2015/10/30 - 2015/11/04
654位(同エリア1325件中)
倫清堂さん
平成28年1月、新たな挑戦をすることとなりました。
決意したのは今年(27年)の3月。
そのことを決めてから毎日、もろもろの準備を進めて参りました。
意図したわけではなかったのですが直前に当たる11月、これまで10年かけて続けてきた全国一之宮巡拝が、いよいよ満願を迎えることとなりました。
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金曜日。
午前中は勤務、午後は旅の支度を整えました。
本当は午後の時間を活動に使いたかったのですが、無理をして巡拝の旅の最後を傷つけてはならないと思い、あえて体力を温存することにしました。
自宅で仮眠を取ってから、真夜中の夜行バスに乗って品川駅へ。
品川駅から東海道本線で掛川へと向かいました。
東海道本線は新幹線ではないのにグリーン車があることを知り、車内で権利を購入して、ゆったりと電車の移動を楽しみました。
窓の外には富士山が見えました。 -
グリーン車は沼津駅まで行く車両にしか備えられていません。
沼津駅で乗り換えた後は、普通車両でトコトコと移動しました。
掛川駅に着いたのは午前10時前。
レンタカーを借りて、遠江国一之宮の事任八幡宮へと向かいました。
事任と書いて「ことのまま」と読みます。事任八幡宮 寺・神社・教会
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イチオシ
主祭神は己等乃麻知比売命(ことのまちひめ)。
言葉を司る神である興台産命(こことむすび)の后神です。
かつては「己等乃麻知神社」と称され、『枕草子』や『延喜式』にもその名前を見ることができます。
鎌倉時代に入り武家の間で八幡信仰が広がると、源頼義公によって石清水八幡宮から御神霊が勧請され、八幡宮を名乗るようになりました。
一の鳥居をくぐるまでもなく、楠の巨木の堂々たる姿が現れます。
その先に石垣が組まれ、高くなった所に社殿が建てられています。
御創建は第13代成務天皇の御代、もとの鎮座地は本宮山山頂でしたが、大同2年に坂上田村麻呂が東征に際して社殿を現在地に遷したと伝えられます。 -
遠江国には一之宮が2社存在しています。
事任八幡宮は掛川駅から北東に鎮座していますが、もう1社の小國神社は北西に鎮座しているため、両社を参拝するためにはかなり移動しなければなりません。
1時間ほど移動して、ようやく到着してみると、駐車場は車であふれています。
七五三の時期に当たっており、多くの参拝客が押し寄せているのでした。
神社で心静かに参拝することを好む自分にとって、これは苦手な雰囲気です。
しかしどうやら群衆の多くは観光客ではなく、参拝し慣れている地元の人々のようです。
駐車場にも大型バスの姿は1台も見えません。
観光客である自分の方が、かえって参拝客の迷惑にならないよう、心して参拝することにしました。小國神社 寺・神社・教会
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摂社の宗像社へ渡るための橋は、森山焼の陶片をちりばめて造られています。
日本的な美とは違うかもしれませんが、地元に伝わる伝統工芸と今どき風の感性とを組み合わせて新たなものを産み出すことは意義深いと考えます。 -
小國神社の御祭神は大己貴命。
大国主神の別名で、「小國」は「大国」が変化したとも、神を祀る清浄な地を表す言葉であるとも言われています。
別名として「事任神社」「許当麻知(ことまち)神社」とも称されてきたとされ、また本宮山山頂に奥宮が鎮座しています。
御祭神は異なりますが、社号や本宮山との関係は事任八幡宮とよく似ていると言えます。 -
小國神社は紅葉の名所としても知られています。
東北では紅葉真っ盛りとなっているため、少し期待してやって来たのですが、こちらはまだ始まったばかりのようです。 -
掛川の市街地に戻り、掛川城を目指しました。
近くに駐車場があったはずなので、周囲を探りながら走っていたところ、交通案内の方に道をふさがれてしまいました。
