国樹立を目的とし一貫した軍事行動をとっていればその後の世界も東アジアも当然また違った現在を迎えただろう。
1914/大正3年第一次世界大戦勃発後ロシアは連合国側でドイツ・オーストリア等の中央同盟国と戦っていたが、ロシアでは1917年ロシア革命が起こりレーニンがドイツと単独講和し戦線から離脱した。その為ドイツは戦力を西側に集中出来ることになり、それに危機感を抱いたイギリス・フランス等連合国がロシアに囚われているチェコ軍団救出の名目でシベリアに出兵した。その中心となったのが日本軍であり総数7万3千人の兵力を送った。
真清はその渦中である1918/大正7年1月15日齢50にして20年ぶりにブラゴベシチェンスクに戻る。1916年関東都督府の命で錦州に満蒙貿公司を設立した真清は、会社の業績もあがり収入も順調で家族の暮らす実家に千円・二千円とまとめて仕送りも出来経済的にも潤っていた。1917年には錦州は在留邦人も増え200余人となっており真清は初代日本人会長に推挙される。
しかし1917年暮れ諜報活動を要請される。そしてブラゴベシチェンスクでに赴き滞在二ヶ月ちょっとの短期間であったが困難を極める活動に従事することになる。真清は革命派ボルシェビキのムーヒンとも反革命派であるA.N.アレクセーエフスキーの両者と親交を深めどちらからも信頼も受けた。
http://www.a-saida.jp/russ/sibir/vetvi/ishimitsu_muhin.htm
http://www.a-saida.jp/russ/sibir/vetvi/ishimitsu_aleks.htm
ロシア中心部で起きた革命も遠く離れた極東では、まだ革命派に軍事的に力はなく「極東共和国」樹立自体が日本との軍事衝突を避ける目的で革命政権が自ら作った緩衝を目的とした暫定国家だったのである。「誰のために」石光真清(手記四)を読めば真清は反革命派への軍事支援も武器供与もしない日本政府・日本軍との間にたって苦悩するばかりだった。
シベリアで緩衝国家として成立した極東共和国から革命派を日本軍協力の下追い落とし反革命派が中心となる国家を確固たる物にしておけば、その後の世界の枠組みは日本にとって大きく国益を叶う方向に向かっただろう。その後の満洲建国も含めて、東アジアに満洲帝国・極東共和国が存在していれば、支那事変も起きず大東亜戦争さえなかったかもしれない。
ブラゴベシチェンスクでは日本軍の支援なく軍人ではない在留邦人が義勇軍を結成し矢面に立ってボルシェビキと戦った。1918/大正7年3月9日日本義勇軍は革命派との戦いで戦死者3名、重傷3名、負傷4名を出す。
『三名の日本義勇軍の葬儀に参列のロシア人たちは「日本人を見よ」「日本人を見習え」「恥よ!わが同胞よ」「戦え、戦って日本人に報いよ」 彼等は本当に涙を流して叫んだ。 女達は白いハンカチーフで顔を被って肩を波打たせた。なかでも日本人を激戦の中心地に置き去りにして引揚げたコザックたちは一番に胸をつかれ、葬送の賛美歌を唱って、全身雪の積もるに委ねた。夕闇が辺りを包んで仏前の燈火がゆらめいても彼等は去らなかった。』 と手記にある。
3月12日にも激しい戦闘が起こり日本人義勇軍からも多くの犠牲者がでる。石光真清も在留邦人もアムール川を渡り黒河に逃げ延び、その後は黒河を拠点にしながら革命派と対峙していた。日本のシベリア出兵は同年8月であり日本軍がブラゴベシチェンスクに進駐してきた時は、赤軍(ボルシェビキ)はすでに撤退し、極東の各都市も日本軍のシベリア出兵によって治安は一時的に回復した。
しかし出兵の目的が曖昧で兵士の士気も上がらず軍紀も乱れ徐々にロシア人の反発を買うことになる。その為に赤軍は民衆の支持を得ることになり各所で日本軍は赤軍やパルチザンからの攻撃を受け苦戦が重なって行く。悲惨な尼港事件も起きる。
世界情勢の中で日本独自の早期出兵が難しかったのだろうが、そこに果敢な政治判断と行動があれば世は変わる。真清の手記を読み当時の現地の様子が分れば残念でならない。その後シベリア出兵は曖昧なままの戦争目的に終始し、ロシア民衆の日本軍への忌避も芽生え1922年撤兵後は極東も即座にソ連邦に組み込まれた。
撤兵当時の大阪朝日新聞1922.10.26(大正11)の記事一部抜粋
『八百は最後まで止る【浦潮二十四日発金沢某書来電】
