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<br />浦潮斯徳・ウラジオストク <br /><br />Владивосток <br /><br />//////////////////////////////////////<br /><br />ウラジオストクを訪ねる:旅立ち前<br /><br />2015:平成27年9月10日(木)〜9月13日(日) <br /><br />3泊4日<br /><br /><br />はじめに<br /><br />33回目の海外旅行。年金受給者65歳になっての初旅行は、初のロシア:ウラジオストクへの旅となった。空港からホテルへの送迎が付いたツアーだが、それ以外はフリータイム。 <br />中国語学習は1998年から始めているので少しは出来るが、ロシア語・英語も出来ず。しかしウラジオストクへの旅を決めて、ネットでロシア語の先生を見つけ6月から月二回(×1時間)のロシア語個人レッスンを受け出した。 <br /><br />決意なく思い付きで始めたので学習意欲も集中力もなく“G先生”(女性)に申し訳ないがロシア語能力ほぼゼロで現地に行った。 <br /><br />これは旅行記にあらず。わが能書き也。 <br />思いのままを書き連ねる。同じ事を百回でも千回でも。 <br /><br /> <br /><br /><br /><br /><br />目 次<br /><br /><br />(0) 旅たち前 <br />(1) 9月10日(木)関空〜成田〜ウラジオストクへ出発 <br />(2) 9月11日(金)ウラジオストク:二日目 <br />(3) 9月12日(土)ウラジオストク:三日目 <br />(4) 9月13日(日)ウラジオストクから帰国 <br /><br />

ウラジオストクを訪ねる:旅立ち前

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2015/09/10 - 2015/09/13

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明石DS

明石DSさん


浦潮斯徳・ウラジオストク

Владивосток

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ウラジオストクを訪ねる:旅立ち前

2015:平成27年9月10日(木)〜9月13日(日)

3泊4日


はじめに

33回目の海外旅行。年金受給者65歳になっての初旅行は、初のロシア:ウラジオストクへの旅となった。空港からホテルへの送迎が付いたツアーだが、それ以外はフリータイム。
中国語学習は1998年から始めているので少しは出来るが、ロシア語・英語も出来ず。しかしウラジオストクへの旅を決めて、ネットでロシア語の先生を見つけ6月から月二回(×1時間)のロシア語個人レッスンを受け出した。

決意なく思い付きで始めたので学習意欲も集中力もなく“G先生”(女性)に申し訳ないがロシア語能力ほぼゼロで現地に行った。

これは旅行記にあらず。わが能書き也。
思いのままを書き連ねる。同じ事を百回でも千回でも。






目 次


(0) 旅たち前
(1) 9月10日(木)関空〜成田〜ウラジオストクへ出発
(2) 9月11日(金)ウラジオストク:二日目
(3) 9月12日(土)ウラジオストク:三日目
(4) 9月13日(日)ウラジオストクから帰国

