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JR新宿駅南口から徒歩で約3分の地に在る天龍寺(てんりゅうじ、東京都新宿区新宿)は徳川家康の側室で二代将軍秀忠の生母である西郷の局(お愛の方、1562~1589)とその実父戸塚忠春(とつか・ただはる)の菩提寺で前身は遠江国にあった法泉寺でした。<br /><br />戸塚氏の遠祖は八幡太郎義家で義家の庶子で横地家永の後裔が勝間田氏を称しその分流が戸塚村を領して戸塚氏と名乗ったのが始まりと言われています。<br />応仁の乱の余波を受けて遠江国でも横地・勝間田一族は駿河国今川氏親と争いが生じ二度に亘る戦いを経て横地・勝間田一族は没落して一族は離散します。<br /><br />一族の戸塚氏は生き残り勢力著しい今川義元(いまがわ・よしもと)に仕官し、天文23年(1554)3月駿河領に進攻してきた小田原北条氏との戦い(刈屋川の合戦)で忠春は討死、その時今川家の武将として参戦していた松平元康(後の徳川家康)は忠春の死を知って悼んだとのことです。<br /><br />父忠春が戦死した時娘のお愛は僅か2歳で母の再婚先である服部正尚(はっとり・まさなお)に預けられお愛は成長し、やがて外祖父である西郷正勝の孫にあたる義勝(よしかつ、生誕不詳~1571)に嫁ぎますが元亀2年(1571)義勝は東三河に進入してきた武田方武将秋山信友(あきやま・のぶとも)との戦い(竹広表の戦い)で戦死、お愛は再び義父服部家に戻る事になります。<br /><br />そして家康が浜松城居城の天正6年(1578)、お愛が27歳の頃家康に召され、西郷家の養女という出自に改められ、翌天正7年(1579)4月西郷の局は遠江国浜松にて後の二代将軍秀忠を出産します。<br /><br />翌天正8年(1580)8月には四男の忠吉を産み、以降家康の寵愛のもと家康には献身的に仕えますが天正17年(1589)5月に38歳の若さで駿府城内で生涯を閉じ、その亡骸は駿府の竜泉寺(後の宝台院)に葬られました。<br />          <br />天正18年(1590)小田原北条氏の没落に伴う家康の関東移封に従った法泉寺は遠江国から現在の牛込に移されこれを機に家康は天龍寺に改名して亡き西郷の局とその父戸塚忠春を供養する菩提寺とし、併せて天龍寺寺紋に徳川家の家紋である葵の紋を与えます。<br /><br />天龍寺の沿革について同寺院HPでは下記の説明があります。(一部抜粋)<br /><br />「 略<br /><br />天龍寺の歴史は、五百七十余年前、開山春屋宗能和尚によって開かれた静岡・掛川の法泉寺に遡ります。その法泉寺七世の心翁永伝和尚の実父は、戦国の武将・戸塚五郎太夫忠春。その娘が徳川家康の側室で二代将軍秀忠の生母であるお愛の方(西郷の局、宝台院)なのです。<br /><br />戸塚忠春は天文二十三年、今川義元が武田信玄を援けて、北条氏康と戦った時、今川方として出陣し、刈屋川の一戦で討死します。家康はその死を悼み、陣中でその法名である「西月友船大禅定門」の位牌を小刀で彫りました。これは現在も天龍寺開山堂に”家康だ彫位牌」として祀られています。<br /><br />家康は江戸入城した翌年の天正十九年、法泉寺を江戸に移し、寺名も天龍川にちなんで天龍寺と改め、お愛の方とその父、忠春公を供養する菩提寺としました。<br /><br />最初の寺地は牛込納戸町の三万六千坪でしたが、天和三年の大火で類焼したので、現在地へ移転しました。寺格は十万石特遇、乘興御独礼の高い格式が与えられ、江戸城表鬼門鎮護の上野寛永寺に対し、天龍寺は裏鬼門鎮護の寺として、その威を大いにふるったといいます。また、天龍寺は”時の鐘”のお寺として、古くから江戸の人々に親しまれてきました。この鐘は、上野寛永寺、市ヶ谷八幡とともに江戸の三名鐘とうたわれています。」                           