事情を聞くと、掛川市政10周年を記念するイベントが行われているため、城の見学者のための駐車場は利用できないとのこと。
仕方がないので、近くの飲食店の広い駐車場をお借りすることにしました。
掛川城では忍者が迎えてくれました。掛川城天守閣 名所・史跡
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イチオシ
掛川城が初めに築かれたのは、現在の位置から東におよそ500メートルの場所でした。
今川氏の重臣、朝比奈泰凞が15世紀末頃に築いたとされます。
現在の場所に移ったのは16世紀初頭のこと。
桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、嫡子氏真が居城としましたが、徳川家康公の攻略によって開場させられました。
天守閣が築かれたのは、豊臣秀吉公の全国統一が実現し、山内一豊公が入城してからのことです。
東海の名城とうたわれた美しい外観を持つ天守閣は、安政の大地震によって損壊し、そのまま再建されることなく明治維新を迎え、廃城となります。
住民の強い願いによって天守閣が再建されたのは、平成6年になってからのこと。
学術的な調査に基づき、かつての姿にできるだけ近い姿の木造建築物としてよみがえったのでした。 -
掛川城御殿は幸いなことに、安政の大地震によって大きな被害を受けたものの、当時の城主によって再建されて現在に至ります。
内部は見学が可能です。
この日は結婚式が行われていました。
多くの見学者からも祝福され、新婚さんは一層幸せそうでした。 -
記念祭のために城下の広場はにぎわっていました。
あとで聞いたニュースでは、参加者の一人が山車から転落して重傷を負ったとのことでした。
テンションが上がりすぎてブレーキが効かなかったのでしょうか。
レンタカーを返し、東海道線で浜松駅へ向かいました。 -
浜松ではまずレンタカーを借り、ホテルに車と荷物を預け、徒歩で浜松城を目指しました。
浜松城公園には、若き日の徳川家康公の銅像が置かれていました。
手には兜印の「羊歯印」を持っています。
かつてこの地域は曳馬と呼ばれ、曳馬城が建てられていましたが、曳馬という言葉が「馬を引く」すなわち戦に敗れることを連想させることから、家康公によって浜松と改称されました。
家康公が本拠地としていたのは、武田氏との抗争の真っ最中でした。
家康公の生涯において最大の敗戦であるとされる三方ヶ原の戦いの際も、武田軍の挑発にあえて乗って、この城から出撃したのでした。浜松城 名所・史跡
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建物は復元ですが、石垣は当時のまま残されています。
なお、かつて曳馬城があった場所には、現在は東照宮が鎮座しています。 -
浜松城の天守閣は2代目城主堀尾吉晴公によって築かれたと考えられますが、江戸時代中期以降には存在していなかったようです。
昭和33年、鉄筋コンクリート造の復興天守が完成しましたが、江戸時代初期の天守閣より一回り小さいサイズで建てられました。
内部は資料館なっており、見学可能です。 -
復興天守の最上階から、三方ヶ原を眺めてみました。
元亀3年、甲斐の猛将武田信玄は、15代将軍足利義昭公が出した信長討伐令に応える形で軍を西へと進めました。
武田軍は3つに分かれて遠江・三河・美濃の3ヶ国を同時に攻め、信玄が率いる本隊は、家康公の勢力下にある二俣城を落とすことに成功しました。
家康公は、居城の浜松城が武田軍の次のターゲットになると考えましたが、武田軍は浜松城を素通りして西へ向かう動きを見せたため、家康公は一矢報いようと、三方ヶ原へ打って出たのでした。
しかし軍略も兵力も数段上であった武田軍によって、追撃に出た徳川軍は優秀な武将を多く失うなど壊滅に近い被害を受け、家康公自身も命からがら浜松城へ逃げ帰ったのでした。
しかし、もし家康公が目の前を過ぎ去る武田軍をそのまま黙って見送っていたら、おそらく多くの家臣から信望を失い、後に天下を取ることはできなかったのではないでしょうか。
