2014/12/28 - 2015/01/01
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MechaGodzillaⅢ&703さん
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■2014-2015年末年始車旅 (山口県・福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県)
花燃ゆ♪萩物語の地、松陰記念館・松下村塾・松陰神社・伊藤博文旧家 ~の巻
▼松陰記念館/山口県萩市椿字鹿背ヶ坂
萩往還公園内、道の駅萩往還に隣接して建てられている松陰記念館。吉田松陰の生き方や、人形を使った松下村塾の再現・手紙のレプリカなどを展示しています。
▼松陰神社/山口県萩市椿東
松陰を祀って明治23年(1890)に建てられた神社。ご神体は松陰愛用の赤間硯と父兄宛に宛てた書簡が納められています。
▼松下村塾/山口県萩市椿東
松陰が主宰した私塾。当時、この地域が松本村と呼ばれていたことから「松下村塾」という名が付けられました。
▼吉田松陰幽囚の旧宅/山口県萩市椿東
下田での海外渡航に失敗した松陰は、野山獄に投獄された後、実家であるこの杉家で謹慎生活を送りました。
▼伊藤博文旧家/山口県萩市椿東
茅葺き平屋建ての小さな建物。博文は、14歳から13年間両親とここに住み、萩の松下村塾には17歳より通いました。
▼伊藤博文別邸/山口県萩市椿東
東京都品川区にあった建物の一部を、萩市が無償譲渡を受けて伊藤博文旧宅側に移築したものです。
▼2015年大河ドラマ「花燃ゆ」あらすじ
明治維新で活躍した志士を育てた吉田松陰(演:伊勢谷友介)。松陰が主宰した松下村塾には、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文ら多くの若者らが集い、松陰からの師事を受けていた。
松陰の思想は、明治新政府に入閣した松下義塾生らによって引き継がれ、日本の近代化を支える支柱となっていった。
そうした幕末志士らの活躍とは裏腹に、あまり知られていない松陰自身の姿。松陰の実家・杉家は11人家族と大所帯で、兄や姉、叔父の玉木文之進など多くの人に囲まれ育った。そして、そこには松陰の妹・文(演:井上真央)の姿もあった。
文は松陰含め、松下村塾生らから可愛がられ、後に松下村塾生の久坂玄瑞と結婚する。文は優秀な兄・松蔭のことを誇りに思い、尊敬していたが、その一方で信念のもとに国禁を犯し続ける兄に疑問を抱くようになる。
黒船来航によって時代が大きく変化していく中、久坂は亡くなり、松蔭もまた幕府によって処刑されるなど、文の人生は大きく変化していく。
作中では、この文を中心に話が進み、兄・松蔭とのこと、杉家とのこと、松蔭の志を継いだ松下村塾生たちとのことが描かれる。
≪旅行1日目≫12月28日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
▼早朝、広島市の自宅を出発
▼山陽自動車道防府東インタOFF、国道262号線へ
▼吉田松陰記念館/山口県萩市椿字鹿背ヶ坂
▼松下村塾/山口県萩市椿東
▼松陰神社/山口県萩市椿東
▼伊藤博文旧宅/山口県萩市椿東
▼萩城城下町/山口県萩市南古萩町
▼東後田の棚田/山口県長門市油谷東後畑
▼龍宮の潮吹き/山口県長門市油谷津黄
▼千畳敷/山口県長門市日置中
▼角島大橋/山口県下関市豊北町
▼土井ケ浜遺跡/山口県下関市豊北町
▼毘沙ノ鼻/山口県下関市吉母字御崎
▼北九州空港H泊
≪旅行2日目≫12月29日へつづく・・・
【手記】
恒例となった年末年始の旅。九州は今までに何度も何度も訪れている地ですが、今回は山口萩・角島から北九州へ入り、門司~福岡~名護屋~浜野浦~長崎市内~島原半島~熊本市内~阿蘇方面をウロチョロしてきました。
車旅ですから細かい予定はなにもありません。いつものように想い出がある地を中心に、走り回るルートを適当に決めて旅立って行くだけです。
萩の町は6年と9か月ぶり、妻といっしょに訪れたのは2002年の3月初旬でしたから早いものでもう12年と10ケ月前になります。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 自家用車
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■2014-2015年末年始車旅 (山口県・福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県)
・松陰記念館・松下村塾・松陰神社・伊藤博文旧家 〜の巻
恒例となった年末年始のひとり旅。今回は山口萩・角島から北九州へ入り、門司〜福岡〜名護屋〜浜野浦〜長崎市内〜島原半島〜熊本市内〜阿蘇方面をウロチョロしてきました。 -
▼松陰記念館/山口県萩市椿字鹿背ヶ坂
・花燃ゆ♪文と萩物語の地
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の舞台となった萩。この地は6年9ヶ月ぶりの訪問です。 -
▼松陰記念館/山口県萩市椿字鹿背ヶ坂
萩往還公園内、道の駅萩往還に隣接して建てられている松陰記念館。吉田松陰の生き方や、人形を使った松下村塾の再現・手紙のレプリカなどを展示しています。 -
