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ノスタルジアさん
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今から41年前の昭和49年7月23日から3月7日までの225日間かけて
ナホトカ航路、シベリア鉄道を往復して
ヨーロッパ、モロッコを船、列車、バス、ヒッチハイクで旅しました。
高所恐怖症なので飛行機には現在まで一度も乗った事がありません。
乗り物による移動距離は60,806.8キロ、地球1.52周でした。
観光白書によると昭和49年の日本人の海外旅行者数が200万人、
平成24年度は1849万人、40年ほどで10倍近くなりました。
そんな当時の旅行の資料と写真を少しづつアップして行きます。
今回は、イタリア ローマ バチカン市国、
ミラノでカメラを盗まれてヴェネチア、フィレンツェ、ピサでの
写真は1枚も撮れず暗い気持ちでローマに向かった。
28日、スペイン広場で長崎県から来たというMさんと知り合い、
事情を話すとカメラを貸して貰える事になった。
彼も一人旅でイタリア人に写真を撮って貰うのは、
そのまま持ち去れる心配があったので、丁度良かったと言ってくれた。
Mさんはホテルも探していたので同室で安くなった。
年が明けて1月1日には、岡山県から来たというAさん、Iさんと
知り合い、同じくカメラを貸して貰える事になり、ホテルも同室で、
暗くなりそうになっていた年末年始が明るくなった。
Aさん、Iさんは共に一級建築士で遺跡のガイドもしてくれた。
その後、Mさんとはポンペイ遺跡まで、Aさん、Iさんとは
ポンペイ遺跡、アテネ、エーゲ海ミコノス、イスタンブールまで
一緒だった。
今から思えば、皆知り合ったばかりなのによくぞ同室、カメラを
使わせてくれたと思っている。
それまでは一人旅にこだわり、どちらというと出合った日本人とは、
そんなに積極的に接触しなかったが、今回は日本人に助けて貰った、
世話になったと思った。
https://www.youtube.com/watch?v=nXgnl6qMh0c
-
旅行記の周辺地図
昭和49年12月27日
フィレンツェ〜ローマ
12月28日〜30日
ローマ
12月31日
ローマ〜ポンペイ〜ローマ
昭和50年1月1日
ローマ〜バチカン市国
1月2日
ローマ
1月3日
ローマ〜ポンペイ〜ローマ
1月4日
ローマ
1月5日
ローマ〜ブリンディシ -
昭和49年12月27日から4泊したホテルHotel VALLE
テルミニ駅、フォロ・ロマーノ、コロッセウムにも近く便利で
清潔なホテルであった。
1泊2,000リラ884円だった。
今も営業していて高級ホテルになっている。
http://www.hotelvallerome.com/ -
昭和49年12月27日から4泊したホテルHotel VALLEの領収書
8,000リラ3,535円 -
昭和49年12月28日〜昭和50年1月4日
ローマ 市内バス切符 1枚50リラ22円
もっぱらローマ大学の学生食堂へ通うのに使った。
一食300リラ132円と安いので二食食べた事もあった。 -
昭和49年12月28日
ローマ トレビの泉
トレビの泉は別名「愛の泉」で、後ろ向きに肩越しにコインを投げ入れると、
その人は再びローマに来られるという伝説がある。
水源は、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス の腹心アグリッパが、
紀元前19年に築いた全長40キロの「乙女の水道」で
スペイン広場の泉の水源も同じである。 -
昭和49年12月28日
ローマ トレビの泉で
2千年前の水道が今なお健在なのには驚かされる。
ある時、ローマ軍の兵士達が渇き疲れて山間の道を歩いていると、
どこともなく乙女が現われ泉のありかを教えてくれたという伝説があり、
その情景がこの建物の上方に浮き彫りで描かれている。 -
昭和49年12月28日
ローマ カプチーニ修道院 絵葉書
