2015/08/01 - 2015/08/02
121位(同エリア446件中)
naoさん
異常な猛暑の中、8月1日から2日にかけて富山と石川を訪れました。
旅の行程
8月1日 五箇山:菅沼集落、相倉集落、上梨集落
8月2日 白山市白峰、加賀市加賀東谷
岐阜県との県境に位置する富山県南砺市の五箇山は、険しい山地によって砺波平野から遮られ、かつては陸の孤島と呼ばれた日本有数の豪雪地帯で、江戸時代には加賀藩の流刑地として使われたほどの人里離れた、山深い集落です。
冬には屋根を覆わんばかりに雪が降り積もり、人々は白銀に埋もれた生活を余儀なくされる、そんな集落を世に知らしめたのは、豪雪地帯の過酷な環境の下、養蚕を生業として生き抜くための生活の知恵から生まれた、巨大な合掌造り家屋です。
家族総出で養蚕を行っていたが故に、3階建てから5階建ての巨大な建物にならざるを得なかった合掌造り家屋の特徴は、何と云っても60度にもなる急勾配の茅葺屋根で、雪を滑り落として屋根にかかる雪の荷重を軽減する効果に加え、釘やかすがいなどの金物は一切使わず、荒縄だけで家屋全体の柱や梁を固定し、雪の荷重がかかっても家屋全体がたわむことで荷重を分散してくれる柔軟性にあります。
このため、合掌造り集落には巨大な合掌造り家屋を守り育む、「結(ゆい)」と呼ばれる伝統的な相互扶助の文化が根付いており、急勾配の茅葺屋根の葺き替えも、この「結」によって住民総出で行われます。
3世代にわたる複数世帯の大家族が一つ屋根の下で暮らす合掌造り家屋は、通常、1階部分は居住空間、2階以上は寝室もしくは養蚕の作業場として利用されており、養蚕の作業場に風が通りやすいようにと、集落内の家屋の妻側はこぞって同じ方向を向いて建てられています。
また、五箇山の人里離れた土地柄に目をつけた加賀藩は、養蚕から派生する二次産業として、鉄砲に使用する黒色火薬の原料である塩硝の生産を奨励したことから、集落内の家々では、合掌造り家屋の内部で密かに塩硝を生産し加賀藩に献上していました。
塩硝作りは、先ず蚕の糞と山で採れる様々な干し草を混ぜ合わせ、囲炉裏の下に掘った穴に埋め、囲炉裏の熱で5年程度発酵させます。
こうしてできた塩硝土を水でろ過した後、さらに煮詰めて精製した塩硝を加賀藩の火薬製造工場に運び込み、そこで黒色火薬へと加工されていきました。
最も多くの合掌造り家屋が存在した明治時代末期には、五箇山に加え、五箇山とともに合掌造り集落として名高い岐阜県の白川郷とを合わせると、1850棟もの合掌造り家屋が建ち並んでいましたが、昭和の高度経済成長期を迎えると、合掌造り家屋は次々と失われてしまいます。
350棟以上の合掌造り家屋が建っていたと云われる、9つの集落を一気に飲み込んだ昭和36年の御母衣ダムの完成や、より便利な生活環境を求めて集団離村により合掌造り家屋を廃棄する集落の発生等により、昭和42年には154棟にまで激減してしまい、現在、まとまった形で合掌造り集落の景観を見ることができるのは、五箇山の菅沼集落及び相倉集落、白川郷の荻町の3ケ所だけとなってしまいました。
集落の中央部を国道156号線が縦断する上梨集落は、まとまった形の合掌造り集落と云う視点で見ると、菅沼集落や相倉集落に比べ見劣りする感は否めませんが、天正年間(1573年〜1592年)に建てられたと伝えられている村上家住宅を中心として、合掌造り家屋が点在する光景は見るべきものがあります。
五箇山の中でも、最も優れた伝統様式の合掌造り家屋と云われる村上家住宅は、武家造りから書院造りへ移る過渡期の建築様式が残されているとともに、展示されている数千点の塩硝生産等の資料から、五箇山の民俗史を見ることもできます。
また、民謡の宝庫と呼ばれるほど多くの民謡が伝承されてきた五箇山では、今も、日本最古の「こきりこ節」や、平家落人の悲哀を唄った「麦や節」が歌い継がれていて、毎年9月には、白山宮で「こきりこ祭り」が開催され、「こきりこ踊り」が奉納されることから、「こきりこの里」としても知られています。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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上梨集落へ戻ってきました。
宿へ向かう前の時間を利用して、上梨集落を歩きます。
集落の中央部を国道156号線が縦断する上梨集落は、菅沼集落や相倉集落に比べ見劣りする感は否めませんが、村上家住宅を中心とした合掌造り家屋が点在する光景は見るべきものがあります。 -
国道156号線に沿って、五箇山の観光案内や特産品を紹介する五箇山総合案内所があります。
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五箇山総合案内所のお隣には・・・
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五箇山の合掌造り家屋の中でも、伝統様式を踏まえた優れた建物の一つである・・・
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村上家住宅があります。
