下田旅行記(ブログ) 一覧に戻る
いつの日かテレビや本などで知ったことも、それだけでは掴み所のない、遠い時空の果てのことと思ってしまうものです。下田で起こった黒船来航のことも、全く同じように「何か知らないけど、どこかで聞いた?読んだ?」だけのことでした(-_-) <br />そう言えば、私がずっと若かった昭和30年代前半のころ?? 下田を舞台にしたジョン・ウエイン主演の映画を見たことがあります。たしか、コレラが町中に蔓延して多くの死者が出た時、街に火を付けてコレラの伝染を断ったという場面があったような映画でした。<br /><br />分かってはいましたけれど、幕末の時期に下田が時代の波に翻弄されたことを、実際に下田に来てみてより身近に感じました。<br /><br />「唐人お吉」と黒船の町。<br />きょうは、そんな下田を海から眺めてみようと、楽しみにしているんです、

初めての熱海・下田の旅 <その3(最終回)・下田編>

20いいね!

2015/06/11 - 2015/06/11

356位(同エリア1054件中)

4

101

カメちゃん

カメちゃんさん

いつの日かテレビや本などで知ったことも、それだけでは掴み所のない、遠い時空の果てのことと思ってしまうものです。下田で起こった黒船来航のことも、全く同じように「何か知らないけど、どこかで聞いた?読んだ?」だけのことでした(-_-) 
そう言えば、私がずっと若かった昭和30年代前半のころ?? 下田を舞台にしたジョン・ウエイン主演の映画を見たことがあります。たしか、コレラが町中に蔓延して多くの死者が出た時、街に火を付けてコレラの伝染を断ったという場面があったような映画でした。

分かってはいましたけれど、幕末の時期に下田が時代の波に翻弄されたことを、実際に下田に来てみてより身近に感じました。

「唐人お吉」と黒船の町。
きょうは、そんな下田を海から眺めてみようと、楽しみにしているんです、

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
4.5
交通
5.0
同行者
友人
交通手段
タクシー 新幹線 JR特急 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

PR

  • お早うございますm(_ _)m<br /><br />夕べはカミさんの腕の中で暖かく眠るハズだったのに、Wベッドが広すぎて当家のカミさんから結構離れて眠っていました(^_^;)。<br />Wベッドは、広すぎてもイケナイのです!!身体の小さい日本人には、「セミ・ダブル」程度までのサイズが限界ではないでしょうか??<br />でも、まぁ風邪も引かずに済みましたのでヨシとしますか(^^)<br /><br />窓を開ければ、波静かな下田湾がみえます。<br />みさご島に寄り添うかのように佇む岩の上の赤い鳥居に向かって、朝のお祈りをしました。<br />ここでは、何と言う神様をお祀りしているのでしょうかね。<br />ちょっと調べただけでは分かりません。<br /><br />赤い鳥居にお祈りして、今日一日の始まりです。

    お早うございますm(_ _)m

    夕べはカミさんの腕の中で暖かく眠るハズだったのに、Wベッドが広すぎて当家のカミさんから結構離れて眠っていました(^_^;)。
    Wベッドは、広すぎてもイケナイのです!!身体の小さい日本人には、「セミ・ダブル」程度までのサイズが限界ではないでしょうか??
    でも、まぁ風邪も引かずに済みましたのでヨシとしますか(^^)

    窓を開ければ、波静かな下田湾がみえます。
    みさご島に寄り添うかのように佇む岩の上の赤い鳥居に向かって、朝のお祈りをしました。
    ここでは、何と言う神様をお祀りしているのでしょうかね。
    ちょっと調べただけでは分かりません。

    赤い鳥居にお祈りして、今日一日の始まりです。

  • 目覚めが早かったモンですから、ちょっと館内を散歩してみました。<br /><br />7階のフレンチテラスにやってきました。<br />ここは低層棟と高層棟のエレベーター乗り換えの階ですが、ビルの途中階とは思えないようなお庭がありました。<br /><br />そこに、なんとギリシャ神話の神々を思わせるような彫刻が・・。<br />どこの女神様かな? 昨日も、ギリシャ神殿?やギリシャ神話風の女神像?を見たばかりだし、ココでもそうなの?っていう印象を持ちましたね(^_^;)

    目覚めが早かったモンですから、ちょっと館内を散歩してみました。

    7階のフレンチテラスにやってきました。
    ここは低層棟と高層棟のエレベーター乗り換えの階ですが、ビルの途中階とは思えないようなお庭がありました。

    そこに、なんとギリシャ神話の神々を思わせるような彫刻が・・。
    どこの女神様かな? 昨日も、ギリシャ神殿?やギリシャ神話風の女神像?を見たばかりだし、ココでもそうなの?っていう印象を持ちましたね(^_^;)

  • 大きく写してみました。<br /><br />表情も平凡だし、女神さんと言うより、単なる女性裸像のような感じもしますね。もっとも、ヨーロッパでも彫刻家によっては、ボンヤリした表情をしている女神彫刻がありますけどね。<br /><br />美術家が外国の絵画・彫刻を学んで、外国調のものを幾つか書いたり彫ったりするのも良いでしょう。しかし、あっちもこっちも外国調をそのまま取り入れるのは、自由とは言えちょっとストレートすぎない??と思いますね。<br />あのルネサンスでも、ギリシャ美術を「そのまま」取り入れるのではなく、それを理解・消化した上で、さらに工夫が加わってルネサンスの時代の芸術へと発展しているのです。その意味では、ルネサンスはギリシャ文化の単なる「復古」「再生」ではないですね。<br /><br />同様に、日本の絵画・彫刻にも良いものはあるんだから、先ず頭の中に外国の歴史・技法を理解・消化し、日本の美術・芸術の中に西洋の考え方・技法のどの部分をどう取り入れるかを考えてみることが大事なことではないかと思いますね。<br />このことは、明治以降の日本の社会・政治の仕組み作りについても言えることです。大雑把に言えば、欧米の諸制度の表面だけ模倣した日本の社会・政治体制づくりが、今に至るもさまざまな矛盾を生み出しているのだと思います。<br /><br />そうは言っても、欧米的な形や考え方を、無意識的ながら自国の文化より美しいとか良いとか思って、ついつい上位に置いて見るという考え方・受け止め方は、私もそうですが結構広く存在していると思います。<br />町の中心部や城址公園にまで、欧米風の女性裸体像を設置して憚らない姿勢には、ちょっとウンザリしますよね〜。欧米文化にあこがれ、日本文化をダサイと見る傾向は、明治以来からの舶来迎合に由来すると言う人もいますが、その気持ちは何となく分かりますね。

    大きく写してみました。

    表情も平凡だし、女神さんと言うより、単なる女性裸像のような感じもしますね。もっとも、ヨーロッパでも彫刻家によっては、ボンヤリした表情をしている女神彫刻がありますけどね。

    美術家が外国の絵画・彫刻を学んで、外国調のものを幾つか書いたり彫ったりするのも良いでしょう。しかし、あっちもこっちも外国調をそのまま取り入れるのは、自由とは言えちょっとストレートすぎない??と思いますね。
    あのルネサンスでも、ギリシャ美術を「そのまま」取り入れるのではなく、それを理解・消化した上で、さらに工夫が加わってルネサンスの時代の芸術へと発展しているのです。その意味では、ルネサンスはギリシャ文化の単なる「復古」「再生」ではないですね。

    同様に、日本の絵画・彫刻にも良いものはあるんだから、先ず頭の中に外国の歴史・技法を理解・消化し、日本の美術・芸術の中に西洋の考え方・技法のどの部分をどう取り入れるかを考えてみることが大事なことではないかと思いますね。
    このことは、明治以降の日本の社会・政治の仕組み作りについても言えることです。大雑把に言えば、欧米の諸制度の表面だけ模倣した日本の社会・政治体制づくりが、今に至るもさまざまな矛盾を生み出しているのだと思います。

    そうは言っても、欧米的な形や考え方を、無意識的ながら自国の文化より美しいとか良いとか思って、ついつい上位に置いて見るという考え方・受け止め方は、私もそうですが結構広く存在していると思います。
    町の中心部や城址公園にまで、欧米風の女性裸体像を設置して憚らない姿勢には、ちょっとウンザリしますよね〜。欧米文化にあこがれ、日本文化をダサイと見る傾向は、明治以来からの舶来迎合に由来すると言う人もいますが、その気持ちは何となく分かりますね。

  • こちらはお人形さんと花瓶です。<br /><br />やっぱり、ヨーロッパ生まれの芸術?ですね(^o^)

    こちらはお人形さんと花瓶です。

    やっぱり、ヨーロッパ生まれの芸術?ですね(^o^)

  • さて、朝ご飯まで時間もありましたので、ホテルの前をちょっと散歩してみることにしました。<br />腰痛持ちには、朝の寝起きの散歩は割とラクなんですよ。<br /><br />ホテルから近いところに、道の駅「開国下田みなと」がありました。<br />お食事・お土産、観光案内所・トイレもありますよ。<br />下田へ来た時には、是非覗いてみて下さいね。<br /><br />★道の駅「開国下田みなと」の場所は↓にて<br />https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&amp;hl=ja<br />★↑の地図(Google map)の見方は、↓を参考にして下さい。<br />http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=41223719

    さて、朝ご飯まで時間もありましたので、ホテルの前をちょっと散歩してみることにしました。
    腰痛持ちには、朝の寝起きの散歩は割とラクなんですよ。

    ホテルから近いところに、道の駅「開国下田みなと」がありました。
    お食事・お土産、観光案内所・トイレもありますよ。
    下田へ来た時には、是非覗いてみて下さいね。

    ★道の駅「開国下田みなと」の場所は↓にて
    https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja
    ★↑の地図(Google map)の見方は、↓を参考にして下さい。
    http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=41223719

  • ココは、下田湾クルーズをしている観光船の切符を売っているところです。<br />私たちは、ホテルで切符を買いましたけどね。<br />ホテルでも観光船の切符を売ってることがありますから、先ずはホテルにお尋ねしてみると良いですね。

    ココは、下田湾クルーズをしている観光船の切符を売っているところです。
    私たちは、ホテルで切符を買いましたけどね。
    ホテルでも観光船の切符を売ってることがありますから、先ずはホテルにお尋ねしてみると良いですね。

  • 正面のビルは、私たちが泊まった「黒船ホテル」です。<br /><br />私のお部屋は右側のビルの9階左端の角部屋でしたけど、ここからは見えないんですよ。<br /><br />★「黒船ホテル」の場所は↓にて<br />https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&amp;hl=ja

    正面のビルは、私たちが泊まった「黒船ホテル」です。

    私のお部屋は右側のビルの9階左端の角部屋でしたけど、ここからは見えないんですよ。

    ★「黒船ホテル」の場所は↓にて
    https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja

  • この船が、昨日ホテルのお部屋からみたサスケハナ号(SUSQUEHANNA号)です。<br /><br />あのペリー提督が乗ってきた軍艦と同じ名前の船ですよ。<br />私たちも後ほど乗る予定です。楽しみです(^^)<br /><br />★サスケハナ号の乗船場は↓にて<br />https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&amp;hl=ja

    この船が、昨日ホテルのお部屋からみたサスケハナ号(SUSQUEHANNA号)です。

    あのペリー提督が乗ってきた軍艦と同じ名前の船ですよ。
    私たちも後ほど乗る予定です。楽しみです(^^)

    ★サスケハナ号の乗船場は↓にて
    https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja

  • サスケハナ号の反対側に接岸していた巡視船です。<br /><br />この巡視艇は、総トン数335トン、全長56m、幅8.5m、機関出力15000馬力、速力35ノット(時速:約65Km)以上、ウォータージェット推進3基という性能を持っているんですよ。かなり高速タイプの巡視船ですね〜。<br /><br />こういう高速船に乗ってみたいですね。<br />私たちが乗るフェリーやクルーズ船の速度は、だいたい20ノット(時速37Km)程度ですからね。<br /><br />★↓は時間遅れで、ちょっとスピードを出した時の速度(23.4ノット〈時速43.3Km〉です)。<br />http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=12559005

    サスケハナ号の反対側に接岸していた巡視船です。

    この巡視艇は、総トン数335トン、全長56m、幅8.5m、機関出力15000馬力、速力35ノット(時速:約65Km)以上、ウォータージェット推進3基という性能を持っているんですよ。かなり高速タイプの巡視船ですね〜。

    こういう高速船に乗ってみたいですね。
    私たちが乗るフェリーやクルーズ船の速度は、だいたい20ノット(時速37Km)程度ですからね。

    ★↓は時間遅れで、ちょっとスピードを出した時の速度(23.4ノット〈時速43.3Km〉です)。
    http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=12559005

  • 埠頭の端から下田湾の入り口方向を撮りました。<br /><br />中央の三角形の島は「犬走島」です。島の名前の由来は、「昔イヌワシが棲んでいた」ということに由来する話があります。このほかはイマイチ分かりません。<br /><br />現在は防波堤で陸と繋がっていて、歩いて行ける島です。この島に渡って、下田湾を360°の眺めを楽しむのも良いのではないでしょうか?<br /><br />★「犬走島」の場所は↓にて<br />https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&amp;hl=ja

    埠頭の端から下田湾の入り口方向を撮りました。

    中央の三角形の島は「犬走島」です。島の名前の由来は、「昔イヌワシが棲んでいた」ということに由来する話があります。このほかはイマイチ分かりません。

    現在は防波堤で陸と繋がっていて、歩いて行ける島です。この島に渡って、下田湾を360°の眺めを楽しむのも良いのではないでしょうか?

    ★「犬走島」の場所は↓にて
    https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja

  • 近くから見た「みさご島」です。

    近くから見た「みさご島」です。

  • ホテルの方を見ましたら、漁船が2隻接岸していました。<br /><br />右の船はちょっと大きいですね。<br />近海タイプの船でしょうか。<br /><br />ちょっとだけ、船を見に行きましょう(^^)

    ホテルの方を見ましたら、漁船が2隻接岸していました。

    右の船はちょっと大きいですね。
    近海タイプの船でしょうか。

    ちょっとだけ、船を見に行きましょう(^^)

  • 船に行く途中、魚市場の様子が見られました。<br />きょうの競りが終わって、片付けているところでしょうか。<br /><br />こういう光景を見ますと、六十数年も昔のことを思い出します。<br />私は小・中学生の頃も、就職してからも、父たちの船に時々乗せてもらいました。<br />夕方から出漁して、夜を通して漁をし、夜の明ける前に魚市場へ帰ってくるのです。それからトロ箱に魚を並べて市場に運びます。<br />漁師とその家族、仲買人とその家族、お手伝いさんで市場は大賑わい!! ひときわ大きな競りの声が小さな市場に響き渡るなかを、競りの順番をを待ったものですよ。<br /><br />本当に、誰もが生き生きとしていましたね〜(^^)<br />期待したようには値がつかなかったと、ガッカリしている漁師もいましたけどね(^_^;)<br /><br />魚市場の生々しい光景を見るなんて、何十年ぶりでしょうか?<br />私にとっては本当に懐かしい光景です。<br /><br />★下田の魚市場の場所は↓にて<br />https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&amp;hl=ja

    船に行く途中、魚市場の様子が見られました。
    きょうの競りが終わって、片付けているところでしょうか。

    こういう光景を見ますと、六十数年も昔のことを思い出します。
    私は小・中学生の頃も、就職してからも、父たちの船に時々乗せてもらいました。
    夕方から出漁して、夜を通して漁をし、夜の明ける前に魚市場へ帰ってくるのです。それからトロ箱に魚を並べて市場に運びます。
    漁師とその家族、仲買人とその家族、お手伝いさんで市場は大賑わい!! ひときわ大きな競りの声が小さな市場に響き渡るなかを、競りの順番をを待ったものですよ。

    本当に、誰もが生き生きとしていましたね〜(^^)
    期待したようには値がつかなかったと、ガッカリしている漁師もいましたけどね(^_^;)

    魚市場の生々しい光景を見るなんて、何十年ぶりでしょうか?
    私にとっては本当に懐かしい光景です。

    ★下田の魚市場の場所は↓にて
    https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja

  • 船の近くに来ました。<br /><br />実家が昔持っていた船よりだいぶ大きいです。<br />居室もあるようですから、やはり近海タイプの船だと思います。父と兄たちが乗っていた船は一夜限りの漁をしてくる「沿岸」の漁をしていたのです。この船ですと、一度出港したら数日は漁をしてくるかと思います(勝手な想像ですけど)。<br /><br />上の方にはフロート(網が沈まないように支える“浮子〈うき・ふし)”)をたくさん積んでいますね。魚群を網で囲んで獲るのかも知れませんね。実家の網には、極太のソーセージ程度の浮き輪がついていました。<br />漁網は上部をフロートで海面に浮かせ、下端に鉛のオモリを付けて沈め、海中に垂直に張るのです(5〜10m)。その網の長さは数十mから百数十m(大きい船ではかなり長いです)もあって、それで魚の群れを囲い込むのですよ。そうやって、魚群をうまく囲い込めれば“大漁”になるのです(^^) 三河湾に来る“ボラ”や“マタカ”(スズキより少し小さい)も、こうして獲ったものでした。<br /><br />★フロートのことは、「網 フロート」で検索して下さい。様々なフロート画像が見られますよ。★↓は紀伊勝浦項での漁船です。<br />http://4travel.jp/travelogue/10515864