1528年以来、ここに葬られた約4千人の修道僧その他の人々の
骸骨をうず高く積み上げ、壁や天井には骸骨でもって様々の図形を描き、
シャンデリアまで作ってある。 -
昭和49年12月28日
ローマ スペイン階段で
映画「ローマの休日」でオードリー・ヘプバーン扮するアン王女が
ソフトクリームを舐めながら現れる所で、会談の下にはいつも花を売っている。
階段を降り切るとスペイン広場である。
ローマを訪れた観光客は必ずスペイン階段に立ち寄ると訊いていたので
午前中に市内観光し、午後からは心地良い陽のあたるスペイン階段で過ごした。
カメラの件で世話になったMさん、Aさん、Iさんともここで知り合った。
白い袈裟をまとった頭を剃った仏教団体の白人の僧侶たちがご飯にカレー粉を
まぶした食事を座っている人達に施していた。
これも布教活動の一環らしい。
それよりも暖かい西日を浴びてぼんやりとしているのが良かった。 -
昭和49年12月28日
ローマ スペイン階段で -
スペイン階段で知り合ってカメラを使わせて貰った
帰国後、Mさんからの手紙 -
スペイン階段で知り合ってカメラを使わせて貰った
帰国後、I さんからの手紙 -
スペイン階段で知り合って、帰国後Tさんからの葉書
-
スペイン階段で知り合って、帰国後写真を送ってくれた
Fさんからの手紙1枚目 -
スペイン階段で知り合って、帰国後写真を送ってくれた
Fさんからの手紙2枚目 -
スペイン階段で知り合って、帰国後写真を送ってくれた
Fさんからの手紙3枚目 -
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ 入場券100リラ44円
-
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノは、古代ローマ時代の遺跡。観光地として有名で
紀元前6世紀頃からローマ帝国がテトラルキアを採用する293年にかけて、
国家の政治・経済の中心地であったが、ローマ帝国が東西に分裂し、
首都機能がラヴェンナに移されると異民族の略奪に曝されるようになり、
西ローマ帝国滅亡後は打ち捨てられ、土砂の下に埋もれてしまった。
フォロ・ロマーノの発掘は、19世紀から本格的に行われるようになったが、
帝政時代初期までに開発が繰り返されており、
遺構も様々な時代のものが混在しているので、発掘調査は難しい。
現在の遺跡は、大部分が帝政時代以降のものである。 -
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ
広場は三部に分かれ、北東部が元老院や民会議場に南西部が祭祀に使われた。
中央部は市(いち)だったが、ローマの発展につれて広場が手狭になった為、
他に移された。
集会は初めは露天だったろうが、紀元前179年からバシリカという長方形の
広大な建物を造って集会場とすることが始まった。 -
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ
スッラ、カエサルなどの実力者たちは、人気取りと自分の権威の誇示を兼ね
フォロの大々的な美化に取り掛かったが、何れも計画の完成を
見ないで亡くなった。
その後、「煉瓦のローマを大理石のローマに変えた」という評判を取ったのは、
カエサルの養子アウグストゥスだった。 -
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ
しかしこの頃になると従来の広場の中には、もう広大な建築を造る余地が
無くなったので、アウグストゥス以後の有力な皇帝たちは、広場東方の民家を
ごっそり立ち退かせ、それぞれ自分たちの名を付けたフォロを新しく造った。
一番北にあるのがトラヤヌス帝のフォロ、
次いでアウグストゥスのフォロなどが並ぶ。 -
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ
ローマ帝国衰亡後、壮麗を極めたフォロの建築群は、侵入して来た
