2015/09/10 - 2015/09/13
468位(同エリア813件中)
明石DSさん
6:37
この時間はまだ早いのか?
朝食時はいつも人は少なかった
帰国の日はいつもルンルンの私です
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4日目:9月13日(日):晴れ
ウラジオストクから帰国
2015/平成27年9月13日(日)
■ウラジオストク四日目の朝!
三泊四日の浦潮斯徳の旅もあっと言う間に帰国の朝を迎えた。出発時は台風襲来で心配をし、事前の天気予報では晴れがなかったのに晴ればかり。今朝は6時半にモーニングを食べに行った。
最後の今日は午前10時20分に一階フロント集合なのでそれまでに“鷹の巣展望台”から浦潮斯徳の全貌を“ゆっくり”見ること。そして最後は浦潮桟橋で時間まで過ごしホテルに戻る予定。三回目の朝食を食べて午前7時5分早速ホテルから出て“鷹の巣展望台”へ向かう。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
ホテル・プリモーリエのお土産品コーナー
-
さすが日曜日は道路工事も休みなのか
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■“鷹の巣展望台”
もうすっかり歩きなれた浦潮の街。日曜日午前7時過ぎの駅前のアレウーツカヤ(Алеутская)通りは車の往来も少なく人もほとんど歩いていない。アルセーニエフ博物館を右に曲がってスヴェトランスカヤ(Светланская)通りに出て、革命広場の前をオケアンスキー(旧キタイスカヤ)通りに左折すればすぐに旧日本総領事館がある。
そこから東にフォーキン提督通り(Адмирала Фокина)を歩いてヒュンダイホテルの前を通り、スハーノフ通り(旧ナゴールナヤ通り)から“鷹の巣展望台”に辿り着いた。到着は午前7時54分。ホテルから直行で歩いて50分。日曜日の浦潮の朝はこんなに静かなのか?と思うくらいここまで通りに車がなく歩く人も少なかった。
私が物心ついた時はロシアではなくソ連だった。
ロシアというのは本の中の国。皇帝と貴族そして農奴の国であり祖父が従軍した日露戦争のイメージしかなかった。ソビエト連邦は日本軍がシベリアから撤兵した年、1922/大正11年12月30日に成立し1991/平成3年12月解体。思えばたった69年か。そしてソ連邦内の多くの国が独立しロシアが戻った。
帰国の朝一番。誰もいない“鷹の巣展望台”に登り一人で眺望を楽しんだ。明治初頭から日本人がこの街に来て商売をし企業を起こし日本人街を作っていた。その足跡が今も沢山残っている浦潮斯徳の街。石光真清も戸泉米子も他の多くの日本人もこうやって高台から同じ景色を眺めただろう。
しかし今の私のように何の憂いもなく能天気にここで時間を潰すことはなかったはずだ。親も選べず時代も選べず国も選べず。運命とはいえ私は確かに良き時代?に生まれ育ったものだ。敗戦後日本国民として誇りも名誉も無きに等しく情けない限りだがちょこっと旅する金と暇と似非平和はある。 -
この太い鋼管の中を何が通るのか?
水? -
7:11
いつも歩き始めは浦潮駅からスタート
駅前を広場にして花壇も作ってくれ
そうでないとウラジオストク駅が浮かばれぬ -
7:16
アレウーツカヤ(Алеутская)通りを歩く
日曜日の午前7時ってこんなに車も人もいないのか?
https://www.google.co.jp/maps/@43.1149939,131.8820299,3a,75y,18.61h,96.51t/data=!3m6!1e1!3m4!1sTC3-rKyK8ImHuD8wrceKHg!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja -
7:17
左:旧横浜正金銀行(現在:アルセーニエフ博物館)を右に曲がって
革命戦士広場方向に歩く
交差点横断歩道なく地下道にて渡る
車椅子一人移動は不可 -
7:22
左:旧日本総領事館
右:旧朝鮮銀行(旧デンビー商会)
静かな浦潮市街
往時に想いを馳せ歩くも良し -
ヒュンダイホテルの前を一路“鷹の巣展望台”へ
このホテルにはただでも泊まらない -
7:31
“Google”“ストリートビュー”
https://www.google.co.jp/maps/@43.1175528,131.8922413,3a,90y,110.95h,90.13t/data=!3m6!1e1!3m4!1svVafGcKA1oZPSXpL7_wzRQ!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja
晴天の秋空の下
ウラジオストクを一人歩く
この光景の中、まるで夢の如し -
7:54:“鷹の巣展望台”より
核兵器を持てば今後の日本は安泰なり
持たずば永遠に核保有国とは対等になれない
この先も日本が自尊自立を保ちたくば核武装するしかない
もし核保有国が日本に対して核攻撃で恫喝をしてくれば
足下に跪き許しを請うのか?奴隷となり諦めるのか?