三方ヶ原の戦いは家康公にとって、負けて勝った戦いであると言えます。 -
浜松城公園からの帰り道、敗戦した家康公が鎧をかけて休んだと言い伝えが残る鎧掛松を発見。
現在の松は昭和56年に植えられた3代目に当たります。 -
また、遠州鉄道の遠州病院駅近くにある徳川秀忠公の産湯の井戸跡を訪れました。
その後、夕食に浜松おでんを食べました。
少し酒を飲んだだけでしたが、疲れのせいかホテルに帰るとすぐに寝てしまいました。徳川秀忠誕生井戸 名所・史跡
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前日の夕方にレンタカーを借りておいたので、日曜日は早朝から行動を開始。
目指すは秋葉山本宮秋葉神社。
こちらも有名な神社なので、参拝客が多く訪れる時刻になる前に到着したいという思いがあります。
秋葉神社は下社と上社の2社構成。
まずは標高の低い所に鎮座する下社へ向かいます。
浜松の市街地から車を走らせること約1時間。
駐車場にはまだ他の参拝客の車はありません。秋葉神社下社 寺・神社・教会
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イチオシ
鳥居をくぐり石段を上って行くと、社殿の前で神職の方たちが儀式を行っているところでした。
この日はちょうど月のはじめ、一日に当たっています。
日本全国の神社では、毎年一日に月初めの儀式を行うところがほとんどです。
玉砂利を踏んで歩くと、静謐な神域にその音が響きます。
祝詞奏上が終わり、神職の方たちが社殿の中へ入るまで、足音を立てぬようその場で儀式を見守りました。 -
秋葉神社下社の歴史は案外短く、大戦中の昭和18年に山頂上社から遷座したのが始まりです。
それまで山頂の上社のみでしたが、山火事が発生し社殿のほとんどを消失してしまい、戦中の物資不足のために再建が困難であったため、一時しのぎとして山麓に下社を創建して御霊を遷したのでした。
その後、上社が再建されたのは昭和61年のこと。
下社も廃されることなく現在に至っているわけです。 -
下社の参拝を終え、上社へ向かいます。
下社と上社を往来するためには、古くから修験者たちが歩いた表参道を通ればよいのですが、片道2時間の表参道を歩く時間は今回はありません。
ところどころにすれ違うスペースが設けられているだけの細い道を通り、上社へと向かいました。
天候も良く、気田川の水面もきらきら輝いています。 -
下社からさらに1時間ほど車で走り、ようやく上社へ到着。
駐車場は広いですが、参拝客の車は数台が停めてあるだけ。
まだ多くの人が現れる時刻には達していません。秋葉山本宮秋葉神社 寺・神社・教会
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修験者が歩いた自然のままの参道を想像していましたが、実際は観光地として整備されています。
大規模な山火事から復興までしばらく時間がかかったため、新たに生まれ変わるほどの意識をもって再建事業が進められたのでしょう。
参道の脇には、全国の崇敬者によって植樹された約2000本の紅葉が、わずかに色づき始めていました。 -
参道の途中にある西の閽(かどもり)の神門は、御鎮座1300年を記念して平成17年に建てられました。
門の四隅には、四方を守る玄武・青龍・朱雀・白虎の彫刻が取り付けられています。
下社から続く表参道には、山火事の被害を唯一まぬがれた神門がありますが、今回はそちらを見に行く余裕はありませんでした。
いつか表参道も歩いてみたいです。 -
駐車場から参道を歩き、10分ほどで金の鳥居が見えて来ました。
やはり境内は洗練されています。
想像するに山火事で焼ける前は、神仏習合の名残をとどめる混沌とした祈りの場だったのではないでしょうか。
ここまで整備されていると、人工的な宗教施設という印象すらあります。
金の鳥居は「幸福の鳥居」と呼ばれ、秋葉神社のシンボル的な存在になっていますが、正直に言ってセンスが悪すぎるように思います。 -
秋葉神社の御祭神は火之迦具土大神。
火の神様です。