    船の近くに来ました。

    実家が昔持っていた船よりだいぶ大きいです。
    居室もあるようですから、やはり近海タイプの船だと思います。父と兄たちが乗っていた船は一夜限りの漁をしてくる「沿岸」の漁をしていたのです。この船ですと、一度出港したら数日は漁をしてくるかと思います(勝手な想像ですけど)。

    上の方にはフロート(網が沈まないように支える“浮子〈うき・ふし)”)をたくさん積んでいますね。魚群を網で囲んで獲るのかも知れませんね。実家の網には、極太のソーセージ程度の浮き輪がついていました。
    漁網は上部をフロートで海面に浮かせ、下端に鉛のオモリを付けて沈め、海中に垂直に張るのです(5〜10m)。その網の長さは数十mから百数十m(大きい船ではかなり長いです)もあって、それで魚の群れを囲い込むのですよ。そうやって、魚群をうまく囲い込めれば“大漁”になるのです(^^) 三河湾に来る“ボラ”や“マタカ”(スズキより少し小さい)も、こうして獲ったものでした。

    ★フロートのことは、「網 フロート」で検索して下さい。様々なフロート画像が見られますよ。★↓は紀伊勝浦項での漁船です。
    http://4travel.jp/travelogue/10515864

  • 船の中央部。<br />ブリッジと煙突です。ブリッジの上にもフロートを目一杯積んでいますね。<br /><br />中央の黒いものが、エンジンからの煙突です。<br />車の煙突は「マフラー」ってよく言いますが、船の煙突(特に大型船の煙突)は「ファンネル」と言われたりしますね。でも、私は日本語の「煙突」と言うのが好きです(~o~) 煙突の方が、実感がこもっていますからね(カタカナ語が多すぎますね)。<br /><br />そう、スポーツカーの四本煙突は、古の北大西洋横断港を行くタイタニック号時代の客船の映像を連想させてくれて、なお一層カッコ良く見えますからね(^o^)<br /><br />最近の漁船はスピードがスゴイですよ。漁船の種類にもよりますが400馬力から1000馬力くらいのエンジンを載せていると思いますよ。三河湾の船でも5〜6トン型で300馬力前後のエンジンを載せていますからね。

    船の中央部。
    ブリッジと煙突です。ブリッジの上にもフロートを目一杯積んでいますね。

    中央の黒いものが、エンジンからの煙突です。
    車の煙突は「マフラー」ってよく言いますが、船の煙突(特に大型船の煙突)は「ファンネル」と言われたりしますね。でも、私は日本語の「煙突」と言うのが好きです(~o~) 煙突の方が、実感がこもっていますからね(カタカナ語が多すぎますね)。

    そう、スポーツカーの四本煙突は、古の北大西洋横断港を行くタイタニック号時代の客船の映像を連想させてくれて、なお一層カッコ良く見えますからね(^o^)

    最近の漁船はスピードがスゴイですよ。漁船の種類にもよりますが400馬力から1000馬力くらいのエンジンを載せていると思いますよ。三河湾の船でも5〜6トン型で300馬力前後のエンジンを載せていますからね。

  • ブリッジの前の部分です。<br />甲板上には網の投入・巻き上げ用の機械があります。そして、魚倉(魚槽・魚艙)の蓋?が並んでいます。                                            <br /><br />魚槽が満タンになると船がだいぶ沈みますから、大漁の船は結構沈み込んで来ますよ〜(^-^)<br />下田の船は甲板上に屋根のようなテントを張るんですね。風対策?雨対策?日差し対策?そこは分かりません。<br /><br />★漁船の仕組みなどは「漁船の構造」で検索してみて下さいね。<br />★↓でもご覧下さい。<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%81%E8%88%B9

    ブリッジの前の部分です。
    甲板上には網の投入・巻き上げ用の機械があります。そして、魚倉(魚槽・魚艙)の蓋?が並んでいます。

    魚槽が満タンになると船がだいぶ沈みますから、大漁の船は結構沈み込んで来ますよ〜(^-^)
    下田の船は甲板上に屋根のようなテントを張るんですね。風対策?雨対策?日差し対策?そこは分かりません。

    ★漁船の仕組みなどは「漁船の構造」で検索してみて下さいね。
    ★↓でもご覧下さい。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%81%E8%88%B9

  • 同じ船の船首です。<br />カッコ良いですね。<br /><br />こういう船で、思いっきりスッ飛ばしてみたいですね〜(^^)<br />海の波に揉まれながら働く漁船こそ、船の中の船と言えると思いますよ!!<br />そして、漁船で働く男こそ、男の中の男だと思いますよ〜(^_^)v

    同じ船の船首です。
    カッコ良いですね。

    こういう船で、思いっきりスッ飛ばしてみたいですね〜(^^)
    海の波に揉まれながら働く漁船こそ、船の中の船と言えると思いますよ!!
    そして、漁船で働く男こそ、男の中の男だと思いますよ〜(^_^)v

  • 下田港にこんな彫刻がありました。<br /><br />なんか、気の抜けそうな感じの表情ですね。<br />これも芸術??(~o~) マジメに創ったのでしょうか??<br />「プロが創れば芸術になる」なんて、イヤミの一言でも言いたくなります(~o~)(^O^)

    下田港にこんな彫刻がありました。

    なんか、気の抜けそうな感じの表情ですね。
    これも芸術??(~o~) マジメに創ったのでしょうか??
    「プロが創れば芸術になる」なんて、イヤミの一言でも言いたくなります(~o~)(^O^)

  • こちらはちょっと小さい漁船です。<br />何トンくらいあるのかな? 5トン未満かもね。<br /><br />でも、スピードは結構出そうですよ〜。

    こちらはちょっと小さい漁船です。
    何トンくらいあるのかな? 5トン未満かもね。

    でも、スピードは結構出そうですよ〜。

  • 港の端っこで時々見てしまうのが、こういうだらしない光景です。<br /><br />向こうに見えるビルは、「下田伊東園・ホテルはな岬」です。

    港の端っこで時々見てしまうのが、こういうだらしない光景です。

    向こうに見えるビルは、「下田伊東園・ホテルはな岬」です。

  • おやおや、道端に船が上がっていました。<br /><br />綺麗な船ですね〜。<br />定期的な整備でドックに入っているかもね。<br />この船からは“漁船臭”さが感じられない気がして・・。<br /><br />ヒョッとして、釣り客を乗せる釣り船かな?<br /><br />このドックの場所は↓にて<br />https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&amp;hl=ja

    おやおや、道端に船が上がっていました。

    綺麗な船ですね〜。
    定期的な整備でドックに入っているかもね。
    この船からは“漁船臭”さが感じられない気がして・・。

    ヒョッとして、釣り客を乗せる釣り船かな?

    このドックの場所は↓にて
    https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja

  • あんまり綺麗に見えたので新造船かと思ってしまいましたが、この「サイドスラスター(横推進装置)」のところを見ますと新造船ではないようです。<br /><br />この程度の船でも、今じゃ「サイドスラスター」が付いているんですね。操船がラクになりますね。<br /><br />★サイドスラスターの詳しいことは↓にて<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC

    あんまり綺麗に見えたので新造船かと思ってしまいましたが、この「サイドスラスター(横推進装置)」のところを見ますと新造船ではないようです。

    この程度の船でも、今じゃ「サイドスラスター」が付いているんですね。操船がラクになりますね。

    ★サイドスラスターの詳しいことは↓にて
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC

  • 後部のスクリューです。前にサイドスラスターが付いているんだから、スクリューも回転式と思いきや、こちらは固定式でした。そうだよね、そこまで拘っていてはあまりに高価な船になってしまいますからね。<br /><br />でも、大きなスクリューです! これなら、しっかり仕事が出来ますね〜。エンジンもだいぶ強力なのが装備されているでしょう。こういう船に乗ってみたいですね!!<br />40年近くも昔のこと、当家のカミさんお姉さん宅で漁船を新造され、進水式に行ったことがありましたけど。外国製のターボエンジンを装備して27ノットを記録したことがありましたけど、あのときは爽快でしたね。この船なら30ノットは出せるかもね??<br />大型客船ばかりではなくて、こういう船もたまには乗ってみたいモンです!!<br /><br />★スクリュープロペラの詳しいことは↓にて<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%9A%E3%83%A9#.E6.AD.B4.E5.8F.B2

    後部のスクリューです。前にサイドスラスターが付いているんだから、スクリューも回転式と思いきや、こちらは固定式でした。そうだよね、そこまで拘っていてはあまりに高価な船になってしまいますからね。

    でも、大きなスクリューです! これなら、しっかり仕事が出来ますね〜。エンジンもだいぶ強力なのが装備されているでしょう。こういう船に乗ってみたいですね!!
    40年近くも昔のこと、当家のカミさんお姉さん宅で漁船を新造され、進水式に行ったことがありましたけど。外国製のターボエンジンを装備して27ノットを記録したことがありましたけど、あのときは爽快でしたね。この船なら30ノットは出せるかもね??
    大型客船ばかりではなくて、こういう船もたまには乗ってみたいモンです!!

    ★スクリュープロペラの詳しいことは↓にて
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%9A%E3%83%A9#.E6.AD.B4.E5.8F.B2

  • 港の浚渫のお知らせ。<br /><br />そうなんだよね〜。港というものは時々浚渫(川や海の航路・港などの、水底の土砂や岩石・沈着物を取り除くこと)をするんだよね。港の機能を守るためには大事なことで、5年とか10年とか定期的にやっていると思いますよ。<br /><br />下田の港は、稲生沢川(いのうざわがわ)の河口にありますから、土砂の堆積も割とあると思います。ですから、浚渫をいつするかについて結構気を使うと思います。

    港の浚渫のお知らせ。

    そうなんだよね〜。港というものは時々浚渫(川や海の航路・港などの、水底の土砂や岩石・沈着物を取り除くこと)をするんだよね。港の機能を守るためには大事なことで、5年とか10年とか定期的にやっていると思いますよ。

    下田の港は、稲生沢川(いのうざわがわ)の河口にありますから、土砂の堆積も割とあると思います。ですから、浚渫をいつするかについて結構気を使うと思います。

  • あれまぁ、沈船が引き上げられて放置されている(&gt;_&lt;)<br /><br />これは、モーターボートですね。所有者か関係者に片付けさせないのかねぇ。

    あれまぁ、沈船が引き上げられて放置されている(>_<)

    これは、モーターボートですね。所有者か関係者に片付けさせないのかねぇ。

  • 船体には貝がいっぱい付いています。かなり長い年月、海底に沈んでいたんですね。<br /><br />破損の様子を見ますと、船体にはプラスチックのような素材を使っていますね。<br />右側には操舵ハンドルと計器の残骸が見られます。<br /><br />荒天でひっくり返ったのか、他の船と衝突したのか?<br />いずれにしても、乗っていた人は助かったのでしょうか? どっちにしても大変だったと思います。

    船体には貝がいっぱい付いています。かなり長い年月、海底に沈んでいたんですね。

    破損の様子を見ますと、船体にはプラスチックのような素材を使っていますね。
    右側には操舵ハンドルと計器の残骸が見られます。

    荒天でひっくり返ったのか、他の船と衝突したのか?
    いずれにしても、乗っていた人は助かったのでしょうか? どっちにしても大変だったと思います。

  • 船のエンジンです。<br />船の大きさの割には、強力なエンジンのようですね。<br /><br />それにしても、たくさんの貝がビッシリ付いていますね。<br />戦争や海難で海底に眠る人々や船のことまで考えてしまいます。

    船のエンジンです。
    船の大きさの割には、強力なエンジンのようですね。

    それにしても、たくさんの貝がビッシリ付いていますね。
    戦争や海難で海底に眠る人々や船のことまで考えてしまいます。

  • 下田港の様子です。<br />向こう側が下田の街です。<br /><br />漁船の殆どは、向こう側に停泊しています。<br />街に沿った川岸が船着き場になっているため、「漁港」という感じがしませんね。<br /><br />私たちにとっては珍しい感じです。

    下田港の様子です。
    向こう側が下田の街です。

    漁船の殆どは、向こう側に停泊しています。
    街に沿った川岸が船着き場になっているため、「漁港」という感じがしませんね。

    私たちにとっては珍しい感じです。

  • 写真がボケてしまいましたけど、向こう岸に「ペリー艦隊来港記念碑」らしきものが見えました(たぶん、間違いないと思います)。<br /><br />ペリーが初めて日本に来たのは1853年7月8日で、ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊で浦賀にやってきたようです。浦賀水道に入る頃から全艦の銃と大砲に弾を装填・武装して来たというのです。明らかに脅しですね。<br />ところが、そんなこと知らない庶民は、黒船を見に海岸に押し寄せ、船まで出して見に行ったというのですから、楽しい話ですね。<br /><br />ペリー来航の一回目では、大統領の親書を渡して帰ったようです。そのときは下田に立ち寄ることはなかったとか。<br />2度目に来たのがその翌年の2月13日で、この時は7隻の艦隊を率いて日米和親条約締結を迫り、幕府側は艦隊の威力の前にオタオタしてしまったとか。そして、3月31日に和親条約が締結されました。<br /><br />その際、下田は条約の中で「即時開港地」なっていたようです。ペリーは下田が開港地として適切かどうかをさらに詳しく調べるために、早速やってきたのですね〜。下田入港は1854年4月18日という話があります。 <br />その時の上陸地点が、この記念碑のあたりだそうです。<br />私も色々なところに上陸しましたけど、「カメちゃん上陸記念碑」なんて、どこにもないよ(-_-;)<br /><br />長崎は早くからオランダとの貿易地として開港?していたけど、それ以外では下田が最初のようですね。

    写真がボケてしまいましたけど、向こう岸に「ペリー艦隊来港記念碑」らしきものが見えました(たぶん、間違いないと思います)。

    ペリーが初めて日本に来たのは1853年7月8日で、ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊で浦賀にやってきたようです。浦賀水道に入る頃から全艦の銃と大砲に弾を装填・武装して来たというのです。明らかに脅しですね。
    ところが、そんなこと知らない庶民は、黒船を見に海岸に押し寄せ、船まで出して見に行ったというのですから、楽しい話ですね。

    ペリー来航の一回目では、大統領の親書を渡して帰ったようです。そのときは下田に立ち寄ることはなかったとか。
    2度目に来たのがその翌年の2月13日で、この時は7隻の艦隊を率いて日米和親条約締結を迫り、幕府側は艦隊の威力の前にオタオタしてしまったとか。そして、3月31日に和親条約が締結されました。

    その際、下田は条約の中で「即時開港地」なっていたようです。ペリーは下田が開港地として適切かどうかをさらに詳しく調べるために、早速やってきたのですね〜。下田入港は1854年4月18日という話があります。 
    その時の上陸地点が、この記念碑のあたりだそうです。
    私も色々なところに上陸しましたけど、「カメちゃん上陸記念碑」なんて、どこにもないよ(-_-;)

    長崎は早くからオランダとの貿易地として開港?していたけど、それ以外では下田が最初のようですね。

  • 念のため、望遠で撮ってみました。やっぱり、「ペリー艦隊来港記念碑」ですね。<br /><br />ペリーは、日米和親条約交渉で幕府側が開港地として下田と函館を提案した際、直ちに下田港の調査を命じたようです。まだ交渉中で、条約未締結の段階で下田を調査・測量をするというのはどういうことでしょうか? 当時の日本には、ペリー艦隊のような船を持っていなかったことから、日本の海図は信用できず下田港周辺を積極的に測量しました。<br />ペリーは、下田だけでなくて、幕府の反対を無視して浦賀・横浜以北の江戸湾を測量し、江戸湾城から江戸城攻撃を可能にし、幕府を不安に陥れたという話があるようです。<br /><br />あの時代では、ある国に海岸線を測量をされるということは、イザ!!という時に、ある国に攻撃されやくなるという軍事的な意味を持っていたのです。強大な軍事力を背景に、アジア各地の沿岸を測量した欧米各国の姿勢は、傲慢きわまりないと言えますね。<br /><br />「ペリー艦隊来港記念碑」の場所は↓にて<br />https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&amp;hl=ja

    念のため、望遠で撮ってみました。やっぱり、「ペリー艦隊来港記念碑」ですね。

    ペリーは、日米和親条約交渉で幕府側が開港地として下田と函館を提案した際、直ちに下田港の調査を命じたようです。まだ交渉中で、条約未締結の段階で下田を調査・測量をするというのはどういうことでしょうか? 当時の日本には、ペリー艦隊のような船を持っていなかったことから、日本の海図は信用できず下田港周辺を積極的に測量しました。
    ペリーは、下田だけでなくて、幕府の反対を無視して浦賀・横浜以北の江戸湾を測量し、江戸湾城から江戸城攻撃を可能にし、幕府を不安に陥れたという話があるようです。

    あの時代では、ある国に海岸線を測量をされるということは、イザ!!という時に、ある国に攻撃されやくなるという軍事的な意味を持っていたのです。強大な軍事力を背景に、アジア各地の沿岸を測量した欧米各国の姿勢は、傲慢きわまりないと言えますね。

    「ペリー艦隊来港記念碑」の場所は↓にて
    https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja

  • ここは下田港の入り口付近です。<br /><br />↑の街の前で停泊していた漁船に較べてやや大きめの船です。<br />凡そ20〜30トンくらいはあるでしょうか??これは近海漁船でしょうか。<br /><br />海は広いですが、船舶免許や漁業許可などによって、漁の出来る区域があるのです。<br />沿岸漁業は主として一日で帰ってこられる距離での漁業で、近海漁業ではグアムや小笠原列島、沖ノ鳥島までもが範囲に入るほど広大です。遠洋漁業となると七つの海での漁が可能となります。<br />また、沿岸漁業では魚を獲れる海の範囲に仕切りがあるのです。例えば愛知県の漁船が、静岡県の前の海で操業することは出来ないのです。こんなワケで、広い海でも魚を捕れる区域は結構限られているのですよ。<br />そんなことはさておき、こういう船で荒波に揉まれながら漁をすることこそ、男の仕事と言えるでしょうね!!<br /><br />★近海・遠洋などの航行区域の詳しいことは↓にて<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AA%E8%A1%8C%E5%8C%BA%E5%9F%9F

    ここは下田港の入り口付近です。

    ↑の街の前で停泊していた漁船に較べてやや大きめの船です。
    凡そ20〜30トンくらいはあるでしょうか??これは近海漁船でしょうか。

    海は広いですが、船舶免許や漁業許可などによって、漁の出来る区域があるのです。
    沿岸漁業は主として一日で帰ってこられる距離での漁業で、近海漁業ではグアムや小笠原列島、沖ノ鳥島までもが範囲に入るほど広大です。遠洋漁業となると七つの海での漁が可能となります。
    また、沿岸漁業では魚を獲れる海の範囲に仕切りがあるのです。例えば愛知県の漁船が、静岡県の前の海で操業することは出来ないのです。こんなワケで、広い海でも魚を捕れる区域は結構限られているのですよ。
    そんなことはさておき、こういう船で荒波に揉まれながら漁をすることこそ、男の仕事と言えるでしょうね!!