嫌だ! -
1902/明治35年7月27日発行:浦潮案内によれば
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767171
7:54
日露戦争勃発二年前:ロシア格付け
浦潮の日本の一等商店は以下の四つ
日本郵船会社支店・九州製茶会社支店
杉浦商店・徳永商店
二等商店「22」、三等商店「32」 -
明治35年「浦潮案内」(抜粋)
日本人の状態
『清韓人の如き最下等の労役に服するもの絶えて之なきを以って、
露国政府より特別の制裁受くることなく、
大国民として大道を闊歩し居るの状態なり。』
過去・現在・未来永遠、時代は変われど
それぞれの国家・民族の資質は変わらず -
円形
https://www.google.co.jp/maps/@43.1182259,131.9004644,19z?hl=ja
この円形歩行者用ロータリーに潜って目的方向に進む
浦潮で交差点を渡るのに地下に潜ること多し
冬期に降雪や凍結の為なのか? -
8:39:ボクロフスキー公園
ここに日本人墓地があったそうだ
抑留者・からゆきさん・多くの日本人が浦潮で眠る
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■浦潮:日本人墓地跡(ボクロフスキー公園)へ
高台の“鷹の巣展望台”から景色を眺めながら、何故かこの時頭の中にふと日本人墓地のことが思い浮かんだ。その場所はネットで知り漠然とした記憶だったが確か公園だった。そして昨日行った与謝野晶子の記念碑の向かいの教会がある公園がそうではないかと思った。
思い浮かんだ以上場所違いでも構わないから行くことにした。その時、時間は午前8時過ぎ。ホテルロビーの集合時間は10時20分。その時間を気にしながら“鷹の巣展望台”と別れを告げ歩き出す。スハノヴァ(Суханова)通りの公園を横切りウボレヴィチャ(Уборевича)通りを歩いて公園に着いた。
公園内は静かで草と樹木に溢れ整備されていた。この公園の名前は聖堂の名前をつけたのかボクロフスキー公園。帰国後ネット検索したらやはりここだった。それは「ウラジオストク日本人会」の掲示板2015/08/09 (Sun) 14:36:50「ウラジオストク訪問について」の管理人の解答欄に書いてある。「北のからゆきさん」も埋葬されていたようだ。
http://urajionihon.bbs.fc2bbs.net/?pos=20
公園は広く右も左も分らず時間も気になるのでゆっくり出来なかったが「我来たり」。“北のからゆきさん”は長崎・熊本・佐賀県出身が多く日本にも「娘を売る」そんな時代があった。今とは比較にならない厳しい現実があり、子は生まれてもすくすく育つことさえ難しかった。
“からゆきさん”と言う言葉には、彼女たちがそうならざらぬをえなかった背景を含めての気持ちが込められている。「北のからゆきさん」倉橋正直(著)によれば「1889/明治22年8月1日現在 市内の娼家は10軒 売春婦は合計104人 ロシア人20人 残り84人日本人 長崎・熊本出身」とある。
「北のからきさん」がこの公園の土になって眠っている。他にも抑留者をはじめ多くの日本人が浦潮斯徳で亡くなっている。皆望郷の想いは如何ばかりだったろうか・・・。浦潮で亡くなった“からゆきさん”は日本の近代化の為に身を削り犠牲になった尊い女性たちだ。そんな“からゆきさん”を歌にしたのが「島原の子守唄」。https://youtu.be/q7_hd17Vnz8
心から感謝しご冥福を祈る。
公園内で男性障害者が一人車椅子に乗っているのに出会った。浦潮は坂が多く交差点を横切るにも地下道になっていたり、浦潮の路上はバリアフリーとは程遠く車椅子は介助者がいても「無理だろう・・・」「へぇ〜、一人で車椅子か・・・」と驚きだった。まあ、それでもそれなりに何とかなるのだろう。
