1974/10/07 - 1974/10/14
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ノスタルジアさん
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今から41年前の昭和49年7月23日から3月7日までの225日間かけて
ナホトカ航路、シベリア鉄道を往復してヨーロッパ、モロッコを
船、列車、バス、ヒッチハイクで旅しました。
高所恐怖症なので飛行機には現在まで一度も乗った事がありません。
乗り物による移動距離は60,806.8キロ、地球1.52周でした。
観光白書によると昭和49年の日本人の海外旅行者数が200万人、
平成24年度は1849万人、40年ほどで10倍近くなりました。
そんな当時の旅行の資料と写真を少しづつアップして行きます。
今回は、かねてから憧れていたロマンティック街道のローテンブルクと
フュッセンのノイシュヴァンシュタイン城の旅行記です。
特に中世の街がそのまま保存された世界遺産の街、
ローテンブルクは住めるものなら住んでみたいナンバーワンの街です。
ローテンブルクの街は小さいとはいえ、歴史的な名所旧跡や記念碑、
博物館、教会、僧院が沢山あって、見て回っているうちに辺りは
すっかり暗くなって雪もちらつき始めた。
身体も冷え込んで来たので、マルクト広場から
ユースホステルに向かっていたらチョコレートケーキで
造られた様なレストランがあった。
明るい店内からの明かりでうっすらと積もった雪が純白に輝いていた。
曇りがかったガラス越しに店内を見ると、4人の家族連れが
楽しそうに食事をしている、傍らのストーブが暖かく燃えている。
こちらにも誰も気づかない。
その時は、アンデルセン童話の「マッチ売りの少女」が大晦日の夜、
マッチを壁にこする前に見た風景はこれだと思った。
「マッチ売りの少女」にはどこの街か書かれていないが、
それがローテンブルクだとしても何の違和感、不思議さはない。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
昭和49年10月7日〜14日
今回の旅行記の地図 -
昭和49年10月7日
ハンブルク 100ドル28,501円に両替
1ドイツマルク109.49円
コペンハーゲン9時50分発のTEEメルクール急行は14時33分に
ハンブルクに着いた。
皮肉な事にコペンハーゲンは快晴だったが、ハンブルクは雨。
霧がかかり港町らしい雰囲気だが、こう雨では市内見物も乗り気しなかった。 -
昭和49年10月7日
ハンブルグのユースホステルに1泊 -
昭和49年10月7日
ハンブルグのユースホステルに1泊 -
昭和49年10月7日
ハンブルグ ユースホステルの宿泊スタンプ -
昭和49年10月8日
ハンブルク 買い物レシート
0.50ドイツマルク 55円 -
昭和49年10月8日
フランクフルト市内電車切符
1ドイツマルク109円
17時55分乗車
今日も雨。仕方がないのでTEEヘルヴェティア急行でフランクフルト
に来た。
明日はロマンティック街道をバスで行く。 -
昭和49年10月8日
フランクフルトのユースホステルに1泊 -
昭和49年10月8日
フランクフルトのユースホステルに1泊 -
昭和49年10月8日
フランクフルト ユースホステルの宿泊スタンプ -
昭和49年10月9日
フランクフルト市内電車切符
1ドイツマルク109円
7時25分乗車 -
昭和49年10月9日
ロマンチック街道 バス時刻表
フランクフルト発8時に乗ったバスはローテンブルクに
13時30分に着いた。 -
昭和49年10月9日
ロマンチック街道 バス利用ガイド -
昭和49年10月9日
ロマンチック街道 バス荷物切符
0.5ドイツマルク55円 -
昭和49年10月9日
ローテンブルク 聖ヤコブ教会入場券
0.2ドイツマルク22円
旧市街の中心、マルクト広場近くに建つ聖ヤコブ協会は、
14世紀初めから15世紀末にかけて、200年弱の歳月をかけてつくられた
ゴシック様式の教会である。
ローテンブルクの中央教会で、現在はプロテスタントの教会になっている。
十字軍が聖地エルサレムから持ち帰ったとされる
キリストの聖血が祀られているため、中世以来、
ローテンブルクは北アルプス以北で最も重要な巡礼地とされてきた。 -
昭和49年10月9日
ローテンブルクのユースホステルに1泊 -
昭和49年10月8日
ローテンブルク ユースホステルの宿泊スタンプ -
昭和49年10月9日
ローテンブルク 買い物レシート -
昭和49年10月9日
ローテンブルク
ローテンブルクほど中世がよく保存されている町はほかにはありません。
時間が止まってしまったのでは?