浦潮市内の状況は概して平穏なるも日本軍の第一線前面には赤軍漸次増加し夜間は銃声絶え間なく交通全く杜絶の状態である、居留民は我海軍軍艦が残留するやも測り難い為何れも極度の恐怖に襲われ所持品を取纏めて引揚げの準備を完了して乗船を待って居るが我軍の撤兵後も最後まで踏止まると称する残留日本人は約八百名に上る見込みである(金沢電話) 』
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10151006&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
この記事の書かれた1922年10月24日、米子は浦潮桟橋で最後の引揚船を見送っている。帰国するつもりだった叔母と米子だが残留邦人が百名以上いることを知って残ることに決めた。そして残留者はこの司令部に籠城することになる。「レンガ造りの頑丈な三階建てで一家に一部屋づつ割り当てられていた」とある。
翌日の25日赤軍が浦潮に入ってきたが惨事は起きず、すぐに我が家に戻った。小学校も開校され生徒数は20名そこそこで浦潮本願寺の中村布教師が教鞭をとった。現在の司令部跡の建物は1946年日本人抑留者の手によって改修されたとある。
最初の建物は赤レンガ造りの重厚な建物でホテルとして建てられその後浦潮派遣軍司令部。撤兵後は日本人残留者の籠城アパート、次にG・P・U(ゲー・ぺー・ウー国家政治保安部)になり米子も1933/昭和8年 大学3年の時、このGPUに連行されモスクワ大学推薦入学を条件にスパイ活動を要請されて断っている。
その後も内務人民委員部(NKVD:エヌカーヴェーデー)、KGB(カー・ゲー・ベー:国家保安委員会)として使われている。この建物は1936−1938の間には。ウラジオストクの歴史に「悲劇の建物」という名称を残した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%8B%99%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%A7%94%E5%93%A1%E9%83%A8
数奇な歴史を内包した建物だが今は黒・薄緑・白の三色で彩られた美しい外観で「悲劇の建物」とは程遠い。しかしここにも戦後不当に抑留された日本人の血と汗と涙が染み付いている。
この浦潮には明治初頭から1922年までこの地で商売を営み活躍していた日本人の華々しい歴史がある。しかし1922年以降ソ連化と共に在留邦人は減り続け、1937年には邦人の殆どが強制退去となり1944年には総領事館員もウラジオストクから引揚げた。そして1945年大東亜戦争終結後抑留者の辛苦の歴史もある。
そんな浦潮は私には今まで未知なる場所だった。 -
④浦潮旧日本人街散策マップ(番外)
https://youtu.be/RmpkiG6r8gk -
旧浦潮派遣軍司令部がここにあった
この建物は1946年日本人抑留者によって建てられた
現在はロシア内務省沿海地方局
最初はホテルとして建てられた赤レンガ作りの三階建てだった
浦潮派遣軍司令部となり日本軍撤収後在留邦人が一時的に籠城
その後・・・
NKVD(エヌカーヴェーデー:内務人民委員部)
↓
GPU(ゲ・ペ・ウ:国家政治保安部)
↓
KGB(カー・ゲー・ベー:国家保安委員会)
↓
MVD(エム・ヴィ・デー:内務省)
1936−1938の間にはウラジオストクの歴史に
「悲劇の建物」という名称を残した -
ダモイ(домой:家に)を希望に日本人抑留者は
この浦潮でも強制労働に明け暮れた
大正七八年浦潮派遣軍第十二師団忠勇美譚
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/942250
近代デジタルライブラリー:シベリア出兵
http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?SID=kindai&searchWord=%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5 -
「No2」と「No14」だけが地図の二ヶ所に記入されている
「No2」は浦潮布教所と浦潮本願寺跡地で分る・・・が
「ディナモ・スタジアム」の近く
(↑)こっちは四迷が浦潮で滞在した所だと思う
////////////////////////////////////////////////////
