2013/11/08 - 2013/11/08
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カメちゃんさん
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10月、北海道の旅から帰って間もなくのころ、お友達から地域の女性グループで「新見南吉ツアー」が企画されていることをお聞きしました。
新見南吉と言えば、私は4年前にお友達とともに半田の記念館へ行ったことがあります。
しかし、今回のツアーは新見南吉記念館だけでなくて、南吉の生家や養家など地域も見学すると言う予定が入っていましたので、これはもう絶対に行かなくちゃ!!と思いました。
南吉の童話を読んでみますと、彼の生まれ育った地域のこと?と思われる内容がちょくちょく出てきます。そう、岩滑新田とか、半田池とか、常夜燈とかが出てきます。そういうところを訪れてみたら、南吉童話がもっと身近に感じられるかも知れませんね。
出発当日バスに乗ってみますと、男性参加者はナンとなんと私一人!!(*^_^*)(^-^)
前半は新見南吉記念館から(^^)
今日は楽しい日になりそうです!(^^)!(^_^)v
参考文献
★[ごんぎつね]をつくった南吉?人間南吉?
[児童文学]を作った人たち かつおきんや著 ゆまに書房
★或る児童文学者の生涯?知られざる南吉?
後藤隆葉著 新風社
★再考 新見南吉 赤座憲久著 エフエー出版
★その他、ネット上の記事も多数参考にさせていただきました。
★★「新美南吉を訪ねて」の上下編のアドレスを掲示します
それぞれのアドレスをクリックされてご覧下さい。
新美南吉を訪ねて(その1・新見南吉記念館)
https://4travel.jp/travelogue/10846603
新美南吉を訪ねて(その2・新見南吉の里・最終回)
https://4travel.jp/travelogue/10846744
-------
★★前回の旅行記、「『ごんぎつね」との出会い」は↓にて
http://4travel.jp/travelogue/10411850
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- レンタカー 自家用車
PR
-
きょうはお友達の車に便乗させて頂いて、「南吉記念館ツアー」の集合地点となっていました「梅坪台交流館」へやってきました。
我が人生では初めてのところですが、お友達のお蔭ですんなりと来ることが出来ました。 -
きょうは、普通の観光バスがくると思っていましたが、このようなマイクロバスでした。ほぼ満席に近い盛況とのことで、私の座れる席があるのか心配になってきました(^_^;)
オトコは私一人ですし、一人席になるか、補助席なるか?それとも席がなくて立っていくのか??分かりません(^^;) そこはオトコですから、腹を決めて乗るしかないですね。 -
本日お世話になる先生と幹事さんです。
左からAさん、Bさん、Cさんです(^^)
きょうの参加者は女性ばかりとのことで(*^_^*)、男性は私一人だけ(-_-)
チョット緊張の一日になりそうです。
「どうして男性はカメちゃんだけ?」
いやいや、そんなことは聞かないで下さいね(^_^;) 物事の流れというものの中には、こういうこともあり得るということです。
★こちらの皆さんも、左からAさん、Bさん、Cさんでした(^^)
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=28928593 -
余計な心配は見事に外れて、余裕で座れました(^^)
そう、あの舞鶴にも行ったいつものお仲間と、バスの最後尾に陣取ることが出来たのです。心配した分だけ、また髪が抜けてしまいました(-_-;)
バスは定刻に発車。
一点の雲もなく、春うららかな・・?
オット!!、 間違えました。 秋晴れの素晴らしい日になりました。「南吉文学散歩」には、バッチリのお天気です。
きょうの楽しみは、南吉の生まれた家と、彼が子供の頃過ごしたところを訪ねることです。最後には南吉が養子に行った家も見られるとのことです。 -
しばらくは車窓風景です(^^)
オオー!! 立派な建物が見えてきましたねぇ。
帰宅後調べましたら、豊田市内にある「日本赤十字・豊田看護大学」とのことです。
看護婦さんの大学ですね。
★豊田看護大学の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=35.102415,137.119227&spn=0.001332,0.001293&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,0004eace9133f7fd61423,35.102584,137.119288,0,-32 -
こんどは、こんな建物が見えてきました。
ここは「豊田市公設地方卸売市場」です。
いろいろな種類の野菜、果物、魚などをたくさん扱っているとのことです。
まぁ、市民の台所と関係の深いところですね。
たまには見学会もやってるみたいなので、いっぺんは行って見たいものです。美味しいモンを安く買えるかもね(^-^)
★豊田市公設地方卸売市場の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=35.091822,137.119085&spn=0.010657,0.010343&iwloc=0004eae186d0c765150eb -
集合場所から、新美南吉記念館まではおおよそ50kmほどもあります。 途中には豊田市南部の工場群や田園地帯を通っていきますよ。
こんな会社もありました。 -
こんどは、右手の方に工場が見えてきました。
この工場は、トヨタの三好工場だと思います。
★三好工場の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=35.076785,137.101935&spn=0.002665,0.002586&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,0004eace987314c4e74fe,,,0,-31 -
その次が、トヨタの堤工場です。
トヨタで3番目の乗用車専門工場だと思います。
大工場ですよ〜。
乗用車部品のプレス加工から車両組み立てまでを、一貫生産している工場です。
トヨタはこの堤工場のほか、元町工場や高岡工場・上郷工場等々、大規模な工場をこの周辺に持っています。
★堤工場の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=35.053189,137.103302&spn=0.002666,0.002586&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,0004eacea6d1e43f4b486,,,0,-31 -
伊勢湾岸道の下に入りました。
これから伊勢湾岸道→知多半島道路と抜けて、南吉記念館へと向かいます。
今年は、南吉生誕100年ということで、様々な行事が催されていたようです。私も一度くらいは行きたいなと思っていたのですが、ちょうど運よく今回のツアーに参加出来たのですよ。
このツアーは一般旅行社の主催するツアーではなくて、勉学に日々励んでおられる女性の皆さんの会の行事として取り組まれたものとのことです。
可愛いバスガイドさんはおられませんが、ご参加の皆さんは全て美人ばかりですので、とてもいい感じですよ(^_-)
★可愛いバスガイドさんを見たい方は↓をご覧下さいね〜(^_^)v
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/16136201/src.html -
そして、アイシン高丘の工場です。
アイシン高丘は、トヨタ系のアイシン精機のグループ企業です。
アイシン高丘は、炭鉱が閉山されている時に炭鉱離職者をたくさん採用したそうです。
そういう話を聞きますと、なんだか親しみを感じますね。
このあたりには、トヨタ系の大工場が結構たくさんありますよ〜。
★↓はアイシン高丘の工場のあるところです。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=35.027449,137.072572&spn=0.002508,0.002838&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,0004eacf8fc1302bb9ebc,35.027607,137.072124,0,-32 -
これは、本日ご参加の方からいただいた、お菓子です(^^)
申し訳ないやら嬉しいやら。 -
新美南吉美術館に到着です。
この記念館は、ご覧の通り半地下式になっています。
大雨や台風の時など大丈夫かなぁと思いますけど、元気でいるところを見ますと大丈夫なんですね。
また、このような施設ですので、普通の建物を想像してきますと、つい見落としてしまいます。南吉記念館のカタチと場所を事前によく確認してきて下さいね。
★新美南吉記念館の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.909033,136.91126&spn=0.001335,0.001293&iwloc=00047b52b66b528a20c54 -
私たちの見学を案内して下さるガイドさんです。
私たちは2つのグループに別れて、このお二人に案内して頂きます。 -
見ていただきたいのは、吊されている網です。
前の方が八の字のように開いていて下には錘が付いており、川底を含んで川幅いっぱいに網の口を開けて、魚たちが網の方入っていくように出来ています。魚たちは網の丸いところを奥へ奥へと行き、袋小路に入ってしまいます。
「ごんぎつね」に登場する兵十さんは、この網でウナギを捕まえたのですね。
「ごん」がいたずらをした時に、そのウナギが「ごん」の首に巻き付いていってしまったというお話でしたね。
★「ごん」のお話は↓でも取り上げています。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/album/10411850/ -
「ごんぎつね」の一場面です。
兵十さんが漁をしているところを、「ごん」が見ていますね。
兵十さんの網を見て下さいね。この網は「はりきり網」と言うそうです。
この網の口を川幅いっぱいに広げて一晩おいておき、翌朝になって網をあげますと、魚やウナギが入っているってワケです。
川の定置網みたいなモンですかね? -
兵十さんが、網で獲った魚やウナギを入れていた「びく」です。
この記念館では、半田でこれを「どうまん」と言っていると表示されていました。
南吉のいた知多半田でも、私たちの三河地区でも、これは「びく」とは言わず「どうまん」と言っておりましたよ。
三河湾周辺で(静岡県の御前崎あたりでも)私たちが言っていた「びく」というのは、農家が天秤棒の両端に架けて野菜などを運ぶ際に使う入れ物で、直径4,50cmほどの蔓で編んだ底の平らな丸い入れ物です。これに縄を付けて、天秤棒にかけて運ぶのです(沓掛時次郎がが被っていた、頭の平たい三度笠をひっくり返したような形に近いです。竹や草の葉で編んでいるところもあります)。 -
このようなものが、愛知県や静岡県あたりでの「びく」です。
この「びく」を天秤棒の両端に掛けて、肩にかついでいくのですよ。
もっと小ぶりで少し深いものもあります。それは、田畑に行く時に手ぬぐいや弁当などの入れ物として使うコトが多いです。地域によっては「ふご」と呼ばれることもあるようです。
「びく」を作るのに使う素材も多々あって、蔓科の植物の「蔓」を使うのも広く見られます。この場合は目が荒く強度があります。 -
兵十さんが漁をしていた矢勝川(やかちがわ)です。
矢勝川は半田市北西部にある川で、阿久比川の支流です。
こんな小さな川?と思われるかも知れませんが、阿久比川の支流で全長で5kmほどの川です。当時としてはこんな程度なのかも知れません。もちろん、狭いところもあればやや広いところもあります。
私自身もこういう感じの小川で、ザルを使ってフナとかドジョウとかを捕ったことがあります。また、田植えや田の草取りをしたあとに、農具や足などを洗ったものでした。
あの当時は、今のような洗剤もなく、トイレに溜まったものは畑の甕に運び出されていましたから、川の水はとても綺麗でしたね。ですから、いろいろな魚がいたと思いますよ。
海も近いこともあって、標高が低ければ汽水魚も来ているかもね?
