2015/09/20 - 2015/09/20
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ミズ旅撮る人さん
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2015年のシルバーウィークで紀伊半島を和歌山から奈良・三重へと横断しました。
行程のトップを飾るのが和歌山城です。
和歌山城は、創建は豊臣秀吉の弟秀長ですが、1619年、徳川御三家の一つ、紀州藩の居城となりました。
そのため、1846年に落雷で焼失した際も、築城ご法度の時代でありながら修復が許され、1850年に再建されました。
昭和に入って国宝ともなりましたが、第二次世界大戦の空襲で焼失。現在は鉄筋コンクリート造で復元されています。
紀州藩は、徳川家康の十男、頼宣(よりのぶ)の系統で、直系の将軍家に跡継ぎがいなくなったため、紀州藩5代目当主だった吉宗が、8代将軍となりました。
その後、吉宗の系統が将軍家を引き継ぎましたが、今度は紀州藩の当主に吉宗の玄孫(やしゃご)が着き、その子が14代将軍となるという、江戸時代後半は互いに切っても切れない縁となりました。
江戸と和歌山は、距離的には遠いですが、予想外に近い存在だったのです。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
秋晴れの和歌山市中心部。市の北側を「紀の川」という変わった名前の川が流れ、西に南海電鉄の和歌山市駅、東にJR和歌山駅があります。
市中心部を南北に走る国道24号線に面して、和歌山城はあります。ほぼ真ん中です。
こんなところに虎伏(とらふす)山という格好の高台があり、その山を利用して築城されました。
写真は、すぐそばの岡公園から見た和歌山城です。和歌山城 名所・史跡
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岡口門にある城内案内図です。
岡口門は、創建当時は正面玄関に当たる大手門でした。
しかし、早いうちから裏門に降格。天守閣への坂道に近過ぎたのでしょうか。 -
岡口門です。
和歌山城は、1585年に豊臣秀吉の弟、秀長が築城しました。
秀長が亡くなると、桑山氏が城主となり、城の整備を進めました。やがて、1600年の関が原の戦い以後は、浅野長政の子、幸長(よしなが)が拝領し、天守閣を初め、本丸・二の丸・西の丸に屋敷を増築しました。
しかし、丹精込めて、城を立派にしたのに、浅野家は広島に移封されてしまい、1619年以後は、紀州徳川家の居城となります。
岡口門の2階建ての建物は、徳川の城となった後の1621年に造られました。
第二次世界大戦の空襲でも焼け残り、重要文化財となっています。 -
岡口門横の城壁です。苔むした石垣が古城の風格を醸し出しています。
この周辺には桜が多く植えられていて、春にはたいそう美しい眺めが見られることでしょう。 -
目の前にはもっと高い石垣が聳えています。
天守閣へ登るには、まず右に歩いて行きます。 -
このビシッと決まった角がたまりませんね。
和歌山城の石垣は、年代によって3種類あるそうです。
これは一番新しい徳川時代の「切り込み接ぎ(はぎ)」と呼ばれる方式で、熊野の花崗班岩を使用します。
よく見ると、角の部分だけが「切り込み接ぎ」で、広い部分はもっと表面が荒くなっています。
こちらは中間世代の「打ち込み接ぎ」なのだそうで、和泉砂岩を使用しています。 -
この石垣に囲まれた辺りが「岡中門跡」です。昔は中門があったんですね。
大手門から入ってくると、そちらにも「一中門(いちなかもん)」がありました。 -
岡中門を過ぎると広くなり、左側に天守閣への坂道「表坂」が現れます。
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表坂には、簡易スロープが取り付けられていますが、「おたすけ隊が使用します」といった内容の張り紙がしてあります。
一般人が使ってはいけないのか、よくわかりません。 -
表坂を登ったところの「松の丸跡」の突端です。右端が岡口門。
ここが一番お堀が広く見える場所です。 -
「松の丸跡」から下の見下ろすと、なにやら檻で仕切られた場所があります。
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緑色の池の中に登るための突起を備えた鉄柱が立っていて、北海道・旭山動物園のオランウータンの屋外展示を思わせます。
どうやら、ここは動物園のようです。
お城の敷地内にある動物園は神奈川県の小田原城にもあります。 -
「松の丸跡」には、こんな解説板もあります。
「七福の庭」。
「七福の庭とは、7個の巨石を七福神に見立てて配置した庭です。
(中略)この庭では、七福神が宝船に乗っている様子を現しており(中略)石材は庭石としても珍重される緑色片岩(紀州青石)です。
七福の庭は本来、虎伏山の西の峰にあった本丸の中庭にありましたが、大正12(1923)年に給水場が計画されたため、松の丸のこの場所へ移設されました。」 -
実際の「七福の庭」は、これです。動物園を背景に立っています。
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ここが「松の丸跡」です。緩やかな坂道が続きます。
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「松の丸跡」にある石垣は、随分と荒い石積みです。
これは、全体が「打ち込み接ぎ(はぎ)」で造られています。
一番最初の築城時代のものは、「野面積み(のづらづみ)」と言います。
自然石をそのまま積んだものだそうで、「七福の庭」で使われているのと同じ、「紀州青石」が使われています。 -
「松の丸跡」を東から西へ歩き、緩やかだった坂道が、くるっと方向を変えると、突如急な坂道となります。
そして、頭の上に目指す天守閣が見えて来るのです。
石垣も高く、文字通り「頭の上」に見えるので、「威容高々」といった風情です。 -
岡口門の外で見て以来、ようやく天守閣が見えて来ました。
この天守閣は、昭和33年に再建されたものですが、あるとないとでは大違い。天守あっての城郭です。
鉄筋コンクリートであっても、日本人の誇りをくすぐられます。 -
左下から登って来ています(石垣の間の細い道ではありません)。
角を曲がり、右側の人がいるところから、天守部分へと上がります。この辺は木立が多いので、再び天守が見えなくなります。
そこで、いい場所があります。 -
これでは、どうでしょう?