■セミョーノフスカヤ通りの「地図No14」
次に「浦潮旧日本人街散策マップ」の二葉亭四迷の蘭で二ヶ所に記されたセミョーノフスカヤ通りの「地図No14」の建物を探したが分らず。帰国後この地図を作成した浦潮総領事館に国際電話で問い合わせたが「担当者がいなく不明」との返事。
そして「旧朝鮮銀行」を「旧デンビー商会」としてHPに記している「函館日ロ交流史研究会」にもメールで問い合わせ返事をもらったが、「No14」の二ヶ所について私の質問の意味が分らないようで要領を得ず。
二葉亭四迷は徳永商店の招きで浦潮に来ており、私の推測だがセミョーノフ通りに記された「No14」は『「浦潮の日本人商店・企業」1915/大正4年−1922/大正11年』を見れば、その徳永関係と思われる「徳永湯」「徳永旅館」などがこの辺りにある。四迷の浦潮滞在先がこっちの「No14」だろう。 -
こっちは四迷が浦潮でアイヌ研究家などと交流した
ニコライ皇太子凱旋門傍のアムール地方研究協会 -
1909/明治42年「二葉亭四迷」最後のインタビュー
http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/symp/2009-12-15/rd/mzviewer/index_article.html#/136
1908年(明治41年)、朝日新聞特派員としてロシア赴任
白夜のために不眠症に悩まされ、また翌年、肺結核におかされ
死を予感し妻や祖母宛に遺言状を書いた後帰国することになる
日本への帰国途中に、1909/5月10日ベンガル湾上で死去(享年45) -
海も近く観光用の馬が何頭か行き来していた
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■要塞博物館
「セミョーノフスカヤ通り」からディナモスタジアム前のボクラニーチナヤ通りを歩き、バタレイナヤ通りを西に向かってウラジオストク要塞博物館に行った。スポーツ湾に面した高台にあり水族館の裏側の階段を上って行く。入場料は¥200ルーブル。『帝政末期、浦潮全域に15の対艦砲台や多くの要塞が建造された』とある。
砲台が幾つも並び、中が展示場になっていた。銃器の展示も沢山あったが、昔の浦潮の写真が展示してあり日本関係の物も多かったが日本語の説明がないので残念ながら詳細は分らず。
キタイスカヤに建つ当時の「日本総領事館」やカタカナの看板が掛かった「浦潮斯徳セントラルホテル」の写真もあった。今も正午に空砲を鳴らす「正午の“ドン”」があるようだが大砲もミサイルも要塞も見るべき大した物は何もない。 -
三泊四日の浦潮滞在だったが
何組かの新婚カップルに遭遇した
この世に命を与えられたからには
結婚し子供を作るのが絶対の使命だ
病なく責務を果たさない者に幸はない
世の独身者今すぐ結婚相談所を利用しよう
今からでも遅くはない!是非是非! -
15:16
水族館隣の要塞博物館への階段
入場料¥200ルーブル、客少ない -
撮影日時不明
キタイスカヤ通りに建つ浦潮日本総領事館
朝鮮銀行も道を挟んで角に建つ -
撮影日時不明
「セントラルホテル」と片仮名で書かれている -
一応・・・要塞博物館なのか、各種兵器の展示あり
廃棄物にしか見えず -
要塞博物館からスポーツ湾を眺める
眼下に遊園地が広がる
土曜日の午後、天気良く人も多し -
日本のダイドードリンコの自販機があった
http://www.dydo.co.jp/corporate/jihanki/
中のジュースも日本と同じ物
「へェ〜、こんなところに」と思ったが
浦潮⇔日本は近い
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■浦潮の水族館と海浜公園
次に隣の水族館に行った。この9月初旬にプーチン大統領が浦潮斯徳を訪問し、その時浦潮の水族館を訪れたニュースを見たから。でもプーチンが9月4日に訪れたのは、この水族館ではなくルースキー島の海洋水族館だった。
https://www.facebook.com/129287737228225/photos/a.129293470560985.29252.129287737228225/539447129545615/?type=3&theater
中に入れば一階だけが水槽展示で二階は剥製・標本などが展示されていた。日本ならこれでは客は入らない。すぐに出た。市営水族館なのか?