日本の国土を産んだ伊邪那美命は、その後も様々な神を産みますが、火の神を産んだ際に大やけどを負ってしまい、そのまま帰らぬ人となりました。
妻の死を嘆き悲しんだ伊邪那岐命は、持っている剣で火の神を斬り殺すと、そこからさらに多くの神々が生まれたと神話は伝えています。
秋葉山は古くから神仏習合の聖地で、火防の霊験があるとされる秋葉権現が信仰されてきましたが、明治の神仏分離によって火之迦具土大神を祀るよう改められ、現在に至っています。 -
イチオシ
本殿前からの眺めは「東海一の絶景」と讃えられていますが、この日はガスがかかっていて遠くまで見渡すことはできませんでした。
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市街へと帰る途中、井伊谷宮を参拝しました。
建武中興十五社のひとつで、後醍醐天皇第4皇子宗良親王をお祀りしています。
後醍醐天皇の命により天台座主を務めましたが、京都を奪われて吉野朝が立てられると、後の後村上天皇である義良親王や北畠親房卿などとともに奥州を目指して伊勢から船出します。
しかし暴風雨に遭って船は座礁し、一行は離れ離れになってしまいました。
宗良親王は遠江国に漂着し、この地を治める井伊道政にかくまわれたのでした。
井伊家は後に徳川四天王の一人に数えられる井伊直政公の祖先に当たります。井伊谷宮 寺・神社・教会
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建武中興のために身を削った人物を祀る他の神社同様、井伊谷宮も明治時代に創建されました。
宗良親王は二条家出身の母の影響もあり、和歌を非常に深く愛好されていました。
準勅撰『新葉和歌集』の編纂に携わり、自らの歌集である『李花集』も編まれています。
境内には、親王がお詠みになった代表的な和歌が掲示されています。
なげかじな忍ぶばかりの思ひ出は
身の昔にも有りしものなり
偽りの言の葉にのみききなれて
人のまことぞなき世なりける
皇室もろとも日本が真二つに割れた苦難の時代が、宗良親王の心の眼にどう映ったか、詠まれた和歌から想像できるというものです。 -
井伊道政が拠点として井伊谷城は、高師泰らの攻撃によって落城し、宗良親王は北陸から信州へと居所を転々としたと伝えられます。
我が齢共にかたぶく月なれば
身をかくすべき山のはもなし
その薨去についても明らかではなく、井伊谷宮の境内には宮内庁が管理する宗良親王墓がありますが、長野県などにもあるとのことです。 -
井伊谷宮に隣接しているのは、井伊家の菩提寺である龍潭寺。
行基による開山と伝えられる古刹で、境内には井伊氏歴代墓所もあります。
墓所に眠る一人に、井伊直虎も含まれます。
日本では珍しい女性当主で、血縁的には直政公とはとこの関係です。龍潭寺 寺・神社・教会
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井伊谷宮の参拝を終え、浜松市街に帰ってきました。
浜松には、日本では他に類を見ない博物館があります。
それは楽器の博物館です。
ピアノをはじめとする日本最大の楽器メーカーはヤマハですが、そのヤマハが本社を置くのが浜松です。
そのようなご縁もあるためか、浜松市楽器博物館は日本唯一の楽器博物館で、世界各国から収集した様々な楽器が展示されています。浜松市楽器博物館 美術館・博物館
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東洋の楽器は見た目を重視する傾向があるようです。
まるで装飾を施した乗り物のような物体は、様々な楽器を組み合わせて成立しています。 -
出雲で研究した際に出会った八雲琴も展示されていました。
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その研究において私が導いた結論は、八雲琴の源流は東南アジアや南アメリカで用いられるスリットドラムであるということ。
スリットドラムは楽器を分類する上での呼び名で、国によって名称が異なります。
