1974/10/18 - 1974/10/22
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今から41年前の昭和49年7月23日から3月7日までの225日間かけて
ナホトカ航路、シベリア鉄道を往復してヨーロッパ、モロッコを
船、列車、バス、ヒッチハイクで旅しました。
高所恐怖症なので飛行機には現在まで一度も乗った事がありません。
乗り物による移動距離は60,806.8キロ、地球1.52周でした。
観光白書によると昭和49年の日本人の海外旅行者数が200万人、
平成24年度は1849万人、40年ほどで10倍近くなりました。
そんな当時の旅行の資料と写真を少しづつアップして行きます。
今回は東西冷戦真っただ中の東西ベルリン。
両ベルリンはどうしても外せないという思いであった。
プラハで知り合った日本人Hさんのお蔭で充実した楽しい旅だったが、
心の深い奥底では簡単に表現出来ない重苦しい気持ちを抱えていた。
表現出来ない気持ちをどうしても訊かれれば、
哀愁を帯びた「さらばベルリンの灯」のメロディーである。
https://www.youtube.com/watch?v=TrwyrdMtPxg
当時の日記には
10月20日 ・・・東西ベルリンを歩いていて、何よりも心を重く
不安にしたのは、やはり分断している厚いベルリンの壁だった。・・・
その壁は永久に撤去されないだろう。と書いていたが、
ちょうど15年後の1989年11月10日にベルリンの壁は崩壊したのである。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
旅行記の周辺地図
昭和49年10月18日
ザルツブルグ〜ミュンヘン〜夜行列車
10月19日
〜夜行列車〜ハノーバー〜西ベルリン -
昭和49年10月19日
ハノーバー駅で100ドル28,501を両替
1ドイツマルク113.5円 -
昭和49年10月19日〜22日
西ドイツ国境駅ヘルムステッド〜西ベルリン ツオー駅
列車往復切符 28.80ドイツマルクで3,270円
ハノーバー駅で購入
-
昭和49年10月19日
東ドイツ入国カード
昼過ぎに着いたベルリンも雨で薄暗かった。 -
昭和49年10月19日
ベルリン地下鉄切符 13時00分乗車
さて、これからどうしようか、と思案した末、
プラハで知り合った日本へHさんを貰った名刺頼りに訪ねる事にして
地下鉄に乗った。
幸いHさんはアパートにいて、
開口一番「よく分かったなあ、日本人で案内無しで来たのは君が初めてだよ。」
と歓迎してくれて早速、昼食までご馳走になった。
そのまま話しが弾み、外出して夕食もご馳走になった。
一人住まいのHさんは俺は気楽だから、泊まって行けと言い、
結局、2晩もお世話になった。 -
昭和49年10月20日
東西ベルリン 国境検問所 チェックポイント・チャーリー
東ベルリン側からの写真撮影は禁止されていた。
チェックポイント・チャーリーは、第二次世界大戦後、
ベルリンの東西境界線上あって外国人、外交官、西側連合国軍の関係者が
徒歩または自動車で通行するための検問所だった。
ここでパスポートを見せ、書類に目的、所持金等を記入して
東ベルリン一日ビザ料金10西ドイツマルクを支払い、
更に20西ドイツマルクを強制的に東ドイツマルクに交換比率1対1で
両替させられた。
所持品の検査もあって緊張したが、持っているのはカメラ、
ガイドブックぐらいだったので、案外すんなりと入国審査は終わった。 -
昭和49年10月20日
東ベルリン ヒットラーの総統本部跡
ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、1945年4月30日、総統地下壕の一室で、
妻であるエヴァ・ブラウンと共に自殺を遂げた総統本部は
草地の小山になっていた。
-
昭和49年10月20日
東ベルリンからブランデンブルク門を撮る。
ブランデンブルク門は一種の凱旋門でフランス革命が最高潮に
達した1791年に完成した。
プロシア王国の威厳を象徴し、門上で4頭立ての戦車を駆る勝利の
女神は遠く西のかたフランスを睨んでいた。
しかし、プロシア王国は、革命で士気上がるフランス兵を率いる
ナポレオンに大敗を喫し、女神を奪われてしまったが、
ナポレオンの失脚で青銅の女神は門上に戻された。
第2次大戦後、東独は向きを東に変えてしまった。 -
昭和49年10月20日
東ベルリン ウンター・デン・リンデンで
ウンター・デン・リンデンとは「菩提樹の下」と云う意味の
ロマンチックな名の大通りである。
菩提樹は第二次対戦で根こそぎにされ、戦後植えなおされたので
まだ若木だった。 -
昭和49年10月20日
東ベルリン 半壊のマリア教会
14世紀に建てられたベルリン最古のマリア教会は、
第二次大戦の悲惨さを後世に伝えるために、半壊のまま
保存されていた。
石段や柱には市街戦の烈しさを思わせる弾痕が風化されす
はっきりと残っていた。 -
昭和49年10月20日
東ベルリン 昼食代レシート8.45ドイツマルクで959円。
強制的に両替させられた東ドイツマルクの使い道は、
東ベルリンにはあまり買う物が無かったのでほとんど食事に使った。
