層雲峡旅行記(ブログ) 一覧に戻る
網走国定公園に広がる能取湖は、秋の風物詩 深紅のサンゴ草群生地として知られる湖です。サンゴ草は一時は絶滅の危機に瀕しましたが、市や地元自治会などが一丸となって数年来の再生に取り組んだ結果、今年8月に漸く「復活宣言」がなされました。遠目には彼岸花の群生を思わせるほどの色彩であり、能取湖の秋の絶景に感動させられました。<br />太陽の丘では1000万本ものコスモスに囲まれ、一足先に訪れた北海道の短い秋のひと時を過ごすことができました。花の見頃は10日ほど前だったようですが、丘陵全体に広がるコスモス畑のパノラマは圧巻でした。<br />層雲峡に向かうバスの中では、激しい雷雨に見舞われました。銀河・流星の滝も豪雨で霞んで見えないのではないかと気を揉みましたが、ザーザー降りの雨中でもその荘厳な景観を堪能することができたのは幸いでした。<br />日本で最も高い標高にある三国峠では、シャーベット状でしたが、今期初めての積雪を見ることができ、北海道は9月と言っても侮れない地域であることを改めて認識させられました。しかし、緑深橋から見下ろす松見大橋と原生林が織りなす秋景色は霧の中にありました。<br />ナイタイ高原牧場では、久々に広がった青空の下、牧草が生えた雄大な丘陵を遥か彼方まで見渡すことができました。乳牛たちがのんびりと草を食む姿は豆粒ほどにしか見えませんが、これもこの牧場の広大さを表現する一齣と言えます。気分まで清々しくしてくれた緑の絶景でした。<br />十勝川・千代田堰堤では、秋の風物詩となるカラフトマスの遡上を見ることができました。<br /><旅程><br />1日目:関空→新千歳空港====夕張 ホテル マウントレースイ(宿泊)<br />2日目:宿===フラワーランドかみふらの===美瑛・四季彩の丘===大雪山ロープウェイ山麓駅(旭岳)---姿見駅---山麓駅===網走観光ホテル(宿泊)<br />3日目:宿===能取湖(サンゴ草鑑賞)===太陽の丘えんがる公園===層雲峡(銀河の滝・流星の滝)===三国峠===ナイタイ牧場===十勝川・千代田堰堤(マスの遡上見学)===ホテル大平原(宿泊)<br />4日目:宿===新千歳空港→関空

桐葉知秋 北海道紀行③能取湖・遠軽・層雲峡・ナイタイ高原牧場

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2015/09/26 - 2015/09/29

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2

79

montsaintmichel

montsaintmichelさん

網走国定公園に広がる能取湖は、秋の風物詩 深紅のサンゴ草群生地として知られる湖です。サンゴ草は一時は絶滅の危機に瀕しましたが、市や地元自治会などが一丸となって数年来の再生に取り組んだ結果、今年8月に漸く「復活宣言」がなされました。遠目には彼岸花の群生を思わせるほどの色彩であり、能取湖の秋の絶景に感動させられました。
太陽の丘では1000万本ものコスモスに囲まれ、一足先に訪れた北海道の短い秋のひと時を過ごすことができました。花の見頃は10日ほど前だったようですが、丘陵全体に広がるコスモス畑のパノラマは圧巻でした。
層雲峡に向かうバスの中では、激しい雷雨に見舞われました。銀河・流星の滝も豪雨で霞んで見えないのではないかと気を揉みましたが、ザーザー降りの雨中でもその荘厳な景観を堪能することができたのは幸いでした。
日本で最も高い標高にある三国峠では、シャーベット状でしたが、今期初めての積雪を見ることができ、北海道は9月と言っても侮れない地域であることを改めて認識させられました。しかし、緑深橋から見下ろす松見大橋と原生林が織りなす秋景色は霧の中にありました。
ナイタイ高原牧場では、久々に広がった青空の下、牧草が生えた雄大な丘陵を遥か彼方まで見渡すことができました。乳牛たちがのんびりと草を食む姿は豆粒ほどにしか見えませんが、これもこの牧場の広大さを表現する一齣と言えます。気分まで清々しくしてくれた緑の絶景でした。
十勝川・千代田堰堤では、秋の風物詩となるカラフトマスの遡上を見ることができました。
<旅程>
1日目:関空→新千歳空港====夕張 ホテル マウントレースイ(宿泊)
2日目:宿===フラワーランドかみふらの===美瑛・四季彩の丘===大雪山ロープウェイ山麓駅(旭岳)---姿見駅---山麓駅===網走観光ホテル(宿泊)
3日目:宿===能取湖(サンゴ草鑑賞)===太陽の丘えんがる公園===層雲峡(銀河の滝・流星の滝)===三国峠===ナイタイ牧場===十勝川・千代田堰堤(マスの遡上見学)===ホテル大平原(宿泊)
4日目:宿===新千歳空港→関空

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
観光バス ANAグループ
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
読売旅行
  • 網走観光ホテル 網走湖<br />夜明け前の静寂感溢れる網走湖です。<br />中央左から東へ鳥の嘴のように突き出した細長い陸地が、呼人(よびと)半島です。<br /><br />網走の地名の由来には諸説ありますが、その代表格がチパシリ伝説です。昔、白い大きな鳥が「チパシリ、チパシリ」と鳴いて飛んだとか、帽子岩の上で神様が「チパシリ、チパシリ」と歌いながら踊った等の伝説があります(永田方正著『北海道蝦夷語地名解』)。しかし、これらの伝説は、地名の由来が忘れられたが故につくられた伝説に過ぎないと論破する説もあります。<br />網走の語源は、かつてはアイヌ語の「アパシリ(我等が見つけた土地)」とか「アパシリ(入口の土地)」と言われていましたが、「チパシリ(幣場(ぬさば)のある島)」が正しいと言う説です。「チパシリ」は網走川の川口に近い海の中にあり、現在では帽子岩と呼ばれ、網走港の防波堤の一部になっているそうです。「チパ」は「イナウサン(幣場)」の古語のため、その意味が忘れ去られたために紆余曲折があったとのこと。「チ(我等)」は同じ意味の「ア(我等)」に変換され、「アパシリ(我等が見つけた土地)」となったと言います。どちらも「チバシリ」という言葉が由来であることは否定していないようです。<br />しかし、「チバシリ」をアイヌ民族は「神に祈りを捧げる島」を意味していたとの伝承もあります。島のない網走湖に於いては、「チバシリ」は呼人半島だと容易に察しがつきます。こちらの方がロマンがあっていいのですが、真偽のほどは不明です。

    網走観光ホテル 網走湖
    夜明け前の静寂感溢れる網走湖です。
    中央左から東へ鳥の嘴のように突き出した細長い陸地が、呼人(よびと)半島です。

    網走の地名の由来には諸説ありますが、その代表格がチパシリ伝説です。昔、白い大きな鳥が「チパシリ、チパシリ」と鳴いて飛んだとか、帽子岩の上で神様が「チパシリ、チパシリ」と歌いながら踊った等の伝説があります(永田方正著『北海道蝦夷語地名解』)。しかし、これらの伝説は、地名の由来が忘れられたが故につくられた伝説に過ぎないと論破する説もあります。
    網走の語源は、かつてはアイヌ語の「アパシリ(我等が見つけた土地)」とか「アパシリ(入口の土地)」と言われていましたが、「チパシリ(幣場(ぬさば)のある島)」が正しいと言う説です。「チパシリ」は網走川の川口に近い海の中にあり、現在では帽子岩と呼ばれ、網走港の防波堤の一部になっているそうです。「チパ」は「イナウサン(幣場)」の古語のため、その意味が忘れ去られたために紆余曲折があったとのこと。「チ(我等)」は同じ意味の「ア(我等)」に変換され、「アパシリ(我等が見つけた土地)」となったと言います。どちらも「チバシリ」という言葉が由来であることは否定していないようです。
    しかし、「チバシリ」をアイヌ民族は「神に祈りを捧げる島」を意味していたとの伝承もあります。島のない網走湖に於いては、「チバシリ」は呼人半島だと容易に察しがつきます。こちらの方がロマンがあっていいのですが、真偽のほどは不明です。

  • 網走観光ホテル 網走湖<br />ショッキングな写真が撮れました。<br />ホテル玄関の右脇には大きなダケカンバの木があるのですが、そこにエゾリスらしきものがいました。すばしっこく駐車場の方に逃げて行ったのですが、その後ろ姿を撮ったのがこの写真です。生憎、広角レンズを装着していたため、小さすぎて画像をズームアップ加工したものです。<br />画像中央に捉えたのが「エゾリス」のはずでしたが、そこには奇妙なものが写っていました。都市伝説として話題になった「小さいおじさん」に似ていないでも…。胴体はずんぐりむっくりですが…。<br />恐らく、ズームアップで加工する際、このように変身してしまったのでしょう。<br />エゾリスと言えば、かなり大型で太いフサフサの尻尾が特徴ですので間違えようがありません。

    網走観光ホテル 網走湖
    ショッキングな写真が撮れました。
    ホテル玄関の右脇には大きなダケカンバの木があるのですが、そこにエゾリスらしきものがいました。すばしっこく駐車場の方に逃げて行ったのですが、その後ろ姿を撮ったのがこの写真です。生憎、広角レンズを装着していたため、小さすぎて画像をズームアップ加工したものです。
    画像中央に捉えたのが「エゾリス」のはずでしたが、そこには奇妙なものが写っていました。都市伝説として話題になった「小さいおじさん」に似ていないでも…。胴体はずんぐりむっくりですが…。
    恐らく、ズームアップで加工する際、このように変身してしまったのでしょう。
    エゾリスと言えば、かなり大型で太いフサフサの尻尾が特徴ですので間違えようがありません。

  • 網走湖<br />まだ薄暗いですが、早朝散策に湖畔まで降りてみました。<br />ホテルの坂を下った先にある道を右側へ折れ、道なりに進むとJR石北本線が通っています。踏切を渡り、湖畔に沿った北見国道39号線を横断すればその先に網走湖がひっそりと広がっています。<br />静寂さを乱す鳥のさえずりが、より静けさを高めてくれます。<br />芭蕉の句「古池や…」を彷彿とさせる、夜明のしじまです。

    網走湖
    まだ薄暗いですが、早朝散策に湖畔まで降りてみました。
    ホテルの坂を下った先にある道を右側へ折れ、道なりに進むとJR石北本線が通っています。踏切を渡り、湖畔に沿った北見国道39号線を横断すればその先に網走湖がひっそりと広がっています。
    静寂さを乱す鳥のさえずりが、より静けさを高めてくれます。
    芭蕉の句「古池や…」を彷彿とさせる、夜明のしじまです。

  • 網走湖<br />網走国定公園は、北海道の北東部にあり、オホーツク海に面し、網走市、大空町、斜里町、小清水町、佐呂間町、北見市、湧別町の2市5町にまたがって南北に長く広がる面積およそ37000haの自然公園です。公園の区域は、サロマ湖、能取湖、網走湖、濤沸湖など大小7つの海跡湖およびこれらを囲む砂丘、草原、丘陵からなり、傑出した雄大な風景に恵まれています。<br />1950年(昭和25)年に道立公園として指定されたのが自然公園としての始まりで、1958年に国定公園に指定されました。

    網走湖
    網走国定公園は、北海道の北東部にあり、オホーツク海に面し、網走市、大空町、斜里町、小清水町、佐呂間町、北見市、湧別町の2市5町にまたがって南北に長く広がる面積およそ37000haの自然公園です。公園の区域は、サロマ湖、能取湖、網走湖、濤沸湖など大小7つの海跡湖およびこれらを囲む砂丘、草原、丘陵からなり、傑出した雄大な風景に恵まれています。
    1950年(昭和25)年に道立公園として指定されたのが自然公園としての始まりで、1958年に国定公園に指定されました。

  • 網走湖<br />早朝から小船を出して漁をしているのは、ヤマトシジミ漁のようです。<br />豊かな自然が息づく湖岸一帯には、ハンノキやヤチダモ、ミズナラなどの天然の広葉樹が茂り、春の湿地帯には水芭蕉の群落も見られるようです。冬期は全面凍結し、ワカサギ釣りで賑わいます。養殖漁業も盛んで、ヤマトシジミの他、ワカサギなどが養殖され、サケ・マスの孵化事業も行われています。また、シラウオは道内水揚げ量の80%を占める特産品として有名です。

    網走湖
    早朝から小船を出して漁をしているのは、ヤマトシジミ漁のようです。
    豊かな自然が息づく湖岸一帯には、ハンノキやヤチダモ、ミズナラなどの天然の広葉樹が茂り、春の湿地帯には水芭蕉の群落も見られるようです。冬期は全面凍結し、ワカサギ釣りで賑わいます。養殖漁業も盛んで、ヤマトシジミの他、ワカサギなどが養殖され、サケ・マスの孵化事業も行われています。また、シラウオは道内水揚げ量の80%を占める特産品として有名です。

  • 網走湖<br />大型の鳥ですが、嘴の形から察すると「カワウ」のようです。当方の気配を察知して飛び立とうと湖面を滑走しています。<br /><br />網走湖は、網走市南部から大空町女満別北部に亘って広がる海跡湖で、南方から網走川が流れ込み、南東からトマップ川、東から女満別川が流入、これらが混ざって湖を形成し、再び網走川になってオホーツク海に流出しています。湖の周囲は42km、面積32.3平方km、最大深度16.1m、湖面標高は0mです。<br />今から1万年前は海の一部でしたが、その後、海水面の変動や漂砂などによってできた海跡湖です。網走川を通じてオホーツク海と結ばれているため、湖の干満により海水と河川水が混ざり合う「汽水湖」が形成されました。また、流入した海水は湖の地形と比重の違いによって湖の底に沈み、上層の淡水層と下層の塩水層とは混じり合うことなく珍しい2層構造を形成しています。

    網走湖
    大型の鳥ですが、嘴の形から察すると「カワウ」のようです。当方の気配を察知して飛び立とうと湖面を滑走しています。

    網走湖は、網走市南部から大空町女満別北部に亘って広がる海跡湖で、南方から網走川が流れ込み、南東からトマップ川、東から女満別川が流入、これらが混ざって湖を形成し、再び網走川になってオホーツク海に流出しています。湖の周囲は42km、面積32.3平方km、最大深度16.1m、湖面標高は0mです。
    今から1万年前は海の一部でしたが、その後、海水面の変動や漂砂などによってできた海跡湖です。網走川を通じてオホーツク海と結ばれているため、湖の干満により海水と河川水が混ざり合う「汽水湖」が形成されました。また、流入した海水は湖の地形と比重の違いによって湖の底に沈み、上層の淡水層と下層の塩水層とは混じり合うことなく珍しい2層構造を形成しています。

  • 網走湖<br />昨晩食した「モヨロ鍋」を思い出し、湖畔に佇んで古代のモヨロ人に思いを馳せてみました。<br />サハリン、北海道北東部および千島列島の歴史を紐解くと、8世紀前後に縄文式文化や弥生式文化とは明らかに系統の違う海洋民族によるオホーツク文化が発達していました。数世紀に亘って特異な文化を残した後、やがて同時期に栄えた忽然と姿を消しています。<br />オホーツク文化は、5〜11世紀までオホーツク海沿岸を中心に栄えた古代文化です。遺跡がオホーツク海の沿岸に分布することから命名されました。ではオホーツク文化人はどこから来てどこへ去ったのでしょうか?古代人が残した爪跡は、この地を訪れる人を果てしない想像の世界へと駆り立てます。<br />1913(大正2)年、理髪職人 米村喜男衛(きおえ)氏がアイヌ文化研究のために訪れた網走で海獣狩猟や漁労を中心に生活していたオホーツク文化人の遺跡「モヨロ貝塚」を発見しました。この発見は世界的にも注目され、司馬遼太郎著『街道を行く』では米村氏をトロイの遺跡を発見したシュリーマンと並べて称賛しています。<br />オホーツク文化人(モヨロ人)は『日本書紀』に記された「粛慎(あしはせ)」と考える見方もありましたが、近年の北大によるDNA調査から、サハリン北部やシベリアのアムール川河口一帯に住むニブフ民族に最も近く、同川の下流域に住むウリチ民族と祖先を共有するという結論に至っています。<br />同時期に北海道に存在した続縄文文化や擦文文化とは全く異質の文化です。オホーツク文化人は、擦文文化の人々とは全く異なる土器を作っていました。典型的なものは口の広い壷形で、細長い粘土紐を使った装飾文様が付けられていました。この細長い粘土紐はその形状が素麺(そうめん)を連想させることから「ソーメン文」や「ソーメン状貼付文」などと呼ばれています。

    網走湖
    昨晩食した「モヨロ鍋」を思い出し、湖畔に佇んで古代のモヨロ人に思いを馳せてみました。
    サハリン、北海道北東部および千島列島の歴史を紐解くと、8世紀前後に縄文式文化や弥生式文化とは明らかに系統の違う海洋民族によるオホーツク文化が発達していました。数世紀に亘って特異な文化を残した後、やがて同時期に栄えた忽然と姿を消しています。
    オホーツク文化は、5〜11世紀までオホーツク海沿岸を中心に栄えた古代文化です。遺跡がオホーツク海の沿岸に分布することから命名されました。ではオホーツク文化人はどこから来てどこへ去ったのでしょうか?古代人が残した爪跡は、この地を訪れる人を果てしない想像の世界へと駆り立てます。
    1913(大正2)年、理髪職人 米村喜男衛(きおえ)氏がアイヌ文化研究のために訪れた網走で海獣狩猟や漁労を中心に生活していたオホーツク文化人の遺跡「モヨロ貝塚」を発見しました。この発見は世界的にも注目され、司馬遼太郎著『街道を行く』では米村氏をトロイの遺跡を発見したシュリーマンと並べて称賛しています。
    オホーツク文化人(モヨロ人)は『日本書紀』に記された「粛慎(あしはせ)」と考える見方もありましたが、近年の北大によるDNA調査から、サハリン北部やシベリアのアムール川河口一帯に住むニブフ民族に最も近く、同川の下流域に住むウリチ民族と祖先を共有するという結論に至っています。
    同時期に北海道に存在した続縄文文化や擦文文化とは全く異質の文化です。オホーツク文化人は、擦文文化の人々とは全く異なる土器を作っていました。典型的なものは口の広い壷形で、細長い粘土紐を使った装飾文様が付けられていました。この細長い粘土紐はその形状が素麺(そうめん)を連想させることから「ソーメン文」や「ソーメン状貼付文」などと呼ばれています。

  • 網走湖<br />続縄文〜擦文時代に並行し、5〜11世紀の間存在したのがオホーツク文化です。この時期は、本州では古墳〜平安時代に相当します。11世紀、ユーラシア大陸の反対側ではバイキングと呼ばれた北方の人々が海へと繰り出して欧州各地を征服し、遥かグリーンランドにまで勢力を拡大しました。時間を少し遡って、日本列島の北端でも海を舞台に流氷に乗って同様の物語が展開されていたのかもしれません。 <br />オホーツク文化はやがて12世紀まで続いた擦文文化へと吸収され、その後のアイヌ文化へも受け継がれていきました。歴史の時間のスケールで見れば、唐突に現れ忽然と消えた幻の民族と言えます。実は、この時代にチンギス・カン王が率いたモンゴール族「元」が中国東北部にまで勢力を伸ばし、北方民族に厳しい鎖国政策を展開したため、オホーツク文化人は大陸との交流を絶たれたのです。一方、鎌倉幕府は流刑人を蝦夷に送り込み、それに伴って鉄製の武器など本州の文化が北海道に持ち込まれました。こうした偶然が重なり、オホーツク文化人とプレ・アイヌ民族と言われる擦文文化人との間で文化レベルの逆転が起こり、やがて擦文文化に同化したと考えられています。

    網走湖
    続縄文〜擦文時代に並行し、5〜11世紀の間存在したのがオホーツク文化です。この時期は、本州では古墳〜平安時代に相当します。11世紀、ユーラシア大陸の反対側ではバイキングと呼ばれた北方の人々が海へと繰り出して欧州各地を征服し、遥かグリーンランドにまで勢力を拡大しました。時間を少し遡って、日本列島の北端でも海を舞台に流氷に乗って同様の物語が展開されていたのかもしれません。
    オホーツク文化はやがて12世紀まで続いた擦文文化へと吸収され、その後のアイヌ文化へも受け継がれていきました。歴史の時間のスケールで見れば、唐突に現れ忽然と消えた幻の民族と言えます。実は、この時代にチンギス・カン王が率いたモンゴール族「元」が中国東北部にまで勢力を伸ばし、北方民族に厳しい鎖国政策を展開したため、オホーツク文化人は大陸との交流を絶たれたのです。一方、鎌倉幕府は流刑人を蝦夷に送り込み、それに伴って鉄製の武器など本州の文化が北海道に持ち込まれました。こうした偶然が重なり、オホーツク文化人とプレ・アイヌ民族と言われる擦文文化人との間で文化レベルの逆転が起こり、やがて擦文文化に同化したと考えられています。

  • 網走湖<br />凪いだ入江には、3艘のカヤックがもの寂しそうに岸に繋がれています。<br />

    網走湖
    凪いだ入江には、3艘のカヤックがもの寂しそうに岸に繋がれています。

  • 網走湖<br />入江の先の浅瀬では50cmもあろうかという大きなカラフトマスが群れをなし、バシャバシャと大きな音を立てて遡上しています。その近くには、悲しいかな力尽きたマスの姿も散見されます。<br />この流れの先には、サケ・マスの孵化場があるのですが、まさか生まれた場所に戻る習性のなす業ではないような気もするのですが…。因みに、この先は北見国道39号線の地下を貫く土管になっています。

    網走湖
    入江の先の浅瀬では50cmもあろうかという大きなカラフトマスが群れをなし、バシャバシャと大きな音を立てて遡上しています。その近くには、悲しいかな力尽きたマスの姿も散見されます。
    この流れの先には、サケ・マスの孵化場があるのですが、まさか生まれた場所に戻る習性のなす業ではないような気もするのですが…。因みに、この先は北見国道39号線の地下を貫く土管になっています。

  • 網走湖<br />朝露に濡れながら、ハマナスが真っ赤な実を付けています。

    網走湖
    朝露に濡れながら、ハマナスが真っ赤な実を付けています。

  • JR石北本線<br />この線路の先に「人柱伝説」の常紋トンネルがあります。<br />北海道の交通道路網は言うに及ばず、鉄道敷設、築港、治水、灌漑工事、鉱山開発に至るまで、官営、民営を問わずあらゆる土木工事は、囚人労働者やタコ部屋労働者の血と汗、酷使と虐待と死傷の上に成し遂げられた賜物です。今日の北海道の繁栄がこうした尊い犠牲の上に成り立っていることを知ればこそ、何気なく利用させていただいているインフラに、改めて敬意と感謝そして追悼の意を表したい気持ちに駆られました。<br />北海道の鉄道敷設には、枕木の数よりも多い数の人が埋められていると伝えられています。一時、JR北海道の安全管理体制が問題視されましたが、尊い命と引き換えに造られたこうした基礎インフラ開拓の歴史を顧みることができなかった結果が招いた人災ではなかったでしょうか?従業員ひとり一人が真摯にこうした開拓史を振り返り、乗客の安全第一を推進しないと、来たる2016年3月16日に新幹線が晴れて開通したとしても北海道の鉄道の旅が敬遠されてしまうのではないかと思うのは杞憂に過ぎないでしょうか?