そこから海岸沿いの公園をブラブラ歩いた。天気は快晴、土曜日ということもあり多くの人出で賑わっていた。そこに日本では見たことのない光景があった。持ち運び自在の懸垂鉄棒が置かれ、希望者が懸垂に挑戦するパフォーマンスをやっていた。
ロシア人青年はマッチョが多い。冬も長いし身体を鍛えるのは恰度良い。徴兵制もあり“ガタイ”が貧弱では苛められそうだ。美人女性がマイクを手に参加者を募っていた。面白かったのでしばらく見ていた。 -
水槽は一階だけ
魚は同じだけど、しょぼい -
2階は標本コーナー
素通りして出る -
この海浜公園の写真から音は出ないが
https://www.google.co.jp/maps/@43.120928,131.8749852,99m/data=!3m1!1e3?hl=ja
音楽も流れ青空の下、人も多く賑わっていた -
持ち運び用:懸垂鉄棒
希望者が懸垂パフォーマンスをやっていた
ロシア人はマッチョが多い
敗戦までの日本人も今より鍛えていただろう
文武両道は人として生きる上での基本だ
私が小学校時代、休み時間に運動場でよく相撲をしていた
今時の子供が広場や運動場で相撲をして遊ぶ姿は見たことない -
ディナモ・スタジアム
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■ディナモ・スタジアム
海浜公園を横切り行ったのはディナモ・スタジアム。煉瓦積みを写真に撮った。その一個一個の煉瓦に抑留者の悲哀が込められている。自分がその立場だったら生き延びて故国の土を踏めたのか?民主化運動にめげずに自分を貫けたのだろうか?そんな自信は微塵もなく、すぐに気力体力失ってシベリアの土になっていただろう。20代30代の元気盛りのはずの男達が栄養失調で命を落とした。
この競技場は「1940年代後半に日本人抑留者の手によって建設された」とある。近づくと、その煉瓦積みが目に入った。
戸泉米子は1936/昭和11年11月浦潮本願寺内で第二子の長女を無事出産(24歳)。翌昭和12年シベリアに流刑となった夫を残し本願寺を閉鎖。子供を連れ足掛け17年の浦潮暮らしを終え帰国した。その年の12月夫も叔母を伴って帰国したが四ヶ月もしないうちに叔母は東京で亡くなった。
浦潮から帰国して二年、1938/昭和13年初夏、夫が「満洲陸軍特務機関勤務を命ず」を言い渡され日本で落ち着く間もなく家族で満洲に赴任する。米子はその時三人目の子を宿していた。最初の赴任先は琿春。張鼓峰事件勃発でロシア語の堪能な主人は軍使の通訳として大役を果たし勲章も受けた。
http://4travel.jp/travelogue/10630810
1939/昭和14年1月延吉に転属となり昭和20年、満洲生活約7年。米子は11歳を頭に9・7・5・3・8ヶ月と六人の母となって延吉で暮らしていた。そして昭和20年8月9日のソ連参戦。夫は帰宅しなまま不安な日々を送っていたが、ある日、日本軍野戦司令部からソ連との交渉の為に翻訳を頼まれる。主人もやはり他でロシア語を駆使しての任務を果たしていた。
それからすぐに延吉にソ連軍が侵攻し在留邦人は収容所を転々。昭和20年「9月」「10月」と延吉の収容所で続いて二人の子を亡くす。米子は賢明で気強い女性だが身長154、体重47kgの小柄な女性だった。その後も延吉で米子はロシア語の堪能さをソ連軍に見込まれ通訳として重宝される。そして昭和21年春、延吉のソ連軍が共産党八路軍に引き継がれウラジオストクへの移動に伴い米子は子連れでウラジオストクに通訳として行くことになった。夫は不明のまま。
そのウラジオストクに到着の日、車は旧日本軍司令部の建物前に止まる。その時ここはMVD(エム・ヴェ・デー:内務省)と改名されていたそうだ。米子は浦潮で通訳として月給700ルーブルを支給される待遇となる。最初の赴任地は浦潮から30km離れたウゴリナヤ(石炭の町)。