旅行の満足度
5.0
  • 鷹の巣展望台から“浦潮斯徳”を望む<br /><br />2015/平成27年9月13日(日)&#8207;&#8206;7:54:38 <br /><br />///////////////////////////////////////////////<br /><br />2015.平成27年5月13日(水)  <br /><br /><br />■ロシア <br /><br />今年の秋の旅行を予約した。行き先はロシア。「ウラジオストク・ハバロフスク」三泊四日。石光真清の四部作を読み一度は行ってみたいと思っていた。再度本を読もう。 <br /><br />言葉も分らず初めての地なのでどうなるのか?乞うご期待だ。「シンガポール」「インドネシア」「ハワイ」その他まだまだ行きたいところは尽きない。欧州も米国も世界中どこでも行って見たいけど、費用も高くなるし飛行機での長時間は後回しになる。 <br /><br />最初厚生省が主催しての「平成27年度 慰霊巡拝実施計画概要」・・・慰霊の旅があるので問い合わせたら遺族や関係者でないと参加出来ないと言われた。ある程度厚生省からの補助金が出るのかも? <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />2015.平成27年5月18日(月) <br /><br /><br />■ ウラジオストク <br /><br />秋の旅行が決まった。最初「ウラジオストクとハバロフスク 4日間」 に申し込んだ。でも不安で日本から添乗員同行の「ハバロフスクとウラジオストク 4日間」にした。 <br /><br />しかしネットを見ていたら一人でも行けそうな気がして「ウラジオストク4日間」に決めた。早速申し込み金¥3万円を振り込んだ。初めてのロシアなので一ヶ所でウロウロ歩こうと思う。 <br /><br />「浦潮の日本人商店街・企業(1915/大正4年-1922/大正11年)の所在地」 ・・・この地図を見つけて一人で散策することにした。何で昔「浦潮斯徳、 ウラジオストク」に多くの日本人が暮らし日本人街があったのか?まだ良くわからないがこれから勉強しよう。 <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />2015.平成27年5月22日(金) <br /><br /><br />■「ある明治人の記録・会津人芝五郎の遺書」:石光真人(著) <br /><br />今秋ウラジオストクへ行く事を決めこの本に出会った。石光真人(まひと)は石光真清(いしみつ まきよ)の長男であり父親の手記をまとめて四部作『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』を世に出した。 <br /><br />「芝五郎」は1900/明治33年:義和団事件の際、北京の籠城戦を指揮しその活躍によって日本と日本人の名声を世界に高めた人物だ。三年前の「張家口・丸一陣地の戦跡を訪ねる旅」で、その籠城戦が行われた場所に行った。 <br /><br />その時はその義和団事件と芝五郎と日本人の活躍だけを調べたが、この「明治人の記録・会津人芝五郎の遺書」によって明治維新における賊軍の汚名を被った会津人の想いを初めて知った。 <br /><br />幕末、会津藩は京都守護職として天皇の座する京都の治安を守り孝明天皇から藩主:松平容保は『宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)』を内密に下賜されている。方や長州や薩摩は尊皇攘夷を掲げて薩摩は薩英戦争、長州は下関戦争でイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国に惨敗するや攘夷転じて倒幕の旗印を掲げる。 <br /><br />そして薩長は王政復古の号令の下、会津を賊軍として攻め入る。そりゃあ会津にすれば京都で天皇を守り、公武合体を進めていたはずがいきなり賊軍扱いとは・・・。この会津の戦いで芝五郎(10歳)は数日前に訪ねてきた大叔母に松茸や栗の採取を誘われ母親の勧めもあり泊り掛けで家を離れ生き延びた。 <br /><br />残った祖母・母親・姉妹は自害し果てる。妹は7歳だった。攻め入った官軍の農民も含めて会津人への容赦なき殺戮もあったようで薩長への憎悪たるや芝五郎にしても凄まじい。その後生き残った芝家の男たちは現在青森県の東部になる斗南(となみ)に移封され過酷な生活を余儀なくされた。 <br /><br />75頁には「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあらば、いつか春も来たるものぞ。堪えぬけ、生きてあれよ、薩長の下郎どもに、一矢を報いるまでは」とある。終生薩長への思いは基本的には変わらずだったようだ。 <br /><br />会津戦争の逸話として <br /><br />『1986年(昭和61年)には長州藩の首府であった萩市が会津若松市に対して、「もう120年も経ったので」と会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市側は「まだ120年しか経っていない」とこれを拒絶した。』 <br /><br />これには笑ってしまう。私は笑えるが今も会津人にとっては心の奥底に染み付いた気持ちなのだろう。この本に出会って今ようやく会津人の気持ちが理解できた。 <br /><br />義和団事件の英雄:芝五郎は昭和20年12月13日大東亜戦争敗戦を知って亡くなった。時折晩年の芝五郎を自宅に訪ねた真人に、芝は緒戦の怒涛の勝ちを知りながら「この戦は敗けです」を繰り返していたそうだ。急激に膨張した影響もあって軍人の資質の低下を嘆いていたようだ。 <br /><br />やはり国を守り国民に範を示すのは危急存亡の時に命を賭する軍人においてなく、政治家や商売人にはあらず。その軍人が政治を司ってこそ国は安泰となる。敗戦後の日本は軍人を忌避し完全に商人国家となり最早日本人の資質は見る影もない。何が本物で何が偽物なのかも判別不能だ。偽国なり。 <br /><br />ちなみに芝五郎は「1860年6月21日 - 1945/昭和20年12月13日:85才没」:石光真清は「1868年10月15日 - 1942/昭和17年5月15日:74才没」 芝五郎が八歳年上で二人は終生の友だった。 <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />2015.平成27年6月1日(月) <br /><br /><br />■ ウラジオストク <br /><br />「日本ウラジオストク協会」にメールをし「浦潮旧日本人街の散策マップ」を郵送してもらった。そして協会の方が私が予定している日にプーチンがウラジオストクに来るという情報を教えてくれた。 <br /><br />『9月○日から○日までプーチン大統領がウラジオストクを訪問するという情報を入手しました。もし本当にこの日程通りであれば、大統領が街を通過するたびに交通規制がかかることになります。(ただでさえ、渋滞がひどい街なので)余裕を持って散策プランを考えること、お勧めいたします。』 <br /><br />まさに私のツアー日程と被っていた。どうしようか? これもウラジオストクでの想い出になるかも?と考えたりもしたが、やはり日にちを変更してもらった。きっと警備も厳重になるだろうし、入国審査も時間が掛かったり何かと面倒だ。一人でブラブラしていたらまた警察に尋問されるかも?と。 <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />2015.平成27年6月6日(土) <br /><br /><br />■ 浦潮斯徳( ウラジオストク) <br /><br />「ウラジオストク物語」:原 暉之(著)を読み、まだまだ何となくだけど少し分ってきた。何で昔 ウラジオストクに日本人街があったのか。ロシアが東に領土を拡張し、19世紀まで清国領だったこの地を愛琿条約(1858)・北京条約(1860)によって手に入れた。しかしロシア中心部から離れ交通の便もなく、街の発展の為に清国人・朝鮮人・日本人も受け入れた。 <br /><br />そんな ウラジオストクに長崎・熊本から多くの人が移り住み商売をはじめ日本人街を作り、ロシア人や清国人・朝鮮人と暮らしていた。なかでも日本人はロシア人からも評価が高く信頼され、その立場を確固たるものにしていった。1904/明治37年、日露戦争開戦前には ウラジオストクに3千人近くの日本人が暮らしていた。 <br /><br />日露戦争によって日本人は引揚げたが戦争終結二年後には1000名ほどの日本人が戻っていた。日露戦争勝利によって国際的に日本の立場も上がり、日本公使館が大使館に格上げされ第一次世界大戦を経て日本は世界の「五大国」(米国・英国・仏国・日本国・伊太利亜国)の一員となる。 <br /><br />そしてロシアは日露戦争の時から国内で革命が始まった。「血の日曜日事件 (1905年)」を皮切りに、この東シベリアもその渦に巻き込まれ「革命派:赤軍」と「反革命派:白軍」との争いや、1918年には第一次世界大戦で捕虜となっていたチェコスロバキヤの兵士が反乱を起こし、それに乗じて日本・米国がシベリアに出兵した。 <br /><br />1905年ロシア革命の烽火が上がり、1918年ニコライ2世と家族が銃殺され、内戦は1920年まで続いて収束を見た。最後までシベリアに残っていた日本軍も1922/大正12年に撤退。1922年ロシア、ザカフカース、ウクライナ、白ロシア各共和国の統合でソビエト連邦を形成する。初代大統領はレーニン。 <br /><br />明治初期からソ連邦誕生の1922/大正12年の頃まで何となく分ったが、それ以後のことは今の所まだ何も分らない。明治元年が1868年、そしてロシアからソ連となった1922年までの54年間。 ウラジオストクをはじめ東シベリアに日本人は多く住みいろんな商売をしていた。樺太も日露戦争後南半分は日本であり、地理的にも日本と近い。 <br /><br />戦後生まれの私には東西冷戦時代が続きウラジオストクは未知の世界という感じだが、昔は身近な場所だったのだろう。当時も今もウラジオストクの人たちは親日だそうだ。現在も日本語学習熱も盛んとのこと。 <br /><br />そんなロシア人も1900/明治33年ブラゴベシチェンスクで清国人を惨殺し、1920/大正10年ニコラエフスクで赤軍パルチザンによる虐殺を行っている。「尼港事件」 <br /><br />ロシア人は、純朴な面もあるようだが白人としての有色人種に対しての優越感は持っており、いざとなれば支那朝鮮日本人を惨殺するのは平気だ。その獰猛さは大陸民族の本能であり性というものだ。甘くはない。 <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />2015.平成27年6月8日(月) <br /><br /><br />■サンクトペテルブルク <br /><br />ロシア帝国の首都はサンクトペテルブルクだった。1914/大正3年までロシアの首都はサンクトペテルブルク。日本ではペテルブルクとも言っていた。へぇ〜そうだったのか。そんなことも知らずにいた。そしてサンクトペテルブルクがこんなところにあったことを今認識した。 <br /><br />こんな場所に首都がありながら東の果てまで領土を拡大し、ソ連時代は1945/昭和20年8月に日本との不可侵条約を一方的に破棄して進攻し、挙句に日本固有の領土である北方四島を略奪し今も居座っている。ロシア人の厚顔無恥というか、力こそ正義の精神には恐れ入る。分りやすい民族だ。 <br /><br />シナといいロシアと言いアジア大陸を席巻する二大国は傍若無人やりたい放題が基本であり、奴らに通じるのは力と力の関係だけ。その双方の力関係の上に何事も成り立つ。地図で見れば冗談か?と言いたくなる南沙諸島を支那がわが領土領海と叫ぶのも、極東の離れ小島それも日本固有の領土である北方四島まで返さないロシアも同じ貉だ。地図見ておかしいと思わんか? <br /><br />“愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ”という諺を肝に銘じ今に生かさないと奴らに翻弄される。先人は良くぞこんな近隣国と対峙して独立を堅守してきた。 ウラジオストクへの旅を前に学ぶこと多し。いつもながら知らなかったことばかりに唖然とする。 <br /><br />ウラジオストクの地理的近さに、今やっと気付き日本人がそこで商売をし暮らしていたことの当然さが分った。ソ連の共産党一党独裁体制と戦後の東西冷戦が近くて遠い場所にしていた。旅行の為にロシア語の勉強をしたくなった。カタコトの旅行会話で良いから。今は「スパシーバ」「ダー」「二エット」しか言えない。 <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />2015.平成27年6月15日(月) <br /><br /><br />■ロシア語 <br /><br />昨日ネットで見つけていた「明石市でロシア語の先生探してプライベートレッスン」の“ハロー先生ドットコムにお金を振り込み“G先生”(女性)の連絡先を教えてもらった。 <br /><br />そしてメールを送ったらすぐに返事が来た。気が早いけどすぐに携帯に電話をし今日の午後2時に西神中央駅で待ち合わせの約束をした。午前中に加古川での仕事を終えて西神そごうの駐車場に車を停め、そごうの書店でCD付きのロシア語の本を一冊買った。まだ本も一冊もなくロシア語はまったく未知の世界。 <br /><br />今日に備えて昨日の夜に簡単な挨拶単語だけ書きとめプリントして持っていた。発音は分らないが「ズラストビーチェ(こんにちわ)!オーチンプリヤートナ(初めまして、どうぞよろしく)」の二つの言葉だけ覚えた。 <br /><br />約束の時間になったので駅前で電話をしようと思ったらそれらしき女性が立っていた。近寄って「ズラストビーチェ!オーチンプリヤートナ!」と声を掛けたら相手も分った。そしていつもレッスンしているプレンティーの休憩所のテーブルに座って体験レッスン(1時間¥2,000円)の開始。 <br /><br />“G先生”はモスクワ出身、日本人と結婚し一児の母親。日本語も流暢だ。「ロシア語は難しい」と最初に言われたが、当然だがまったく予備知識もないので無茶難しいというだけで前途多難。今日がロシア語学習の初日となる。 <br /><br />どこまで出来るかわからないけどやってみる。中国語・ロシア語・卓球・旅行、仕事は二の次になりそうだ。ロシア“W杯”を目指して! <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />2015.平成27年6月16日(火) <br /><br /><br />■Яяионец(ヤ イポーニッチェ 私は日本人です) <br /><br />パソコンでロシア語が書ける。その他の言語もほぼ網羅されているようだ。凄いなァ、一年後私のロシア語の実力はどの程度になっているのか?まだ勉強の気力は湧いてこない。集中力もない。10年前、20年前とはやっぱり違う。 <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />2015.平成27年6月22日(月) <br /><br /><br />■ロシア語 <br /><br />今日二回目のマンツーマン学習だった。待ち合わせの午後2時数秒前に“G先生”が来た。1998年4月から学び始めた中国語もカタコトのまま、英語もまったく出来ない私がロシア語に挑戦とは「今更何考えてんねん・・・」と自分でも思う。それくらい今は憂鬱とまでいかないがどうなるのかさっぱり見当もつかず。 <br /><br />先は真っ暗だが来月からも一ヶ月二回のペースで続けるつもりだ。まずロシア語のアルファベット33文字を書いて覚えた。そして私が書いた文字がこんな感じで良いのか?先生に確認した。 <br /><br />高校生の時にソ連邦解体となりモスクワ在住だった彼女は、その歴史的な場所のすぐ近くに住んでいて戦車や兵士の姿を大勢の民衆の一人として見ていたそうだ。これから“G先生”を通じて少しはロシア通になるかも・・・。彼女自身は極東には一度も行ったことはないようだけど。 <br /><br />ロシア語学習は頭の体操にはなるだろう。2018ロシア“W杯”を目指して。あと3年、進歩の程はいかに?それより日本代表が出場権を獲得出来なければ、私の予定も頓挫だけどなあ・・・。 <br /><br /><br /><br />

    鷹の巣展望台から“浦潮斯徳”を望む

    2015/平成27年9月13日(日)‏‎7:54:38

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    2015.平成27年5月13日(水)


    ■ロシア

    今年の秋の旅行を予約した。行き先はロシア。「ウラジオストク・ハバロフスク」三泊四日。石光真清の四部作を読み一度は行ってみたいと思っていた。再度本を読もう。

    言葉も分らず初めての地なのでどうなるのか?乞うご期待だ。「シンガポール」「インドネシア」「ハワイ」その他まだまだ行きたいところは尽きない。欧州も米国も世界中どこでも行って見たいけど、費用も高くなるし飛行機での長時間は後回しになる。

    最初厚生省が主催しての「平成27年度 慰霊巡拝実施計画概要」・・・慰霊の旅があるので問い合わせたら遺族や関係者でないと参加出来ないと言われた。ある程度厚生省からの補助金が出るのかも?