ゲルマン人たちに略奪され、地震で倒れ、果てはキリスト教の寺院建築の為の
石材として持ち去られたり、ローマの名門貴族の城館に使われたりしたため、
見るも無残な姿と化してしまった。
フォロ・ロマーノのくぼ地は、古くなって取り壊された家のがれきや
塵芥の捨て場所とされ、いつしかそこに草が生い茂って中世には牛の
放牧場となっていた。
発掘保存が始められたのは18世紀末である。 -
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ バシリカ 入場券 -
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ マクセンティウスのバシリカ
マクセンティウスのバシリカは、テトラルキア時代の
ローマ帝国皇帝マクセンティウスが308年に北側部分より建設を始め、
ミルウィウス橋の戦いでマクセンティウスを破って
帝国を再統一した皇帝コンスタンティヌス1世が、312年に完成させた。
この時すでに使われなくなっていたと思われるウェスパシアヌスの
フォルム(平和の神殿)と、ウェヌスとローマ神殿の間に建てられている。 -
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ マクセンティウスのバシリカ
バシリカの建物全体のサイズは幅65m×高さ100mであり、
建物中央の身廊は幅25m×奥行き80m×高さ39mという巨大なものであった。
身廊は4本の巨大な柱で支えられた交差ヴォールトの天井となっており、
西端部のアプスには、高さ12mという巨大なコンスタンティヌス1世像が
置かれていた。
また、側廊の天井は身廊方向を向いた筒型ヴォールトとなっている。
建物の東側はアーケード、南側は4本の柱で支えられたプロスタイル式の門となっていた。 -
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ マクセンティウスのバシリカ
中央の身廊および南側の側廊は、847年の地震でほぼ倒壊したと
考えられている。
また、1349年の地震で身廊の天井は完全に倒壊したようである。
最後まで残っていた高さ20mの支柱は、教皇パウルス5世が手がけた
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の建築に流用された。
現在残っているのは北側の側廊部と、コンクリート製の筒型ヴォールトだけで
ある。
この天井は重量を軽くするため、内面に八角形の格間を設けるなど、
高度な建築技術が用いられている。 -
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ マクセンティウスのバシリカ
古代ローマでバシリカの役割は、その巨大な中央ホール部分(身廊部)を
利用しての元老院議事堂や裁判の場、あるいは会議場であった。
壁に沿ったニッチには様々なローマ神の像が置かれているのが普通であった。
キリスト教を公認したコンスタンティヌス1世や、
その後継者たちは、このバシリカの建築様式を教会堂の建築に適用した。
後に「バシリカ」とは巨大な教会堂建築の建築様式を指す言葉に変容した -
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ アントニヌス・ピウスとファウスティナ神殿
皇帝アントニヌス・ピウスが、141年に没した皇后大ファウスティナのために
捧げた神殿。
後にアントニヌス・ピウス自身もここに葬られた。
11世紀になると、神殿跡にサン・ロレンツォ・イン・ミランダ聖堂が
建設されたが、1602年に神殿の一部を再建するかたちで教会堂が
設計しなおされ、現在のような状態になっている。 -
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ クリア・ユリア
クリア・ユリアは元老院議事堂。
ガイウス・ユリウス・カエサルによって起工され、
アウグストゥスが紀元前29年に完成させたものを、
