1975/01/03 - 1975/01/03
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ノスタルジアさん
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今から41年前の昭和49年7月23日から3月7日までの225日間かけて
ナホトカ航路、シベリア鉄道を往復して
ヨーロッパ、モロッコを船、列車、バス、ヒッチハイクで旅しました。
高所恐怖症なので飛行機には現在まで一度も乗った事がありません。
乗り物による移動距離は60,806.8キロ、地球1.52周でした。
観光白書によると昭和49年の日本人の海外旅行者数が200万人、
平成24年度は1849万人、40年ほどで10倍近くなりました。
そんな当時の旅行の資料と写真を少しづつアップして行きます。
今回はポンペイ遺跡。
ローマからの日帰りだったが、イタリアの鉄道事情が最悪で、
大晦日はたどり着けず、今日も往きは30分、帰りは2時間半と
大幅に遅れたが、車中で忘れられない光景に出くわしたので
少しは気が晴れた。
車内にラジカセを持ち込んだイタリア人がボリュウムいっぱいに車中に
流した曲は当時、大ヒットしていたマカロニウエスタンの映画
「荒野の用心棒」、そのテーマ音楽「さすらいの口笛」、この曲、
バックコーラスや掛け声が入るのだが、それを乗客たちが曲に乗って
身体を揺すりながら、大合唱し始めたのである。
外は真っ暗な闇、車内は列車の振動のリズムに合わせた大合唱と共に
夜汽車はローマの終着駅テルミニ駅に向かって、
遅れを挽回するかのようにスピードを上げてた。
https://www.youtube.com/watch?v=sYRhVNLV0ag
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 1.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
旅行記の周辺地図
ポンペイ遺跡は年末の12月31日に訪れるはずだった。
その日、朝、8時48分発の特急列車は、ナポリには10時58分に着く
予定だったが、遅れに遅れて着いたのは17時過ぎ。
当然、ポンペイ遺跡もナポリも見られなかった。
途中でこれは無理だと思ってローマに引き返したかったが、
特急列車の為、途中下車駅もなく、列車は停車を繰り返しながら
だらだらと走っていた。
帰りのナポリ発は19時12分で21時40分に着く予定が23時40分に着いた。
折角、Mさんから借りれたカメラなのに1枚も撮らなかった。
1日をこんなに無駄に過ごして疲労感、徒労感だけが残ったとんだ大晦日だった。
大体、始発なのに定刻に出発しないのである。
それは新聞とか貨物を載せるのに時間を取られていて、しかも定刻通りに
出発させなければならない、という気が全くないのか、のんびりとやっていて、
新聞が来るのが遅い、貨物を載せるのが遅いとか言ってお互い相手のせいに
しているのである。
乗客も諦めているせいか、当たり前なのか誰も文句は言わない。
時間通り運行されていると云われる、西ドイツ、スイスでも10〜15分遅れは
当たり前だった。
当時、西ドイツ在住の日本人から、例えば、テレビの7時のニュースさえも日本みたいに7時00分00秒に始まる事はなく、日によって6時55分、7時5分に始まったり
するらしい。放送終了時間も日によってまちまちとか、
ドイツ人にとって7時ジャストでないと駄目だとは思わないらしいと聞いた。 -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 入場券
今日も列車はナポリ行きは30分、帰りのローマ行きは2時間半遅れて着いた。
今回はMさん、Aさん、Iさんと一緒なので遅れても退屈しなかった。
-
昭和50年1月3日
現地で買ったポンペイ遺跡の地図
ポンペイはナポリの東南22kmのところにあって、
ヴェスヴィオ火山(標高1,277m)の麓、ナポリ湾とサルノ河に臨み、
前500年頃から繁栄した港町だった。
また気候や景色が良いので、近郊にはローマの有力者たちの別荘が多くあった。
それが79年のヴェスヴィオ火山の大噴火によって一挙に埋没し、
18世紀に発見されるまで全く忘れられていた。
噴火で堆積したのは軽石と火山灰だった為、2千年前まで繁栄していた街が
そっくりそのまま埋もれて、まるで昨日まで人が住んで生活していた街で
あるかのように何もかもが残った。 -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 フォロ(広場)で、遠くにヴェスヴィオ火山標高1,277m
