2017/03/24 - 2017/03/24
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アルプ・グリュムさん
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浜松宿は東海道29番目の宿場で本陣6軒、旅籠94軒を誇り東海道では最大規模の宿場でした。
しかし、この浜松宿も市内に軍事工場等があったため戦時中には幾度となく空襲、艦砲射撃を受け壊滅的な打撃を受け全てが消失してしまいました。
浜松宿のクチコミに悲観的なことしか書かれていませんが、碑が設置されてあるだけでも充分ではないでしょうか?
旧東海道の浜松宿の史跡、旧跡を訪ねる旅として、かつての浜松宿がここに存在していたことが分かり大変満足した散策でした。
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浜松は井伊直虎で活気付いています。
私は宿内だけを散策していますので宿場の入り口である東木戸から西の番所まで歩きます。 -
旧東海道は東木戸の直前で旧掛塚街道と旧笠井街道と合流します。
手前が旧笠井街道で奥の通りが旧掛塚街道です。 -
東木戸付近には旧掛塚街道入り口
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旧掛塚街道入り口
掛塚街道は東海道に対して南街道の道路として重要な道であった。
また、明治中頃までは天竜川の上流から運ばれてくる材木、鉱石、木炭などを浜松市内まで運ぶ道として栄えた。 -
旧笠井街道入り口
県道45号天竜浜松線」は通称「笠井街道」と呼ばれ江戸時代は繊維製品と流通経路であった。 -
旧笠井街道入り口から伸びる笠井街道です。
道路幅は昔と変わってないと思います。 -
旧掛塚街道入口
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町名が木戸町とされているので大変わかりやすい。
浜松には伝馬町、旅篭町等と宿場であったことを示す町名があります。 -
木戸町が町名として残されてあるのは有難い。
誰もが浜松宿の入り口と理解できます。 -
外木戸跡(馬込橋東)
碑だけでその説明板が見当たりません。
ここからが浜松宿の宿内となります。 -
馬込橋
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面影は全くありませんが東海道です。
東海道=国道一号線ではありません、国道一号線は海沿いにあります。 -
見の返りの松と鳥居松の跡
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見返り松とは浜松宿の東出口であるこの地に植わっていた大きな松で、家康が駿府へ移るとき、馬込橋の上で「浜松もこれまでか」と名残を惜しんで見返したところから名付けられたと言われています。
また、同じ場所に鳥居松という枝ぶりの良い松が道をまたぐように植わっていました。この松は東海道膝栗毛にも「それよりかやんば(萱場)、薬師新田をうちすぎ鳥居松近くになりたる頃、浜松のやど引き 出引ひて」と紹介されています。残念ながら、どちらの松も大正時代に枯れたり消失してしまったようです。 -
見の返りの松と鳥居松の跡
松の木を見ると旧東海道を思い浮かべるのは私だけでしょうか?
江戸時代は宿場と宿場の間は松の木が植えられていたのです。 -
車線も4車線と拡張され近代的な東海道です。
心地よく歩けるのは電線が地下に埋設されてあるせいだと思います。
よって空はよく見えます。 -
夢告地蔵
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夢告地蔵
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新町の旧東海道、国道沿いに子授け地蔵という地蔵尊がありまる。これ
は江戸末期全国的にコレラが流行し、浜松でも死者が出ました。それで
「これは大変、お地蔵さまを作って、お祀りをしよう」と、落命した人た
ちの供養と、今後の安全を祈るために、お地蔵さまを建立し、お祭りをし
ました。ところが明治の初年、維新の大改革と言うので、時の浜松県の県
令林厚徳は、「神仏は分離せよ。邪教淫祠はすべて廃棄せよ。石仏などそ
の一つだ。」と言って、石地蔵の廃棄を命じてきました。
「あ、あのお地蔵さまを捨てるのですか。」
「とんだことになりましなあ。」
町の人たちは嘆き悲しんだが、どうにもなりませんでした。涙をふるって
、こうした石仏などを、穴を掘って埋めてしまいました。やがて50年の歳
月が流れた。
ある夜のこと、新町の町民の一人、小柳丈之助と言う人の夢に、「わし
は五十年前に、埋められた地蔵菩薩である。明るい世の中に出たいもので
ある。」と地蔵菩薩が出て言いました。丈之助はびっくりし「お地蔵さま
が、埋められていては・・・・」町内の人々に話すと、そりゃそうだ。
地の中ではかわいそうだ。」と素朴な町の人々は集まって、境内をあそこ
、ここと掘り出しました。三日も掘っていると、やがて石仏と共に、この
地蔵尊が発掘されました。「出た、出た。」町の人は喜んで、小堂を建て
て安置し、僧侶を頼んで供養祭を行いました。すると、この町は急に発展
し出し、小柳丈之助の家では、四十歳を過ぎた妻の加江が、急に懐妊して
、無事に初産で男の子を産もましだ。
「夢告げ地蔵さまのお陰だ。」誰もかれも大喜びだった。その後、この事
から子授け地蔵とも言われ、今も参詣者が多いです。
堂内には、等身大の見事な地蔵尊が、右手に錫杖、左手に宝珠を持って
立っています -
私の本来の宿場の散策とは道が逸れますがちょっと寄り道します。
遠州病院近くには徳川秀忠公誕生の井戸があります。 -
徳川秀忠公誕生の井戸
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江戸幕府2代将軍、徳川秀忠公誕生の井戸
家康公の側室である西郷局が二代将軍秀忠を生んだとき、産湯にこの辺りにあった井戸水が使われたという伝承をもとに作られた井戸。 -
徳川秀忠公誕生の井戸
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連雀交差点には浜松城大手門跡
と言うことはここからが浜松城の場内となりますが現在では市役所等多くの建造物があります。 -