八雲琴とスリットドラムという、姿形が大きく異なる2種類の楽器がなぜ結び付くのか、興味を持たれた方は拙著をお読みください。
なお市販される時期は未定です。 -
腹が減ってきたので昼食を取るために某チェーン店へ。
スマートフォンで調べて見つけた店ですが、偶然にも浜松で最後に参拝を予定していた蒲神明宮から目と鼻の先でした。
食事を終えていざ参拝へ。
御創建は大同元年か、それ以前と考えられています。
伊勢神宮から内宮・外宮・伊雑宮・高宮・土宮の5社を勧請したため、「ごしんさま」と呼ばれています。蒲神明宮 寺・神社・教会
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源頼朝公や義経公の弟である源範頼公は、この地で生まれ育ったために「蒲の冠者」と呼ばれていました。
壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした頼朝公は、自分の許しを得ずに朝廷から官位を賜った義経公を討伐することを決めました。
義経公は奥州藤原氏を頼って平泉に身を寄せますが、頼朝公は範頼公に兵をつけて奥州を攻めさせ、義経公ともども藤原氏を滅ぼしたのでした。
しかしその後、曾我兄弟の敵討ちをきっかけに謀反の疑いをかけられ、流刑先の伊豆において謀殺されたのでした。
蒲神明宮の参拝を終え、レンタカーを返して新幹線で名古屋に入りました。 -
月曜日は朝から本格的な雨。
名古屋では予定を縮小することにしました。
名古屋市の北に位置する一宮市に入り、大神社を参拝。
神武天皇の弟である神八井耳命の子孫、多氏によって創建されたと伝えられます。
御祭神は神八井耳命。
神武天皇のあとを継ぐことを強く望んだ手研耳命は、弟の神八井耳命と神渟名川耳尊の暗殺を企てました。
それを知った2人は、先手を打って手研耳命を殺すことにしましたが、いざその時になって神八井耳命は手足が震えて矢を射ることができず、神渟名川耳尊が手を下したのでした。
そのため神八井耳命は神渟名川耳尊に皇位継承を譲り、神渟名川耳尊は第2代天皇に即位したのでした。大神社 寺・神社・教会
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次に、同じく一宮市に鎮座する大神神社を参拝。
大和国に鎮座する大神神社は一之宮ですが、一宮市の大神神社も尾張国一之宮を名乗っています。
ただし尾張国では他に真清田神社が一之宮を名乗っており、大神神社の主張は、真清田神社と対の宮であるとされています。大神神社 (一宮市) 寺・神社・教会
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御祭神は大物主神。
大和の大神神社と同じ神様を祀っています。
御創建の経緯は伝わっていませんが、大物主神を奉斎する三輪氏の一部が大和国から移り住んだ際に創建されたという説があります。
しかしそれとは別に、大美和都禰命を御祭神とする説もあり、火明命を同じ祖先とする尾張氏によって創建されたとも考えられます。
参拝を終えて名古屋駅に向かいました。
駅から近鉄線に乗って津へ向かい、レンタカーを借りました。 -
津駅から車で向かった先は、建武中公十五社のひとつ、北畠神社。
15社のうち、最も参拝が難しい神社と言えるでしょう。
公共の交通機関はなく、奈良県との県境にも近い場所に鎮座しています。
日が暮れるのも早い季節になっているため、途中で寄り道しては、神社に到着する頃には真っ暗になってしまいます。
ひたすら目的地に向けて走り続け、1時間以上走ってようやく到着しました。北畠神社 寺・神社・教会
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北畠神社の主祭神は北畠顕能公。
『神皇正統記』を書いた北畠親房公の三男です。
親房公には、顕家公・顕信公・顕能公の3人の息子がおりました。
このうち顕家公は、義良親王を奉じて奥州を平定し、後に高師直と戦って戦死。
顕信公は顕家公亡き後、霊山城を拠点に南朝勢力の糾合に努め、落城後は出羽国に移って活動を続けました。