    JR石北本線
    この線路の先に「人柱伝説」の常紋トンネルがあります。
    北海道の交通道路網は言うに及ばず、鉄道敷設、築港、治水、灌漑工事、鉱山開発に至るまで、官営、民営を問わずあらゆる土木工事は、囚人労働者やタコ部屋労働者の血と汗、酷使と虐待と死傷の上に成し遂げられた賜物です。今日の北海道の繁栄がこうした尊い犠牲の上に成り立っていることを知ればこそ、何気なく利用させていただいているインフラに、改めて敬意と感謝そして追悼の意を表したい気持ちに駆られました。
    北海道の鉄道敷設には、枕木の数よりも多い数の人が埋められていると伝えられています。一時、JR北海道の安全管理体制が問題視されましたが、尊い命と引き換えに造られたこうした基礎インフラ開拓の歴史を顧みることができなかった結果が招いた人災ではなかったでしょうか?従業員ひとり一人が真摯にこうした開拓史を振り返り、乗客の安全第一を推進しないと、来たる2016年3月16日に新幹線が晴れて開通したとしても北海道の鉄道の旅が敬遠されてしまうのではないかと思うのは杞憂に過ぎないでしょうか?

  • ゴジュウガラ(五十雀)<br />スズメ目ゴジュウカラ科ゴジュウカラ属に分類される鳥類です。<br />全長13cmほどで、背面は青味がかった灰色、腹面は白い羽毛で覆われ、雌雄ほぼ同色です。尾羽は短く、嘴から眼を通り側頭部へ続く黒い筋模様(過眼線)が入るのが特徴です。嘴は黒色で、足は肉褐色をしています。<br />木の幹に留まる場合は、上下逆さまになる姿がユニークです。

    ゴジュウガラ(五十雀)
    スズメ目ゴジュウカラ科ゴジュウカラ属に分類される鳥類です。
    全長13cmほどで、背面は青味がかった灰色、腹面は白い羽毛で覆われ、雌雄ほぼ同色です。尾羽は短く、嘴から眼を通り側頭部へ続く黒い筋模様(過眼線)が入るのが特徴です。嘴は黒色で、足は肉褐色をしています。
    木の幹に留まる場合は、上下逆さまになる姿がユニークです。

  • ヤマガラ(山雀)<br />スズメ目シジュウカラ科シジュウカラ属に分類される鳥類です。<br />全長13〜15cmで、頭と喉は黒く、腹は黄褐色、尾羽は黒褐色です。羽毛の外縁(羽縁)は青みがかった灰色をしています。<br />ホテルの玄関先にはこのような鳥の餌場が設けられています。ここに色々な鳥が餌をついばみにきます。

    ヤマガラ(山雀)
    スズメ目シジュウカラ科シジュウカラ属に分類される鳥類です。
    全長13〜15cmで、頭と喉は黒く、腹は黄褐色、尾羽は黒褐色です。羽毛の外縁(羽縁)は青みがかった灰色をしています。
    ホテルの玄関先にはこのような鳥の餌場が設けられています。ここに色々な鳥が餌をついばみにきます。

  • 鏡橋<br />ここからが本日のツアーの始まりです。と言っても、これはオプションです。朝一に向かったのは、何と網走刑務所です。<br />当然ながらツアーのコースには含まれていませんが、海産物のお買物ツアーの場所がすぐ近所でしたので足を運んでみました。現役の刑務所ですので、観光ツアーに組み込まれることはまずあり得ないスポットです。<br />この先にある橋は、網走刑務所の外塀に沿って流れる網走川に架けられた鏡橋です。収容される時と出所の時に必ず渡らねばならない宿命の橋です。そこから、「流れる清流を鏡として、我が身を見つめ、自ら襟を正し目的の岸に渡るべし」と誰言うとはなしに鏡橋と呼ばれるようになったそうです。<br />現在のものは4代目です。因みに、この橋は観光客の車両は進入禁止となっています。道路標識をよく観てくださいね!

    鏡橋
    ここからが本日のツアーの始まりです。と言っても、これはオプションです。朝一に向かったのは、何と網走刑務所です。
    当然ながらツアーのコースには含まれていませんが、海産物のお買物ツアーの場所がすぐ近所でしたので足を運んでみました。現役の刑務所ですので、観光ツアーに組み込まれることはまずあり得ないスポットです。
    この先にある橋は、網走刑務所の外塀に沿って流れる網走川に架けられた鏡橋です。収容される時と出所の時に必ず渡らねばならない宿命の橋です。そこから、「流れる清流を鏡として、我が身を見つめ、自ら襟を正し目的の岸に渡るべし」と誰言うとはなしに鏡橋と呼ばれるようになったそうです。
    現在のものは4代目です。因みに、この橋は観光客の車両は進入禁止となっています。道路標識をよく観てくださいね!

  • 網走川<br />対岸にある遊歩道の入口には、大きな「ニポポ」人形が2体置かれています。角張ったこけしのような人形をニポポと呼んでいます。ニポポとは、アイヌ民族の言葉で「小さな木の子供」を意味します。ニポポを身につけていると事故もなく幸せに暮らせると信じられているそうです。<br />アイヌ民族の守り神「ニポポ」は、郷土の民芸品として網走刑務所で一括して制作されているそうです。ひょっとしたらこのニポポも受刑者の方々の作品かもしれません。よく観ると、川岸に設けられた欄干にも無数のニポポ人形が彫られています。<br />道の反対側には煉瓦造りの高い壁が巡らされています。<br />思わず姿勢を正さずにはおれない、張りつめた空気が満ちている空間です。

    網走川
    対岸にある遊歩道の入口には、大きな「ニポポ」人形が2体置かれています。角張ったこけしのような人形をニポポと呼んでいます。ニポポとは、アイヌ民族の言葉で「小さな木の子供」を意味します。ニポポを身につけていると事故もなく幸せに暮らせると信じられているそうです。
    アイヌ民族の守り神「ニポポ」は、郷土の民芸品として網走刑務所で一括して制作されているそうです。ひょっとしたらこのニポポも受刑者の方々の作品かもしれません。よく観ると、川岸に設けられた欄干にも無数のニポポ人形が彫られています。
    道の反対側には煉瓦造りの高い壁が巡らされています。
    思わず姿勢を正さずにはおれない、張りつめた空気が満ちている空間です。

  • 網走刑務所<br />ミーハーな気持ちでここを訪れるのは不謹慎ですので、近代建築鑑賞を目的に訪ねてみることにしました。<br />この通称「赤レンガ門」と呼ばれる網走刑務所正門は、1922(大正11)年に受刑者によって竣工されました。重厚なフランス積みで威風堂々とした姿は、「最果ての監獄」と呼ばれて恐れられた時代の網走刑務所の威厳を感じさせます。<br />正門の左右には小部屋が設けられ、一方は正門担当看守が受付として使い、もう一方は面会者がその申込みと待合室に使ったそうです。<br />赤煉瓦は、刑務所用地内の粘土を使用し、所内の工場で焼き上げたものだそうです。煉瓦は、周囲の塀を含め総数150万個です。赤煉瓦を際立たせている表面の艶は、窯の中に塩を入れ、塩が分解する1160℃以上の高温で焼き上げるため、独特の釉薬をかけたような黒褐色を呈しており、形も普通の煉瓦より20〜30%小さいのが特徴です。現在は、このような焼き方はできないため、1983年に復元された正門はレンガ建築の歴史を知る上で貴重なものとなっています。<br />決して映画やドラマのセットなどではありませんが、現在は別の所に正門があり、観光用のオブジェに近い存在だそうです。

    網走刑務所
    ミーハーな気持ちでここを訪れるのは不謹慎ですので、近代建築鑑賞を目的に訪ねてみることにしました。
    この通称「赤レンガ門」と呼ばれる網走刑務所正門は、1922(大正11)年に受刑者によって竣工されました。重厚なフランス積みで威風堂々とした姿は、「最果ての監獄」と呼ばれて恐れられた時代の網走刑務所の威厳を感じさせます。
    正門の左右には小部屋が設けられ、一方は正門担当看守が受付として使い、もう一方は面会者がその申込みと待合室に使ったそうです。
    赤煉瓦は、刑務所用地内の粘土を使用し、所内の工場で焼き上げたものだそうです。煉瓦は、周囲の塀を含め総数150万個です。赤煉瓦を際立たせている表面の艶は、窯の中に塩を入れ、塩が分解する1160℃以上の高温で焼き上げるため、独特の釉薬をかけたような黒褐色を呈しており、形も普通の煉瓦より20〜30%小さいのが特徴です。現在は、このような焼き方はできないため、1983年に復元された正門はレンガ建築の歴史を知る上で貴重なものとなっています。
    決して映画やドラマのセットなどではありませんが、現在は別の所に正門があり、観光用のオブジェに近い存在だそうです。

  • 網走刑務所<br />「網走監獄和牛」というブランド牛肉をご存知でしょうか?A5黒毛和牛、つまり最高級の評価を得た黒毛和牛をはじめ、高水準な肉牛を年間20〜30頭だけ出荷するというプレミアム感満載の牛肉です。<br />この牛を育てているのが網走刑務所の二見ヶ岡農場です。東京ドーム76個分の広さを持つ農場で、8名の受刑者の方たちが専門官の指導の下、120頭を育てられています。受刑者は全員が畜産の素人ですが、飼育を通じて「命の大切さを学んでいる」そうです。刑務所は「命に寄り添うことで、思いやりの気持ちが育まれれば」と更生への期待を寄せています。<br />生産した肉は「北海道産和牛」として流通していますが、給食会社「エームサービス」が一部を購入し「網走監獄和牛」と名付けて今年から網走刑務所前にある売店で販売しています。また、網走市内の焼肉店1軒に卸されているそうです。

    網走刑務所
    「網走監獄和牛」というブランド牛肉をご存知でしょうか?A5黒毛和牛、つまり最高級の評価を得た黒毛和牛をはじめ、高水準な肉牛を年間20〜30頭だけ出荷するというプレミアム感満載の牛肉です。
    この牛を育てているのが網走刑務所の二見ヶ岡農場です。東京ドーム76個分の広さを持つ農場で、8名の受刑者の方たちが専門官の指導の下、120頭を育てられています。受刑者は全員が畜産の素人ですが、飼育を通じて「命の大切さを学んでいる」そうです。刑務所は「命に寄り添うことで、思いやりの気持ちが育まれれば」と更生への期待を寄せています。
    生産した肉は「北海道産和牛」として流通していますが、給食会社「エームサービス」が一部を購入し「網走監獄和牛」と名付けて今年から網走刑務所前にある売店で販売しています。また、網走市内の焼肉店1軒に卸されているそうです。

  • 網走刑務所<br />手前の小屋は、哨舎と呼ばれたかつての見張所です。出入口や作業場の近くに設けられ、外部からの進入者や受刑者の行動を監視していました。雨や雪を防ぐために屋根と壁に囲まれていますが、視界を広くできるように6方向に窓が付けられています。<br />この背後には刑務所作業製品直売所があり、受刑者手作りの品を購入できます。<br />網走刑務所と言うと高倉健さん主演の『網走番外地』シリーズによって重罪犯が収容される刑務所というイメージがありますが、それは過去の話で現在では刑期2〜3年の方が主だそうです。<br /><br />1870年代に北海道開拓のために屯田兵が置かれましたが、それだけでは労働力が不足し、道内に収監された受刑囚が労働力にあてられました。実はこの労働力には、北海道開拓にまつわる暗く悲惨な歴史が隠されているのです。<br />明治維新後、佐賀の乱や西南の役などで政府軍に破れた「国賊」と呼ばれる罪人が世に溢れていました。既存の監獄はパンク寸前となり、次々に新しい監獄を造らねばなりませんでした。そして開国間際だった日本は、欧米の列強諸国に追いつき追い越せと富国強兵政策を進め、経済的発展を遂げるために未開の北海道の開拓が必要でした。また、不凍港を求めて南下政策を図るロシアの脅威から国土を守るという軍事上の理由からも北海道開拓が喫緊の課題でした。そのために人を投入して物資を輸送する道路を造らねばなりませんでした。こうして国賊の下級士族や凶悪犯たちが、安価な労働力として北海道に続々と送り込まれました。網走囚徒外役所には、中央道路開削工事のために1200人もの囚人が送り込まれたそうです。<br />しかし、周囲はヒグマの生息する大原野、冬は雪で閉ざされる天然の流刑地でした。彼らは2人1組で鎖に繋がれ、足首には鉄球が付けられ、巨木を倒しながら道なき道を進み、時には腰まで沼地に浸かって道路を造り続けました。過酷な労働に耐え切れずに死ねば、「経費節約と同時に極悪人を処分できて一石二鳥」と嘲笑されながら…。亡くなった囚人たちは現場に埋葬され、目印に鎖を墓標の傍らに置いたと伝えられています。そこから誰言うともなしに彼らの墓を「鎖塚」と呼ぶようになったそうです。

    網走刑務所
    手前の小屋は、哨舎と呼ばれたかつての見張所です。出入口や作業場の近くに設けられ、外部からの進入者や受刑者の行動を監視していました。雨や雪を防ぐために屋根と壁に囲まれていますが、視界を広くできるように6方向に窓が付けられています。
    この背後には刑務所作業製品直売所があり、受刑者手作りの品を購入できます。
    網走刑務所と言うと高倉健さん主演の『網走番外地』シリーズによって重罪犯が収容される刑務所というイメージがありますが、それは過去の話で現在では刑期2〜3年の方が主だそうです。

    1870年代に北海道開拓のために屯田兵が置かれましたが、それだけでは労働力が不足し、道内に収監された受刑囚が労働力にあてられました。実はこの労働力には、北海道開拓にまつわる暗く悲惨な歴史が隠されているのです。
    明治維新後、佐賀の乱や西南の役などで政府軍に破れた「国賊」と呼ばれる罪人が世に溢れていました。既存の監獄はパンク寸前となり、次々に新しい監獄を造らねばなりませんでした。そして開国間際だった日本は、欧米の列強諸国に追いつき追い越せと富国強兵政策を進め、経済的発展を遂げるために未開の北海道の開拓が必要でした。また、不凍港を求めて南下政策を図るロシアの脅威から国土を守るという軍事上の理由からも北海道開拓が喫緊の課題でした。そのために人を投入して物資を輸送する道路を造らねばなりませんでした。こうして国賊の下級士族や凶悪犯たちが、安価な労働力として北海道に続々と送り込まれました。網走囚徒外役所には、中央道路開削工事のために1200人もの囚人が送り込まれたそうです。
    しかし、周囲はヒグマの生息する大原野、冬は雪で閉ざされる天然の流刑地でした。彼らは2人1組で鎖に繋がれ、足首には鉄球が付けられ、巨木を倒しながら道なき道を進み、時には腰まで沼地に浸かって道路を造り続けました。過酷な労働に耐え切れずに死ねば、「経費節約と同時に極悪人を処分できて一石二鳥」と嘲笑されながら…。亡くなった囚人たちは現場に埋葬され、目印に鎖を墓標の傍らに置いたと伝えられています。そこから誰言うともなしに彼らの墓を「鎖塚」と呼ぶようになったそうです。

  • 網走刑務所<br />教誨師やキリスト教信者により囚人労働の内実が詳らかにされ、やがて囚人虐待と批判を浴びて1894(明治27)年に囚人労働は撤廃されました。しかし、開拓には労働力が不可欠であり、そこで形を変えて生まれたのが「タコ部屋労働」と呼ばれる自由を奪って酷使する「拘禁労働」でした。内地から騙されて連れてこられた若者達は、蛸壺に入ると逃げ出せずに飢えて自らの足を食べて生き延びる「タコ」に例えられ、あるいは他の地域から雇われたことを意味する「他雇」から、「タコ」と蔑まれ、真っ赤な腰巻を着けて過酷な肉体労働に従事しました。タコの語源には、その他、脱走したタコの逃げ足が糸の切れた凧のように速いことなど諸説あります。タコには東北の貧農民が多く、時代が下ると都市の貧困層やお金に困った学生らがポン引きの「日当1〜2円」という甘言に騙されたのです。ところが就労契約が交わされると斡旋屋は鬼畜に変貌し、法外な旅費を請求されて巨額の借金を背負わされました。日給からは食費50銭が天引きされ、飯場が人跡未踏の奥地にあるために親方から定価の数倍で日用品を買わされるためお金が溜まることはありません。また、タコには外出や通信、会話の自由もない生き地獄でした。<br />彼らの職場は鉄道建設や灌漑現場などでしたが、安全や衛生を無視した長時間に及ぶ劣悪環境での労働でした。飯場は「タコ部屋」または「監獄部屋」と呼ばれ、窓はなく、夜間は戸外から鍵がかけられました。鉄則は、「逃げるなら最初の1週間」。それ以上経てば体力が衰えて肉体的に無理だとの示唆です。そして逃亡者には見せしめに残虐なリンチが待ち受けていました。動けなくなった者は、橋から落とされたり現場で生き埋めにされました。これが 「人柱伝説」になり、十勝沖地震の折、一部が崩壊した石北本線常紋トンネルの壁から頭部に損傷のある人骨が発見されました。常紋トンネル工事の犠牲者は百数十名と伝えられますが、殺人(病死、過労死、虐待死、自殺を含む)が記録に残らない無法地帯ゆえ、実際の数は推して知るべしです。警察も買収されており、取り締まりすらなかったそうです。戦後、GHQによってタコ労働が禁止されましたが、暫くの間完全になくなることはなかったようです。これは、日本労働制度の後進性を示す良い事例と言えます。性懲りもなく、現在もブラック企業によって連綿とこうした過重労働が続けられ、犠牲者が絶えないのは嘆かわしい限りです。