米子が学生時代勤労奉仕で訪れた時は、石炭の町だったが1946/昭和21年には煉瓦の町になっていた。ここの第十二分所には約700名の日本人捕虜が各レンガ工場・工場建設・コルホーズに配置され身体の弱い四級の50名ほどが軽作業にあたっていた。
ウラジオストクには郊外を含めて19の捕虜収容所があった。「ウラジオストク管区第十三日本人捕虜収容所管理局」本部はウラジオストク市内にあった。大勢の勤務員はほとんどが軍人。本部の財産は日本人捕虜が財産。それ以外はなにもない。建設会社に日本人捕虜を提供し、会社はそのための収容施設を作る。
独裁者スターリンの為に抑留された日本人の数は60万人とも言われるが総数は今も定かではない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99
そしてシベリアでの不当な抑留と強制労働によって犠牲となった人数も6万人余とされているが『アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著「検証−シベリア抑留」によれば、約107万人が抑留され確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという』
日本人が作った浦潮ディナモ・スタジアムの煉瓦積みを写真に撮りながらじっと眺めた。この煉瓦を作ったのも積み上げたのも日本人。敗戦とはかくなるものかと。しかしソ連は戦勝国と言いながら死者は断トツに多い2千数百万人もの死者を出している。日本は約300万人、ドイツ700万人強。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%81%AE%E7%8A%A0%E7%89%B2%E8%80%85
米子は帰化を勧められたが断って第一回シベリア引揚げ船「恵山丸(えさんまる)」に乗船し昭和21年12月9日舞鶴港に入港。米子の夫:最後の浦潮本願寺住職だった戸泉賢龍は12年の抑留を経て1956年昭和31年12月最後の復員船で帰国している。 -
16:21
ディナモ・スタジアムの煉瓦
抑留日本人が煉瓦を焼き積み上げた
浦潮には郊外を含めて19の捕虜収容所があった -
1993/平成5年 米子二度目の浦潮訪問時に
沿海州の日本人抑留者の帳簿を見る
沿海州の埋葬地は113ケ所、死亡者は6475人
埋葬地は風化し年々調査は困難になる
ダモイを果たせずこの極東に
今も多くの抑留者は眠っている -
終戦後不当に拉致され強制労働を強要された
戦い敗れた国軍兵士の悲哀は想像を絶する
だが日本が戦わず列強の軍門に下っていれば
世界の有色人種国家は白人列強国の隷属の下
植民地として今も奴隷的境遇に甘んじているだろう
戦った先人に感謝し万感の敬意を抱きこそすれ
支那朝鮮の嘘捏造を真に受け先人を貶める日本人は
孫子の代になろうが必ずや因果応報の報いを受ける -
年配の男女が泳いだり日光浴をしていた
この海岸の石垣も日本人抑留者が作ったのかも?
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■石垣及びロトンダ海岸通り(オケアン映画館前)
ディナモ・スタジアムの前を通って海岸へ出たら水着姿で泳いだり日光浴をしている年配の方が沢山いた。ロシアでの寒中水泳の映像はテレビなどで見たことがあるが極東のロシア人にとっては9月半ばは、気分はまだ夏なのかも・・・。
太った“おばあちゃん”が泳いだり日向ぼっこをしている。それが「健康のため」と言うなら「なんでそんなに太るんや」と思うけど・・・。
そこから昨日も歩いたオケアン映画館前のナーペレジナヤ通りを歩いた。このスポーツ湾に面した海岸通りの「石垣及びロトンダ(円形建築)は1940年代後半から1950年代初めにかけて日本人抑留者により建設された」と散策マップの説明に書かれている。
「そうか帰国をさせず長期に渡ってこんなことまでさせていたのか・・・」と。 -
海岸高台からスポーツ湾を望む
海の向こうが日本ではなく背中方向が日本
それでも海を眺めれば望郷の思いは募るだろう -
このロトンダ(円形建築)も抑留者が作ったのか?