    ★近海・遠洋などの航行区域の詳しいことは↓にて
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AA%E8%A1%8C%E5%8C%BA%E5%9F%9F

  • ホテルへ帰る途中、漁協の構内にある「金目亭」を発見しました。<br />金目鯛を色々に調理したところが良いですね!!<br /><br />私は「金目姿煮定食」が良いなぁと思いますね(^-^) 当家のカミさんには、ちょっと高値だけど「組合長定食」が良いかもね??<br /><br />皆さんはどれが良いですか??<br />「私は金目三色丼!!」<br />「オレは組合長丼だね!!」<br />どれをいただいても、間違いではないですよ〜〜〜(^^)<br />またいつか、下田に来ることがあったら、是非ここで金目鯛を戴きたいですね!!<br /><br />ところで、金目鯛ってどこにいるのか?ご存じですか?<br />このお魚は伊豆周辺だけでなくて、ほぼ世界の海で獲れるみたいです。<br />ただ、水深500m付近にいる深海魚とのことですから、湾内とか、海岸から近い「沿岸」海域では獲れないでしょうね。冬場が旬のようですよ。<br /><br />★金目鯛のことは↓にて<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%80%E3%82%A4金目鯛<br />http://www.watanabe-suisan.co.jp/

    ホテルへ帰る途中、漁協の構内にある「金目亭」を発見しました。
    金目鯛を色々に調理したところが良いですね!!

    私は「金目姿煮定食」が良いなぁと思いますね(^-^) 当家のカミさんには、ちょっと高値だけど「組合長定食」が良いかもね??

    皆さんはどれが良いですか??
    「私は金目三色丼!!」
    「オレは組合長丼だね!!」
    どれをいただいても、間違いではないですよ〜〜〜(^^)
    またいつか、下田に来ることがあったら、是非ここで金目鯛を戴きたいですね!!

    ところで、金目鯛ってどこにいるのか?ご存じですか?
    このお魚は伊豆周辺だけでなくて、ほぼ世界の海で獲れるみたいです。
    ただ、水深500m付近にいる深海魚とのことですから、湾内とか、海岸から近い「沿岸」海域では獲れないでしょうね。冬場が旬のようですよ。

    ★金目鯛のことは↓にて
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%80%E3%82%A4金目鯛
    http://www.watanabe-suisan.co.jp/

  • 「新鮮! 下田きんめ市場」<br />そうそう、下田は金目鯛水揚げででは日本一の漁港なんですよ!!<br /><br />下田へ来たらやっぱり金目鯛だね!!<br />夕べも金目一匹の煮付けを戴きました(^-^)<br />この横断幕を見て、納得でした!(^^)!

    「新鮮! 下田きんめ市場」
    そうそう、下田は金目鯛水揚げででは日本一の漁港なんですよ!!

    下田へ来たらやっぱり金目鯛だね!!
    夕べも金目一匹の煮付けを戴きました(^-^)
    この横断幕を見て、納得でした!(^^)!

  • 下田付近の地図です。<br /><br />いま、私は「現在地」にいるんですよ。

    下田付近の地図です。

    いま、私は「現在地」にいるんですよ。

  • 先ほどこの市場を覗いた時には競りをしていなかったっですけど、その後小規模な競りが始まったみたいですね。<br /><br />金目鯛かな?と思ってちょっと覗いてみましたが、そうではなくて、普通の魚でした。<br />でも、こんな「臨時の競り」みたいなのかあるんですね。

    先ほどこの市場を覗いた時には競りをしていなかったっですけど、その後小規模な競りが始まったみたいですね。

    金目鯛かな?と思ってちょっと覗いてみましたが、そうではなくて、普通の魚でした。
    でも、こんな「臨時の競り」みたいなのかあるんですね。

  • 廃業した昔の旅館です。<br /><br />廃業した後、建物はほったらかしなんですね。<br />企業会計の中に、取り崩しの出来ない「取り壊し費用枠」をつくるようにして、廃業寺の取り壊しを義務づけたらどうでしょうかね。<br />外国では、廃業した後の建物のどうなっているんでしょうかね??<br /><br />そういう我が家も、私たちがいなくなった後にどうなるのか??<br />他人のことは言えるけど、自分のこととなると、どうしたモンかと思いますね。

    廃業した昔の旅館です。

    廃業した後、建物はほったらかしなんですね。
    企業会計の中に、取り崩しの出来ない「取り壊し費用枠」をつくるようにして、廃業寺の取り壊しを義務づけたらどうでしょうかね。
    外国では、廃業した後の建物のどうなっているんでしょうかね??

    そういう我が家も、私たちがいなくなった後にどうなるのか??
    他人のことは言えるけど、自分のこととなると、どうしたモンかと思いますね。

  • ホテルの上の階から見た、観光船と巡視船の突堤です。<br /><br />突堤の左側の黒い船が、観光船の「サスケハナ」です。<br />「サスケハナ号」の向こうに見える島は、「みさご島」です。<br /><br />突堤の右に泊まる右側の白い船は、巡視船の「かの」です。

    ホテルの上の階から見た、観光船と巡視船の突堤です。

    突堤の左側の黒い船が、観光船の「サスケハナ」です。
    「サスケハナ号」の向こうに見える島は、「みさご島」です。

    突堤の右に泊まる右側の白い船は、巡視船の「かの」です。

  • さぁ、朝のご飯です(^^)<br />幸せそうな、この笑顔をご覧下さい!! お宿での食事は、ホントに楽しいものですね。<br /><br />私も、夕べはお腹一杯になって苦しいほどでしたけど、朝にはちゃっかりお腹も空いて・・(^^) 美味しいものを戴いて、元気回復!! これこそ、健康な印ですね〜。

    さぁ、朝のご飯です(^^)
    幸せそうな、この笑顔をご覧下さい!! お宿での食事は、ホントに楽しいものですね。

    私も、夕べはお腹一杯になって苦しいほどでしたけど、朝にはちゃっかりお腹も空いて・・(^^) 美味しいものを戴いて、元気回復!! これこそ、健康な印ですね〜。

  • これで一人分ですよ〜(^^)<br /><br />いつもの朝食と言えば、6枚切りの食パンの半分と、リンゴ半分とバナナ普通サイズ1本に、豆乳ヨーグルトを120CC程度戴きます。これでもお腹には十分なんですよ(^^)<br /><br />この料理の量は、普段の朝食の2倍以上はありますね。<br />料理の種類もたくさんあって、元気百倍になりそうです!!!(^^)!

    これで一人分ですよ〜(^^)

    いつもの朝食と言えば、6枚切りの食パンの半分と、リンゴ半分とバナナ普通サイズ1本に、豆乳ヨーグルトを120CC程度戴きます。これでもお腹には十分なんですよ(^^)

    この料理の量は、普段の朝食の2倍以上はありますね。
    料理の種類もたくさんあって、元気百倍になりそうです!!!(^^)!

  • 「皆さんで一枚お撮りしましょうか」<br /><br />ホテルのお姉さんのご配慮で、一枚撮って頂きました。<br />向こうにはちょっとしたお庭がありますが、これでもビルの7階ですよ。<br />和風個室の眺めの良いお部屋でした。

    「皆さんで一枚お撮りしましょうか」

    ホテルのお姉さんのご配慮で、一枚撮って頂きました。
    向こうにはちょっとしたお庭がありますが、これでもビルの7階ですよ。
    和風個室の眺めの良いお部屋でした。

  • 旦那様も幸せそう!!(^-^)<br />

    旦那様も幸せそう!!(^-^)

  • ここは黒船ホテル7階で、個室の「料亭(お部屋)」が並ぶ「上喜撰(蒸気船??)」というところです。<br /><br />ここの両側には個室が並んでいるのですが、ここが「中庭」風になっています。<br />なかなかお洒落だと思いませんか。<br />もっと小さなお庭を演出しているホテルもありますが、これほどの「お庭」を演出しているホテルは少ないですね

    ここは黒船ホテル7階で、個室の「料亭(お部屋)」が並ぶ「上喜撰(蒸気船??)」というところです。

    ここの両側には個室が並んでいるのですが、ここが「中庭」風になっています。
    なかなかお洒落だと思いませんか。
    もっと小さなお庭を演出しているホテルもありますが、これほどの「お庭」を演出しているホテルは少ないですね

  • ↑の「お庭」の端で、記念の写真を撮って頂きました(^^)

    ↑の「お庭」の端で、記念の写真を撮って頂きました(^^)

  • フロアの絨毯に描かれた「黒船」です。<br /><br />下田と言えば、「黒船」ですね〜。<br />そして、ペリー、ハリス、お吉さん、それから金目鯛ですね〜〜。

    フロアの絨毯に描かれた「黒船」です。

    下田と言えば、「黒船」ですね〜。
    そして、ペリー、ハリス、お吉さん、それから金目鯛ですね〜〜。

  • 場面が急に変わりましたけど、これから「サスケハナ号」で下田湾クルーズをするんですよ。<br /><br />乗船前に先ず一枚。<br />私たちを撮って下さるハズの?カメラマンさんも仲間に入って頂きました(~o~)<br />こうなると、どっちがカメラマンか分かりませんね(^O^)<br /><br />★あの時もカメラマンさんを撮らせて頂きました(^^)<br />http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=31059822

    場面が急に変わりましたけど、これから「サスケハナ号」で下田湾クルーズをするんですよ。

    乗船前に先ず一枚。
    私たちを撮って下さるハズの?カメラマンさんも仲間に入って頂きました(~o~)
    こうなると、どっちがカメラマンか分かりませんね(^O^)

    ★あの時もカメラマンさんを撮らせて頂きました(^^)
    http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=31059822

  • 船から見た玉泉寺方向です。<br /><br />ペリーやハリスらも、海上からこんな感じで玉泉寺を見ていたかも知れませんね。<br />もちろん、あの当時には玉泉寺の周囲にはこれほどの家はなかったでしょうけど‥。

    船から見た玉泉寺方向です。

    ペリーやハリスらも、海上からこんな感じで玉泉寺を見ていたかも知れませんね。
    もちろん、あの当時には玉泉寺の周囲にはこれほどの家はなかったでしょうけど‥。

  • 今朝、突堤に来た時に見た巡視船です。<br /><br />この船は小さい割には非常が高速が出せるんです。<br />でも、そんなときは船体が振動するようです(波との関係もあると思いますが)。ですから、乗組員が着座するところにはクッションが付いているようですね。<br />私も、一度は超高速の船に乗ってみたいですよ。<br /><br />余計な話ですが、嘗ての大型客船で、この高速巡視艇と同じくらいのスピードを出せた船がいたんですよ!!<br /><br />★この船の詳しいことは↓にて<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%86%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%84_(%E5%AE%A2%E8%88%B9)

    今朝、突堤に来た時に見た巡視船です。

    この船は小さい割には非常が高速が出せるんです。
    でも、そんなときは船体が振動するようです(波との関係もあると思いますが)。ですから、乗組員が着座するところにはクッションが付いているようですね。
    私も、一度は超高速の船に乗ってみたいですよ。

    余計な話ですが、嘗ての大型客船で、この高速巡視艇と同じくらいのスピードを出せた船がいたんですよ!!

    ★この船の詳しいことは↓にて
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%86%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%84_(%E5%AE%A2%E8%88%B9)

  • この島は「弁天島」です。<br /><br />弁天島だから「弁天様」が祀ってあると思ったのですが、「日本の島へ行こう」のサイトによれば、鷺島(さぎしま)神社と龍神宮の二つの祠があるとのことで、鷺島神社には「ささげ弁天」と書かれた神棚があることから弁天島と呼ぶようになったとかです。サイトでは「ささげ」の意味が分からないそうです。<br /><br />それより何より、この島で有名なことは1853年にペリー艦隊が下田に来港した際、吉田松陰と金子重之輔(松蔭の弟子)がこの島から小舟に乗ってペリー艦隊に行き、ペリー提督にアメリカへ連れて行ってくれるよう願い出たことですね。当然ながら、松蔭たちは密出国を企てたことになります。<br /><br />ペリーの艦隊は天候などでたまたま下田へ来たわけではなく、日本との国交交渉を進め、日本に幾つかの港を開港させる重大な任務を負っていたため、松蔭らの真剣な気持ちは理解するものの密出国を手伝うわけにも行かず、船から降ろしてしまいました。<br />そう、有名な松蔭の「密航未遂事件」の舞台になったところです。<br /><br />この時、松蔭の年齢は23歳だったとか。若いねぇ!!<br />私が23歳の時何をやっていたのか??残業と食って寝てばっかりの日々でしたねぇ(-_-;)

    この島は「弁天島」です。

    弁天島だから「弁天様」が祀ってあると思ったのですが、「日本の島へ行こう」のサイトによれば、鷺島(さぎしま)神社と龍神宮の二つの祠があるとのことで、鷺島神社には「ささげ弁天」と書かれた神棚があることから弁天島と呼ぶようになったとかです。サイトでは「ささげ」の意味が分からないそうです。

    それより何より、この島で有名なことは1853年にペリー艦隊が下田に来港した際、吉田松陰と金子重之輔(松蔭の弟子)がこの島から小舟に乗ってペリー艦隊に行き、ペリー提督にアメリカへ連れて行ってくれるよう願い出たことですね。当然ながら、松蔭たちは密出国を企てたことになります。

    ペリーの艦隊は天候などでたまたま下田へ来たわけではなく、日本との国交交渉を進め、日本に幾つかの港を開港させる重大な任務を負っていたため、松蔭らの真剣な気持ちは理解するものの密出国を手伝うわけにも行かず、船から降ろしてしまいました。
    そう、有名な松蔭の「密航未遂事件」の舞台になったところです。

    この時、松蔭の年齢は23歳だったとか。若いねぇ!!
    私が23歳の時何をやっていたのか??残業と食って寝てばっかりの日々でしたねぇ(-_-;)

  • 南側から見た犬走島です。<br />この島の名の由来は、イヌワシがこの島にいたとか、堤防の幅が犬一匹分しかなかったとかという話があるようですが、イマイチ定かではありません。<br /><br />1854年に定められた和親条約では、下田でアメリカ人が自由に行動出来る範囲を、この犬走島から7里(約27.5km)以内と決めたのでした(直線半径なら、伊豆半島南半分が入ります。道沿いなら河津町の大滝までが、その範囲になりそうです)。全てが徒歩の時代ではかなり広い範囲になりますね。<br /><br />ペリー艦隊の約2ヶ月の停泊中、1200人を越える艦隊乗組員はその範囲内を自由に見物・散策・測量も出来たことでしょうから、下田の街は異人さんでだいぶ賑やかかったことと思います(この間、色々な問題もありましたが)。<br /><br />島を起点にするって、どういうことでしょうかね? その当時から犬走島と陸地とはなにかで繋がっていたのでしょうか?そのあたりの事情がまだ分かっていません。ご存じの方、教えて下さいね。

    南側から見た犬走島です。
    この島の名の由来は、イヌワシがこの島にいたとか、堤防の幅が犬一匹分しかなかったとかという話があるようですが、イマイチ定かではありません。

    1854年に定められた和親条約では、下田でアメリカ人が自由に行動出来る範囲を、この犬走島から7里(約27.5km)以内と決めたのでした(直線半径なら、伊豆半島南半分が入ります。道沿いなら河津町の大滝までが、その範囲になりそうです)。全てが徒歩の時代ではかなり広い範囲になりますね。