    2015.平成27年5月18日(月)


    ■ ウラジオストク

    秋の旅行が決まった。最初「ウラジオストクとハバロフスク 4日間」 に申し込んだ。でも不安で日本から添乗員同行の「ハバロフスクとウラジオストク 4日間」にした。

    しかしネットを見ていたら一人でも行けそうな気がして「ウラジオストク4日間」に決めた。早速申し込み金¥3万円を振り込んだ。初めてのロシアなので一ヶ所でウロウロ歩こうと思う。

    「浦潮の日本人商店街・企業(1915/大正4年-1922/大正11年)の所在地」 ・・・この地図を見つけて一人で散策することにした。何で昔「浦潮斯徳、 ウラジオストク」に多くの日本人が暮らし日本人街があったのか?まだ良くわからないがこれから勉強しよう。








    2015.平成27年5月22日(金)


    ■「ある明治人の記録・会津人芝五郎の遺書」:石光真人(著)

    今秋ウラジオストクへ行く事を決めこの本に出会った。石光真人(まひと)は石光真清(いしみつ まきよ)の長男であり父親の手記をまとめて四部作『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』を世に出した。

    「芝五郎」は1900/明治33年:義和団事件の際、北京の籠城戦を指揮しその活躍によって日本と日本人の名声を世界に高めた人物だ。三年前の「張家口・丸一陣地の戦跡を訪ねる旅」で、その籠城戦が行われた場所に行った。

    その時はその義和団事件と芝五郎と日本人の活躍だけを調べたが、この「明治人の記録・会津人芝五郎の遺書」によって明治維新における賊軍の汚名を被った会津人の想いを初めて知った。

    幕末、会津藩は京都守護職として天皇の座する京都の治安を守り孝明天皇から藩主:松平容保は『宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)』を内密に下賜されている。方や長州や薩摩は尊皇攘夷を掲げて薩摩は薩英戦争、長州は下関戦争でイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国に惨敗するや攘夷転じて倒幕の旗印を掲げる。

    そして薩長は王政復古の号令の下、会津を賊軍として攻め入る。そりゃあ会津にすれば京都で天皇を守り、公武合体を進めていたはずがいきなり賊軍扱いとは・・・。この会津の戦いで芝五郎(10歳)は数日前に訪ねてきた大叔母に松茸や栗の採取を誘われ母親の勧めもあり泊り掛けで家を離れ生き延びた。

    残った祖母・母親・姉妹は自害し果てる。妹は7歳だった。攻め入った官軍の農民も含めて会津人への容赦なき殺戮もあったようで薩長への憎悪たるや芝五郎にしても凄まじい。その後生き残った芝家の男たちは現在青森県の東部になる斗南(となみ)に移封され過酷な生活を余儀なくされた。

    75頁には「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあらば、いつか春も来たるものぞ。堪えぬけ、生きてあれよ、薩長の下郎どもに、一矢を報いるまでは」とある。終生薩長への思いは基本的には変わらずだったようだ。

    会津戦争の逸話として

    『1986年(昭和61年)には長州藩の首府であった萩市が会津若松市に対して、「もう120年も経ったので」と会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市側は「まだ120年しか経っていない」とこれを拒絶した。』

    これには笑ってしまう。私は笑えるが今も会津人にとっては心の奥底に染み付いた気持ちなのだろう。この本に出会って今ようやく会津人の気持ちが理解できた。

    義和団事件の英雄:芝五郎は昭和20年12月13日大東亜戦争敗戦を知って亡くなった。時折晩年の芝五郎を自宅に訪ねた真人に、芝は緒戦の怒涛の勝ちを知りながら「この戦は敗けです」を繰り返していたそうだ。急激に膨張した影響もあって軍人の資質の低下を嘆いていたようだ。

    やはり国を守り国民に範を示すのは危急存亡の時に命を賭する軍人においてなく、政治家や商売人にはあらず。その軍人が政治を司ってこそ国は安泰となる。敗戦後の日本は軍人を忌避し完全に商人国家となり最早日本人の資質は見る影もない。何が本物で何が偽物なのかも判別不能だ。偽国なり。

    ちなみに芝五郎は「1860年6月21日 - 1945/昭和20年12月13日:85才没」:石光真清は「1868年10月15日 - 1942/昭和17年5月15日:74才没」 芝五郎が八歳年上で二人は終生の友だった。








    2015.平成27年6月1日(月)


    ■ ウラジオストク

    「日本ウラジオストク協会」にメールをし「浦潮旧日本人街の散策マップ」を郵送してもらった。そして協会の方が私が予定している日にプーチンがウラジオストクに来るという情報を教えてくれた。

    『9月○日から○日までプーチン大統領がウラジオストクを訪問するという情報を入手しました。もし本当にこの日程通りであれば、大統領が街を通過するたびに交通規制がかかることになります。(ただでさえ、渋滞がひどい街なので)余裕を持って散策プランを考えること、お勧めいたします。』

    まさに私のツアー日程と被っていた。どうしようか? これもウラジオストクでの想い出になるかも?と考えたりもしたが、やはり日にちを変更してもらった。きっと警備も厳重になるだろうし、入国審査も時間が掛かったり何かと面倒だ。一人でブラブラしていたらまた警察に尋問されるかも?と。








    2015.平成27年6月6日(土)


    ■ 浦潮斯徳( ウラジオストク)

    「ウラジオストク物語」:原 暉之(著)を読み、まだまだ何となくだけど少し分ってきた。何で昔 ウラジオストクに日本人街があったのか。ロシアが東に領土を拡張し、19世紀まで清国領だったこの地を愛琿条約(1858)・北京条約(1860)によって手に入れた。しかしロシア中心部から離れ交通の便もなく、街の発展の為に清国人・朝鮮人・日本人も受け入れた。

    そんな ウラジオストクに長崎・熊本から多くの人が移り住み商売をはじめ日本人街を作り、ロシア人や清国人・朝鮮人と暮らしていた。なかでも日本人はロシア人からも評価が高く信頼され、その立場を確固たるものにしていった。1904/明治37年、日露戦争開戦前には ウラジオストクに3千人近くの日本人が暮らしていた。

    日露戦争によって日本人は引揚げたが戦争終結二年後には1000名ほどの日本人が戻っていた。日露戦争勝利によって国際的に日本の立場も上がり、日本公使館が大使館に格上げされ第一次世界大戦を経て日本は世界の「五大国」(米国・英国・仏国・日本国・伊太利亜国)の一員となる。

    そしてロシアは日露戦争の時から国内で革命が始まった。「血の日曜日事件 (1905年)」を皮切りに、この東シベリアもその渦に巻き込まれ「革命派:赤軍」と「反革命派:白軍」との争いや、1918年には第一次世界大戦で捕虜となっていたチェコスロバキヤの兵士が反乱を起こし、それに乗じて日本・米国がシベリアに出兵した。

    1905年ロシア革命の烽火が上がり、1918年ニコライ2世と家族が銃殺され、内戦は1920年まで続いて収束を見た。最後までシベリアに残っていた日本軍も1922/大正12年に撤退。1922年ロシア、ザカフカース、ウクライナ、白ロシア各共和国の統合でソビエト連邦を形成する。初代大統領はレーニン。

    明治初期からソ連邦誕生の1922/大正12年の頃まで何となく分ったが、それ以後のことは今の所まだ何も分らない。明治元年が1868年、そしてロシアからソ連となった1922年までの54年間。 ウラジオストクをはじめ東シベリアに日本人は多く住みいろんな商売をしていた。樺太も日露戦争後南半分は日本であり、地理的にも日本と近い。

    戦後生まれの私には東西冷戦時代が続きウラジオストクは未知の世界という感じだが、昔は身近な場所だったのだろう。当時も今もウラジオストクの人たちは親日だそうだ。現在も日本語学習熱も盛んとのこと。

    そんなロシア人も1900/明治33年ブラゴベシチェンスクで清国人を惨殺し、1920/大正10年ニコラエフスクで赤軍パルチザンによる虐殺を行っている。「尼港事件」

    ロシア人は、純朴な面もあるようだが白人としての有色人種に対しての優越感は持っており、いざとなれば支那朝鮮日本人を惨殺するのは平気だ。その獰猛さは大陸民族の本能であり性というものだ。甘くはない。








    2015.平成27年6月8日(月)


    ■サンクトペテルブルク

    ロシア帝国の首都はサンクトペテルブルクだった。1914/大正3年までロシアの首都はサンクトペテルブルク。日本ではペテルブルクとも言っていた。へぇ〜そうだったのか。そんなことも知らずにいた。そしてサンクトペテルブルクがこんなところにあったことを今認識した。

    こんな場所に首都がありながら東の果てまで領土を拡大し、ソ連時代は1945/昭和20年8月に日本との不可侵条約を一方的に破棄して進攻し、挙句に日本固有の領土である北方四島を略奪し今も居座っている。ロシア人の厚顔無恥というか、力こそ正義の精神には恐れ入る。分りやすい民族だ。

    シナといいロシアと言いアジア大陸を席巻する二大国は傍若無人やりたい放題が基本であり、奴らに通じるのは力と力の関係だけ。その双方の力関係の上に何事も成り立つ。地図で見れば冗談か?と言いたくなる南沙諸島を支那がわが領土領海と叫ぶのも、極東の離れ小島それも日本固有の領土である北方四島まで返さないロシアも同じ貉だ。地図見ておかしいと思わんか?

