1975/01/05 - 1975/01/11
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ノスタルジアさん
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今から41年前の昭和49年7月23日から3月7日までの225日間かけて
ナホトカ航路、シベリア鉄道を往復してヨーロッパ、モロッコを船、列車、バス、ヒッチハイクで旅しました。
高所恐怖症なので飛行機には現在まで一度も乗った事がありません。
乗り物による移動距離は60,806.8キロ、地球1.52周でした。
観光白書によると昭和49年の日本人の海外旅行者数が200万人、
平成24年度は1849万人、40年ほどで10倍近くなりました。
そんな当時の旅行の資料と写真を少しづつアップして行きます。
今回のギリシャ アテネは、絶対に外す事は出来ない地である。
説明文のほとんどは、紅山雪夫著「ヨーロッパ歴史の旅」からの引用で、
これを読まずに見るのと、読みながら見るのとでは、感慨の度合いは
大いに違っていたと思っている。
- 旅行の満足度
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 船 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
旅行記の周辺地図
昭和50年1月5日
ローマ〜
1月6日
〜ブリンディジ〜
1月7日
パトラス〜アテネ
1月8日〜11日
アテネ -
昭和50年1月6日
ブリンディジ 荷物預り証
1月6日、ブリンディジに列車は定刻の午前8時に着いた。
ギリシャ パトラス行きのフェリーの出港は22時30分、
イタリアの事だからいつ列車が着くかどうか心配だったので
余裕を持って、だったが、こんな時に限ってこうなって、
時間を持て余し、観光名所もない街中をぶらついたり、
港に行ったり来たりしながら、時間を潰すのに苦労した。
旅行者としては無駄な1日だった。 -
昭和50年1月6日〜7日
イタリア ブリンディジ〜アテネ パトラス
ポセイドン号切符の表紙 -
昭和50年1月6日〜7日
イタリア ブリンディジ〜アテネ パトラス
乗船税300リラ132円 -
昭和50年1月6日
イタリア ブリンディジ〜アテネ パトラス
ポセイドン号切符
船内サロンが狭くて横になれず、睡眠不足だった。
ここでも時間を潰すのに苦労した。 -
昭和50年1月7日
ギリシャ パトラス 入国スタンプ -
昭和50年1月7日
パトラス〜アテネのバス切符
パトラスに夕方着き、ここに泊まろうかと思ったが、
効率を考えてアテネに向かった。
アテネには深夜12時頃に着き、バスターミナルの仮眠宿所で寝た。 -
昭和50年1月8日
アテネ 30ドル8,550円両替 1ドラクマ9.53円
先にアテネに向かったAさん、Iさんと落ち合う為、予定していた
ユースホステルNr4に行ったがいない、宿泊していない事も判った。
仕方がないので観光がてら街に出て二人を探す事にした。 -
昭和50年1月8日
アテネ国立考古学博物館 入場券2.50ドラクマ24円
街の中心地であるシンタグマ広場に立ち寄っても2人には会えず、
パルテノン神殿の予習と、もしかしたら二人はここにいるかもしれない、と
思って入館した。
古代ギリシャにあった多くの彫刻はローマ時代以降、装飾品として
根こそぎ略奪されたり、異教の神像として破壊されたため、
ギリシャには何も残っていなかった。
ここにあるのは有名な青銅のポセイドン像を始め、現代になってから
土中や海中から出て来たものや、墓碑が多い。
墓碑はさすがにあまり破壊、略奪されなかったらしい。
いつの間にか寝てしまい、閉館になり守衛に起こされてしまった。 -
昭和50年1月8日
宿泊したアテネのユースホステルNr4
ユースホステルに帰ると、ロビーに二人がいた。
二人が云うには、
2日前にアテネに着いたが、落ち合う予定のこのユースホステルが
満室だったのでペンションに泊まっていたが、今日、予定日だったので
ここに来た、との話しであった。
これでパルテノン神殿の写真も撮れる思ってほっとした。 -
昭和50年1月8日
宿泊したアテネのユースホステル Nr4 領収書
1階1号室ベッド2 -
昭和50年1月10日
アテネ アテナイのアクロポリス 入場券 5ドラクマ48円
アテネは思ってた以上に寒く、丘の上にあるアクロポリスに行くと、
どんよりとした曇り空で風が強く吹き抜け、今にも雨が降りそうで
写真を撮る風景ではなかった。