北畠神社の主祭神である顕能公は、建武2年に伊勢国司に任命され、後醍醐天皇が吉野へ遷られてからも、楠正行公と連携するなどして北朝軍と戦いを続けました。
北畠神社が鎮座するこの地は、大和と伊勢とを結ぶ要衝にあたり、伊勢国司居館が置かれた場所です。
また神社の裏手には、顕能公によって築城された霧山城跡があります。
顕能公の最期については不明な点が多いですが、南朝を再興する理想を追い続けて戦いに明け暮れた人生であったことは間違いありません。 -
イチオシ
国司居館の遺跡は、北畠氏館跡庭園として公開されています。
入場料を納めて見学させていただきました。
庭園を造ったのは、関東管領で北畠晴具の舅、細川高国と伝えられています。
室町時代は権力者による肉親同士の戦いが繰り広げられ、細川家も例外ではありませんでした。
高国は甥の晴元と争い、享禄3年、援軍を求めるため婿の北畠晴具のもとを訪れた際、この庭園を築いたとされます。
紅葉はまだ始まったばかりですが、複雑な汀線を持つ「米字池」を中央に抱き、優美でしかも無骨な景観となっています。
本居宣長公は、北畠氏に仕えた祖先を偲び、この地を訪れて和歌を詠みました。
下草の末葉もぬれて春雨に
かれにし君のめぐみをぞ思ふ北畠氏館跡庭園 公園・植物園
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松阪に宿泊し、文化の日を迎えました。
これから伊勢へ向かい、仙台から来る両親と合流することになっています。
特に連絡が来ないので、予定通りに出発したのでしょう。
最後に残った一之宮、伊射波神社を参拝することが、自分にとってはこの日最大の目的です。
伊射波神社参拝を目指すのは、今回が3回目。
初回は初めての参宮で事情が分からず、しかも母を連れていたため残して行くこともできず断念。
2回目は熊野詣での帰りに伊勢に立ち寄った際、時間と体力が思ったほど残っていなかったためにやむなく諦めました。
そして迎えたこの日、天気は恵まれすぎと言ってもよいほどの快晴。
待ち合わせの時刻から逆算し、伊射波神社の参拝は正午頃に終わらせるのがよいと判断し、午前中は伊勢神宮の摂社末社のいくつかを参拝することにしました。
スマートフォンで調べると、松阪から伊勢の間にも摂社末社が何社か鎮座しています。
まずは最も松阪に近い神服織機殿(かんはとりはたどの)神社へ。
鳥居の脇に地元の老女が、朝日の方をじっと見つめながら座っていました。
参拝を終えて話しかけてみると、神事などについて様々なことを教えてくれました。
伊勢神宮の神様に納める衣服をの材料となる布を織るのが、ここ神服織機殿神社(下機殿・しもはたどの)と神麻続機殿(かんおみはたどの)神社(上機殿・かみはたどの)の役割です。
上機殿では絹の織物を織り、下機殿では麻の織物を織るのだそうです。 -
上機殿の鎮座地も近いので、続けて参拝しました。
老女の話では、毎年10月1日から機織りの作業を開始し、13日には神宮へ納めなければならないとのことでした。
機織りの音が境内に響けば、古代へ時間が戻ったような錯覚にとらわれることでしょう。 -
伊勢市に入りました。
125社の一つ、湯田神社(ゆたじんじゃ)を参拝。
湯田とは斎田のことで、神様の田を表すと考えられます。
御祭神は農耕の神である大歳御祖命と御前神です。 -
外宮は目と鼻の先となりましたが、3社の摂社・末社を参拝。
上社(かみのやしろ)という産土の神の境内に、志等美神社(しとみじんじゃ)・大河内神社(おおこうちじんじゃ)・打懸神社(うちかけじんじゃ)が鎮座しています。
「しとみ」とは水に浸るという意味で、これら3社は宮川の洪水から地域を守る堤防の神として崇敬されてきました。
戦国期には荒廃し、江戸時代には社地が分からなくなってしまいましたが、明治時代になって研究が進み、現在の鎮座地で復興されたのでした。 -
外宮・内宮にはまだ参拝せず、神宮美術館を見学しました。
ちょうど開館の時間に合わせて到着するよう考えて行動しました。
これまで何度も神宮を参拝していますが、神宮美術館を見学するのは今回が初めてです。
