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今から41年前の昭和49年7月23日から3月7日までの225日間かけて<br />ナホトカ航路、シベリア鉄道を往復してヨーロッパ、モロッコを<br />船、列車、バス、ヒッチハイクで旅しました。<br />高所恐怖症なので飛行機には現在まで一度も乗った事がありません。<br />乗り物による移動距離は60,806.8キロ、地球1.52周でした。<br /> 観光白書によると昭和49年の日本人の海外旅行者数が200万人、<br />平成24年度は1849万人、40年ほどで10倍近くなりました。<br /> そんな当時の旅行の資料と写真を少しづつアップして行きます。<br /><br /> 今回は、古城と大学の町 ハイデルベルク。<br /> イメージ的には<br />「古くから多くの学生が思索に耽 ったという哲学者の道から眺める<br />ハイデルベルクは、緑の森に抱かれた城、その下に広がる赤い屋根の<br />街並み、青いネッカー川に美しいアーチの影を映す石橋…。」<br />だったが、今回も雨に泣かされた。<br /> 日本の梅雨時のようで1日中降り止まず、哲学者の道から眺める<br />ハイデルベルク城も雨と霧にむせんでほとんど見えなかった。<br />まさに最悪。

青年は荒野をめざす Vol.27 西ドイツ 古城と大学の町 ハイデルベルク

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1974/10/22 - 1974/10/25

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ノスタルジア

ノスタルジアさん

今から41年前の昭和49年7月23日から3月7日までの225日間かけて
ナホトカ航路、シベリア鉄道を往復してヨーロッパ、モロッコを
船、列車、バス、ヒッチハイクで旅しました。
高所恐怖症なので飛行機には現在まで一度も乗った事がありません。
乗り物による移動距離は60,806.8キロ、地球1.52周でした。
 観光白書によると昭和49年の日本人の海外旅行者数が200万人、
平成24年度は1849万人、40年ほどで10倍近くなりました。
 そんな当時の旅行の資料と写真を少しづつアップして行きます。

 今回は、古城と大学の町 ハイデルベルク。
 イメージ的には
「古くから多くの学生が思索に耽 ったという哲学者の道から眺める
ハイデルベルクは、緑の森に抱かれた城、その下に広がる赤い屋根の
街並み、青いネッカー川に美しいアーチの影を映す石橋…。」
だったが、今回も雨に泣かされた。
 日本の梅雨時のようで1日中降り止まず、哲学者の道から眺める
ハイデルベルク城も雨と霧にむせんでほとんど見えなかった。
まさに最悪。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
同行者
一人旅
交通手段
鉄道 高速・路線バス 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 旅行記の周辺地図<br />昭和49年10月22日<br />西ベルリン〜ハノーバー〜ハイデルベルク<br />10月23日<br />ハイデルベルク〜ダルムシュタット〜ハイデルベルク<br />10月24日<br />ハイデルベルク観光<br />10月25日<br />ハイデルベルク〜ブリュッセル〜アントワープ

    旅行記の周辺地図
    昭和49年10月22日
    西ベルリン〜ハノーバー〜ハイデルベルク
    10月23日
    ハイデルベルク〜ダルムシュタット〜ハイデルベルク
    10月24日
    ハイデルベルク観光
    10月25日
    ハイデルベルク〜ブリュッセル〜アントワープ

  • 昭和49年10月22日<br />ハイデルベルク 市内バス・電車切符<br />1ドイツマルクで114円<br />

    昭和49年10月22日
    ハイデルベルク 市内バス・電車切符
    1ドイツマルクで114円

  • 昭和49年10月22日、23日、24日<br />3泊したハイデルベルクのユースホステル<br /><br /> 西ベルリンツオー駅8時発の列車はハノーバー駅に12時半に着き、<br />フランクフルト経由でハイデルベルクに着いた。<br /> ここも相変わらず天気が悪く雨。