-
昭和50年1月10日
アテネ 買い物レシート 4.80ドラクマ46円 -
昭和50年1月11日
アテネ アテナイのアクロポリス 入場券 5ドラクマ48円
久しぶりの快晴。朝からアクロポリスの丘に登り、写真を撮りまくった。
やはり大理石の石柱は太陽の下でこそ、白さが美しく映える。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリスの丘
ミケーネ時代から暗黒時代にかけてはアテネも王政をとっており、
アクロポリスの丘は神域と王宮を兼ねていたらしい。
伝説の王家の始祖ケクロプスが築いたという城壁の一部は、
今もパルテノンの西から南に掛けて残っている。
王政廃止後アクロポリスは純然たる神域となった。
第1次ペルシャ戦役ではアテネ軍はペルシャ大軍をマラトンの野に
撃破したが、第2次ペルシャ戦役でアテネ側は陸上で戦ったのでは勝ち味が
ないと考え、全住民をサラミス島に移し、戦える者は全て軍艦に乗って
サラミス湾に集結した。
この間にペルシャ軍はアテネに入りアクロポリスを徹底的に破壊した。
アテネの守護神アテナの神殿は、最初はごく小さな木造だったらしいが、
アテネの発展につれて何度も増改築され、ペルシャ戦役の前には百尺神殿
というギリシャ有数の大神殿になっていた。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリスの丘
さてサラミス湾では、アテネの名将テミストクレスの作戦が奏功し、
狭い水域におびき寄せられたペルシャの大艦隊が行動の自由を束縛されている
所へ、操船に巧みなアテネその他のギリシャの艦隊が決死の突撃の敢行。
ペルシャの大艦隊はほとんど海の藻くずと消えた。
この後プラテーエーの陸戦でもペルシャは敗退し、
アテネは隆盛の絶頂期を迎えた。
ペルシャ軍に破壊し尽されたアクロポリスの上を整理し、パルテノンその他の
現存する壮麗な建築が造られたのはこの時期である。
それに先立ち、南側に高い石垣を築いて敷地を拡げた。
アクロポリスを南側から見ると人工の高台の様に見えるのはその為である。
アテネ没落後のアクロポリスの運命は悲しい。
ヘレニズム時代にアテネの支配権を握ったポリオレケテスという男は、
神聖なるパルテノンを自分の住居とし、事もあろうにそこに大勢の侍女を
置いてハレムとした。
ローマ時代末期にアテナ女神像やその他多くの黄金製品や彫像の類いも
戦利品としてコンスタンチノーブルに持ち去られた。
こうして空っぽになったパルテノンは、
6世紀に東ローマ皇帝ユスティニアヌスによってキリスト教の教会にされ、
その際、異教の物語だというのでメトペの浮彫はあらかた削り取られた。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリスの丘
1458年、トルコはアテネを占領すると、パルテノンを回教寺院に転用した。
もしパルテノンが19世紀のギリシャ独立の日まで、
回教寺院のままだったとしたら、恐らく創建当時にほぼ近い姿で今日まで
残ったと思われる。
というのも、それまで略奪されたのは彫像や器物だけで、建物自体の
外形はほとんど手付かずだったからである。
しかしアクロポリスが要害堅固な岩山だった事が、その運命を大きく
変えた。
トルコがウィーンを包囲攻撃するほど勢い盛んだった間は良かったのだが、
落日になって逆にヨーロッパ側から攻められるようになると、トルコは
アクロポリスを要塞に仕立て上げ、パルテノンを火薬庫として使った。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリスの丘
1687年、ヴェネチア軍がアクロポリスに立てこもるトルコ軍を包囲攻撃した時、
ムセイオンの丘に大砲を据え、砲弾を雨と注いだ。
9月26日午後7時、一弾がパルテノンに命中。閃光と大轟音と共に火薬庫が
爆発して、パルテノンの壁、屋根、28本の石柱は吹っ飛んで、アクロポリスは、
二晩と二日燃え続けた。
その後アクロポリスはトルコ軍に奪回され、またギリシャ独立戦争の時には、
一旦ギリシャ軍の手に落ちたが、トルコの逆襲にあって2年間包囲された後、
陥落するなど凄惨な戦の場となった。
英国のエルギン卿がトルコ政府に僅かの金を払ってパルテノンの彫刻や浮彫の
大部分を剥がして持ち去ったのはこのどさくさに紛れての事だった。
アテネが最終的に新生ギリシャの手に返ってから、アクロポリスにあった
後世の付加物は全て撤去された。
そうして大勢の考古学者が協力し、倒壊散乱したり、