    ペリー艦隊の約2ヶ月の停泊中、1200人を越える艦隊乗組員はその範囲内を自由に見物・散策・測量も出来たことでしょうから、下田の街は異人さんでだいぶ賑やかかったことと思います(この間、色々な問題もありましたが)。

    島を起点にするって、どういうことでしょうかね? その当時から犬走島と陸地とはなにかで繋がっていたのでしょうか?そのあたりの事情がまだ分かっていません。ご存じの方、教えて下さいね。

  • 左側の丸っこい高低二つの山は「赤根島(あかねじま)」のようです。<br /><br />この島は、下田湾の入り口の西側に位置する島で、下田湾に出入りする船をチェックするのに良い位置にあります。<br />そんなことから、地形的に見ますと、島の中心から凡そ500m余の小山の上に建設された下田城を守る格好になりますね。実際に人が配置されたのかどうかは分かりませんけどね。<br />また、赤根島は釣りにも良いところだそうで、各種の鯛が釣れるようです。釣り人には魅力の場所だと思いますよ。<br /><br />赤根島の右側の低いところにある白と緑の屋根の建物は、下田海中水族館です。<br /><br />★赤根島の位置は↓にて<br />https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&amp;hl=ja

    左側の丸っこい高低二つの山は「赤根島(あかねじま)」のようです。

    この島は、下田湾の入り口の西側に位置する島で、下田湾に出入りする船をチェックするのに良い位置にあります。
    そんなことから、地形的に見ますと、島の中心から凡そ500m余の小山の上に建設された下田城を守る格好になりますね。実際に人が配置されたのかどうかは分かりませんけどね。
    また、赤根島は釣りにも良いところだそうで、各種の鯛が釣れるようです。釣り人には魅力の場所だと思いますよ。

    赤根島の右側の低いところにある白と緑の屋根の建物は、下田海中水族館です。

    ★赤根島の位置は↓にて
    https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja

  • 赤根島を通り過ぎますと、西側のちょっとした入り江の奥にホテルのような建物と、住宅地が見えてきました。<br /><br />地図で見ましたら、真ん中の大きいビルは「下田東急ホテル」のようです。<br />右端の海に近いビルは「下田海浜ホテル」かと思います。<br />「下田東急ホテル」の左に見える住宅地は、下田市六丁目の団地のようです。<br />その団地の左下の海沿いにある小さいビルは、「筑波大学下田臨海実験センター」のようです。<br /><br />下田の街の南側の小高いところに団地があったことに、ちょっとビックリしました。普通団地と言いますと都市や工場群の周りにあるんですね。要するに「仕事がある」ってこと。下田には団地が形成されるだけの仕事があるってことですね。<br /><br />★下田東急ホテルの場所は↓にて<br />https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&amp;hl=ja

    赤根島を通り過ぎますと、西側のちょっとした入り江の奥にホテルのような建物と、住宅地が見えてきました。

    地図で見ましたら、真ん中の大きいビルは「下田東急ホテル」のようです。
    右端の海に近いビルは「下田海浜ホテル」かと思います。
    「下田東急ホテル」の左に見える住宅地は、下田市六丁目の団地のようです。
    その団地の左下の海沿いにある小さいビルは、「筑波大学下田臨海実験センター」のようです。

    下田の街の南側の小高いところに団地があったことに、ちょっとビックリしました。普通団地と言いますと都市や工場群の周りにあるんですね。要するに「仕事がある」ってこと。下田には団地が形成されるだけの仕事があるってことですね。

    ★下田東急ホテルの場所は↓にて
    https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja

  • 「サスケハナ号」が下田湾の外に出て戻る途中、沖の方に岩が突き出したような岩礁が見えました。下田港外には海面に姿を見せない岩礁があるかも知れませんね。<br />引き潮の時はちょっとだけ頭を出すけど、そうでない時は海面から隠れているのが岩礁だとか。暗礁は常に水面近くにあって、姿を見せない岩のようです。岩礁も暗礁も、船にとっては油断ならない存在です。<br /><br />岩礁と暗礁とを見つけ出して安全な航海を確保することは、海図が整備されていないこの時代の船にとって、なかなか難しい事です。<br /><br />伊豆半島は遠く南にあった海底火山群が北上して本州に衝突して出来た半島ですから、このような岩礁がたくさんあっても不思議ではないですね。そうでなくても狭い海峡ではたくさんの岩礁があって、船の航行を難しくしています。<br />あの伊良湖水道でも、水深10mまでで安全に航行できる幅は僅かに2kmと言われていますからね。吃水(海面から船底までの深さ)が20mを超すような大型タンカーでは、安全な航路幅はさらに狭いと思います(Wikipediaによれば、航路幅は1200mとなっています)。<br /><br />★↓は伊良湖水道の様子です。<br />http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=32612252<br />★岩礁の詳しいことは↓にて<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%A4%81

    「サスケハナ号」が下田湾の外に出て戻る途中、沖の方に岩が突き出したような岩礁が見えました。下田港外には海面に姿を見せない岩礁があるかも知れませんね。
    引き潮の時はちょっとだけ頭を出すけど、そうでない時は海面から隠れているのが岩礁だとか。暗礁は常に水面近くにあって、姿を見せない岩のようです。岩礁も暗礁も、船にとっては油断ならない存在です。

    岩礁と暗礁とを見つけ出して安全な航海を確保することは、海図が整備されていないこの時代の船にとって、なかなか難しい事です。

    伊豆半島は遠く南にあった海底火山群が北上して本州に衝突して出来た半島ですから、このような岩礁がたくさんあっても不思議ではないですね。そうでなくても狭い海峡ではたくさんの岩礁があって、船の航行を難しくしています。
    あの伊良湖水道でも、水深10mまでで安全に航行できる幅は僅かに2kmと言われていますからね。吃水(海面から船底までの深さ)が20mを超すような大型タンカーでは、安全な航路幅はさらに狭いと思います(Wikipediaによれば、航路幅は1200mとなっています)。

    ★↓は伊良湖水道の様子です。
    http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=32612252
    ★岩礁の詳しいことは↓にて
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%A4%81

  • ↑の岩礁の右の方にも小島と岩礁が見えました。<br /><br />下田港外には、岩礁が多いようです。海面上に姿を現さない隠れ岩礁(暗礁)も、幾つかあるでしょうね。<br />こういう海の状況を正確に把握しないと、海底の様子を知ってもいない海岸線に近づくことは出来ませんから、ペリーらがとにかく測量をしたがる気持ちは分かりますね。戦争を仕掛ける前に、地形や海底の測量をすること。この時代では大事なことだったようです。<br /><br />李氏朝鮮が19世紀半ばの開花期と言われたころ、外国に沿岸の測量を許可したことがあったようです。そのことが、外国の侵入・侵略を結果として許すことに繋がり、李氏朝鮮のその後の衰退をまねいた要因にもなったという話があります。このように外国に勝手に測量されることは、あってはならないことだったのです。<br /><br />日本はペリーらにずいぶん測量されて、イヤな思いをしました。ところが、日本もその18年後には李氏朝鮮に対して、ペリーらと同じ行動をしているんですね。<br />かつて弱かった人も、少し人は強くなるとまわりの弱い子を虐める。それと同じことを国家もするんですね〜(T_T)  まぁ、帝国主義が闊歩していた時代ですから分からないわけではないですけど、やられた方は末代までイヤな想いをしますね。

    ↑の岩礁の右の方にも小島と岩礁が見えました。

    下田港外には、岩礁が多いようです。海面上に姿を現さない隠れ岩礁(暗礁)も、幾つかあるでしょうね。
    こういう海の状況を正確に把握しないと、海底の様子を知ってもいない海岸線に近づくことは出来ませんから、ペリーらがとにかく測量をしたがる気持ちは分かりますね。戦争を仕掛ける前に、地形や海底の測量をすること。この時代では大事なことだったようです。

    李氏朝鮮が19世紀半ばの開花期と言われたころ、外国に沿岸の測量を許可したことがあったようです。そのことが、外国の侵入・侵略を結果として許すことに繋がり、李氏朝鮮のその後の衰退をまねいた要因にもなったという話があります。このように外国に勝手に測量されることは、あってはならないことだったのです。

    日本はペリーらにずいぶん測量されて、イヤな思いをしました。ところが、日本もその18年後には李氏朝鮮に対して、ペリーらと同じ行動をしているんですね。
    かつて弱かった人も、少し人は強くなるとまわりの弱い子を虐める。それと同じことを国家もするんですね〜(T_T) まぁ、帝国主義が闊歩していた時代ですから分からないわけではないですけど、やられた方は末代までイヤな想いをしますね。

  • あっちの方に見える横に長い山は、「寝姿山」です。<br />女性が寝そべっている姿に似ていると言うのですが、さぁ、どうでしょうか??<br /><br />当家のカミさんなどは、大いばりで大の字になって昼寝をしていますけどね。とにかく態度が大きいです。あの寝姿山のような形で横になる女性は、かなりおしとやかな方だと思いますよ。<br /><br />1854年4月にペリー艦隊が下田に来た時、こんな風景を見ながら慎重に奥へ奥へとすすんでいったのですね。その161年後に、私も彼らと同じ光景を眺めているんだと思いますと、連綿と続く歴史を感じます。<br /><br />あの寝姿山からは下田湾が一望できることから、ペリー艦隊ほかの黒船を見張る所があったようです。<br /><br />★寝姿山の場所は↓にて<br />https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&amp;hl=ja

    あっちの方に見える横に長い山は、「寝姿山」です。
    女性が寝そべっている姿に似ていると言うのですが、さぁ、どうでしょうか??

    当家のカミさんなどは、大いばりで大の字になって昼寝をしていますけどね。とにかく態度が大きいです。あの寝姿山のような形で横になる女性は、かなりおしとやかな方だと思いますよ。

    1854年4月にペリー艦隊が下田に来た時、こんな風景を見ながら慎重に奥へ奥へとすすんでいったのですね。その161年後に、私も彼らと同じ光景を眺めているんだと思いますと、連綿と続く歴史を感じます。

    あの寝姿山からは下田湾が一望できることから、ペリー艦隊ほかの黒船を見張る所があったようです。

    ★寝姿山の場所は↓にて
    https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja

  • 私たちを降ろして、次のお客さんを乗せて出港していく「サスケハナ号」です。<br /><br />観光船「サスケハナ号」の主なスペックをご紹介しますと、総トン数125トン、全長35m、幅7.6m、 機関出力900馬力、最大速力12ノット、航海速力11ノット、乗客定員240人と言ったところです。 <br />この仕様ですと、ペリー艦隊のサスケハナ号に比べてかなり小さいですね。

    私たちを降ろして、次のお客さんを乗せて出港していく「サスケハナ号」です。

    観光船「サスケハナ号」の主なスペックをご紹介しますと、総トン数125トン、全長35m、幅7.6m、 機関出力900馬力、最大速力12ノット、航海速力11ノット、乗客定員240人と言ったところです。 
    この仕様ですと、ペリー艦隊のサスケハナ号に比べてかなり小さいですね。

  • 黒船、クロフネと言いますけど、いったいどれほどの船が来たのか?<br />そこで、Wikipediaでの米艦・サスケハナ号の写真を拝借して、↑の写真の観光船サスケハナ号とを較べてみたいと思います。<br />米艦・サスケハナ号のと、観光船のサスケハナ号を模型と実物写真とで比べてみました。長さは「船体の長さ」と勝手に決めて、比較しました。だいたいこんな感じだと思いますよ。 <br /><br />同じ「サスケハナ号」でも、全然違いますね。ペリー艦隊の「サスケハナ号」の船体長さは、一般の電車の4両分より2m短く、N700系新幹線電車3両分より3m長いという感じです。<br />こんな大きな黒船が浦賀や下田に来港した日には、日本の人々はそれはそれはビックリしたことでしょう。<br /><br />ペリー艦隊のサスケハナ号の大きさとか性能ですが、情報はだいぶバラバラですね。<br />かなり大雑把な数字では満載排水量は3800トン程度、機関出力は1500馬力くらいかな〜?って思います。排水量トンが艦の長さの割に大きいのは、機関その他の設備が重いことと装甲、満載時の石炭・食料・弾薬等々の積載量の多さ・重さかな〜と思います。最大速力は11ノットのようです。総トン数は2450トンという話もあります。 さぁどうでしょうか?(^^)<br /><br />この船は帆で行ける時は機関を止めて帆で航行(帆走)し、風のない時は機関(エンジン)の力で航行(機走)したという話です。

    黒船、クロフネと言いますけど、いったいどれほどの船が来たのか?
    そこで、Wikipediaでの米艦・サスケハナ号の写真を拝借して、↑の写真の観光船サスケハナ号とを較べてみたいと思います。
    米艦・サスケハナ号のと、観光船のサスケハナ号を模型と実物写真とで比べてみました。長さは「船体の長さ」と勝手に決めて、比較しました。だいたいこんな感じだと思いますよ。 

    同じ「サスケハナ号」でも、全然違いますね。ペリー艦隊の「サスケハナ号」の船体長さは、一般の電車の4両分より2m短く、N700系新幹線電車3両分より3m長いという感じです。
    こんな大きな黒船が浦賀や下田に来港した日には、日本の人々はそれはそれはビックリしたことでしょう。

    ペリー艦隊のサスケハナ号の大きさとか性能ですが、情報はだいぶバラバラですね。
    かなり大雑把な数字では満載排水量は3800トン程度、機関出力は1500馬力くらいかな〜?って思います。排水量トンが艦の長さの割に大きいのは、機関その他の設備が重いことと装甲、満載時の石炭・食料・弾薬等々の積載量の多さ・重さかな〜と思います。最大速力は11ノットのようです。総トン数は2450トンという話もあります。 さぁどうでしょうか?(^^)

    この船は帆で行ける時は機関を止めて帆で航行(帆走)し、風のない時は機関(エンジン)の力で航行(機走)したという話です。

  • 楽しい下田湾クルーズでした。<br /><br />それでは、記念写真を!!<br />また、下田に来ることがあったら、「下田富士」を撮りたいなと思います。

    楽しい下田湾クルーズでした。

    それでは、記念写真を!!
    また、下田に来ることがあったら、「下田富士」を撮りたいなと思います。

  • 下田周辺の案内図です。<br /><br />下田湾は小さくて狭い湾です。<br />「まどが浜海遊公園」から、この図の上の方の「周辺案内図」と書いてあるあたりまでの、下田湾の南北の奥行きはおよそ1.7kmほどです。図の左側、弁天島の左奥の浜から図の右にある武ヶ浜波除けまでの東西の幅は凡そ1.3kmほどです。<br />こんな小さくて狭い湾内に、7隻もの黒船艦隊がやってきたのですから、それはもう、ビックリですよね。<br /><br />下田一泊だけでは、歴史豊かな下田の街を到底回りきれるものではないですね。<br />もし、再び来ることが出来るなら、開国博物館とか下田公園、犬走島に安直楼、そして、弁天島とハリスの小径、吉田松陰像なども訪ねてみたいです。

    下田周辺の案内図です。

    下田湾は小さくて狭い湾です。
    「まどが浜海遊公園」から、この図の上の方の「周辺案内図」と書いてあるあたりまでの、下田湾の南北の奥行きはおよそ1.7kmほどです。図の左側、弁天島の左奥の浜から図の右にある武ヶ浜波除けまでの東西の幅は凡そ1.3kmほどです。
    こんな小さくて狭い湾内に、7隻もの黒船艦隊がやってきたのですから、それはもう、ビックリですよね。

    下田一泊だけでは、歴史豊かな下田の街を到底回りきれるものではないですね。
    もし、再び来ることが出来るなら、開国博物館とか下田公園、犬走島に安直楼、そして、弁天島とハリスの小径、吉田松陰像なども訪ねてみたいです。

  • 下田湾クルーズの次に、了仙寺へ向かいます。1.5kmほどの距離ですが、足腰に自信がないでタクシーで移動です。 そうなんですよ、足腰に自信がなくなった今では、電車とタクシーでの移動が主体なんですよ。そんなとき、タクシーの運転手が女性だと嬉しいけど、それは宝くじと同じで滅多に出会うことはないですね(-_-;)<br /><br />その移動途中、窓から見えた人魚さんです。<br />「この人魚さんって、外人さん??」<br />てな感じの彫刻ですね。<br />日本人に見えなくもないですが、髪の形や身につけるものをちょっと工夫するとかして、一目見て「日本の人魚」って分かる工夫をして欲しいな〜と思います。<br />欧米では美人な人魚ばかりでなく、子どもの人魚や、カウボーイハット姿の子どもの人魚もあるのです。欧米では日常感覚の「カウボーイハット姿の子どもの人魚」を造っているように、日本の美術家も欧米の真似だけでなくて、日本の人々の日常に目を向けて欲しいですね。<br /><br />チョットだけ変えて欧米の真似をするのではなく、欧米の芸術・文化・制度をよく理解し、日本の文化や人々の姿の中に「応用」して欲しいと思います。例えば女の子の「こけし人魚」とか、女性の「浴衣人魚」でもいいと思います。<br /><br />★人魚には↓の女性の髪型など良いじゃないですか。<br />http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=41226870<br />★↓はヨーロッパ風の彫刻です。<br />http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=26214435

