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武田信玄の足跡を求めて、甲府市にマイカー散歩に出掛けた。<br /><br />甲府駅北部にその史跡が多く、さくさく廻ることが出来た。<br /><br /><br />コース<br /><br />甲府駅−大泉寺−川尻塚−信玄火葬塚−武田神社−要害山−積翠寺−太宰新居跡−甲府城山手御門−甲州夢小路−藤村記念館−甲斐善光寺<br /><br /><br /><br /><br />

甲府 武田信玄の足跡散歩

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2015/08/22 - 2015/08/22

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kaze99

kaze99さん

武田信玄の足跡を求めて、甲府市にマイカー散歩に出掛けた。

甲府駅北部にその史跡が多く、さくさく廻ることが出来た。


コース

甲府駅−大泉寺−川尻塚−信玄火葬塚−武田神社−要害山−積翠寺−太宰新居跡−甲府城山手御門−甲州夢小路−藤村記念館−甲斐善光寺




旅行の満足度
4.0
同行者
一人旅
交通手段
自家用車

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  • 大泉寺総門。<br /><br />信玄の父、信虎が自ら開基した寺で、その墓所もある。

    大泉寺総門。

    信玄の父、信虎が自ら開基した寺で、その墓所もある。

  • 総門を入り、蝉しぐれの中、参道を進む。

    総門を入り、蝉しぐれの中、参道を進む。

  • 本堂。

    本堂。

  • 本堂左手に墓所があり、門には鍵が掛かっていた。

    本堂左手に墓所があり、門には鍵が掛かっていた。

  • 門の格子から見るお堂。<br /><br />寺には重文の肖像画、武田信虎像があるという。<br /><br />信虎は、武田家18台当主で、甲斐を統一し甲府を開設したが、息子信玄に甲斐を追放された数奇な経歴を持つ。

    門の格子から見るお堂。

    寺には重文の肖像画、武田信虎像があるという。

    信虎は、武田家18台当主で、甲斐を統一し甲府を開設したが、息子信玄に甲斐を追放された数奇な経歴を持つ。

  • 川尻塚。<br /><br />武田氏滅亡後、信長の家臣河尻秀隆が甲斐を治めていたが、本能寺の変により、一揆が起こり、この地に逆さまに埋められたという。

    川尻塚。

    武田氏滅亡後、信長の家臣河尻秀隆が甲斐を治めていたが、本能寺の変により、一揆が起こり、この地に逆さまに埋められたという。

  • 武田信玄火葬塚。<br /><br />享年53歳の信玄の遺骨が最初に収められていた場所。

    武田信玄火葬塚。

    享年53歳の信玄の遺骨が最初に収められていた場所。

  • 西上作戦で上洛中であった信玄の死は、遺言により3年間秘喪された。<br /><br />後継となった勝頼により、3年後この地で火葬し、恵林寺で葬礼したという。<br /><br />この信玄の死が、その後の歴史を大きく変えた。この辺りは絶妙すぎる。

    西上作戦で上洛中であった信玄の死は、遺言により3年間秘喪された。

    後継となった勝頼により、3年後この地で火葬し、恵林寺で葬礼したという。

    この信玄の死が、その後の歴史を大きく変えた。この辺りは絶妙すぎる。

  • 武田神社。武田館主曲輪入り口<br /><br />信虎が、この地に、武田館の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を築き、武田城下町とした。<br /><br />甲府発展の基となった。<br />

    武田神社。武田館主曲輪入り口

    信虎が、この地に、武田館の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を築き、武田城下町とした。

    甲府発展の基となった。

  • 堀を渡った階段を上がった鳥居の前。<br /><br />鳥居の看板には、「風林火山」の軍旗を特別公開!とあった。

    堀を渡った階段を上がった鳥居の前。

    鳥居の看板には、「風林火山」の軍旗を特別公開!とあった。

  • 振り向くと甲府市内。<br /><br />この直線の武田道は、甲府駅まで2.2kmで一直線の道になっていた。<br /><br />この観光用の入り口周辺には、食事処が無く、お土産やが一軒あるだけで寂しかった。