    “愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ”という諺を肝に銘じ今に生かさないと奴らに翻弄される。先人は良くぞこんな近隣国と対峙して独立を堅守してきた。 ウラジオストクへの旅を前に学ぶこと多し。いつもながら知らなかったことばかりに唖然とする。

    ウラジオストクの地理的近さに、今やっと気付き日本人がそこで商売をし暮らしていたことの当然さが分った。ソ連の共産党一党独裁体制と戦後の東西冷戦が近くて遠い場所にしていた。旅行の為にロシア語の勉強をしたくなった。カタコトの旅行会話で良いから。今は「スパシーバ」「ダー」「二エット」しか言えない。








    2015.平成27年6月15日(月)


    ■ロシア語

    昨日ネットで見つけていた「明石市でロシア語の先生探してプライベートレッスン」の“ハロー先生ドットコムにお金を振り込み“G先生”(女性)の連絡先を教えてもらった。

    そしてメールを送ったらすぐに返事が来た。気が早いけどすぐに携帯に電話をし今日の午後2時に西神中央駅で待ち合わせの約束をした。午前中に加古川での仕事を終えて西神そごうの駐車場に車を停め、そごうの書店でCD付きのロシア語の本を一冊買った。まだ本も一冊もなくロシア語はまったく未知の世界。

    今日に備えて昨日の夜に簡単な挨拶単語だけ書きとめプリントして持っていた。発音は分らないが「ズラストビーチェ(こんにちわ)!オーチンプリヤートナ(初めまして、どうぞよろしく)」の二つの言葉だけ覚えた。

    約束の時間になったので駅前で電話をしようと思ったらそれらしき女性が立っていた。近寄って「ズラストビーチェ!オーチンプリヤートナ!」と声を掛けたら相手も分った。そしていつもレッスンしているプレンティーの休憩所のテーブルに座って体験レッスン(1時間¥2,000円)の開始。

    “G先生”はモスクワ出身、日本人と結婚し一児の母親。日本語も流暢だ。「ロシア語は難しい」と最初に言われたが、当然だがまったく予備知識もないので無茶難しいというだけで前途多難。今日がロシア語学習の初日となる。

    どこまで出来るかわからないけどやってみる。中国語・ロシア語・卓球・旅行、仕事は二の次になりそうだ。ロシア“W杯”を目指して!








    2015.平成27年6月16日(火)


    ■Яяионец(ヤ イポーニッチェ 私は日本人です)

    パソコンでロシア語が書ける。その他の言語もほぼ網羅されているようだ。凄いなァ、一年後私のロシア語の実力はどの程度になっているのか?まだ勉強の気力は湧いてこない。集中力もない。10年前、20年前とはやっぱり違う。








    2015.平成27年6月22日(月)


    ■ロシア語

    今日二回目のマンツーマン学習だった。待ち合わせの午後2時数秒前に“G先生”が来た。1998年4月から学び始めた中国語もカタコトのまま、英語もまったく出来ない私がロシア語に挑戦とは「今更何考えてんねん・・・」と自分でも思う。それくらい今は憂鬱とまでいかないがどうなるのかさっぱり見当もつかず。

    先は真っ暗だが来月からも一ヶ月二回のペースで続けるつもりだ。まずロシア語のアルファベット33文字を書いて覚えた。そして私が書いた文字がこんな感じで良いのか?先生に確認した。

    高校生の時にソ連邦解体となりモスクワ在住だった彼女は、その歴史的な場所のすぐ近くに住んでいて戦車や兵士の姿を大勢の民衆の一人として見ていたそうだ。これから“G先生”を通じて少しはロシア通になるかも・・・。彼女自身は極東には一度も行ったことはないようだけど。

    ロシア語学習は頭の体操にはなるだろう。2018ロシア“W杯”を目指して。あと3年、進歩の程はいかに?それより日本代表が出場権を獲得出来なければ、私の予定も頓挫だけどなあ・・・。



  • <br />石光真清陸軍少佐<br /><br />/////////////////////<br /><br />2015.平成27年7月6日(月) <br /><br /><br />■ロシア語 <br /><br />全然勉強してないが今日が三回目の講習だった。ダイエー西神中央店一階の「フードコーナー」を使っての勉強。ジュース二杯(計260円)をいつも私が買う。“G先生”は遠慮して「私はいらない」と言うけど・・・。 <br /><br />ロシア語は遅々として進歩しないが、幼児がカタコトで話し始めるような過程を辿っていく。まずは挨拶から一年後どうなるのか?ロシア人と今まで話をしたことがなかったのでこの機会にロシアのことが聞けるのでそれだけで楽しい。「プーチンは好き?」と聞いたら「う〜ん、彼はキツネ」とあだ名で誤魔化されたが「好き」ではなさそうだ。 <br /><br />そしてロシアも中国人が激増しモスクワも中国人街なのかと思うほど大挙して居住している地域があって久々に帰国した“G先生”もビックリし嫌な気分がしたそうだ。モスクワがその様子ならロシアの極東地域は想像できる。 ウラジオストクも想像以上に多いのかも・・・。 <br /><br />今年も8月初めにモスクワに一週間ほど里帰り予定の“G先生”がついでに日本円を両替して来てくれるとのこと。ホテルや空港での両替より現地の銀行が一番良いようだから。ありがたい。車をプレンティーの駐車場に置くので今日ポイントカードを作った。108円以上の買い物をしたら90分駐車場が無料になる。早速パン一個買って無料になった。 <br /><br />ロシア語勉強は、今はまだ、まことに不熱心だが続けるぞ。“G先生”の人柄も良さそうだし。 <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />2015.平成27年7月14日(火) <br /><br /><br />■ ウラジオストク(東方を支配する) <br /><br />「ウラジオストク物語」:原 暉之(著)を読みウラジオストクと日本との関係が分ってきた。私の意識下では今まで漠然と遠い所だった。距離的には「成田⇔ ウラジオストク」直行便では2時間20分ほどで到着する。 <br /><br />この地は、1860年の北京条約によって外満洲(沿海地方)が正式にロシア領になり、江戸幕末1860年代に ウラジオストクの町が作られ、長崎から“からゆきさん”(女郎)や大工、土木業者、洋品店・理髪師等々がこの地で仕事を始めた。西南戦争1876/明治10年の一年前(1875)に日本は日本貿易事務館を開設している。それだけ明治維新後日本人のこの地への進出は早かった。 <br /><br />日露戦争前には3,000人以上の日本人が暮らし日本人商店街もあった。その後、日露戦争で多くが帰国したが戦争終結一年後の1906/明治39年には日本人が戻って来た。そして1914/大正3年第一次世界大戦、1917/大正6年ロシア革命、1918/大正7年日本軍のシベリア出兵。1920/大正9年には反革命派政権「極東共和国」が成立(4月6日)した。 <br /><br />その年に東洋学院を母体とした国立極東大学が創立。『1920年-1922年の間、ウラジオストクは極東共和国の支配下にあり各地から白系ロシア人が押し寄せたため、市の人口は、9万7千人から41万人までに増加した』 <br /><br />しかし1922/大正22年日本軍の撤退期限が近づくにつれて国外脱出をのぞむ白衛派や無党派の市民、軍人とその家族で市内はごったがえした。中国と日本の総領事館は数日の間に1万5000枚以上の査証を発給している。 <br /><br />反革命派は革命軍から逃れるために1922/大正22年10月24日スタルク提督の指揮下で編成された合計18隻の船団の最後尾が金角湾をあとにする。目的地は朝鮮半島の元山(ウオンサン・日本領)。その翌日25日に三代目の浦潮派遣軍司令官:立花小一郎は一個大隊を率いて最後の輸送船で ウラジオストクを撤収する。 <br /><br />入れ代わりに人民革命軍は装甲列車でペルヴァヤ・レチカ駅に到着。午後5時には先頭の隊列がキタイスカイヤ通りを行進して市中に入った。1922年10月25日ボリシェヴィキ政権の支配が太平洋岸にまで及んだ歴史的な日である。 <br /><br />ロシア極東のソビエト化と同時にロシア極東からの難民の離散が進行し1922年11月6日までに元山にはスタルク船団の7000人を含め軍民合わせて9000人もの人々が到着した。難民の大部分はアメリカ西海岸か中国に散っていった。日本に安住の地を見いだしたのはごく一部である。スタルク自身はフランスに亡命し1950年パリで没した。 <br /><br />ソビエト化された ウラジオストクからは国際都市の性格が急速に失われていった。日本人居留民も激減し、1919年6月末の時点で5915人 1922年2684人。一年後の1923年(大正23年)には719人となった。 ウラジオストクの人口も10万人ほどに減少した。 <br /><br />ソ連となってからは<br />『1935年(昭和10年)、ソビエト連邦海軍太平洋艦隊が創設された。1938年には沿海州の州都となるとともに軍港として重視され、1958年(昭和33年)からソ連の崩壊する1991年(平成3年)までごく一部を除いて外国人の居住と、ソ連国民を含む市外居住者の立ち入りが禁止される閉鎖都市だった』 <br /><br />なるほどそれで私が物心付いて以来ウラジオストクは近くて遠いところで関心もなかったのか・・・。今回次の旅行先を考えていた時に何気にウラジオストクが思い浮かんだ。それは石光真清の四部作で知り、黒河に行った時アムール川(黒龍江)の対岸にブラゴベシチェンスクがあり「いつか機会があれば行って見よう」と思っていたから。 <br /><br />そしウラジオストクがこんなにも日本人と縁があり、ソ連になるまでは多くの日本人が彼の地で商売をし暮らしていたことを知った。日本人の足跡は市内各所に今も残っており歩き回るにはちょうど良い。 <br /><br />そして今日旅行社に到着の翌日、朝9時から「ウラジオストク市内散策(半日プラン:ウォーキング)」を頼んだ。料金は4時間一人¥13,500円。人数が多くなると割安になるが一人だけなので一番高い。でもその価値はあると思う。 <br /><br />何せ初めてのロシアの旅。いつものように初めては不安が一杯だし、到着の翌日ウラジオストクのことをいろいろ聞くことが出来る。勿論女性ガイドを頼んだ。でも「確約は出来ませんが希望だけは聞いておきます」だったけど・・・。私のウラジオストクの旅はもうとっくに始まっている。 <br />