砲台の材料に使われたりしていた古代建築の石材を根気良く、
元の位置に当てはめ、足りない個所は創建当時と同じペンテリコン産の
白大理石で作り直して、やっと現在の姿にまでこぎつけたのだった。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリス
左よりピナコテカ プロピュライア アテナ・ニケ神殿
アクロポリスへ続く岩の道を登りきるとプロピュライアの白く輝く大理石の
巨柱が迎えてくれる。
プロピュライアとは神域や広場などの入口に造られた装飾的な門である。
パルテノン神殿の完成に続いて着工され、前431年にほぼ完成したところで、
スパルタとの戦争の為、中断されてしまった。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリス
左よりピナコテカ プロピュライア アテナ・ニケ神殿
今は正面に6本のドーリア式の柱を残すだけだが、
もとは柱上にパルテノンなどと同じく三角破風を持つ屋根が載っていて、
アクロポリスの入口に堂々たる威厳をそえていた。
中央通路は階段ではなく、緩やかな傾斜路になっていて、
パンアテナ大祭の行列や、犠牲に捧げる大牛が通りやすいようにしてある。
中央通路の両側には、細長く優美なイオニア式の柱が並んでいて、
外側の太くて力強いドーリア式の柱と対照的である。
通路左側には今でもイオニア式の柱が、渦巻き型の柱頭を含めて、
ほぼ完全な姿で残っている。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリス プロピュライア
プロピュライアの北側に、古代には絵画館として使われたピナコテカが
付いている。
プロピュライアの南にあるのが勝利の女神アテナ・ニケ神殿。
前後に4本のイオニア式列柱を持ち、小さいながら珠玉の様に美しい。
ペルシャ戦役の勝利を記念し、前435年に着工、前425年に完成した。
フリーズの浮彫は東側が神々の像、西側がアテネとスパルタの連合軍が
ペルシャ陸軍に対して大勝利を収めたプラテーエーの闘い。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリス プロピュライア
神殿完成後の紀元前410年ごろ、急峻な稜堡から人が落ちるのを防ぐために
手摺が設置された。
手摺には様々なことをしているニーケーのレリーフが施されていた。
3度の修復を経て、アテーナー・ニーケー神殿はエレクテイオンや
パルテノン神殿と共に今もアクロポリスに建っている。
スタイロベートと円柱は大部分がそのままだが、屋根は抜け落ち、
ペディメントの大部分も失われている。
フリーズの断片はアクロポリス博物館に展示されており、
神殿にあるフリーズは複製である。
-
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリス エレクテイオン
エレクテイオンは、紀元前5世紀末に完成したイオニア式建築の代表作で、
かつてはアテナの女神像が安置されていた。
敷地の地盤に3メートルに及ぶ高低差があること、
多くの聖蹟と神格の祭祀所を一つの建物にまとめたことなどから、
古代には類まれな複雑な構造をしている。
紀元前421年から紀元前407年の間に完成したと考えられている。
神殿の名前はギリシア神話の英雄エリクトニオスに捧げられたものである。
アテナイの王であったエリクトニオス王の名誉のために建てられた、
と信じる者も多い。
現在残っている神殿は紀元前480年にペルシア人が侵入したペルシア戦争で
破壊された後、再建されたものであると信じられている。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリス エレクテイオン
複数の隣接している神聖な聖跡や祭祀所を同居させる関係上、
非常に複雑なデザインが施されていることで知られている。
主な構造物として4つの区画があり、最も大きな構造物は
東側のドーム状会議室であり、これはイオニア式の柱廊式玄関が
東側区画の終端まで続いている。
現代ではバルコニーと会議室を通して祭壇に設置されたアテナの女神像が
民衆を見下ろす公衆の講壇であったと考えられている[1]。
神殿全体がスロープの上にあるので、北と西の側は南と東の側より
3メートル低くなっている。
神殿はペンテリ山から切り出された純白の大理石で作られた。
同時に黒い石灰岩で戸口と窓に入念な彫刻が施され、
円柱には豪華な飾り付けが施されていた。金箔を被せた青銅、