ここは、先程の曲がり角を曲がらずに突き当たった場所にある階段を上った先、本丸御殿跡(給水場)です。
階段下ではまったく見えなかった天守が、いい位置に見えます。 -
本丸御殿跡は、1585年に豊臣秀吉の弟、秀長が築城した際に、まず手掛けた場所です。
後の城主、浅野幸長は、この部分を二の丸として御殿を建てました。
五角形の土地に建てられた屋敷の見取り図がこれです。
徳川時代には本丸となりましたが、手狭でもあり、あまり使用されなかったといいます。
現在の二の丸は、大手門を入ってすぐ隣にあります。
やがて明治となり、廃藩置県により、本丸御殿は解体されました。
「七福の庭」は、ここの中庭にありました。 -
時代劇でよく聞く「参勤交代」は、起源は鎌倉時代と言われますが、制度化されたのは徳川3代将軍家光による「武家諸法度」でした。
御三家を含む1万石以上のすべての大名に課せられた軍役であり、一年ごとに江戸と領地を行き来しなければなりませんでした。
また、正室(正妻)と嫡男は江戸に留め置かれました。
そのため、この本丸御殿に城主一家が住まうことは少なかったのです。 -
なんだか立派な天守に比べて侘しい碑です。
ここの彼岸花はまだつぼみでした。 -
天守閣のすぐ下まで来ました。ここまでは無料で来る事が出来ます。
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天守閣の入口、入城券売り場があります。
午前9時〜午後5時30分。410円。 -
さあ、入場券を持って天守閣へ。
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階段と言うより、段のある坂道を登って天守閣への入口を目指します。
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「楠門」。総楠造りだったため、こう呼ばれています。
国宝となりましたが、第二次大戦で焼失、再建されました。 -
楠門をくぐると中庭が現れます。
和歌山城の天守閣は、連立式天守閣という様式で造られています。
「連立式」とは、複数の小天守や櫓と天守を渡櫓などで環状につなげたもので、四方をぐるっと建物で囲まれています。
今年お化粧直しが完了した姫路城もこれです。
一部だけが繋がっているのは、連結式といいます。 -
正面の2階建ての部分が入口です。
ここまで来ると、あんなに立派に見えた天守が、以外に小さいことがわかります。
実際にここに住んだり、事務を執ったり、ましてや籠城を前提としたものではなかったので、こんなものなのでしょう。 -
天守の破風には、見事な青海波(せいがいは)文様が描かれています。「青海波」は、同心円の半分を重ねて、波を表す文様で、舞楽「青海波」の装束に使われたのが日本での起源とされています。
これがあるだけで、「粋」で「風流」で、今風に言えば「洒落た」感じがします。 -
天守の屋根を飾る鯱(しゃちほこ)の下に、「三葉葵」の御紋があります。
テレビドラマの「水戸黄門」でよく見る御紋です。(徳川御三家とは「尾張」「紀州」「水戸」です)
徳川家にだけ許された御紋が、ここにあります。 -
入口を入ったところにある広間の天井に、可愛い電灯がありました。
ちょっと不思議な和風のデザイン。これは「紀州手鞠(てまり)」のモチーフです。 -
これは、天守閣の外にある売店で撮らせてもらったものですが、「紀州手鞠」です。
余談ですが、和歌山城には「お城の鐘」というものがあって、毎日7・9・12・15・17・21時に鳴ります。
曲は「鞠と殿様」です。作詞は西条八十、作曲は中山晋平です。
この「鞠」は、今のような弾むボールではなく、写真のような工芸品の「手鞠」のことです。
「鞠と殿様」の歌詞は「てんてんてんまり てんてまり てんてんてまりの 手がそれて」と始まり、
2番の歌詞では「おもての行列 なんじゃいな 紀州の殿さま お国入り 金紋 先箱 供ぞろい お駕籠のそばには ひげやっこ」と、参勤交代の様子を描きます。
4番の歌詞では「お駕籠はゆきます 東海道 東海道は 松並木」と唄われ、三保の松原辺りを大名行列が行く様を唄います。
昭和初期の童謡ですが、和歌山城の歌とは思っていませんでした。 -
2階に上がると、外が見えます。西の丸広場では、イベントが行われているようです。
西の丸と二の丸を隔てるお堀に木造の橋が架かっています。「御橋廊下」です。
殿様や奥女中が渡るための橋だったので、外から見えないように廊下のようになっています。
平成18年に再建されました。
左右の岸の高さが違うため、斜めに掛かっているのが珍しい橋です。 -
「和歌山城歴史資料館」の展示です。
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天守に上る途中で、ここを見学するようになっています。
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「短銃」。江戸時代と書かれていますが、幕末でしょう。
紀州は、徳川幕府側でしょうから、どんな歴史があったのでしょうか。