古い家や静かな広場、町角、塔や噴水、市城門、市城壁、倉庫、
ワインレストランの旧市街を歩けば、そう思うのは当然です。
このような景観が残っているのは、次の歴史に因るものです。
三十年戦争でローテンブルクは1631年に旧教勢力のティリー将軍に占領されました。
困った末、市参事会員は将軍に3リットル余り入る杯のワインを献じました。
この町を焼き払おうと思っていたティリー将軍は、寛容になって、
だれかこの杯を一気に飲み干せば町をそのままにしようと言いました。
前市長が進み出て、みんなの前でこの杯を一気に飲み干してしまいました。
ティリーはいたく感動し、町をそのままに残しました。
この話がすべて本当かどうかは、定かではありませんが、
いずれにしてもすばらしい話です。
というわけで、この史実は市長一気飲みの「マイスタートルンク」という
楽しい歴史時代祭りとして毎年開催されています。
以上ドイツ観光局のホームページから -
昭和49年10月9日
ローテンブルク マルクト広場 ゲオルク噴水で
マルクト広場は旧市街の中心にあり、広場に面して
市庁舎やマイスタートゥルンクの仕掛け時計がある市参事会酒宴館が建っている。
広場の端には、美しい彫刻が施された聖ゲオルグの像の柱があり
「ヘルテリックス噴水」とも呼ばれる聖ゲオルグ噴水がある。 -
昭和49年10月9日
ローテンブルク マルクト広場で
広場付近には、市庁舎や市庁舎に併設された歴史物展示室、
マイスタートゥルンクの仕掛け時計のほか、ザンクトゲオルク教会、
聖ヤコブ教会、1488年建設のヤークストハイマーハウス、
1596年建設のバイマイスターハウス、世界的に有名なクリスマス専門店
ケーテウォルファルトなど、ローテンブルクの見どころ、
観光名所が集中している。
また、この広場は、初夏に行われる聖霊降誕祭の
「マイスタートゥルンク祭り」などのイベントのメイン会場ともなっている。 -
昭和49年10月9日
ローテンブルク歴史館
入場券0.5ドイツマルク55円
主に30年戦争(1618年〜1648年)当時の物が展示されていた。 -
昭和49年10月9日
ローテンブルク クリンゲン門
北の門クリンゲン門は、14世紀末、町の防備拡張工事の際に
防御設備を持つ門として建設されました。 -
昭和49年10月9日
ローテンブルク プレーンライン(小さな広場)で
ローテンブルクの街は小さいとはいえ、歴史的な名所旧跡や記念碑、博物館、教会、僧院が沢山あって、見て回っているうちに辺りはすっかり暗くなって
雪もちらつき始めた。
身体も冷え込んで来たので、マルクト広場から
ユースホステルに向かっていたらチョコレートケーキで造られた様な
レストランがあった。
明るい店内からの明かりでうっすらと積もった雪が純白に輝いていた。
曇りがかったガラス越しに店内を見ると、4人の家族連れが楽しそうに食事をしている、傍らのストーブが暖かく燃えている。
こちらにも誰も気づかない。
その時は、アンデルセン童話の「マッチ売りの少女」が大晦日の夜、
マッチを壁にこする前に見た風景はこれだと思った。
「マッチ売りの少女」にはどこの街か書かれていないが、
それがローテンブルクだとしても何の違和感、不思議さはない。 -
昭和49年10月9日
ローテンブルク -
昭和49年10月10日
ローテンブルク 市庁舎入場券
05ドイツマルク55円 -
昭和49年10月10日
ローテンブルク
市庁舎の展望台からの聖ヤコブ教会 -
昭和49年10月10日
ローテンブルク 市庁舎の展望台から
マルクト広場に面して建つ市庁舎は、1572〜1578年にかけて建設された、
広場に面したルネサンス様式の建物と、その後の1250〜1400年にかけてつくられたゴシック様式の建物の2つの部分からなる。