    昭和49年10月22日、23日、24日
    3泊したハイデルベルクのユースホステル

     西ベルリンツオー駅8時発の列車はハノーバー駅に12時半に着き、
    フランクフルト経由でハイデルベルクに着いた。
     ここも相変わらず天気が悪く雨。

  • 昭和49年10月22日、23日、24日<br />3泊したハイデルベルクのユースホステル

    昭和49年10月22日、23日、24日
    3泊したハイデルベルクのユースホステル

  • 昭和49年10月22日、23日、24日<br />3泊したハイデルベルクのユースホステルの宿泊スタンプ

    昭和49年10月22日、23日、24日
    3泊したハイデルベルクのユースホステルの宿泊スタンプ

  • 昭和49年10月22日<br />ハイデルベルク 市内バス・電車<br />5枚綴り回数券 3.5ドイツマルクで398円、1枚0.7ドイツマルクで79円<br />22時05分乗車

    昭和49年10月22日
    ハイデルベルク 市内バス・電車
    5枚綴り回数券 3.5ドイツマルクで398円、1枚0.7ドイツマルクで79円
    22時05分乗車

  • 昭和49年10月23日<br />ダルムシュタット 市内バス切符 0.8ドイツマルクで91円<br />15時05分乗車<br /><br /> 朝から雨なのでダルムシュタットのKさんを訪ねる事にした。<br />北欧に行く時、荷物が重かったので「置いて言ったら。」と云われて<br />幾つか預かって貰っていたので取りに行く事にした。<br />ユースホステルで荷物整理とかしていたら、<br />ダルムシュタットの大学に着いたのは夕方だった。<br />荷物はKさん宅で保管してくれていたので、一緒にご自宅に向かった。<br />奥さんから「9月にダルムシュタットに来られた時、家に寄らずに帰られたので、今度来られた時は是非、家で夕食を食べて頂きたいので、<br />主人に言って荷物を家に運んで貰ったの。」と温かく言われて、<br />手作りの美味しい日本料理を振る舞われて楽しいひと時を過ごした。<br />

    昭和49年10月23日
    ダルムシュタット 市内バス切符 0.8ドイツマルクで91円
    15時05分乗車

     朝から雨なのでダルムシュタットのKさんを訪ねる事にした。
    北欧に行く時、荷物が重かったので「置いて言ったら。」と云われて
    幾つか預かって貰っていたので取りに行く事にした。
    ユースホステルで荷物整理とかしていたら、
    ダルムシュタットの大学に着いたのは夕方だった。
    荷物はKさん宅で保管してくれていたので、一緒にご自宅に向かった。
    奥さんから「9月にダルムシュタットに来られた時、家に寄らずに帰られたので、今度来られた時は是非、家で夕食を食べて頂きたいので、
    主人に言って荷物を家に運んで貰ったの。」と温かく言われて、
    手作りの美味しい日本料理を振る舞われて楽しいひと時を過ごした。

  • 昭和49年10月23日<br />ダルムシュタット 市内バス切符 0.5ドイツマルクで57円<br />17時50分乗車

    昭和49年10月23日
    ダルムシュタット 市内バス切符 0.5ドイツマルクで57円
    17時50分乗車

  • 昭和49年10月23日<br />ダルムシュタット 市内バス切符<br />20時00分乗車

    昭和49年10月23日
    ダルムシュタット 市内バス切符
    20時00分乗車

  • 昭和49年10月23日<br />ダルムシュタット 市内バス切符 0.5ドイツマルクで57円<br />20時20分乗車

    昭和49年10月23日
    ダルムシュタット 市内バス切符 0.5ドイツマルクで57円
    20時20分乗車

  • 昭和49年10月24日<br />ハイデルベルク カール・テオドール橋と雨にむせぶハイデルベルク城<br /><br /> カール・テオドール橋は、同名の選挙候が1788年に造ったもので、<br />その前は木造の橋で、両岸ともはね橋になっていたが、<br />ルイ14世のフランス軍に焼かれてしまった。<br />橋を固めている2つの塔は市の城壁の北門を兼ね、内部は3階になっている。<br /> 平時は西塔は牢獄、中央部は借金を払えないで訴えられた者を<br />拘禁する場所として使われていた。<br /> 1799年フランス革命軍がこの橋から急襲をかけた時、<br />塔門が威力を発揮し、オーストリア軍に撃退された。<br /> 橋の石畳は人の通る所だけがすり減っていて、この橋が経て来た<br />歴史が偲ばれた。