ボクロフスキー聖堂は日曜日なのでミサ(聖体礼儀)があるのか司祭の人たちが何人もいた。カトリックの神父は妻帯せず生涯独身。プロテスタントの牧師は妻帯可。ロシア正教は主教は独身者がなり生涯独身。神仏に仕えるのは常人では難しい。 http://www.geocities.jp/ynicojp2/what-nikolaido.html#8
ミサに出るのか身なりを整えたとはいえ、これぞ田舎のロシアの“叔母さん”たちが並んでいた。きっと彼女たちはソ連時代には忍耐強く氷点下の下で並んで配給を受け取っていたのだろう。そんな純朴さと逞しさを感じる“ザ・ロシアの叔母さん”たちの姿だった。
この公園前の「ロシアの不思議な交差点」を見れば笑う。私もこの地下道を通って訳が分からず困惑した。帰国後見付けたHPの解説でやっと分った。
http://diamond.jp/articles/-/39356?page=3 -
墓石も痕跡もない
肉体は土に帰しても魂は故国に戻る -
この公園のどこかに眠っているであろう同胞の方々
事情も知らず名も知らず年も分らないが
心の中で、ご冥福を祈る! -
浦潮ではじめて見た車椅子
それも一人で、車で来て公園で散歩なのか? -
やはり教会に司祭の人たちは似合う
何でもそうだが、外見と中味、内は大変だろうな
“いじめ”も無論あるだろう -
ソ連時代に生まれ育ち
ロシアになって晩年を過ごす
何がどう変わってもロシアの“オバサン”は
日々変わらずの生涯を送る。きっと逞しい -
1902/明治35年完成:ボクロフスキー聖堂
1935/昭和10年爆破される -
2007/平成19年:再建された
-
8:55
キタイスカヤ通りを中央広場に向かって歩く
まだ車も人も少ない
https://www.google.co.jp/maps/@43.1216072,131.8876522,3a,75y,193.24h,107.63t/data=!3m6!1e1!3m4!1sk0oijGxhkAunCnW452AeVQ!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja
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■浦潮桟橋
時間は午前8時50分。最後に浦潮桟橋にもう一度行きたかったのでオケアンスキー(旧キタイスカヤ)通りを真っ直ぐ下った。このキタイスカヤ通りは『「浦潮の日本人商店・企業」1915/大正4年−1922/大正11年』の地図を見ればまるで日本の街かと思うほど両側は日本人商店・企業が並んでいる。
今もそんな時代からあったのかも?と思わせるような歴史を感じるロシア建築が通りの左右に建っている。そして正面には中央広場に立つ革命戦士像が見える。明治大正昭和と日本人が活躍した浦潮の街。近くて遠く未知の領域だった浦潮が今回の旅を通じて身近になった。日曜日の午前9時頃だったがまだ車も少なく静かだった。
中央広場には露店もなくそのまま通り過ぎ最後の目的の場所ウラジオストク駅の裏側「客船ターミナル」に行った。幾多のドラマを生んだであろう日本と浦潮を繋ぐ波止場であり出会いと別れの場所である。石光真清が初めてここに着いたのは1899/明治32年8月25日。最後にウラジオストクに来たのは1919/大正8年3月フランスに亡命するA.N.アレクセーエフスキー(アムール州長)と一緒にブラゴベシチェンスクから浦潮に来てこの埠頭から彼を見送った。
そのあと真清は陸路哈爾濱、錦州に行き傾いた会社の再建に奔走するもうまく行かず。1923/大正12年9月1日の関東大震災後に帰国。翌13年に満洲に戻り一切の事業を放棄し大陸との決別となった。その後日本での暮らしも商売に失敗したり知人の借金を背負ったりの苦労が続く。1928/昭和3年9月2日95歳の母を見送り手記が終わる(60歳)。真清は1942/昭和17年5月15日波乱の人生に幕を閉じた(享年74)。
