2015/06/11 - 2015/06/11
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belleduneさん
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予々、澁澤栄一邸へ行ってみたいと思っていました。現在の飛鳥山公園の南に旧澁澤庭園があり、晩香盧、青淵文庫、その他、澁澤資料館、北区飛鳥山博物館、紙の博物館などがあります。飛鳥山は、徳川吉宗の時代の庶民の行楽地で、千本以上の桜が植えられています。南北線が開通して便利になりましたね。
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西ヶ原一里塚は、基点の江戸日本橋から数えると日光御成道の2番目の一里塚に当たるということです。江戸時代、将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されました。旧道を挟んで、一対の塚が現存していますが、車道の中央にあるものには、「二本榎保存の碑」と題される大正5年の記念碑があります。東京市電の軌道延長路線上にあったため、撤去されそうになったのですが、澁澤栄一や東京市長、滝野川町長をはじめ、地元住民の運動で保存されることとなったそうです。
西ヶ原一里塚 名所・史跡
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当時の渋沢邸には、現在の本郷通りから「飛鳥山3つの博物館」に向かうスロープを上がった辺りに出入り口の門があったそうです。渋沢邸内には、本邸「曖依村荘」、茶室、山形亭がありましたが、昭和20年の空襲で焼失しました。現在残っている建物は、大正6年に竣工した晩香盧、大正14年に完成した青淵文庫のみです。
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まず、澁澤資料館へ行ってみます。自邸「曖依村荘」跡に、平成9年(1997)に竣工しました。設計は佐藤総合計画、施工は勿論清水組となっています。
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正面2階の横長のガラス窓から見た眺望が素晴らしいです。
現在、公益財団法人・渋沢栄一記念財団の附属施設として設立した登録博物館です。 -
館内は撮影禁止ですが、ここは休憩室で、目の前の緑が美しいので、思わず椅子に座って暫し景色を眺めていました。
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週日で、空いていましたので、ゆっくりと見ることが出来ました。2階の展示の中に、渋沢栄一がアメリカ訪問で贈られた金の懐中時計がありました。Waltham 社製のもので、上蓋には浮き彫り等なく、至ってシンプルなものでした。懐中時計好きな私は、学芸委員の方にお話を聞いてきました。
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目の前に今から行く晩香盧が木立の間に見えています。
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こういうガラス窓は施工が難しいでしょうね。
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渋沢資料館で、多くの展示を見た後、晩香盧へ向かいました。今日も暑くなりそうですが、緑一杯の木陰は気持ちが良いです。
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大正期の活躍した清水組の技師・田辺淳吉設計の晩香盧です。去年訪れた日本女子大学成瀬記念講堂も彼の設計ですね。当時のアーツアンドクラフツ運動の影響を受けているので、内部の井の至る所にその意匠を見ることが出来ます。
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ここは、合資会社清水組の清水満之助氏が、渋沢栄一の喜寿を祝って贈ったもので、晩香盧という名は、バンガローという音に当て嵌めて、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から取ったと言われています。菊が晩香の象徴で、「晩節を清く」という思いを込めているのだそうです。
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この玄関を入ると、右手に応接間、左手に厨房と化粧室があります。構造材に栗の木が使われています。外壁は、隅部に茶褐色のタイルを使用。
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壁は、淡いクリーム色の西京壁になっています。
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玄関横の応接間外側にある照明器具にも手の込んだアイアンワークが見られます。
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厨房の円形出窓。
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応接間の外観です。内部は撮影禁止なので、写真はありませんが、天井は勾配のある船底天井になっていました。窓下の腰羽目の萩茎を使った立簾が珍しかったです。また、暖炉の両脇にある窓には、淡貝が使ってありました。
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応接間の外観をぐるっとひと回りします。
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応接間の暖炉がある側です。玄関は両側が引き戸で通行できます。
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淡貝で作られた窓が暖炉の両側に見えています。
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渋沢栄一の銅像
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緑に囲まれた晩香盧。ここで訪れた賓客をもてなしたのでしょう。