武蔵新宿 八幡太郎義家を遠祖とする勝間田氏分流戸塚氏の出自で夫西郷義勝の戦死後家康に召され将軍秀忠を生んだお愛の方ゆかりの名刹『天龍寺』散歩

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2015/05/12 - 2015/05/12

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR新宿駅南口から徒歩で約3分の地に在る天龍寺(てんりゅうじ、東京都新宿区新宿)は徳川家康の側室で二代将軍秀忠の生母である西郷の局(お愛の方、1562~1589)とその実父戸塚忠春(とつか・ただはる)の菩提寺で前身は遠江国にあった法泉寺でした。

戸塚氏の遠祖は八幡太郎義家で義家の庶子で横地家永の後裔が勝間田氏を称しその分流が戸塚村を領して戸塚氏と名乗ったのが始まりと言われています。
応仁の乱の余波を受けて遠江国でも横地・勝間田一族は駿河国今川氏親と争いが生じ二度に亘る戦いを経て横地・勝間田一族は没落して一族は離散します。

一族の戸塚氏は生き残り勢力著しい今川義元(いまがわ・よしもと)に仕官し、天文23年(1554)3月駿河領に進攻してきた小田原北条氏との戦い(刈屋川の合戦)で忠春は討死、その時今川家の武将として参戦していた松平元康(後の徳川家康)は忠春の死を知って悼んだとのことです。

父忠春が戦死した時娘のお愛は僅か2歳で母の再婚先である服部正尚(はっとり・まさなお)に預けられお愛は成長し、やがて外祖父である西郷正勝の孫にあたる義勝(よしかつ、生誕不詳~1571)に嫁ぎますが元亀2年(1571)義勝は東三河に進入してきた武田方武将秋山信友(あきやま・のぶとも)との戦い(竹広表の戦い)で戦死、お愛は再び義父服部家に戻る事になります。

そして家康が浜松城居城の天正6年(1578)、お愛が27歳の頃家康に召され、西郷家の養女という出自に改められ、翌天正7年(1579)4月西郷の局は遠江国浜松にて後の二代将軍秀忠を出産します。

翌天正8年(1580)8月には四男の忠吉を産み、以降家康の寵愛のもと家康には献身的に仕えますが天正17年(1589)5月に38歳の若さで駿府城内で生涯を閉じ、その亡骸は駿府の竜泉寺(後の宝台院)に葬られました。
          
天正18年(1590)小田原北条氏の没落に伴う家康の関東移封に従った法泉寺は遠江国から現在の牛込に移されこれを機に家康は天龍寺に改名して亡き西郷の局とその父戸塚忠春を供養する菩提寺とし、併せて天龍寺寺紋に徳川家の家紋である葵の紋を与えます。

天龍寺の沿革について同寺院HPでは下記の説明があります。(一部抜粋)

「 略

天龍寺の歴史は、五百七十余年前、開山春屋宗能和尚によって開かれた静岡・掛川の法泉寺に遡ります。その法泉寺七世の心翁永伝和尚の実父は、戦国の武将・戸塚五郎太夫忠春。その娘が徳川家康の側室で二代将軍秀忠の生母であるお愛の方(西郷の局、宝台院)なのです。

戸塚忠春は天文二十三年、今川義元が武田信玄を援けて、北条氏康と戦った時、今川方として出陣し、刈屋川の一戦で討死します。家康はその死を悼み、陣中でその法名である「西月友船大禅定門」の位牌を小刀で彫りました。これは現在も天龍寺開山堂に”家康だ彫位牌」として祀られています。

家康は江戸入城した翌年の天正十九年、法泉寺を江戸に移し、寺名も天龍川にちなんで天龍寺と改め、お愛の方とその父、忠春公を供養する菩提寺としました。

最初の寺地は牛込納戸町の三万六千坪でしたが、天和三年の大火で類焼したので、現在地へ移転しました。寺格は十万石特遇、乘興御独礼の高い格式が与えられ、江戸城表鬼門鎮護の上野寛永寺に対し、天龍寺は裏鬼門鎮護の寺として、その威を大いにふるったといいます。また、天龍寺は”時の鐘”のお寺として、古くから江戸の人々に親しまれてきました。この鐘は、上野寛永寺、市ヶ谷八幡とともに江戸の三名鐘とうたわれています。」                           