    網走刑務所
    教誨師やキリスト教信者により囚人労働の内実が詳らかにされ、やがて囚人虐待と批判を浴びて1894(明治27)年に囚人労働は撤廃されました。しかし、開拓には労働力が不可欠であり、そこで形を変えて生まれたのが「タコ部屋労働」と呼ばれる自由を奪って酷使する「拘禁労働」でした。内地から騙されて連れてこられた若者達は、蛸壺に入ると逃げ出せずに飢えて自らの足を食べて生き延びる「タコ」に例えられ、あるいは他の地域から雇われたことを意味する「他雇」から、「タコ」と蔑まれ、真っ赤な腰巻を着けて過酷な肉体労働に従事しました。タコの語源には、その他、脱走したタコの逃げ足が糸の切れた凧のように速いことなど諸説あります。タコには東北の貧農民が多く、時代が下ると都市の貧困層やお金に困った学生らがポン引きの「日当1〜2円」という甘言に騙されたのです。ところが就労契約が交わされると斡旋屋は鬼畜に変貌し、法外な旅費を請求されて巨額の借金を背負わされました。日給からは食費50銭が天引きされ、飯場が人跡未踏の奥地にあるために親方から定価の数倍で日用品を買わされるためお金が溜まることはありません。また、タコには外出や通信、会話の自由もない生き地獄でした。
    彼らの職場は鉄道建設や灌漑現場などでしたが、安全や衛生を無視した長時間に及ぶ劣悪環境での労働でした。飯場は「タコ部屋」または「監獄部屋」と呼ばれ、窓はなく、夜間は戸外から鍵がかけられました。鉄則は、「逃げるなら最初の1週間」。それ以上経てば体力が衰えて肉体的に無理だとの示唆です。そして逃亡者には見せしめに残虐なリンチが待ち受けていました。動けなくなった者は、橋から落とされたり現場で生き埋めにされました。これが 「人柱伝説」になり、十勝沖地震の折、一部が崩壊した石北本線常紋トンネルの壁から頭部に損傷のある人骨が発見されました。常紋トンネル工事の犠牲者は百数十名と伝えられますが、殺人(病死、過労死、虐待死、自殺を含む)が記録に残らない無法地帯ゆえ、実際の数は推して知るべしです。警察も買収されており、取り締まりすらなかったそうです。戦後、GHQによってタコ労働が禁止されましたが、暫くの間完全になくなることはなかったようです。これは、日本労働制度の後進性を示す良い事例と言えます。性懲りもなく、現在もブラック企業によって連綿とこうした過重労働が続けられ、犠牲者が絶えないのは嘆かわしい限りです。

  • 網走刑務所<br />網走と旭川を結ぶ道路開削は、ロシアの南下政策から国防上急務でした。後に網走監獄と呼ばれた「釧路監獄網走囚徒外役所」と空知集治監の囚人を総動員して開削したのが中央道路です。<br />1890(明治23)年、釧路集治監から1200人の囚人が網走に移され、翌年には300人増やされました。原生林に駆り出され、斧を振りかざして大木を切倒し、土砂や切株をモッコに入れて担ぎ、夜には篝火を焚きながらの重労働が繰り返されました。サーベルを携行した看守が監視し、2人1組で足に鎖が繋がれ、負傷した体にヤブ蚊・ヌカ蚊の大群が襲来、栄養不足によるカッケなどの病気、不衛生からの風土病などと闘いながらの工事でした。過酷な労働から逃亡した者は見せしめに惨殺され、病死者も道路に捨て置かれ、1年後には211人の犠牲者を数えたそうです。<br />こうして中央道路が完成し、後に北光社開拓移民団や屯田兵たちの北見開拓に繋がったのです。囚人の遺骨や足かせの鎖は、現在無縁仏として緋牛内にある「鎖塚」や相内豊田地区にある「中央開削道路慰霊碑」などの慰霊碑に祀られています。また、網走市二見ヶ丘(国道242号)と道道104号との分岐点にある「国道開削殉難慰霊碑」は、白龍山遍照院の尼僧 林隆弘が、少女時代に山で鎖を拾った経験から「死んでまでも鎖と共に埋められるのは、かわいそう過ぎる」と当初網走刑務所の中に建立された慰霊碑を「刑務所の外に出してあげたい」と直訴して現在の場所に建立されました。その後も囚人供養を続けられたそうです。尼僧が、運動を起こした当初は「売名行為」と蔑まれて孤独な活動を余儀なくされたようですが、それでも囚人を弔うために奔走しました。この尼僧は、常紋トンネル工事の犠牲者の供養にも取り組まれたことでも知られています。

    網走刑務所
    網走と旭川を結ぶ道路開削は、ロシアの南下政策から国防上急務でした。後に網走監獄と呼ばれた「釧路監獄網走囚徒外役所」と空知集治監の囚人を総動員して開削したのが中央道路です。
    1890(明治23)年、釧路集治監から1200人の囚人が網走に移され、翌年には300人増やされました。原生林に駆り出され、斧を振りかざして大木を切倒し、土砂や切株をモッコに入れて担ぎ、夜には篝火を焚きながらの重労働が繰り返されました。サーベルを携行した看守が監視し、2人1組で足に鎖が繋がれ、負傷した体にヤブ蚊・ヌカ蚊の大群が襲来、栄養不足によるカッケなどの病気、不衛生からの風土病などと闘いながらの工事でした。過酷な労働から逃亡した者は見せしめに惨殺され、病死者も道路に捨て置かれ、1年後には211人の犠牲者を数えたそうです。
    こうして中央道路が完成し、後に北光社開拓移民団や屯田兵たちの北見開拓に繋がったのです。囚人の遺骨や足かせの鎖は、現在無縁仏として緋牛内にある「鎖塚」や相内豊田地区にある「中央開削道路慰霊碑」などの慰霊碑に祀られています。また、網走市二見ヶ丘(国道242号)と道道104号との分岐点にある「国道開削殉難慰霊碑」は、白龍山遍照院の尼僧 林隆弘が、少女時代に山で鎖を拾った経験から「死んでまでも鎖と共に埋められるのは、かわいそう過ぎる」と当初網走刑務所の中に建立された慰霊碑を「刑務所の外に出してあげたい」と直訴して現在の場所に建立されました。その後も囚人供養を続けられたそうです。尼僧が、運動を起こした当初は「売名行為」と蔑まれて孤独な活動を余儀なくされたようですが、それでも囚人を弔うために奔走しました。この尼僧は、常紋トンネル工事の犠牲者の供養にも取り組まれたことでも知られています。

  • 能取湖(のとろこ)<br />能取湖は、網走市街地の西方10kmに位置し、周囲約32km、面積58平方kmで全国13位の広さを誇り、オホーツク海沿岸ではサロマ湖(国内3位)に次ぐ大きな湖です。オホーツク海へと繋がる大きなる塩水湖でもあり、かつては海でもあった海跡湖でもあります。能取湖の名はアイヌ語の「ノ・オロ(=岬のところ)」に由来します。本来、北東側の能取岬を指すものでしたが、能取岬に近い湖の意でこの湖名になったそうです。<br />以前は海水流入部の湖口が季節的に開閉する汽水湖でしたが、1974年に湖口の永久水路化に伴い、現在は完全な海水湖となっています。湖内では、主にホタテやサケ・マス、ホッカイエビやカレイ等が漁獲されます。現在二見地区漁港から湖口にかけてアサリの潮干狩りが無料開放されており、多くの人が訪れて新たな風物詩となってます。ただし、ホタテ貝などを獲ると密漁になりますので注意してください。<br />湖畔には、卯原内・能取・美岬・平和地区の4ヶ所のサンゴ草群落地があり、その中のひとつ「卯原内サンゴ草群落」は、交通アクセスも至便で遊歩道が整備されているため、観光にお勧めのスポットです。

    能取湖(のとろこ)
    能取湖は、網走市街地の西方10kmに位置し、周囲約32km、面積58平方kmで全国13位の広さを誇り、オホーツク海沿岸ではサロマ湖(国内3位)に次ぐ大きな湖です。オホーツク海へと繋がる大きなる塩水湖でもあり、かつては海でもあった海跡湖でもあります。能取湖の名はアイヌ語の「ノ・オロ(=岬のところ)」に由来します。本来、北東側の能取岬を指すものでしたが、能取岬に近い湖の意でこの湖名になったそうです。
    以前は海水流入部の湖口が季節的に開閉する汽水湖でしたが、1974年に湖口の永久水路化に伴い、現在は完全な海水湖となっています。湖内では、主にホタテやサケ・マス、ホッカイエビやカレイ等が漁獲されます。現在二見地区漁港から湖口にかけてアサリの潮干狩りが無料開放されており、多くの人が訪れて新たな風物詩となってます。ただし、ホタテ貝などを獲ると密漁になりますので注意してください。
    湖畔には、卯原内・能取・美岬・平和地区の4ヶ所のサンゴ草群落地があり、その中のひとつ「卯原内サンゴ草群落」は、交通アクセスも至便で遊歩道が整備されているため、観光にお勧めのスポットです。

  • 能取湖<br />道東の網走国定公園に広がる能取湖は、サンゴ草の群生地として有名な湖です。毎年9月中旬〜下旬に見頃を迎え、10月上旬まで愉しむことができます。<br />正式名をアッケシソウ(厚岸草)と言うサンゴ草は環境省レッドデータブックで絶滅危惧種に指定される希少草本ですが、能取湖畔には国内最大規模(3.8ha)の群生地が存在し、毎年秋には20万人が訪れる観光の目玉商品となっていました。初秋には濃緑色から紅紫色に変わり、湖畔に赤い絨毯を敷き詰めたような光景が広がり、網走観光の風物詩でもありました。<br />しかし、2010〜11年に色付き不良を改善するため、海との境目に盛り土をして海水の大量流入を防ごうとしたところ、これが裏目に出て土壌の乾燥や酸性化が生じ、広範囲に枯れたり黒色化する生育不良現象が見られ、一時期、最盛期の1割程度に激減し、壊滅状態に陥りました。このため、市や地元自治会、東京農大が「サンゴ草再生協議会」を立ち上げ、水路整備や酸性化土壌の撤去、種子の採取と播種など、再生に向けてオール網走で取り組んできました。その血と汗と涙の結晶により、一面を深紅に染め上げるかつての景観を取り戻しつつあり、今年8月31日には最盛期の8割程度まで回復したことから「復活宣言」がなされました。<br />長い歳月で培った絶妙なバランスの取れた環境がかろうじてサンゴ草を育んでいた所に、おせっかいな人工物が逆に環境を破壊してしまったという好例ではないかと思います。湿地の面積が小さくなれば群生地も縮小するサンゴ草は、まさに自然環境の変化を映す鏡と言えます。また、サンゴ草は未だ謎の多い植物ですが、研究機関の調査により、「明るい場所を好み、根が浅く他の植物に押されると弱ってしまう」という性質が判ってきています。環境弱者の絶滅危惧種は自然のままでも縮小傾向にあるのですが、その衰退を抑止できるのは科学的な究明と地域との共生にあるのかもしれません。二度とこうした惨事が起こらないよう、一人ひとりが環境破壊に繋がらないように配慮しながら愛でていただければと思います。<br />爆弾低気圧の通過では北海道各地で高潮の被害が出たとのことです。サンゴ草は一年生草なので根の張りが心もとないだけに無事かどうか心配なところです。

    能取湖
    道東の網走国定公園に広がる能取湖は、サンゴ草の群生地として有名な湖です。毎年9月中旬〜下旬に見頃を迎え、10月上旬まで愉しむことができます。
    正式名をアッケシソウ(厚岸草)と言うサンゴ草は環境省レッドデータブックで絶滅危惧種に指定される希少草本ですが、能取湖畔には国内最大規模(3.8ha)の群生地が存在し、毎年秋には20万人が訪れる観光の目玉商品となっていました。初秋には濃緑色から紅紫色に変わり、湖畔に赤い絨毯を敷き詰めたような光景が広がり、網走観光の風物詩でもありました。
    しかし、2010〜11年に色付き不良を改善するため、海との境目に盛り土をして海水の大量流入を防ごうとしたところ、これが裏目に出て土壌の乾燥や酸性化が生じ、広範囲に枯れたり黒色化する生育不良現象が見られ、一時期、最盛期の1割程度に激減し、壊滅状態に陥りました。このため、市や地元自治会、東京農大が「サンゴ草再生協議会」を立ち上げ、水路整備や酸性化土壌の撤去、種子の採取と播種など、再生に向けてオール網走で取り組んできました。その血と汗と涙の結晶により、一面を深紅に染め上げるかつての景観を取り戻しつつあり、今年8月31日には最盛期の8割程度まで回復したことから「復活宣言」がなされました。
    長い歳月で培った絶妙なバランスの取れた環境がかろうじてサンゴ草を育んでいた所に、おせっかいな人工物が逆に環境を破壊してしまったという好例ではないかと思います。湿地の面積が小さくなれば群生地も縮小するサンゴ草は、まさに自然環境の変化を映す鏡と言えます。また、サンゴ草は未だ謎の多い植物ですが、研究機関の調査により、「明るい場所を好み、根が浅く他の植物に押されると弱ってしまう」という性質が判ってきています。環境弱者の絶滅危惧種は自然のままでも縮小傾向にあるのですが、その衰退を抑止できるのは科学的な究明と地域との共生にあるのかもしれません。二度とこうした惨事が起こらないよう、一人ひとりが環境破壊に繋がらないように配慮しながら愛でていただければと思います。
    爆弾低気圧の通過では北海道各地で高潮の被害が出たとのことです。サンゴ草は一年生草なので根の張りが心もとないだけに無事かどうか心配なところです。

  • 能取湖<br />秋を彩る紅葉と蒼い空のコントラストは、見上げて愛でるもの…。こうした紅葉観賞の常識を覆すかのように、ここ能取湖の秋の風物詩はこのように見下ろして鑑賞します。赤い海の絶景として知られる中国 遼寧省盤錦市にある紅海灘風景区の「レッドビーチ」を彷彿とさせる摩訶不思議な光景が一面に広がっています。<br />湖畔の湿地帯には、あちらこちらに水溜りができています。そして、その水面に映るのは、とても美しい色を呈した北の大地に広がる澄んだ蒼い空。その周りには一面を真紅に染め上げたサンゴ草。目の前には、こうした異次元の世界に迷い込んだような光景が広がっています。<br />この水溜りは、サンゴ草にとっては生育の妨げになる障害となるものなのですが、景観を扇情させるアクセントとしては欠かせないものです。少々複雑な気分にさせられますが、これも自然からの恵と素直に受け留めることにしたいと思います。

    能取湖
    秋を彩る紅葉と蒼い空のコントラストは、見上げて愛でるもの…。こうした紅葉観賞の常識を覆すかのように、ここ能取湖の秋の風物詩はこのように見下ろして鑑賞します。赤い海の絶景として知られる中国 遼寧省盤錦市にある紅海灘風景区の「レッドビーチ」を彷彿とさせる摩訶不思議な光景が一面に広がっています。
    湖畔の湿地帯には、あちらこちらに水溜りができています。そして、その水面に映るのは、とても美しい色を呈した北の大地に広がる澄んだ蒼い空。その周りには一面を真紅に染め上げたサンゴ草。目の前には、こうした異次元の世界に迷い込んだような光景が広がっています。
    この水溜りは、サンゴ草にとっては生育の妨げになる障害となるものなのですが、景観を扇情させるアクセントとしては欠かせないものです。少々複雑な気分にさせられますが、これも自然からの恵と素直に受け留めることにしたいと思います。

  • 能取湖<br />アッケシソウ(厚岸草)はホウレンソウと同じアカザ科に属する寒帯地域に分布する一年性草本です。世界的には欧州、アジア、北米などに分布しています。潮が満ちると冠水するような、入り江や流水の緩やかな海に近い川辺の場所に生育する塩生植物であり、海水に近い塩濃度を最適な生育条件としている珍しい植物です。10〜35cmの低い草丈で、葉が生えないことも特徴のひとつです。その希少性から、北海道の天然記念物に指定されています。

    能取湖
    アッケシソウ(厚岸草)はホウレンソウと同じアカザ科に属する寒帯地域に分布する一年性草本です。世界的には欧州、アジア、北米などに分布しています。潮が満ちると冠水するような、入り江や流水の緩やかな海に近い川辺の場所に生育する塩生植物であり、海水に近い塩濃度を最適な生育条件としている珍しい植物です。10〜35cmの低い草丈で、葉が生えないことも特徴のひとつです。その希少性から、北海道の天然記念物に指定されています。

  • 能取湖<br />国内では1891年に北海道帝国大学 宮部金吾博士によって釧路と根室の間にある厚岸湖の牡蠣島(正式名:弁天島)で発見され、その地名に因んで命名されました。しかし、本家の厚岸湖のアッケシソウ群落は消滅してしまい、その姿が偲ばれるところです。続いて1912年に北海道帝国大学 牧野富太郎博士によって愛媛県新居浜市多喜浜でも発見され、日本第2の産地として発表されました。その後、北海道では近隣の野付半島、温根沼および風蓮湖やオホーツク海沿岸のコムケ湖、サロマ湖、能取湖および涛沸湖などにも分布している事が判っています。

    能取湖
    国内では1891年に北海道帝国大学 宮部金吾博士によって釧路と根室の間にある厚岸湖の牡蠣島(正式名:弁天島)で発見され、その地名に因んで命名されました。しかし、本家の厚岸湖のアッケシソウ群落は消滅してしまい、その姿が偲ばれるところです。続いて1912年に北海道帝国大学 牧野富太郎博士によって愛媛県新居浜市多喜浜でも発見され、日本第2の産地として発表されました。その後、北海道では近隣の野付半島、温根沼および風蓮湖やオホーツク海沿岸のコムケ湖、サロマ湖、能取湖および涛沸湖などにも分布している事が判っています。

  • 能取湖<br />夏の間は濃緑色をしていますが、秋を迎える頃から多肉質の細長い茎および枝が紅紫色へ変化する姿からサンゴ草とも呼ばれます。赤く見える色素は、サトウダイコンの根で合成される色素と同種のベタシアニンです。<br />アッケシソウは葉と茎が食用となり、英国などの欧州各国で野菜として利用されています。塩味があり、そのまま茹でて食すのが一般的だそうです。アスパラガスと形がやや似ており、利用法が同じのため、シーアスパラガスの異名も持ちます。

    能取湖
    夏の間は濃緑色をしていますが、秋を迎える頃から多肉質の細長い茎および枝が紅紫色へ変化する姿からサンゴ草とも呼ばれます。赤く見える色素は、サトウダイコンの根で合成される色素と同種のベタシアニンです。
    アッケシソウは葉と茎が食用となり、英国などの欧州各国で野菜として利用されています。塩味があり、そのまま茹でて食すのが一般的だそうです。アスパラガスと形がやや似ており、利用法が同じのため、シーアスパラガスの異名も持ちます。

  • 能取湖<br />このような人が集まる観光地かつ天然記念物の所で話題に上っている無人飛行機「ドローン」を飛ばしている非常識な輩がいました。改正航空法では、人又は家屋の密集している地域の上空や空港周辺での飛行、夜間飛行が原則として禁止されますが、法改正施行前の駆け込みでしょうか?<br />この寒さの中で半袖姿ですので、地元の人なのか外国人なのか判りませんが、学術調査目的でないことは明白です。また、カメラクルーもいないので、TV局でもないようです。単なる空撮目的と思われます。<br />因みに、大阪市は市内の全公園でドローンの飛行を禁止し、新条例は設けずに市公園条例で禁止している『他人に危害を及ぼすおそれのある行為』(第3条第9項)として指導が行わています。これが先例となり、他の自治体も同様の解釈で運用していただければと思います。<br />睨みを利かせていたら、スゴスゴと退散して行きましたが…。<br />地元の方々がどれほど苦労して「復活宣言」に漕ぎ着けたのか、その気持ちを考えたらできない行為だと思います。文明の利器は、使い手によって善にも悪にも化けることを認識してください。画期的なイノベーションも、こうした輩のせいでお蔵入りになってしまうケースは少なからずあります。