公共広場、生活の息吹きの鼓動する街の中心広場(フォロ)は大きな矩形で
幅38m、長さが142あり、二層の柱廊をめぐらし、床は大理石で舗装されて
いた。
フォロの西脇の中央には雄弁者の演壇があり、長い柱廊には名誉ある
彫像の台座が並び、それは大噴火以前の皇帝、有名人たちを暗示させるのである。
出入り口に横木を渡して車両の進入を阻止することにより、
フォロは群衆でいっぱいになった。
-
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 フォロ バジリカ
バシリカは街の経済の中心であり、裁判所、その他公共の建物だった。
広場から5つの門に導かれた内部には3つの通廊があり、
そこには28本の円柱が建ち、その間に小さい2段様式の柱があった。
このバジリカは屋根に覆われていた。
紀元前78年と書かれた大屋根の梁が残されていた事から、その時、
既に建設されていたのである。 -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 フォロ ユピテル(ジュピター)神殿
大フォロの北側にカピトリウム、サムニウムの時代、即ち紀元前2世紀に
建築され、ユノー、ミネルバ、ユピテルの3体が祀られていた。
ここから巨大な頭部が見付かり、今はナポリ博物館に展示されている。
神殿は1つの入り口と12本のコリント式の円柱で仕上げられ、
6本は前面に聳え立ち、3本づつ両側に立っている。
内部の礼拝堂の床は大理石で飾られ、イオニア式の8本の柱は両脇面に伸び上がる様に建っている。
東側の腰土台の上に扉が1つあり、恐らく市民の財宝を預かる
部屋(銀行の貸金庫の類)があったと考えられている。 -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 フォロ ユピテル神殿
62年2月5日、ポンペイを襲った激しい地震によりポンペイや
他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。
街はすぐに以前より立派に再建されたが、その再建作業も完全には
終わらない79年8月24日の午後1時頃にヴェスヴィオ火山が大噴火し、
一昼夜に渡って火山灰が降り続けた。
翌25日(噴火から約12時間後)の噴火末期に火砕流が発生し、
ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まった。
降下火山灰はその後も続いた。軍人でもあった博物学者
ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)は、
ポンペイの市民を救助するために船で急行したが、
煙(有毒火山ガス?)に巻かれて死んだことが甥の
ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)による
当時の記述から知られている。 -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 バシリカ
当時、唯一の信頼できる記録は、小プリニウスが歴史家タキトゥスに宛てた手紙である。
これによると、大プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂の火口付近から、
松の木のような形の暗い雲が山の斜面を急速に下り、海にまで
雪崩れ込んだのを見たと記録している。
火口から海までを覆ったこの雲は、現在では火砕流として知られる。
これは火山が噴火したときに、高温ガスや灰や岩石が雪崩れのように流れる
現象である。
プリニウスは爆発時に地震を感じ、地面は非常に揺れたと述べている。
さらに灰がどんどん積もり、彼は村から逃げなければならなかったが、
海の水がみるみる引いていった後に「津波」がおきた。 -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡とヴェスヴィオ火山
ただし、当時のヨーロッパ人は津波(Tsunami) という言葉を
持っていなかったので、プリニウスの表現は違っている。
プリニウスの記述には、太陽が爆発によって覆われてよく見えなかったと続き、
大プリニウスはこの現象を調査するために船で再び陸に向かったが、
窒息して死んだ。二酸化硫黄中毒によるもの現在では考えられている。
噴火直後に当時のローマ皇帝ティトゥスはポンペイに使者を出すが
、市は壊滅したあとだった。
市民の多くが火砕流発生前にローマなどに逃げたが、これら一連の災害により、
地震の前には2万人程度いたポンペイ市民の内、何らかの理由で