★矢勝川の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.910387,136.912434&spn=0.002512,0.002838&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,0004eae336d101286562a,,,0,-31 -
現在の矢勝川です。
ご覧の通り、堤防は整備され、川幅も拡張されています。
堤防のと手には彼岸花がたくさんあって、秋になると彼岸花の楽園になりますよ。それを見に来る観光客も多いです。 -
今年はこんな展示が幾つもありました。
点々とある模様は彼岸花です。 -
↑の文字のところを大きくしてみますと、このような文面になっていました。
六地蔵さんの陰に隠れている「ごん」の様子ですね。 -
その様子をジオラマにしたものです。
「ごん」は六地蔵さんの陰に隠れて、兵十さんのお母さんの葬列を見てしまったのでした。
ここで、「ごん」は“あんなことをしなければよかったと”反省をしたんですね。 -
そして・・
「ごん、お前だったのか(T_T)」
こんなに悲しい場面になってしまったのでしたね。
★この話の簡単なご紹介は下にて。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/album/10411850/ -
「ごんぎつね」が掲載された児童雑誌「赤い鳥」の、昭和7年1月号です。
-
兵十さんが「ごん」を撃った銃というのは、火縄銃だったのですね。
その銃とは、このような銃だったというのです。
「ごん」がこんな銃で撃たれてしまったなんて、なんて悲惨なことでしょう!!!(T_T) -
↑の銃の説明です。
兵十さんは、狩猟もしていたのですね。
文明というものは、良いことばかりをもたらしてくれるのではないですね。 このような銃をつくり大砲を作って、人間同士の大量殺戮の世の中をつくってしまいました。
今では核兵器や原発までつくってしまいました。それを操るのは、競争と欲に余念のない人間集団ですからね〜(>_<) 怖いですね〜(*_*)(@_@) -
「ごんぎつね」に登場する「兵十さん」は、実は「兵重(ひょうじゅう)さん」という実在の人物をモデルにしたものだったようです。
名前の文字が違うだけで、人物像から狩猟や漁業まで、その面影も含めて実在の兵重さんそのままを思い浮かべながら、書いたのかも知れませんね。
南吉の家は、田畑はあったようですが漁はしていなかったので、狩猟や漁法などは兵十さんに尋ねていたようです。
私が中学を卒業して町工場で働いていた時、川や田で電球の照明を利用した漁をしていた人の、腰に架ける小型バッテリーの充電をしたことがあります。 あの時代は海に近い田舎でも、川や池・水田でウナギやドジョウ、フナ、食用になるカエルなどを獲っていたましたね。 -
そのころの時代(明治末期から昭和初期まで)の、子供達の遊びの様子です。
竹馬や駒回し、「めんこ」に「たこ揚げ」などがあったようですね。女の子には「ままごと」や「じゃのめ遊び」などがあったようです。
私が小学校低学年の頃には、地面に「S字」を描いての陣地遊びのようなもの、缶蹴り、「かくれんぼ」「電車ごっこ」「缶けり遊び」もありました。
私もそうでしたが、あの頃の子供は、遊ぶといえば戸外でみんなと遊んだものでした。無口で運動の苦手な私は、戸外での遊びにはあまり積極的ではなかったです。
あの時代を思い出しますと、世の中が変わりましたね〜。
テレビやパソコン、ケータイにスマホにと、感覚的・感情的な楽しさばかりを売り物にするメディアが氾濫し、大人も子供もそれにはまりこんでいる状況になりましたね。
今の子供の遊び道具は竹馬や駒ではなく、ケータイにスマホのようですね、大変な違いですね。 -
大正時代の子供の姿でしょうね。
私の母も、この時代には日本髪を結っていましたからね。 -
南吉の生家の前にある常夜灯です(現在もあります)。
南吉は子どもの頃、この付近でよく遊んだようです。彼の作品の中には、この常夜灯がたびたび登場してきます。
南吉は遊んでばかりではなく、3年生の頃から作文を書き始めました。
3年の秋には、小学校周辺の光景を文章で見事に“描いて”いるんですね。
そうです。「稲は黄色く・・、山を見ると松があおあおと・・」文章に“描いて”いるんです。その年の暮れには、先生に「このまま行けば小説家・・」と言わしめたのでした。
4年生にもなると、我々大人でも書けないような豊かな表現力で、地域の光景を文章に“描いて”います。そして、それに続くように、「一生懸命勉強」する決意を書いていたのです。こうした作文の内容と努力に、先生方は積極的な評価を惜しまなかったようです。
南吉はよく本を読んだそうです。南吉は「少年倶楽部」を読んでいたようですが、お父さんも貸本屋の常連客だったようで、本が手近にあったみたいですね。
★常夜灯の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.90952,136.924278&spn=0.002512,0.002838&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,0004eacdf11cad3198bf7,,,0,-31 -
南吉の童話「塀」の一部と、それらしい塀の写真です。
竹馬を作って遊んでいる様子が書いてあります。主人公の「新ちゃん」は随分高い竹馬を作りました。 その竹馬で塀のところへ来ると、塀より高くて塀の向こうが見えてしまったという話でしたね。そこで新ちゃんは何かを思いついたというのです。
さて、それからどうなったのでしょうか? -
小学生の頃の南吉。
右上は小学校の卒業記念の写真です。
中段左の写真は、南吉の生家の前にある常夜燈です。この写真の左端に写っている瓦屋根の家が南吉の生家です。
この常夜灯も南吉の童話に登場してきます。
下の右の毛筆文字は、南吉の「書き初め」だそうです。何歳の時かは分かりません。下の中央は、南吉が小学3〜4生時の綴り方帳です。マジメに書いていたようですね。
★岩滑小学校の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.908374,136.917562&spn=0.002512,0.002838&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,0004eab91783166bb1231,34.908687,136.916986,0,-32 -
↑の卒業記念の写真を拡大したものです。
赤い印の付いているのが、南吉だと思います。
父兄も先生もたくさん御一緒なので、六年生が何人なのかチョット分かりません。
後ろの校舎の壁を見ますと、白っぽい色ですね。
私たちの東幡豆小学校の校舎はコールタン(コールタール)塗りでしたから、校舎は真っ黒でした。その点では、南吉の通った学校はちょっとオシャレだったように思います。 -
南吉の尋常小学校卒業證書です。
右の白い書類は「学籍簿」で、1年からの成績も記入してあります。
それを見ますと、6年生の時に“乙”が1個あるだけで、あとは1年から6年まで全て「甲」だったのですね。
この時の成績の付け方は、甲・乙・丙・丁の4段階だったようですが、それにしてもスゴイです。
イヤもう、ほんと!! びっくりです。
私たちの時代(昭和20年代)は「+2」から「−2」までの5段階でした。私は自慢にもならない「ホタル賞」でしたからね(これはホントにマジメな話です(-_-;))。私の9年間の小・中学校の体験には、当時を懐かしむものは何一つ無いですよ(T_T)
こんな私からすれば、南吉はホントに貴公子と言いたいくらいです!! -
明治から大正・昭和にかけての、半田の様子です。
南吉の生まれた半田の街は早くから開けており、半田を通る鉄道のJR武豊線も東海道本線より先に開通し、港や工場もあり、当時の軍隊も半田付近で大演習をしたりするなど、早くから軍事・交通・産業が進展していたようです。
私たちが大八車を押していた昭和戦後の経験からしても、大正時代を中心とした半田の様子はかなり進んでいたように見えますからね。 -
ちょっとボケてしまいましたが、南吉の家族関係の図です。
拡大してご覧下さいね〜。
南吉(本名・渡辺正八、その後養子に出て「新美正八」となる)は、畳職人だった「多蔵」と「りゑ」の次男として生まれましたが、南吉4歳にして母りゑが他界。
多蔵は新たな妻「志ん」を迎えます。そして、南吉6歳の時に腹違いの弟「益吉」が生まれます。
そうなると、「志ん」はこの家の財産が益吉に相続されるのかが心配になりました。多蔵は「南吉が後継ぎになるのが当然」と応えたため、「志ん」は益吉を連れて実家に帰ってしまいます。
結局、南吉は邪魔となり、小学2年の夏(8歳)のとき、母りゑの養母であった「新美志も」のところへ養子に出されます。実家に帰った「志ん」も居づらくなってきており、後継ぎが益吉なることにもなって、渋々戻ってきました。
一方、南吉は養子に出たものの、志もさんが南吉を叱ってばかりの生活に耐えられず、数ヶ月で生家に帰ってしまったのでした。以後、南吉は「志ん」のイヤミを聞きながら一生を暮らすことになります。このことは、南吉の死の1ヶ月前に、母(志ん)を「許せん」と言っていたことからも、想像出来ます。
4歳にして生母を失い、継母と養母のことで辛い思いをさせられことを想像しますと、普通の子なら心も歪んでしまい、遊び仲間に入って勉強もせず、ダメな大人になってしまうと考えてしまいますよね〜(-_-;) それが、小学校を首席で、中学校を2番の成績で卒業し、東京外語学校までいったというのですから、驚きです。
私の母も、私の幼い時から病弱でした。しかし、最後の孫(私の娘)を見るまで生きていてくれました。南吉の苦労が偲ばれてなりません。 -
南吉の中学時代の生活です。
中学進学には、両親は反対したそうです。小学校の成績が良かったこともあって、先生方の強い勧めもあり、中学進学が実現したというのです。
南吉は中学校でちょっと惨めな思いをします。 というのは、同級生を見ると、医師や公務員・教員・実業家等々上流家庭の子たちばかりで、小さな家で畳屋兼下駄屋をしている南吉の家庭とは、社会的レベルが全然違うのを感じたのです。 こういうことから感じる南吉の惨めな想いは、私には痛いほど分かります。
この掲示によれば、南吉が文学に目覚めたのは中学2年の頃のようです。
しかし、彼が文学に目覚め得た資質は、作文などを得意としていた小学生の頃からしっかり育まれていたのですね。
とは言え動機があったわけで、中学の校友会誌「柊陵(しゅうりょう)」に詩や作文を投稿しており、それによって先生から彼の「文才」を認められたという経験があったというのです。
また、童話童謡雑誌「兎の耳」にも応募し、入選して掲載号を賞品として受け取ったとのことで、これにも随分励まされたようです。また「愛誦」「少年倶楽部」にも投稿していたようです。
さらには、豊橋中学の校友会誌に触れ、そこに載っていた非常に優れた作文を見て触発されたことも、書くことへの関心を高めたといえると思います。 -
南吉が中学3年の時、「緑草」に投稿して掲載された「銭坊」の昭和3年9月号です。
この頃から、活発に童話を創作して、様々な雑誌に投稿していたのです。