    能取湖
    このような人が集まる観光地かつ天然記念物の所で話題に上っている無人飛行機「ドローン」を飛ばしている非常識な輩がいました。改正航空法では、人又は家屋の密集している地域の上空や空港周辺での飛行、夜間飛行が原則として禁止されますが、法改正施行前の駆け込みでしょうか?
    この寒さの中で半袖姿ですので、地元の人なのか外国人なのか判りませんが、学術調査目的でないことは明白です。また、カメラクルーもいないので、TV局でもないようです。単なる空撮目的と思われます。
    因みに、大阪市は市内の全公園でドローンの飛行を禁止し、新条例は設けずに市公園条例で禁止している『他人に危害を及ぼすおそれのある行為』(第3条第9項)として指導が行わています。これが先例となり、他の自治体も同様の解釈で運用していただければと思います。
    睨みを利かせていたら、スゴスゴと退散して行きましたが…。
    地元の方々がどれほど苦労して「復活宣言」に漕ぎ着けたのか、その気持ちを考えたらできない行為だと思います。文明の利器は、使い手によって善にも悪にも化けることを認識してください。画期的なイノベーションも、こうした輩のせいでお蔵入りになってしまうケースは少なからずあります。

  • 能取湖<br />アッケシソウが北海道以外に四国の地にも自生していることは、植物の分布上とても興味深いことです。当時は、愛媛県で発見されたアッケシソウは、江戸時代に北前船で塩などの物資を北海道に運ぶ過程で瀬戸内海に戻る際、バラストなどに付いた個体や種子が瀬戸内海沿岸に持ち込まれたとする「北前船説」が有力視されていたそうです。<br />しかし、北海道のアッケシソウと岡山と愛媛県で採取したものの葉緑体のDNAの一部を分析した結果、両者のものは北海道産のものとは塩基配列が違うことが判り、異種であることが立証されました。更に岡山理科大学 星野教授は、2008年に韓国のアッケシソウと瀬戸内海沿岸のアッケシソウの葉緑体のDNAを分析し、塩基配列が完全に一致したことを発表しています。その結果、瀬戸内のものは、朝鮮半島との交易によりもたらされたという説、また瀬戸内で独自に自生していたという説などが挙げられ、更なる解明が進められています。

    能取湖
    アッケシソウが北海道以外に四国の地にも自生していることは、植物の分布上とても興味深いことです。当時は、愛媛県で発見されたアッケシソウは、江戸時代に北前船で塩などの物資を北海道に運ぶ過程で瀬戸内海に戻る際、バラストなどに付いた個体や種子が瀬戸内海沿岸に持ち込まれたとする「北前船説」が有力視されていたそうです。
    しかし、北海道のアッケシソウと岡山と愛媛県で採取したものの葉緑体のDNAの一部を分析した結果、両者のものは北海道産のものとは塩基配列が違うことが判り、異種であることが立証されました。更に岡山理科大学 星野教授は、2008年に韓国のアッケシソウと瀬戸内海沿岸のアッケシソウの葉緑体のDNAを分析し、塩基配列が完全に一致したことを発表しています。その結果、瀬戸内のものは、朝鮮半島との交易によりもたらされたという説、また瀬戸内で独自に自生していたという説などが挙げられ、更なる解明が進められています。

  • 瞰望岩(がんぼういわ)<車窓><br />画面中央にある遠軽町のどこからでも見られる突起物が瞰望岩です。遠目ですのでスケールが伝わらないのが残念ですが…。<br />遠軽町の名の由来は、アイヌ語で「インガルシ(見晴らしの良い所)」と呼ばれた瞰望岩があったことからきています。700万年前の新生代新第三紀中新世後期、海底火山から噴出した安山岩質の水中溶岩と火山性の砂岩礫岩の堆積物で形成された市街地にある岩丘です。断崖頂部から地表までは78mの高さがあり、湧別アイヌ民族と十勝アイヌ民族が争った「インガルシの戦い」の古戦場だったとの伝説が残され、神祭などが行われていた神聖な場所だったそうです。名勝地群「ピリカノカ」の一部として国の名勝に指定されています。

    瞰望岩(がんぼういわ)<車窓>
    画面中央にある遠軽町のどこからでも見られる突起物が瞰望岩です。遠目ですのでスケールが伝わらないのが残念ですが…。
    遠軽町の名の由来は、アイヌ語で「インガルシ(見晴らしの良い所)」と呼ばれた瞰望岩があったことからきています。700万年前の新生代新第三紀中新世後期、海底火山から噴出した安山岩質の水中溶岩と火山性の砂岩礫岩の堆積物で形成された市街地にある岩丘です。断崖頂部から地表までは78mの高さがあり、湧別アイヌ民族と十勝アイヌ民族が争った「インガルシの戦い」の古戦場だったとの伝説が残され、神祭などが行われていた神聖な場所だったそうです。名勝地群「ピリカノカ」の一部として国の名勝に指定されています。

  • 瞰望岩(車窓)<br />こうして間近で見ると、平地に巨大な岩がどっしりと腰を下ろしたような感じです。岩の頂には東屋もあり、展望台になっているようです。だだし、断崖絶壁には危険防止の柵もなく、あくまでも自己責任で展望を愉しんでくださいというスタンツですのでご注意ください。麓は公園になっており、SLなども置かれているとネット情報にはありますが、恐らくこの裏手になるのでしょう。因みに、北海道自然百選にも選ばれ、景観文化財として重要な位置付けです。<br /><br />遠軽町は、日本基督教会が、札幌で活動していた宣教師 信太壽之(しだ としゆき)ら東北学院の神学部出身者を中心に創設した北海道同志教育会の教徒によって開拓が始まったという珍しい歴史を持つ町です。彼らは、遠軽の地にキリスト教の私立大学を建設するという壮大な夢を抱いてその第一歩を踏み出したのです。キリスト教大学を建てるという目的は達せられませんでしたが、信太の指導の下、立派な農地と活気溢れる町が誕生したのです。このことから、壽之は「遠軽開拓の父」と呼ばれています。

    瞰望岩(車窓)
    こうして間近で見ると、平地に巨大な岩がどっしりと腰を下ろしたような感じです。岩の頂には東屋もあり、展望台になっているようです。だだし、断崖絶壁には危険防止の柵もなく、あくまでも自己責任で展望を愉しんでくださいというスタンツですのでご注意ください。麓は公園になっており、SLなども置かれているとネット情報にはありますが、恐らくこの裏手になるのでしょう。因みに、北海道自然百選にも選ばれ、景観文化財として重要な位置付けです。

    遠軽町は、日本基督教会が、札幌で活動していた宣教師 信太壽之(しだ としゆき)ら東北学院の神学部出身者を中心に創設した北海道同志教育会の教徒によって開拓が始まったという珍しい歴史を持つ町です。彼らは、遠軽の地にキリスト教の私立大学を建設するという壮大な夢を抱いてその第一歩を踏み出したのです。キリスト教大学を建てるという目的は達せられませんでしたが、信太の指導の下、立派な農地と活気溢れる町が誕生したのです。このことから、壽之は「遠軽開拓の父」と呼ばれています。

  • 太陽の丘えんがる公園<br />遠軽町の西にある小高い丘を登っていくと、丘の上に「太陽の丘えんがる公園」が広がっています。夏から秋にかけて色鮮やかな花々で埋め尽くされる日本一の規模を誇る虹の広場です。2003年に開園した10haにも及ぶ広大な公園は町民や地元企業のボランティアの方々によって支えられ、毎年9月にコスモスフェスタが開催され、1000万本もの黄花コスモスや混合コスモスが丘を覆い尽くします。また、コスモス園入口では、訪れる人を色とりどりの百日草が出迎えてくれます。シーズン中には屋台や土産物屋が並び、観光バスが大挙してやって来る一大観光地になります。虹のひろばの丘の一番上にある展望台からは華麗なる花の競演や360度の大パノラマが満喫でき、映画のワンシーンのような美しい景観の中でゆったりとした時の流れに浸ることができます。

    太陽の丘えんがる公園
    遠軽町の西にある小高い丘を登っていくと、丘の上に「太陽の丘えんがる公園」が広がっています。夏から秋にかけて色鮮やかな花々で埋め尽くされる日本一の規模を誇る虹の広場です。2003年に開園した10haにも及ぶ広大な公園は町民や地元企業のボランティアの方々によって支えられ、毎年9月にコスモスフェスタが開催され、1000万本もの黄花コスモスや混合コスモスが丘を覆い尽くします。また、コスモス園入口では、訪れる人を色とりどりの百日草が出迎えてくれます。シーズン中には屋台や土産物屋が並び、観光バスが大挙してやって来る一大観光地になります。虹のひろばの丘の一番上にある展望台からは華麗なる花の競演や360度の大パノラマが満喫でき、映画のワンシーンのような美しい景観の中でゆったりとした時の流れに浸ることができます。

  • 太陽の丘えんがる公園<br />残念なことに、コスモスは10日前に最盛期を迎えてしまったようです。<br />コスモスの勢いが衰えた分、ケイトウが生き生きとしています。

    太陽の丘えんがる公園
    残念なことに、コスモスは10日前に最盛期を迎えてしまったようです。
    コスモスの勢いが衰えた分、ケイトウが生き生きとしています。

  • 太陽の丘えんがる公園<br />コスモス畑の手前には、何故かコペンハーゲンにある「人魚姫の像」らしきものが置かれています。この「人魚姫の像」は、アンデルセン童話の「人魚姫」をモチーフにした本家のもののレプリカのようです。地元の信金がバブリーな頃に公園の完成を祝福して寄贈したものだそうです。<br />本家のものは、ビール製造メーカとして有名なカールスバーグ醸造所の2代目社長カール・ヤコブセン氏が人魚姫の物語を演じたバレエに感銘を受け、彫刻家エドヴァルド・エリクセン氏に人魚姫の像の制作を要請し、1913年に公開されました。<br />コペンハーゲン市民に愛され、美のシンボルとなりましたが、あまりの美しさのため、悲劇は物語の中に留まらず、1964年と1998年の2度にわたって首が切り落とされて持ち去られたり、1984年には腕がもぎとられたり、2003年には像ごと爆破されるという大惨事が起こっています。その度に市民の希望によって元通りに修復されています。<br />ところが、シンガポールの「マーライオン」、ブリュッセルの「小便小僧」と共に「世界3大がっかりスポット」にランクインしています。

    太陽の丘えんがる公園
    コスモス畑の手前には、何故かコペンハーゲンにある「人魚姫の像」らしきものが置かれています。この「人魚姫の像」は、アンデルセン童話の「人魚姫」をモチーフにした本家のもののレプリカのようです。地元の信金がバブリーな頃に公園の完成を祝福して寄贈したものだそうです。
    本家のものは、ビール製造メーカとして有名なカールスバーグ醸造所の2代目社長カール・ヤコブセン氏が人魚姫の物語を演じたバレエに感銘を受け、彫刻家エドヴァルド・エリクセン氏に人魚姫の像の制作を要請し、1913年に公開されました。
    コペンハーゲン市民に愛され、美のシンボルとなりましたが、あまりの美しさのため、悲劇は物語の中に留まらず、1964年と1998年の2度にわたって首が切り落とされて持ち去られたり、1984年には腕がもぎとられたり、2003年には像ごと爆破されるという大惨事が起こっています。その度に市民の希望によって元通りに修復されています。
    ところが、シンガポールの「マーライオン」、ブリュッセルの「小便小僧」と共に「世界3大がっかりスポット」にランクインしています。

  • 太陽の丘えんがる公園<br />日本人の性でしょうか、秋の風を感じると、あの優しげでいて、凛としたコスモスに逢いたくなってソワソワしてしまいます。コスモス鑑賞の効能は多彩です。目にする花の色によってメンタルな効果が異なるからです。<br />例えば赤い花なら、活力を与えて意欲を高めてくれる効果。黄色の花は、ストレス解消・幸福感・集中力を上げてくれます。白い花は、気持ちをリセットしてくれます。そしてピンクの花は、美肌に効果的で優しい気持ちにしてくれます。

    太陽の丘えんがる公園
    日本人の性でしょうか、秋の風を感じると、あの優しげでいて、凛としたコスモスに逢いたくなってソワソワしてしまいます。コスモス鑑賞の効能は多彩です。目にする花の色によってメンタルな効果が異なるからです。
    例えば赤い花なら、活力を与えて意欲を高めてくれる効果。黄色の花は、ストレス解消・幸福感・集中力を上げてくれます。白い花は、気持ちをリセットしてくれます。そしてピンクの花は、美肌に効果的で優しい気持ちにしてくれます。

  • 太陽の丘えんがる公園<br />センセーション、ベルサイユ、あかつきといった品種(ピンクや白の花)が咲く「混合コスモス畑」(9〜10月)と黄色の花が中心の「黄花コスモス畑」(8〜9月)、百日草の畑とがあります。<br /><br />ベルサイユ・ピンク<br />花径が10cm以上になる早咲きの大輪です。<br />鮮やかなピンク色の花を咲かせます。<br />

    太陽の丘えんがる公園
    センセーション、ベルサイユ、あかつきといった品種(ピンクや白の花)が咲く「混合コスモス畑」(9〜10月)と黄色の花が中心の「黄花コスモス畑」(8〜9月)、百日草の畑とがあります。

    ベルサイユ・ピンク
    花径が10cm以上になる早咲きの大輪です。
    鮮やかなピンク色の花を咲かせます。

  • 太陽の丘えんがる公園 セイヨウオオマルハナバチ<br />昆虫綱・ハチ目(膜翅目)・ミツバチ科に分類されるマルハナバチの一種です。欧州原産で、日本には外来種としてハウストマトなどの受粉用に利用されていました。1996年に北海道門別町の民家で野生化が確認されて以降、現在ではほぼ全道で見られるそうです。鮮やかな黄色と黒の縞模様を胸と腹部にもち、お尻が白いカラーリングが特徴です。セイヨウオオマルハナバチが繁殖すると、餌や巣の競合により在来種を駆逐したり、受粉を依存する植物を減少させる心配があることが判り、現在は特定外来生物として規制対象になっているようです。人の身勝手で導入された挙句に「厄介者」扱いされている肩身の狭い種族と言えます。北海道では「セイヨウオオマルハナバチ・バスターズ」を募集し、防除活動を行っているほどです。<br />また、国内のマルハナバチ類と比べて攻撃性が強いそうです。観察の際は注意してください。身勝手な人間に嫌悪感を抱いているものと思われます。

    太陽の丘えんがる公園 セイヨウオオマルハナバチ
    昆虫綱・ハチ目(膜翅目)・ミツバチ科に分類されるマルハナバチの一種です。欧州原産で、日本には外来種としてハウストマトなどの受粉用に利用されていました。1996年に北海道門別町の民家で野生化が確認されて以降、現在ではほぼ全道で見られるそうです。鮮やかな黄色と黒の縞模様を胸と腹部にもち、お尻が白いカラーリングが特徴です。セイヨウオオマルハナバチが繁殖すると、餌や巣の競合により在来種を駆逐したり、受粉を依存する植物を減少させる心配があることが判り、現在は特定外来生物として規制対象になっているようです。人の身勝手で導入された挙句に「厄介者」扱いされている肩身の狭い種族と言えます。北海道では「セイヨウオオマルハナバチ・バスターズ」を募集し、防除活動を行っているほどです。
    また、国内のマルハナバチ類と比べて攻撃性が強いそうです。観察の際は注意してください。身勝手な人間に嫌悪感を抱いているものと思われます。

  • 太陽の丘えんがる公園 日の丸<br />中心部が円を描くように赤に近いピンクに染まります。<br />中輪の早咲き品種のひとつです。<br />

    太陽の丘えんがる公園 日の丸
    中心部が円を描くように赤に近いピンクに染まります。
    中輪の早咲き品種のひとつです。

  • 太陽の丘えんがる公園 あかつき<br />絞り染めしたような紅白模様が特徴です。くっきりと輪郭が顕になるので、そよぐ秋風が良く似合います。とても繊細でデリケートな花びらです。<br />遅咲き品種のひとつです。<br />

    太陽の丘えんがる公園 あかつき
    絞り染めしたような紅白模様が特徴です。くっきりと輪郭が顕になるので、そよぐ秋風が良く似合います。とても繊細でデリケートな花びらです。
    遅咲き品種のひとつです。

  • 太陽の丘えんがる公園 ピコティ<br />鮮紅地に白の絞り模様が優雅で、凛とした気品があります。

    太陽の丘えんがる公園 ピコティ
    鮮紅地に白の絞り模様が優雅で、凛とした気品があります。

  • 太陽の丘えんがる公園 サイケ<br />花びらの付け根に、もう一枚小さな花びらが付くコラレット咲きです。コラレットとは婦人用襟巻きのことで、サイケはサイケデリック(=幻覚をもたらす)の略です。

    太陽の丘えんがる公園 サイケ
    花びらの付け根に、もう一枚小さな花びらが付くコラレット咲きです。コラレットとは婦人用襟巻きのことで、サイケはサイケデリック(=幻覚をもたらす)の略です。

  • 太陽の丘えんがる公園 サイケ<br />

    太陽の丘えんがる公園 サイケ

  • 太陽の丘えんがる公園 シーシェル<br />花が巻貝のように筒状になった花弁がユニークです。ネーミングもずばりsea shell( 海の貝殻)。遅咲き品種のひとつです。<br />

    太陽の丘えんがる公園 シーシェル
    花が巻貝のように筒状になった花弁がユニークです。ネーミングもずばりsea shell( 海の貝殻)。遅咲き品種のひとつです。

  • 太陽の丘えんがる公園<br />ハロウィンを意識したのでしょうか、入り口の脇には遠軽町で収穫されたというジャンボ・カボチャが展示されています。<br />実は、遠軽とカボチャには深い縁があります。<br />1924(大正13)年、第一次世界大戦後の不況と翌年の関東大震災の影響から、政府は財政緊縮策として予定していた石北線鉄道敷設工事の延期を発表しました。石北線が開通すれば遠軽〜旭川間は4時間短縮できると喜んでいた沿線住民たちは、有志を募り、陳情や請願活動を行なう一団を結成しました。「貧しい農民は鉄道がなければ安い米が食べられない。毎日カボチャばかり食べている」と国会の控室でカボチャを広げて食べる光景は、「カボチャ団体の陳情」として報道され全国的に知れ渡ったそうです。<br />カボチャ団体の必死の請願によって工事着手の約束が得られ、1933(昭和7)年に待望の石北線が開通しました。こうした先人の努力の末、遠軽はやがて名寄本線と石北本線の分岐点となり、交通の要衝として現在のように発展したのです。

    太陽の丘えんがる公園
    ハロウィンを意識したのでしょうか、入り口の脇には遠軽町で収穫されたというジャンボ・カボチャが展示されています。
    実は、遠軽とカボチャには深い縁があります。
    1924(大正13)年、第一次世界大戦後の不況と翌年の関東大震災の影響から、政府は財政緊縮策として予定していた石北線鉄道敷設工事の延期を発表しました。石北線が開通すれば遠軽〜旭川間は4時間短縮できると喜んでいた沿線住民たちは、有志を募り、陳情や請願活動を行なう一団を結成しました。「貧しい農民は鉄道がなければ安い米が食べられない。毎日カボチャばかり食べている」と国会の控室でカボチャを広げて食べる光景は、「カボチャ団体の陳情」として報道され全国的に知れ渡ったそうです。
    カボチャ団体の必死の請願によって工事着手の約束が得られ、1933(昭和7)年に待望の石北線が開通しました。こうした先人の努力の末、遠軽はやがて名寄本線と石北本線の分岐点となり、交通の要衝として現在のように発展したのです。

  • 北の森ガーデン<br />塩ラーメンですが、とんこつ風の色合いです。<br />焼き豚は、上川町特産の大雪山連峰の豊かな湧き水と地域で生産されたモチ米を与えたブランド豚肉「渓谷・味豚(けいこく・みとん)」を使用した極上品です。<br />

    北の森ガーデン
    塩ラーメンですが、とんこつ風の色合いです。
    焼き豚は、上川町特産の大雪山連峰の豊かな湧き水と地域で生産されたモチ米を与えたブランド豚肉「渓谷・味豚(けいこく・みとん)」を使用した極上品です。