街に留まった者の中から逃げ遅れた者約2千人が犠牲になった。 -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 メルクリオ通りの入り口にあるカリグラ帝の凱旋門カリグラ門
ポンペイは建造物や街区が古代ローマ当時のままの唯一の町として
知られている。
後の歴史家たちは、その歴史家の時代のローマは古代ローマを
そのまま伝えていると誤解していたが、ポンペイこそが最も純粋に
古代ローマの伝統を守り、ほぼ直角に交差する直線の大通りによって
規則的に区切られ、計画的に設計された町であった。
通りの両側には家と店がある。建造物は石でできていた。
居酒屋のメニューも残っていて、こう記されている。
「お客様へ、私どもは台所に鶏肉、魚、豚、孔雀などを用意してあります。」 -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 メルクリオ通りの入り口にあるカリグラ帝の凱旋門カリグラ門で
79年の爆発のときに発生した火砕流の速度は時速 100 km 以上であり
市民は到底逃げることはできず、一瞬のうちに全員が生き埋めになった。
後に発掘されたときには遺体部分だけが腐ってなくなり、
火山灰の中に空洞ができていた。
考古学者たちはここに石膏を流し込み、逃げまどうポンペイ市民が
死んだときの形を再現した。
顔までは再現できなかったが、恐怖の表情がはっきり分かるものもある。
母親が子供を覆い隠し、襲い来る火砕流から子供だけでも守ろうとした様子も、
飼われていた犬がもだえ苦しむ様子も生々しく再現された。
この様子は火砕流が一瞬にしてポンペイ市を埋め尽くしたことを示している。
この石膏像の制作により遺骨が損傷した為、ポンペイ市民の法医学的な調査は
長らく滞っていたが、。オプロンティス荘近くの、
商館と思われる建物の地下室から老若男女身分が
バラバラ(居場所は身分別にある程度グループを作って固まっていた)な
54体の遺骨が発見された。
彼らは火砕流からは難を逃れたが火山性ガスによる窒息で死亡し
火山灰に埋もれていた -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 アッボンダンツァ通り
町は、1世紀の古代ローマ人たちの生きた生活の様子をそのまま伝える。
焼いたままのパンや、テーブルに並べられたままの当時の食事と食器、
コイン、クリーニング屋のような職業、貿易会社の存在、壁の落書きが
当時のラテン語をそのまま伝えている。
保存状態のよいフレスコ画は、当時の文化をそのまま伝える。
当時のポンペイはとても活気のある都市だった。整備された上下水道の水道の弁は、水の量を調節する仕組みが現在とほとんど変わらず、きれいな水を
町中に送っていた。
トイレが社交の場となっていたらしく二人掛けのトイレが存在し、
トイレは奴隷とその主が共同で使用しており、トイレの壁に「見事だ」と
奴隷による落書きが残された遺構がある。
発掘された排泄物や骨の調査から、身分によって食事の内容が違う事はなく、
皆健康的な食生活を送っていたらしい。 -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 アッボンダンツァ通り 横断歩道
爆発時の町の人口は1万人弱で、ローマ人(ローマ市の住民)の別荘も多く
あり、また彼ら向けのサービスも多くあった。
大きな食物市場、製粉所、冷たいものや熱いものなどさまざまな飲料を
提供したバー、小さなレストラン、円形劇場などがあり、
噴火直前までこれらが営業していた痕跡がある。
2002年にはサルノ川河口にボートを浮かべ、ヴェネツィアのような
船上生活をしていた人がいたことが判明するなど現在も新事実が続々と
報告されている。
ポンペイの建築物が発掘により白日の下にさらされたことにより、
止まった時計が再び動き出すかのごとく、風雨による腐朽が進行するようになった。
2010年11月8日には「剣闘士の家」と呼ばれた建物が倒壊し、
翌2011年10月21日には「ポルタノラの壁」が倒壊している。
他の建築物も同様に崩壊していくものと思われる。 -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 アポロ神殿
アポロ神殿は紀元前6世紀の頃から神聖な地域として崇められていた。
ポンペイ、古代カンパーニャ地方はギリシャの影響でアポロ神の信仰が
始まった。紀元前3世紀頃建設が始まり、神殿にはイオニア方式の48本の円柱で
支えられた回廊が付いていたが、ネロ皇帝の時代から建築様式にも変化が起こり、コリント式円柱に変わって来た。
一段と高い神像安置の場所は30本の円柱に囲まれ、
前の方は6本の円柱が立ち内部にはオスケ時代の石碑が建ち、
床は大理石が格子模様に敷き詰めてあった。