皇帝ディオクレティアヌスが再建した。
現在の建物は、さらにそれを20世紀に復元したものである。
共和制時代から帝政前期にかけて、ローマの政治的中枢として機能した、
いわば国会議事堂である。 -
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ ティトゥスの凱旋門
ティトゥスの凱旋門はイタリア ローマのフォルム・ロマヌムにある
古代ローマ時代の凱旋門。
82年、ローマ帝国第11代皇帝ドミティアヌスにより、先代皇帝で
ドミティアヌスの兄でもあるティトゥスのエルサレム攻囲戦等での
戦功を称えるため建てられた。
この凱旋門は、16世紀以降に建てられることとなる凱旋門のスタイルの
手本とされ、その中には有名なパリのエトワール凱旋門などがある。 -
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ ウェスタ神殿
ウェスタ神殿ローマのすべての竃の火を象徴する神殿。
現在の遺構は、205年にセプティミウス・セウェルスによって
建造されたもので、フォロ・ロマーノで唯一の円形神殿である。
中に祭られる火は絶えず燃やし続けられ、
これを管理する女性神官はウェスタの巫女と呼ばれた。 -
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ カストルとポルックス神殿
カストルとポルックス神殿またはディオスクーリ神殿は紀元前495年、
レギッルス湖畔の戦いの勝利への感謝を込めて建設された。
カストルとポルックスはディオスクーロイまたはジェミニ(双子)と呼ばれ、
ゼウス(ユーピテル)とレーダーの双子の息子を意味する。
その信仰はギリシャからマグナ・グラエキアを経由して南イタリアの
ギリシア文化と共にローマにもたらされた。 -
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ バシリカ・ユリア
バシリカ・ユリアは、紀元前54年にガリア戦争の勝利で得た資金を
もとにして、カエサルが建設を始めたものである。
建設用地は、紀元前170年に建てられたバシリカ・センプロニアを
取り壊した跡地を利用しており、施設は紀元前46年に供用が行われ、
最終的な建物の完成はカエサルの後継者である
アウグストゥスの時代になってからである。
この施設は完成後まもなく火災で大きく被害を受け、
紀元12年に改築・拡張されている。
また、再度の火災により被害を受けたため、
238年に第51代皇帝(東方正帝)ディオクレティアヌスにより
改築が行われたことが分かっている。
このバシリカは主に民事裁判所として使われ、
また施設内にはタベルナ(食堂)街や官公庁の事務所も居を構えていた。
特別民事裁判所ケントゥムビリ(百人法廷)の会場としても有名で、
相続問題について審理される法廷ともなっていた。
小プリニウスの書簡によれば、『新たな嫁を迎えた10日後に死去した80歳の故人が、提訴者を相続人から外したのは違法である』
との訴えを審理した例が書かれている。
また、ローマ市民の会合の場所としてもよく使われ、
そのための部屋や店などもあったが、
バシリカ・ユリアの本来目的は裁判所の法廷としての利用であった。
ポルチコ(列柱廊)の大理石床には8×8のマス目が嵌め込まれている場所があり、市民がチェスやチェッカーのようなゲームに興ずる場所をも提供していたようだ。 -
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ サトゥルヌス神殿
サトゥルヌス神殿アエラリウムとも呼ばれ、共和制から帝政時代にかけて
国家宝物庫として機能した神殿である。
ムナティウス・プランクスによって紀元前30年頃にも再建されているが、
現在の神殿は497年に再度建設されたものである -
昭和49年12月29日
ローマ フォロ・ロマーノ セプティミウス・セウェルスの凱旋門
フォルムの西端に建つ記念門。皇帝セプティミウス・セウェルスの