▼松陰記念館/山口県萩市椿字鹿背ヶ坂
松陰を囲んだ高杉晋作と久坂玄瑞 -
▼松陰記念館/山口県萩市椿字鹿背ヶ坂
【 生涯 】1830年、長州藩士の次男として生まれる。幼少から叔父が開いた松下村塾で指導を受ける。11歳の時、藩主への御前講義によりその才能が認められる。
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▼松陰記念館/山口県萩市椿字鹿背ヶ坂
1850年、西洋兵学を学ぶために九州に遊学。その後、江戸に出て佐久間象山に師事。吉田松陰は、友人と東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩の通行手形の発行を待たず脱藩。1852年、江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受ける。
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▼松陰記念館/山口県萩市椿字鹿背ヶ坂
1853年、ペリーの浦賀来航を視察し、西洋の先進文明に心を打たれて外国留学を決意。長崎に寄港していたロシア軍艦に乗り込もうとするも失敗。1854年にペリーが再航した際には伊豆下田港に停泊中のポーハタン号へ赴き、密航を訴えるが拒否される。吉田松陰は、自首し、長州へ檻送され幽囚される。
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▼松陰記念館/山口県萩市椿字鹿背ヶ坂
1855年に出獄を許され幽閉処分となる。1857年に叔父の松下村塾の名を引き継ぎ、松下村塾を開塾。そこで久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋などを教育する。
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▼松陰記念館/山口県萩市椿字鹿背ヶ坂
1858年、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒。討幕を表明して老中の暗殺を計画する。弟子らは反対して同調しなかったため計画は頓挫。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕を持ちかける。結果、松陰は捕らえられ幽囚。
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▼松陰記念館/山口県萩市椿字鹿背ヶ坂
その後、井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。井伊の逆鱗に触れ、1859年に斬刑に処された。享年29歳。 -
▼松陰記念館/山口県萩市椿字鹿背ヶ坂
松下村塾の様子を人形を置いて再現したもの
<松陰名言>
夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、
実行なき者に成功なし。
故に、夢なき者に成功なし。 -
▼松陰記念館/山口県萩市椿字鹿背ヶ坂
松下村塾の様子を人形を置いて再現したもの
<松陰名言>
人間はみななにほどかの純金を持って生まれている。
聖人の純金もわれわれの純金も変わりはない。 -
▼松陰記念館/山口県萩市椿字鹿背ヶ坂
天野清三郎・野村和作
<松陰名言>
学問とは、人間はいかに生きていくべきかを学ぶものだ。 -
▼松陰記念館/山口県萩市椿字鹿背ヶ坂
品川弥二郎・山田顕義
<松陰名言>
どんな人間でも一つや二つは素晴らしい能力を持っているのである。
その素晴らしいところを大切に育てていけば、一人前の人間になる。
これこそが人を大切にするうえで最も大事なことだ。 -
▼松陰記念館/山口県萩市椿字鹿背ヶ坂
山縣有朋・木戸孝允・伊藤博文
<松陰名言>
満開となれば、やがて花は落ちる。
太陽は南中すれば、やがて陰りはじめる。
人は壮年を迎えれば、やがて老いていく。
百年の間、必死で勉強すべきであり、ゆったりとくつろぐ暇などない。 -
▼松陰記念館/山口県萩市椿字鹿背ヶ坂
ゆったりとくつろぐ暇などない。・・・か。 -
▼松陰神社/山口県萩市椿東
・花燃ゆ♪文と萩物語の地
松陰を祀って明治23年(1890)に建てられた神社 -
▼松陰神社/山口県萩市椿東
ごあんない -
▼松陰神社/山口県萩市椿東
大きい絵馬です。 -
▼松陰神社/山口県萩市椿東
明治23年(1890)に松陰の実家杉家の邸宅内に土蔵造りの小祠を建て、その中に祭神生前愛用の赤間硯を御霊代として祀ったのを始まりとしている。 -
▼松陰神社/山口県萩市椿東
学問の神として崇敬を受ける神社 -
▼松陰神社/山口県萩市椿東
御守り販売所 -
▼松陰神社/山口県萩市椿東
恋みくじ -
▼松下村塾/山口県萩市椿東
松陰が主宰した私塾。当時、この地域が松本村と呼ばれていたことから「松下村塾」という名が付けられた。 -
▼松下村塾/山口県萩市椿東
当時の姿を今に残す萩・松陰神社内にある松下村塾 -
▼松下村塾/山口県萩市椿東
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▼松下村塾/山口県萩市椿東
松下村塾門下生達は尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる者など幕末・明治において大きな活躍を果たすこととなる。 -