神宮美術館は、時代時代を代表する芸術家が神宮へ奉納した作品を収蔵・展示する美術館です。
神話を扱う絵画ばかりが展示されているものと想像していましたが、実際は一般の美術館と変わらず、芸術家のインスピレーションのままに生まれた様々な素材を扱う美術品が収められています。
特別参宮章を提示したため、無料で観覧することができました。式年遷宮記念神宮美術館 美術館・博物館
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神宮徴古館も無料で観覧させていただきました。
第62回神宮式年遷宮撤下御装束神宝が初公開されており、かなり見ごたえがありました。
特に御太刀は9振もが展示され、精巧な装飾が施された姿は幻想的でありました。
また式年遷宮を記録した絵画32点は、一般には公開されていない神事を含め臨場感あふれる筆致で描かれていました。神宮徴古館 美術館・博物館
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さて、いよいよ最後の一之宮、伊射波神社に向かいます。
鎮座する安楽島町までは伊勢から車で20分ほど。
初めて来た時と同じように安楽島舞台の駐車場に車を停めました。
伊射波神社までは、ここから歩いて20分ほど。
道中には至る所に案内標識が置かれているので、道に迷うことはありません。
11月とは思えない強い日差しが照り付けます。 -
一の鳥居は海に向かって建てられています。
これまで長い参道を歩いて来ましたが、本当の参道は海にあることを物語っています。
一の鳥居からさらに石段を上ります。 -
そしてついに志摩国一之宮、伊射波神社に到着。
志摩国一之宮を名乗る神社はもう一社あります。
伊雑宮。
伊勢神社の別宮の一つです。
伊射波神社は125社の一つに数えられていませんが、御祭神は伊雑宮と同じ伊佐波登美尊なので、何らかの関係があることは間違いありません。
『延喜式』に記載される伊射波神社は大二座とあり、そのうちの一座は伊佐波登美尊を祀った本宮で、安楽島町字二地の贄に鎮座していたことが、昭和の発掘調査で明らかになっています。
もう一座こそが現在の伊射波神社で、古くから稚日女尊が祀られておりましたが、本宮が衰退したためここに遷座されたのでした。伊射波神社 寺・神社・教会
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参拝の記念に御朱印をいただくため、宮司さんへ電話をかけると、不在にしているとのこと。
少し待てば戻って来られるそうなので、近くの神社を参拝して時間をつぶすことにしました。
加茂川の河口付近、安楽島大橋の西側に鎮座する赤崎神社も125社の一つ。
外宮に奉納する海の幸を採るための守り神として崇敬されています。 -
無事に御朱印をいただくことができたので、仙台から来る両親との待ち合わせ場所に指定した二見浦駅へ向かいました。
遅れては申し訳ないと思い早めの行動をとったため、1時間も早く着いてしまいました。
そこで、駅へ車を停めて徒歩で周囲を散策することにしました。
二見浦で自由な時間を得た以上、125社の一つである御塩殿神社(みしおどのじんじゃ)へ行かずには帰れません。
駅から徒歩15分ほどで到着。御塩殿神社 寺・神社・教会
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御塩殿神社は、御塩浜で採れた海水から塩を精製し、神宮へ奉納しています。
神宮に塩を届けるための経路は決まっており、御塩道と呼ばれています。
かつては人力で運ばれていましたが、現在は自動車によって運ばれています。
製塩を行っているのは地域の氏子の方たちで、このような方たちによって日本の祭りが支えられていることは、教育の現場で教えなければなりません。
これから日本では人口減少が進みますが、日本人が一丸となってこれら尊い伝統文化を守って行くべきだと思います。 -
二見浦駅に近い堅田神社(かただじんじゃ)に参拝。
こちらも125社の一つ。