    石光真清陸軍少佐

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    2015.平成27年7月6日(月)


    ■ロシア語

    全然勉強してないが今日が三回目の講習だった。ダイエー西神中央店一階の「フードコーナー」を使っての勉強。ジュース二杯(計260円)をいつも私が買う。“G先生”は遠慮して「私はいらない」と言うけど・・・。

    ロシア語は遅々として進歩しないが、幼児がカタコトで話し始めるような過程を辿っていく。まずは挨拶から一年後どうなるのか?ロシア人と今まで話をしたことがなかったのでこの機会にロシアのことが聞けるのでそれだけで楽しい。「プーチンは好き?」と聞いたら「う〜ん、彼はキツネ」とあだ名で誤魔化されたが「好き」ではなさそうだ。

    そしてロシアも中国人が激増しモスクワも中国人街なのかと思うほど大挙して居住している地域があって久々に帰国した“G先生”もビックリし嫌な気分がしたそうだ。モスクワがその様子ならロシアの極東地域は想像できる。 ウラジオストクも想像以上に多いのかも・・・。

    今年も8月初めにモスクワに一週間ほど里帰り予定の“G先生”がついでに日本円を両替して来てくれるとのこと。ホテルや空港での両替より現地の銀行が一番良いようだから。ありがたい。車をプレンティーの駐車場に置くので今日ポイントカードを作った。108円以上の買い物をしたら90分駐車場が無料になる。早速パン一個買って無料になった。

    ロシア語勉強は、今はまだ、まことに不熱心だが続けるぞ。“G先生”の人柄も良さそうだし。








    2015.平成27年7月14日(火)


    ■ ウラジオストク(東方を支配する)

    「ウラジオストク物語」:原 暉之(著)を読みウラジオストクと日本との関係が分ってきた。私の意識下では今まで漠然と遠い所だった。距離的には「成田⇔ ウラジオストク」直行便では2時間20分ほどで到着する。

    この地は、1860年の北京条約によって外満洲(沿海地方)が正式にロシア領になり、江戸幕末1860年代に ウラジオストクの町が作られ、長崎から“からゆきさん”(女郎)や大工、土木業者、洋品店・理髪師等々がこの地で仕事を始めた。西南戦争1876/明治10年の一年前(1875)に日本は日本貿易事務館を開設している。それだけ明治維新後日本人のこの地への進出は早かった。

    日露戦争前には3,000人以上の日本人が暮らし日本人商店街もあった。その後、日露戦争で多くが帰国したが戦争終結一年後の1906/明治39年には日本人が戻って来た。そして1914/大正3年第一次世界大戦、1917/大正6年ロシア革命、1918/大正7年日本軍のシベリア出兵。1920/大正9年には反革命派政権「極東共和国」が成立(4月6日)した。

    その年に東洋学院を母体とした国立極東大学が創立。『1920年-1922年の間、ウラジオストクは極東共和国の支配下にあり各地から白系ロシア人が押し寄せたため、市の人口は、9万7千人から41万人までに増加した』

    しかし1922/大正22年日本軍の撤退期限が近づくにつれて国外脱出をのぞむ白衛派や無党派の市民、軍人とその家族で市内はごったがえした。中国と日本の総領事館は数日の間に1万5000枚以上の査証を発給している。

    反革命派は革命軍から逃れるために1922/大正22年10月24日スタルク提督の指揮下で編成された合計18隻の船団の最後尾が金角湾をあとにする。目的地は朝鮮半島の元山(ウオンサン・日本領)。その翌日25日に三代目の浦潮派遣軍司令官:立花小一郎は一個大隊を率いて最後の輸送船で ウラジオストクを撤収する。

    入れ代わりに人民革命軍は装甲列車でペルヴァヤ・レチカ駅に到着。午後5時には先頭の隊列がキタイスカイヤ通りを行進して市中に入った。1922年10月25日ボリシェヴィキ政権の支配が太平洋岸にまで及んだ歴史的な日である。

    ロシア極東のソビエト化と同時にロシア極東からの難民の離散が進行し1922年11月6日までに元山にはスタルク船団の7000人を含め軍民合わせて9000人もの人々が到着した。難民の大部分はアメリカ西海岸か中国に散っていった。日本に安住の地を見いだしたのはごく一部である。スタルク自身はフランスに亡命し1950年パリで没した。

    ソビエト化された ウラジオストクからは国際都市の性格が急速に失われていった。日本人居留民も激減し、1919年6月末の時点で5915人 1922年2684人。一年後の1923年(大正23年)には719人となった。 ウラジオストクの人口も10万人ほどに減少した。

    ソ連となってからは
    『1935年(昭和10年)、ソビエト連邦海軍太平洋艦隊が創設された。1938年には沿海州の州都となるとともに軍港として重視され、1958年(昭和33年)からソ連の崩壊する1991年(平成3年)までごく一部を除いて外国人の居住と、ソ連国民を含む市外居住者の立ち入りが禁止される閉鎖都市だった』

    なるほどそれで私が物心付いて以来ウラジオストクは近くて遠いところで関心もなかったのか・・・。今回次の旅行先を考えていた時に何気にウラジオストクが思い浮かんだ。それは石光真清の四部作で知り、黒河に行った時アムール川(黒龍江)の対岸にブラゴベシチェンスクがあり「いつか機会があれば行って見よう」と思っていたから。

    そしウラジオストクがこんなにも日本人と縁があり、ソ連になるまでは多くの日本人が彼の地で商売をし暮らしていたことを知った。日本人の足跡は市内各所に今も残っており歩き回るにはちょうど良い。

    そして今日旅行社に到着の翌日、朝9時から「ウラジオストク市内散策(半日プラン:ウォーキング)」を頼んだ。料金は4時間一人¥13,500円。人数が多くなると割安になるが一人だけなので一番高い。でもその価値はあると思う。

    何せ初めてのロシアの旅。いつものように初めては不安が一杯だし、到着の翌日ウラジオストクのことをいろいろ聞くことが出来る。勿論女性ガイドを頼んだ。でも「確約は出来ませんが希望だけは聞いておきます」だったけど・・・。私のウラジオストクの旅はもうとっくに始まっている。