  • 北の森ガーデン<br />こちらは味噌ラーメンです。<br />食後のデザートに石屋製「白い恋人ソフトクリーム」を食したかったのですが、生憎売り切れでした。

    北の森ガーデン
    こちらは味噌ラーメンです。
    食後のデザートに石屋製「白い恋人ソフトクリーム」を食したかったのですが、生憎売り切れでした。

  • 北の森ガーデン<br />暫くすると、近くも霞むほどの激しい雷雨になってきました。<br />「北の森ガーデン」はちょっとしたテーマパークのような所で、敷地内には氷点下の世界を体験できる「アイスパビリオン」や道北地方唯一の「熊牧場」などがあるようです。<br />お土産品も種類が豊富で、「じゃがポックル」をゲットしました。

    北の森ガーデン
    暫くすると、近くも霞むほどの激しい雷雨になってきました。
    「北の森ガーデン」はちょっとしたテーマパークのような所で、敷地内には氷点下の世界を体験できる「アイスパビリオン」や道北地方唯一の「熊牧場」などがあるようです。
    お土産品も種類が豊富で、「じゃがポックル」をゲットしました。

  • 層雲峡 銀河の滝<br />美瑛は人が大地に描いた風景画ですが、それとは対照的に層雲峡は神が造った天然の彫刻で迫ってきます。<br />層雲峡は、旭川と北見とを結ぶ石北峠の途中に位置し、大雪山国立公園に属します。アイヌ語で「ソウウンベツ(滝の多い川)」と呼ばれていたことから、詩人 大町桂月が1921(大正10)年に大雪山登山に訪れた際、層雲峡と命名しました。桂月が訪れた頃には数軒の湯宿しかありませんでしたが、1987年にカナダの山岳リゾートを模した再開発が行われ、季節の花々に彩られた愛らしい街並みへと変貌を遂げています。今では年間300万人もの観光客が訪れる、道央最大級の温泉地として人気を集めています。<br />約24kmに亘って断崖絶壁が続き、その渓谷美には目を瞠ります。これらの柱状節理は、約3万年前の大雪山の噴火が形成したものです。層雲峡の成り立ちは、大雪山の噴火による火砕流で石狩川が堰き止められて大きな湖(古大雪湖)が造られ、やがて満々と湛えられた水が火砕流が冷えて固まった溶結凝灰岩の割れ目を押し破って細い流露をつくって流れ出し、それが激しい水流となり、その勢いで溶岩台地を浸食してできた峡谷と言われています。<br />層雲峡では垂直に割れ目が入った柱状節理がそそりたつ断崖絶壁が延々と続き、壮大な奇観を呈しています。節理は等冷却面に対して垂直に低温側から高温側へ柱状に伸びるため、柱状の岩(節理)が連なって見えるのがその由来です。柱状節理の断面は六角形となることが多いようです。

    層雲峡 銀河の滝
    美瑛は人が大地に描いた風景画ですが、それとは対照的に層雲峡は神が造った天然の彫刻で迫ってきます。
    層雲峡は、旭川と北見とを結ぶ石北峠の途中に位置し、大雪山国立公園に属します。アイヌ語で「ソウウンベツ(滝の多い川)」と呼ばれていたことから、詩人 大町桂月が1921(大正10)年に大雪山登山に訪れた際、層雲峡と命名しました。桂月が訪れた頃には数軒の湯宿しかありませんでしたが、1987年にカナダの山岳リゾートを模した再開発が行われ、季節の花々に彩られた愛らしい街並みへと変貌を遂げています。今では年間300万人もの観光客が訪れる、道央最大級の温泉地として人気を集めています。
    約24kmに亘って断崖絶壁が続き、その渓谷美には目を瞠ります。これらの柱状節理は、約3万年前の大雪山の噴火が形成したものです。層雲峡の成り立ちは、大雪山の噴火による火砕流で石狩川が堰き止められて大きな湖(古大雪湖)が造られ、やがて満々と湛えられた水が火砕流が冷えて固まった溶結凝灰岩の割れ目を押し破って細い流露をつくって流れ出し、それが激しい水流となり、その勢いで溶岩台地を浸食してできた峡谷と言われています。
    層雲峡では垂直に割れ目が入った柱状節理がそそりたつ断崖絶壁が延々と続き、壮大な奇観を呈しています。節理は等冷却面に対して垂直に低温側から高温側へ柱状に伸びるため、柱状の岩(節理)が連なって見えるのがその由来です。柱状節理の断面は六角形となることが多いようです。

  • 層雲峡 銀河の滝<br />トイレ休憩を兼ねて10分ほどの写真タイムがもらえました。雨はザーザー降りですが、滝の姿ははっきりと確認できます。バスの中で待機される方、目の前にある銀河の滝だけ見て戻られる方など対応は様々です。両方回ったのは当方だけかもしれません。<br /><br />層雲峡温泉から車で5分ほど石狩川を遡ると旧国道へ入る道があり、ここが流星・銀河の滝への入り口となります。この2つの滝は並んで睦まじく流れ落ちる壮観から夫婦滝とも称され、烏帽子岳を源流に雄滝沢川から流れ落ちる滝が雄滝の流星の滝(落差90m)、赤岳を源流に雌滝沢川から流れ落ちる滝が雌滝の銀河の滝(落差120m)と呼ばれています。<br />この滝の名には様々な呼び名があります。これは命名の変遷によるもので、1872(明治5)年には開拓使掌 高畑利宣が2条の滝に「夫婦滝」と命名しています。1916(大正5)年には上川支庁 東郷清が「雄滝・雄滝」と命名。1923(大正12)年には、林学博士 新島善直が雄滝を「流星の滝」、雌滝を「銀河の滝」と詠んだ2首の歌をルーツに現在の名称があります。何ともロマンチックなネーミングではありませんか?<br />滝の前には広い駐車場が設けられ、観光バスが次々に入ってきます。確かに落差が大きいだけあって見応えのある壮観な風景です。2つの滝の手前は散策できる公園になっています。雨脚が速いので観光客の姿もまばらです。

    層雲峡 銀河の滝
    トイレ休憩を兼ねて10分ほどの写真タイムがもらえました。雨はザーザー降りですが、滝の姿ははっきりと確認できます。バスの中で待機される方、目の前にある銀河の滝だけ見て戻られる方など対応は様々です。両方回ったのは当方だけかもしれません。

    層雲峡温泉から車で5分ほど石狩川を遡ると旧国道へ入る道があり、ここが流星・銀河の滝への入り口となります。この2つの滝は並んで睦まじく流れ落ちる壮観から夫婦滝とも称され、烏帽子岳を源流に雄滝沢川から流れ落ちる滝が雄滝の流星の滝(落差90m)、赤岳を源流に雌滝沢川から流れ落ちる滝が雌滝の銀河の滝(落差120m)と呼ばれています。
    この滝の名には様々な呼び名があります。これは命名の変遷によるもので、1872(明治5)年には開拓使掌 高畑利宣が2条の滝に「夫婦滝」と命名しています。1916(大正5)年には上川支庁 東郷清が「雄滝・雄滝」と命名。1923(大正12)年には、林学博士 新島善直が雄滝を「流星の滝」、雌滝を「銀河の滝」と詠んだ2首の歌をルーツに現在の名称があります。何ともロマンチックなネーミングではありませんか?
    滝の前には広い駐車場が設けられ、観光バスが次々に入ってきます。確かに落差が大きいだけあって見応えのある壮観な風景です。2つの滝の手前は散策できる公園になっています。雨脚が速いので観光客の姿もまばらです。

  • 層雲峡 銀河の滝<br />銀河の滝は、細く優雅に流れ落ちるのが特徴の滝で、か細く繊細な姿、特に湾曲したような曲線のラインがセクシーで「雌滝」と呼ばれるのも頷けます。細い白糸を引くように幾重にも分かれて物腰柔らかく繊細に流れ落ちる光景は、いかにも女性的です。下の方の岩場を細かく流れる箇所は、まさに銀河を彷彿とさせ、天女の羽衣のように岩肌を滑り落ちています。岩肌を這うような繊細な水の流れに、時間を忘れそうになります。<br /><br />歌人 与謝野晶子は、「流星は地に近づける名なれども 女人の滝の銀河めでたし」<br />と銀河の滝を褒め湛えた歌を残しています。

    層雲峡 銀河の滝
    銀河の滝は、細く優雅に流れ落ちるのが特徴の滝で、か細く繊細な姿、特に湾曲したような曲線のラインがセクシーで「雌滝」と呼ばれるのも頷けます。細い白糸を引くように幾重にも分かれて物腰柔らかく繊細に流れ落ちる光景は、いかにも女性的です。下の方の岩場を細かく流れる箇所は、まさに銀河を彷彿とさせ、天女の羽衣のように岩肌を滑り落ちています。岩肌を這うような繊細な水の流れに、時間を忘れそうになります。

    歌人 与謝野晶子は、「流星は地に近づける名なれども 女人の滝の銀河めでたし」
    と銀河の滝を褒め湛えた歌を残しています。

  • 層雲峡 銀河の滝<br />柱状節理の断崖絶壁から流れ落ちる迫力の水飛沫と岩肌を彩る赤や黄色に染まった紅葉との鮮やかなコントラストは必見です。ダイナミックな奇岩を鮮やかに彩る光景は、屏風絵のような美しさで迫り、聳え立つ絶壁「不動岩」の左右から流れ落ちる姿はまさに圧巻です。<br />例年、10月初旬から色付き始め、10月中旬にイタヤカエデ、ナナカマド、カツラ等が見頃を迎えます。特に、流星と銀河の滝が一度に見られる「双瀑台」はおすすめの鑑賞ポイントです。滝とは反対の方向に20分程登った高台にあります。<br /><br />大町桂月は、日露戦争中の1904(明治37)年に親交の深かった与謝野晶子が『明星』に発表した詩「君死にたまふこと勿れ」に対し、皇室中心主義者を代表して雑誌『太陽』で「国家観念を蔑視したる危険なる思想の発露なり」、「乱臣也、賊子也、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と非難を浴びせた高知県出身の美文家として名を馳せています。大酒飲みが祟り、最期には酒で胃潰瘍を悪化させて亡くなっています。因みに、故郷の高知には彼の名を冠した土佐酒造『桂月』という日本酒があります。<br />今や忘却の彼方の人物でしかありませんが、往時は全国に知られた国民的文士でした。教育勅語に見られる彼の思想と文は教科書にも採り入れられ、その名は全国にあまねく知られていました。しかし、敗戦後、彼の思想は排除されると共に教科書からも消えました。今日では故郷でも彼の名を知らない人も多いようです。一方、根強いシンパも存在します。それを立証するのが、全国に建てられた彼の文学碑です。石川啄木を始め北原白秋、野口雨情らにはおよびませんが、全国に70数基あるというから吃驚です。それも敗戦後の建立が多く、北海道にも7基あります。それらは1921(大正10)年に5ヶ月に亘って道央〜道北〜道東を遊歴した足跡を偲んだ文学碑であり、一大登山となった大雪山では出発点の層雲峡と終着点の天人峡温泉に建てられています。桂月は、和漢混在の独特な美文の紀行文でも知られ、終生酒と旅をこよなく愛し、「酒仙鉄脚の旅人」と称されました。また、十和田湖や奥入瀬渓流、蔦温泉を深く愛して世間に知らしめた人として著名なこともあり、碑の多くは彼の紀行文からの抜粋であり、皇室中心主義を賛美する碑ではないことが救いです。<br />明治中期、文人の間で冒険的に自然探訪の旅をすることが流行り、往時登山や旅を愉しむことは学者や芸術家、名家や財力といった知識人や資産家のたしなみだったそうです。しかし、その中で登山家の域に到達したのは、僅かに桂月と俳人 河東碧梧桐の2人だけだったそうです。<br />河東碧梧桐については、次のサイトを参照ください。<br />http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=39806295

    層雲峡 銀河の滝
    柱状節理の断崖絶壁から流れ落ちる迫力の水飛沫と岩肌を彩る赤や黄色に染まった紅葉との鮮やかなコントラストは必見です。ダイナミックな奇岩を鮮やかに彩る光景は、屏風絵のような美しさで迫り、聳え立つ絶壁「不動岩」の左右から流れ落ちる姿はまさに圧巻です。
    例年、10月初旬から色付き始め、10月中旬にイタヤカエデ、ナナカマド、カツラ等が見頃を迎えます。特に、流星と銀河の滝が一度に見られる「双瀑台」はおすすめの鑑賞ポイントです。滝とは反対の方向に20分程登った高台にあります。

    大町桂月は、日露戦争中の1904(明治37)年に親交の深かった与謝野晶子が『明星』に発表した詩「君死にたまふこと勿れ」に対し、皇室中心主義者を代表して雑誌『太陽』で「国家観念を蔑視したる危険なる思想の発露なり」、「乱臣也、賊子也、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と非難を浴びせた高知県出身の美文家として名を馳せています。大酒飲みが祟り、最期には酒で胃潰瘍を悪化させて亡くなっています。因みに、故郷の高知には彼の名を冠した土佐酒造『桂月』という日本酒があります。
    今や忘却の彼方の人物でしかありませんが、往時は全国に知られた国民的文士でした。教育勅語に見られる彼の思想と文は教科書にも採り入れられ、その名は全国にあまねく知られていました。しかし、敗戦後、彼の思想は排除されると共に教科書からも消えました。今日では故郷でも彼の名を知らない人も多いようです。一方、根強いシンパも存在します。それを立証するのが、全国に建てられた彼の文学碑です。石川啄木を始め北原白秋、野口雨情らにはおよびませんが、全国に70数基あるというから吃驚です。それも敗戦後の建立が多く、北海道にも7基あります。それらは1921(大正10)年に5ヶ月に亘って道央〜道北〜道東を遊歴した足跡を偲んだ文学碑であり、一大登山となった大雪山では出発点の層雲峡と終着点の天人峡温泉に建てられています。桂月は、和漢混在の独特な美文の紀行文でも知られ、終生酒と旅をこよなく愛し、「酒仙鉄脚の旅人」と称されました。また、十和田湖や奥入瀬渓流、蔦温泉を深く愛して世間に知らしめた人として著名なこともあり、碑の多くは彼の紀行文からの抜粋であり、皇室中心主義を賛美する碑ではないことが救いです。
    明治中期、文人の間で冒険的に自然探訪の旅をすることが流行り、往時登山や旅を愉しむことは学者や芸術家、名家や財力といった知識人や資産家のたしなみだったそうです。しかし、その中で登山家の域に到達したのは、僅かに桂月と俳人 河東碧梧桐の2人だけだったそうです。
    河東碧梧桐については、次のサイトを参照ください。
    http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=39806295

  • 層雲峡 流星の滝<br />銀河の滝とは対照的に、水量も多く太い1筋の滝となって勇壮に力強く豪快に男性的に流れ落ちるのが「流星の滝」です。北海道の屋根と言われる大雪山系の沢水が水の柱となって豪快に落下する姿は爽快で「雄滝」とも呼ばれます。澄み渡った夜空にスーッと尾を引いて真っ直ぐに流れる流れ星に因んで「流星の滝」の名が付けられています。<br />天気が良ければ、流星の滝の奥に大雪山系の黒岳のピークが少しだけ顔を覗かせるそうです。<br />また、命知らずと言うか、冒険心旺盛と言うか、以前、冬季に凍ったこの滝の一番上からスキーヤーがスキーで滑り降りてきたことがあったそうです。

    層雲峡 流星の滝
    銀河の滝とは対照的に、水量も多く太い1筋の滝となって勇壮に力強く豪快に男性的に流れ落ちるのが「流星の滝」です。北海道の屋根と言われる大雪山系の沢水が水の柱となって豪快に落下する姿は爽快で「雄滝」とも呼ばれます。澄み渡った夜空にスーッと尾を引いて真っ直ぐに流れる流れ星に因んで「流星の滝」の名が付けられています。
    天気が良ければ、流星の滝の奥に大雪山系の黒岳のピークが少しだけ顔を覗かせるそうです。
    また、命知らずと言うか、冒険心旺盛と言うか、以前、冬季に凍ったこの滝の一番上からスキーヤーがスキーで滑り降りてきたことがあったそうです。

  • 層雲峡 流星の滝<br />層雲峡が初めて世に紹介されたのは、1921(大正10)年の『中央公論』に掲載された大町桂月の紀行文「層雲峡から大雪山へ」です。冒頭に「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大(おおい)さを語れ」の一文があり、この紀行文によって大雪山および層雲峡は全国にその魅力を知られることになりました。<br />桂月は大雪山渓の気宇の大きさ、さらに「カムイミンタラ(神の庭)」の美しさに惹かれていたたそうです。大雪山山行のスタート地点となった層雲峡温泉の河畔にある桂月の碑文には次のようにあります。<br />「人若し余に北海道の山水を問はば、第一に大雪山を挙ぐべし。次に層雲峡を挙ぐべし。大雪山は、頂上広くしてお花畑の多き点に於いて、層雲峡は了崖の高く且つ奇なる点に於いてもいづれも天下無双也」。<br /><br />現在ある姿は、層雲峡の悠久の変遷のプロセスの一齣に過ぎません。これからも数世紀の歳月を経てこの峡谷は浸食を続け、崩落などを繰り返しながら今の姿を変貌させて行くことでしょう。<br />大自然の営みの時間軸に対し、我々人の寿命はそのプロセスの刹那を見ることができる程の長さなんだと改めて実感できる場所です。

    層雲峡 流星の滝
    層雲峡が初めて世に紹介されたのは、1921(大正10)年の『中央公論』に掲載された大町桂月の紀行文「層雲峡から大雪山へ」です。冒頭に「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大(おおい)さを語れ」の一文があり、この紀行文によって大雪山および層雲峡は全国にその魅力を知られることになりました。
    桂月は大雪山渓の気宇の大きさ、さらに「カムイミンタラ(神の庭)」の美しさに惹かれていたたそうです。大雪山山行のスタート地点となった層雲峡温泉の河畔にある桂月の碑文には次のようにあります。
    「人若し余に北海道の山水を問はば、第一に大雪山を挙ぐべし。次に層雲峡を挙ぐべし。大雪山は、頂上広くしてお花畑の多き点に於いて、層雲峡は了崖の高く且つ奇なる点に於いてもいづれも天下無双也」。

    現在ある姿は、層雲峡の悠久の変遷のプロセスの一齣に過ぎません。これからも数世紀の歳月を経てこの峡谷は浸食を続け、崩落などを繰り返しながら今の姿を変貌させて行くことでしょう。
    大自然の営みの時間軸に対し、我々人の寿命はそのプロセスの刹那を見ることができる程の長さなんだと改めて実感できる場所です。

  • 三国峠<br />バスから降りるとシャーベット状ですが積雪が確認できました。標高が高いだけに、気温が下がると雪になるのでしょう。晴れていれば、十勝三股の広大な樹海と東大雪の山々が一望でき、エゾ松やトド松の深い緑の中にダケカンバの白い幹と黄葉、ナナカマドの紅葉が散り嵌められた絶妙の錦絵巻が見られたはずなのに…。<br />パーキングエリアでは美味しいコーヒーを入れてくれるカフェもあるのですが、時間がなくスルーします。<br /><br />上川地方の層雲峡温泉と十勝地方北部の糠平温泉との中間点にあり、1971年に峠の頂を国道273号線が三国トンネル(1153m)で貫きました。北海道の国道の中で一番高い、標高1139mもある大雪山国立公園内にある「十勝の玄関」に相応しい峠です。道内でも有数な「これぞ北海道!」と歓声を上げたくなるような絶景スポットだそうです。<br />「三国」を冠する峠は全国に数多散見されますが、広大な十勝三股の今から100万年前にできた大カルデラ地形を形成する山々とその手前に広がる大樹海を一望できるこのパノラマ風景に適う峠はないそうです。美幌峠や知床峠と比肩するほどの北海道屈指の絶景峠だと思います。因みに、日本最北にあるこの三国峠の名は、旧地名の石狩国、十勝国、北見国の境界に位置することから付けられたと言われています。<br />かつては冬期の閉鎖期間があったようですが、現在は一年を通して通行が可能です。しかし、冬季は、峠のパーキングエリアはトイレも含めて閉鎖されるそうです。

    三国峠
    バスから降りるとシャーベット状ですが積雪が確認できました。標高が高いだけに、気温が下がると雪になるのでしょう。晴れていれば、十勝三股の広大な樹海と東大雪の山々が一望でき、エゾ松やトド松の深い緑の中にダケカンバの白い幹と黄葉、ナナカマドの紅葉が散り嵌められた絶妙の錦絵巻が見られたはずなのに…。
    パーキングエリアでは美味しいコーヒーを入れてくれるカフェもあるのですが、時間がなくスルーします。