展望ターミナルには多くの中国人観光客の姿があった。そして地元のロシア人も日向ぼっこなのか、ベンチに座って日曜日の朝をここで過ごしていた。今ではビルが林立し「日本から一番近いヨーロッパ」と謳われているウラジオストク。
しかし石光真清が初めてこの地を踏んだ明治32年手記には『まだらに広がった淋しい港町で、商人はほとんど清国人であり、労働者は大部分が韓国人であった。十数年前には街に虎が出て市民を脅かしたこともあるほど淋しい漁港に過ぎなかったが、八年前(1891)にシベリア鉄道が起工されてからは、急にヨーロッパ・ロシアの文化が運ばれて来て、丸木小屋と土煉瓦のの街にも石造りの官庁や赤煉瓦の住宅が建ち始め、ヨーロッパ風の服装に胸を張った女たちが人目を惹くようになっていた』とある。 -
ATM・・・か
未だ海外で使ったことなし
一度使ってみたいけど -
9:15
浦潮客船ターミナル
また今日も此処に来た -
青空ばかりの浦潮の旅
日向ぼっこにはちょうど良い
明治35年浦潮
日本料理店10軒あり
多くは芸妓・酌婦抱え居りと云う
濯賃 洗濯業は日本人の独占にして
白シャツ一枚二十五5哥、エリ一個十哥
大工 手間賃一日一留より二留半 -
浦潮⇔日本
日本海命令航路(明治35年)
敦賀 七尾⇔浦潮、40余時間
船内食事「一等洋食、二、三等和食」
割引:日本陸海軍軍人及び学生は各等二割引
但し相当の証明を要す
今も昔も庶民の生き様は変わらず -
中国人団体ツアー客の到来
私は17年前くらいから中国に行くようになった
その頃は、まだ海外に旅行する中国人は少なかった
今は世界の観光地に中国人あり、百年後の世界は如何に? -
サラバ!浦潮
やっぱり浦潮の象徴は
ウラジオストク駅なり
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■ホテルに戻る
浦潮斯徳最後の観光は予定通り港と浦潮駅。10時20分のホテルの集合時間が気になり20分ほどでホテルに向かう。駅前のレーニン像の前にも多くの中国人ツアー客の一団がいた。9時45分くらいにホテルの部屋に戻って歩数計を見たら2時間くらいなのに13090歩:9.6km歩いていた。
小休止と片づけをし一階ロビーに下りたら同行の“A君”が待っていた。しばらくして“Oさん”夫婦が来て四人が揃った。不思議なことに同じホテルで三泊なのに“A君”とは初日エレベーター前で出会った切りでこの三人と滞在中一度も会うことはなかった。
「どうでしたか?」と話しになったが、皆、浦潮斯徳滞在なので同じような場所を訪ねていた。“Oさん”夫婦はシベリア鉄道にも乗車し遊覧船にも乗船したりで楽しんでいたようだ。そしてガイドのロシア人青年“M君”が約束の時間に遅れて到着。すぐに空港に向かう。 -
無事、時間に間に合うように
プリモーリエ・ホテルに戻る -
7:05-9:49
2時間45分の朝の散策で13090歩,9.6km歩いた
三日間で50km以上は歩いている -
いつの日かこのホテルを再訪する時はあるのか?
人生何が起きるか分らないから面白い -
浦潮ブルー、空と空港
天気は最高だった
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■浦潮空港から成田へ
空港に到着し“M君”が航空会社のカウンターで手続きをしてくれ窓際の席を取ってくれた。出国審査は入国時と違ってあっと言う間に終わり搭乗口2番ゲートに着いたのは午後12時23分。“s7”565便搭乗は1時前に始まり出発は定刻通り午後1時20分頃だった。サラバ浦潮斯徳!
機内食は往路と同じ「ラップサンド」。最初は巻紙?に見えたけど今度は迷わず口にする。味は可もなく不可もなく。出来るならパンに挟んだサンドイッチの方が良い。乗客はロシア人客のほうが多かったと思う。成田空港第二ターミナル到着は日本時間午後2時42分定刻通りだった。 -
ロシア人は、日本に何をしに来るのかなあ?