パルティア遠征の戦勝記念として建設され、203年に完成した。
高さ23m、幅25m。白大理石の豪華な彫刻によって装飾されている。
セプティミウス・セウェルスの凱旋門はフォロ・ロマーノの北西端にある
白い大理石製の凱旋門で、皇帝セプティミウス・セウェルスと
その息子カラカラとゲタの第6次パルティア戦争(194年/195年と197年から
199年までの遠征)での勝利を記念して紀元203年に建設された。
セプティミウス・セウェルスの死後、カラカラとゲタは共同皇帝として
即位したが、212年にカラカラがゲタを暗殺した。
このため、ゲタを記念した彫刻は建築物や記念碑からことごとく削除された。
当然ながらこの凱旋門でもゲタに関する部分は削り取られている。 -
昭和49年12月29日
ローマ コロッセオ
コロッセオは72年にベスパシアナス帝が着工し、ティトウス帝、
その弟ドミティアヌス帝と三代にわたって建造された。
ティトウス帝はその完成を待ちきれず、3階まで完成したところで
80年に盛大な開場式を行った。
長径188メートル,短径156メートルの楕円形で、高さは48メートル、
約5万人を収容出来る途方もなく大きい楕円形の闘技場であった。
しかし高さが57メートル(ビルの19階相当)もある上に、
アーチや柱の配列が見事に調和を保っているので、
それほど大きくは感じられない。
何れにしろこの敷地はネロ皇帝の宮殿の池で、地盤が軟らかかった為、
基礎工事だけで2年掛かったという。
外側には80のアーチが並び、1階はドーリア式、2階はイオニア式、
3階はコリント式の付け柱で飾られている。
1階の各アーチには座席に応じた入口を示す番号が付いていた。 -
昭和49年12月29日
ローマ コロッセオ
2,3階の各アーチは彫像で飾る予定で、ティトウス帝はその様な
図柄の記念貨幣まで発行したが、結局、彫像は四正面の大アーチの
上だけにしか造られなかった。
4階には一つ置きに方形の窓があるだけで、5階との境には240個の
突起が並び、全体の姿を引き締めている。
屋上周縁の石にも240個の穴があり、ここに木柱を立て下の突起で
受け止め、柱から柱へと綱を張り、布で日覆いをした。
綱の端は地上に並んでいた穴のある石柱に結び付け、
その操作は水夫を呼んで来てやらせた。
皇帝席には一日中直射日光が当たらないように設計されており、
また一般の観客席についても一日に20分以上日光が当たらないように
工夫がなされていた。
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昭和49年12月29日
ローマ コロッセオ
内部の闘技場は直径51メートル。
当初はここにローマ水道より引いた水で、深さ1.5メートルまで水を張り
模擬海戦も出来るようになっていたが、後に模擬海戦場は別に出来たので
剣闘士の真剣勝負や猛獣との格闘が主になり、
後には「せり」のような地下に猛獣の檻、地下から猛獣を出す装置が造られた。
また人力エレベーターも存在し、剣闘士の入場に用意されていた。
現在ではその巻き上げを行った柱の跡が残っている。
今では闘技場の床が落ちてしまって、地下の構造物が露出している。
追い詰められた猛獣が必死の思いで観客席に跳び上がって来るのを
防ぐ為、一階の前に厳重な鉄柵を作り、更にこの鉄柵の先端に
猛獣が爪を掛けて跳び上がって来ない様、くるくる回転する木の
ローラーを付けてあった。 -
昭和49年12月29日
ローマ コロッセオ
ロイヤルボックス席は南側で1階は元老院身分の有力者、
2階は騎士身分や金持ちの市民、3階以上は平民の席だった。
当時、ローマ皇帝にとってこのように金のかかる剣闘士の真剣勝負や
猛獣の見世物を催して、ローマ市民に娯楽を提供する事は地位や名声を
維持するのに必要だった。 -
昭和49年12月29日
ローマ コロッセオ
剣闘士や猛獣たちはフォロに面した凱旋門から華やかに行進しながら
入場した。
しかし剣闘士の半数近くと猛獣の全ては、やがてその反対側の死の門から
血にまみれた冷たい死骸となって運び出される運命にあった。