さらに、アーケード部分はその後につくられたバロック様式である。
ゴシック様式の古い建物部分には、切妻(きりづま)の壁から
高さ60mの尖塔があり、マルクト広場側にある入り口かららせん階段を
使って上ることができる。
最上階からは城壁で囲まれた旧市街が一望できる。 -
昭和49年10月10日
ローテンブルク 市庁舎の展望台で -
昭和49年10月10日
ローテンブルク 市庁舎の展望台から -
昭和49年10月10日
ローテンブルクで -
昭和49年10月10日
ローテンブルクで -
昭和49年10月11日
アウグスブルクの市場風景
-
昭和49年10月11日
アウグスブルク
靴も履けなくなり、これから寒くなるので長靴を買った。
19.9ドイツマルク2,179円 -
昭和49年10月13日
アウグスブルク
市庁舎前のアウグストゥスの泉で。
街の創始者アウグストゥスの像が建っているが、
肝心のその像が写っていない。 -
昭和49年10月11、12,13日
アウグスブルクのユースホステルで3泊
アウグスブルクに17時20分に着いた。
明日はいよいよフュッセンである。 -
昭和49年10月11、12,13日
3泊したアウグスブルクのユースホステルの宿泊スタンプ -
おとぎ話に出てくるような美しさのノイシュヴァンシュタイン城は、ディズニーランド、ブルーコメッツの「ブルーシャトウ」のモデルとしても知られている」。
かねてからこの写真を撮った同じ場所に立ちたいと思っていました。
昭和49年10月11日
朝、見通しの甘さから大失敗。
8時過ぎ、いかにも雨の降りそうな曇り空だったので、
フュッセン行きを午後に変更。ところが11時頃から快晴。
そして14時47分発の列車でフュッセンに着くとなんと雨。
その上ユースホステルに行けば、閉鎖中。
18時50分発のアウグスブルク行きの車中で、
もし、朝一番の列車でフュッセンに行っていれば、美しい城、湖、
アルプス連峰が見られたかも、
今頃は、次の目的地インスブルックに向かっていたかも・・・
と多くの事を悔やんだ。
9月12日
アウグスブルク9時27分発の列車でフュッセンに着くと
みぞれ交じりの雨。
丘の上のノイシュヴァンシュタイン城は吹き抜ける吹雪を
受けて霞んではいたが、それが却って幻想的で美しかった。
こんな美しい城を見たのは初めてであった。
雪が降り積もって来て大変だったが一生忘れないであろう。
明日こそは晴天を期待してアウグスブルクのユースホステルに戻った。 -
昭和49年10月13日
アウグスブルクからフュッセンに向かう列車から撮る。
晴れれば美しい南ドイツの農村風景。 -
昭和49年10月13日
フュッセン テーゲルベルク ロープウェイ片道切符
5ドイツマルク547円
日程上最後のフュッセン。
朝は曇り空であったが、徐々に晴れて来た。
写真通りノイシュヴァンシュタイン城を求めて、
近くの山テーベルベルクに登るロープウェイに乗った。
ロープウェイからは山々ははっきり見えたが、城はよく見えなかった。 -
昭和49年10月13日
フュッセン テーゲルベルク ロープウェイ片道帰りの切符
3.5ドイツマルク385円
行きの片道切符だけ買って下りは歩いて下りるつもりだったが、
雪の為、やむなく下りもロープウェイに乗ったが、
やはり城はよく見えなかった。 -
昭和49年10月13日
どうしてもあの写真と同じ写真を撮りたくて、
別のそれらしきルートを登ることにした。
それを見ずして次の観光地へは行けないという思いだった。
谷川沿いを登り、途中谷川を渡る時はスリルがあった。 -
昭和49年10月13日
谷川沿いに登っていたら城が見え始めた。
谷川沿いを更に登って行くと登山道と合流して、
城がよく見えるマリエン橋に出た。 -
昭和49年10月13日
マリエン橋で
