2015/04/26 - 2015/04/26
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元カニ族さん
前回では、渡辺崋山はお銀さまと感動の再会を果たした後、宿泊予定の厚木に向かい、先を急ぎました。その後の様子を「游相日記」に渡辺崋山は次にように書いています。
「国分を出ると眺望が一挙にひらけて、見える限りはみな水田である。海老名耕地といって、三千石もとれるそうだ。前方には大山がそびえ、景色のすばらしさは表現のしようもない。耕地に囲まれて続く街道の長さは十八丁ばかりで、川原口村に到着した。ここに有鹿神社というのがあるが、相模十三座の一つで式内社である。
相模川を渡った。この川は大体三、四丁(3~400m)もあるだろうか。清らかな水が渦巻いて流れ下っている。鮎がたくさん取れるそうだ。
厚木村に到着し、万年屋平兵衛方に宿をとった。厚木の盛況は江戸と同じようであった。家の造り方が江戸とは違うが、男や女の風俗は江戸にそっくりである。・・・・・」
私の今回のウオークは、前回のゴール海老名駅から相模川を渡り、厚木宿のあった本厚木駅周辺までをたどります。
写真は幕末の厚木宿のようすです。道路の中央にドブ川が流れています。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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この日のルートマップです。
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小田急線の①「海老名駅」です。
海老名駅 駅
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海老名駅前のビナウオークにある「海老名中央公園」です。日曜日なので多くの人で賑わっていました。
海老名中央公園 公園・植物園
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公園を抜けて②「大山街道」に出る、道路の先に大山が見えました。
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間もなく③「小田急線の跨線橋」にかかりました。
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跨線橋の上からは丹沢・大山が良く見えました。
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しばらく行くと、④「JR相模線の踏切」にさしかかりました。
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踏切付近のロードマップの拡大です。これからからわかるように耕地が正方形に区切られています。これらは水田を方形に区分して農民に貸し与えた奈良時代の「条里制」の遺構です。渡辺崋山がいう「海老名耕地」でしょう。
また直線道路②~④は「一大縄(いちおおなわ)」とよばれ、その東西の基準となったものです。 -
踏切から見た北側の耕地です。
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正方形に区切られたいます。
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河原口の三叉路です。道路の先には大山が望めます。
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やがて、直線道路が90°左に曲がる地点で、渡辺崋山も訪れた有鹿神社に向かうため、ここを右に曲がりました。
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しばらく行くと⑥「庚申塔」がありました。
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庚申塔の側面には「寛政六年」と彫られています。
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さらに進むと⑦「総持院」がありました。
総持院 寺・神社・教会
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本堂の前に珍しい「東大寺型八角燈籠」がありました。
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八角燈籠の拡大です。
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道路の突き当りに、渡辺崋山も訪れた海老名の総鎮守である⑧「有鹿神社」がありました。
有鹿神社 寺・神社・教会
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「有鹿神社」の本殿です。
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神社には珍しい鐘楼がありました。
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傍に「神鐘再建記念碑」がありました。これは「神鐘」というようです。
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ここから引き返し、庚申塔の角を曲がり進むと、⑨「海老名氏霊堂」の入口の石碑を見つけました。
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奥に進むと⑨「海老名氏霊堂」がありました。
海老名氏霊堂 名所・史跡
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お堂の中です。
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傍の説明板には「村上源氏の流れをくむ海老名氏は、平安時代末期に海老名の地に進出して来たと考えられています。霊堂のある場所に海老名氏の菩提寺「宝樹寺」があったと伝えられいる。」と書かれていました。
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その後、地図にある⑩「宗珪寺」をさがしましたが、圏央道の完成に伴い、写真の場所から移転したとのことでした。
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そこで相模川に出て、堤防を歩き⑪「相模川の渡し場」を探しました。堤防から川原に降りると、写真のように大山と厚木側の渡しが見えました。
相模川 自然・景勝地
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のあたりから⑫「厚木の渡し船」が出ていたと思われます。游相日記には「相模川を渡った。この川は大体三、四丁(3~400m)もあるだろうか。清らかな水が渦巻いて流れ下っている。鮎がたくさん取れるそうだ。・・・」と書かれているところでしょう。
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対岸に行くために、少し下流の⑬「相模大橋」を渡りました。相模大橋の上を「圏央道」が走っています。
相模大橋 寺・神社・教会
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相模大橋です。
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相模大橋に平行した「あゆみ橋」が架かっています。
あゆみ橋 名所・史跡
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橋の中央で振り返ると、下写真のように海老名市の相模川沿いに「圏央道」が走っていました。
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相模大橋を渡り⑯「厚木東町商店街」を通り、厚木の渡し場に急ぎました。厚木商店街は後で、じっくり見ることにします。
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⑭「厚木の渡船場跡」を見渡せる堤防に着きました。この日は日曜日で、広い河原にはたくさんの人々が押しかけていました。
相模川 自然・景勝地
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堤防には⑮「渡辺崋山来遊記念碑」と「厚木村渡船場跡」の説明板がありました。
厚木村渡船場跡 名所・史跡
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説明板によると、常時五艘の舟が備えられおり、冬の渇水期には土橋が設けられていたようです。
この渡船場の厚木側の利権は厚木村と溝呂木家がもっていました。
渡辺崋山の游相日記には「厚木がこれほで繁盛するわけは、相模川の船便があるからだという。」と書かれています。 -
そこから、⑯「厚木東町商店街」を歩きました。全国の商店街と同様の「シャッター街」ですが、シャッターの上に当時を偲ぶ絵が描かれていました。その絵を楽しみながら、ゆっくり歩きました。
厚木東町商店街 市場・商店街
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渡辺崋山が描いた、当時の厚木宿の絵です。
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写真は幕末の厚木宿です。道路の中央に溝があるのは、崋山の絵と同じです。
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相模大橋を渡った地点に戻り、さらに厚木街道を下って行くと左手に「厚木神社」がありました。天延年間(793〜76)に創建された古社です。
厚木神社 寺・神社・教会
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厚木神社の本殿です。
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境内に「大正十二年 大震災倒壊記念碑」がありました。これは震災の恐ろしさを後世に伝えるため、倒壊した鳥居の石で作られたものです。
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神社の裏に、相模川堤防を背にして「あゝ九月一日」と「烏山藩厚木役所跡」の二つの石碑が並んで立っていました。
「あゝ九月一日」はもちろん関東大震災の記念碑です。 -
「烏山藩厚木役所跡」の碑は、ここに烏山藩が、相模国内に点在する領地を治めるために代官所を置いた場所であることを示しています。
渡辺崋山の「游相日記」によると「(烏山候の)政治のやり方はかなりひどく、領民たちは皆、怒りや恨みの感情を持っている。近時、砂糖、米、乾鰯の仲買人十人を定めて、運上金を取ったり、また用金を命じたり、領民の利益を奪い取っている。一度に二千両という額の金を出のは厚木だけであるとうから、逆にその繁盛ぶりも知られるのだが――」とあまり良くは書かれていません。史跡 烏山藩厚木役所跡 名所・史跡
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厚木神社の先に崋山が宿泊した「万年屋」があった所があり、その石碑がありました。石碑を大通り側から見ると「渡辺崋山由縁の地」と彫られていました。
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歩道側から見ると「渡辺崋山滞留の地」と彫られていました。
渡辺崋山滞留の地碑 名所・史跡
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崋山はここに滞在中、厚木の著名人たちと交流を深めました。図は崋山の描いた歓談の様子です。
この日のウオークはここまでとして⑳「本厚木駅」から帰路に着きました。
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