    振り向くと甲府市内。

    この直線の武田道は、甲府駅まで2.2kmで一直線の道になっていた。

    この観光用の入り口周辺には、食事処が無く、お土産やが一軒あるだけで寂しかった。

  • 入って右側にある宝物殿。今回初めて入ってみる。

    入って右側にある宝物殿。今回初めて入ってみる。

  • 唯一撮影OKであった信玄像。記念撮影が出来る。<br /><br />この横には、特別公開中の3.4m長さの「風林火山」の軍旗が飾ってあった。<br /><br />長過ぎて、天井にあたるため、斜めに寝かせての展示であった。

    唯一撮影OKであった信玄像。記念撮影が出来る。

    この横には、特別公開中の3.4m長さの「風林火山」の軍旗が飾ってあった。

    長過ぎて、天井にあたるため、斜めに寝かせての展示であった。

  • 宝物殿のさらに右側が、実は大手門であった。

    宝物殿のさらに右側が、実は大手門であった。

  • 大手門を出た所の土塁。

    大手門を出た所の土塁。

  • 境内に戻る。中心には信玄公御使用井戸があった。

    境内に戻る。中心には信玄公御使用井戸があった。

  • 武田神社の拝殿

    武田神社の拝殿

  • 境内にあった能舞台。声高らかに誰か練習中。<br /><br />武田の杜「薪能」 風・林・火・山

    境内にあった能舞台。声高らかに誰か練習中。

    武田の杜「薪能」 風・林・火・山

  • 姫の水の井戸<br /><br />信玄公ご息女誕生の折、産湯に使用したことにより姫の井戸と名付けられたという。

    姫の水の井戸

    信玄公ご息女誕生の折、産湯に使用したことにより姫の井戸と名付けられたという。

  • 西曲輪<br /><br />この地は武田3代(信虎、信玄、勝頼)の居館跡だが、往時の面影は無い。

    西曲輪

    この地は武田3代(信虎、信玄、勝頼)の居館跡だが、往時の面影は無い。

  • 武田水琴窟<br /><br />実際には、水は流れておらず、音を聞くことは出来ない。<br /><br />

    武田水琴窟

    実際には、水は流れておらず、音を聞くことは出来ない。

  • 要害山と積翠寺。<br /><br />武田神社を出て、4km程一本道を北上すると、要害山に着く。<br /><br />要害山は武田館の詰城として砦や狼煙台が築かれたという。<br /><br />赤い屋根は、信玄誕生の積翠寺である。

    要害山と積翠寺。

    武田神社を出て、4km程一本道を北上すると、要害山に着く。

    要害山は武田館の詰城として砦や狼煙台が築かれたという。

    赤い屋根は、信玄誕生の積翠寺である。

  • 先に要害山の入り口に来た。<br /><br />案内MAPを見ると、要害山城に登るには徒歩1時間掛かる。

    先に要害山の入り口に来た。

    案内MAPを見ると、要害山城に登るには徒歩1時間掛かる。

  • 積翠寺に来た。<br /><br />石像が古さを物語る。参道も刈り取られた草のじゅうたんで見えない。

    積翠寺に来た。

    石像が古さを物語る。参道も刈り取られた草のじゅうたんで見えない。

  • 武田信玄公誕生之寺とある。

    武田信玄公誕生之寺とある。

  • 庭はこちらの案内板に誘われ、本堂の裏に回る。<br /><br />

    庭はこちらの案内板に誘われ、本堂の裏に回る。

  • その奥に信玄公産湯の井戸があった。<br /><br />

    その奥に信玄公産湯の井戸があった。

  • 要害山麓の積翠寺から、甲府市内を望む。<br /><br />山道を市内へ降りる。

    要害山麓の積翠寺から、甲府市内を望む。

    山道を市内へ降りる。

  • 太宰治 新居跡<br /><br />太宰と妻・美知子は昭和14年1月に杉並の井伏鱒二宅で結婚式をあげ、新居となる甲府市御崎町の借家に移り、8ヶ月という短い期間を過ごしたという。<br /><br />その後三鷹市へ転居したが、甲府と太宰の関係は知らなかった。<br /><br />新居は昭和20年の甲府空襲で焼けてしまい、今はこの石碑のみである。<br /><br /><br />