死の門の地下には今もその為の地下道が残っている。
コロッセウムの横には噴水が作られた。
それは「メタ・スダンス(汗をかく標識)」といわれ、
闘いを終えた剣闘士もここで体を洗ったと伝えられている
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昭和49年12月29日
ローマ コロッセオ
ここの催しものは、剣闘士の真剣勝負、剣闘士と猛獣の闘い、
猛獣と猛獣の闘い、もっとひどいのになると素手の人間を猛獣に
立ち向かわせるというような、血なまぐさいものが多かった。
闘技場の床は流れる血で滑らないよう砂が敷き詰めてあった。
剣闘士の大部分は真剣勝負の為に養成された奴隷だったが、
素手で立ち向かわせられたのは主人に叛いた奴隷や死刑が申し渡された
罪人や政治犯だった。
猛獣はうんと飢えさせられ、人を見れば牙をむいて跳びかかるように
してあった。
素手で猛獣と闘い抜いた者は罪を許されたというが、
生きて再び闘技場から出られる者は稀だった。
猛獣もまた、最後には武器を持った剣闘士と闘って一匹残らず殺された。
ティトウス帝が開場式をやった初日には実に五千匹の野獣が
ここで殺されたと、ローマの史家スエトニウスは書いている。
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昭和49年12月29日
ローマ コロッセオ
このような血の熱狂を秘めたコロッセオも中世にはフランジパーネ家の
私有物となり、内部は分割されて庶民住宅や作業場として賃貸された。
1231年と1349年に大地震があり、外壁や上層の弱くなっていた部分が
大きく崩壊した。
その後、石切り場と化し、法王その他の有力者たちが寺院や大邸宅を
建てるために、コロッセオの表面を飾っていた美しい石材をどんどん
運び去ったため、今日見られるように骸骨のような姿になってしまった。
1744年、古代文明の理解者だった法王ペネディクトゥス14世は、
この偉大な建築がこれ以上破壊されるのは痛ましい限りだと考え、
破壊禁止の勅令を出した。
コロッセオの石材の大半を奪い去ったのも法王たちだったが、
それにストップをかけて現在の姿を残してくれたのもまた法王の力に
よるものだった。 -
昭和49年12月29日
ローマ コンスタンティヌス帝凱旋門とコロッセオ
凱旋門は315年に建てられ、古代ローマの最後の、最大の凱旋門。
高さ21メートル、幅25.7メートル、奥行き約7.4メートル、
3つの門を有し、中央の門が高さ約11メートル、幅約6.5メートル、
左右の門が高さ約7メートル、幅3メートル。 -
昭和49年12月29日
ローマ ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820年3月14日 - 1878年1月9日)は、
サルデーニャ王国の最後の国王(在位:1849年 - 1861年)、
のちイタリア王国の初代国王(在位:1861年 - 1878年)。
サルデーニャ王カルロ・アルベルトとトスカーナ大公女
マリア・テレーザ・ダズブルゴ=トスカーナの長男として
サルデーニャ王に即位する。
父から引き継いだイタリア統一戦争に終止符を打ち、イタリア統一を
成し遂げたことから、王国の国父と呼ばれた。 -
昭和49年12月29日
ローマ カラカラ帝大浴場遺跡の入場券 -
昭和49年12月29日
ローマ カラカラ帝大浴場遺跡
大浴場遺跡はローマ帝国第22代皇帝カラカラがローマ市街の南端付近に
造営したローマ浴場。
216年に完成し定員1,600人で冷水浴、温水浴、蒸気浴の他、画廊、
図書館、集会場、談話室、娯楽室、体育場、競技場まで付いていた。
内部は様々な色の大理石とモザイクで覆われ噴泉や彫像が
あちこちにあり、豪華を極めたが入場料は僅かだった。 -
昭和49年12月29日
ローマ チルコ・マッシモの遺跡
チルコ・マッシモは、古代ローマ時代の戦車競技場跡である。
帝政ローマ初期の歴史家ハリカルナッソスのディオニュシオスによれば、
