1990/09/01 - 1990/09/01
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■WlND OF CHANGE
SCORPIONSの "WIND OF CHANGE" という曲を聞くと、モスクワで過ごした89年の8月を思い出す。ゴルバチョフのペレストロイカに国民が期待していた頃で、今のモスクワとは一味違っていた。ちょうどその時、BON JOVIやSCORPIONSをはじめとする西側の代表的なロックグループが初めてモスクワでジョイントコンサートを開くことになり、街ではコンサートのTシャツが売られ、歴史に残るだろうコンサートを人々は心待ちにしていた。
よく歩いたゴーリキー・パークやなんかが歌詞に出てきて、モスクワを良く知る人は聞いていて懐かしくなるだろう。"WIND OF CHANGE" とは、変革の風とでも訳すのだろうか、ちょうどそのコンサートのすぐ後に、ベルリンの壁が取り壊された。この曲は、あの時の興奮と、停滞以前の良きロシアを思い出させる。
■50人のアメリカ人
WIND OF CHANGE に誘われてか、92年の12月に、コルプス・ミーラ(PEACE CORPS)というアメリカの団体から50名位のボランティアスタッフがウラジオにやって来た。ウエルカムパーティーに私も招待され、雪の降りしきる中、興味本意でのこのこと出かけて行った。
学生や白髪の老人からレゲエ族まで、また人種も様々な人々だった。彼らはいっさいロシア語ができないので、英語で話すしかなかった。シャンパンを片手に色んなテーブルを渡り歩き、ロシアでどんなボランティア活動をするつもりなのか尋ねてまわった。布教のためにやって来た神父さん。会社を退職したので、何か役にたつことがしたいという老夫婦、ロシアでビジネスを始めたいという青年。ジャーナリストとしてロシアに住んでみたい等、様々な理由でここにやって来ている。
1ヶ月間はとにかくウラジオでロシア語を学び、その後其々の目的に沿って2年間の予定で極東地域のあちこちに散って行った。ロシア語を1ヶ月で習得し、すぐに現地の会社などで働こうとするのだから恐れ人る。ウラジオのような都会ではまだ英語が通じるだろうけれど、小都市ではそんなはずもない。お湯が出ない、断水もある、部屋が寒い、食料品も自由に手に入る訳でもない。ロシアの生活事情も全く判っていない人達だった。来れば何とかなるだろう、そんな感じがした。ボランティアっていったい何だろう。この人達、う一ん、何しに来たのかしら、と思わざるを得なかった。
実際、ロシア側の意見もそうだった。いきなり50人ものアメリカ人を受け入れろといっても、受入先もないし、第一、言葉が判らないんじゃ、、、。PEACE CORPSの事務所がウラジオにあり、ボランティアスタッフを色々な会社などに斡旋していたが、そう簡単には受け人れてもらえなかった。受け入れられても、数週間後には送り返されるということもあった。数ヶ月後には半分に減り、その後本当の意味で活動し続けたのは片手にもあまる程だったと思う。
■ボストン出身のマイケル
ウェルカムパーティーの後、一人のアメリカ人から電話がかかってきた。マイケルってどの人だったかなあ、と考えつつ、土曜に自宅に招待した、とはいっても女性の一人暮らしにいきなりよく知らない男性を招くのはちょっと危険すぎるので、ええい、パーティーにしてしまえ、ということでロシア人や日本人出張者など7-8人招待してしまった。昨日の今日の招待でも、みんな快く来てくれた。
コンコン、4時きっかりのノックの音。「ハーイ、マイケル!」と言いながら、あ、この人がマイケルか、なんて思っていた。片手にソーセージを持ったヴァレーラ、お化粧直しの途中のターニャ、その他にも4-5人、そしてマイケルは玄関ホールでぼ一ぜんとしていた。せっかくだから皆も呼んだの、と一言説明して、彼を紹介した。
マイケルはボストンの出版社をやめて、大学での専門を活かした金融関係の仕事をするためにロシアにやって来たのだった。銀縁眼鏡のインテリ風な青年だ。いきなりのロシア式パーティでべろんべろんに酔わせてしまったけど、ガールフレンドはできるし、友達もたくさんできたから許してくれるだろう。それに、このパーティがきっかけで、彼の希望の就職先も紹介することができた。
シャツの襟元から黒い胸毛が見える彼は、祖母がウクライナ人、祖父がロシア人ということだった。なるほどそれでロシアに。納得できろ理由だ。米国の金融システムを教えながら、ロシアの金融システムを学ぶのが彼の目的らしく、2-3年はロシアで頑張るといった。
■自分を探して
今、彼はシベリアのウラルの辺りの小さな町の銀行で働いている。マイケルとは楽しいパーティや情報交換などでウラジオでの1年半を共有した。最後に彼と会ったのは、アムール湾の海岸だった。私も帰国の日が近づき少しセンチメンタルになっていた頃で、お互いに別れを惜しみながら色々話し合った。打ち寄せる波をよけながら砂浜を歩いた後、30分か1時間か海岸公園のベンチに座っていた。2年半住んだウラジオストックで何を学んだのか、何をしていたのか自問しても明確には答えられない。色々な人に出会い、文化の違いや国の混乱期を見た。
このままロシアに住み続けるかどうか考えに考えた後、私は帰国の道を選んだ。でも、彼はこれから更に奥地へとっき進む。もちろん彼もよく考えた末に決心したのだろうけれど、知人もいないシベリアの町に行くことに対する不安と住み慣れたウラジオを去る寂しさで、彼の心の中の動揺が伺い知れた。でも勇気をもって新地に赴く彼はとても偉いと思った。ここで出会った色々な人達が私に教えてくれたことは、みんな一生懸命自分の進むべき道を探しているのだということだった。
何かが違うという理由で勤めていた会社をやめてロシアにやって来たマイケルの気持ちはよくわかった。何かを求めて探し歩いていたらこの地に来てしまったという人が大勢いた。旧ソ連の各地からやって来た学生達、外国からの留学生、目的のはっきりしている人やそうでない人、本当に様々な人達に会うことができた。自分の人生に対して真剣に考えるが故に、遥か遠くの極東の地までやって来たのだろう。自分探しの旅をしている人はいっぱいいる。独りじゃないんだ、と勇気づけられる思いがした。
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