和歌山は京都御所にも近いですから、それなりのドラマがあったことと思われます。 -
「火縄銃」。実物なんて、そう見られるものではないです。
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木々の中に小さな小屋が見えます。ここが、先程立ち寄った本丸御殿跡(給水場)です。その向こうには、お堀がぐるりと巡っているのですが、わずかに右に見えるだけです。
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天守から南側を見ています。
中央の大きな建物は、県立近代美術館と県立博物館です。 -
西側。天守閣の南西と北西の櫓(やぐら)越しに紀ノ川が和歌浦湾に注ぐのが見えます。
その境に紀ノ川河口大橋があります。 -
対岸には新日鐵住金の巨大な工場が広がっています。
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天守の中です。
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天井には、あの手鞠の電灯が点いています。
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和歌山城の模型がありました。これは、南西側から見ています。
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天守から降りて、歴史資料館を見ています。
第二次世界大戦で焼失しているので、遺物は少ないのかもしれません。
徳川御三家の城としては、ちょっと寂しいです。 -
鯱と三葉葵の付いた瓦です。
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順路に沿って歩いて行くと、和歌山出身の著名人の紹介がありました。
「松下幸之助」は誰でも知っている「松下電器(ナショナル)」の創始者です。
有吉佐和子もありました。
頭の上の梁が、見事です。ここまでは焼失しなかったのでしょうか。 -
著名人の略歴のあった部屋の先は、長い廊下になっています。
その壁にこの張り紙がありました。「ここは楠門です」。
ああ、そうか。天守閣に入って来た時の入城門だ。
わざわざ、こうして書いてくれたお陰で、自分がどこにいるのかわかりました。
連立式天守閣なので、この廊下が櫓と共にぐるっと取り巻いているのです。 -
「藩札」。江戸時代に、各藩が領地内で独自に発行した紙幣です。1600年代に始まりました。
藩札は、その藩がお取り潰しになれば紙くずになる危険性を孕んでいました。
領地内の富裕な商人が藩札の札元となって発行を行い、その商人の信用によって流通するという性格を持っていました。
紀州藩では、茶屋小四郎が札元となったため「茶屋札(ちゃやさつ)」と呼ばれました。
1707年に、幕府が藩札の使用を禁止したため、この茶屋札はわずか5年間流通しただけでした。 -
幕府による藩札禁止令は、禁止になったり緩められたりして一貫せず、また各藩も財政事情に寄り、幕府の命令に従わずに発行したりしたので、様々な物が存在します。
明治政府が調査した時には、約8割の藩が発行していたそうです。
それを新貨幣と交換するのには5年がかりで、ようやく明治12(1879)年に完了したと言います。
日本のお金が統一されたのは、この時なのです。
当時は「圓(円)、銭、厘」という単位でした。 -
天守閣をぐるりと回り、出口のところにある襖絵です。
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説明書きによると、NHK大河ドラマ「徳川将軍吉宗」で、江戸城内のセットとして使用されたものだそうです。
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天守閣の説明書き。
「和歌山城天守閣は、大天守・小天守・乾櫓・二の門櫓・楠門を多聞によって連結させた連立式天守閣である。
各層の屋根には唐破風・千鳥破風を交互に配し、上層階には物見のための高欄をめぐらし、大天守の隅には石落としを設けるなど、江戸初期頃の様式を残している。
特に、和歌山城天守閣の特徴は、菱形の敷地に左右され、乾櫓(北西)と大天守(南東)が張り出し、城下の北東と南西からの姿に雄大さを増すように工夫されている。
現在の天守閣は、昭和20年7月に戦災で焼失した天守閣(国宝)を、昭和33年10月に鉄筋コンクリート造で復元したものである。」天守台面積2,640?、大天守閣高23.42m(海抜72.32m) -
楠門です。ここから、元来た道を戻ります。
和歌山城は、城内に600本の桜の木があり、「城と桜」の構図が楽しめます。
西の丸庭園は「紅葉渓庭園」とも呼ばれ、治泉回遊式の見事な庭園です。
毎年、11月末から12月初めが紅葉の見ごろだそうです。
お城を訪ねるなら、やはり春か秋ですねえ。
さあ、和歌山から奈良に向けて先に進みます。
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