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青淵文庫へ行きます。
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前庭から全景を見たところです。渋沢栄一氏の傘寿と子爵への昇爵を祝って、竜門社が寄贈したものです。工事中に関東大震災に遭いましたが、その経験を生かして再工事がされました。青淵という雅号は、安政4年(1858)頃、当時渋沢栄一が住んでいた深谷市の家の下に淵があり、渕上小屋と呼ばれていたことに因んで、従兄の尾高惇忠が付けたそうです。
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左が露台下から出土した部材「まぐさ」、手前に露台基礎の一部が展示してありました。これは、控室(台所北側)出入り口のまぐさで、その表面に貼ったタイルの裏面に「泰平」という刻印があり、京都の泰平居の工房で造られたもので、青淵文庫の主要構造は煉瓦造でしたが、まぐさ部分には鉄筋コンクリートが用いられていたことが分かったという。建物は、タイルを張って、建具を付け、壁の仕上げをし完成間際に関東大震災で壁が崩れ、大きな被害があったそうです。手前の露台基礎は、創建当時コンクリートを打った上に煉瓦を積んで基礎としていました。煉瓦の上に、露台の縁石として御影石を敷き並べられていました。平成14年の修理で、露台の基礎は鉄筋コンクリート造になっています。
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当初、収蔵する予定だった「論語」など多くの漢籍、書籍が保管先で焼失したため、震災後は主に接客の場として使用されていました。
外壁は、伊豆天城産の白色安山岩(月出石)を張り、列柱のある中央間口部には色付けした陶板が使用されています。 -
タイル周りの装飾
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陶板には、渋沢家の家紋である柏の葉とどんぐりの実があしらわれています。これも泰平タペストリータイルの工房で造られています。全て手作業で、2700枚のタイルが使われています。
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内部が撮影禁止のため、閲覧室を外観からみたステンドグラスです。中央にやはり家紋をモチーフにした装飾があり、柏の中央に「壽」の飾り文字があり、その周りにどんぐり、唐草、雲が施されています。左脇に登り竜と右脇に降り竜がいますが、分かるでしょうか。
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4枚のステンドグラスがありますが、中央2枚には、家紋が中央にあるもので、その隣の両脇2枚は中央の家紋がありません。
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建物前のテラス周りに「壽」のアイアンワークがあります。
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テラスから前庭を眺めたところです。ここで、パーティーをしていた写真がありました。
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内部の写真はありませんが、ホールや閲覧室の照明器具に見られる透かしの唐草模様や階段にある八角形の縦長ペンダントなど見入ってしまいました。
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現在の出入り口です。ここから入ると、ホールがあり、左手に閲覧室、奥に記念品陳列室があります。2階は、上がることが出来ませんが、書庫があります。
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テラス脇に半円形のベンチがあり、木陰になっているところに座ってみました。初夏の日差しが少し暑い日でしたが、心地よい風を受けながら、館内で見た当時の写真を思い出していました。
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山形亭跡。丸芝を挟んで、本邸、西洋館と対した築山にあった東屋で。六角堂とも呼ばれていました。六角形の土台の上に自然木を組んだ柱で、山形をした帽子のような屋根を支えていたので、この名前が付けられたそうです。奥に先程見て来た晩香盧が見えています。
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日本橋兜町の第一銀行構内にあった洋風の社を明治30年の銀行改築時にここへ移築されました。その後、取り壊されましたが、基壇部分や灯籠などが残されています。この社は、最初、三井組の為替座として新築された時、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、兜社と名付けられたそうです。その後、兜社が為替座の建物と共に第一国立銀行に引き継がれたとのことです。
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茶席「無心庵」の設計は、茶人・益田孝の弟、克徳と柏木貨一郎と言われ、明治32年に建てられました。渋沢栄一は、徳川慶喜の名誉回復を図り、慶喜と伊藤博文らをこの茶室で対面させたと言う逸話も残されています。縁先には石製の手水鉢がありましたが、空襲で焼失しました。
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無心庵の東側の崖の斜面に、月見台がありました。当時、荒川方面まで続く田圃の向こうには、国府台や筑波山も望むことができたそうです。
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飛鳥山公園内では、古墳の周溝が確認されていて、古墳群が形成されていたそうです。北区飛鳥山博物館には、遺跡から出土した土器などが展示されていました。その隣には、紙の博物館があります。3階まで色んな展示を見てきましたが、説明表記に間違いがあり、指摘されている方もいらっしゃいました。入場料を払う割には、ちょっと物足りないような中途半端印象でした。
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