当寺の中学生は戦後の新制中学と違って、中産階級以上の子供で且つ、小学校で成績がとりわけ優秀な生徒が多かったのです。 南吉は、そういう中でも学校の課題に加えて、このような童話の創作をしていたのです。南吉にとって、童話や童謡を描くことは自然な要求だったのですね。
★半田中学(現・半田高校)の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.902682,136.922642&spn=0.002642,0.003007&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,0004eab930c8b00963007,34.903108,136.922092,0,-32 -
昭和4年3月の南吉の日記です。
拡大して、お読み下さいね。
下の説明にもありますように、強烈な自負心が伺える内容です。
偉大な文学者を知っていたせいか、或いはそれを夢見ていたせいか? また、上に見られるように、自分の作品が雑誌に掲載されるようになったことから自信が付いたのか、この時の南吉は、世界を広く見ようとするより、力の付いたと感じる自分の方を見ているような気がします。 -
南吉の「窓」が掲載された「赤い鳥」の昭和6年5月号のようです。昭和6年、半田中学卒業の頃書いたようですね。
南吉が「赤い鳥」と言う童謡・童話雑誌を知ったのは、昭和3年か4年頃のようです。そのころの日記に「赤い鳥」ほかの雑誌名が書いてあったそうです(間もなく不況のあおりを受けて休刊)。
南吉が中学を卒業した年の1月に「赤い鳥」が復刊となっていたので、愛読者登録をしていたこの雑誌に投稿をはじめたのでした。3月・4月号では選外佳作となり、この号で最初の掲載となったようです。6月号・7月号にも佳作となって掲載されたのです。
「赤い鳥」の選者は、あの北原白秋だったのです。選外佳作から佳作に選ばれて掲載された時の南吉の喜びようは分かりますよね。
★「赤い鳥」の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E3%81%84%E9%B3%A5 -
↑の説明です。5月号に掲載されていたということは、中学卒業前後に書かれていたということですね。
-
南吉は中学以後の進路については、大芸術家を将来の夢としていました。しかし父親の多蔵は、中学まで行かせたやった上に余計な金も使いたくなく、師範学校に行って小学校の教員になることを望んでいました。
結局、中学から入れるコースである岡崎師範二部を受験したのですが、体格検査で不合格となって受験は失敗となってしまいました。他の友人が合格する中、中学をトップクラスで卒業した南吉の自尊心は大きく傷ついてしまったのでした。
師範学校不合格では、職を探すしかありません。たまたま母校の小学校の先生が軍隊への短期入隊となったため、教員に空席が出来たことから1学期の期間だけ代用教員として勤めることになったというのです。 -
世の中は、何ごとも出会いですね。
もちろん、素質があり、実力があり、誠意があり、努力があり、チャンスがあり、そういう場があり、その時代の流れがあってのことですけどね。
世の中には素質・実力・誠意・努力があっても、チャンスや場に恵まれなかっために埋もれてしまった人も、数え切れないほどおられたことでしょう!! もちろん、今もそうだと思います。
↑でも申しましたように、南吉は半田中学の3年生のころから、何らかの形で児童雑誌「赤い鳥」を知り、愛読者登録をしていたのですね。
そして、復刊された「赤い鳥」への投稿をはじめたのです。選外(落選)にもめげずに繰り返し投稿に挑戦していたことも、その後の道を開いていく上で重要な努力だったと思います。
その努力の甲斐あって、4〜5ヶ月して南吉の童謡「窓」が掲載され、引き続き次号には童謡「ひかる」が掲載されるようになったのです。これは南吉の力が、当代一流の詩人・童謡作家、歌人である北原白秋や、同じく一流の小説家であり児童文学者であり、児童文化運動の父とされた鈴木三重吉に認められたことを意味しますね。これがまた、後の兄と慕う巽聖歌と知り合うことに繋がっていったと思います。
南吉にどんな才能があっても、「赤い鳥」でなく、もっとくだけた娯楽に心が向いていたなら、「新美南吉」として花開くことはなかったと、私は思うのです。
そういう点では、すべては「運」であり、「出会い」ですね。 -
学芸会が終わったあと、子供たちと撮った写真とのことです。
代用教員として赴任した南吉は、二年生を受け持ったようです。この学校では1学年で1クラスしか無くて、全部で6クラスしかなかったとか。南吉は二年生を担当し、男女合わせて59名という大所帯のクラスだったとのことです。
最初はかなり戸惑ったようですが、次第に子供たちに愛着を感じるようになって、時には涙も出るほど感激したこともあったようです。
よく言われることですが、このような子供たちとの触れ合いが、南吉の作品の内容に影響しているとのことです。このような指摘は、常識的には当然のことですね。
ところで、戦前の教育では、小学校3年生以降は男女別学が定められ、教科書も別にすることが義務づけられていたと思うのです。
ところが、この岩滑小学校では1学年で1クラスだったのです。一応“共学”と言うことになりますね。子供の数の少ない田舎では、やむなく許されていたのでしょうか? 教科によって、男女に分けられることがあったかも知れませんね。 -
南吉が代用教員を務めた半田第二尋常小学校です。白い壁を見ますと、都会的な学校だなと思います。
右奥の民家の多いところが南吉の生家のある岩滑です。
南吉は師範学校の訓練もないままにいきなり教壇に立つのですから、子供達を前にして戸惑ってしまったとのことです。慣れれば済むことですが、無理もないですね。
また、代用教員と言う身分ですから、気兼ねもありますしヒガミもありますね。軍隊に行った先生が軍服姿で一度顔を出した時に、先生方も子供たちもとても喜んだ様子を見て、代用教員という自分だけが置いてきぼりを食らったような、気持ちになったというのです。気遅れ・ヒガミが南吉の心を襲ったのですね。
そういう気持ちは、本当に良く分かります。
私たちの時代でも、たとえ中卒・高卒でも、正規入社をした人と臨時工入社した人とでは、名札の色が違っていて、上司からの扱いも給料もその後の昇進もすべて違っていたものです。
教員の空白を「代用教員」として埋めた南吉もそうでしたが、そういう人たちが社会に空いた穴を埋めながら働いたものですね〜(-_-;) -
中学卒業から、早稲田などへの希望を諦めての岡崎師範受験と失敗、代用教員への採用という変化激しい中でも、童話や童謡を書き続けていたのですね
これは、「コドモノクニ」という雑誌に掲載された「風」という南吉の作品です。
左の説明では、この作品は既に3月に作られて「コドモノクニ」に投稿されており、6月号に特選に選ばれたことが北原白秋の選評とともに発表されて、9月号で掲載されたものとのことです。
この挿絵は福田新生によるもので、2ページ見開きとからー挿絵つきの扱いは、南吉にとっては特段の扱いだったようです。 -
写真の左のページには、昭和6年10月6日に南吉のノートに書かれた「権狐(ごんぎつね)」の下書きが見られます。そのすぐ下には「赤い鳥に投ず」と書いてあります。
写真で見る書き出しの文章は、
「茂助と云うお爺さんが、私たちの小さかった時、村にゐました。『茂助爺』と私達は呼んでゐました。茂助爺は年とってゐて、仕事が出来ないから、子守ばかりしてゐました。『若衆倉』の前の日溜まりで、私達はよく茂助爺と遊びました。……茂助爺は若い時、猟師だったさうです。私が次に……」
と、長い文章があるのですけど、現在私たちが読む「ごんぎつね」にはこのような文章はなく、
「これは、私わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。」
という形になっています。
南吉自身が現在見る文章に変えたのか、誰かが指導・変更を加えたのか? そこの詳しいことは分かりません。
それが、鈴木三重吉による添削があったと考える人も少なくないようです。というのも、鈴木三重吉は他人の原稿によく手を入れたと言われていた人とのことですから・・。確かに、彼の添削で全国の誰にでも読みやすい文章になるのですが、方言などの郷土性や地域の伝統文化、また作者の表現意図が抜き去られる問題があるのですね。
この下書き文では、お年寄りが地域に伝わる話を、子供に聞かせることがよくあった時代が描写されていて、とてもいいと思いますね。
年寄りが子供に話して聞かせることが無くなり、高齢者の存在が薄くなっている今となっては、当時の地域の様子は非常に参考になるように思います。 -
↑の説明です。
このノート書きの方が、「赤い鳥」に掲載された文章よりも、風景描写や方言がよく出ていて、郷土色が豊かだと書いていますね。
小学校で代用教員をしていた頃、南吉は「ごんぎつね」を胸に描いていたらしく、子供達にそのような話をしていたようです。その年の秋にはこのように書かれて、さらに清書されて「赤い鳥」への投書となったようです。そして、昭和7年1月の「赤い鳥」に掲載されたのです。
「巨男の話」も担任の2年生に聞かせていたようで、子供達はそれを聞いて感動し、泣いたというのです。このことも、南吉の童話への意欲と自信を高めさせたようです。
南吉はそれまでに溜めていた童話を、次々に投稿するようになったとのことです。 -
こちらは、南吉の短編童話「張紅倫」です。
満州に駐屯していた日本軍の大隊長である陸軍少佐が、草むらの中の古井戸のようなところに落ちて困っていたところ、中国の人に助けられた話です。
年月が経過した後、助けた中国の人と会社勤めになっていた元少佐は、ある日偶然出会うのですが、中国の人は元少佐の立場を察してそっと姿を消してしまうという物語です。
南吉の多くの作品は青空文庫で読むことが出来ますので、「青空文庫 新美南吉」で検索されますと、作品のテーマの一覧が出ますよ。 -
↑の説明です。
昭和4年5月といいますと、中学3年(16歳?)の時かと思います。その若さでこれだけのものを書いているのですから、本当に驚きですね。 -
そして、「ごんぎつね」ですね。
↑でご紹介したノート書きの「権狐」とはかなり違っていますね。
南吉自信による原稿の清書段階でも、↑の内容からさらに修正されていると思いますが、下の説明にもありますように、「赤い鳥」の主催者である鈴木三重吉による修正・改造が相当程度加えられていると思います。また、↑の「びく」のところでも触れましたように。個別の名称の“修正”も加えられているようです。
私の想像では、「びく」は、「どうまん」を修正したものだと思います。「どうまん」という呼び方は、三河湾周辺だけでなく東海地域や北陸地域も使われていたようです。南吉もウナギの入れ物を「どうまん」と書いていたと思います。
「どうまん」→「びく」へと置き換えられたとすれば、地域文化の否定になりかねませんから、大きな問題ですね。
同じようなことでは、「納屋」が「物置」に置き換えられている可能性もあります。「物置で縄をなっていました」なんて、変ですね。納屋で仕事をすることがあっても、物置で仕事をすると言うのは、普通はあり得ないですからね。
物の呼び方ではないですが、最後に「ごん」が撃たれた場面で、「ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、“うなずきました”。」と言う場面は、南吉の草稿では「権狐は、ぐつたりなつたまゝ、うれしくなりました」だったとのこと。