全長約621メートル、、幅約118メートル、収容人員は15万人である。
アヴェンティヌスの丘とパラティヌスの丘の間にあり、
北隣は皇帝の官邸(パラティヌス)の施設群が、
南東隣にはアッピア街道やラティーナ街道の起点であるカペーナ門があった。
伝承によれば王政期ローマの王でエトルリア系とされる
タルクィニウス・プリスクスによって建造されたとされる。
その後、カエサルや後のローマ皇帝によって拡大されていった。 -
昭和49年12月29日
ローマ チルコ・マッシモの遺跡
チルコ・マッシモで最も有名なイベントは、映画『ベンハー』でも
おなじみの戦車レースであった。
皇帝は向う側のパラティヌスの丘の宮殿から居ながらに見物した。
現在は単なる野原となっている。
同じ競技でもギリシャ人にとっては自由人が自らの心身を鍛える為の
スポーツだったが、ローマ人にとっては職業選手や奴隷にやらせる
見世物だった事が大きな違いであった。
https://www.youtube.com/watch?v=YtfRbE51EdA -
昭和49年12月30日
ローマ サン・カリストのカタコンベ 入場券200リラ88円
カタコンベは、2世紀から5世紀前半まで掘り続けられた古代の地下墓地で、
キリスト教徒やユダヤ教社会が使っていた単なる墓地だったが、
ローマでキリスト教が公認されるまでの迫害の時代、
殉教者や死者を記念する祭儀を行っていました。
サン・カリストのカタコンベはそのうちの一つで、
面積は15ヘクタール、地下道の長さは20キロメートル、4層からなり、
深さが20メートル以上もあるローマで一番大きな共同墓地だった。
キリスト教徒は死者の復活を信じて、イエスが埋葬されたように
地下の横穴の墓地に大切に、また簡素に葬られることを望み、
また共同体としての意識から、"死の眠り"についた時にも
皆と一緒にいたいと思っていた。
そしてやがて迫害が終わってからは、
特に教皇聖ダマソ1世(336-384)の時代に、
カタコンベは正に殉教者たちの祭られている巡礼地となり、
ローマ帝国各地からキリスト教徒が巡礼で訪れる信心の中心地となった。
サン・カリストのカタコンベだけでも、10体の殉教者、16人の教皇とおびただしい数のキリスト教の信徒が埋葬されている。 -
昭和50年1月1日
ローマ サンタンジェロ城
サンタンジェロ城は、ローマのテヴェレ川右岸にある城塞である。
2世紀のハドリアヌス帝の陵墓で後に法王の避難場所として
城に改造された。
正面にはサンタンジェロ橋があり、わずかに離れた場所にある
バチカンのサン・ピエトロ大聖堂とは秘密の通路で
繋がっているといわれている。
今は博物館で昔の武器などが展示してある。
「トスカ」第三幕でカバラドッシが銃殺されトスカが身を投げる所である。 -
昭和50年1月1日
バチカン市国 サン・ピエトロ大聖堂
サン・ピエトロ大聖堂は、バチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山。
カトリック教会の伝承によれば、サン・ピエトロ大聖堂は
もともと使徒ペトロの墓所を祀る聖堂とされ、
キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇る。
床面積2万3,000平米。
北に隣接してローマ教皇の住むバチカン宮殿、バチカン美術館などがある。 -
昭和50年1月1日
バチカン市国 サン・ピエトロ大聖堂
サン・ピエトロ大聖堂の前身は現在の半分くらいの大きさで、
聖ペトロの墓と伝えられる所へ建てられた。
中央左右に86本の石柱が並ぶバシリカ風の聖堂で、現在の大聖堂と違って
飾り気がなく、簡潔で秩序整然な風格を持っていた。
今もバチカン博物館の「ボルゴの火災」という絵に描かれて残っている。
この聖堂が崩壊の微を見せ始めたので、1506年法王ユリウス2世が
ブラマンテに命じて改革に取り掛かった。
ブラマンテはギリシャ十字を採用し、中央に大ドーム、十字形の
各辺に4つの小ドームをあげる計画だった。