もしそうならこの現実の風景と
過去の強制労働が結びつかない
似非平和を謳歌しピントが外れている -
「地図No9」旧商船組
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■「地図No9」旧商船組
昨日と同じく海岸通を歩いてウラジオストク駅前に戻ってきたのは午後5時6分。足は棒、足裏は豆が水泡になって痛い。でもまだ見落としの一ヶ所があり、そこに向かった。「地図No9」旧商船組の建物。ウラジオストク駅横の弧線橋を渡り客船ターミナルから下に降りて痛い足を引き摺るようにオケアンスキー(Океанский )通りを歩 いた。
当然だが地図と同じ場所である引込み線と引込み線の間に写真と同じ感じの建物があった。昔の建物の写真では窓が一階二階それぞれ四つだが、今は四階建てでそれぞれの階に窓は七つ。横にも窓三つ分長くなっているが一、二階のデザインは窓の形を含めてまったく同じ、浦潮布教所の建物増築もそうだったが「お見事!」という出来栄えだ、
新しく増築した三、四階は窓の形は違うが全体として統一感はある。耐震問題もないのか?元の建物が潰すに惜しい立派な故か?上手く増築改修して見た目新築ビルに変わらず。
商船組は1919/大正8年近藤繁司によって創立とある。1919年と言えばロシア革命が起きて二年がたちシベリア出兵の一年後でもある。
極東では各地で「赤軍vs白軍」の権力闘争の渦中であり、日本軍のシベリア出兵後の浦潮の近未来はどうなるのか?そんな時期に旗揚げした商船組はやはり時代に翻弄されソ連化後の商売は苦難の連続だったようだ。
ウラジオストクの「商船組」は「ソビエト連邦の中に存在する唯一の日本企業になったが、1937年4月に閉鎖された」とある。大阪時事新報 1933.6.29(昭和8)の記事にソビエト連邦政府への抗議の「浦塩の邦船圧迫愈よ激化す」という記事がある。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00159271&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
今もその浦潮斯徳の地に立つ商船組のビル。その近藤一族の物語をネットで見つけた。「近藤一族」近藤繁司の孫である相川和子が回想している。
http://rus-interpreters.jp/1980/kondo-ichizoku1.html
百年も経たないうちに何もかもが変わる。「栄枯盛衰会者定離」「色即是空空即是色」・・・・か。
『「過去・今・未来」・・・過去は変えれない。未来は変えれる。しかし今を変えなければ未来は変わらない。』・・・今“W杯”ラクビー日本代表の五郎丸選手が脚光を浴びている。
彼は29歳にして初の“W杯”出場だった。前回も候補にはなったが代表には漏れた。悔しかったと思う。腐らず努力したから今回の栄光がある。代表に選ばなかったその時の監督ジョン・カーワンが五郎丸を叱った。「お前が変わらないといけないのは今だ!」と。その言葉が私にも胸に響いた。「過去、今、未来」
http://matome.naver.jp/odai/2144469923183456001
近藤繁司の物語も凄い。例え彼の人生が歴史の彼方に消えようとも。近藤繁司は困難極まる時代に恐れず果敢に挑戦し、その時々にベストを尽くした人間だった。
「今すべきことに最善を尽くす」「今が良ければ過去は楽しい思い出となる」「今充実していれば未来も明るい」「充実とは楽ではない。苦は楽と同義だ」「楽は苦の種、苦は楽の種」は真理である。今一度心しよう! -
-
増改築改修見事なり!増築部も瓜二つ
赤線内の二階建てが縦横に増改築しこうなった
旧商船組
https://www.google.co.jp/maps/@43.1140207,131.884829,3a,75y,43.79h,91.68t/data=!3m6!1e1!3m4!1sYBLtkhQElzEWflkGdlO1Aw!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja -
浦潮本願寺布教所も驚いたが、ここも驚いた
これも耐震設計不要なるゆえの産物なのか?