    下田湾クルーズの次に、了仙寺へ向かいます。1.5kmほどの距離ですが、足腰に自信がないでタクシーで移動です。 そうなんですよ、足腰に自信がなくなった今では、電車とタクシーでの移動が主体なんですよ。そんなとき、タクシーの運転手が女性だと嬉しいけど、それは宝くじと同じで滅多に出会うことはないですね(-_-;)

    その移動途中、窓から見えた人魚さんです。
    「この人魚さんって、外人さん??」
    てな感じの彫刻ですね。
    日本人に見えなくもないですが、髪の形や身につけるものをちょっと工夫するとかして、一目見て「日本の人魚」って分かる工夫をして欲しいな〜と思います。
    欧米では美人な人魚ばかりでなく、子どもの人魚や、カウボーイハット姿の子どもの人魚もあるのです。欧米では日常感覚の「カウボーイハット姿の子どもの人魚」を造っているように、日本の美術家も欧米の真似だけでなくて、日本の人々の日常に目を向けて欲しいですね。

    チョットだけ変えて欧米の真似をするのではなく、欧米の芸術・文化・制度をよく理解し、日本の文化や人々の姿の中に「応用」して欲しいと思います。例えば女の子の「こけし人魚」とか、女性の「浴衣人魚」でもいいと思います。

    ★人魚には↓の女性の髪型など良いじゃないですか。
    http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=41226870
    ★↓はヨーロッパ風の彫刻です。
    http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=26214435

  • オッ! これはいいねぇ(~o~)<br /><br />あれっ? 黒船に日本の侍が乗って、刀を振りかざしているぞ!!<br />外人さんは艦首に追い詰められて困っている(^O^)<br />これは、ペリー提督を成敗する図かも知れないね。<br /><br />勝手な想像はこの辺にして・・<br />早速、旦那様とカミさんが入って、記念写真です!!(^^)

    オッ! これはいいねぇ(~o~)

    あれっ? 黒船に日本の侍が乗って、刀を振りかざしているぞ!!
    外人さんは艦首に追い詰められて困っている(^O^)
    これは、ペリー提督を成敗する図かも知れないね。

    勝手な想像はこの辺にして・・
    早速、旦那様とカミさんが入って、記念写真です!!(^^)

  • 今度は奥様と私です(^^)<br /><br />これは最高の記念写真になりましたよ(^-^)

    今度は奥様と私です(^^)

    これは最高の記念写真になりましたよ(^-^)

  • 了仙寺の掲示板です。<br /><br />これを読みますと、3月31日に日米和親条約が締結された後、ペリー提督は下田に移動し、ここでさらに細部の規定を日本側と定た「下田条約」と言われるものを取り結んだようです。<br /><br />下田条約では、アメリカ人の下田・函館での遊歩権の許可とか、日米和親条約で取り決められた開港地の下田・函館への居留の許可、日本でのアメリカ人の犯罪への裁判権をアメリカが持つことのほか、全体で13ヶ条の条約となっていて、特に不平等な項目として治外法権が今でも取り上げられているようです。<br /><br />その治外法権ですが、当時の日本がアメリカと対等の条約を結べる状況にもなかったことも含み置く必要があったと思います。アメリカ人をどう裁くか?当時の国内法で重罪にしてしまった場合、アメリカを刺激することになりかねないと幕府側も案じたようです。長い鎖国の中にあって国際的な知識が不足していたほか、あまりに大きい日・米の力の差などを踏まえれば、やむを得ない選択だったかも知れません。<br />ハッキリ言って、日本は政治・経済・教育・美術等々……あらゆる面で、いまだに遅れていますね。そのためか、今でも経済・貿易関係で表向きは前向きに、内心は気を揉みながら結んでいる条約もあるように思いますね〜。

    了仙寺の掲示板です。

    これを読みますと、3月31日に日米和親条約が締結された後、ペリー提督は下田に移動し、ここでさらに細部の規定を日本側と定た「下田条約」と言われるものを取り結んだようです。

    下田条約では、アメリカ人の下田・函館での遊歩権の許可とか、日米和親条約で取り決められた開港地の下田・函館への居留の許可、日本でのアメリカ人の犯罪への裁判権をアメリカが持つことのほか、全体で13ヶ条の条約となっていて、特に不平等な項目として治外法権が今でも取り上げられているようです。

    その治外法権ですが、当時の日本がアメリカと対等の条約を結べる状況にもなかったことも含み置く必要があったと思います。アメリカ人をどう裁くか?当時の国内法で重罪にしてしまった場合、アメリカを刺激することになりかねないと幕府側も案じたようです。長い鎖国の中にあって国際的な知識が不足していたほか、あまりに大きい日・米の力の差などを踏まえれば、やむを得ない選択だったかも知れません。
    ハッキリ言って、日本は政治・経済・教育・美術等々……あらゆる面で、いまだに遅れていますね。そのためか、今でも経済・貿易関係で表向きは前向きに、内心は気を揉みながら結んでいる条約もあるように思いますね〜。

  • 了仙寺では、↑で触れました下田条約が締結されたところで、国指定の史跡になっているようです。<br />幕末の日米交渉が続いた時には、下田のお寺は交渉会場として、休憩所として、宿泊所として、ずいぶん利用されたのですね。

    了仙寺では、↑で触れました下田条約が締結されたところで、国指定の史跡になっているようです。
    幕末の日米交渉が続いた時には、下田のお寺は交渉会場として、休憩所として、宿泊所として、ずいぶん利用されたのですね。

  • 了仙寺本堂正面です。<br /><br />両側の柱には、白い字で「日米締交法燈下」と「日米友好萬丗(世)&#25492;」と書いてあります(萬世&#25492;の“世”は私の勝手な想像です)。ここで日米条約が結ばれ、日米の友好は万世に固く続くっていう意味かもね。<br /><br />「日米締交法燈下」と「日米友好萬丗(世)&#25492;」と書いてしまう意味を考えますと、ペリーの大艦隊の前に半ば怯えつつ結んだ条約ながら、当時の日本ではあの時代を乗り越える過程での出来事として考えざるを得なかったということの表明でしょうか。<br /><br />欧米列強が世界各地を割拠し植民地支配していた時代から、貿易・通商に変わり始めていた時代がこの頃でしょうか。そこで一番遠い日本だけが大きな戦争を仕掛けられることもなく、植民地化されることもなく、あの時代を乗り越えられたことは運が良かったとも言えます。<br />とは言え、軍事力による脅しがものをいう時代。最初の来航者が日本の植民地化ではなく、補給と避難・休息のための寄港地確保と通商を優先したアメリカであったことも、大きいと思います。もともと、欧米から一番遠い日本は、アメリカが求めたような意味で注目される位置にあったと言えるかと思います。<br /><br />この柱に書かれた「日米締交法燈下」と「日米友好萬丗(世)&#25492;」には、そんな歴史の背景が含まれているかも知れませんね。<br /><br />★了仙寺の場所は↓にて<br />https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&amp;hl=ja

    了仙寺本堂正面です。

    両側の柱には、白い字で「日米締交法燈下」と「日米友好萬丗(世)掔」と書いてあります(萬世掔の“世”は私の勝手な想像です)。ここで日米条約が結ばれ、日米の友好は万世に固く続くっていう意味かもね。

    「日米締交法燈下」と「日米友好萬丗(世)掔」と書いてしまう意味を考えますと、ペリーの大艦隊の前に半ば怯えつつ結んだ条約ながら、当時の日本ではあの時代を乗り越える過程での出来事として考えざるを得なかったということの表明でしょうか。

    欧米列強が世界各地を割拠し植民地支配していた時代から、貿易・通商に変わり始めていた時代がこの頃でしょうか。そこで一番遠い日本だけが大きな戦争を仕掛けられることもなく、植民地化されることもなく、あの時代を乗り越えられたことは運が良かったとも言えます。
    とは言え、軍事力による脅しがものをいう時代。最初の来航者が日本の植民地化ではなく、補給と避難・休息のための寄港地確保と通商を優先したアメリカであったことも、大きいと思います。もともと、欧米から一番遠い日本は、アメリカが求めたような意味で注目される位置にあったと言えるかと思います。

    この柱に書かれた「日米締交法燈下」と「日米友好萬丗(世)掔」には、そんな歴史の背景が含まれているかも知れませんね。

    ★了仙寺の場所は↓にて
    https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja

  • 本堂内に掲示してあった図です。<br /><br />図の下には、「安政元年(1854年)ペリー提督黒船陸戦隊調練の図」とあります。<br />幕府の高級役人も含めて、当時の日本の人々は近代的な軍隊の様子を自分の目で見て、どう感じたでしょうかね? もはや太刀打ち叶わずと感じたでしょうか?<br />あのローマ時代のローマ軍を見た地方の土着民族国家の人々の驚きも、こんな感じだったかも知れませんね。<br /><br />この絵を見ただけでも、日米間の懸隔の大きさ、広さ、深さというものを感じざるを得ないですね。日本はこの絵に隠されている欧米文化の基礎を読み取ることも叶わず、日本的な古い社会体質の上に、この絵のような“形”を真似し続けた来たんだな〜と、つくづく思います。これは、今も続く日本の宿命的な苦悩と言えるでしょうか。(欧米が常に正しいことをやっている、というワケではないですよ)

    本堂内に掲示してあった図です。

    図の下には、「安政元年(1854年)ペリー提督黒船陸戦隊調練の図」とあります。
    幕府の高級役人も含めて、当時の日本の人々は近代的な軍隊の様子を自分の目で見て、どう感じたでしょうかね? もはや太刀打ち叶わずと感じたでしょうか?
    あのローマ時代のローマ軍を見た地方の土着民族国家の人々の驚きも、こんな感じだったかも知れませんね。

    この絵を見ただけでも、日米間の懸隔の大きさ、広さ、深さというものを感じざるを得ないですね。日本はこの絵に隠されている欧米文化の基礎を読み取ることも叶わず、日本的な古い社会体質の上に、この絵のような“形”を真似し続けた来たんだな〜と、つくづく思います。これは、今も続く日本の宿命的な苦悩と言えるでしょうか。(欧米が常に正しいことをやっている、というワケではないですよ)

  • 大事な指定史跡ですから、記念の写真を撮りましょう!!<br /><br />お友達と、日本の歴史の大きな曲がり角の舞台となったところを見学できて、本当に良かったと思いますね〜。それこそ萬丗(世)の記念になります(^^)

    大事な指定史跡ですから、記念の写真を撮りましょう!!

    お友達と、日本の歴史の大きな曲がり角の舞台となったところを見学できて、本当に良かったと思いますね〜。それこそ萬丗(世)の記念になります(^^)

  • 了仙寺を出ようとして目に入った山門のようです。<br /><br />あれまぁ、私たちは山門を通らずに入ってしまったんだ。<br />お寺さんに入るには、普通は山門を通るものなんですが、タクシーのおじさんが本堂に近いところで降ろして下さったから、了仙寺を横から入ってしまったのでした。<br /><br />でも、道路と駐車の関係で、山門を通らずに入る人が多いと思います。

    了仙寺を出ようとして目に入った山門のようです。

    あれまぁ、私たちは山門を通らずに入ってしまったんだ。
    お寺さんに入るには、普通は山門を通るものなんですが、タクシーのおじさんが本堂に近いところで降ろして下さったから、了仙寺を横から入ってしまったのでした。

    でも、道路と駐車の関係で、山門を通らずに入る人が多いと思います。

  • 振り返って、了仙寺本堂を見ました。<br /><br />本堂内に掲示してあった「ペリー提督黒船陸戦隊調練の図」に書かれていた了仙寺本堂は「安政の大津波」で流されてしまい、現在の本堂はその後再建されたものとのことです。

    振り返って、了仙寺本堂を見ました。

    本堂内に掲示してあった「ペリー提督黒船陸戦隊調練の図」に書かれていた了仙寺本堂は「安政の大津波」で流されてしまい、現在の本堂はその後再建されたものとのことです。

  • 網目模様のなまこ壁。<br /><br />下田の楽しみに、なまこ壁が見られるというのもありました。<br />「あ〜、これがなまこ壁かぁ」<br />うわさに聞くなまこ壁。なるほどね〜。<br /><br />なまこ壁って、我が家もやろうと思えばやれたのかも?って思える作り方なんですね。<br />塗ったばかりの垂直な土壁の上に、四角で平らな瓦(平瓦)を並べながら押しつけて、その瓦同士の隙間を漆喰で埋めていくと、このような「なまこ壁」になるようです。<br />我が家では、土壁の外側にトタンを張っているわけですから、トタンの代わりになまこ壁にすれば良かったということになりますね。耐久性と地震への耐性はどうなのか?ちょっと分かりません。<br /><br />なまこ壁は下田のほかにも結構各地で見られるようです。北陸の金沢城でもなまこ壁がありますね。そこの漆喰の模様は斜線の交わる網目状ではなく、縦横の将棋盤のような筋目になっています。平瓦の並べ方の違いでしょうか。<br /><br />なまこ壁は耐火性や耐水性に強いことから、倉の外壁によく見られるそうです。<br />下田のなまこ壁は耐火性や耐水性のことのあるかも知れませんが、ある話によれば、安政の大津波後の下田の街を再興する時に、町並みのお洒落(外人に見せるため)として幕府が勧めたというのです。<br />こんなところで、日本文化の一端を外人に印象づけようとした幕府の姿勢が見られたことは、意外でもあり、面白くも感じますね。<br /><br />★↓に「なまこ壁」の記事があります。<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%81%93%E5%A3%81

    網目模様のなまこ壁。

    下田の楽しみに、なまこ壁が見られるというのもありました。
    「あ〜、これがなまこ壁かぁ」
    うわさに聞くなまこ壁。なるほどね〜。

    なまこ壁って、我が家もやろうと思えばやれたのかも?って思える作り方なんですね。
    塗ったばかりの垂直な土壁の上に、四角で平らな瓦(平瓦)を並べながら押しつけて、その瓦同士の隙間を漆喰で埋めていくと、このような「なまこ壁」になるようです。
    我が家では、土壁の外側にトタンを張っているわけですから、トタンの代わりになまこ壁にすれば良かったということになりますね。耐久性と地震への耐性はどうなのか?ちょっと分かりません。

    なまこ壁は下田のほかにも結構各地で見られるようです。北陸の金沢城でもなまこ壁がありますね。そこの漆喰の模様は斜線の交わる網目状ではなく、縦横の将棋盤のような筋目になっています。平瓦の並べ方の違いでしょうか。

    なまこ壁は耐火性や耐水性に強いことから、倉の外壁によく見られるそうです。
    下田のなまこ壁は耐火性や耐水性のことのあるかも知れませんが、ある話によれば、安政の大津波後の下田の街を再興する時に、町並みのお洒落(外人に見せるため)として幕府が勧めたというのです。
    こんなところで、日本文化の一端を外人に印象づけようとした幕府の姿勢が見られたことは、意外でもあり、面白くも感じますね。

    ★↓に「なまこ壁」の記事があります。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%81%93%E5%A3%81

  • 下田の街の南側を流れる平滑川(ヒラナメガワ)に沿った「ペリーロード」です。<br /><br />ペリーらは、この道を上陸してから了仙寺まで歩いたわけですが、ほぼ2ヶ月の間この平滑川を見ながら了仙寺へ通ったのですね。「ペリーロード」名の由縁ですね。<br />彼らが歩いたのは、安政大津波の前のこと。当時はどんな風情を醸していたのかと思います。<br /><br />ハリスは安政大津波から復興した下田へ着任しましたから、平滑川のほとりを歩きながらペリーが見なかったなまこ壁の家並みを見ていることでしょう。<br /><br />★平滑川とペリーロードの場所は↓にて<br />https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&amp;hl=ja

    下田の街の南側を流れる平滑川(ヒラナメガワ)に沿った「ペリーロード」です。

    ペリーらは、この道を上陸してから了仙寺まで歩いたわけですが、ほぼ2ヶ月の間この平滑川を見ながら了仙寺へ通ったのですね。「ペリーロード」名の由縁ですね。
    彼らが歩いたのは、安政大津波の前のこと。当時はどんな風情を醸していたのかと思います。

    ハリスは安政大津波から復興した下田へ着任しましたから、平滑川のほとりを歩きながらペリーが見なかったなまこ壁の家並みを見ていることでしょう。

    ★平滑川とペリーロードの場所は↓にて
    https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja

  • こちらの風情もなかなか良いですね。<br /><br />欲を言えば、家の形など昔の町並みを守って欲しかったな・・と思います。

    こちらの風情もなかなか良いですね。

    欲を言えば、家の形など昔の町並みを守って欲しかったな・・と思います。

  • 今度は長楽寺にやってきました。<br /><br />長楽寺はちょっと高いところにありますから、ヒョッとして津波の被害を受けずに済んだかと思います。このお寺さんも日露和親条約の交渉の舞台となり、また日米の和親条約の交換の場になったと観光案内には書いてありました。<br /><br />ここでも、時代が大きく変わっていくなかで、大切な役割を担わされたのですね。<br /><br />★長楽寺の場所は↓にて<br />https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&amp;hl=ja

    今度は長楽寺にやってきました。

    長楽寺はちょっと高いところにありますから、ヒョッとして津波の被害を受けずに済んだかと思います。このお寺さんも日露和親条約の交渉の舞台となり、また日米の和親条約の交換の場になったと観光案内には書いてありました。

    ここでも、時代が大きく変わっていくなかで、大切な役割を担わされたのですね。

    ★長楽寺の場所は↓にて
    https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja

  • 長楽寺の掲示板です。<br /><br />日露和親条約の交渉に当たったプチャーチン提督は、ペリー提督のように9隻もの大艦隊による脅しのような態度を見せず、日本との間に領土問題がありながらも、交渉は日本の事情を察して紳士的に進めたといわれています。<br />既に日米和親条約締結の実績もありましたから、それを考えれば日本もロシアも特段の要求を出さなければ、交渉はやりやすかったと思いますね。

    長楽寺の掲示板です。

    日露和親条約の交渉に当たったプチャーチン提督は、ペリー提督のように9隻もの大艦隊による脅しのような態度を見せず、日本との間に領土問題がありながらも、交渉は日本の事情を察して紳士的に進めたといわれています。
    既に日米和親条約締結の実績もありましたから、それを考えれば日本もロシアも特段の要求を出さなければ、交渉はやりやすかったと思いますね。

  • 長楽寺には「宝物館」があって、歴史的な資料が拝見出来るようになっています。本来は撮影禁止なのです。<br />これまでも撮影禁止が多かったものですから、ここは是非にとお願いして、少しだけ撮影させて頂きました。もちろんフラッシュは使いませんでした。長楽寺さんには厚く御礼申し上げます。<br /><br />−−−−−−−−−<br />吉田松陰密航の図<br /><br />本とかドラマで知ってはいたけど、吉田松陰がどんな風に黒船に近づいていったのかまでは知りませんでした。<br /><br />既に触れたことですが、松蔭は弟子の金子重之輔と共に弁天島から黒船を目指して、こんな感じで漕ぎ出していったんですね。<br />しかし、日米間での条約締結を任務としていたペリー提督は、松蔭の「米国へ連れて行ってくれ!」という願いを受け入れることが出来なかったのです。<br /><br />結局、松蔭の密航の企ては失敗し、幕府の役人に捕らえられてしまいます。この時の松蔭の年齢は25歳だったとか。弟子の金子重之輔は24歳だったとのこと。こんな若さで、これほどの大志を抱いていたなんて、何度聞いても驚きです!!