    上川地方の層雲峡温泉と十勝地方北部の糠平温泉との中間点にあり、1971年に峠の頂を国道273号線が三国トンネル(1153m)で貫きました。北海道の国道の中で一番高い、標高1139mもある大雪山国立公園内にある「十勝の玄関」に相応しい峠です。道内でも有数な「これぞ北海道!」と歓声を上げたくなるような絶景スポットだそうです。
    「三国」を冠する峠は全国に数多散見されますが、広大な十勝三股の今から100万年前にできた大カルデラ地形を形成する山々とその手前に広がる大樹海を一望できるこのパノラマ風景に適う峠はないそうです。美幌峠や知床峠と比肩するほどの北海道屈指の絶景峠だと思います。因みに、日本最北にあるこの三国峠の名は、旧地名の石狩国、十勝国、北見国の境界に位置することから付けられたと言われています。
    かつては冬期の閉鎖期間があったようですが、現在は一年を通して通行が可能です。しかし、冬季は、峠のパーキングエリアはトイレも含めて閉鎖されるそうです。

  • 帯広市(車窓)<br />三国峠を下る途中から陽が差してきました。大雪山の周辺にだけ雲が纏わり付いているようです。<br /><br />十勝地方の代名詞となるのが、サイロのある酪農風景です。しかし、以前訪れた時の様子とはかなり変わってきています。サイロがほとんど見られなくなっているのです。<br />この理由は、脱酪農やサイロへの設備投資の問題など様々だそうです。サイレージしなくても牧草を発酵させられるのかと疑問に思いますが、地面に枠を造って牧草を入れ、その上にビニールシートを被せれば普通に発酵するようです。その他、TMRと言って混合飼料を配分したロールベールを宅配してくれる専門業者もあるようです。酪農も分業しないとグローバルなコスト競争についていけないため、生産プロセスを変化させようとしていることが手に取るように判ります。<br />サイロは比較的設備費が高く、もはや大規模酪農家でなければ手が出せないそうです。錆付いたサイロがポツンと建っているのを見かけたりもしますが、それは解体費が捻出できず、朽ち果てるのを待っている状態だそうです。

    帯広市(車窓)
    三国峠を下る途中から陽が差してきました。大雪山の周辺にだけ雲が纏わり付いているようです。

    十勝地方の代名詞となるのが、サイロのある酪農風景です。しかし、以前訪れた時の様子とはかなり変わってきています。サイロがほとんど見られなくなっているのです。
    この理由は、脱酪農やサイロへの設備投資の問題など様々だそうです。サイレージしなくても牧草を発酵させられるのかと疑問に思いますが、地面に枠を造って牧草を入れ、その上にビニールシートを被せれば普通に発酵するようです。その他、TMRと言って混合飼料を配分したロールベールを宅配してくれる専門業者もあるようです。酪農も分業しないとグローバルなコスト競争についていけないため、生産プロセスを変化させようとしていることが手に取るように判ります。
    サイロは比較的設備費が高く、もはや大規模酪農家でなければ手が出せないそうです。錆付いたサイロがポツンと建っているのを見かけたりもしますが、それは解体費が捻出できず、朽ち果てるのを待っている状態だそうです。

  • 上士幌町(車窓)<br />これからバスが向かう先は、上士幌町にあるナイタイ高原牧場です。丁度、左端になだらかな草原地帯が見えていますが、そこが目的地です。地域的には、大雪山系トムラウシ火山群の一角になります。<br />トムラウシ山は、大雪山系南部の標高2141mの山で「大雪山の奥座敷」と称され、地元では昔から「カムイミンタラ(神々の遊ぶ庭)」として崇められてきました。トムラウシとは、アイヌ語で「花の多いところ」とも、「水垢が多いところ」の意だとも言われています。30〜10万年前に活動した火山で、山頂に溶岩ドームがあり、麓の新得町側にはトムラウシ温泉があります。<br /><br />トムラウシ山と言えば、2009年7月に18人の登山パーティーのうち8人が死亡するという夏山登山史上最悪の痛ましい遭難事故が起きています。雨と強風の中、無理な行動をとったために疲労も重なり、急激に体温を奪われ、意識を失って亡くなられています。60歳代の人が多く、山を甘く見過ぎてピクニック気分だったのではないかと想像していたのですが、実際は全員が登山経験者であり、透湿防水雨具を着用し、フリースやダウンなどの防寒衣類を持っていたそうです。ただし、ガイドからのアドバイスがなく、雨具の下にそれを着た人と薄着のままの人がいて、それが生死を分けたようです。事故調査委員会の調査では、ガイドの判断ミスと低体温症によるものと結論付けています。<br />要因としては、ガイド3人が全く面識もなく、ガイドリーダーがトムラウシ山に詳しくなく、参加者のスキルを把握できておらず、意思疎通がとれなかったことが大きかったようです。そして、天候の回復見込みのないまま、はっきりした方針もなく、行けるところまで行って様子を見るといった安易な気持ちで小屋を出発してしまったことが最大の失敗だったと生還者の一人が指摘しています。<br />これだけの大惨事になった理由は、身体が濡れてしまったことや防寒対策、栄養摂取不足、低体温症への知識不足などが挙げられますが、最大の問題は「なぜ天候の回復を山小屋で待てなかったか?」に尽きます。結果的に「止めること」を決断できないまま出発してしまい、引き返そうと思った時には引き返せない所まで来ていたということです。<br />しかし、「言うは易し、行うは難し」で、ツアーガイドの立場では、旅程保証義務の観点で予定通りに下山しなければならないというプレッシャーが強かったとの証言があります。実際に予備日を持たないツアーでは、「沈殿」はあり得ない選択肢なのです。これを見直さない限り、同様の遭難がなくなることはないような気がします。

    上士幌町(車窓)
    これからバスが向かう先は、上士幌町にあるナイタイ高原牧場です。丁度、左端になだらかな草原地帯が見えていますが、そこが目的地です。地域的には、大雪山系トムラウシ火山群の一角になります。
    トムラウシ山は、大雪山系南部の標高2141mの山で「大雪山の奥座敷」と称され、地元では昔から「カムイミンタラ(神々の遊ぶ庭)」として崇められてきました。トムラウシとは、アイヌ語で「花の多いところ」とも、「水垢が多いところ」の意だとも言われています。30〜10万年前に活動した火山で、山頂に溶岩ドームがあり、麓の新得町側にはトムラウシ温泉があります。

    トムラウシ山と言えば、2009年7月に18人の登山パーティーのうち8人が死亡するという夏山登山史上最悪の痛ましい遭難事故が起きています。雨と強風の中、無理な行動をとったために疲労も重なり、急激に体温を奪われ、意識を失って亡くなられています。60歳代の人が多く、山を甘く見過ぎてピクニック気分だったのではないかと想像していたのですが、実際は全員が登山経験者であり、透湿防水雨具を着用し、フリースやダウンなどの防寒衣類を持っていたそうです。ただし、ガイドからのアドバイスがなく、雨具の下にそれを着た人と薄着のままの人がいて、それが生死を分けたようです。事故調査委員会の調査では、ガイドの判断ミスと低体温症によるものと結論付けています。
    要因としては、ガイド3人が全く面識もなく、ガイドリーダーがトムラウシ山に詳しくなく、参加者のスキルを把握できておらず、意思疎通がとれなかったことが大きかったようです。そして、天候の回復見込みのないまま、はっきりした方針もなく、行けるところまで行って様子を見るといった安易な気持ちで小屋を出発してしまったことが最大の失敗だったと生還者の一人が指摘しています。
    これだけの大惨事になった理由は、身体が濡れてしまったことや防寒対策、栄養摂取不足、低体温症への知識不足などが挙げられますが、最大の問題は「なぜ天候の回復を山小屋で待てなかったか?」に尽きます。結果的に「止めること」を決断できないまま出発してしまい、引き返そうと思った時には引き返せない所まで来ていたということです。
    しかし、「言うは易し、行うは難し」で、ツアーガイドの立場では、旅程保証義務の観点で予定通りに下山しなければならないというプレッシャーが強かったとの証言があります。実際に予備日を持たないツアーでは、「沈殿」はあり得ない選択肢なのです。これを見直さない限り、同様の遭難がなくなることはないような気がします。

  • ナイタイ高原牧場(車窓)<br />アイヌ語で「ナイ・エタィエ・ペッ(奥深い沢)」を意味する然別湖周辺の一山 ナイタイ山(標高1332m)の南東山麓に広がるナイタイ高原牧場は、上士幌町が運営し、最盛期には2500頭以上の乳牛を飼い主から預かって育てる総面積1700haの日本一広大な公共牧場です。大雪山系の懐、広大な十勝平野を一望できる北端に位置し、牧場一帯の標高が365〜1000mという穏やかな起伏をなし、牧歌的風景が広がっています。<br />4月下旬〜10月下旬は一般公開され、地平線まで続く緑の大草原で草を食む牛たちが豆粒にしか見えないほどスケールの大きな景観が愉しめます。時折、野生の鹿も現れる野趣溢れる高原牧場です。また、開陽台や多和平と共に道東の牧場ツーリングの定番ともなっていますが、夏の道東地方は霧がかかりやすいため、この牧場も雲の中ということがままあるそうです。年間15万人が訪れる観光スポットです。

    ナイタイ高原牧場(車窓)
    アイヌ語で「ナイ・エタィエ・ペッ(奥深い沢)」を意味する然別湖周辺の一山 ナイタイ山(標高1332m)の南東山麓に広がるナイタイ高原牧場は、上士幌町が運営し、最盛期には2500頭以上の乳牛を飼い主から預かって育てる総面積1700haの日本一広大な公共牧場です。大雪山系の懐、広大な十勝平野を一望できる北端に位置し、牧場一帯の標高が365〜1000mという穏やかな起伏をなし、牧歌的風景が広がっています。
    4月下旬〜10月下旬は一般公開され、地平線まで続く緑の大草原で草を食む牛たちが豆粒にしか見えないほどスケールの大きな景観が愉しめます。時折、野生の鹿も現れる野趣溢れる高原牧場です。また、開陽台や多和平と共に道東の牧場ツーリングの定番ともなっていますが、夏の道東地方は霧がかかりやすいため、この牧場も雲の中ということがままあるそうです。年間15万人が訪れる観光スポットです。

  • ナイタイ高原牧場(車窓)<br />展望台駐車場へ繋がるこのロードは、ツーリング仲間の間で人気を博しているそうです。<br /><br />国費、道費、町費の合計8億円を投入して日本一広い町営牧場が完成したのは1972年のことです。戦前は種馬育成牧場として利用されていましたが、上士幌町の基幹産業である酪農を振興させるため、1966年に国営の大規模な草地整備事業「十勝中部地区」が行われたことに始まります。完成後に上士幌町に運営が移管されました。<br />自然豊かな十勝・上士幌町で生まれ育ち、5・4等級のみに与えられるブランド称号「十勝ナイタイ和牛」は、この「ナイタイ高原牧場」の名前が由来だそうです。

    ナイタイ高原牧場(車窓)
    展望台駐車場へ繋がるこのロードは、ツーリング仲間の間で人気を博しているそうです。

    国費、道費、町費の合計8億円を投入して日本一広い町営牧場が完成したのは1972年のことです。戦前は種馬育成牧場として利用されていましたが、上士幌町の基幹産業である酪農を振興させるため、1966年に国営の大規模な草地整備事業「十勝中部地区」が行われたことに始まります。完成後に上士幌町に運営が移管されました。
    自然豊かな十勝・上士幌町で生まれ育ち、5・4等級のみに与えられるブランド称号「十勝ナイタイ和牛」は、この「ナイタイ高原牧場」の名前が由来だそうです。

  • ナイタイ高原牧場 展望台<br />展望台は標高約800mの高台にあり、北海道のイメージそのままの丘の眺めと十勝平野を一望する絶景パノラマビューは感涙ものです。十勝平野の奥の奥まで見渡せます。遠くは阿寒の山並みが一望でき、四季折々の牧場の緑の絨毯と十勝平野に広がる畑のパッチワークの彩りを愉しむことができる絶景ポイントです。

    ナイタイ高原牧場 展望台
    展望台は標高約800mの高台にあり、北海道のイメージそのままの丘の眺めと十勝平野を一望する絶景パノラマビューは感涙ものです。十勝平野の奥の奥まで見渡せます。遠くは阿寒の山並みが一望でき、四季折々の牧場の緑の絨毯と十勝平野に広がる畑のパッチワークの彩りを愉しむことができる絶景ポイントです。

  • ナイタイ高原牧場 展望台<br />使い古されたトラクターが2台並んでいます。

    ナイタイ高原牧場 展望台
    使い古されたトラクターが2台並んでいます。

  • ナイタイ高原牧場 展望台<br />レストハウス前の草原には、古代遺跡を彷彿とさせるような石のモニュメントが配されています。南に広がる十勝平野は、まさに雄大な北海道を感じさせる景色そのものです。<br />ところで、この写真の中に乳牛が牧草を食む姿が写っているのですが、判りますか?

    ナイタイ高原牧場 展望台
    レストハウス前の草原には、古代遺跡を彷彿とさせるような石のモニュメントが配されています。南に広がる十勝平野は、まさに雄大な北海道を感じさせる景色そのものです。
    ところで、この写真の中に乳牛が牧草を食む姿が写っているのですが、判りますか?

  • ナイタイ高原牧場 展望台<br />ズームアップしても豆粒ほどにしか見えませんが….<br />広大な草原の雰囲気が伝わると思います。

    ナイタイ高原牧場 展望台
    ズームアップしても豆粒ほどにしか見えませんが….
    広大な草原の雰囲気が伝わると思います。

  • ナイタイ高原牧場 展望台<br />全体では2500頭以上が放牧されているそうですが、一箇所の放牧地帯に集う数は250頭程だそうです。<br />雪解けと同時に十勝管内各地から若い牛を預かり、夏の間この地で放牧した後、秋には一回りも二回りも大きして各牧場に返すのがナイタイ高原牧場の役割です。搾乳量を増やすため一戸当たりの頭数が増えるとそれに伴って牛の管理などの労働力が増えます。そこで預託牧場に育成牛を預けることで時間的な余裕を生み出し、搾乳に特化することで収益を上げるというビジネスモデルのようです。

    ナイタイ高原牧場 展望台
    全体では2500頭以上が放牧されているそうですが、一箇所の放牧地帯に集う数は250頭程だそうです。
    雪解けと同時に十勝管内各地から若い牛を預かり、夏の間この地で放牧した後、秋には一回りも二回りも大きして各牧場に返すのがナイタイ高原牧場の役割です。搾乳量を増やすため一戸当たりの頭数が増えるとそれに伴って牛の管理などの労働力が増えます。そこで預託牧場に育成牛を預けることで時間的な余裕を生み出し、搾乳に特化することで収益を上げるというビジネスモデルのようです。

  • ナイタイ高原牧場 展望台<br />紙上では「TPP大筋合意 巨大経済圏誕生」との見出しが踊っています。難航していた医薬品、自動車、乳製品の3分野での合意がなされる見通しだそうです。しかし、総論賛成というのは体裁を保つための常套手段です。総論賛成、各論反対で揉めなければいいのですが…。そして、消費者としては利点があるものの、生産者の立場で見ればグローバルなコスト競争に巻き込まれるのは明白です。特に、乳製品や牛肉、米などは日本の農業の屋台骨です。一時期、食料自給率が問われていましたが、今はトーンダウンしているようにも思います。それでも輸入で賄える物はなんとかなりますが、生乳や生鮮食品のようなものは輸入できません。それを支えていくのが本来の国策のはずです。<br />一方、安倍政権が標榜する「農業の改革」に拍車がかかっています。米の減反廃止、農協解体に次ぐ、第3の柱が「酪農政策の大転換」と明示され、半世紀ぶりに酪農の補給金が廃止されます。この制度は、価格競争力が高い北海道産の牛乳と低い都府県産の牛乳が競合しないように、都府県の酪農家を保護する政策でした。補助金により、道内の酪農家を飲用乳向からバターなどの加工品向へ誘導することで過当競争を回避してきたのです。<br />政策転換の狙いは、「都府県の酪農家だけを保護していては、日本の酪農が立ち行かなくなる。伸びるべき生産者が伸びる環境をつくる」ためと説明しています。制度廃止と引換えに、生産者価格の下落時、所得を補填する全国一律的な仕組みが検討されています。しかし、都府県の酪農家の弱体化を促進させる制度廃止には反発も予想され、本格的な議論は来夏の参院選後になる見込みだそうです。<br />現制度を受けるには、指定団体に出荷するのが条件です。現在、道内の酪農家の9割はホクレンに出荷し、牛乳全体の84%が加工用に流通しています。酪農家の昨年度の手取りは1kg当たり90円でした。一方、ホクレンを介さずに飲用乳を出荷した場合、それより7円も高かったそうです。道内の生産費は都府県より2割安く、輸送費を足しても首都圏市場の脅威になることは明白です。にも拘わらず飲用乳の都府県への出荷が伸び悩んでいるのは、そうした行為を掟破りの「アウトサイダー」と蔑み、地域で排除した経緯があったからです。<br />しかし、昨年、「掟破り」が拡大しました。数百頭規模の「メガファーム」がホクレンへの出荷をやめ、伊勢崎市のMMJを通じて都府県に飲用乳の出荷を始めました。その理由は、すでに道内の酪農経営すら安泰ではなくなっているからです。輸入飼料など生産コストが高騰し、昨年度に200戸も離農しています。もはや補給金に依存するだけでは生き残れないのです。その意味では、実態に合わない制度は見直されるべきと思います。<br />一方、我々消費者には、想定外の事態が起こりそうです。道内酪農家の飲用乳シフトが進めば、バターの原料が不足することは明白です。近年、クリスマスシーズどころか恒常的にバター不足が叫ばれていますが、国が乳製品の輸入制度等も同時に改革しなければ、乳製品不足が解消されることはありません。TPPだけでカバーできるかどうかは疑問です。そもそも、乳製品を輸出できる国は限定的であり、日本に融通してもらえる量はさらに限定的です。つまり、どんな政策もグランドデザインがしっかりしたものになっていなければ全体最適とはなりません。常に局地戦を戦っている安部政権に期待は禁物ですが、日本の酪農が崩壊しないように見守って行かなければなりません。

    ナイタイ高原牧場 展望台
    紙上では「TPP大筋合意 巨大経済圏誕生」との見出しが踊っています。難航していた医薬品、自動車、乳製品の3分野での合意がなされる見通しだそうです。しかし、総論賛成というのは体裁を保つための常套手段です。総論賛成、各論反対で揉めなければいいのですが…。そして、消費者としては利点があるものの、生産者の立場で見ればグローバルなコスト競争に巻き込まれるのは明白です。特に、乳製品や牛肉、米などは日本の農業の屋台骨です。一時期、食料自給率が問われていましたが、今はトーンダウンしているようにも思います。それでも輸入で賄える物はなんとかなりますが、生乳や生鮮食品のようなものは輸入できません。それを支えていくのが本来の国策のはずです。
    一方、安倍政権が標榜する「農業の改革」に拍車がかかっています。米の減反廃止、農協解体に次ぐ、第3の柱が「酪農政策の大転換」と明示され、半世紀ぶりに酪農の補給金が廃止されます。この制度は、価格競争力が高い北海道産の牛乳と低い都府県産の牛乳が競合しないように、都府県の酪農家を保護する政策でした。補助金により、道内の酪農家を飲用乳向からバターなどの加工品向へ誘導することで過当競争を回避してきたのです。
    政策転換の狙いは、「都府県の酪農家だけを保護していては、日本の酪農が立ち行かなくなる。伸びるべき生産者が伸びる環境をつくる」ためと説明しています。制度廃止と引換えに、生産者価格の下落時、所得を補填する全国一律的な仕組みが検討されています。しかし、都府県の酪農家の弱体化を促進させる制度廃止には反発も予想され、本格的な議論は来夏の参院選後になる見込みだそうです。
    現制度を受けるには、指定団体に出荷するのが条件です。現在、道内の酪農家の9割はホクレンに出荷し、牛乳全体の84%が加工用に流通しています。酪農家の昨年度の手取りは1kg当たり90円でした。一方、ホクレンを介さずに飲用乳を出荷した場合、それより7円も高かったそうです。道内の生産費は都府県より2割安く、輸送費を足しても首都圏市場の脅威になることは明白です。にも拘わらず飲用乳の都府県への出荷が伸び悩んでいるのは、そうした行為を掟破りの「アウトサイダー」と蔑み、地域で排除した経緯があったからです。
    しかし、昨年、「掟破り」が拡大しました。数百頭規模の「メガファーム」がホクレンへの出荷をやめ、伊勢崎市のMMJを通じて都府県に飲用乳の出荷を始めました。その理由は、すでに道内の酪農経営すら安泰ではなくなっているからです。輸入飼料など生産コストが高騰し、昨年度に200戸も離農しています。もはや補給金に依存するだけでは生き残れないのです。その意味では、実態に合わない制度は見直されるべきと思います。
    一方、我々消費者には、想定外の事態が起こりそうです。道内酪農家の飲用乳シフトが進めば、バターの原料が不足することは明白です。近年、クリスマスシーズどころか恒常的にバター不足が叫ばれていますが、国が乳製品の輸入制度等も同時に改革しなければ、乳製品不足が解消されることはありません。TPPだけでカバーできるかどうかは疑問です。そもそも、乳製品を輸出できる国は限定的であり、日本に融通してもらえる量はさらに限定的です。つまり、どんな政策もグランドデザインがしっかりしたものになっていなければ全体最適とはなりません。常に局地戦を戦っている安部政権に期待は禁物ですが、日本の酪農が崩壊しないように見守って行かなければなりません。