旅行の満足度
3.5
交通手段
JRローカル
  • 天龍寺・山門<br /><br />豪奢な構えを有する山門の門扉には葵の紋章が大きく付されています。

    天龍寺・山門

    豪奢な構えを有する山門の門扉には葵の紋章が大きく付されています。

  • 天龍寺・寺標<br /><br />寺標には「護本山 天龍寺」と刻されています。

    天龍寺・寺標

    寺標には「護本山 天龍寺」と刻されています。

  • 天龍寺・山門上部

    天龍寺・山門上部

  • 天龍寺・本堂<br /><br />正式には「護本山天龍寺」で漕洞宗の寺院です。

    天龍寺・本堂

    正式には「護本山天龍寺」で漕洞宗の寺院です。

  • 天龍寺本堂・寺額<br /><br />本堂正面上部には「天龍寺」の寺額が掲示され、扉には徳川家家紋である「葵のご紋」が付されており徳川家に関わりのある寺院となっています。

    天龍寺本堂・寺額

    本堂正面上部には「天龍寺」の寺額が掲示され、扉には徳川家家紋である「葵のご紋」が付されており徳川家に関わりのある寺院となっています。

  • 天龍寺・境内<br /><br />本堂から眺める山門を中心とした風景、周囲は高層ビルに囲まれています。

    天龍寺・境内

    本堂から眺める山門を中心とした風景、周囲は高層ビルに囲まれています。

  • 天龍寺・境内

    天龍寺・境内

  • 天龍寺・鐘楼堂<br /><br />鐘は元禄3年(1700)5代将軍綱吉の側用人である牧野成貞(まきの・なりさだ、1634~1712)より寄進されたもので、内藤新宿に時刻を告げる「時の鐘」でした。<br /><br />

    天龍寺・鐘楼堂

    鐘は元禄3年(1700)5代将軍綱吉の側用人である牧野成貞(まきの・なりさだ、1634~1712)より寄進されたもので、内藤新宿に時刻を告げる「時の鐘」でした。

  • 「天龍寺の時の鐘」・「天龍寺のやぐら時計」説明板

    「天龍寺の時の鐘」・「天龍寺のやぐら時計」説明板

  • 「やぐら時計」拡大写真<br /><br />鐘を衝く時刻を知るために鐘と共に牧野成貞により寄進された時計で、高さ103Cmのやぐらに乗せられていたので「やぐら時計」と称されていました。

    「やぐら時計」拡大写真

    鐘を衝く時刻を知るために鐘と共に牧野成貞により寄進された時計で、高さ103Cmのやぐらに乗せられていたので「やぐら時計」と称されていました。

  • 天龍寺・鐘楼堂<br /><br />墓地側から鐘楼堂を眺めます。現在の鐘は元禄13年(1700)の初鋳、寛保2年(1743)の改鋳に続く三回目の明和4年(1767)の鋳造となっています。

    天龍寺・鐘楼堂

    墓地側から鐘楼堂を眺めます。現在の鐘は元禄13年(1700)の初鋳、寛保2年(1743)の改鋳に続く三回目の明和4年(1767)の鋳造となっています。

  • 天龍寺・歴代住職墓石<br /><br />中央部は開山に関わった導師の墓石が配されています。

    天龍寺・歴代住職墓石

    中央部は開山に関わった導師の墓石が配されています。

  • 天龍寺・墓地風景<br /><br />周囲は高層ビルによって囲まれています。

    天龍寺・墓地風景

    周囲は高層ビルによって囲まれています。

  • 天龍寺・石仏群

    天龍寺・石仏群

  • 天龍寺・社務所

    天龍寺・社務所

  • 天龍寺・本堂

    天龍寺・本堂

  • 天龍寺・境内<br /><br />鐘楼堂から山門方向を捉えます。

    天龍寺・境内

    鐘楼堂から山門方向を捉えます。

  • 天龍寺・境内

    天龍寺・境内

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