    長楽寺には「宝物館」があって、歴史的な資料が拝見出来るようになっています。本来は撮影禁止なのです。
    これまでも撮影禁止が多かったものですから、ここは是非にとお願いして、少しだけ撮影させて頂きました。もちろんフラッシュは使いませんでした。長楽寺さんには厚く御礼申し上げます。

    −−−−−−−−−
    吉田松陰密航の図

    本とかドラマで知ってはいたけど、吉田松陰がどんな風に黒船に近づいていったのかまでは知りませんでした。

    既に触れたことですが、松蔭は弟子の金子重之輔と共に弁天島から黒船を目指して、こんな感じで漕ぎ出していったんですね。
    しかし、日米間での条約締結を任務としていたペリー提督は、松蔭の「米国へ連れて行ってくれ!」という願いを受け入れることが出来なかったのです。

    結局、松蔭の密航の企ては失敗し、幕府の役人に捕らえられてしまいます。この時の松蔭の年齢は25歳だったとか。弟子の金子重之輔は24歳だったとのこと。こんな若さで、これほどの大志を抱いていたなんて、何度聞いても驚きです!!

  • 下田に到着したロシア使節のようです。<br /><br />ロシアが日本に交渉のためにやってきたのは、この時が初めてではなかったようです。<br />プチャーチン艦隊がやってくる約半世紀前に、レザーノフがアレクサンドル一世の書簡を持って、長崎に来航しているようです。この時は、幕府の引き延ばし作戦にしびれを切らして、通商条約を結ばすに帰ってしまったようです。<br /><br />この写真の服装を見ますと、日本が明治になって欧米やロシアなどのこうした服装を真似したことがよく分かりますね。

    下田に到着したロシア使節のようです。

    ロシアが日本に交渉のためにやってきたのは、この時が初めてではなかったようです。
    プチャーチン艦隊がやってくる約半世紀前に、レザーノフがアレクサンドル一世の書簡を持って、長崎に来航しているようです。この時は、幕府の引き延ばし作戦にしびれを切らして、通商条約を結ばすに帰ってしまったようです。

    この写真の服装を見ますと、日本が明治になって欧米やロシアなどのこうした服装を真似したことがよく分かりますね。

  • 1854年当時の下田の様子です。<br />玉泉寺に近い方の風景かと思います。<br /><br />私の想像ですが、写真右の島は(家が繋がっていて、渡れるようです)弁天島かと思います。<br />写真中央左の黒船の向こうの島は、犬走島かと思います。<br /><br />のどかな風景ですが、ここが幕末外交史に残る場所だったなんて、考えられませんね。

    1854年当時の下田の様子です。
    玉泉寺に近い方の風景かと思います。

    私の想像ですが、写真右の島は(家が繋がっていて、渡れるようです)弁天島かと思います。
    写真中央左の黒船の向こうの島は、犬走島かと思います。

    のどかな風景ですが、ここが幕末外交史に残る場所だったなんて、考えられませんね。

  • 寺から出てくる幕臣の行列です。<br /><br />山門の重厚な作りが印象的です。

    寺から出てくる幕臣の行列です。

    山門の重厚な作りが印象的です。

  • 1854年12月23日に遠州灘沖で発生した東海地震(安政大地震)による大津波が、下田を襲った時の図です(図では、1854年12月11日です)。この地震・津波で下田の街はほぼ壊滅してしまったそうです。<br /><br />この時、日露和親条約締結を求めて、ロシアの艦隊が下田に来ていたのです。ロシア艦隊が下田の人々を救助したり手当てしたこともあったようです(これが幕府の印象を良くした)。ロシア軍艦のディアナ号は一部損傷し、修理のため西伊豆の戸田に回航途中沈没したのですが、その際には近隣の村の人々が総出で乗組員を助けたとか。<br />日本とロシアは意外なことで理解し合うことになったといわれています。<br /><br />★ディアナ号の詳しいことは↓にて<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%8A%E5%8F%B7<br />★↓はプチャーチンの像とディアナ号の錨のあるところです。<br />https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&amp;hl=ja

    1854年12月23日に遠州灘沖で発生した東海地震(安政大地震)による大津波が、下田を襲った時の図です(図では、1854年12月11日です)。この地震・津波で下田の街はほぼ壊滅してしまったそうです。

    この時、日露和親条約締結を求めて、ロシアの艦隊が下田に来ていたのです。ロシア艦隊が下田の人々を救助したり手当てしたこともあったようです(これが幕府の印象を良くした)。ロシア軍艦のディアナ号は一部損傷し、修理のため西伊豆の戸田に回航途中沈没したのですが、その際には近隣の村の人々が総出で乗組員を助けたとか。
    日本とロシアは意外なことで理解し合うことになったといわれています。

    ★ディアナ号の詳しいことは↓にて
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%8A%E5%8F%B7
    ★↓はプチャーチンの像とディアナ号の錨のあるところです。
    https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja

  • 下田大津波の後に造られた番小屋です。<br /><br />ロシア人は、こんなところも観察していたのですね。<br /><br />★安政大地震の詳しいことは↓にて<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87

    下田大津波の後に造られた番小屋です。

    ロシア人は、こんなところも観察していたのですね。

    ★安政大地震の詳しいことは↓にて
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87

  • これは誰だか分かりません(=_=)<br /><br />ちょっと丸顔な感じがしますけど、ロシア艦隊のプチャーチン提督?って感ぐってみますが、どうでしょうか??<br />ご存じの方、教えて下さいね。

    これは誰だか分かりません(=_=)

    ちょっと丸顔な感じがしますけど、ロシア艦隊のプチャーチン提督?って感ぐってみますが、どうでしょうか??
    ご存じの方、教えて下さいね。

  • この人がプチャーチン提督かも知れませんね。<br /><br />ロシアは早くから日本に関心を持っていたものの、あまり積極的ではなかったようで、結局和親条約締結はアメリカに先を越されてしまいます。<br /><br />プチャーチンの交渉態度は↑でも触れましたように、ペリーのように艦隊を率いて直接江戸湾に乗り込むことをせず、先ずは長崎交渉を始めたのでした。直接↑でもお話しましたように高圧的な態度も取らなかったようです。<br /><br />そういうプチャーチンですから、下田にプチャーチンの銅像があるかと思ったのですけど、意外となさそうですね。高圧的な態度で日本に臨み、カッコ良さを見せつけたペリーの銅像は複数あるけど、日本を友好的に扱ったプチャーチンの銅像はつくらなかったのですね。<br />プチャーチンの銅像は、ヂアナ号が沈んだ時に地元の人々が総出で乗組員を助けたという、富士市の海岸付近にあるようです。<br /><br />プチャーチンのこととは関係ないですが、この一件でも、親切で丁寧な人よりも、少々粗雑でも強くてカッコ良い人や行動は印象に残りますし、それだけに憧れることもある(=_=) そんな市民感情が察せられるような気がします。

    この人がプチャーチン提督かも知れませんね。

    ロシアは早くから日本に関心を持っていたものの、あまり積極的ではなかったようで、結局和親条約締結はアメリカに先を越されてしまいます。

    プチャーチンの交渉態度は↑でも触れましたように、ペリーのように艦隊を率いて直接江戸湾に乗り込むことをせず、先ずは長崎交渉を始めたのでした。直接↑でもお話しましたように高圧的な態度も取らなかったようです。

    そういうプチャーチンですから、下田にプチャーチンの銅像があるかと思ったのですけど、意外となさそうですね。高圧的な態度で日本に臨み、カッコ良さを見せつけたペリーの銅像は複数あるけど、日本を友好的に扱ったプチャーチンの銅像はつくらなかったのですね。
    プチャーチンの銅像は、ヂアナ号が沈んだ時に地元の人々が総出で乗組員を助けたという、富士市の海岸付近にあるようです。

    プチャーチンのこととは関係ないですが、この一件でも、親切で丁寧な人よりも、少々粗雑でも強くてカッコ良い人や行動は印象に残りますし、それだけに憧れることもある(=_=) そんな市民感情が察せられるような気がします。

  • おすみ辨天。<br />どうも弁天様らしくもないですね。女神様でもないし、女神様らしくもない(&gt;_&lt;)<br /><br />ちょっと調べると、「悲恋のおすみ弁天」というのが出てきます。「おすみ」という女性が小説の中の人なのか、実話を元にした実在の人なのか分かりませんが、要は女性の裸体像をつくりたかったということでしょうか。 いずれにしても、女神様でもない人を裸にして彫刻するっていうのは、チョットいただけないですね。<br /><br />小説などに登場する女性を観音様などと名付けて裸体彫刻に取り上げるとなると、イメージが壊されて品のない話になり易いです。女性(男性も、生き物も・・)の美しさは、人々や生き物たちの懸命に生きる姿と、そこから溢れてくる「愛」の心にあるのだと思います。そして、その気持ちの表れる行動にもあると思います。<br /><br />実際に、家族や友人たち、街で出会う女性たちの裸体姿を見たいなどとは思いません。裸体美術は、人間の身体を神の姿と理由付けたギリシャ神話のもとで発展したもの。 それでさえも、裸体画・裸体像を制作する動機を突き詰めていけば、女神像という理由付けをもって裸の像を造って楽しみたいという「俗っぽい」要求が根底にある、と言う人たちも少なからずいます。現在では「神」という理由を付けずとも、「美術」の名の下に様々なテーマでの裸体彫刻が許されているような気がします。<br /><br />ましてや、ヨーロッパと全てが違う日本で、裸体画・裸体像をどれだけ理由付けてみたところで、鑑賞する人々の心には、それほどの理由も湧いてこないのではないでしょうか? もちろん、あまりに俗っぽい要求を露骨に表現したものは、社会の陰で鑑賞されているのですが・・(=_=)

    おすみ辨天。
    どうも弁天様らしくもないですね。女神様でもないし、女神様らしくもない(>_<)

    ちょっと調べると、「悲恋のおすみ弁天」というのが出てきます。「おすみ」という女性が小説の中の人なのか、実話を元にした実在の人なのか分かりませんが、要は女性の裸体像をつくりたかったということでしょうか。 いずれにしても、女神様でもない人を裸にして彫刻するっていうのは、チョットいただけないですね。

    小説などに登場する女性を観音様などと名付けて裸体彫刻に取り上げるとなると、イメージが壊されて品のない話になり易いです。女性(男性も、生き物も・・)の美しさは、人々や生き物たちの懸命に生きる姿と、そこから溢れてくる「愛」の心にあるのだと思います。そして、その気持ちの表れる行動にもあると思います。

    実際に、家族や友人たち、街で出会う女性たちの裸体姿を見たいなどとは思いません。裸体美術は、人間の身体を神の姿と理由付けたギリシャ神話のもとで発展したもの。 それでさえも、裸体画・裸体像を制作する動機を突き詰めていけば、女神像という理由付けをもって裸の像を造って楽しみたいという「俗っぽい」要求が根底にある、と言う人たちも少なからずいます。現在では「神」という理由を付けずとも、「美術」の名の下に様々なテーマでの裸体彫刻が許されているような気がします。

    ましてや、ヨーロッパと全てが違う日本で、裸体画・裸体像をどれだけ理由付けてみたところで、鑑賞する人々の心には、それほどの理由も湧いてこないのではないでしょうか? もちろん、あまりに俗っぽい要求を露骨に表現したものは、社会の陰で鑑賞されているのですが・・(=_=)

  • おすみ辨天のすぐ近くに、またもや女性の裸体像が・・(-_-) 見れば「お吉観音」と書いてあります。<br />お吉さんは、かつて実在した人ですよ!!! 実在した人物の裸体像をつくって良いのか???これには大きな疑問と怒りを感じます!!!<br /><br />私たちが今まで見て来た裸体画・裸体像は、一応「神聖」とされる神々の像であり、抽象的な肉体美を求めたものでした。それでさえも、世俗的要求を満たすために神々の名を利用した程度の裸体画・裸体像が圧倒的に多いのです。<br /><br />どこかの記事で、裸体画・裸体像の制作について、歴史上に実在した個人を対象にしないのが「マナー」だ、と書いてあったと記憶しています。人々から尊敬され、慕われ、同情され、涙されて来た実在の人を、裸体で描き、彫る「権利」は、なんなのでしょうか?<br /><br />誠実に生き、人々のために活動し、良く働いた人はたくさんいます。また不幸な運命に翻弄され苦労し、苦悩した人もたくさんいます。そんな実在の個人の裸体は(女性の裸体は特にそうですが)、作者の意図がたとえマジメであろうと、「裸体」となった時点で「その人」への尊厳とか同情の思いは薄れて、単なる「世俗的興味」の対象になってしまいます。ですから、実在した個人の「裸体」は「描かない・彫らない」ようにして欲しいのです。<br /><br />この「お吉観音」は、現世の困苦から救われて観音様のもとへ行かれたお吉さんを表現する意図があったかも知れません。それを素直に喜べば良いのですが、裸にしてしまったお吉さんの姿を見ては、どうもそんな気にはなれません。<br /><br />明治になって、ヨーロッパに向かった美術家たちの中には、帰国して早速に「裸体」に取り組んだ人もいました。ギリシャ神話以来の、ヨーロッパの長い苦悩と変化の歴史を、たった1年や2年のヨーロッパ滞在でどれほど研究出来たでしょうか。そして、何を学び何を検証し、日本美術に応用できる「何を」引き出したのでしょうか。<br />そのあたりが曖昧なまま、帰国してすぐに裸体画や裸体彫刻に走った姿は、まさにヨーロッパ的裸体芸術からの「物まね芸術」だったように思われるのです。<br /><br />外国の物まねではなく、もっともっと日本に住む人の労働や生活をよく見ることと、人々を愛し、守ることに心を砕いて欲しいです。そして、日本の文化・芸術の歴史と特徴を踏まえて、その時々のテーマを如何に表現するかを考えて欲しいと思うのです!!<br /><br />まだまだ言いたいけど、ここで話は終わります。<br />ちょっとカッカ!!としてしまいました(&gt;_&lt;)

    おすみ辨天のすぐ近くに、またもや女性の裸体像が・・(-_-) 見れば「お吉観音」と書いてあります。
    お吉さんは、かつて実在した人ですよ!!! 実在した人物の裸体像をつくって良いのか???これには大きな疑問と怒りを感じます!!!

    私たちが今まで見て来た裸体画・裸体像は、一応「神聖」とされる神々の像であり、抽象的な肉体美を求めたものでした。それでさえも、世俗的要求を満たすために神々の名を利用した程度の裸体画・裸体像が圧倒的に多いのです。

    どこかの記事で、裸体画・裸体像の制作について、歴史上に実在した個人を対象にしないのが「マナー」だ、と書いてあったと記憶しています。人々から尊敬され、慕われ、同情され、涙されて来た実在の人を、裸体で描き、彫る「権利」は、なんなのでしょうか?