金持ちも沢山いるようだけど・・・。 -
11:54
搭乗始まる -
ほぼ満席に近かった
隣は誰だったか忘れた
ロシア人だったと思うけど -
ウラジオストクの空の上
-
トマトジュースを頼んだら
やっぱりトマトジュースだった
次回は他のジュースを頼む -
成田近し
敵機発見!ではなくANA機が近くに -
成田空港着陸
良くぞ無事に -
14:42
さあ、これから二泊三日の旅に出る -
成田→日光東照宮→富岡製糸場
出発:成田空港第2ビルカウンター
返却:高崎駅東口
出発日時:2015年09月13日15時00分
返却日時:2015年09月14日18時00分
車両(乗用車)ノート
利用合計:¥23,166 円
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■日光東照宮と富岡製糸場へ
この後、私はすぐに第二ターミナルの日産レンタカーの窓口に行き予約していた車を借りて日光東照宮に向かった。今回の旅は三泊四日浦潮斯徳だが、栃木・群馬の二泊を加えて計五泊六日となる。
65歳にして「日本全国一道一都二府四十三県」の内、未だ足を踏み入れてなかったのは栃木・群馬・沖縄の三県。今回の成田出発を機に栃木・群馬に行く事にした。そして日光東照宮と富岡製紙場を訪れ残るは沖縄県だけとなった -
小槌の宿 鶴亀大吉
http://www.nikko-turukame.jp/
夕食:美味しかった
楽天トラベル予約¥16200円 -
2015/平成27年9月14日(月)9:30
栃木県:日光東照宮「唐門」
日光見ずして結構と言うなかれ
平成の大修理中だったが、さすが徳川家康公なり
平成25年6月1日から平成31年3月31日、6ヵ年度継続。 -
2015/平成27年9月14日(月)14:16
群馬県:富岡製糸場
日本全国「一道一都二府四十三県」
栃木・群馬を訪れ65歳にして残すは沖縄県だけとなる
死ぬまでに沖縄に行くつもり -
2015/平成27年9月15日(火)10:14
靖國神社参拝:遊就館見学
東京に来れば靖國神社を参拝したい -
19:31
浦潮→栃木→群馬→東京
五泊六日の旅を終え帰宅
さあ次はどこに行くのだろうか?
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浦潮斯徳の旅を終え
まず一番に感じたのは、ロシア語も英語も話せないので現地の人との会話や交流がまったくなかった。日本語で話したガイドの“M君”と“鷹の巣展望台”で出会ったイケメンの日本語を話す青年と少し話しただけ。やはり旅というのは景色や旧跡を訪ねることの感動もあるが、現地の人との交流での一喜一憂こそが旅の醍醐味だと改めて感じた。
物言えずゆえに歩いてばかりでタクシーにも乗れず、バスにも乗らず、コンビニの買い物で店の“オバチャン”が水を「バダァ вода」と言ったので「そうか水はバダァか」と、それが印象に残ったくらい。ロシア語を現在進行形で勉強中だが気合い入らずこの先どうなることか?
その浦潮斯徳での私の成果は何と言っても「浦潮旧日本人街散策マップ」に記されている場所をほぼ制覇できたこと。一ヶ所不明、他にも疑問符が付く建物はあるが行きたい場所は行った。そして帰国後この旅行記を作りながら歴史の勉強にもなった。
明治維新から日露戦争、そして第一次世界大戦、ロシア革命とシベリア出兵、撤退後にソ連の誕生。日独防共協定成立後のスターリンの反日行動。続いてソ連国内の粛清の嵐。第二次世界大戦終了後の日本人抑留。軍港としてソ連時代はロシア人さえ立ち入りが制限されていた。そのウラジオストクが解放されたのがソ連崩壊後の1992/平成4年。
これを書きながらウラジオストクの歴史の時系列が少し分った。浦潮の街を歩き回り旧跡を訪ねて日本人がこの街で商売をし世界やロシアの激動の変化のなかで逞しく生きていた様子も感じることができた。まだまだこの極東には日本人の足跡が沢山ある。さあ次はどこに行くのだろうか。
2015/平成27年10月吉日(記)
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