2015/01/29 - 2015/01/29
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元カニ族さん
時は幕末。1860(万延元)年3月3日、季節外れの雪の日の朝、井伊家上屋敷を出て江戸城に向かう井伊直弼一行が、桜田門外で水戸・薩摩の浪士に襲われる事件がありました。「桜田門外の変」です
この日に至るまで、1858(安政5)年4月に大老職に就いた井伊直弼は、直ちに6月、勅許を得ずに日米修好通商条約に調印しました。また子供のいない十三代将軍家定の後継者に、譜代大名らの支持を得て、幼年の紀伊藩主である徳川慶福を跡継ぎと定めました。
そして水戸藩主徳川斉昭の子の一橋慶喜を推していた斉昭などの改革派に大弾圧を加えました。弾圧の対象は百人を超え、徳川斉昭・松平慶永は蟄居処分となりました。さらに尊王攘夷派の活動家・思想家も徹底的に粛清しました。「安政の大獄」です。
現在の桜田門と井伊家上屋敷跡を訪れ、事件を再現してみたいと思います。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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この日、午前8時、登城を告げる太皷が江戸城中から響き、それを合図に諸侯が行列をなし桜田門をくぐって行きました。尾張藩の行列が見物客らの目の前を過ぎた午前9時頃、図の井伊家上屋敷の赤い門が開き、直弼の行列が門を出ました。
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井伊家上屋敷から桜田門までは約400m。行列は総勢60人ばかりで内堀ぞいに進み、桜田門外に差し掛かった所で、水戸藩の脱藩浪士17名と薩摩藩士1名に襲われました。
雪で視界が悪く、彦根藩護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけていました。このため不意の襲撃に応戦できず、井伊直弼や多く供侍が命を落としました。図は行列のルートと襲撃場所です。 -
表紙の図を再掲します。拡大してご覧ください。
これまで、井伊直弼は駕籠の外から差し込まれた刀で殺されたと考えられてきました(ほとんどの映画もそうなっています)が、最近では「短銃」(ピストル)の一発で殺された、との説が有力になっています。
先日のNHKの番組では、この短銃の持ち主が話題となっていました。 -
現在の外桜田門です。
1860(万延元)年3月3日、井伊家上屋敷を出て江戸城に向かう井伊直弼一行が、水戸・薩摩の浪士に襲われる事件の舞台になった所です。 by 元カニ族さん皇居外苑 公園・植物園
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桜田門から見た当時の井伊家上屋敷の浮世絵です。
赤い表門、その下右に「櫻の井」と呼ばれた井戸(後述)が見えます。 -
井伊家上屋敷跡は、現在写真のように小高い丘でその上に塔が建っています。
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説明板に「この地の由来」として、
室町時代の末期、太田道灌がよんだ「わが庵は松ばらつづき海近くふじの高根を軒端のぞ見る」という歌の松原に一角に連なっていたこの地は、江戸時代のはじめ、加藤清正が居住し、寛永年間に井伊家居所となり、明治初頭に及んだ。開国の難衝にあたった井伊直弼もここに住んでいた。
明治以降、弾正台ついで参謀本部の所在地となった。
この地にあるに日本水準原点は、明治24年に設けられた。
昭和27年、この地は衆議院に移管され、35年 憲政の功労者尾崎行雄を記念して ここに浄財で記念館が建設された。
と書かれています。 -
「憲政記念館」の庭にある噴水池と三面星型の時計塔です。
江戸時代に井伊家の上屋敷、明治期には参謀本部、戦後衆議院に移管され憲政記念館になりました。 by 元カニ族さん衆議院憲政記念館 美術館・博物館
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井伊家上屋敷にあった灯籠の写真です。
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お堀端の通りにある「櫻の井」の現在の写真です。
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「櫻の井」の江戸時代の浮世絵です。
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説明板(彦根東高同窓会が作成)には、この井戸は井伊家表門外西側にあり、加藤清正が掘った三連式釣瓶井戸で、人々に豊富な水を提供し、重宝がられたと書かれています。現在の位置は道路工事のため元の位置から10m移動しているとのことです。
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憲政記念館から桜田門を見た写真で、上の浮世絵と同じ景色が望めます。
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