  • <br />芝五郎陸軍大将<br /><br />/////////////////////////<br /><br />2015.平成27年7月20日(月) <br /><br /><br />■「城下の人」:石光真清の手記 <br /><br />ウラジオストクの旅を前に四部作を一巻から読み直している。もう三回目くらいになる。二度読む本はほとんどない私だが、この本は幕末から日露戦争に掛けての内容がリアルで何度読んでも面白い。歴史の勉強にもなる。 <br /><br />西南戦争での熊本城の攻防を少年真清は毎日のように祇園山(花岡山)の薩軍陣地で観戦している。そして真清の家には官軍の熊本鎮台司令官:谷干城や、その副官(参謀長)の樺山資紀も訪ねて来ている。薩摩藩・熊本藩の両元藩士も西南戦争では、幼馴染でありながらそれぞれが敵味方に別れ戦った。 <br /><br />石光真清は陸軍幼年学校受験前には芝五郎の家に預けられた。そして入学時には二年先輩に真清が敬慕し日露戦争「首山堡の戦い」で戦死した軍神:橘周太がいた。この一巻は ウラジオストクに行くまでのことだ。読み直しているけど詳細はほとんど記憶になく初めて読むのと何ら変わらず。 <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />石光真清(1868-1942:享年74)---芝五郎(1860-1945:享年85)---橘周太(1865-1904:享年39) <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />2015.平成27年7月21日(火) <br /><br /><br />■「城下の人」:石光真清の手記 <br /><br />そうか四部作第一巻「城下の人」にはウラジオストクは出てこないと思っていたが、この巻の最後にロシア語学習と ウラジオストクへの留学が書かれていた。石光真清がウラジオストクの地に初めて足を踏み入れたのは、1899/明治32年8月25日のことだった。日露開戦1904/明治37年2月8日の四年半前。真清31歳。(1868生:少佐)。 <br /><br />『』内:抜粋<br /> 『その頃のウラジオストクは全くの新開地で、海岸沿いに一列に商店街があるだけ、その商店街も、ほとんどは支那人の経営で、労働者は大部分朝鮮人であった。港は当時自由港であったから税関はなく、ただ防疫官と警察官が一緒に来て臨検するだけであった。 <br /><br />近藤康平社長(1848生)の一行は汽船に宿泊、田村怡与造大佐(1854生:中将)は貿易事務官二橋譲氏の案内で貿易事務館に、町田経宇大尉(1865生:大将)と私は日本旅館扶桑舎に宿泊した』 <br /><br />探検家である笹森儀助も石光真清と一緒の船:相模丸で元山からウラジオストクに来ている。笹森の記録では元山を出たのが9月2日、翌3日夜ウラジオストク港外で一夜を明かし9月4日、午前10時頃上陸とある。石光の手記には時系列の間違いが多々ある。 <br /><br />真清到着の夜、この扶桑舎で後に「日本のビール王」と言われた“馬越恭平”(1844生)と出会っている。馬越がビール王になったのは、明治25年経営難に陥っていた「恵比寿麦酒」(後、日本麦酒)へ三井物産から派遣され再建を託された。 <br /><br />その馬越が以前三井物産で部下だった石光真清の兄:真澄を「正直さと誠意を信用して、再建を任せたい」として支配人に起用した。真澄は精魂傾けて再建に全力を傾注し、三年後に急逝したが会社が大企業に発展する基礎を作った。真澄が亡き後も馬越は昭和8年89歳で逝去するまで四十余年に渡り真澄の遺族の支援を続けた。 <br /><br />麦酒会社社長の馬越は当時すでに55歳になっていたがロシア語も出来ないのに随行者もなく単身で来ていた。真清はウラジオストクに詳しい馬越に市内を案内してもらっている。 <br /><br />他ウラジオストクでその時出会ったのは駐在武官武藤信義大尉(1868生:元帥)、本願人の僧侶に扮装した清水松月こと花田仲之助少佐(1860生:中佐)もいた。 <br /><br />真清がブラゴヴェヒチェンスクに留学先を選んだのはこのウラジオストクに到着後、田村・武藤・町田らと打ち合わせて決めている。「へぇ〜、そうだったのか・・・」当時ブラゴヴェヒチェンスクは東部シベリアの露軍根拠地として最大だった。 <br /><br />田村から「一年経ったら、ひとまずウラジオストクに出て来い。その頃には僕も来るからな」と言われて真清の波乱のロシア留学及び諜報活動は始まった。石光真清がロシアのへの一歩を記したのはウラジオストク。その足跡を思い越しながら散策しよう。 <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />2015.平成27年7月28日(火) <br /><br /><br />■ロシア語の勉強 <br /><br />四回目のマンツーマン授業を受けた。西神ダイエーのフードコーナーでジュース一杯飲みながらの授業。“G先生”とは日本語でロシアの話の方が今のところ多い。それもまた良し。ボチボチやる。まだ教えてもらうレベルに達していないから。 <br /><br />まずキリル文字を書けるように読めるようになりたい。“G先生”が8月初めから一週間ほどモスクワに帰省するので日本円三万円の両替を頼んだ。先遠し。 <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />2015.平成27年8月12日(水) <br /><br /><br />■ロシア語 <br /><br />昨日Galina先生の個人レッスンだった。Galina先生は8月初めからモスクワの実家に一週間ほど帰省して10日に戻ってきたばかり。翌日の11日20時間寝ないまま私のレッスンだったようだ。帰国するのは聞いて知っていたが、そんな状態とは知らなかった。 <br /><br />そして3万円の両替をしてきてくれた。日本円3万円=14490ルーブル。ロシア語は全然勉強ははかどっていない。ほとんど復習も予習もしないままで申し訳ないが、今はまだそれでもええかという気持ちで月二回のレッスンを続ける。Galina先生は「もうすぐ行くのに・・・」と呆れ顔だが、一体この先どうなるのか?自分でも分らない。 <br />


    芝五郎陸軍大将

    /////////////////////////

    2015.平成27年7月20日(月)


    ■「城下の人」:石光真清の手記

    ウラジオストクの旅を前に四部作を一巻から読み直している。もう三回目くらいになる。二度読む本はほとんどない私だが、この本は幕末から日露戦争に掛けての内容がリアルで何度読んでも面白い。歴史の勉強にもなる。

    西南戦争での熊本城の攻防を少年真清は毎日のように祇園山(花岡山)の薩軍陣地で観戦している。そして真清の家には官軍の熊本鎮台司令官:谷干城や、その副官(参謀長)の樺山資紀も訪ねて来ている。薩摩藩・熊本藩の両元藩士も西南戦争では、幼馴染でありながらそれぞれが敵味方に別れ戦った。

    石光真清は陸軍幼年学校受験前には芝五郎の家に預けられた。そして入学時には二年先輩に真清が敬慕し日露戦争「首山堡の戦い」で戦死した軍神:橘周太がいた。この一巻は ウラジオストクに行くまでのことだ。読み直しているけど詳細はほとんど記憶になく初めて読むのと何ら変わらず。






    石光真清(1868-1942:享年74)---芝五郎(1860-1945:享年85)---橘周太(1865-1904:享年39)







    2015.平成27年7月21日(火)


    ■「城下の人」:石光真清の手記

    そうか四部作第一巻「城下の人」にはウラジオストクは出てこないと思っていたが、この巻の最後にロシア語学習と ウラジオストクへの留学が書かれていた。石光真清がウラジオストクの地に初めて足を踏み入れたのは、1899/明治32年8月25日のことだった。日露開戦1904/明治37年2月8日の四年半前。真清31歳。(1868生:少佐)。

    『』内:抜粋
    『その頃のウラジオストクは全くの新開地で、海岸沿いに一列に商店街があるだけ、その商店街も、ほとんどは支那人の経営で、労働者は大部分朝鮮人であった。港は当時自由港であったから税関はなく、ただ防疫官と警察官が一緒に来て臨検するだけであった。

    近藤康平社長(1848生)の一行は汽船に宿泊、田村怡与造大佐(1854生:中将)は貿易事務官二橋譲氏の案内で貿易事務館に、町田経宇大尉(1865生:大将)と私は日本旅館扶桑舎に宿泊した』

    探検家である笹森儀助も石光真清と一緒の船:相模丸で元山からウラジオストクに来ている。笹森の記録では元山を出たのが9月2日、翌3日夜ウラジオストク港外で一夜を明かし9月4日、午前10時頃上陸とある。石光の手記には時系列の間違いが多々ある。

    真清到着の夜、この扶桑舎で後に「日本のビール王」と言われた“馬越恭平”(1844生)と出会っている。馬越がビール王になったのは、明治25年経営難に陥っていた「恵比寿麦酒」(後、日本麦酒)へ三井物産から派遣され再建を託された。

    その馬越が以前三井物産で部下だった石光真清の兄:真澄を「正直さと誠意を信用して、再建を任せたい」として支配人に起用した。真澄は精魂傾けて再建に全力を傾注し、三年後に急逝したが会社が大企業に発展する基礎を作った。真澄が亡き後も馬越は昭和8年89歳で逝去するまで四十余年に渡り真澄の遺族の支援を続けた。

    麦酒会社社長の馬越は当時すでに55歳になっていたがロシア語も出来ないのに随行者もなく単身で来ていた。真清はウラジオストクに詳しい馬越に市内を案内してもらっている。

    他ウラジオストクでその時出会ったのは駐在武官武藤信義大尉(1868生:元帥)、本願人の僧侶に扮装した清水松月こと花田仲之助少佐(1860生:中佐)もいた。

    真清がブラゴヴェヒチェンスクに留学先を選んだのはこのウラジオストクに到着後、田村・武藤・町田らと打ち合わせて決めている。「へぇ〜、そうだったのか・・・」当時ブラゴヴェヒチェンスクは東部シベリアの露軍根拠地として最大だった。

    田村から「一年経ったら、ひとまずウラジオストクに出て来い。その頃には僕も来るからな」と言われて真清の波乱のロシア留学及び諜報活動は始まった。石光真清がロシアのへの一歩を記したのはウラジオストク。その足跡を思い越しながら散策しよう。








    2015.平成27年7月28日(火)


    ■ロシア語の勉強

    四回目のマンツーマン授業を受けた。西神ダイエーのフードコーナーでジュース一杯飲みながらの授業。“G先生”とは日本語でロシアの話の方が今のところ多い。それもまた良し。ボチボチやる。まだ教えてもらうレベルに達していないから。

    まずキリル文字を書けるように読めるようになりたい。“G先生”が8月初めから一週間ほどモスクワに帰省するので日本円三万円の両替を頼んだ。先遠し。








    2015.平成27年8月12日(水)


    ■ロシア語

    昨日Galina先生の個人レッスンだった。Galina先生は8月初めからモスクワの実家に一週間ほど帰省して10日に戻ってきたばかり。翌日の11日20時間寝ないまま私のレッスンだったようだ。帰国するのは聞いて知っていたが、そんな状態とは知らなかった。

    そして3万円の両替をしてきてくれた。日本円3万円=14490ルーブル。ロシア語は全然勉強ははかどっていない。ほとんど復習も予習もしないままで申し訳ないが、今はまだそれでもええかという気持ちで月二回のレッスンを続ける。Galina先生は「もうすぐ行くのに・・・」と呆れ顔だが、一体この先どうなるのか?自分でも分らない。