    太宰治 新居跡

    太宰と妻・美知子は昭和14年1月に杉並の井伏鱒二宅で結婚式をあげ、新居となる甲府市御崎町の借家に移り、8ヶ月という短い期間を過ごしたという。

    その後三鷹市へ転居したが、甲府と太宰の関係は知らなかった。

    新居は昭和20年の甲府空襲で焼けてしまい、今はこの石碑のみである。


  • 甲府駅北口にある甲府城(舞鶴城公園)に来た。<br /><br />公園は南口の方が広いが、そこは以前にも来ており、今回は北口のみとした。<br /><br />甲府城に三つあった出入口の一つの山手門。その外側の高麗門。

    甲府駅北口にある甲府城(舞鶴城公園)に来た。

    公園は南口の方が広いが、そこは以前にも来ており、今回は北口のみとした。

    甲府城に三つあった出入口の一つの山手門。その外側の高麗門。

  • 山手門の内側の櫓門。<br /><br />この山手門には無料の展示室があった。

    山手門の内側の櫓門。

    この山手門には無料の展示室があった。

  • その無料展示室のさらに奥に行くと、この石壁のある展望台があった。

    その無料展示室のさらに奥に行くと、この石壁のある展望台があった。

  • その山手御門のすぐ隣に来た。<br /><br />2013年に新しい観光施設として甲州夢小路がオープンした。<br /><br />小江戸情緒が息づく、明治、大正、昭和初期の甲府城下町を再現したとあった。

    その山手御門のすぐ隣に来た。

    2013年に新しい観光施設として甲州夢小路がオープンした。

    小江戸情緒が息づく、明治、大正、昭和初期の甲府城下町を再現したとあった。

  • 広州ワイン蔵

    広州ワイン蔵

  • 古民家を移築し、石畳を配した。

    古民家を移築し、石畳を配した。

  • 明治初期まで、200年以上住民に時刻を知らせていた「時の鐘」を再現。<br /><br />甲府城も見えるが、天気によっては、富士山も見えるという。

    明治初期まで、200年以上住民に時刻を知らせていた「時の鐘」を再現。

    甲府城も見えるが、天気によっては、富士山も見えるという。

  • 藤村記念館に来た。<br /><br />山手門の資料館から、この3階の屋根の特異な形が見えて、気になり来て見た。<br /><br />何ともすばらしい洋風建築だ。

    藤村記念館に来た。

    山手門の資料館から、この3階の屋根の特異な形が見えて、気になり来て見た。

    何ともすばらしい洋風建築だ。

  • 甲府駅前広場にあり、明治時代初期に建てられた旧睦沢学校校舎を移築し交流会館に利用している。<br /><br />懐かしい木造の小さなイスと机があった。

    甲府駅前広場にあり、明治時代初期に建てられた旧睦沢学校校舎を移築し交流会館に利用している。

    懐かしい木造の小さなイスと机があった。

  • 藤村記念館の内側から見た、甲府北口の駅前広場。

    藤村記念館の内側から見た、甲府北口の駅前広場。

  • 甲斐善光寺<br /><br />この本堂は、東日本有数の木造建造物で国重文に指定されている。<br /><br />

    甲斐善光寺

    この本堂は、東日本有数の木造建造物で国重文に指定されている。

  • 武田信玄が永禄元年(1558)に川中島の合戦で長野の善光寺の焼失を怖れ、本尊以下諸仏寺宝類を移したのが始まりだという。<br /><br />信玄散歩はこれにて終了。

    武田信玄が永禄元年(1558)に川中島の合戦で長野の善光寺の焼失を怖れ、本尊以下諸仏寺宝類を移したのが始まりだという。

    信玄散歩はこれにて終了。

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