兵十さんに分かってもらえたことへの「ごん」の気持ちまで書き換えてしまったことは、残念なことと言わなければなりませんね。
いずれにしても、原作者だけが持つ作品への思い入れと、地域文化の特色が消されるのは問題がありますね。
鈴木三重吉は、他人の原稿によく手を入れたことで知られているようです。あの芥川龍之介の原稿も「手直し」したとか。 -
「ごんぎつね」が掲載された「赤い鳥」です。
昭和7年1月号から再刊されたもので、その第1号です。
↑の「どうまん」→「びく」の問題は物の呼び方の問題でしたが、内容についても色々に関心が持たれているようです。
「ごんぎつね」研究に関して一番びっくりしたのが、南吉は「ごん」に南吉自身を、兵十に「みな子」を重ねているという説です。南吉は確かに孤独な人で、そうした要素が多くの作品に感じられるのです。でも、私はそんな風には考えたくないですね。「ごんぎつね」の兵十の母が、南吉の生母と重なっているという指摘もびっくりでした。
それから、強弱の程度はあれ研究でも感想文でも、「ごん」がウナギを盗んだことと兵十の母親の死因を結びつけていることです。兵十は先の短い母にせめてウナギでも食べさせようとしただけなのに、「ごん」はその兵十の思いやりと兵十の母がウナギも食べずに逝ってしまったことに対して、申し訳なく思っていただけなのに、それをどうして死因に結びつけるの?と言う疑問を感じました。
また、「ごん」も兵十も結局は孤独な南吉の投影に過ぎないとか、「ごんぎつね」の最終場面(六)での「ごん」と兵十の視点の変化とか、「ごん」がウナギを盗んだことへの反省のところの文はおかしいとか、色々な「研究成果」が披瀝されています。
しかし、まぁ、南吉が若干16〜17歳(「赤い鳥」に掲載は18歳)にして書いた文章のあちこちをのぞきまくって、言いたい放題ですね。 ホントにまぁ、よう言うわ!!と思います。 -
白いカッコいい服が似合う南吉です。
「昭和6年」とありますから、この時の南吉は4ヶ月の代用教員の任期のあと失業し、家業(畳づくり)を手伝いながら童話を書いていた頃ですね。
この時も、半田中学の先生方が南吉のことを気にして下さって、高等師範学校が募集していることを南吉に連絡していたようです。南吉が不遇にして有能な生徒だったからこその、先生方の配慮だったと思います。
本来なら、高等師範受験に忙しい時なのに童話づくりにも取り組み、「赤い鳥」や「チチノキ」への投稿も進めていたようです。この時期に、「南吉」のペンネームが現れます。
「赤い鳥」や「チチノキ」への投稿を通じて、生涯の友(先輩)となった巽聖歌との出会いも生まれたとのことです。 -
巽聖歌のとの繋がり。
巽聖歌は岩手県出身の児童文学者で、彼の作品「水口」が北原白秋に認められて、白秋に師事した人です。昭和5年に「チチノキ」を創刊したのです。南吉はその翌年の12月に「チチノキ」の同人となって、巽聖歌と知り合いになったのでした。
巽聖歌は南吉の才能を認め、南吉の面倒をみます。南吉の暮らしや生い立ちを案じたり、励ましたりしたようです。南吉に東京外国語学校を薦めたのも巽聖歌だったというのです。
南吉は巽聖歌を兄と慕い、死を前にして自分の作品の全てを彼に託したのです。巽聖歌は戦後になって南吉作品の出版に力を尽くし、南吉の童話を全国に広めたのでした。
巽聖歌との出会いがなければ、南吉の作品が人々に親しまれることは無かったと言っていいでしょう。
「出会い」
それは、本当に人の運命を左右するものですね。南吉の出会いも、まさにそうでした。
★巽聖歌の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%BD%E8%81%96%E6%AD%8C -
巽聖歌などが中心となって創刊された童話同人誌「チチノキ」です。
「赤い鳥」もそうですが、「チチノキ」への投稿を通じて、南吉は多くの作品と出会うようになったと思います。 -
南吉の北原白秋への手紙の下書きです。
「巽さんが、『明日の晩先生の所へつれていってあげよう』と仰有った時、僕は、『せんえつだから』と辞退しましたけれど、ほんとうは、つれてって頂きたくてたまらないのでした。……そう云って下さった時、うれしくてぞくぞくしました。……」
この文章は、日記かノートに書いた白秋宛への下書きとのことです。これによれば、昭和6年暮れから東京高等師範受験のため上京していた南吉を、巽聖歌は北原白秋に引き合わせたのですね。このことは、巽聖歌が南吉に北原白秋に引き合わせるだけの価値を読み取っていたからだと思いますね。
この時までには、南吉は巽聖歌の「チチノキ」の同人になって、投稿をしていました。白秋が選考委員をしていた「赤い鳥」にも、「正坊とクロ」「張紅倫」が投稿・掲載されており、ちょうどこの時は「ごんぎつね」が掲載されようとしていたのでした。
南吉自身の頑張りが巽聖歌の心を動かし、白秋との出会いに繋がったことは、南吉にとって大きな励みであるだけでなく、南吉自身が児童文学界の要人と触れあうことを通じて、新たな目標・課題を自覚できる世界を得ることになったと思いますね。
★北原白秋の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E7%99%BD%E7%A7%8B -
高等師範受験のために上京した南吉を、東京の街を案内したり、文学者を紹介したりした巽聖歌に対して、南吉は丁寧な礼状を出していました。
東京高等師範受験は失敗しますが、この受験をキッカケとして「赤い鳥」に集まる先輩文学者や青年文学者との交流を体験し、南吉は様々な刺激を受けます。
そりゃそうですよね〜。田舎から東京へ出てそういう人たちと出会い、彼らの活躍ぶりを目の当たりにすれば、刺激を受けない方がおかしいですよね〜。
また、この繋がりが、巽聖歌から東京外国語学校受験を勧められる機会に繋がり、南吉の将来を開くことに繋がったのです。運命というものは本当に分かりませんね。 -
南吉の初恋の木本咸子(みなこ)さんです。
小学校からの同級生で、中学時代に4年間交際したとのことです。
南吉にとっては、彼の中学時代の日記に「我がヴィーナス」とも記したように、あこがれの人だったようです。咸子さんも南吉のことを心に想っていたようです。南吉が中学卒業して、母校の代用教員をしていた頃から交際が始まったようで、南吉は咸子さんのことを「私の恋人」と書いています。
南吉は結婚も考えたようですが、健康や自分の収入・孤独を好む自分の性格から、自分に自信が持てず、結局彼女をおいて東京へ旅立ってしまったとのことです。
南吉は、自分自身の虚弱な体質と家庭の事情や孤独な性格を案じている自分を、「情けない」と言っていたようです。
こうした南吉の体質・性格が、南吉作品に大きく影響していると見る専門家もいるようです。
咸子さんについては、プライバシー保護のためにこれまで公開されていませんでしたが、ご遺族の了解が得られたことから展示されたとのことです。
詳しいことは↓の写真の説明文をご覧下さいね。 -
↑の写真の説明です。
南吉から咸子さんに宛てたかも知れない手紙の下書きには、「私達が今まで恋愛などと言ってゐたのは嘘だったわけです」などと、辛辣なことを書いています。
私に言わせれば、
「それはないでしょう!!」
と言いたいですね。 -
南吉は、昭和7年早春に東京外国語学校を受験して合格。4月から東京外国語学校に入学しました。
東京外国語学校は、今で言う東京外国語大学の前身とのことです。
南吉は中学卒後、岡崎師範を不合格になったり、代用教員をしたり、東京高等師範も不合格になって、だいぶ苦労したみたいです。
その年の年末に、この頃知り合っていた巽聖歌(たつみせいか)の尽力で、翌年春に東京外国語学校を受験、合格となったのです。学費と東京での生活費は、未だ“新美”を名乗っていこともあってか、養母が一部を出してくれたり(渡辺家でも少しは出していたようです)、まだ独身だった巽聖歌の空き部屋を使わせてもらったりなどして、なんとかなったようです。
しかし二年生の冬の2月、ついに最初の喀血をしてしまいます。そのショックは、私達の想像を超えるものがあると思います(>_<) しかし、療養もせず卒業まで頑張ってしまったというのです。
一番下の写真は「第一回宮沢賢治友の会」の集まりのようです。南吉が喀血した同じ2月の行事だったのです。 -
この写真は、南吉が東京外国語学校に入ってから、1年もしない頃のことと思います。
南吉は、東京でこのような方々と知り合い、交流出来たのですね。
このような交流は、南吉にとって多くの示唆を得る場になったと思いますね。
研究会や発表会よりも、むしろこういう打ち解けた場の方が、意見交流がしやすいというものです。このようなところで、どんな交流が出来たのか? 大いに興味を持ちますね。
★東京外国語学校の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.000481095a25f29d1a6db&msa=0&ll=35.69206,139.758807&spn=0.0037,0.003007&iwloc=0004eab9c87ad977cf6d2 -
これは、「手袋を買いに」の原稿です。
一般には、南吉が20歳の昭和8年12月26日に書き上げられたと云われているのです。しかし、実際にはこの時期の南吉は書いているヒマもなく、もっと早くに書き上げられていたと推定する人もいるようです。
それはそれとして、この作品があまりに有名になったせいか? 多くの研究がなされています。そのひとつは、「母狐でさえ怖くて行けない町へ、なぜ子狐に一人で手袋を買いに行かせたのか」ということです。
これには、「母親の判断としてはおかしい」とか、「手袋など買いに行かなくても」「そこに継母の姿を投影した」と言うような議論があるのです。これでは、南吉も、こんなところで引っ張り出された継母さんも迷惑です。
この場合の母狐は、子狐に手袋を買ってやりたい一心から悩んだあげく、子供の狐なら(次頁へ)
人は憎まないかも知れないとの淡い期待に決意を込めて、片手を人間の手にしてやって行かせたのだと思います。そこには、不確かながら人への期待と広い意味での愛が隠されていると思います。その結果として、子狐の素直な行動が、母狐の人間不信を幾らか和らげたのですから、よいストーリーだと思いますね。
「母狐の判断はおかしい」と問題視する人は、首尾一貫した整合性のあるストーリーを求めているのでしょうか? 私に言わせれば、そう言う人は日常から自分自身を含む人々の生活世界を見ていないと思います。そこには、自分自身を含めて、整合性のない矛盾に満ちた人々の言葉や行動が渦巻いているのではないでしょうか。 -
この「トランプ」はイギリスの女性作家マンスフィールドの短編集の一部を翻訳したものとのことです。
南吉は東京外国語学校で英文学を専攻していましたから、このような外国文学の翻訳をしながら学んでいたようです。このほかにも西洋文学の翻訳もしていたようです。
しかし、南吉の字はあんまり上手ではないですね。
字の下手な私は、南吉の下手な字をみてホッとします(~o~) -
南吉の童話が掲載された児童雑誌です。
上の本は昭和8年3月号で、「アメダマ」が掲載されています。下の本は昭和9年9月号で、「影」が載っています。
「アメダマ」はハッピーエンドながら、スラリと抜いた武士の刀に読者は緊張させられます。