▼松下村塾/山口県萩市椿東
松陰は28歳の時、叔父玉木文之進の後を継ぎ、僅か2年半この教育施設で教育にあたった。 -
▼松下村塾/山口県萩市椿東
8畳と10畳半の部屋に土間付きの簡素な平屋 -
▼松下村塾/山口県萩市椿東
講義室 -
▼松下村塾/山口県萩市椿東
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▼吉田松陰幽囚の旧宅/山口県萩市椿東
下田での海外渡航に失敗した松陰は、野山獄に投獄された後、実家であるこの杉家で謹慎生活を送った。 -
▼吉田松陰幽囚の旧宅/山口県萩市椿東
松陰の生家である杉家の家族たちが住んでいた吉田松陰幽囚ノ旧宅。 -
▼吉田松陰幽囚の旧宅/山口県萩市椿東
安政2年に釈放となり、松陰の父・杉百合之助預けとなり、この一室に謹慎して読書と著述に専念した。 -
▼吉田松陰幽囚の旧宅/山口県萩市椿東
向こうに松陰神社の鳥居が見える。 -
▼吉田松陰歴史館/山口県萩市椿東
松陰の生涯を、ろう人形で展示・解説している。 -
▼吉田松陰歴史館/山口県萩市椿東
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▼境内のおみやげ物屋さん/山口県萩市椿東
おみやげ物屋さんの横の道を通って「伊藤博文旧宅・別邸」へ向かいます。
徒歩で5分くらいの距離です。 -
▼境内のおみやげ物屋さん/山口県萩市椿東
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▼境内のおみやげ物屋さん/山口県萩市椿東
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▼吉田稔麿誕生地/山口県萩市椿東
高杉晋作、久坂玄瑞、そして吉田稔麿を称して松陰門下の三秀(入江九一を入れて松下村塾四天王)と呼ばれるが、池田屋事件により、24歳の若さでこの世を去った。 -
▼公爵伊藤博文像/山口県萩市椿東
伊藤博文旧家横に立つ -
▼伊藤博文旧家/山口県萩市椿東
茅葺き平屋建ての小さな建物。博文は、14歳から13年間両親とここに住み、萩の松下村塾には17歳より通った。 -
▼伊藤博文旧家/山口県萩市椿東
伊藤博文は、現在の光市に生まれた。のちに萩市に移り、14歳だった1854年(安政1)から28歳の1868年(明治1)まで、現在の萩市椿東に住んでいた。
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▼伊藤博文旧家/山口県萩市椿東
このときの家が「伊藤博文旧宅」です。伊藤博文は萩に移ってから松下村塾に学び、幕末には志士として活躍した。明治に入り、1885年(明治18)には最初の内閣総理大臣となった。 -
▼伊藤博文旧家/山口県萩市椿東
八畳・五畳半・四畳半・ニ畳・三畳三室・玄関土間・台所土間の各室がある。 -
▼伊藤博文旧家/山口県萩市椿東
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▼伊藤博文旧家/山口県萩市椿東
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▼伊藤博文旧家/山口県萩市椿東
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▼伊藤博文別邸/山口県萩市椿東
伊藤博文別邸は東京都品川区にあった建物の一部を、萩市が無償譲渡を受けて伊藤博文旧宅側に移築したものである。 -
▼伊藤博文別邸/山口県萩市椿東
明治維新の初代首相
維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、また英語に堪能な事を買われて参与、外国事務局判事、兵庫県知事(当時の県知事は民選ではなく官選であった)、初代工部卿など明治政府の様々な要職を歴任する。 -
▼伊藤博文別邸/山口県萩市椿東
当初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたために大久保利通や岩倉具視の不興を買い、また大蔵省の権限を巡る論争でも大久保とは対立関係にあった。 -
▼伊藤博文別邸/山口県萩市椿東
だが、征韓論争では「内地優先」路線を掲げた大久保・岩倉らを支持して大久保の信任を得るようになった。
大阪会議を斡旋し、大久保が暗殺された後に内務卿を継承し、維新の三傑なき後の指導者の一人として辣腕を振るう。 -
▼伊藤博文別邸/山口県萩市椿東
明治14年の政変で大隈重信らが失脚すると憲法制定のためにヨーロッパへ渡り、初代枢密院議長として大日本帝国憲法制定に関わる。明治17年(1885年)に内閣制度が創設され、初代内閣総理大臣となる。 -
▼伊藤博文別邸/山口県萩市椿東
長州ファイブ
長州五傑(ファイブ)とは、幕末期に長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士を指す。 -
▼伊藤博文別邸/山口県萩市椿東
・花燃ゆ♪文と萩物語の地
想い出ふかい地、6年8ケ月ぶりの訪問でした。
THE END. 「萩城城下町散策」へつづく・・・
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