貧乏旅行にしては豪華な食事になってしまった。 -
昭和49年10月20日
東ベルリン ペルガモン博物館 入場券0.5ドイツマルク57円
館名の由来にもなっている「ペルガモンの大祭壇」、
「ゼウス大神殿(前部)」を始めとする
ギリシャ、ローマ、中近東のヘレニズム美術品、
イスラム美術品などを展示されていた。 -
昭和49年10月20日
西ベルリン テーゲル空港行き 地下鉄切符
飛行機に乗らない自分がなぜ空港に行ったのか記憶が無い。 -
昭和49年10月20日
ベルリン地下鉄切符 コッホシュトラーセ駅 17時30分乗車 -
昭和49年10月21日
西ベルリン地下鉄回数券 Kurf.Str駅 7時50分乗車 -
昭和49年10月21日
西ベルリンからブランデンブルク門とベルリンの壁
「ACHTUNG!Sie verlassen jetzt West-Berlin 」
「注意!西ベルリンはここまで」という有名な立て看板。
「ご注意!ここであなたは西ベルリンを出ることになりますよ、
何があっても知りませんからね!」
といった含みのある表現。 -
昭和49年10月21日
西ベルリン ベルリンの壁
ベルリンの壁は1961年8月13日未明から東独人民警察軍を
総動員し、突如として造られた。
当初の壁は主としてプレハブアパート建設用の約1m角の
セメント板を積み上げた程度のものだったから
警備兵の銃火をかいぐぐって壁を乗り越えたり、
境界線沿いの河を泳いで渡る事も不可能ではなかった。
今では壁は4mの高さになり、上端は手を掛けても滑るように
丸い管になっており、後方に広い無人地帯が造られていて、
猟犬が放たれていて兵士の監視も厳しく
夜も照明され生きて壁を越えることは絶対不可能になった。 -
昭和49年10月21日
西ベルリンからシュプレー川とベルリンの壁を撮る。
ベルリンは東西の冷戦によって無残に引き裂かれ、
痛ましい傷はざっくり開いたままと云う感じである。
ベルリンの壁を見ると戦争の愚かさ、恐ろしさ、
人間同士が憎み合う恐ろしさをひしひしと感じさせられた。
-
昭和49年10月21日
西ベルリン シュプレー川で
壁を越えようとして、あるいはシュプレー川を泳いで渡ろうとして
射殺されたり、境界沿いの建物4階から飛び降りて亡くなった人たちの
氏名、写真が入った十字架、花束が川沿いに点々と見られた。
その中には幼い子供の写真もあった。 -
昭和49年10月21日
西ベルリン地下鉄回数券 9時50分乗車
乗車駅判読出来ず。 -
昭和49年10月21日
西ベルリン地下鉄回数券 11時30分乗車
乗車駅判読出来ず。 -
昭和49年10月21日
西ベルリン ハンザ地区
ハンザ地区は大戦後、焼け跡のままになっていたが、
1957年、ここで国際建築コンクールが開かれて
各国から一人ずつ、計48人の建築家が参加した。 -
昭和49年10月21日
西ベルリン ハンザ地区
各自思い思いのアイディアとデザインを競いつつ
高層アパートや一戸建ての住居を造った。
それらは後に分譲または賃貸され、10数年前に出来たとは思えない程、
斬新な美しさを見せていた。 -
昭和49年10月21日
西ベルリン ハンザ地区 -
昭和49年10月21日
西ベルリン ハンザ地区 -
昭和49年10月21日
西ベルリンのユースホステルに宿泊
32号室8番ベッド
Hさん宅で2晩もお世話になった。
今日も泊まったらと云われたが、これ以上ご好意に甘える事は
出来なかった。
19日夜は、ビアホールへ行った後、
Hさんの友人のドイツ人ペーターさん宅で夕食招待され、
20日夜は、Hさん宅でペーターさん夫妻、留学生のミャンマー人ティムさんと
ご飯、野菜炒め、ラーメンなどをお腹いっぱいご馳走になった。 -
昭和49年10月21日
西ベルリンのユースホステルの宿泊スタンプ
32号室8番ベッド -
昭和49年10月21日
西ベルリン地下鉄回数券 21時40分乗車
乗車駅判読出来ず。 -
昭和49年10月21日
ベルリン地下鉄切符 18時30分乗車 -
昭和49年10月21日
西ベルリンのユースホステルに宿泊
32号室8番ベッド -
何の切符か分からない。
-
昭和49年10月22日
西ドイツ入国カード
西ベルリンツオー駅8時発のハノーバー行きの列車に乗った。
ベルリンには4日滞在した。
東ドイツの農村風景を見ながら
色んな事を思い出した。、
ハノーバーまでの4時間半、ずーっと繰り返し、繰り返し聴こえてくるのは
「さらばベルリンの灯」のメロディーだった。
哀愁を帯びたメロディーと一緒に浮かんでは消える情景はベルリンの壁と
脱出に失敗して亡くなった人たちの十字架だった。
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この旅行記へのコメント (1)
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- toyonakayamadaさん 2020/11/02 22:24:53
- もしかして東ベルリンですれ違ったかもしれませんね。
- 懐かしい写真を拝見しました。
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