「影」は、自分の影と競争したカラスの話ですが、悲しい結末です。なんか、「競争」に明け暮れさせられたサラリーマンの、行き着く先を見るようですね。
南吉はこの間に結核で吐血しているのです。
勉強もしなければならないし、何より自分の身体を守らなければならない時なのに、このような童話を創作しては投稿していたのです。
それというのも、学費・生活費を補うため「おカネ」を稼がなければならなかったのです。普通の健康な学生は、給料の良い建設現場でアルバイトしていたようですが、身体の弱い南吉は身体を使ってのアルバイトは出来ず、このような童話を投稿して幾らかの印税を稼いでいたとの話です。
どれほどの「稼ぎ」になったかは分かりませんが、部屋に閉じこもって、童話や児童小説を書いていくしかない生活は、南吉の身体をますます衰えさせていくのですね〜(=_=) -
昭和11年(1936年)3月、南吉は東京外国語学校を卒業します。
しかし、ここでも南吉は目出度さも半分という卒業になってしまったのでした。
東京外国語学校では、高等師範の学科目に必要な科目を履修しておけば、中等教員の免許が取れることになっていたのです。そこで、南吉も幾つかの科目を受講していたのですが、体操と教練も必要科目だったことが禍して、教員免許が取れなかったのです。
学内の先生方だけの評定であれば、体操と教練の点数を少し甘くして、教員免許を与えられたかも知れません。それが、なんせ情勢も厳しくなってきており、教練に軍隊から派遣されている将校の発言権に逆らえず、教員免許が取れなかったというのです。
そのために、教員資格を持って地元に凱旋することも出来ず、弱い身体にムチ打って、不景気の中の職探しとなったのです。
アタマの弱いのも困りますが、カラダの弱いのも困ったモンですね〜(-_-;) -
南吉は昭和11年3月に東京外国語学校を卒業したものの、折しも世界大恐慌に始まる日本の金融恐慌、そして2.26事件へと続く不況の中の職探しとなったのでした。
こういう時に教員免許を取れなかったことが影響し、5月になって貿易商会に勤めます。
しかし、これまでと違った生活と、通勤地獄・他社との競争の中での殺人的多忙に追われ、元もと弱い身体が弱り切ってしまい、2〜3ヶ月でダウンしてしまったそうです。
ここでも巽聖歌が南吉を助け、奥さんに看病をさせたのでした。にも関わらず、秋には喀血してしまいます。会社も辞め、11月中頃には郷里での保養に向かうほかなかったのですね〜(-_-)
当時の結核の治療水準には特効薬は無く、身体を休め、栄養をとって、時には軽い散歩をして体力を付けるなど、徹底した保養を何年も続けるしかなかったのです。郷里へ帰るということは、そういうことだったのですね。 -
自宅に戻って療養をするものの、精神的苦悩は増すばかりです。
療養と言っても、傍目には「いい若いモンが昼日中にゴロゴロしているだけ」としか見えないのです。
一日の仕事に疲れた両親からは愚痴も出ますし、南吉もそんな姿を見ながら「療養する」のも辛くなります。両親が忙しい時には、身を犠牲にして手伝うほか無いのですね〜。
南吉が療養して治したいと思っていても、「死のうが生きようが、カネの要る話はダメだね」と言って憚らない継母の度重なるイヤミは、南吉の心をズタズタにしてしまいます。自殺まで考えてしまうのは、分かりますよね〜(-_-)。
南吉は昭和12年3月の日記には、ドフトエフスキーほかの作品から何かを学び取り、「ここを通りぬけてわれわれは自己犠牲と報いを求めない愛との築設に努めなければならない。こういう試練を経て来た後の愛はいかにこの世をすみよいものとすることであろう。」と考えるようになったのです。 -
郷里では保養どころではなく、両親は保養をさせることよりも、昭和12年3月には南吉の就職先を探すようになります。南吉自身も母校の先生を訪ねて代用教員の口を探し回りました。東京外国語学校を卒業しながら、教練の点数不足で教員免許が取れず、代用教員の口を探すのも、惨めな話ですね(-_-;)
そんな南吉の苦境を、南吉が小学生の時の担任だった岩滑小学校の先生が聞きつけ、いろいろ心配してくれていたようです。
そんな時、 河和第一尋常高等小学校で欠員補充の話がもちあがり、早速岩滑小学校の先生の所へ連絡が来たというのです。 そのお蔭で、河和第一尋常高等小学校の代用教員として夏まで働けるようになったのです。 4年生64名の受け持ちとなったのですから、このクラスも大所帯でしたね。
学校がちょっとした丘の上にあったために坂道を登るのですが、24歳の南吉があえぎながら登ったというのですから、身体がかなり弱っていたのですね。 そんな時に子供たちが後ろから押してくれたとのこと。このことを南吉は「かりそめのささやかな幸せをあじわっています」と書いているのです。
一番上の写真は、南吉が勤めた河和小学校です。
★河和第一尋常高等小学校(現・河和小学校)の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.77184,136.912479&spn=0.002646,0.003007&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,0004eb42052e39ce8079e,,,0,-31 -
南吉が学校へ勤めた日の日記です。
「学校はかなり高い丘の頂にあるので、毎日坂道を登るのが大へんです。まだすっかりよくなっていない僕は喘ぎ喘ぎのぼっていくのです。……校長先生と僕が教室にはいってゆくと64人の生徒はぴたりと鳴りを静めました。……(校長先生は)『こんど新美先生がみなさんの先生になって来られました。先生は東京の学校で4年外国の言葉を勉強なさったえらい方です。』ここで校長先生は口をむすびました。……」
などと初めて子供たちの教室へ行った時のことが記されています。 -
南吉の勤めた河和第一尋常高等小学校周辺の様子と、山田梅子先生です。
梅子先生も、南吉と同じ代用教員としてこの学校に勤めていたようです。
梅子先生は短歌を愛好する活発な女性で、職員室での机も南吉の隣同士ということだったらしく、南吉の弁当に御数を分けていたこともあったりして、南吉の心は随分明るく軽くなったようです。
こうして、南吉は「自殺のこと」を忘れてしまっていたようです。 -
梅子先生は上記のように南吉に親しくしてくれましたし、健康のことも気遣ってくれたようです。
梅子先生とは囲碁を楽しんだり、様々な話をしたとのことです(まぁ、普通の人間関係として当然だと思いますけどね)。そのうち、梅子先生の家に訪ねるようになったそうです。打ち解けた話もし、手紙も出すようになります。そのうち時々梅子先生との生活を空想するようになり、それを日記にも書いているようです。
同時に、身体の弱い自分は愛されてはならないという想いもあった南吉ですが、梅子先生との出会いは、南吉にとっては心躍る経験になり得たと思いますね。それは南吉の人生を新たな高みに導いたと思います。
悲しいことに、代用教員の任期は4ヶ月程度しかありません。夏休みからは失業となります。
しかし、梅子先生への想いは消えることなく、むしろ高まります。手紙に結婚のことまで書くようになってしまうのです。そうしたこともあって、南吉は「今日の幸せ」を喜ぶようになっていたのです。
★↓は南吉の梅子先生への手紙です(代用教員退職後の手紙です)。
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=17892175 -
代用教員を終えて失業した南吉は、名古屋のドイツ人経営の「イリス商会」の入社試験を受けたのですが、不採用に。
次に採用してくれたのが、半田の鴉根(からすね)地区に360万坪の広大な畜産施設をもち、畜産研究をしながら国内外に飼料を販売する大企業の杉治(すぎじ)商会でした(後に中島飛行機が従業員の食糧確保のため買収)。
ところが、南吉の仕事は飼育していた鶏などの世話だったようで、給料も月3円という、南吉の学歴には到底見合わない低額とのことでした。
それをマジメに勤めたのが認められたのか、12月には本社経理課に回されて、英文の翻訳など南吉の本領発揮の時が来たと喜んだのも束の間、職場は伊吹おろしの寒い風に冷やされて南吉の身体を襲い、またもやダウンしてしまいます。 -
この地域は、冬になるといわゆる「伊吹おろし」が伊勢湾を越えて吹き付けるところで、丘の上や、風の通りやすいところではとても寒いところです。
経理課なのに暖房も火鉢もないということで、南吉の身体は震えてしまったというのです。給料の方も経理課に回されて正社員になっても月20円で、積立金などを引かれて月16円ほど。河和小学校の代用教員の半額であることも、怒り心頭となったようです。
南吉がイライラしている時に、時悪く梅子先生から連絡があり、南吉はそれを断ってしまったのです。そのころから南吉と梅子先生のお付き合いは急速に冷めてしまいます。
結婚まで夢みて、男女の一線を越えたとか越えなかったとか? 研究者を悩ませるお付き合いまでしながら、南吉は孤独な自分の殻の中に戻っていってしまうのですね。 -
この方は佐治克巳先生です。
東京外国語学校を卒業しながら苦境にあえぐ南吉の姿は、小・中学校時代の南吉の才能を惜しむ恩師たちの知るところとなり、先生方が奔走してくれるようになったというのです。その中の一人に佐治先生がおられたのでした。佐治先生は、愛知県の学務課へ南吉の教員免許発行を働きかけたというのです。
しかし、それも生母との早期の死別と言う逆境の中で、勉強に頑張った南吉の姿があったからだと思います。 -
南吉の「教員免許状」です。
これをよく見ますと「無試験検定合格者」とあります。 と言うことは、無試験で教員免許?となりますよね。
それが、当時の教員検定には文検(中等教員検定試験)での試験検定のほか、無試験検定制度もあったようです。これは、「指定学校」として帝国大学・高等学校・実業専門学校などの官立高等教育機関卒業者(東京外国語学校もこれに当たる)や、文部大臣の「許可学校」の許可を得た公私立学校卒業者に、「無試験検定」によって中等教員免許が与えられていたようです。当時は「師範学校中学校高等女学校教員検定規程」により、この免許でも高等女学校の教員になることが可能だったのですね。
佐治先生が働きかけたのは、この「無試験検定」だったのですね。南吉は軍事教練の点数が足りなくて教員免許が取れなかっただけなので、働きかけ次第では「無試験検定」が可能だったと言うことでしょう。
佐治先生は南吉を呼んで
「今日やっと、県の方の話がついた。」
と伝えたそうです。やはり、当時の情勢もさることながら、佐治先生による相当の努力があったのですね。佐治先生は、南吉にとっては大恩人と言ってもいいのでしょう。 -
佐治先生は教員免許発行を待って、南吉を自身が校長である安城高等女学校の教員にしました。
南吉も両親も大喜びです。
南吉の義母までが「女学校の先生になれば、もうなんの恥ずかしい事があらあずに。いっぺん、女学校でも中学校でも先生になってくれれば、もう明日死んでもええと思っとっただ。」と、喜んだそうです。
南吉自身も「これでもう、体もあまりむちゃはできぬ」と、自身の穏やかで健康な生活を考えたようです。
それはそうですよね。これまで、さんざん苦労し、身体にもかなりの無理を強いて来たのですから、安定した職を得て身体を厭う気持ちをもつのは当然ですね。