  • ナイタイ高原牧場 <br />アカエゾマツでこしらえたレストハウスには、名物のソフトクリームとイモ団子があります。十勝平野の絶景を見渡しながら食べると絶品です。<br />十勝地方の牧場は自家製ソフトクリームに拘っています。当方も、上士幌町のふるさと納税で北海道で最大の生産量を誇る上士幌町の牧場「ドリームヒル」の生乳を使った「アイス工房ドリームのジェラートセット」をもらい、美味しくいただきました。この牧場のソフトクリームもその味に負けていません。<br />また、北海道といえば「イモ団子」と言った商品が名高いのですが、これも外せない一品です。

    ナイタイ高原牧場
    アカエゾマツでこしらえたレストハウスには、名物のソフトクリームとイモ団子があります。十勝平野の絶景を見渡しながら食べると絶品です。
    十勝地方の牧場は自家製ソフトクリームに拘っています。当方も、上士幌町のふるさと納税で北海道で最大の生産量を誇る上士幌町の牧場「ドリームヒル」の生乳を使った「アイス工房ドリームのジェラートセット」をもらい、美味しくいただきました。この牧場のソフトクリームもその味に負けていません。
    また、北海道といえば「イモ団子」と言った商品が名高いのですが、これも外せない一品です。

  • ナイタイ高原牧場 <br />レストハウスの背面にあるナイタイ山の中腹には、どことなく牛の姿を彷彿とさせるモニュメントが建てられています。碑文には「家畜感謝の碑」と書かれています。牧場ゆえ、その主役たちに感謝するのはごもっともなことかもしれません。<br /><br />十勝の酪農は、開拓の祖 依田勉三が導入したことにはじまります。また、上士幌町開拓の祖 安村治高丸は、1917(大正6)年に牛18頭を飼い、畜産としての最初の記録が残されています。治高丸は後に清水谷へ転住し、牛が道路を横断するために木造の横断橋を架けたり、木造のサイロを造ったそうですから、まさに酪農の先駆者と言えます。<br />北海道開拓のはじまりは、原生林の開墾とそれに続く畑作および稲作です。畜産業、特に乳牛の飼育は、冬場雪に閉ざされる農民の収入を安定させるための副業的な対策として奨励されてはじまりました。しかし、時を経て、畜産は専業化するほど発達し、今や北海道を潤す一大産業となっています。この乳牛たちに感謝の意を表して建立されたのが、この碑という訳です。

    ナイタイ高原牧場
    レストハウスの背面にあるナイタイ山の中腹には、どことなく牛の姿を彷彿とさせるモニュメントが建てられています。碑文には「家畜感謝の碑」と書かれています。牧場ゆえ、その主役たちに感謝するのはごもっともなことかもしれません。

    十勝の酪農は、開拓の祖 依田勉三が導入したことにはじまります。また、上士幌町開拓の祖 安村治高丸は、1917(大正6)年に牛18頭を飼い、畜産としての最初の記録が残されています。治高丸は後に清水谷へ転住し、牛が道路を横断するために木造の横断橋を架けたり、木造のサイロを造ったそうですから、まさに酪農の先駆者と言えます。
    北海道開拓のはじまりは、原生林の開墾とそれに続く畑作および稲作です。畜産業、特に乳牛の飼育は、冬場雪に閉ざされる農民の収入を安定させるための副業的な対策として奨励されてはじまりました。しかし、時を経て、畜産は専業化するほど発達し、今や北海道を潤す一大産業となっています。この乳牛たちに感謝の意を表して建立されたのが、この碑という訳です。

  • ナイタイ高原牧場(車窓)<br />国内の牛乳や乳製品の総消費量は、生乳換算で年間1200万トンになります。また、食料自給率向上が叫ばれる中、牛乳は自給率100%の優良品目です。それを支えているのが酪農です。日本の酪農は、江戸時代に千葉県で始まりましたが、現在、酪農の規模や生産額は北海道が日本一です。北海道における農業産出額のトップも酪農で、全体の3割を占めます。北海道は、生乳生産量が全国の51%、肉用牛頭数が20%であり、「酪農王国」と呼ばれる所以となっています。その背景にあるのは、乳牛の飼育に適した気候と広大な土地です。北海道も夏は暑いですが、夜は気温が下がるため乳生産量にはさほど悪影響を及ぼしません。一方、都府県の牛乳は、夏場とそれ以外では供給量が変動します。夏場の都府県では乳量が低下し供給が不足します、それを北海道からの供給によって補完する仕組みにすれば北海道の酪農には未来があるように思えます。<br />酪農と言うと牛乳や乳製品に目が向けられがちですが、酪農はその生産プロセスにおける土地活用でも耕作放棄地の問題解決や景観保全に貢献する優等生です。例えば、水田で飼料生産を行えば、休耕田の有効活用の担い手となります。また、農家の高齢化や後継者不足により生じた耕作放棄地を放牧地に活用することも行われており、国土保全や里山の景観保全にも一役買っています。こうした農業や水産業と酪農のコラボレーションや地域ぐるみの6次産業化が、他国の酪農との差別化を図る切り札になるかもしれません。

    ナイタイ高原牧場(車窓)
    国内の牛乳や乳製品の総消費量は、生乳換算で年間1200万トンになります。また、食料自給率向上が叫ばれる中、牛乳は自給率100%の優良品目です。それを支えているのが酪農です。日本の酪農は、江戸時代に千葉県で始まりましたが、現在、酪農の規模や生産額は北海道が日本一です。北海道における農業産出額のトップも酪農で、全体の3割を占めます。北海道は、生乳生産量が全国の51%、肉用牛頭数が20%であり、「酪農王国」と呼ばれる所以となっています。その背景にあるのは、乳牛の飼育に適した気候と広大な土地です。北海道も夏は暑いですが、夜は気温が下がるため乳生産量にはさほど悪影響を及ぼしません。一方、都府県の牛乳は、夏場とそれ以外では供給量が変動します。夏場の都府県では乳量が低下し供給が不足します、それを北海道からの供給によって補完する仕組みにすれば北海道の酪農には未来があるように思えます。
    酪農と言うと牛乳や乳製品に目が向けられがちですが、酪農はその生産プロセスにおける土地活用でも耕作放棄地の問題解決や景観保全に貢献する優等生です。例えば、水田で飼料生産を行えば、休耕田の有効活用の担い手となります。また、農家の高齢化や後継者不足により生じた耕作放棄地を放牧地に活用することも行われており、国土保全や里山の景観保全にも一役買っています。こうした農業や水産業と酪農のコラボレーションや地域ぐるみの6次産業化が、他国の酪農との差別化を図る切り札になるかもしれません。

  • ナイタイ高原牧場(車窓)<br />近年の北海道の生乳生産量は横ばいですが、全国的には減少しており看過できない状況です。酪農家戸数も減少傾向にあり、国をはじめ各自治体や団体が様々な制度や補助金を提供し、新規就農支援を行っています。北海道では新規就農のための研修牧場を整備する自治体もあり、こうした努力が報われて都府県では1990年度から2014年度までに76%減少した酪農家戸数も北海道では54%の減少に留まっています。しかし、少子高齢化問題や飼料高騰等により経営が逼迫し、北海道でも脱酪農が続いています。生産性向上を訴えるだけでは現状をブレイクスルーする原動力になりえません。こうした酪農家の現状を消費者が正しく理解し、生産性が向上できるまでは適正価格で購入することで、牛乳や乳製品の安定的な需要供給バランスを保ち、酪農家の減少や自給率の低下を防ぐ努力も必要かもしれません。お米のように牛乳を輸入品で賄うわけにはいきませんから…。<br />一方、グローバルに見ると生乳生産量は拡大しています。しかし人口増加率にはとても追いついていませんし、世界全体でも輸出率は10%に満たない惨憺たる有様です。そもそも牛乳や乳製品は国内消費を前提としたものであり、輸出余力のある国は限られているためです。尚、最大輸出国ニュージーランドでは、生乳生産量が頭打ちになっており、今後の輸出割合が減る恐れがあります。こうした世界情勢を踏まえると、日本における酪農の重要性は今後さらに増していくものと思われます。

    ナイタイ高原牧場(車窓)
    近年の北海道の生乳生産量は横ばいですが、全国的には減少しており看過できない状況です。酪農家戸数も減少傾向にあり、国をはじめ各自治体や団体が様々な制度や補助金を提供し、新規就農支援を行っています。北海道では新規就農のための研修牧場を整備する自治体もあり、こうした努力が報われて都府県では1990年度から2014年度までに76%減少した酪農家戸数も北海道では54%の減少に留まっています。しかし、少子高齢化問題や飼料高騰等により経営が逼迫し、北海道でも脱酪農が続いています。生産性向上を訴えるだけでは現状をブレイクスルーする原動力になりえません。こうした酪農家の現状を消費者が正しく理解し、生産性が向上できるまでは適正価格で購入することで、牛乳や乳製品の安定的な需要供給バランスを保ち、酪農家の減少や自給率の低下を防ぐ努力も必要かもしれません。お米のように牛乳を輸入品で賄うわけにはいきませんから…。
    一方、グローバルに見ると生乳生産量は拡大しています。しかし人口増加率にはとても追いついていませんし、世界全体でも輸出率は10%に満たない惨憺たる有様です。そもそも牛乳や乳製品は国内消費を前提としたものであり、輸出余力のある国は限られているためです。尚、最大輸出国ニュージーランドでは、生乳生産量が頭打ちになっており、今後の輸出割合が減る恐れがあります。こうした世界情勢を踏まえると、日本における酪農の重要性は今後さらに増していくものと思われます。

  • 帯広市(車窓)<br />十勝地方の名物、カラマツの耕地防風林です。<br />主に日高山脈から吹き下ろす風よけとして植えられており、空に向かって真っ直ぐに整然と並ぶ姿がとても印象的です。どこまでも広がる十勝平野の景観のアクセントにもなっています。<br />因みに、カラマツは燃料対策としても利用されるようです。<br />カラマツは、落葉松と書かれる通り、針葉樹にしては珍しく黄葉紅葉した後に葉を落とします。11月頃、このカラマツ林が西陽を受けてセピア色に輝く姿は圧巻だそうです。

    帯広市(車窓)
    十勝地方の名物、カラマツの耕地防風林です。
    主に日高山脈から吹き下ろす風よけとして植えられており、空に向かって真っ直ぐに整然と並ぶ姿がとても印象的です。どこまでも広がる十勝平野の景観のアクセントにもなっています。
    因みに、カラマツは燃料対策としても利用されるようです。
    カラマツは、落葉松と書かれる通り、針葉樹にしては珍しく黄葉紅葉した後に葉を落とします。11月頃、このカラマツ林が西陽を受けてセピア色に輝く姿は圧巻だそうです。

  • 帯広市(車窓)<br />秋の十勝平野の風物詩といえば、このユニークな風景の豆ニオ積みです。<br />北海道では、刈り取った小豆などを積み上げて雨除けのシートを被せた状態を「ニオ」と呼びます。「ニオ」という言葉は、古来からの日本の言葉で「山」のことをそう呼んでいたことが由来です。東北地方では稲を積み上げた「ニオ」が見られ、語源は同じですが、北海道では稲ではなく小豆・大豆などを積んでいます。<br />十勝地方は気温が低く、農薬使用量も少量で済み、小豆をはじめとする豆類の収穫量は日本一です。さらには高品質生産量を誇り、和菓子など高級スイーツの原料に使われています。<br />豆ニオは収穫後の豆を乾燥させるために積んでおくものですが、いきなり積むのではなく、まず「プレ乾燥」とも言うべき「豆立て」という作業で刈取った豆を地面に立て、ある程度乾燥させてから積むそうです。しかし、豆立作業は腰を曲げて行なうために大変な重労働です。ですから、最近では刈取機に乾燥機能を付けたコンバインが導入され、刈取と乾燥を同時にこなしてしまうため、こうした豆ニオは姿を消しつつあるそうです。

    帯広市(車窓)
    秋の十勝平野の風物詩といえば、このユニークな風景の豆ニオ積みです。
    北海道では、刈り取った小豆などを積み上げて雨除けのシートを被せた状態を「ニオ」と呼びます。「ニオ」という言葉は、古来からの日本の言葉で「山」のことをそう呼んでいたことが由来です。東北地方では稲を積み上げた「ニオ」が見られ、語源は同じですが、北海道では稲ではなく小豆・大豆などを積んでいます。
    十勝地方は気温が低く、農薬使用量も少量で済み、小豆をはじめとする豆類の収穫量は日本一です。さらには高品質生産量を誇り、和菓子など高級スイーツの原料に使われています。
    豆ニオは収穫後の豆を乾燥させるために積んでおくものですが、いきなり積むのではなく、まず「プレ乾燥」とも言うべき「豆立て」という作業で刈取った豆を地面に立て、ある程度乾燥させてから積むそうです。しかし、豆立作業は腰を曲げて行なうために大変な重労働です。ですから、最近では刈取機に乾燥機能を付けたコンバインが導入され、刈取と乾燥を同時にこなしてしまうため、こうした豆ニオは姿を消しつつあるそうです。

  • 帯広市(車窓)<br />農家の方々がこうした豆ニオ積みに拘る理由は、以下のことのようです。<br />繊細な国民性だからこそ、古くから重視されてきた緻密な作業は豆の高品質を支えていく上で欠かすことのできない技術だと言うことです。<br />①豆畑全体には生育にムラがあり、それを直接刈取って脱穀すると乾燥状態が揃わずに煮た時に煮えムラを生じます。ニオでしっかり自然乾燥させることで豆の煮えムラが少なくなります。<br />②ニオ積みして自然の風に当てた豆は、風味が格別に違うためです。<br /><br />しかし、通常農家で収穫された豆は、農協に出荷された後、収穫方法に関係なくひとつにまとめられ、大きさ等で選別されて消費者の元に届けらます。ですから、ニオ積みしてもしなくても混合されてしまうのが現状だそうです。消費者のことを思ってニオ積みしても値段は変わりませんから、自然にできるだけ省力化を図る方向に変わってきているのは頷ける話です。<br />ですから、このようにニオ積みした豆は、自家用としている農家が多いようです。

    帯広市(車窓)
    農家の方々がこうした豆ニオ積みに拘る理由は、以下のことのようです。
    繊細な国民性だからこそ、古くから重視されてきた緻密な作業は豆の高品質を支えていく上で欠かすことのできない技術だと言うことです。
    ①豆畑全体には生育にムラがあり、それを直接刈取って脱穀すると乾燥状態が揃わずに煮た時に煮えムラを生じます。ニオでしっかり自然乾燥させることで豆の煮えムラが少なくなります。
    ②ニオ積みして自然の風に当てた豆は、風味が格別に違うためです。

    しかし、通常農家で収穫された豆は、農協に出荷された後、収穫方法に関係なくひとつにまとめられ、大きさ等で選別されて消費者の元に届けらます。ですから、ニオ積みしてもしなくても混合されてしまうのが現状だそうです。消費者のことを思ってニオ積みしても値段は変わりませんから、自然にできるだけ省力化を図る方向に変わってきているのは頷ける話です。
    ですから、このようにニオ積みした豆は、自家用としている農家が多いようです。

  • 十勝川・千代田堰堤<br />十勝川の中流部で流れを堰き止める千代田堰堤は、農業用取水施設として1935(昭和10)年に完成し、その規模は北海道随一と称されています。また、サケやマスの養魚用水の取水施設としても使われ、養殖事業を担っています。2004年には、(社)土木学会から歴史的土木遺産としての高い価値が評価され、土木学会選奨土木遺産に認定されています。選奨理由は、国内有数の農業王国十勝の礎となり、十勝川治水開闢期の歴史を伝える大規模固定堰ということです。現在では北海道屈指の採卵用のサケ・マスの捕獲場としても重要な役割を果たしています。シーズン中は、1日に3〜4000匹のサケが遡上します。9月中旬〜10月下旬の産卵期には、堰堤から流れ落ちる流水の壮大さと十勝川に回帰してきた無数のマスやサケが水面をはねる光景が圧巻で、池田町の風物詩として人気を呼んでいます。運が良ければ箱網を使い、対岸にあるクレーンで持ち上げて捕獲するシーンを見ることもできます。捕獲する時間は決められておらず、箱網に入った魚量で判断して行っている模様です。

    十勝川・千代田堰堤
    十勝川の中流部で流れを堰き止める千代田堰堤は、農業用取水施設として1935(昭和10)年に完成し、その規模は北海道随一と称されています。また、サケやマスの養魚用水の取水施設としても使われ、養殖事業を担っています。2004年には、(社)土木学会から歴史的土木遺産としての高い価値が評価され、土木学会選奨土木遺産に認定されています。選奨理由は、国内有数の農業王国十勝の礎となり、十勝川治水開闢期の歴史を伝える大規模固定堰ということです。 現在では北海道屈指の採卵用のサケ・マスの捕獲場としても重要な役割を果たしています。シーズン中は、1日に3〜4000匹のサケが遡上します。9月中旬〜10月下旬の産卵期には、堰堤から流れ落ちる流水の壮大さと十勝川に回帰してきた無数のマスやサケが水面をはねる光景が圧巻で、池田町の風物詩として人気を呼んでいます。運が良ければ箱網を使い、対岸にあるクレーンで持ち上げて捕獲するシーンを見ることもできます。捕獲する時間は決められておらず、箱網に入った魚量で判断して行っている模様です。

  • 十勝川・千代田堰堤<br />どのような経緯によって十勝川水系におけるサケ・マス資源の人工増殖が行われるようになったのか振り返ってみましょう。<br />十勝川では、14000年前の縄文期から天然のサケ・マス漁がなされており、本格的なサケ・マス漁業が行われた開拓期以降には十勝・釧路地区のサケ・マス漁業に重要な増殖河川として位置付けられてきました。<br />千代田堰堤は、サケの遡上可能範囲の標高100m内に造られているのですが、高度成長期における水質汚濁の急激な進行や防災事業に伴う河道の直線化などにより、1950年代以降サケ資源増殖が窮地に陥りました。丁度この頃、渡りに船といった具合に人工孵化放流技術の飛躍的な進歩があり、高い放流効果が得られるようになってきたことから、サケ資源の維持、増殖が人工孵化放流に切り替えられました。人工増殖の確立が進むと自然再生産資源の減少や消失は顧みられなくなり、代わりに本流中下流部に位置する千代田堰堤で遡上親魚の大半を捕獲、採卵し、それによって人工孵化放流を行うことで中流域での自然再生産資源の消失分を補うという方法が採られるに至ったということです。

    十勝川・千代田堰堤
    どのような経緯によって十勝川水系におけるサケ・マス資源の人工増殖が行われるようになったのか振り返ってみましょう。
    十勝川では、14000年前の縄文期から天然のサケ・マス漁がなされており、本格的なサケ・マス漁業が行われた開拓期以降には十勝・釧路地区のサケ・マス漁業に重要な増殖河川として位置付けられてきました。
    千代田堰堤は、サケの遡上可能範囲の標高100m内に造られているのですが、高度成長期における水質汚濁の急激な進行や防災事業に伴う河道の直線化などにより、1950年代以降サケ資源増殖が窮地に陥りました。丁度この頃、渡りに船といった具合に人工孵化放流技術の飛躍的な進歩があり、高い放流効果が得られるようになってきたことから、サケ資源の維持、増殖が人工孵化放流に切り替えられました。人工増殖の確立が進むと自然再生産資源の減少や消失は顧みられなくなり、代わりに本流中下流部に位置する千代田堰堤で遡上親魚の大半を捕獲、採卵し、それによって人工孵化放流を行うことで中流域での自然再生産資源の消失分を補うという方法が採られるに至ったということです。