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村上家住宅前の側溝には、合掌造り家屋をモチーフにした蓋が架けられています。
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天正年間(1573年〜1592年)に建てられたと伝えられている村上家住宅は・・・
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武家造りから書院造りへと移行する、過渡期の建築様式が残されていると云われています。
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なお、現在の建物は昭和45年に保全工事が行なわれたものだそうです。
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建物内には、江戸時代の五箇山の主産業である塩硝製造や和紙製造にまつわる・・・
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民俗資料数千点が展示されており・・・
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五箇山に伝わる文化や民俗史を見ることができます。
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上梨集落にも、加越能バスが運行する、高岡市内から五箇山と白川郷の合掌造り集落を結ぶ観光用路線バスのバス停がありました。
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村上家住宅のお隣にある店舗。
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店舗の前にある公衆トイレも合掌造り家屋で造られています。
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店舗のお隣には、毎年9月のこきりこ祭りで「こきりこ踊り」が奉納される白山宮があります。
民謡の宝庫と呼ばれる五箇山では、今も、日本最古の「こきりこ節」や、平家落人の悲哀を唄った「麦や節」が歌い継がれています。 -
次に、国道156号線を挟んだ向かい側に建っている合掌造り家屋です。
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これらの合掌造り家屋は、いずれも民宿を営んでおられます。
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こちらの民宿では、朝顔がお客さんを迎えています。
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一方こちらの民宿では、ひまわりをはじめ・・・
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敷地周辺を囲むように植えられた・・・
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たくさんの草花や木々でお迎えしています。
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では次に、上梨集落と庄川を挟んだ対岸にある田向集落にある羽馬家住宅へ向かいます。
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羽馬家住宅です。
この住宅は、田向集落の大半が焼失した明和6年(1769年)に、下流の大島集落にあった合掌造り家屋を移築したものであると伝えられています。 -
建物自体は、江戸時代の寛文年間(1661年〜1672年)頃に建てられた、五箇山の合掌造り家屋としては最も初期のものだと推測されています。
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後世に改修された形跡も少なく、当初の姿をよく伝えていた建物は、昭和38年(1963年)に解体修理され、現在の姿を見せています。
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羽馬家住宅から徒歩10分程度の所にあるのが、加賀藩の流刑小屋です。
江戸時代、加賀藩の流刑地として多くの流刑人が送られてきた過去を持つ五箇山ですが、田向集落もその一つで、元禄3年(1690年)に最初の藩士が流されてから、嘉永6年(1853年)までの間に約24名の人たちが流されてきたことが古文書で知られています。 -
この小屋は集落内に3棟あった内の一つだそうで、全国的にも貴重な遺構として、昭和40年に復元されたものだそうです。
いくら貴重なものとは云え、私個人的には五箇山の暗部を見たような気持ちになりました。
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