神殿には様々の神が祭られアポロ像が矢を投げる姿で立ち、
向かい側にはダイアナの像が立っていた。 -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 ヴェッティの家の前のメルクリオ通り
メルクリオ通りは、当初馬車の通行は禁止されていた。
通りにはアポロ家、アドーネの家、メレアチーグロの家、カストーレ家、
ポッルチエ家が面していて、この通りの入り口にはカリグラ帝の凱旋門が建ち、
出口付近には1932年に修復がされた防御の塔で終わっていた。
この塔はレンガ造りの壁に沿って建つ他の塔と共に、
紀元前89年スッラ攻略の少し前の時期を現しています。 -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 ヴェッティの家の中庭
金持ち商人兄弟ヴェッティの家で、玄関に入るとアトリウム(大広間)があって
方形の天窓が開き、後世のノートルダム大聖堂と同じ形式の動物の口から
雨水が出て、床にある方形の雨水のたまり場に注ぐ。
雨水のたまり場の底は、この家では平大理石だが、他の家ではモザイク画で
飾られる事が多い。
次いで列柱廊をめぐらした中庭に臨んで幾つかの部屋が有り、
皆壁画で飾られている。
この壁画は当時のままで、装飾様式と云われるこの絵の様式は
ポンペイ最後の年代、62年から79年に描かれ、裕福な商人の家にふさわしい
フレスコ画である。 -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 ヴェッティの家の中庭
中庭にある雨水のたまり場、噴水、像なども当時のままで、
植物は炭化していたのを学者が研究し、もとの植物を突きとめて
栽培し2千年前の復元をしたのである。
この家は元々保存が良かったのを復元したもので、この1軒を見るだけでも
当時のポンペイ市民の生活ぶりがよく分かるのである。 -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 牧神ファウヌスの家
ファウヌスの家は1830年から31年に掛けて発掘され、
単に大きい家(約3,000?)というだけでなく特に建築学上の美しさや
華麗な装飾など、更にこの館を有名にしたモザイク画など、
古代の私邸の見事な例とされ紀元前2世紀に建てられた。
雨水のたまり場に据えられたファウヌスの小さな像にちなんでその名が付けられた。
入り口にはハーヴエと言う挨拶の言葉が書いてあり、
正面入口はトスカーナ風で、イタリア的の雰囲気の最初の部屋に入る様に
なっていて、次の広間はギリシャの影響を受けて、
屋根を支える4本の円柱が建っている。
この二つの広間に続き28本のイオニア式の円柱の回廊があり、
更に奥には美しく装飾された談話室が設けられて、
その敷居にはナイルの風景が描かれたモザイクで飾られている。
床は有名な「アレキサンダーとダリウスの戦い」のモザイク画で
装飾されていたが、現在は、ナポリ国立考古学博物館に展示されている。
更に見事な4つの食堂があって、それぞれ四季に応じた趣向が凝らしてあり、
冬用の部屋は南向き、春と夏用は北向きになっている。 -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 アッボンダンツァ通り
ポンペイの道路は全て完全舗装で、車道と歩道が分かれ、車道には
二輪馬車の轍が深く刻まれているが、街を東西に貫くアッボンダンツァ通りと
フォロの間には石が立っていて馬車は入れない、つまり歩行者天国だった。 -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 アウグスターリ通り 横断歩道と二輪馬車の轍 -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 アウグスターリ通り 横断歩道と二輪馬車の轍 -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 アウグスターリ通り 公共水飲み場で -
昭和50年1月3日
ポンペイ遺跡 小劇場オデオン
紀元前80年から76年の間、クイツィオス・ヴァルグスとМ・ポルキウスの
共同出資で建設された。
これは当時としては画期的な建築方法で、屋根のある劇場即ちオデオンで、
一般大衆向きでないパントマイムや音楽会、詩の朗読などが上演された。
しかしながら、この劇場は小規模の劇場で千人以上の観客は収容出来なかった。
観客席の石の座席は非常に保存状態も良く殆どが完全な状態である。
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