ロシアの改築技術恐るべし -
17:38
明治30年女郎として来た“お花”がここから日本に帰った
今時綺麗事しか言わない女政治家や女優タレントよりも
自らの身体を張って稼ぐ女郎の方が遥かに人間として高貴だ
//////////////////////////////////////////////////////
■浦潮客船ターミナル
午後5時半に散策マップにある日本人旧跡を全部見終えた。昨日も一部見ていたが今日は昨日の場所も含めて全部見終えた。最後に足を引き摺りながら浦潮桟橋に戻り客船ターミナルの屋外デッキの椅子に座ってクレーンでの荷積みを見ていた。
明治初頭から日本人はこの港に多くが降り立ち、またここから故国日本へと帰っていった。鉄道の駅も船着場も空港も別れと出会いがある。ましてここは異国だ。
途方もない長い歴史があり無数のドラマがある。明治30年女郎としてやって来た“お花”が諜報の手助けをし1901/明治34年10月¥4500円の大金を持ってこの浦潮の桟橋から船に乗って帰国するのを真清は甲板まで見送りに来た。あれから114年が経った。誇りと名誉を”どぶ”に捨て米国の属国に甘んじる戦後日本と日本人に価値はない。 -
巨大クレーンでの積荷作業をしばし眺める
旧ソ連日本人粛清犠牲者・候補者一覧
http://members.jcom.home.ne.jp/072286711/Moscow.html -
ウラジオストク駅
ロシア風というのか?色彩デザイン美しい -
19:45:革命戦士広場に露店なし
革命成就。1922/大正11年10月25日、浦潮に赤軍入城す
日本西伯利浦潮派遣軍の撤退
1922/大正11年10月24日(発)
大阪朝日新聞 1922.10.26(大正11)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10151006&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
舞鶴鎮守府無線電信着
浦潮方面二十四日午後二時までの状況下記の如し
一、第一線の状況変化なく赤軍また未だ南下の徴なし
二、午前十時軍参謀長一行セザンカにおいて赤軍軍使と会見中
三、浦潮市中昨夜来比較的平穏にして特に異変を認めず
米子は10月24日浦潮桟橋で最後の引揚船を見送っている
/////////////////////////////////////////////////////////
■夕方の散歩
20分ほど客船ターミナルで休憩してホテルに戻った。時間は午後6時20分。
部屋で1時間ほど休憩してから朝露店で一杯になっていた革命戦士広場の様子を見に行った。午後7時40分の広場はゴミが散らかっていたが露店は片付けられていた。それでも一台のトラックが店を広げて商売をしていた。夕食を食べるつもりだったが適当な店も見当たらず、昼遅くにピザを腹一杯食べたこともあって食べずに戻る。
そして午後8時に部屋に戻ってバナナや日本から持って来ていたソーセージやパンを食べた。スマホの歩数計は「38,002歩:28.1km」となっていた。我が家の西明石からJR三ノ宮までの距離になる。それもアップダウンのある浦潮斯徳市内を歩き続けた。
「浦潮旧日本人街散策マップ」に紹介されている旧跡を走破した満足感。足が棒、足裏に水泡という疲れでの充実感で大いに満足した。やっぱり私の旅は歩きだ。歩いてこそ感じられるものがある。
明日は帰国、帰国はいつも嬉しい。いつ帰国出来るのかも分らず厳寒のシベリアで日々強制労働に明け暮れた抑留者の精神力は想像も出来ない。
さあ明日朝も歩こう。 -
19:57
足は棒:足裏に水泡
足を引き摺り歩くも心地良く -
スマートフォーンの歩数計
38002歩 28.1km
我旅は歩くことなり
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