    誠実に生き、人々のために活動し、良く働いた人はたくさんいます。また不幸な運命に翻弄され苦労し、苦悩した人もたくさんいます。そんな実在の個人の裸体は(女性の裸体は特にそうですが)、作者の意図がたとえマジメであろうと、「裸体」となった時点で「その人」への尊厳とか同情の思いは薄れて、単なる「世俗的興味」の対象になってしまいます。ですから、実在した個人の「裸体」は「描かない・彫らない」ようにして欲しいのです。

    この「お吉観音」は、現世の困苦から救われて観音様のもとへ行かれたお吉さんを表現する意図があったかも知れません。それを素直に喜べば良いのですが、裸にしてしまったお吉さんの姿を見ては、どうもそんな気にはなれません。

    明治になって、ヨーロッパに向かった美術家たちの中には、帰国して早速に「裸体」に取り組んだ人もいました。ギリシャ神話以来の、ヨーロッパの長い苦悩と変化の歴史を、たった1年や2年のヨーロッパ滞在でどれほど研究出来たでしょうか。そして、何を学び何を検証し、日本美術に応用できる「何を」引き出したのでしょうか。
    そのあたりが曖昧なまま、帰国してすぐに裸体画や裸体彫刻に走った姿は、まさにヨーロッパ的裸体芸術からの「物まね芸術」だったように思われるのです。

    外国の物まねではなく、もっともっと日本に住む人の労働や生活をよく見ることと、人々を愛し、守ることに心を砕いて欲しいです。そして、日本の文化・芸術の歴史と特徴を踏まえて、その時々のテーマを如何に表現するかを考えて欲しいと思うのです!!

    まだまだ言いたいけど、ここで話は終わります。
    ちょっとカッカ!!としてしまいました(>_<)

  • 伊豆国七福神めぐり<br /><br />七福神の皆様がお揃いですね(^-^)<br />長楽寺さんは、「伊豆国七福神めぐり」のコースに入っているのですね。<br /><br />「七福神めぐり」で、心の洗濯をするのも良いですね(^^)<br />長楽寺さんで七福神のお参りをしながら、歴史の勉強をする(^-^)<br />おすすめのコースですよ(^_^)v

    伊豆国七福神めぐり

    七福神の皆様がお揃いですね(^-^)
    長楽寺さんは、「伊豆国七福神めぐり」のコースに入っているのですね。

    「七福神めぐり」で、心の洗濯をするのも良いですね(^^)
    長楽寺さんで七福神のお参りをしながら、歴史の勉強をする(^-^)
    おすすめのコースですよ(^_^)v

  • 長楽寺さんには、撮影を特別にお許し下さって心底から感謝でしたm(_ _)mm(_ _)m<br />お許しを戴くって、なかなかあり得ないですからね。<br /><br />ぼつぼつお昼の時間です。<br />長楽寺さんにお礼を申し上げて、レストランを探しに行きます。<br /><br />ここは長楽寺さんへの入り口です。<br />長楽寺さんへは、ペリーロードの中間点あたりにある赤い橋を山側に向かって渡りますと、約50m弱ほどで、「長楽寺 入り口」の看板地点に行けますよ。

    長楽寺さんには、撮影を特別にお許し下さって心底から感謝でしたm(_ _)mm(_ _)m
    お許しを戴くって、なかなかあり得ないですからね。

    ぼつぼつお昼の時間です。
    長楽寺さんにお礼を申し上げて、レストランを探しに行きます。

    ここは長楽寺さんへの入り口です。
    長楽寺さんへは、ペリーロードの中間点あたりにある赤い橋を山側に向かって渡りますと、約50m弱ほどで、「長楽寺 入り口」の看板地点に行けますよ。

  • 長楽寺さんへ行くコースのポイントは、この赤い橋です。<br />その橋のたもとには、このような「なまこ壁」のお家があります。このなまこ壁のお家の前を通って右の方にいきますと、長楽寺さんへの入り口が見えます。<br /><br />このなまこ壁のお家には「土佐屋」というお店のようです。私たちは時間がなくて立ち寄らなかったのですけど、是非一度覗いてみて下さいね。

    長楽寺さんへ行くコースのポイントは、この赤い橋です。
    その橋のたもとには、このような「なまこ壁」のお家があります。このなまこ壁のお家の前を通って右の方にいきますと、長楽寺さんへの入り口が見えます。

    このなまこ壁のお家には「土佐屋」というお店のようです。私たちは時間がなくて立ち寄らなかったのですけど、是非一度覗いてみて下さいね。

  • なまこ壁のお家が気に入ったモンですから、ここで記念写真です。

    なまこ壁のお家が気に入ったモンですから、ここで記念写真です。

  • ペリーロードでもう一枚(^^)<br /><br />私は、カミさんの使用人ですからね(-_-;)<br />せっせとご主人様の写真を撮るのであります(~o~)

    ペリーロードでもう一枚(^^)

    私は、カミさんの使用人ですからね(-_-;)
    せっせとご主人様の写真を撮るのであります(~o~)

  • 「おかあさん、このマンホールの蓋を見て!黒船だよ!」<br />「ホントだ!」<br /><br />下田らしい図柄ですね〜。<br />私は歩く際に下を見るタイプではないので、マンホールの蓋の特徴に気付くことがあんまりないのですよ。この日は偶然でした。<br />もちろん、道端に落ちている小銭を拾うこともないです(=_=)<br /><br />★↓は温泉の街、下呂のマンホールの蓋です。<br />http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=21543045

    「おかあさん、このマンホールの蓋を見て!黒船だよ!」
    「ホントだ!」

    下田らしい図柄ですね〜。
    私は歩く際に下を見るタイプではないので、マンホールの蓋の特徴に気付くことがあんまりないのですよ。この日は偶然でした。
    もちろん、道端に落ちている小銭を拾うこともないです(=_=)

    ★↓は温泉の街、下呂のマンホールの蓋です。
    http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=21543045

  • この時期は紫陽花が咲いていました。<br /><br />この時期に前後して、紫陽花祭りがあるようです。<br />そういうときに合わせて来てみるのも、良いですね。

    この時期は紫陽花が咲いていました。

    この時期に前後して、紫陽花祭りがあるようです。
    そういうときに合わせて来てみるのも、良いですね。

  • レストランは駅周辺でと思って、道端でタクシーを拾おうと思ってもなかなか拾えず(-_-;)<br />結局、了仙寺に近い道の広いところで待ちました(歩いて15分程度ですが、今の私たちではそれが辛いのですよ)。<br /><br />その道から見えたのが、「了仙寺宝物館」<br />サスケハナ号から了仙寺にきた時、私はお話しながら了仙寺本堂に向かったので、この宝物館を見落としていました。ウ〜ン残念!!<br /><br />これは宝物館の前に掲示してあったものです。<br />この絵には、歌川國信の名が書いてあり、四角な判も押してありますよ〜。左下の、大きな顔の絵はペリーかと思いますが、如何でしょうか?<br /><br />当然と言えば当然ですが、この時代のアメリカ人たちは日本の宗教や文化をそれほど理解していなかったようです。「ペリー提督日本遠征記」などでは、日本人をバカにしたような記述が結構あって、読んでいてカチン!!と感じることが度々あります。<br />他方で、評価している面もあります。日本の手工業や建築などの作り方などは、しっかり評価しています。中にはレベルの高さに驚きを感じています。漆器なども同様に褒めています。<br /><br />また、当時の絵画・美術についても、かなりの好評価をしています。日本の絵画は線形描画が多いのですが、遠近法、人物や動物の肉体表現、動作表現、感情表現、怪奇や滑稽なことを自由にユーモラスに表現していること等々・・、彼らはかなり高く評価しています(日本の絵画などはアメリカに持ち帰って、専門家の評価を得て書いています)。<br />もちろん、当時の日本人の知的関心とレベルの高さも十分に評価しています。<br /><br />これらを読みますと、日本人は自分の文化にもっと自信を持つべきだったと思います。悲しいことに、島国のために自分の文化を世界の中で客観的に捉えられなかったのですね。残念ですね。<br /><br />★歌川国信の詳しいことは↓にて<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%B7%9D%E5%9B%BD%E4%BF%A1

    レストランは駅周辺でと思って、道端でタクシーを拾おうと思ってもなかなか拾えず(-_-;)
    結局、了仙寺に近い道の広いところで待ちました(歩いて15分程度ですが、今の私たちではそれが辛いのですよ)。

    その道から見えたのが、「了仙寺宝物館」
    サスケハナ号から了仙寺にきた時、私はお話しながら了仙寺本堂に向かったので、この宝物館を見落としていました。ウ〜ン残念!!

    これは宝物館の前に掲示してあったものです。
    この絵には、歌川國信の名が書いてあり、四角な判も押してありますよ〜。左下の、大きな顔の絵はペリーかと思いますが、如何でしょうか?

    当然と言えば当然ですが、この時代のアメリカ人たちは日本の宗教や文化をそれほど理解していなかったようです。「ペリー提督日本遠征記」などでは、日本人をバカにしたような記述が結構あって、読んでいてカチン!!と感じることが度々あります。
    他方で、評価している面もあります。日本の手工業や建築などの作り方などは、しっかり評価しています。中にはレベルの高さに驚きを感じています。漆器なども同様に褒めています。

    また、当時の絵画・美術についても、かなりの好評価をしています。日本の絵画は線形描画が多いのですが、遠近法、人物や動物の肉体表現、動作表現、感情表現、怪奇や滑稽なことを自由にユーモラスに表現していること等々・・、彼らはかなり高く評価しています(日本の絵画などはアメリカに持ち帰って、専門家の評価を得て書いています)。
    もちろん、当時の日本人の知的関心とレベルの高さも十分に評価しています。

    これらを読みますと、日本人は自分の文化にもっと自信を持つべきだったと思います。悲しいことに、島国のために自分の文化を世界の中で客観的に捉えられなかったのですね。残念ですね。

    ★歌川国信の詳しいことは↓にて
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%B7%9D%E5%9B%BD%E4%BF%A1

  • こんな掲示もありました。<br /><br />水師提督、通詞役、測量役、軍船の大将等々、黒船の乗組員たちの姿が描いてありました。また、上陸した時の行事等も描いてありました。<br />今になって気がついたのですけど、幕末の黒船来航の様子を細かく描いたこれらの絵を、一枚一枚ごとに分けて撮影しておけば良かったのに・・と。<br />後悔先に立たず・・(-_-;)(T_T)…ですね(&gt;_&lt;)

    こんな掲示もありました。

    水師提督、通詞役、測量役、軍船の大将等々、黒船の乗組員たちの姿が描いてありました。また、上陸した時の行事等も描いてありました。
    今になって気がついたのですけど、幕末の黒船来航の様子を細かく描いたこれらの絵を、一枚一枚ごとに分けて撮影しておけば良かったのに・・と。
    後悔先に立たず・・(-_-;)(T_T)…ですね(>_<)

  • こちらは、ご覧の通り「蒸気火輪船之図」です。<br />艦首・艦尾の人物の動きまで入れて、ずいぶん細かく精巧に描いてありますね。<br /><br />艦尾の大きな旗はアメリカの国旗か?海軍旗か?と思いますが、どっちにしても省略してありますね。その上の3つの小さい旗は信号旗でしょうか。<br /><br />サスケハナ号は外輪の保護カバーが上半分だけで、外輪の下半分が見えます。そのため、ひと目で「外輪船」と分かりますが、「ポーハタン号」は外輪のカバーがもう少し下まであって且つ、船体横の白線がカバー上にも通して塗ってあります。そのため、「外輪が無い」ように見えてしまい、「スクリュー船」かと勘違いしてしまいそうです。<br />「ポーハタン号」は外輪船時代の終わりに近い頃の船ですから、船が進化する過渡期の船だったのですね。<br /><br />右上の枠内には人物が描いてありますが、ここに「北亜墨利加大合衆國 人物真像の図」と書いてあります。  黒衣を着て剣を付け、着剣した鉄砲を構えていますね。<br />この写真も、文字のところだけをキチンと撮るべきだったのです。<br />またまた、反省です(&gt;_&lt;)<br /><br />★↓は外輪が見えにくい「ポーハタン号」です。<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%BF%E3%83%B3_(%E8%92%B8%E6%B0%97%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%88)

    こちらは、ご覧の通り「蒸気火輪船之図」です。
    艦首・艦尾の人物の動きまで入れて、ずいぶん細かく精巧に描いてありますね。

    艦尾の大きな旗はアメリカの国旗か?海軍旗か?と思いますが、どっちにしても省略してありますね。その上の3つの小さい旗は信号旗でしょうか。

    サスケハナ号は外輪の保護カバーが上半分だけで、外輪の下半分が見えます。そのため、ひと目で「外輪船」と分かりますが、「ポーハタン号」は外輪のカバーがもう少し下まであって且つ、船体横の白線がカバー上にも通して塗ってあります。そのため、「外輪が無い」ように見えてしまい、「スクリュー船」かと勘違いしてしまいそうです。
    「ポーハタン号」は外輪船時代の終わりに近い頃の船ですから、船が進化する過渡期の船だったのですね。

    右上の枠内には人物が描いてありますが、ここに「北亜墨利加大合衆國 人物真像の図」と書いてあります。 黒衣を着て剣を付け、着剣した鉄砲を構えていますね。
    この写真も、文字のところだけをキチンと撮るべきだったのです。
    またまた、反省です(>_<)

    ★↓は外輪が見えにくい「ポーハタン号」です。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%BF%E3%83%B3_(%E8%92%B8%E6%B0%97%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%88)

  • これはペリー提督かも??<br /><br />身長があり、お腹が出ていて、ヘアーもあって、男前で、ホントに恰幅が良いですね。<br /><br />私は?と申しますと、身長が低く、お腹がへっこみ、ヘアーが無くて、男前なんて言えなくて、カミさんのお尻に敷かれて、日々お茶碗洗いとカミさんにマッサージだよ・・(-_-;)(T_T) <br /><br />ほんと、ペリー提督の姿を見ていますと、羨ましいです!!<br />彼の身体からは、日本との交渉の全てを任されるだけの貫禄が、全身から溢れていますね。<br /><br />こんなに貫禄があり、健康そうな身体の外見にも関わらず、、アルコール使用障害、痛風、リウマチを患っていたっとか。そして、日本から帰った4年後にニューヨークで亡くなっているんです。63歳だったとか。「前期高齢者」にもなれなかったのです(T_T) ご冥福を祈りたいですね。<br /><br />★ペリーの詳しいことは↓にて<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%BC

    これはペリー提督かも??

    身長があり、お腹が出ていて、ヘアーもあって、男前で、ホントに恰幅が良いですね。

    私は?と申しますと、身長が低く、お腹がへっこみ、ヘアーが無くて、男前なんて言えなくて、カミさんのお尻に敷かれて、日々お茶碗洗いとカミさんにマッサージだよ・・(-_-;)(T_T) 

    ほんと、ペリー提督の姿を見ていますと、羨ましいです!!
    彼の身体からは、日本との交渉の全てを任されるだけの貫禄が、全身から溢れていますね。

    こんなに貫禄があり、健康そうな身体の外見にも関わらず、、アルコール使用障害、痛風、リウマチを患っていたっとか。そして、日本から帰った4年後にニューヨークで亡くなっているんです。63歳だったとか。「前期高齢者」にもなれなかったのです(T_T) ご冥福を祈りたいですね。

    ★ペリーの詳しいことは↓にて
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%BC

  • ↑の絵とは少し違いますが、こんな絵もありました。<br />歌川國信の絵をみて、全体の感じを少し変えてか写したような感じですね。<br />もちろん、無署名です。<br /><br />図の上には、「北亜墨利伽人」と書いてあります。     <br />この人物は、どうやらペリー提督のようです。

    ↑の絵とは少し違いますが、こんな絵もありました。
    歌川國信の絵をみて、全体の感じを少し変えてか写したような感じですね。
    もちろん、無署名です。

    図の上には、「北亜墨利伽人」と書いてあります。
    この人物は、どうやらペリー提督のようです。

  • 運良くタクシーが来ましたので、早速移動。<br /><br />駅近くの磯料理・地魚料理の「魚河岸」というお店に入りました。<br />何となく良さそうな感じがしましたからね。 その予感が当たって、こんなに美味しいものが出てきましたよ〜〜!!<br /><br />左上は奥様の海鮮丼です。これも良いねぇ。<br />「海鮮」という言葉には、何か惹かれるものがありますね(^^)<br /><br />右上は当家のカミさんがお願いしたやつです。カミさんは金目鯛に拘っていますから、その煮込みですね。カミさんは「美味しい!」と言ってました。<br /><br />左下のは、私が取ったやつ。刺身の盛り合わせみたいなヤツです。<br /><br />右下のは、旦那様がお取りになったもの。これは金目鯛の「あら煮」だと思いましたけど、なんと、なんと、大盛りではないですか!!私の目がこれに釘付けになってしまいました!(^^)!<br />身も結構とれて、最高!! 私もこれにすべきだったと、猛烈に反省!!(^^;)<br />また下田に来ることがあったら、これをお願いしたいと決めました!(^^)!<br /><br />★魚河岸の場所は↓にて<br />https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&amp;hl=ja

    運良くタクシーが来ましたので、早速移動。

    駅近くの磯料理・地魚料理の「魚河岸」というお店に入りました。
    何となく良さそうな感じがしましたからね。 その予感が当たって、こんなに美味しいものが出てきましたよ〜〜!!