    昭和49年10月24日
    ハイデルベルク カール・テオドール橋と雨にむせぶハイデルベルク城

     カール・テオドール橋は、同名の選挙候が1788年に造ったもので、
    その前は木造の橋で、両岸ともはね橋になっていたが、
    ルイ14世のフランス軍に焼かれてしまった。
    橋を固めている2つの塔は市の城壁の北門を兼ね、内部は3階になっている。
     平時は西塔は牢獄、中央部は借金を払えないで訴えられた者を
    拘禁する場所として使われていた。
     1799年フランス革命軍がこの橋から急襲をかけた時、
    塔門が威力を発揮し、オーストリア軍に撃退された。
     橋の石畳は人の通る所だけがすり減っていて、この橋が経て来た
    歴史が偲ばれた。

  • 昭和49年10月24日<br />ハイデルベルク城から<br /><br /> ハイデルベルクはプファルツ選挙候の古都であり、<br />マイヤーフェルスターの名作「アルト・ハイデルベルク」に<br />活き活きと描かれているように、学生たちが青春を謳歌した<br />ドイツ最古の大学町でもある。<br /> 幸いにも戦災にも遭わずドイツの古い街のたたずまいが豊かに<br />保存されていた。

    昭和49年10月24日
    ハイデルベルク城から

     ハイデルベルクはプファルツ選挙候の古都であり、
    マイヤーフェルスターの名作「アルト・ハイデルベルク」に
    活き活きと描かれているように、学生たちが青春を謳歌した
    ドイツ最古の大学町でもある。
     幸いにも戦災にも遭わずドイツの古い街のたたずまいが豊かに
    保存されていた。

  • 昭和49年10月24日<br />ハイデルベルク大学 学生牢入場券 0.3ドイツマルクで34円<br /><br /> 雨が降り続く寒い中、時間潰しに入った学食で食べた昼食、夕食は<br />1.5マルク171円でたいへん安く、美味しくてボリュームもあった。

    昭和49年10月24日
    ハイデルベルク大学 学生牢入場券 0.3ドイツマルクで34円

     雨が降り続く寒い中、時間潰しに入った学食で食べた昼食、夕食は
    1.5マルク171円でたいへん安く、美味しくてボリュームもあった。

  • 昭和49年10月24日<br />ハイデルベルク 大学の学生牢<br /><br /> 大学は1386年の創立でドイツ最古。<br />ヨーロッパの古い大学はどこでもそうだが、大学には門も塀も校庭も<br />無く、一般の建物と見分けがつかない。<br /> 学生牢も大学の裏手にあって、入口はまるで古倉庫みたいで<br />木の扉についている呼び鈴を押し、自分で開けて入るのである。

    昭和49年10月24日
    ハイデルベルク 大学の学生牢

     大学は1386年の創立でドイツ最古。
    ヨーロッパの古い大学はどこでもそうだが、大学には門も塀も校庭も
    無く、一般の建物と見分けがつかない。
     学生牢も大学の裏手にあって、入口はまるで古倉庫みたいで
    木の扉についている呼び鈴を押し、自分で開けて入るのである。

  • 昭和49年10月24日<br />ハイデルベルク 大学の学生牢<br /><br /> 授業料を滞納したり、ひどい乱暴狼藉を働いた学生がここに入れられた。<br />しかしこの牢に入ったという事は、勇気ある学生だという箔をつけた<br />事になり名誉と考えられていた。<br /> 牢内の壁にはろうそくのすすなどで丹精込めて書かれた指名、落書き、<br />家紋、自画像などがひしめき合って残っている。<br /> 学生には王侯貴族の子弟も多かった。<br /> 新しい所には皆写真がはめてあり、この牢に名を残すことにいかに<br />熱心だったかが分かる。<br /> この牢は1788年から第一次大戦の始まる1914年まで使われていた。