マリエン橋を渡ると登山ルートの標識があるので、このまま進めば、
城を上部から見下ろし正面の城門が見える場所に行けそうだと思い
再び登り始めた。 -
昭和49年10月13日
登山道から
1時間近く雪道を登っていたら突然、城の全容を見下ろせる所に着いた。
もう少し、と思ってまた登り始めたら、3人の登山客が下りて来た。
これか先は雪が深い、雪山装備もしていないそんな恰好では遭難すると
忠告されたので一緒に下りることにした。
途中、写真を見せて、この場所に行きたいといったら、これはロープウェイを
止めて撮るか、航空写真でないと無理と言われようやく諦めたのである。
今から思えば実に無謀だったと反省しきりである。 -
昭和49年10月13日
登山道から
-
昭和49年10月13日
-
昭和49年10月13日
ノイシュヴァンシュタイン城 王座の間
城の内部はルートヴィヒ2世の憧れた
リヒアルト・ワーグナーの楽劇の物語の壁画で埋まり、
その部屋部屋には国費まで傾けた王の執念が感じられるのである。
というのもこの夢の城の完成後わずか3か月で、41歳の若き国王は
狂人として王座を追われたのであった。 -
昭和49年10月13日
ノイシュヴァンシュタイン城 王座の間
1870年、普仏戦争で弟オットー1世が精神に異常をきたした。
ルートヴィヒはますます現実から逃れ自分の世界にのめり込み、
昼夜が逆転した生活を送るようになった。
王は一人で食事を取り、あたかも客人が来ているかのように語っていたり、
夜中にそりに乗って遊んでいたところを地元の住民に目撃されたと伝えられている。
危惧を感じた家臣たちはルートヴィヒ2世の廃位を計画し、
1886年6月12日に彼を逮捕し廃位した。
代わりに政治を執り行ったのは叔父の摂政ルイトポルト王子であった。
ルートヴィヒはベルク城に送られ、翌日の6月13日にシュタルンベルク湖で、
医師のフォン・グッデンと共に水死体となって発見された。
その死の詳細については未だ謎のままである。
その知らせを受けたエリーザベト皇后は
「彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした」
と述べている。
生前ルートヴィヒは「私が死んだらこの城を破壊せよ」と言い残した。
それは彼が城を自分の世界にとどめたかったという思いからきた言葉であったが、摂政ルイトポルトも地元の住民らも城を壊さずにそのまま残し、
現在は観光施設を兼ねた文化財として活用されている。 -
昭和49年10月13日
ノイシュヴァンシュタイン城 王座の間
天帝の一団や十二使徒が描かれ、天井からは巨大なシャンデリアが
下がっている。
城の完成を待たずに王が亡くなったため、王座は据えられることなく終わった。
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この旅行記へのコメント (1)
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- arriettyさん 2019/09/19 18:58:56
- ローテンブルクは今も当時のまま。
- 初めまして。掲示板に書き込みや「いいね!」を頂き、ありがとうございます。旅行記を拝見させて頂きましたが、仰る通り、ローテンブルクは45年前と変わっていないですね。当時、私は小学生でローテンブルクの地名すら知りませんでしたが。飛行機を使わず、200日以上も旅をされるなんてビックリです。ノスタルジアさんのお姿がアイドル歌手さながらで、ローテンブルクに住みたいというのも全然違和感ありませんでした。当時の貴重なお写真や記録を見ることが出来て感謝です。
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