彼はまず古い聖堂を全面的に取り壊す事から始め、ぶち壊し先生という
異名をとったが、8年掛かってやっと中央の柱を4本建てただけで世を去った。 -
昭和50年1月1日
バチカン市国 サン・ピエトロ大聖堂
大聖堂の本体が一応完成して、華々しい献堂式が行われたのは1628年で、
実に120年掛かっている。それでもヨーロッパの大聖堂としては割に短期間で
完成した方である。
この間には法王も工事を監督する建築家も度々変わった。
その度に設計も大きく変わり、当初のギリシャ十字からラテン十字へと
往ったり来たり4回も変わった。
建築家の中で有名なのはまずラファエルで、彼はブラマンテのギリシャ十字
をラテン十字に変えた張本人。
サンガルロなどは親子二代にわたってこの聖堂の建築にあたった。 -
昭和50年1月1日
バチカン市国 サン・ピエトロ広場
さて1546年にサンガルロ(2代目)が死ぬと、法王パウルス三世の
信頼暑かったミケランジェロが登場し、混迷に終止符を打ってブラマンテの
ギリシャ十字に戻り、しかもブラマンテのプランより一層大胆な、巨大な
ドームをあげることを決心した。
それというのもフィレンツェの花の聖母大聖堂にブルネレスキが
築き上げた大ドームの壮麗さが、彼の胸に灼きついて離れなかったからだろう。
ブルネレスキは古代ローマの建築を熱心に研究し、あの大ドームを築いて
ルネッサンス様式建築の黎明を告げたのだった。 -
昭和50年1月1日
バチカン市国 サン・ピエトロ広場
ミケランジェロは死ぬまでこの大工事に打ち込み、これこそ彼自身の
神への信仰の表われであるとして、報酬は一切受け取らなかった。
彼の死後、その後継者たちが工事を続行し、大ドームは遂に
1590年に完成した。
ドームの直径46メートル、高さ49メートル、床面からの高さ131メートル。
ドームの上へは左側廊からエレベーターで昇れる。
この聖堂では全てが巨大なままに釣り合いがとれているので、
その巨大さがあまり感じられない。
その後、法王パウルス五世がマデルナに命じて現在のような前廊を造らせた。
これは史上最大の改悪と言われた。
これによって正面は確かに立派になったが、ミケランジェロの苦心の大ドームは
遠くからでないと見えなくなってしまった。 -
昭和50年1月1日
バチカン市国 サン・ピエトロ大聖堂 クーポラ(ドーム)入場券
献堂式後も工事は続けられ、1629年にはバロック建築の権威
ベルニーニが建築主任に任命された。
彼は渦巻く柱や、華麗な曲線を持つ祭壇と天蓋を造り、
また正面に二つの塔を付け足そうとした。
祭壇と天蓋はいまだに華やかな光彩を放っているが、
塔は一つ建てたところで基礎が悪かったためか倒壊し、沙汰止みになった。 -
昭和50年1月1日
バチカン市国 サン・ピエトロ大聖堂
右側廊にミケランジェロが25歳の時に彫刻した「ピエタ」と
身廊と左側廊の間にラファエロの原画に基づいて作られた
「変容」のモザイクがある。
この聖堂の壁やドームの絵は全てモザイクで微妙に色調の変移する
無数の輝石を使ってあり、その費用だけでも莫大である。 -
昭和50年1月2日
ローマ 30ドル8,550円両替 1リラ0.44円 -
昭和50年1月5日
ローマ フォロ・ロマーノ 入場券
ローマを離れる日、歴代の皇帝たちも歩いた聖なる道(ウィア・サクラ)の
同じ黒い敷石をもう一度踏みしめたくて、またフォロ・ロマーノに行った。
古代ローマに思いを馳せると感慨もひとしおだった。 -
旅行に大いに役立ったガイドブック
紅山雪夫著「ヨーロッパ歴史の旅」
画像説明はこの本からとウィキペディアからの引用がほとんど。
ウィキペディアは紅山雪夫氏の著書からの引用も多い。 -
旅行に大いに役立ったガイドブック
紅山雪夫著「ヨーロッパ歴史の旅」
このガイドブックが無ければ遺跡も単なるがれきの山にしか
見えなかっただろう。 -
旅行に大いに役立ったガイドブック
紅山雪夫著「ヨーロッパ歴史の旅」
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