それに様々な色合いのガラス玉が金メッキされて強調された。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリス エレクテイオン
神殿自体はアテネとポセイドンとエリクトニオスに捧げられたものである。
神殿内には神聖なヘビが棲息しており、セクロプスの精神を表して、
街の安全のためには神殿の幸福は必要不可欠であると考えられた。
ヘビの餌はハチミツのケーキで、都市国家アテネの役人によって与えられた。
都市国家アテネの巫女は英雄ボウテスの子孫とされる古い家系の
女性たちであった。
ヘビがケーキを食べることを拒否することは不吉な前兆と考えられた。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリス カリアティード
エレクティオンの北側には円柱を持つ別の大きな玄関があり、
南側には有名な「少女の玄関」がある。
6体の少女の姿の柱像(カリアティード)があり、
最も細い部分は首で、彫像でありながら玄関の屋根の重さを
支えるように設計されている。
玄関は建物の規模が縮小された後、ケクロピオンの南西の角を支えるのに必要な直径約4.5メートルのビームが設置されたが、後に起こった
ペロポネソス戦争のために予算の規模が縮小された。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリス パルテノン神殿
パルテノン神殿は、古代ギリシア時代にアテナイのアクロポリスの上に
建設された、アテナイの守護神であるギリシア神話の女神アテーナーを祀る神殿。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリス パルテノン神殿
パルテノン神殿は、ペルシャ戦役に勝ちアテネが最盛期を迎えた
紀元前447年に起工され紀元前438年に完成した。
当時のアテネの指導者はペリクレス、設計者はイクティノス、
施工責任者は彫刻家として名高いフィディアスだったろうと考えられている。
前後に各8本、両側に各17本の列柱を持つドーリア式の大神殿で、
石材はペンテリコン産の白大理石。
古今東西を通じて最も調和のとれた、最も美しい建築物とされている。
基壇の上面は灼31×70メートル。
余りにも均整がよくとれているので、かえってその大きさが感じさせない。
基壇の端にしゃがみ込んで眺めると、基壇の中央がふっくらと
盛り上がっているのが解る。
-
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリス パルテノン神殿
また高さ10メートルもある巨柱は皆、内側に少し傾けて建ててある。
これは平たんで広い面は中央が窪んで見え、また垂直に並び立つ柱は
外側に倒れて見えるという目の錯覚を考慮に入れたものと考えれている。
いずれにせよ、その全体の姿の崇高なまでの美しさには誰しも驚嘆させられる。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリス パルテノン神殿
しかもこの神殿の軒まわりは、古式に則って簡素で力強い彩色が施してあり、
また前後の三角形の破風その他は、ギリシャ美術の最盛期を代表する
見事な彫刻で飾られていたのだから、その立派さは今の数倍するものだった筈である。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリス パルテノン神殿
アクロポリスへ上がってすぐ見える西側は神殿の背面で、この柱廊内の
上方の壁に、パンアテナ大祭の行列を描いた見事な浮彫が残っている。
彫刻らしい彫刻の残っているのはここだけで、あとの大部分はトルコ時代に
英国のエルギン卿が略奪同然にして持ち去ってしまい、
今は大英博物館の特別室にある。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリス パルテノン神殿
この奥が処女の間パルテノンといって、アテナ女神に仕える処女たちが
詰めており、神殿に奉納された財宝の庫ともなっていた所。
この処女の間パルテノンがいつしか神殿の全体の呼び名となった。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリス パルテノン神殿
パルテノンと背中合わせに、東正面を向いて内陣があり、フィディアスの
不朽の傑作と言われた黄金と象牙を用いたアテナ女神像が安置されていた。
この神殿はローマ末期帝政まで厚い崇敬を受け、例えばクレオパトラとの恋で