安城高等女学校(現・桜町小学校)の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.960281,137.080446&spn=0.00132,0.001503&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,00047d6a12b80b54991c8,34.960457,137.080193,0,-32 -
南吉が河和第一尋常高等小学校に勤める直前に、梅子先生にへ出した手紙です。
手紙の内容(私が勝手に文の区切りに最小限の句読点を追加しています)
家にて縁談起り我が傲一切容れられず、過去の女性関係みな泥を吐かされ、謝罪つて来いとたゝかれお伺ひしたのでした。何とも不甲斐ないことながら父母頑迷せんすべもありません。何卒御海容下されたし。
友人としてならば許すとのことなれば祈りあるまではさうして頂きたく、 例の覚書一応御返却下さるまじくや云はでものことつい漏らし候ため潔白のあかしに恋文のごとき一切頂いて来いと実に強硬にて何とも致しかたないのです。本日頂きましたお手紙も両親の目前にて開封を強いられろくろく読まざるに取り上げられ候。
家庭内の相剋尋常ならずみなヒステリイのごとき状態にて何も話してもきゝわけなく候。何卒何卒ご了承御海容下され例の覚書早速御送付相成度伏而願上候。
父母の眼盗んでの乱筆にて 新美
山田様
これでは、まるで絶交状ですね。
「家にて縁談起り」「過去の女性関係みな泥を吐かされ」というのはどういうことなのか? 「泥を吐く」ような女性関係があったのか? あるとすれば東京時代? そこは分かりません。それは、この手紙が翌日から安城高等女学校勤務というタイミングということもあって、微妙な文面です。
恋愛の“れ”の字も、結婚の“け”の字にも一切縁の無かった私の独身時代に較べれば、手紙の内容は別として、南吉が羨ましくもなります。
それにしても、咸子さんに続いて、梅子先生にも腹の立つ内容ですね。 -
南吉は安城高等女学校の先生になります。南吉が25歳の時です。
ようやく掴んだ、安定した仕事です。給料も70円。杉治商会の正社員でさえも20円だったのとは大違いですね。
佐治校長は、先生たちに事前に南吉のことを話しておいたようで、南吉は先生方に優しく迎えられたとのことです。
全校生徒の前でも、微笑まじりの快弁をふるって、女性教師からも見直されたとのことです。
生徒たちからも明るく迎えられたということです。
↓は安城での新見南吉です。
http://www.youtube.com/watch?v=wbHvyWIbUQw -
女子生徒と楽しい時間を過ごす南吉です。
本当に楽しそうですね。
南吉の本職は教員免許にもありますように、英語を教えることです。
それで、英語だけは全学年を教えることになりました。
しかし、東京外国語学校を出たわりには、英語はあんまり得意ではなかったようです。童話作家らしく国語の作文指導の方に熱が入っていたようですね(^O^) 1〜2年過ぎてから英語も板に付いてきたと日記に書いているのです。
この頃、南吉は学校で生徒たちから詩を集めて、生徒たちの詩集を作ります。
英語が本職なので、英語の詩集かと思えば日本語の詩集です。約8ヶ月続いたものの、紙不足のために詩集の発行も出来なくなってしまいます。
この詩集ですが、全生徒が詩を出せたわけではありません。結局出来る子(才能のある子)が出して、それが毎号載るようなります。こうなると、南吉にとっての「お気に入りの子」が出来るようになりますね。
そうしたことから、南吉は生徒を選り好みしたという批判もありますね。 -
南吉は高等女学校に職を得てからも、童話や短編小説の創作をやめなかったようです。
私に言わせれば、この時期こそ余計なことはしないで、身体を大事にして欲しい時なんです。それが、これまでのことや本人の意欲もあって、童話創作に手を出してしまうのですね。
南吉は高等女学校での自分の指導について、「芸術家的」と思っていたようです。南吉が中学生の頃から描いていた「大芸術家」への想いが、心の中に息づいていたのかも知れませんね。 -
写真の上のタイトルにも書いてありますように、安城高等女学校に勤務するようになってからの2年目〜3年ほどが、仲間と伊豆大島や東京方面へ行ったり、生徒を引率して富士登山にも行ったりして、南吉の心身にとって一番めぐまれた時期であったと思います。
この頃に、短編小説「最後の胡弓弾き」や上でお話しした「久助君の話」も、この年の哈爾浜日日新聞に発表されているのですね。
この「最後の胡弓弾き」と「久助君の話」について、評論家によっては、南吉自身の実生活が明るく楽しいものに変わってきたにも関わらず、ストーリーの最後は相変わらず淋しくやり切れない結末になっていると言うのです(ストーリーに“ゆとり”が見られると言う人もいます)。
それは、安城高等女学校に勤務するようになって、これまでにない平穏で充実した日々が巡ってきても、現実にはケチで無口な父と継母がいて、現実に身体の弱い自分がいるというコンプレックスまでは払拭できなかったということを表すのでしょうか。 -
上の写真は、南吉も一緒に行った昭和14年5月の京都・奈良方面への修学旅行です。
転校していった生徒から、手紙も来る先生だったのですね。下の写真はその返事です。
転校生への配慮もしていたようです。
この時が、南吉にとって一番幸せな時といわれながら、↑にも書きましたように教職の仕事以外にも童話を書いていましたし、校内行事の戯曲を書いたりしていたようで、時間的には相変わらず無理をしていたようです。
しかし、この時も結核が快方に向かっていたわけではなく、昭和14年早々から体調がよくなかったようです。写真の修学旅行への付き添いは、彼にとっては重労働だったようです。そんな時に、上記の哈爾浜日日新聞からの原稿依頼が来るのですから、身体にムチ打たざるを得なかったようです。 -
「キヨネン ノ キ(去年の木)」
南吉の昭和15年の短編童話です。
小鳥が去年もお世話になった一本の木が無くなっているのを見て、木の行方を尋ねる短編童話です。写真に写っているのは、全文です。
ちょっと淋しい物語ですね。でも、最後にはマッチ棒になって役に立った姿を書いていますから、少しだけ救われます。 -
この女性は、南吉の3番目の恋人「中山ちゑ」さんです。
南吉が中学4年の秋から発行した同人誌「オリオン」の同人だった女性で、南吉の三人目の恋人です。県立中学から東京女子医専に進み、医師資格を持っているというエリート女性だったのです。
何だかんだと言いながら、南吉はモテモテだったんですね。←羨ましい(^^)
南吉が梅子先生へ辛辣な手紙を書いている一方で、その少し前から中山ちゑさんとの付き合いが始まっていたのです。
南吉自身はちゑさんの才能・美貌・センスなど全てが好きだったようです。南吉もちゑさんとのロマンスをかなり楽しんだと言われています。
やがて男女の一線を越え、日記には「もはや私の妻にならねばならないという不幸を約束されてゐる」と書くようになっています。
南吉はちゑさんとの間でも、結婚となると、三たび「自分との結婚は相手を不幸にさせる」という想いに駆られて、躊躇してしまうのです。そして、またもや「別れ話」の手紙を書いたというのです。
それは、生母と死別してからの、南吉自身の心身に染み付いてしまった「負け犬根性」のような歪みがあるからだと思います。
結局、ちゑさんは南吉を誘って断られた青森の地で、自殺してしまいます。
3人の女性と結婚を考えるまでのお付き合いをしながら、しかも梅子先生やちゑさんのように、学歴もあって、資格もあって自活能力のある人(ちゑさんは身体の弱い南吉に最適な医師だった人)との結婚話さえも、自分本意の歪んだ心から否定してしまったのですね。 -
「おぢいさんのランプから永眠まで」
ついに、こんなテーマが出てきました。
「昭和16・17年は、南吉にとって最も充実した年でした。」
確かに創作された童話・小説の数から言えば、「最も充実した年」ですね。
しかし、南吉の身体はこの頃から病魔にどんどん蝕まれてくるのです。昭和16年春から初夏の頃(「良寛物語」か「嘘」を書き上げた頃)、義弟に「どうも今度はくたばりそうだ」遺言状を書いているのです。その後若干持ちなおしたそうですが、身体のダメージはかなりのものだったと思います。
そういう身体で教員の仕事もこなしながら、これだけの作品を(これでも全部ではないとか)書き上げたことは驚きです。 -
昭和16年10月には「良寛物語『手鞠と鉢の子』」を出版社から出ているのですが、これを書いたのはその年の1月から3月までの約2ヶ月間とされています。
南吉の身体は昭和15年末頃から体調を壊し(その前から悪いけど)、ある程度“死”を考えはじめていたようです。年が明けても体調優れず、時々学校を欠勤していたようです。
そんな時に原稿用紙で290枚(約11万6000字)に及ぶ「良寛物語『手鞠と鉢の子』」を書いていたというのですから、全く自殺行為ですね。逆に言えば、創作意欲がそれほどまでに強かったと言えるかと思います。
6年前に喀血してから、治療らしい治療も静養もせず、いや、やれなかった自分の身体の運命を知っていたかのように『手鞠と鉢の子』に打ち込んだのですね。 -
南吉が死を自覚しはじめ、病魔と闘いながら教師の仕事と童話創作に熱意を傾けていた頃、日本は戦争のただ中にあって、若者たちの徴兵に物不足と食糧不足、そして金属類の供出など落ち着かない時代になって来ました。動物園の動物までが殺処分されたのですね。
「ごんごろ鐘」ではお寺の鐘が供出されていく話が書かれています。「牛をつないだ椿の木」では、日露戦争時代ながら、海蔵さんが兵隊に行く話がになっています。このように南吉の童話の中にも、時代の様子が反映されていますね。 -
「おぢいさんのランプ」
この童話は、研究者にとって格好の研究対象になっていたようです。
それと言うのも、これまでの南吉童話の流れなら、ランプ職人のお爺さんは電気の普及でランプの仕事を失って、時代に取り残されて淋しい人生を送っていくというストーリーになるはずだと言うのです。
それが、「最後の胡弓弾き」のストーリーのようにはならなかったと言うのです。
「おぢいさんのランプ」では、時代の流れに取り残されるお爺さんではなく、時代に沿って自らを革新し、希望を持って行く姿が描かれていたのですね。
これはびっくりと思いきや、この頃の南吉の作品には、淋しい結末を書くものはかなり減ってきているというのです。 -
「牛をつないだ椿の木」
自分の牛を椿の木に繋いで、山の中の泉の水を飲み行ってくると、牛が椿の葉をみんな食べてしまっていたのです。
と、言うようなことから始まる童話です。
この童話でも、道端に井戸があれば山の泉に行かずに済むし皆も喜ぶと考える海蔵さんと、椿の葉を食べられて怒ってしまった地主との心の通じ合い、皆が喜ぶ場面へと展開していきます。
「ごんぎつね」や「デンデンムシノカナシミ」のような、美しいながらも、最後のなんとなくうら悲しいストーリーとか、「最後の胡弓弾き」のような救われない寂しさなどを書いて来たこれまでの南吉のスタイルとは、かなりの変化が出てきているという指摘が多いですね。「おぢいさんのランプ」もそうでした。
この変化は何だろうということで、様々に研究されています。
それで、皆さんが言われることは、身体も弱く、生母を失った孤独と、それ故に愛を渇望しながらもそれを拒否してきた過去の南吉から、人の気持ちを受け入れ、心の通じ合う幸せを感じる南吉に変わってきたということです。
そういう変化はなぜ生じたのか?