  • 橘周太陸軍中佐<br /><br />//////////////////////<br /><br />2015.平成27年9月1日(火) <br /><br /><br />■ロシア語学習 <br /><br />ウラジオストク行きを決めてロシア語の勉強を始めたのが三ヶ月前の6月15日(月)。それから毎月2回、今日は7回目だった。午前中仕事をして昼食後、“G先生”といつもの時間午後2時に西神ダイエーで待ち合わせ一階のオレンジキッチンで1時間のロシア語学習。 <br /><br />予習復習もせず行くので勉強はまったくはかどってない。まだやる気がしないから仕方がない。“G先生”も呆れているだろうけど今はロシア事情を聞く学習だ。ロシアに誇りを持っているのは感じる。ロシアのことを絶対悪く言わない。ロシアは小学校から高校まで同じ学校(建物)で勉強するようだ、小中高一貫教育なのか? <br /><br />いろんな話を聞くのは面白い。勉強そっちのけで今日の一時間はいろんなことを聞いた。7月には旧都:サンクトペテルブルクは白夜のようで観光客も沢山行くらしい。モスクワは冬は夕方四時半頃から朝9時過ぎまで真っ暗で、学校には暗いうちに登校し暗くなって帰るとのこと。 <br /><br />ロシア人は「皆、大酒飲みでしょ」と言ったらマジ「そうじゃあない!」とムキになって言う。「私は飲まないし父も飲まない、母はちょっと飲んでたけど」とのこと。日本人の主人のことは「旦那(ダンナ)」と言う。ロシア語でも母はママで父はパパ、今日知った。 <br /><br />「若いロシア人女性はスタイルが良いし美人が多いけど、中年“叔母さん”は皆太っている」と言ったら「そうじゃあない。太っている人もいるけど・・・」と即座に否定していた。健康についても日本人より意識が高いように思う。ちなみに牛乳は「あれは赤ちゃんの時に飲むもの」と私と同じ意見に驚いた。 <br /><br />乳製品全てを否定しているのではなく「珈琲にミルクを入れたり、お腹が減った時牛乳を少し飲んだら空腹感がなくなる」とのこと。ご主人が日本人で日本での永住許可は得ているが日本国籍にするつもりはなくロシア人として暮らすとキッパリ言っていた。誇り高きロシア女性と言う感じがする。ダイエットは健康に悪いのでしないとのこと。でもスタイル良く美人だ。 <br /><br />これから五年後、70歳になった時、私のロシア語は如何に?中国語は如何に?仕事は如何に?卓球は如何に?命は如何に?ハハハ。 <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />2015.平成27年9月3日(木) <br /><br /><br />■石光真清(四部作) <br /><br />明治元年生まれの真清の人生と、明治大正の激動の日本史が重なって何度読んでも興味深い。16歳で陸軍幼年学校に入校し軍人としての道を歩んでいたが結婚後の1899/明治32年31歳の時にブラゴベシチェンスクに語学留学した <br /><br />それを機にロシア・満洲での諜報活動に従事することになる。その後の人生は波乱と苦難に満ちている。1908/41歳から1915/大正4年の7年間は日本で郵便局長として家族一緒に暮らし、この時が真清の人生の中で一番穏やかで幸福な日々だった。 <br /><br />しかし1914/大正3年・第1次世界大戦が勃発し、国際情勢は混沌とするなか支那大陸における最大の利権国であった英国が満洲でも存在感を高めていた。そんな状況下「関東都督府」は錦州に拠点を作るべく資本を出資し貿易公司設立を図ることになる。その設立責任者:専務取締役として真清が赴くことになった。 <br /><br />当時錦州は未解放区で外国人の居住・営業は禁止されており真清が奔走の末、やっと開業にこぎつけたのは渡満後一年二ヵ月を経た大正5年10月。商売は順調で思っていた以上の利益も上がり東京の自宅へ多額の仕送りも出来た。真清は錦州の日本人会の会長に選ばれ日本人小学校も開校した。 <br /><br />しかし1917/大正6年ロシアで二月革命が起こり真清は50歳にして、軍より懇請され再びロシアに渡り諜報活動を行うことになる。ロシアは日露戦争時の1905/明治38年「血の日曜日」で有名なサンクトペテルブルクでの革命事件があるが、この時は鎮静化されている。 <br /><br />そして1917/大正6年の「二月革命」後に皇帝ニコライ2世は皇位を剥奪され家族共々7月には監禁された。その後も「十月革命」と続き翌1918/大正7年7月17日皇帝家族全員が処刑され血筋は途絶える。そういったロシア革命の最中ブラゴヴェシチェンスクでボルシェビキ(革命派)と対峙する。 <br /><br />真清はシベリアの反革命派が日本軍と日本人を頼りとするなか反革命派が期待を寄せる日本軍との間に立ち奔走するが、方針の決まらぬ日本政府・日本軍は真清の思いとは程遠く日本軍からも疎まれ反革命派からも失望される。この手記を読んでいると日本政府・日本軍の優柔不断さに憤りを感じる。 <br /><br />シベリアを巡って国家間の国益が絡み難しい国際情勢のなかの国の方針だが、現場で第一線に居る者の苦労はいつもこうなのだろう。あの時日本はこうしておけば良かったのに・・・と、思うことばかりだ。それはアムール州以東はロシア中心から遠く離れた極東であり当時ロシアの植民地とも言われている状況だった。 <br /><br />共産主義革命派ボルシェビキがブラゴベシチェンスクに勢力を伸ばす前に、日本が反革命派を援助し後の満洲国のように緩衝国「極東共和国」をしっかりと成立させておけばその後の世界は大きく変わったはずだ。そうすれば極東までのソ連邦もなく満洲国は今も存在していた可能性も大いにある。 <br /><br />この手記を読み当時のブラゴベシチェンスクのロシア人の日本への思いや革命への強い忌避を知れば、日本軍の1918/大正7年〜1922/大正11年の長期に渡ったシベリア出兵が如何に中途半端で無計画無戦略であったのかと感じる。 <br /><br />シベリア出兵はチェコ軍団の救出名目で『連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)』が行ったもので日本独自で先駆けての出兵は無理だったのかもだが、反革命派への日本軍の後押しがもう少しあれば極東共和国(緩衝国家成立)の可能性は十分にあったと思う。 <br /><br />石光真清が戦後に生まれ育っていれば、性格的には軍人タイプではなくリベラルとしての思想信条を有する人間ではないかと思う。そんな性格の人物でも当時の言動は、今現在で言えばことごとく「タカ派」「極右」「ネトウヨ」と言われるだろう。それくらい戦後日本は左傾化している。 <br />

    橘周太陸軍中佐

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    2015.平成27年9月1日(火)


    ■ロシア語学習

    ウラジオストク行きを決めてロシア語の勉強を始めたのが三ヶ月前の6月15日(月)。それから毎月2回、今日は7回目だった。午前中仕事をして昼食後、“G先生”といつもの時間午後2時に西神ダイエーで待ち合わせ一階のオレンジキッチンで1時間のロシア語学習。

    予習復習もせず行くので勉強はまったくはかどってない。まだやる気がしないから仕方がない。“G先生”も呆れているだろうけど今はロシア事情を聞く学習だ。ロシアに誇りを持っているのは感じる。ロシアのことを絶対悪く言わない。ロシアは小学校から高校まで同じ学校(建物)で勉強するようだ、小中高一貫教育なのか?

    いろんな話を聞くのは面白い。勉強そっちのけで今日の一時間はいろんなことを聞いた。7月には旧都:サンクトペテルブルクは白夜のようで観光客も沢山行くらしい。モスクワは冬は夕方四時半頃から朝9時過ぎまで真っ暗で、学校には暗いうちに登校し暗くなって帰るとのこと。

    ロシア人は「皆、大酒飲みでしょ」と言ったらマジ「そうじゃあない!」とムキになって言う。「私は飲まないし父も飲まない、母はちょっと飲んでたけど」とのこと。日本人の主人のことは「旦那(ダンナ)」と言う。ロシア語でも母はママで父はパパ、今日知った。

    「若いロシア人女性はスタイルが良いし美人が多いけど、中年“叔母さん”は皆太っている」と言ったら「そうじゃあない。太っている人もいるけど・・・」と即座に否定していた。健康についても日本人より意識が高いように思う。ちなみに牛乳は「あれは赤ちゃんの時に飲むもの」と私と同じ意見に驚いた。

    乳製品全てを否定しているのではなく「珈琲にミルクを入れたり、お腹が減った時牛乳を少し飲んだら空腹感がなくなる」とのこと。ご主人が日本人で日本での永住許可は得ているが日本国籍にするつもりはなくロシア人として暮らすとキッパリ言っていた。誇り高きロシア女性と言う感じがする。ダイエットは健康に悪いのでしないとのこと。でもスタイル良く美人だ。

    これから五年後、70歳になった時、私のロシア語は如何に?中国語は如何に?仕事は如何に?卓球は如何に?命は如何に?ハハハ。








    2015.平成27年9月3日(木)


    ■石光真清(四部作)

    明治元年生まれの真清の人生と、明治大正の激動の日本史が重なって何度読んでも興味深い。16歳で陸軍幼年学校に入校し軍人としての道を歩んでいたが結婚後の1899/明治32年31歳の時にブラゴベシチェンスクに語学留学した

    それを機にロシア・満洲での諜報活動に従事することになる。その後の人生は波乱と苦難に満ちている。1908/41歳から1915/大正4年の7年間は日本で郵便局長として家族一緒に暮らし、この時が真清の人生の中で一番穏やかで幸福な日々だった。

    しかし1914/大正3年・第1次世界大戦が勃発し、国際情勢は混沌とするなか支那大陸における最大の利権国であった英国が満洲でも存在感を高めていた。そんな状況下「関東都督府」は錦州に拠点を作るべく資本を出資し貿易公司設立を図ることになる。その設立責任者:専務取締役として真清が赴くことになった。

    当時錦州は未解放区で外国人の居住・営業は禁止されており真清が奔走の末、やっと開業にこぎつけたのは渡満後一年二ヵ月を経た大正5年10月。商売は順調で思っていた以上の利益も上がり東京の自宅へ多額の仕送りも出来た。真清は錦州の日本人会の会長に選ばれ日本人小学校も開校した。