  • 十勝川・千代田堰堤<br />この時期には、カラフトマスの遡上が見られます。サケはもう少し寒くならないと遡上してこないようです。<br />千代田堰堤の歴史は、十勝平野の開拓の歴史でもありました。現在は広大な耕作地帯である十勝川中流にある統内地区は、かつては水はけの悪い泥炭層が広がり、その中央部には一大湿地帯を形成していました。開拓計画ではこの湿地を貫流する新水路を建設し、排水を良くして農耕地を増やすことが計画されました。河口から新水路を掘削すると通水後には河床低下の懸念が生じます。また、河床低下に伴い、灌漑水の取水に困難が生じると予想されることから、河床低下抑制のための床止め工と灌漑利水のための頭首工として千代田堰堤が建設されることになったのです。千代田堰堤は、帯広治水事務所初代所 長斎藤静脩氏によって1935(昭和10)年に竣工しました。その費用は当時の額で343000円(現価格=約7億円)に上ったそうです。<br />斎藤静脩氏は、大正〜昭和にかけて釧路川や常呂川、十勝川の治水事務所長を歴任し、釧路川や十勝川治水の父と称された人物です。この千代田堰堤は、統内新水路を生み出した斎藤氏の作品のひとつとも言える記念碑的な存在です。<br />現在、千代田堰堤は、その壮大な流水の風情や、秋にはサケの大量遡上が見られることから、近傍の池田町のワイン城などと共に十勝地方の観光名所のひとつに数えられています。荒れた湿地帯であった統内地区を豊かな農耕地へと変貌させ、日本有数の穀倉地帯十勝平野の礎となった統内新水路は、現在では地元の人でも人工河川であることを知らないそうです。今では唯一千代田堰堤だけが十勝川治水の根幹となった事業の歴史の一端を物言わずに伝えています。

    十勝川・千代田堰堤
    この時期には、カラフトマスの遡上が見られます。サケはもう少し寒くならないと遡上してこないようです。
    千代田堰堤の歴史は、十勝平野の開拓の歴史でもありました。現在は広大な耕作地帯である十勝川中流にある統内地区は、かつては水はけの悪い泥炭層が広がり、その中央部には一大湿地帯を形成していました。開拓計画ではこの湿地を貫流する新水路を建設し、排水を良くして農耕地を増やすことが計画されました。河口から新水路を掘削すると通水後には河床低下の懸念が生じます。また、河床低下に伴い、灌漑水の取水に困難が生じると予想されることから、河床低下抑制のための床止め工と灌漑利水のための頭首工として千代田堰堤が建設されることになったのです。千代田堰堤は、帯広治水事務所初代所 長斎藤静脩氏によって1935(昭和10)年に竣工しました。その費用は当時の額で343000円(現価格=約7億円)に上ったそうです。
    斎藤静脩氏は、大正〜昭和にかけて釧路川や常呂川、十勝川の治水事務所長を歴任し、釧路川や十勝川治水の父と称された人物です。この千代田堰堤は、統内新水路を生み出した斎藤氏の作品のひとつとも言える記念碑的な存在です。
    現在、千代田堰堤は、その壮大な流水の風情や、秋にはサケの大量遡上が見られることから、近傍の池田町のワイン城などと共に十勝地方の観光名所のひとつに数えられています。荒れた湿地帯であった統内地区を豊かな農耕地へと変貌させ、日本有数の穀倉地帯十勝平野の礎となった統内新水路は、現在では地元の人でも人工河川であることを知らないそうです。今では唯一千代田堰堤だけが十勝川治水の根幹となった事業の歴史の一端を物言わずに伝えています。

  • 十勝川・千代田堰堤<br />十勝川は、河口が2つに分れて流れ出ていた様子からアイヌ語で「トカプチ(乳)」と呼ばれたのが名の由来です。アイヌ語では、川に対してペッ(川)を付けて呼びますが、十勝川は大河なのでそれを付けなかったようです。<br />また、アイヌ民族は、石狩川を父川、十勝川を母川と考えていたという説もあります。因みに、十勝川は、北海道では2番目、全国では17番目の長さの川です。しかし、流域面積では6番目に跳ね上がり、水量が豊富であることが窺えます。<br /><br />国内最大の淡水魚と言われるイトウですが、記録として残る最大のものは1937年に、この千代田堰堤で捕獲された全長2.15mの個体です。しかし、その個体の記録や写真、魚拓、剥製といった類の証拠となるものが残されている訳ではないそうです。<br />イトウは北海道や択捉島、国後島、ロシア連邦サハリン島や沿海州などの河川や湖沼に生息する日本国内最大の淡水魚であり、野ねずみやヘビ、カエルなども呑み込んで食べてしまうという悪食な魚としても有名です。<br />巨大魚伝説の極め付けとしては、アイヌ民族の伝承でイトウにまつわるものが挙げられます。<br />昔、狩人が大熊を見つけて追跡したところ、熊は然別湖に飛び込んで泳ぎだしました。ところが、突然湖の途中でブクブクともがきながら沈んで姿が見えなくなってしまいました。船を漕ぎ出してそこまで行ってみると、体長40〜50mもあるイワン・オンネチェップ・カムイ(6倍の老体魚神の意)というイトウの主が大熊を呑み込んで咽頭につまらせていました。熊はイトウの口から前脚を少し覗かせて息絶えていたそうです。

    十勝川・千代田堰堤
    十勝川は、河口が2つに分れて流れ出ていた様子からアイヌ語で「トカプチ(乳)」と呼ばれたのが名の由来です。アイヌ語では、川に対してペッ(川)を付けて呼びますが、十勝川は大河なのでそれを付けなかったようです。
    また、アイヌ民族は、石狩川を父川、十勝川を母川と考えていたという説もあります。因みに、十勝川は、北海道では2番目、全国では17番目の長さの川です。しかし、流域面積では6番目に跳ね上がり、水量が豊富であることが窺えます。

    国内最大の淡水魚と言われるイトウですが、記録として残る最大のものは1937年に、この千代田堰堤で捕獲された全長2.15mの個体です。しかし、その個体の記録や写真、魚拓、剥製といった類の証拠となるものが残されている訳ではないそうです。
    イトウは北海道や択捉島、国後島、ロシア連邦サハリン島や沿海州などの河川や湖沼に生息する日本国内最大の淡水魚であり、野ねずみやヘビ、カエルなども呑み込んで食べてしまうという悪食な魚としても有名です。
    巨大魚伝説の極め付けとしては、アイヌ民族の伝承でイトウにまつわるものが挙げられます。
    昔、狩人が大熊を見つけて追跡したところ、熊は然別湖に飛び込んで泳ぎだしました。ところが、突然湖の途中でブクブクともがきながら沈んで姿が見えなくなってしまいました。船を漕ぎ出してそこまで行ってみると、体長40〜50mもあるイワン・オンネチェップ・カムイ(6倍の老体魚神の意)というイトウの主が大熊を呑み込んで咽頭につまらせていました。熊はイトウの口から前脚を少し覗かせて息絶えていたそうです。

  • 十勝川温泉郷<br />水溜りに映り込んだ夕焼け雲です。

    十勝川温泉郷
    水溜りに映り込んだ夕焼け雲です。

  • ホテル大平原<br />北海道は温泉天国でもあり、多数の有名温泉がありますが、帯広・十勝の代表は十勝川温泉です。自然豊かな緑に囲まれた十勝平野の中心に位置し、十勝川の川面を渡る風が心地よい平原に立地しています。<br />古くはアイヌ民族が「薬の湯」として語り伝え、葦の生い茂る湿地帯の沼から湧き出す低温のお湯として知られていました。明治後期には開拓者が湧き出た湯を沸かし直して利用するようになり、大正初期の本格的な採掘によって温泉が湧き出し、温泉街としての歴史がはじまりました。十勝川温泉はモール温泉と呼ばれ、その成り立ちが火山由来の温泉とは大きく異なります。北海道の湿原に多い泥炭が関わるモール温泉は、北海道遺産にも登録されているほどです。<br />ホテル大平原は、2016年に創立60周年を迎えるモール温泉の里の老舗宿的存在です。ホテルのテーマは「北の大地・十勝の四季彩美、自然のテイストを大切にしたおもてなし」だそうです。<br />夕食は自家農場「大平原ファーム」産の野菜を使用した約50種のバイキングに舌鼓を打つことができます。農場では、季節毎に20種類以上の野菜が実るそうです。土作りからこだわって栽培・収穫した低農薬野菜と十勝産・道内産の食材がたっぷり味わえるのもここのバイキングの醍醐味と言えます。

    ホテル大平原
    北海道は温泉天国でもあり、多数の有名温泉がありますが、帯広・十勝の代表は十勝川温泉です。自然豊かな緑に囲まれた十勝平野の中心に位置し、十勝川の川面を渡る風が心地よい平原に立地しています。
    古くはアイヌ民族が「薬の湯」として語り伝え、葦の生い茂る湿地帯の沼から湧き出す低温のお湯として知られていました。明治後期には開拓者が湧き出た湯を沸かし直して利用するようになり、大正初期の本格的な採掘によって温泉が湧き出し、温泉街としての歴史がはじまりました。十勝川温泉はモール温泉と呼ばれ、その成り立ちが火山由来の温泉とは大きく異なります。北海道の湿原に多い泥炭が関わるモール温泉は、北海道遺産にも登録されているほどです。
    ホテル大平原は、2016年に創立60周年を迎えるモール温泉の里の老舗宿的存在です。ホテルのテーマは「北の大地・十勝の四季彩美、自然のテイストを大切にしたおもてなし」だそうです。
    夕食は自家農場「大平原ファーム」産の野菜を使用した約50種のバイキングに舌鼓を打つことができます。農場では、季節毎に20種類以上の野菜が実るそうです。土作りからこだわって栽培・収穫した低農薬野菜と十勝産・道内産の食材がたっぷり味わえるのもここのバイキングの醍醐味と言えます。

  • ホテル大平原<br />お風呂上りにホテルの近所にあるセイコーマートで購入したアイスクリームをいただきます。夕張メロンの味が濃厚でコストパフォーマンスの高い商品と思います。是非ご賞味あれ!<br /><br />十勝川温泉は、その代名詞となる琥珀色をした世界でも希少な植物性モール温泉を源泉かけ流しで贅沢に堪能できます。モール温泉があるのは、世界広しと言えども、日本とドイツに限られています。十勝川温泉は、天然保湿成分が豊富に含まれ、健康・美容に効果がある「美人の湯」の愛称でも知られています。露天風呂には昔懐かしい五右衛門式風呂も置かれ、かつての開拓者たちが疲れを癒した「十勝開拓風呂」を体験することもできます。<br />泉質は、ナトリウム−塩化物・炭酸水素塩泉(弱アルカリ性低張性高温泉)。<br />効能は、神経痛・美肌効果・慢性消化器病など。<br />中でも温泉浴槽とエステバスの組み合わせは美と健康に効果的です。モール温泉では無機質や腐植質による「薬理作用」が働き、エステバスでは湯の「物理作用」が血液やリンパの流れ、代謝を促進させます。エステバスでの水中動作で筋肉を鍛え、ジェットの水圧で滞りを解消した後、モールの湯で肌を整えれば「湯あがり美人」が完成です。<br />「モール」とは、ドイツ語で湿原を指します。湿原の植物が堆積してできる泥炭は地中で高温高圧を受けて石炭化したものですが、モール温泉は石炭化する過程の泥炭層から湧き出したものです。そのため肌に良いとされるフミン質をはじめ、植物性有機物が多く含まれています。お湯は琥珀色をしており、しっとりした肌触りが特徴です。魅力は、肌への保湿効果が高いことが筆頭に挙げられます。エステサロンでも泥を使った美容法があり、欧州では植物由来の泥炭泥を肌に塗る美容法を「モール浴」と呼ぶそうです。<br />因みに、バスガイドさんの好みでは、北海道の温泉で2つ挙げるとすれば、十勝川温泉と登別温泉だそうです。登別温泉は、ひとつの温泉地で9種類もの泉質が楽しめる「温泉のデパート」です。どちらも女性に嬉しい温泉であることは間違いありません!

    ホテル大平原
    お風呂上りにホテルの近所にあるセイコーマートで購入したアイスクリームをいただきます。夕張メロンの味が濃厚でコストパフォーマンスの高い商品と思います。是非ご賞味あれ!

    十勝川温泉は、その代名詞となる琥珀色をした世界でも希少な植物性モール温泉を源泉かけ流しで贅沢に堪能できます。モール温泉があるのは、世界広しと言えども、日本とドイツに限られています。十勝川温泉は、天然保湿成分が豊富に含まれ、健康・美容に効果がある「美人の湯」の愛称でも知られています。露天風呂には昔懐かしい五右衛門式風呂も置かれ、かつての開拓者たちが疲れを癒した「十勝開拓風呂」を体験することもできます。
    泉質は、ナトリウム−塩化物・炭酸水素塩泉(弱アルカリ性低張性高温泉)。
    効能は、神経痛・美肌効果・慢性消化器病など。
    中でも温泉浴槽とエステバスの組み合わせは美と健康に効果的です。モール温泉では無機質や腐植質による「薬理作用」が働き、エステバスでは湯の「物理作用」が血液やリンパの流れ、代謝を促進させます。エステバスでの水中動作で筋肉を鍛え、ジェットの水圧で滞りを解消した後、モールの湯で肌を整えれば「湯あがり美人」が完成です。
    「モール」とは、ドイツ語で湿原を指します。湿原の植物が堆積してできる泥炭は地中で高温高圧を受けて石炭化したものですが、モール温泉は石炭化する過程の泥炭層から湧き出したものです。そのため肌に良いとされるフミン質をはじめ、植物性有機物が多く含まれています。お湯は琥珀色をしており、しっとりした肌触りが特徴です。魅力は、肌への保湿効果が高いことが筆頭に挙げられます。エステサロンでも泥を使った美容法があり、欧州では植物由来の泥炭泥を肌に塗る美容法を「モール浴」と呼ぶそうです。
    因みに、バスガイドさんの好みでは、北海道の温泉で2つ挙げるとすれば、十勝川温泉と登別温泉だそうです。登別温泉は、ひとつの温泉地で9種類もの泉質が楽しめる「温泉のデパート」です。どちらも女性に嬉しい温泉であることは間違いありません!

  • ホテル大平原<br />こちらもセイコーマートで調達したPB商品の北海道メロンソフトクリームです。<br /><br />十勝川温泉郷は、十勝圏を代表する温泉地であり、2000年度には50万人を超える宿泊客を誇りました。しかし、その後、宿泊客が減少し、2008年度には40万人にまで落ち込み、2009年には大手老舗旅館が自己破産するに至ってこの温泉地にも危機感が芽生えました。<br />こうした中、温泉旅館業者は、集客確保を図るために観光協会と連携してアウトドアレジャーを企画運営する「十勝ネイチャーセンター」を設立して宿泊客数の減少を食い止めようと必死になっています。<br />ホテル大平原は、1970年に法人化してから北海道観光の隆盛に伴って増築を続け、収容人数700名を超える大規模ホテルになりました。近年は、農業生産法人「大平原ファーム」を設立し地場農産物を用いた食メニューを開発する他、熱気球をはじめ農業体験などの観光メニューの充実など顧客満足度を高めることに重点をおいた取組を展開されています。<br />大平原ファームの畑作地2.5haと契約農家の畑作地40haの土地に50種類の野菜を生産し、独自の料理メニューを開発して「旬の料理」として提供するなど、北海道ならではの「地産地消の料理」をアピールしています。<br />地域も食のブランド化に着手し、モール温泉だけを飲ませた「十勝川モール温泉豚」の商品化に取り組むなど、温泉郷の新たな魅力づくりに貢献しています。<br />このように地域との運命共同体として一生懸命に「おもてなし」の本質を追及されている温泉郷の姿を知ればこそ、再訪問してみたいと思う気持ちが益々強まるのです。<br />今回お世話になった全てのホテルに言えることですが、韓国や中国からの宿泊客が多いのには吃驚です。以前の北海道旅行ではこのようなことはなかったのですが…。<br /><br />この続きは、④新千歳空港(Royce&#39; Chocolate World)<エピローグ>でお届けいたします。

    ホテル大平原
    こちらもセイコーマートで調達したPB商品の北海道メロンソフトクリームです。

    十勝川温泉郷は、十勝圏を代表する温泉地であり、2000年度には50万人を超える宿泊客を誇りました。しかし、その後、宿泊客が減少し、2008年度には40万人にまで落ち込み、2009年には大手老舗旅館が自己破産するに至ってこの温泉地にも危機感が芽生えました。
    こうした中、温泉旅館業者は、集客確保を図るために観光協会と連携してアウトドアレジャーを企画運営する「十勝ネイチャーセンター」を設立して宿泊客数の減少を食い止めようと必死になっています。
    ホテル大平原は、1970年に法人化してから北海道観光の隆盛に伴って増築を続け、収容人数700名を超える大規模ホテルになりました。近年は、農業生産法人「大平原ファーム」を設立し地場農産物を用いた食メニューを開発する他、熱気球をはじめ農業体験などの観光メニューの充実など顧客満足度を高めることに重点をおいた取組を展開されています。
    大平原ファームの畑作地2.5haと契約農家の畑作地40haの土地に50種類の野菜を生産し、独自の料理メニューを開発して「旬の料理」として提供するなど、北海道ならではの「地産地消の料理」をアピールしています。
    地域も食のブランド化に着手し、モール温泉だけを飲ませた「十勝川モール温泉豚」の商品化に取り組むなど、温泉郷の新たな魅力づくりに貢献しています。
    このように地域との運命共同体として一生懸命に「おもてなし」の本質を追及されている温泉郷の姿を知ればこそ、再訪問してみたいと思う気持ちが益々強まるのです。
    今回お世話になった全てのホテルに言えることですが、韓国や中国からの宿泊客が多いのには吃驚です。以前の北海道旅行ではこのようなことはなかったのですが…。

    この続きは、④新千歳空港(Royce' Chocolate World)<エピローグ>でお届けいたします。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • chikuouさん 2015/10/26 23:33:14
    きれいな景色と豊富な説明をありがとうございます。
     網走に収容されていた人たちは、そういううひどい目に合っているのですね。初めて知りました。ありがとうございました。ちょうどこのころから、北海道のアイヌ人も滅ぼされたのではないでしょうか。これで初めて、朝鮮系の大和朝廷の末裔が日本全土を征服したということになるのでしょうね。
     貴兄のタコ部屋のところを読みながら、福島の被爆地のごみの処理はまさしくそれに当たるのではないかと思いました。

    montsaintmichel

    montsaintmichelさん からの返信 2015/10/27 15:25:43
    RE: きれいな景色と豊富な説明をありがとうございます。
    Chikuouさま、こんにちは。
    旅行ブログにご訪問いただきありがとうございました。
    また、にわか勉強で綴った囚人道路・タコ労働について深い洞察をいただき、目から鱗が落ちる思いでした。
    福島原発の除染作業で被爆された方々の労災隠しのニュースが流れていましたが、まさに歴史は繰り返すの思いでした。第一原発の除染・解体には30年以上かかるそうですが、作業員は全く足りていないようです。英メール・オンラインは、暴力団などが違法派遣に目を付け、債務者やホームレスを強制的に送り込み、被曝するとすぐクビにしていると報じています。また、潜入した覆面記者の話では「使い捨て人間」たちには、保険や放射線計さえ提供していなかったようです。
    こうした状況をつくった諸悪の元凶は東京電力ですが、地元住民が起こした放射性物質の除染訴訟で東京電力が「一社ではできない」と開き直ったことには憤りを感じました。原発事故の後始末に背を向け、再稼働に腐心する無責任な態度に言葉を失います。また、こうした状況を知りながら各地で原発再稼動が進められているという国家・行政・企業倫理のなさにも唖然とします。
    米国大統領の顔色を窺ってばかりで、慢心した態度で国民に傾聴することのない今の政府に輝ける未来など期待できませんね!
    montsaintmichel

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