浜松城大手門跡
この付近の道路中央部に、浜松城の正門つまり大手門がありました。
南面する間口8間(約14,6m)奥行4間(約7,3m)の瓦葺の建
物で常に武器を備え、出入りが厳しく取り締まられていました。 -
浜松城大手門跡
これぞ旧跡の碑です。 -
姫街道の出発点です。
こちらも旧東海道と共に多くの大名、武士、一般の旅人が利用した由緒ある道です。
確か、見附宿にも姫街道がありました -
連華寺には芭蕉の句碑があります。
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芭蕉の句碑
八九間 そらで雨降る 柳かな はせを
浜松市内には芭蕉の句碑がいくつかありますがいずれ訪れたいと思っています。 -
次は五社神社、諏訪神社へ
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五社神社、諏訪神社の両社が合祀されましたが名は五社神社、諏訪神社のまま残りました。
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拝殿
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正に家康カラー一色です。
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高札場の碑がある谷島屋書店
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高札場
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高札場跡
藤村の「谷島屋書店」由来
昭和13年(1938)連尺町本店が古風な土蔵造りから洋風の近代店舗に生まれかわり、文豪、島崎藤村の手になる大文字が大理石に刻まれて店頭高く掲げられました。 この文字について藤村は「筆を執るまでに永い時間を費やしたが、ある朝大木のたたずまいを見て心がきまり、短い時間で書き上げた」と語れました。 それから7年後、戦火によって砕かれましたが、昭和47年(1972)藤村生誕100年と谷島屋創業100年を記念して、遺された写真により縮尺復刻したものです。 島崎藤村の「簡素」な風格をよく伝えています。 -
高札場
この付近の車道中程に、柵で囲い柱を立てて高札を掲げた高札場がありました。城下・宿場の人々に罪状などを周知させるために書かれた木札を「高札」とか「制札」といいます。 -
杉本本陣跡
大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。 ここは、浜松の本陣6ヶ所の内でもっとも古い杉浦家の本陣跡です。 建坪がおよそ272坪(約900㎡)ありました。 -
杉本本陣跡
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杉本本陣跡
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川口本陣跡
大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。 ここは、浜松の本陣6ヶ所の内もっとも新しくできた川口家の本陣跡で、建坪は163坪(約540㎡)あったといいます。 -
川口本陣跡
案内板はありましたは置いてあるだけで固定されていません、碑がどこにあるのか見つかりませんでした。 -
伝馬町下道梅をクロスして行くと屋本陣跡があります。
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川口本陣は写真の浜松てんまビルの場所にありました。
写真を撮ったこの場所には梅屋本陣があったのです。
浜松市内の道路は4車線に拡張され江戸時代の街並みは想像するしかありません。
電線は地下に埋設されているので空が広くて心地よい! -
梅屋本陣跡と案内板
交差点の中の植え込みに設置してあるのは最高です。 -
梅屋本陣跡
大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のため宿場に置かれた旅館を本陣といいます。 ここは、浜松六本陣の内梅屋家の本陣跡で、建坪は180坪(約600㎡)でした。 国学者賀茂真渕(本名庄助)は梅屋家の婿養子でした -
梅屋本陣跡
碑が設置されてあり、且つ説明案内板があるだけで十分です。 -
番所跡があるはずの通りに出ましたが道路工事中でした。
この辺りはの町名は旅籠町で旅籠が軒を並べていたと思います。 -
江馬殿小路跡と案内板
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江馬殿小路跡
今の連尺町・伝馬町・肴町の町境にあった小路で、幅は一間半(約2.7m)あった。 肴町に魚市場があった頃は大八車の往来が盛んで、両側には飲食店を扱う店があり、一名”うまいもの小路”ともいわれていた。 映画監督木下恵介氏の生家尾張屋もこの小路中程の南側にあった。 古文書「曳駒拾遺」によると、飯尾豊前守連龍が曳馬城にて浜松を治めていた永禄の頃、家老の一人江馬安芸守泰顕の屋敷が今の五社小路の下あたりにあったことから、 この屋敷の脇道を江馬殿小路と呼ぶようになったという。 また、江馬殿小路は俗称沼殿小路とも呼ばれた。 終戦後の区画整理で住宅が南によったためになくなってしまったが、ここにあった老舗の中で肴町の桝形、弁いち、伝馬町の柳川亭、千歳町の井口堂、高町の久の秀 などは今も伝統の味を伝えている。 -
大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。 ここは、浜松の本陣6ヶ所の内のひとで、佐藤家の本陣で建坪は225坪(約745㎡)あったといいます
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梅屋本陣跡の先に江馬殿小路跡があります。
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市内中心部には「井伊直虎ゆかりの地」が至る所に
NHKの大河ドラマは必ずゆかりの地が有名になるようです。
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