    しかし1917/大正6年ロシアで二月革命が起こり真清は50歳にして、軍より懇請され再びロシアに渡り諜報活動を行うことになる。ロシアは日露戦争時の1905/明治38年「血の日曜日」で有名なサンクトペテルブルクでの革命事件があるが、この時は鎮静化されている。

    そして1917/大正6年の「二月革命」後に皇帝ニコライ2世は皇位を剥奪され家族共々7月には監禁された。その後も「十月革命」と続き翌1918/大正7年7月17日皇帝家族全員が処刑され血筋は途絶える。そういったロシア革命の最中ブラゴヴェシチェンスクでボルシェビキ(革命派)と対峙する。

    真清はシベリアの反革命派が日本軍と日本人を頼りとするなか反革命派が期待を寄せる日本軍との間に立ち奔走するが、方針の決まらぬ日本政府・日本軍は真清の思いとは程遠く日本軍からも疎まれ反革命派からも失望される。この手記を読んでいると日本政府・日本軍の優柔不断さに憤りを感じる。

    シベリアを巡って国家間の国益が絡み難しい国際情勢のなかの国の方針だが、現場で第一線に居る者の苦労はいつもこうなのだろう。あの時日本はこうしておけば良かったのに・・・と、思うことばかりだ。それはアムール州以東はロシア中心から遠く離れた極東であり当時ロシアの植民地とも言われている状況だった。

    共産主義革命派ボルシェビキがブラゴベシチェンスクに勢力を伸ばす前に、日本が反革命派を援助し後の満洲国のように緩衝国「極東共和国」をしっかりと成立させておけばその後の世界は大きく変わったはずだ。そうすれば極東までのソ連邦もなく満洲国は今も存在していた可能性も大いにある。

    この手記を読み当時のブラゴベシチェンスクのロシア人の日本への思いや革命への強い忌避を知れば、日本軍の1918/大正7年〜1922/大正11年の長期に渡ったシベリア出兵が如何に中途半端で無計画無戦略であったのかと感じる。

    シベリア出兵はチェコ軍団の救出名目で『連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)』が行ったもので日本独自で先駆けての出兵は無理だったのかもだが、反革命派への日本軍の後押しがもう少しあれば極東共和国(緩衝国家成立)の可能性は十分にあったと思う。

    石光真清が戦後に生まれ育っていれば、性格的には軍人タイプではなくリベラルとしての思想信条を有する人間ではないかと思う。そんな性格の人物でも当時の言動は、今現在で言えばことごとく「タカ派」「極右」「ネトウヨ」と言われるだろう。それくらい戦後日本は左傾化している。

  • 浦潮斯徳駅<br /><br />2015/9.13:撮影<br />/////////////////////////////////////<br /><br />2015.平成27年10月9日(水) <br /><br /><br />■明日の今頃はウラジオストク <br /><br />初めてのロシア:ウラジオストクへの旅。6月15日にロシア語は習い始めて三ヶ月×2回×1時間=計6時間の学習では挨拶しか言えず。まことにやる気のない生徒で“G先生”も呆れてると思う。でも今回のウラジオストクへの旅で少し変化が出るかも・・・。 <br /><br />三泊四日、ウラジオストク駅近くのプリモーリエホテルに三泊し移動はない。帰国後成田からレンタカーを借りて栃木県「日光東照宮」その翌日には群馬県「富岡製糸工場」へ行き15日に東京から新幹線で西明石に帰着。五泊六日の国外国内旅行となる。 <br /><br />リュックとポシェット合計で9キロ弱。でも移動なく担いで歩くことはないので気楽だ。先日このツアーは私を含めて四人になったとJICトラベルからメールがあり、その為に送迎ガイドも二人になったとのこと。きっとホテルが違うのだろう。 <br /><br />言葉の出来ないウラジオストクでの正味二日間のフリータイムをどう過ごすのか?そして今回は台風17号・18号が来たので、関空から成田の飛行機が心配だった。18号は今日9日東海地方に上陸し日本海に抜ける。そして17号の影響で関東方面は豪雨に見舞われているらしい。 <br /><br />そして明日もまだ雨は降り続くようなので成田空港へ行くピーチの飛行機が運行中止になれば万事休す。今の所欠航予定はないが、明日どうなるのだろう。『「台風18号 大雨で水位急上昇、多摩川が氾濫寸前に」(FNN) 9月9日(水)17時53分配信』という状況だ。 <br /><br />65歳年金受給者となって初の海外旅行。これからいつまで続けることが出来るのか?「神のみぞ知る」「なるようにしかならない」ハハハ。 <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />2015.平成27年10月10日(木) <br /><br /><br />■出発の朝 <br /><br />ウラジオストクの天気予報 <br /><br />9月10日(木):6時間に2回程度のにわか雨 最高18°最低 13° <br /><br />9月11日(金):にわか雨 最高19°最低 11° <br /><br />9月12日(土):所により晴れ 最高20°最低 8° <br /><br />9月13日(日):おおむね晴れ 最高20°最低 9° <br /><br />こっちの気温は(最高 26℃[+2] 最低 22℃[+1]) 最低気温とウラジオストクの最高気温は近い。8℃というのはどんなものなのか? <br /><br />幸い台風で欠航もなく8時頃に我が家を出て西明石から新快速、三ノ宮からリムジンバスに乗って関空へ向かう。さあ一体どんな旅になるのか?動かず三泊だから不安は少ない。乞うご期待! <br /><br /><br /> 今回の「ジェーアイシー旅行センター株式会社」「ウラジオストク 4日間 S7航空利用 成田発」の費用内訳 <br /><br />基本旅行代金     ¥98,800円<br /> 追加代金:1名様参加 ¥25,000円<br /> 早割りサービス   −¥4,000円<br />ビザ代実費      ¥4,000円<br />ビザ代行手数料    ¥54,00円<br />    空港諸税       ¥2,610円<br /> 燃油サーチャージ   ¥7,000円<br />オプショナルツアー  ¥13,500円<br /> 関空→成田飛行機代  ¥5,770円 <br /><br />合計¥158,080円 <br /><br /><br />///////////////////////////////////////<br /><br />浦潮斯徳事情<br />https://youtu.be/N-yeBABZAr8<br /><br /><br /><br /><br /><br />

    浦潮斯徳駅

    2015/9.13:撮影
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    2015.平成27年10月9日(水)


    ■明日の今頃はウラジオストク

    初めてのロシア:ウラジオストクへの旅。6月15日にロシア語は習い始めて三ヶ月×2回×1時間=計6時間の学習では挨拶しか言えず。まことにやる気のない生徒で“G先生”も呆れてると思う。でも今回のウラジオストクへの旅で少し変化が出るかも・・・。

    三泊四日、ウラジオストク駅近くのプリモーリエホテルに三泊し移動はない。帰国後成田からレンタカーを借りて栃木県「日光東照宮」その翌日には群馬県「富岡製糸工場」へ行き15日に東京から新幹線で西明石に帰着。五泊六日の国外国内旅行となる。

    リュックとポシェット合計で9キロ弱。でも移動なく担いで歩くことはないので気楽だ。先日このツアーは私を含めて四人になったとJICトラベルからメールがあり、その為に送迎ガイドも二人になったとのこと。きっとホテルが違うのだろう。

    言葉の出来ないウラジオストクでの正味二日間のフリータイムをどう過ごすのか?そして今回は台風17号・18号が来たので、関空から成田の飛行機が心配だった。18号は今日9日東海地方に上陸し日本海に抜ける。そして17号の影響で関東方面は豪雨に見舞われているらしい。

    そして明日もまだ雨は降り続くようなので成田空港へ行くピーチの飛行機が運行中止になれば万事休す。今の所欠航予定はないが、明日どうなるのだろう。『「台風18号 大雨で水位急上昇、多摩川が氾濫寸前に」(FNN) 9月9日(水)17時53分配信』という状況だ。

    65歳年金受給者となって初の海外旅行。これからいつまで続けることが出来るのか?「神のみぞ知る」「なるようにしかならない」ハハハ。








    2015.平成27年10月10日(木)


    ■出発の朝

    ウラジオストクの天気予報

    9月10日(木):6時間に2回程度のにわか雨 最高18°最低 13°

    9月11日(金):にわか雨 最高19°最低 11°

    9月12日(土):所により晴れ 最高20°最低 8°

    9月13日(日):おおむね晴れ 最高20°最低 9°

    こっちの気温は(最高 26℃[+2] 最低 22℃[+1]) 最低気温とウラジオストクの最高気温は近い。8℃というのはどんなものなのか?

    幸い台風で欠航もなく8時頃に我が家を出て西明石から新快速、三ノ宮からリムジンバスに乗って関空へ向かう。さあ一体どんな旅になるのか?動かず三泊だから不安は少ない。乞うご期待!


    今回の「ジェーアイシー旅行センター株式会社」「ウラジオストク 4日間 S7航空利用 成田発」の費用内訳

    基本旅行代金     ¥98,800円
    追加代金:1名様参加 ¥25,000円
    早割りサービス   −¥4,000円
    ビザ代実費      ¥4,000円
    ビザ代行手数料    ¥54,00円
        空港諸税       ¥2,610円
    燃油サーチャージ   ¥7,000円
    オプショナルツアー  ¥13,500円
    関空→成田飛行機代  ¥5,770円

    合計¥158,080円


    ///////////////////////////////////////

    浦潮斯徳事情
    https://youtu.be/N-yeBABZAr8





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