名高いアントニウスなどは何度もパンアテナ大祭に参加しており、
ギリシャ文化の讃美者だったハドリアヌス帝なども巨費を投じて
アクロポリス全般の修復を行った。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリス パルテノン神殿
しかしキリスト教が公認されてからは、ギリシャ、ローマの神像は
異教の偶像だとして破壊されるようになり、このギリシャ最高の傑作と
言われたアテナ女神像も恐らく324年頃、コンスタンティヌス大帝の新都
コンスタンチノーブルの競馬場の飾り物として運び去られ、
行方知れずになったらしい。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリス オデオン
音楽堂オデオンは、アテネがローマ帝国の支配下にあった2世紀後半、
アテネの富豪ヘロデス・アティカスが亡妻の追悼の為に建て、市に寄付した。
舞台は長方形で、三層の石造建築を背景とする典型的なローマ式劇場で
岩山の斜面を利用して約6千の席がすり鉢形に並ぶ。
トルコ時代に砲台として使われていたが、幸いにも損傷はそれほど
ひどくはなかった。
戦後、座席を元の石材と同じペンテリコン産の大理石で修復し、
毎年8月1日から9月15日までのアテナ音楽祭には、世界一流のメンバーによる
オペラやギリシャ古典劇の公演が行われる。 -
昭和50年1月11日
アテネ アクロポリスの丘から古代アゴラを撮る。
アゴラは公共生活を何よりも重視したアテネ市民たちが、毎日の様に
集まっては政治、軍事を議論し、商取引を行ない、学問、芸術について
語りあった場所だったから、多くの建物があったが、
後世全く地中に埋没し、その上に人家が建ち並んでいたのを、
アメリカの調査隊が巨費を投じて人家を立ち退かせ発掘した。
ここでは千年以上の期間にわたって、建てたり、壊されたりした
建物の遺跡が複雑に入り組んでいるが、集会場、アポロンや軍神アレースの
神殿、貨幣製造所、体育場、水飲み場、下水道、ローマ時代の音楽堂などが
あった。 -
昭和50年1月11日
アクロポリスの丘からアテネ市街を撮る。 -
昭和50年1月11日
アテネ オリュンペイオン ゼウス神殿とアクロポリスの丘
オリュンペイオンはゼウスを祀る神殿で典型的な二重周柱コリント式で、
幅46メートル、奥行160メートルという巨大なものである。
規模が大きいので柱は割に小さく見えるが、実は下部直径灼2メートル、
高さ17メートルもあり104本が立っていた。 -
昭和50年1月11日
アテネ オリュンペイオン ゼウス神殿とアクロポリスの丘
この建造を最初に企てたのはペイシストラトスで、紀元前530年である。
アリストテレスの解説によれば、彼が企てた理由は民衆の注意を大建築に
惹きつけ政治的不満をそらせようとしたのだという。
しかし彼の息子の代になってから追放されてしまい、
神殿は基壇も完成しないうちに中止となった。 -
昭和50年1月11日
アテネ オリュンペイオン ゼウス神殿とアクロポリスの丘
紀元前174年、シリアのセレウコス王家のエピファネスが乗り出して来て、
310年振りに工事を再開し、彼は時代遅れになったドーリア式の原案を捨て、
新たにローマの建築家コスティウスの設計によるコリント式を採用した。
しかしこの大建築はシリア王には荷が重過ぎ、軒石が載ったところで
放棄されてしまった。
ついで天下はローマのものとなって、ローマの閥族党のトップである
スラはこの神殿の柱を何本か失敬して、ローマでの神殿建築に使い、
ローマ市民にいい所を見せようとした。 -
昭和50年1月11日
アテネ オリュンペイオン ゼウス神殿とアクロポリスの丘
最後にこの神殿を完成したのは、政治家、軍人としてもすぐれ、
美術を愛し、稀代の建築狂でもあったローマのハドリアヌス帝で、
130年の事で、企画から完成まで実に660年掛かったのだった。
ローマ没落後、神殿もまた受難の時代を迎える。
トルコの総督が回教寺院を造る石灰を製造するため、神殿の大理石の柱を
倒して焼いたりした。 -
昭和50年1月11日
アテネ オリュンペイオン ゼウス神殿
現在、立っている15本の巨柱、ただ見ているだけなら何と云う事もないが、
104本の仲間の内、あるものは異境に連れ去られ、あるものは切り刻んで
石材にされ、あるものは火あぶりにされ、運良く生き残ったものも
嵐に倒されたりして、やっと15本だけが2千年の苦難に耐え抜いて
いまだに立っている。
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