評論家とか研究者とかはヒマなモンですから、またこのようなことを詮索します。
困ったモンですね〜(-_-) でも、ちょっと興味ありますね。 -
「花のき村と盗人たち」
この話も、盗人の親分が善人に変わっていく話でしたね。
当家のカミさんも善人に変わってくれるといいのですけど、まだ「カカア天下」で頑張っておるのであります(^_^;)
カミさんのことはさておき、南吉はここで盗人になりきれない新米盗人と、人のよい親分とを軽妙な筆致で描いています。専門家の先生方は、南吉はここで人の心の美しさを描いているというのです。全くそうですね。
そういう変化はなぜ生じたのか? そういう問いを重ねて感じますね。
南吉は“死”から逃げられないと知って、改めて人の生き方・これまでの自分と今やるべき課題を見つめたのではないでしょうか? 或いは、南吉が書こうとして書けなかった都築弥厚(つづきやこう・明治用水に情熱をかけた偉人)の伝記準備の過程からも、都築弥厚から何かを学んだのでしょうか? もう一つは、晩年によく読んだといわれる佛教の本から学んだのかも知れません。
★明治用水と都築弥厚の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%94%A8%E6%B0%B4
http://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_izin/aiti/index.html -
南吉最後の創作です。
上で昭和16年3月から昭和17年12月16日までの作品一覧を見てびっくりしたのですが、これを見てさらにびっくり!!
これを見ていますと、南吉は仕事より何より、童話や小説を書くことに身命を賭していたのですね。そこに自分の生きがいを感じ、生きている証しを見たのではないでしょうか。
命のことは、その次のことと考えるようになっていたかも?とさえ、想像してしまいます。
このような南吉を「二足のわらじを履いていた」と言う人もいます。
教師と文学者という両方の“わらじ”ですね。そのために、自らの身体を追い詰めていたことも否めません。
でも、安定した教職に就けたからと言って、好きな文学をやめるような人間にはなって欲しくないですし、そもそもやめられなかったのが南吉なんですね。
そう、南吉の身体には小学生の時から文学が芽生え、成長してきたのですから、文学は南吉の生き甲斐とかではなくて、彼の身体と心そのものが「文学」になりきっているのだと思いますね。
ただ、食べていくために二足のわらじを履かざるを得なかった南吉を、不憫に思います。 -
南吉の絶筆となった「天狗」です。作品も未完成です。
南吉はこの中で、控えめな表現がらも、これからも人々が自分の作品を愛してくれることを願っています。
研究者諸氏はこの文面のことを、
「まるで、自分のことを書いているようだ」
と、言っています。
そう言われてみると、私もそう思います。
必死になって書く南吉の想いが、彼の手が、このような文章を書かせてしまったのかも知れません。
書きたい!話したい!!残したい!!という南吉の意欲が吹き出しているように見えてなりません。南吉はまさに「書くこと」を天命とし、使命として生まれてきたのだと思いますと、居たたまれない気持ちになります。。
実は私の友人も一昨年、死の前日までもペンとノートを手放さなかった人でした。自分の命は自分の中にあるのではなく、自身の目指す課題とその対象である社会の中にあるかの如きでした。誰が振り返るでもない一人の無名の研究者でした。
私の心の中では、そんな友人の姿と南吉の姿とがダブって見えてくるのです。そして、無性に愛おしく思えてくるのです。 -
「いしやは、もうだめといひましたがもういっぺんよくなりたいと思ひます ありがと ありがと 今日はうめが咲いた」
この葉書は、昭和18年2月26日の消印となっています。
↑でも見ましたように、南吉は昭和16年からまさに死力を尽くして童話作成に取り組んできました。昭和18年は年初から明確になった“死”と向き合いながらの、まさに「死闘」になりました。
それにしても、短い命です!!
そんなことを考えていると、20代で夭折した石川啄木や滝廉太郎に樋口一葉など思い出してしまいました。
無能ゆえに、それなりに長生きしてしまった私が恥ずかしくなってしまいました(-_-;) -
歴史にも、誰の人生にも、「もし、あの時に○△だったら」という想いを持つことがありますね。南吉の場合も巽聖歌との出会いがなかったなら、単なる苦労人で終わってしまっていたかも知れません。
巽聖歌は南吉の才能を評価し、南吉の家庭の事情もよく見ており、東京での受験や生活を支援し、励ましたりした面倒見のよい指導者だったのです。
世の中には立派な人はいるにはいるのですが、面倒見のよい人はそんなにいませんね。ですから、南吉が巽聖歌を「お兄さん」と呼んだのも当然のことです。
南吉の死後、巽聖歌は全力を傾注して南吉作品を出版し、全国に広めたのです。まさに日本中で読まれ、やがて国語の教科書にも採用されるようになったのですね。
ここでも、巽聖歌の存在無くして新美南吉を語ることは出来ないのです。その点では、南吉は幸福な人だったと思います。 -
ご覧の通りの全集です。
南吉は、自身の死後に巽聖歌などの奮闘によって広く知られるようになった作家です。
有名になったがゆえに、色々研究されています。
小説を読まない私ですが、これを機会に読んでみたいものです。 -
新美南吉関連の本です。
右の2冊は、巽聖歌が新美南吉の日記や手紙などを伝えたり紹介したりしている本かと思います。
左の1冊は、日本の児童文学についての評論をしている本かと思います。その中で南吉に一定の評価を与えているとのことです。
この本とは全く離れますが、南吉研究は多くの人が手がけています。
私などの如きがそれらを読んでみますと、なるほどと思うことばかりなのです。確かに南吉の心と人間関係には、多くの研究者が指摘するように幾つかの特色があります。研究者はそれらを研究して、南吉作品を特色づけるのですね。私も、それを大いに参考にさせていただきました。
しかし、ここまで来て少し冷静になってみますと、何か釈然としない気持ちになってきます。
私にしてみれば、その研究者とはどういう人なのか??と問いたくなってきます。まぁ一般的に考えれば、普通の家庭に生まれ大した苦労もなく大学まで行って、生活や健康にこれと言った不自由のない人たちかと思います。
そうした人達が、幼少の頃から不遇な運命に晒され、家庭での苦しみにあえぎ、治療も覚束ない結核との闘いなどの苦しみが絶えなかった南吉の人生を、品物を検査するかのようにあちこちから覗きまくっているように見えてしまうのです。
そして、南吉は失われた愛を求めていたとか、南吉作品は大したものではないとか、実力以上に評価されてしまったとか、社会的には未熟だったとか、言いたい放題のことを言って研究の「成果」としているようにも見えます。
もし南吉が生き返ってこのことを知れば、きっと怒ると思います。 -
南吉の東京外国語学校時代の下宿の部屋です。
私はあの小さな机に目が行きました。私の独身時代のアパートのお部屋にも、あの机とほぼ同じ大きさの机がありましたから、こんな感じでした。
こんな時代でも、上流家庭の子弟たちなら、絵画の一つも飾ったり、ラジオや蓄音機など持っていたかも知れませんね。
私がアパート住まいをしていたころも、昭和30年代終わり頃になると、殆どの若者はテレビやステレオを揃えて、文化的な生活を楽しんでいたものでしたからね。
南吉はそういう物を置かなかったですから、エライと思います。
勉強するには、静かなお部屋こそが最適の環境ですからね(^-^) -
私の机は左右の板の出っ張りがなかったです。
引き出しも、この机と同じように二つありました(^^)
右端にあるのは柳行李(やなぎごおり)です。私自身は使いませんでしたから(実家にはありました)、この柳行李の位置に机を置いていました。
柳行李といえば、薬屋さんが何段かの柳行李を背負って家々を回っていた姿を想い出しますね。ホント、懐かしいです。
南吉のお部屋が、私のお部屋にあまりに似ていたモンですから、とても親しみを感じましたよ。 -
南吉は、友人に自分の部屋を“独房”と言ったそうです。
私に言わせれば、清楚で最高の部屋だと思いますけどね。
↑でもお話ししましたが、私の独身時代のお部屋は4畳半でした。本とか布団とか着るものは押し入れに入れました。ですから、あのような棚は無かったです。
とにかくドアを開けて見える物といえば、あのような机一つで、電気スタンドは20Wの蛍光灯スタンドでした(^^)
コートの掛かっているところは、ガラス窓がありました。
現在の私の部屋も4畳半ですが、実際に使っているのは3畳ほどです。
昔のような机を使っておれば、これで布団も敷けますよ。
読み書きするだけなら、これで充分です!! -
教科書への掲載、海外での紹介、天皇夫妻の訪問等々、南吉の作品は没後70年の今に至るも人々に読まれ、愛されているのですね。
私も二人の孫に南吉童話の本を一冊ずつ買ってやりました。下の孫も学校へ行くようになったら買ってやろうと思っていますよ。 -
今回は南吉生誕100年記念ということで、4年前にはなかった展示がありました。
幾つかを見てみますね。 -
「やはり、ストーリィには悲哀がなくてはならない。悲哀は愛に変わる。……俺は、悲哀、即ち愛を含めるストーリィをかこう」
南吉15歳にして、こんなことを書いているんですね。
希望とか喜び・努力・苦労とかではなく、悲嘆・喪失・苦痛・断絶・悲愴などのイメージも含まれる「悲哀」をストーリーの中心に置くと言うのは、ちょっと驚きですね。
その悲哀は、生母喪失後南吉の成長に伴って心の片隅で形成されてきたものかも知れません。悲哀ゆえの愛!を強調したかったのでしょうか。でも、それは救いの愛でもあれば、救われない愛でもあるのですね。
しかし、日本人があまり馴染まない「愛」を正面に訴えていることは、凄いことだと思います。既に多くの文学書(特に欧米文学)を読んでいたことの表れかも知れませんね。
ここだけの話ですが、実は私も報われない愛を捧げているのであります。
30年以上も、日々三度のお茶碗洗いをし、お掃除もし、カミさんの足腰をマッサージしておるのですが、未だに正しい亭主の座を与えられていないのです。悲哀というものは、ホントに大変なもんですね〜(-_-;) -
「よのつねの喜びかなしみのかなたに、ひとしれぬ美しいもののあるを 知っているかなしみ。 そのかなしみを生涯うたいつづけた」
死の8ヶ月前の詩ですね。
「ひとしれぬ美しいもの」
それは何か。
“死”を覚悟している南吉だけの、悲しい洞察のような気もします。
「ひとしれぬ美しいもののあるを 知っているかなしみ。」
南吉はそれを謳い続けてきました。残る命をそこに捧げようとしている南吉の心が表明されているようにも感じます。 -
館内見学を終えてお昼の時間になりました。
今日はレストランではなくて、新美南吉記念館の前の広場でお弁当を頂きます。
カミさんの作ったお弁当ではなくて、弁当屋さんのお弁当です。
ちょっとした花見気分ですね。 -
それでは記念写真でも(^^)
こういうランチタイムも、なかなか良いですね。 -
これは皆さんとはちょっとだけ違う、男性特別待遇のお弁当でした。