倭姫命が御神境の鎮まる土地を探してこの地を訪れた際、土地の守り神である佐見都日女命が塩を奉ったところ、倭姫命は大いに喜び、神社を建てて佐見都日女命をお祀りしました。
それが堅田神社の始まりであると伝えられています。
御塩殿神社から神宮へ塩の奉納が行われるようになったのは、堅田神社がそのきっかけを作ったと言えるのかも知れません。 -
二見浦駅に戻り電車を待つと、ほぼ定刻で電車が到着。
トラブルもなく予定通り両親が到着しました。
母は数年前、還暦祝いとして案内したことがありましたが、父にとっては初めての伊勢参り。
名所としても名の知れた夫婦岩などを見てもらいました。二見興玉神社 寺・神社・教会
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ホテルでチェックインし、それぞれ部屋で余所行きの服装に着替えました。
そして外宮へ向かい、特別参拝を申し出ました。
参宮章を提示すれば、御垣内へと進ませていただき、御正殿により近い位置から参拝させていただけるのです。
先の式年遷宮に際して心ばかりの寄進をさせていただいたところ、3級有功会員の参宮章を賜りました。
それを向かって左側に駐在する神官に提示したところ、特別参拝は参宮章の持ち主と配偶者のみで、子どもは例外的に認められるが両親までは認められないと言われてしまいました。
事前の確認をしなかった自分が悪いのですが、神官も気の毒に思ったのか、今回だけは例外中の例外として許されました。
祓言葉と塩によって心身を清め、神官のしずしずとした足取りを追うように御垣内へと参進。
玉砂利を一歩踏むごとに、静寂の空間に石が当たって発せられる音が響きます。
自分が代表として中重御鳥居の前に立ち、参拝。
神官に導かれて御垣内をあとにしました。伊勢神宮外宮(豊受大神宮) 寺・神社・教会
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多賀宮、土宮、風宮の順に参拝。
時間があればせんぐう館を見学させたかったのですが、たどり着いた頃には受付は終了していました。
参道の路地で伊勢うどんを食べ、ホテルに戻りました。
夕食はホテルのレストランで3人でとり、その後は一人で夜の街にフラフラと。
居酒屋を見つけたので迷うことなく中へ入り、お店の方やお客さんと楽しく会話しました。 -
あくる朝。
居酒屋で食べた酢の物が体に合わなかったのか、胃がムカムカしています。
せっかくレストランのバイキングを予約していたのですが、ごくわずかしか食べることができませんでした。
出発時刻になってもムカムカはおさまらず、水を飲んで少しでも緩和しようと努めます。
内宮の有料駐車場に車を停め、宇治橋を渡って御神域へ。
五十鈴川の清流で手と口を清めると、少し気分が良くなりました。
参宮章1枚では特別参拝ができないと分かったため、両親には授与所で寄進してもらい、参宮章を発行してもらいました。
これで気兼ねなく特別参拝できるわけです。伊勢神宮内宮(皇大神宮) 寺・神社・教会
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外宮の場合と同じように神官に特別参拝を申し出、祓言葉と塩でお清め。
しずしずと玉砂利の上を歩いて中重御鳥居前まで進み、参拝。
父にとっては初めての参宮で特別参拝までできたので、心から喜ぶべきことなのですが、果たしてこのことの価値を十分に感じているのかどうか・・・
レンタカーの返し方などを説明し、両親と別れて行動。
荒祭宮、風日祈宮と参拝し、内宮をあとにしました。 -
イチオシ
近鉄線、名鉄線を乗り継いで中部国際空港へ。
全日空便で仙台空港まで飛びました。
空からは、まだ雪をかぶっていない富士山を見ることができました。
これから寒くなり、富士山が雪化粧をする頃には、自分も人生を賭けた挑戦へまっしぐらに進んでいるはずです。
その前に、全国の一之宮、護国神社、建武中興十五社をすべて参拝できたのは幸せでした。
この経験から得たことは、必ず社会のために還元したいと思います。
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