    左上は奥様の海鮮丼です。これも良いねぇ。
    「海鮮」という言葉には、何か惹かれるものがありますね(^^)

    右上は当家のカミさんがお願いしたやつです。カミさんは金目鯛に拘っていますから、その煮込みですね。カミさんは「美味しい!」と言ってました。

    左下のは、私が取ったやつ。刺身の盛り合わせみたいなヤツです。

    右下のは、旦那様がお取りになったもの。これは金目鯛の「あら煮」だと思いましたけど、なんと、なんと、大盛りではないですか!!私の目がこれに釘付けになってしまいました!(^^)!
    身も結構とれて、最高!! 私もこれにすべきだったと、猛烈に反省!!(^^;)
    また下田に来ることがあったら、これをお願いしたいと決めました!(^^)!

    ★魚河岸の場所は↓にて
    https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja

  • お友達ご夫妻もご満足のようですね。<br /><br />「魚河岸」さんに入ったのは正解でした。<br />次回来た時には、金目鯛の「あら煮」ですね(^_^)v

    お友達ご夫妻もご満足のようですね。

    「魚河岸」さんに入ったのは正解でした。
    次回来た時には、金目鯛の「あら煮」ですね(^_^)v

  • 私たちも満足でした。<br /><br />カミさんに刺身を一つ取られたのが、チョット悔しかったね(~o~)

    私たちも満足でした。

    カミさんに刺身を一つ取られたのが、チョット悔しかったね(~o~)

  • 帰りの電車は、「スーパービュー踊り子号」です。<br /><br />この電車は、窓が大きくて見晴らしが良く、ホントに快適ですね〜。<br />海の眺めも良くて、旅気分最高です。<br />またいつか下田に来る時も、この電車にしようかな?(~o~)

    帰りの電車は、「スーパービュー踊り子号」です。

    この電車は、窓が大きくて見晴らしが良く、ホントに快適ですね〜。
    海の眺めも良くて、旅気分最高です。
    またいつか下田に来る時も、この電車にしようかな?(~o~)

  • 熱川温泉です。<br /><br />温泉がこんなに噴き出しているんですね。<br />なんかモッタイナイ感じですね。<br />ここで、電車を降りて、一風呂浴びていきたいなと思いましたね。<br /><br />それと、このガスの勢い!!<br />放出させていてはモッタイナイ!!チョット発電機でも付けたら??と思いませんか。<br />小規模でも、こまめに発電をする。<br />田んぼへ水を供給する小さな用水路でも、小規模な発電が実験されていますよね。原発災害を無くしていくためには、大事なことと思いますけどね。

    熱川温泉です。

    温泉がこんなに噴き出しているんですね。
    なんかモッタイナイ感じですね。
    ここで、電車を降りて、一風呂浴びていきたいなと思いましたね。

    それと、このガスの勢い!!
    放出させていてはモッタイナイ!!チョット発電機でも付けたら??と思いませんか。
    小規模でも、こまめに発電をする。
    田んぼへ水を供給する小さな用水路でも、小規模な発電が実験されていますよね。原発災害を無くしていくためには、大事なことと思いますけどね。

  • 最後にもう一度毘沙子島を・・。<br /><br />お吉さんも、ペリーも、ハリスも、そして下田の人々も、この毘沙子島を眺めたものです。<br />逆に、毘沙子島はそれらの人々の行動も、その腹の内もお見通しだったかも知れませんね。<br /><br />私の旅は、下調べもせずに出掛けているのが殆どです。本当は事前勉強をしていくのが良いのですが、それがなかなかできなくて不勉強なまま旅立っているのです。<br /><br />そんなわけで、安直楼のことも知らなかったですし、了仙寺の博物館もあとで気が付くし、下田開国博物館なんてのも知りませんでした(-_-;) それに下田公園も行ってみたいです。お吉さんが身投げしたところも行ってみたいです。<br />下田だけで一泊の予定は短すぎます!!写真も不正確なものが多いし、もういっぺん下田へ行ってみたいと思いました。<br /><br />歴史というものは、力ある者が争って支配権・主導権を奪い合うドラマのようなもの。私のような一般人は、歴史を身近に感じることもなく、権力者が繰り広げる雲上のドラマのように見ていたのです。<br />然し、今回の旅で「お吉さん」という一人の女性の姿を通して、私は初めて「人々の喜怒哀楽が交錯する地上のドラマ」としての「歴史」と向き合ったことを実感したのです。<br /><br />お吉さんを苦しませた世間の風潮は、今なお健在です。あのとき、お吉さんに寄り添った人はどれほどいたのでしょうか?ほんの数人だったかも知れませんね。<br />或る人が正しいとか間違っているとかではなくて、どんな人にもより添い、お互いに幸せを感じ合える日々の大切さを、心底から痛感した熱海・下田旅行でした。<br /><br /><終わり>

    最後にもう一度毘沙子島を・・。

    お吉さんも、ペリーも、ハリスも、そして下田の人々も、この毘沙子島を眺めたものです。
    逆に、毘沙子島はそれらの人々の行動も、その腹の内もお見通しだったかも知れませんね。

    私の旅は、下調べもせずに出掛けているのが殆どです。本当は事前勉強をしていくのが良いのですが、それがなかなかできなくて不勉強なまま旅立っているのです。

    そんなわけで、安直楼のことも知らなかったですし、了仙寺の博物館もあとで気が付くし、下田開国博物館なんてのも知りませんでした(-_-;) それに下田公園も行ってみたいです。お吉さんが身投げしたところも行ってみたいです。
    下田だけで一泊の予定は短すぎます!!写真も不正確なものが多いし、もういっぺん下田へ行ってみたいと思いました。

    歴史というものは、力ある者が争って支配権・主導権を奪い合うドラマのようなもの。私のような一般人は、歴史を身近に感じることもなく、権力者が繰り広げる雲上のドラマのように見ていたのです。
    然し、今回の旅で「お吉さん」という一人の女性の姿を通して、私は初めて「人々の喜怒哀楽が交錯する地上のドラマ」としての「歴史」と向き合ったことを実感したのです。

    お吉さんを苦しませた世間の風潮は、今なお健在です。あのとき、お吉さんに寄り添った人はどれほどいたのでしょうか?ほんの数人だったかも知れませんね。
    或る人が正しいとか間違っているとかではなくて、どんな人にもより添い、お互いに幸せを感じ合える日々の大切さを、心底から痛感した熱海・下田旅行でした。

    <終わり>

この旅行記のタグ

20いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

この旅行記へのコメント (4)

開く

閉じる

  • 白い華さん 2015/12/17 21:04:19
    熱海に続いて・・・、下田も、堪能。
    今晩は。
    クルーズ仲間と・・・、「伊豆を、4人旅」って、いいですねぇ〜。
    「貫一 お宮」の 銅像!で、踏みつけられる・・・のが、カメちゃん ??? 
    でも、(我が家!は、残念ながら・・・違う。けど) 日本の家庭!って カカァ殿下が 普通。って ありましょうね。
    現代では、銅像が、男女違う!を、 御夫妻が、上手に表現されてて、笑いました。 

    「見晴らし!の いい〜・・・熱海の ホテル」に、続き、 伊豆半島の 突端近く!の 下田に、大移動。
    普通列車も、ずいぶん・・・綺麗!なので、踊りきました。
    「世界クルーズ旅行!を 沢山・・・経験されている! 4人組」には、 わずか・・・な 時間。でも、「下田湾! クルーズ」は、 船に乗れて、良かったデスネ。
    旅行で、「プラス ワン!の 乗り物。 船」って、 格別な 楽しさ!って 感じ。 皆さん、満足されただろう・・・と 思いました。

    「黒船。ペリー。 開国・・・の 下田寺巡り」は、 様々な、歴史を 勉強しながら、満喫された。と、解りました。
    「私も、この ルート!で 旅しています」ので、 様子が、しっかり・・・伝わり、楽しめました。
    下田 「 ペリー・ロード」は、 柳が 揺れて、レトロ!な 家々が 立ち並び、私は、とても、お気に入いり!の 場所。
    今回、カメちゃん御夫妻・・・が 歩かれて、とても、嬉しかったデス。
    ほんと、なまこ壁の 家々!も、 ムードを 盛り上げてくれていますよね〜。

    そして、「 佐久間良子主演!舞台 『 唐人お吉 』」は、 東京・帝国劇場へ 見に行く・・・ほど、大好き!な 演目でした。
    だから、私も、「唐人お吉・・・の 人生」を たどりながら、下田散策!と しました。
    『 唐人お吉 』 は、 いつの世の中・・・でも、 人が 集まれば、「世間」が 有る。し、「世間の 目」が 有る。
    そんな・・・普遍的な 「世間」を、 物語にして、考えさせる! 「ひとり・・・の 女の人生」 って、思っています。

    最近では、 ちょっと、話は違いましょう。が、『 喜多嶋 舞 & 大沢樹生・・・の 父親が 違ってた・事件 』 が、大い!に 興味ありました。
    奥様の、喜多嶋 舞は、ひどすぎますね〜。大沢さんは、奥様が、何処か・・・で 妊娠してきた、子供。を、我が子と、信じて、頑張って・・・育てて、偉かった。って 私・・・は、思っていますよ。 世間も、そんな・・・「喜多嶋 バッシング」でしたが、しょうがない!って 思いますよね〜。
    カメちゃんは、関心・・・なかったかしら ? この 事件。。。 

    「東京の 近郊!の 伊豆半島」って、 カメちゃんの 住む! 愛知県・・・との 間。で、 新幹線利用だと、スルーばかり!の 場所。
    ホント、「行く気・・・に なりません。と、なかなか、チャンスって ありませんよね〜」
    でも、 箱根など、 この辺り!も、 ずいぶん、旅されていますよね。 カメちゃん 御夫妻。
    どうぞ、これから・・・の 人生!も、 「素晴しい! 夫婦旅」を 続けてくださいね。 期待!していますよ。
         それでは また

    カメちゃん

    カメちゃんさん からの返信 2015/12/18 14:35:27
    RE: 喜多嶋舞さんのこと、考えさせられました。
    白い華さん こんにちは

    コメントをいただいて、ありがとうございました。

    下田の旅行記、書きながらついつい熱くなってしまったところもありました。
    お吉さんのこと、そして彼女を取り巻く「世間」のことは私の経験とも重なって、ちょっとばかり思いの丈を書いてしまったかな〜?と、反省しています(^^;)

    「誰が悪いでもない、世間の風潮が人々の心を動かしている」
    これがお吉さんを苦しめた最大の要因ですね。これは難しい問題です。現在でも、周囲を気にして真剣な議論を「言えない・言わない」ことが日常的にあって、社会の発展を阻害しているような気がするんです。実際、研究会でも、企業の取締役会でも、上からの議論が多い割に下からの提案や問題提起が少ないという声を聞きますね(もちろん、全てではないと思いますけど)。そして、誰も責任を取らない取らせないという風潮が今も続いているように思います。

    白い華さんは、東京の帝国劇場で佐久間良子さん主演の「唐人お吉」をご覧になったのですか?
    それはとっても羨ましいお話です!! お吉さんの苦労がどのように理解され表現されたのか?とても興味のあるところです。


    さて、お話の「喜多嶋舞と大沢樹生」の裁判沙汰。私もニュースでちょっと聞きました。 
    あの話の通りだとすれば、喜多嶋舞さんのしたことは酷いと思います。喜多嶋さんの生き方・考え方が、浅く浮わついているようにも思います。

    「人生は、“その場・その時が楽しいだけではダメだ”」と常々思っているんですが、世の中の現実はそういう方向に押し流されているように思います。いつの時代も喜多嶋さんような方はおられますが、現在の社会の流れからみれば、彼女のような生き方をする人がさらに増えてもおかしくないように思います。

    マジメな話が避けられやすい昨今ですが、自分の人生だけはマジメに考えて欲しいですね。そのためには「他人も自分(自分の生き方)も大切にする」ことを知り、守り抜いて欲しいですね。

    或る人は「よい知識(人生)を得るためには、良い本、良い情報、良い人との出会いを自ら求め、一方的な考えや良くない行いに同調しないことだ」と言っていたように思います。そういう努力も、本当に必要だと思います。でも、そこでは「良い」ことの基準は示されていませんでした。それは「細かいことで人を揶揄するのではなく、“人をどこまでも愛し、守り、共に歩む”という考え方と姿勢」にあると、私なりに考えています。
    それこそ、白い華さんが取り上げられた「田中正造」の生き方も参考になると思います。

    難しい話なので固い話になってしまいましたけど、喜多嶋さんが親として、大人として、社会人として、責任ある行動を取ってくれることを願い、信じたいと思います。


    きょうは、朝一番からCT検査と診察でした。お腹の爆弾は成長していましたが、手術は出来ないとのことでした。なんか割り切れない気持ちです。
    身体の動けるうちに、カミさんと一緒の「ボチボチ旅」やっていきたいと思っています。

    きょうは、ずいぶん固い話になってしまいました。ごめんなさいねm(_ _)m
    それでは、また・・・(^_^)/~
    カメちゃん
  • ガブリエラさん 2015/11/22 21:29:53
    サスケハナ号乗ってみたいです♪
    カメちゃん☆

    こんばんは♪

    拝見するのが遅くなってしまいました(^_^;)
    この間のPETで、ちょっと嫌な光が・・。
    12月の初めに、またまたCTを撮ることになっちゃいました。
    色々、要因は考えられるそうで、なんともない場合もあるそうなんですけどね(^_-)-☆

    それはさておき、ペリーさんといえば、社会で習った人だな〜と懐かしく思いだしました。
    下田といえば、ペリーさんなんですね。

    黒船の名前が、サスケハナ号だったなんて、今知りましたよー!!!
    なかなかカッコイイ舟だったのですね。
    この観光船は、ちょっと乗ってみたいです♪

    お吉さんのお話とか、色々歴史のお勉強をさせていただきました。
    カメちゃんの旅行記は、とってもためになります〜♪

    最近は、フランスのテロ事件や、某国の海洋侵害など、なんだか穏やかではなくなってますね・・。
    お互いの国の文化を尊重することができれば、こんな事起きないでしょうに・・。
    思いやりの精神が、薄れてきてるように感じてしまいます(+_+)

    カメちゃんと奥様の笑顔を拝見すると、先日お会いした時のことを思い出して、こちらも笑顔になっちゃいます♪
    いっぱいお話しできて、本当に嬉しかったです!
    来年は、お会いしに愛知に行かなくっちゃ!!!

    ガブ(^_^)v

    カメちゃん

    カメちゃんさん からの返信 2015/11/23 13:15:59
    RE: サスケハナ号乗ってみたいです♪ 私たちもご一緒したいな〜(^_^)v
    ガブちゃん こんにちは〜(^_^)v

    お返事が遅くなってごめんなさいm(_ _)m

    下田といえば、ペリーさんなんですね。

    下田は開国の歴史を刻んだ町。
    その役者?も 揃っていて、ペリーさんもその主人公の一人ですよね。
    あの時代に大変な任務を果たすために、今時の6万トンの船でも揺れまくった大洋の荒波を乗り越えて、西に東に活躍した人なんですね。ホントに強い人ですね。
    私なら、そんなことはまっぴらゴメン!!で、 カミさんの傍から離れないと思いますよ(~o~)

    > 黒船の名前が、サスケハナ号だったなんて、今知りましたよー!!!

    私も下田へ行って初めて知ったのですよ〜。
    あの観光船はカッコ良いでしょう!!(^_^) 下田へお出掛けになったら是非ぜひあの船に乗って、ペリーさんの気分を味わって下さいね。
    その際には、私達もご一緒したいな〜〜(^_^)

    > お吉さんのお話とか、色々歴史のお勉強をさせていただきました。

    色々なことを、たくさん書いてしまいました(^^;)
    お吉さんのことお察しするとジッとしておれなくて、さらにたくさん書いてしまいました(-_-)
    お吉さんが極楽浄土で幸せになっておられると良いなぁと、祈っているんですよ。

    > お互いの国の文化を尊重することができれば、こんな事起きないでしょうに・・。
    > 思いやりの精神が、薄れてきてるように感じてしまいます(+_+)

    お話の通りですよね!!
    人も民族も国も自分の価値観で相手を判断するんではくて、お互いが察しあい、尊重しあい、助け合い、対話することが出来れば、平和な世界になるのに!!と思われてなりません。

    > いっぱいお話しできて、本当に嬉しかったです!

    私も嬉しかったです。
    ガブちゃんのたくさんの旅のお話もお聞きしたいです。もっともっと時間を取ってお話したいですね〜〜(^_^)v

    > 来年は、お会いしに愛知に行かなくっちゃ!!!

    来年でも、いつでも、お越しくださいね!!
    お待ちしておりますよ〜〜〜!!!!(^_^)/~。

    ガブちゃんとお話できて、嬉しかったです(^-^)
    ありがとうございました(^^)
    カメちゃん

カメちゃんさんのトラベラーページ

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

この旅行記の地図

拡大する

PAGE TOP