    昭和49年10月24日
    ハイデルベルク 大学の学生牢

     授業料を滞納したり、ひどい乱暴狼藉を働いた学生がここに入れられた。
    しかしこの牢に入ったという事は、勇気ある学生だという箔をつけた
    事になり名誉と考えられていた。
     牢内の壁にはろうそくのすすなどで丹精込めて書かれた指名、落書き、
    家紋、自画像などがひしめき合って残っている。
     学生には王侯貴族の子弟も多かった。
     新しい所には皆写真がはめてあり、この牢に名を残すことにいかに
    熱心だったかが分かる。
     この牢は1788年から第一次大戦の始まる1914年まで使われていた。

  • 昭和49年10月24日<br />ハイデルベルク城内の中庭 <br /><br /> ハイデルベルク城はプファルツ選挙候の本城として13世紀に<br />造られたが、16世紀から17世紀にかけドイツの諸侯や皇帝が新教と旧教<br />に分かれて何回も戦火を交えた時代に大増築が行われ現在の姿になった。

    昭和49年10月24日
    ハイデルベルク城内の中庭 

     ハイデルベルク城はプファルツ選挙候の本城として13世紀に
    造られたが、16世紀から17世紀にかけドイツの諸侯や皇帝が新教と旧教
    に分かれて何回も戦火を交えた時代に大増築が行われ現在の姿になった。

  • 昭和49年10月24日<br />ハイデルベルク城 ディッカー塔<br /><br /> ディッカー塔はルートヴィヒ5世によって建設された防衛施設の一つである。<br />高さ40m、壁の厚さは5mもある堅固なもので、直径は28mである。<br /> それでもこの堅固な壁は1689年、かねてからライン地方を狙っていた<br />ルイ14世のフランス軍の砲撃と爆破によって破壊されてしまった。

    昭和49年10月24日
    ハイデルベルク城 ディッカー塔

     ディッカー塔はルートヴィヒ5世によって建設された防衛施設の一つである。
    高さ40m、壁の厚さは5mもある堅固なもので、直径は28mである。
     それでもこの堅固な壁は1689年、かねてからライン地方を狙っていた
    ルイ14世のフランス軍の砲撃と爆破によって破壊されてしまった。

  • 昭和49年10月24日<br />ハイデルベルク城 大酒樽棟入場券 0.3ドイツマルク34円<br /><br /> 

    昭和49年10月24日
    ハイデルベルク城 大酒樽棟入場券 0.3ドイツマルク34円

     

  • 昭和49年10月24日<br />ハイデルベルク城 大酒樽棟<br /><br /> 大樽棟は、この建物内にある巨大な樽にちなんで名付けられた。<br />地下室のような酒蔵には22万3千リットルも入る大酒樽をはじめ<br />家の様に大きい酒樽が幾つも並んでいる。<br /> プファルツ選挙候領はワインの名産地で、領内から年貢として<br />納められるワインを容れておく為、また、王の広間と隣接しており、<br />祝宴の際ワイン貯蔵庫と宴会場が可能な限り近くになるよう設計された。 

    昭和49年10月24日
    ハイデルベルク城 大酒樽棟

     大樽棟は、この建物内にある巨大な樽にちなんで名付けられた。
    地下室のような酒蔵には22万3千リットルも入る大酒樽をはじめ
    家の様に大きい酒樽が幾つも並んでいる。
     プファルツ選挙候領はワインの名産地で、領内から年貢として
    納められるワインを容れておく為、また、王の広間と隣接しており、
    祝宴の際ワイン貯蔵庫と宴会場が可能な限り近くになるよう設計された。 

  • 昭和49年10月24日<br />ハイデルベルク 市内バス・電車<br />5枚綴り回数券 3.5ドイツマルクで398円、1枚0.7ドイツマルクで79円<br />

    昭和49年10月24日
    ハイデルベルク 市内バス・電車
    5枚綴り回数券 3.5ドイツマルクで398円、1枚0.7ドイツマルクで79円

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