とっても美味しいお弁当でした(^^)
お弁当を頂いて帰るんではないです。
まだ、午後の部があるのですよ。 -
お腹も満たされて、これから南吉の生家などを訪ねます。
その前に、皆さんと記念写真です。
どういうわけか、男性が一人写っています。
どこの人? それは知りませんが、添乗員ではなさそうです。
皆さんと御一緒に新見南吉記念館を見学した人かも知れません。
新見南吉記念館の見学は4年ぶりのことです。
今回は南吉生誕100年記念ということでしょうか、森信三先生の展示がありませんでした。
「真理は現実のただ中にあり。」
国民教育の重要性を説かれ、「一人雑誌」「自分史」「読書会」を広く勧められました。
学ばざるところに進歩なし。先生の教えを胸に刻んで頑張らねばと思います。
★森信三先生のことは、↓にて
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=17893383 -
最後に、南吉26歳の時の「最後の胡弓弾き」をご紹介したいと思います。
前段は私の話です。点線から下が、「最後の胡弓弾き」です。
私が小学校低学年の頃までは旧正月が来ると、南吉の言うように、複数の人が目出度い衣装に烏帽子を被って、三味線や小太鼓を鳴らしながらやってきたものです。そして、家の門口で三味線・太鼓とともに目出度い歌を唄ったり踊ったりしたのでした。たいていの家では僅かばかりのお銭(おあし)を渡しました。
すると、彼らはちょこっと礼らしい所作をして次の家へと回って行きました。三河地方では2〜3人組の「三河万歳」「おかめとひょっとこ」などが主だったものだったと思います。それは「門附け」と言われるもので、正月の風物詩というものでした(詳しいことがわかり次第、追記します)。
あのような時代は、もうどうやっても帰ってこないかと思いますと、寂しい思いがするものです。あの「津軽三味線」も、門付け芸から発展しているんですね。高橋竹山さんも門附けで生活を立てていたことがあったようです。
ここでは、あの時代の田舎の風物詩を描いた「最後の胡弓弾き」を取り上げますね。
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最後の胡弓弾き(その1)
小さい頃から胡弓を弾くのが大好きだった木之助は、12歳になって門附けを許され、従兄弟の松次郎と門附けに出掛けて行きました。きょうの目標の町に着くと、入口の餅屋の門かどから胡弓に合わせた歌を謡い始めて、一軒一軒のき伝いに、二人は胡弓をならし、歌を謡って行ったのでした。
★小倉織の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E7%B9%94 -
(その2)
木之助は初めてなので、あるおばあさんのお家で、お正月の挨拶を間違えて「ごめんやす」と言ってしまいました。そこはベテランの松次郎が、うまく取り繕ってくれました。おばあさんは歌を聴いて一銭銅貨をくれました。
そうして、しばらく行くと、味噌溜(みそだまり)と札のかかった大きな門構えの家の前に来ました。古めかしい広い玄関では、胡弓や鼓の音がよく響いて、奥へ吸いこまれてゆくようで気持ちのよいものでした。この家のやさしそうな主人は昼飯をご馳走してくれて、木之助の胡弓はたいそう上手いと褒めてくれました。 -
(その3)
木之助は正月が来るたびに胡弓を弾きに町へ行きました。そして、必ず「味噌溜」の看板のある家の門をくぐりました。主人はいつも木之助たちを歓迎してくれ、ご馳走もしてくれたのです。
木之助は胡弓弾きが好きだったので、どんどん上達し、曲もたくさん覚えました。
歳月は流れ、門附けはだんだんと流行らなくなり、松次郎はやる気をなくしてきていました。木之助が松次郎を門附けにさそっても、断られてしまいました。 -
(その4)
木之助は仕方なく一人で行くことにしました。途中で逢った村人の話では、門附けに行かない人が増えているようでした。それでも、少しはお銭(おあし)をくれる人もいて、その日は13銭でした。
味噌溜の主人もすっかり老人になってしまいましたが、何時ものように座敷に上げてくれて、聴きたい曲を木之助に頼むのでした。
それから数年経つ頃には、越後の角兵衛獅子の姿も見られなくなり、胡弓の音も聞こえなくなってきました。この頃には、どの家からも門附けを断られる始末。ある店屋では、胡弓を弾き始めた瞬間、大きな声で「今日はごめんだ!」と、怒鳴りつけられてしまいました。
そんな時に木之助の父が亡くなり、翌年は自分が感冒にかかって、2年も門附けを休んでしまいました。 -
(その5)
門附けを2年も休んで3年目のお正月は、お天気がよかった。
木之助は、一人でも俺の胡弓を聴いてくれる人があるうちは、門附けをやめられるものかと思って出掛けて行きました。もう一軒一軒回るのはやめて、これまで胡弓を聞いてくれた家だけを訪ねたのです。ところが、どの家も門附けを断ったのでした。
木之助は家々を回るのをやめて、味噌溜の家へ向かいました。門にあった「味噌溜」の看板が変わっているではありませんか。帰ろうとする気持ちを抑えて玄関に入ると、主人の亡くなったことを聞かされたのです。
仕方なく帰ろうとして門を出た時、この家の古参の女中に出会いました。女中から大旦那(元・主人)が喜之助の来るのを待っていたことを知らされました。その後、女中に勧められるままに大旦那の御仏前に進み、南無阿弥陀仏と唱えて大旦那の供養にと一心に胡弓を弾いたのでした。 -
(その6・最終)
門を出てこの家を振り返った時、木之助は最後の聞き手を失ったことに、深い寂しさを感じたのでした。町をゆく時ふと目に入ったのは、「鉄道省払下品、電車中遺留品、古物」と書かれた白い看板でした。
「聴く人のなくなった胡弓など持っていて何になろう。」
そう思った木之助は、古物屋に胡弓を安値で売ってしまいました。
しかし、子供の土産を買って釣り銭を待っている間に、30年も連れ添ってきた胡弓を売ってしまった後悔の念がつよまり、古物屋にとって返して「返してくれ」と頼んだのでした。
ところが、なんと!!売った時の倍の値段をふっかけられて、木之助はついに諦めたのでした。
真冬の午後3時頃、空は曇り町は冷えてきました。足元の凍えも身体に沁みてきました。木之助は右も左もみず、深くかがみこんで歩いていったのでした。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
<その2>に続きます。
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この旅行記へのコメント (2)
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- pedaruさん 2014/01/16 07:07:47
- 新美南吉(その1)を読んで
- カメちゃんさん お早うございます。
新美南吉その1、2を先に読んでしまいましたが、今朝も他のトラベラーの旅行記が犠牲になりました。(笑)
ご自分の体験も交えながらの解説は大変身近に感じられるものでした。固い表現があるかと思うと、皆さんと撮った記念写真に男性一人のユーモアのあるコメントなど、カメちゃんさんの人柄が出ていてホッとする場面です。
コールタール塗りの校舎の話、子供頃ありました、板塀ですが覚えています。電柱もコールタールが塗られて、暑い時など滲み出ていましたね。
「少年倶楽部」の話が出てきましたが、私も毎月読んでいましたが、私の頃は漫画ばっかりでした。田河水泡の「のらくろ」や馬場のぼるの「ポスト君」山川惣治の「少年王者」も載っていました。
南吉の字は上手ではないとおっしゃいますが、味のある好きな字です。しかし、死ぬ直前の字は乱れていますね。
ところで、「花のき村と盗人たち」という本が家にもありましたがこれが新美南吉だったのですね。この本は何度も読みました。母ともよくこの物語について話したものです。特に印象に残っているのは、毎日念仏を唱えている偉い坊さんが死んで人力車に乗ってあの世に向かうとき反対側から来た貧しくて、しかし実直な村の老人に出会います。自分の行きては暗い空なのに、その無学な老人の先は明るい日が射していた、という物語です。
カメちゃんさんに教えてもらって、目からうろこというか、この歳になって遠い記憶が蘇って来ました。 まだ書きたいことが沢山ありますが、このへんで・・有難うございました。
pedaru
- カメちゃんさん からの返信 2014/01/16 21:30:55
- RE: 新美南吉(その1)を読んで
- pedaruさん こんばんは
嬉しい書き込みを戴き、ありがとう御座いました!!
> ご自分の体験も交えながらの解説は大変身近に感じられるものでした。固い表現があるかと思うと、皆さんと撮った記念写真に男性一人のユーモアのあるコメントなど、カメちゃんさんの人柄が出ていてホッとする場面です。
このようなコメントを戴いて、嬉しい限りです(^_^)v
何ごとも、感じたまま考えついたままに書いているつもりですが、ついつい硬いことも書いてしまうこともありますね。 今回は、ちょっと考えるところが多かったモンですから、硬い文章が多かったと思います。
でも、やっぱり旅も人生も楽しく!!が基本ですね〜(^^)
> コールタール塗りの校舎の話、子供頃ありました、板塀ですが覚えています。電柱もコールタールが塗られて、暑い時など滲み出ていましたね。
pedaruさんもそのような光景をご覧になったことがあるんですね。
私達は「コールタン」といっていましたが、塗装と言うよりも害虫予防のようなものでしたね。塗り立てはとても臭かったのを、今でも覚えています。「時代」というものを、感じる思い出ですね。
その点、南吉の学校は戦前の時代にもかかわらず白塗りの校舎でしたから、あの時代ではおしゃれな感じだと思いましたね。
「少年倶楽部」は、私も知っていました。
ちょっと厚くて、マンガ本に変わってきていましたね。私はどんな本にしろ買ってもらったことは殆ど無かったですから、級友のもっていたものをチラチラ見たりした程度でしたけどね。
南吉の時代の「少年倶楽部」は、どんな内容だったか興味がありますね。
「のらくろ」は懐かしいです(^^)
南吉の字は、お話の通り特色ある字ですね。
私の友人も丸っこくて個性的な字を書くのですよ。それはそれで面白くて、真似しようにも出来ない字なんですね。
私は字を書くのがどうも苦手で、あんまり上手な字を見ますと羨ましくなってしまうんですよ(^_^;)
「花のき村と盗人たち」
何度もお読みになったんですね〜。
お坊さんと百姓の話も、印象的な物語でしたね。私もこの作品が好きです(^-^)
南吉は晩年になってこのような作品を出したのですが、「ごんぎつね」とは味わいが違っていて、
南吉の円熟が感じられますね。
私もこの歳になって南吉を知ったようなことなんですよ(^^;)
ヒマを見て、「良寛物語 手毬と鉢の子」などの小説も読んでみたいと思っています。
たくさんのお話を有り難うございました。
今日もお返事が遅くなってしまいました。ごめんなさいねm(_ _)m
これからも、いろいろなお話をお寄せ下さいますようお願いします。
カメちゃん
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