2014/12/16 - 2014/12/18
479位(同エリア3571件中)
阿蘇美忍さん
仕事を絡めた強行スケジュールで、京都in♪(^0^)
仕事の合間に、撮りまくり♪(^・^)
初日は雨にたたられて、二日目は晴天でしたが寒風にたたられて♪(@。@)
最終日は、雪の京都に別れを告げて♪(^_^)
条件付きのフライトでも、何とか無事に帰宅できました♪(^。^)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- その他
- 交通手段
- 高速・路線バス JALグループ 徒歩
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先ずは、リムジンバスで京都市内へ♪(^0^)
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打ち合わせの時間迄の間、雨中に北野天満宮へ♪(^・^)
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北野天満宮は、京都市上京区にある神社です。
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旧称は北野神社。
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二十二社(下八社)の一社。
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旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
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神紋は「星梅鉢紋」。
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通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。
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福岡県の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、
当社から全国各地に勧請が行われている。 -
近年は学問の神として多くの受験生らの信仰を集めている。
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延喜3年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、
都では落雷などの災害が相次いだ。 -
これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。
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其の為、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。
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天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子という少女に託宣があり、
5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。 -
それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、
現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。 -
後に藤原師輔(時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。
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永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、
一条天皇から「北野天満宮天神」の称が贈られた。 -
正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。
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以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。
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中世になっても菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家などからも崇敬を受る。
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しかし、当時北野天満宮を本所としていた麹座の麹製造の独占権を巡るトラブルから文安元年(1444年)に室町幕府軍の攻撃を受けて天満宮が焼け落ちてしまい、一時衰退する(文安の麹騒動)。
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天正15年(1587年)10月1日に、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。現在でも境内西側に史跡「御土居」がある。
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江戸時代の頃には道真の御霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺子屋などで当社の分霊が祀られた。
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1871年(明治4年)に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名する。
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「宮」を名乗るためには祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったためである。
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旧称の北野天満宮の呼称が復活したのは、戦後の神道国家管理を脱したあとである。
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北野天満宮や菅原道真は、梅および牛との関係が深い。
道真は梅をこよなく愛し、大宰府左遷の際、庭の梅に上記の和歌を詠んだことや、その梅が菅原道真を慕って一晩のうちに大宰府に飛来したという飛梅伝説ができたことから梅が神紋となり、約2万坪の敷地には50種1500本の梅が植えられている。
このような菅原道真と梅との結びつきから、命日にあたる2月25日に行われる梅花祭では「梅花御供(ばいかのごく)」とよばれる特殊神饌が献供されている。これは明治以前に太陰暦が用いられていた時代には魂を「宥める」にあやかって菜種がささげられていたが、新暦になり、梅花祭の時期が変わったために梅の花が用いられるようになったとされている。
なお、2012年現在では梅花祭における菜種は、神職が身に付け奉仕を行うという形で残されている。 この神饌では白梅と紅梅を男と女に見立て、土器の上に仙花紙を筒状に丸めて乗せ、玄米を流し入れた土台にそれぞれの梅の枝が挿し込まれ奉げられる。
白梅を挿したものが42個作られこれを「男の御供」、紅梅を挿したものを33個作り、「女の御供」と呼んでいる。また、菅原道真が大宰府へ流された際に帯同した従者が薨去以後遺品を京都へ持ち帰り、鎮魂のために毎年収穫された米を奉げていたという伝承に基づき、大判御供、小判御供という形で現代においても神事が受け継がれており、その従者達の末裔である七保会の面々によって御調が行われている。
くわえて、この梅花祭は全国でも珍しく、貞明皇后参拝の古例に従って、天皇からでなく皇后から幣帛料が上げられている。 -
牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされているが、その理由については「道真の出生年は丑年である」「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの伝承があり、どれが真実なのか、それとも全て伝承に過ぎないのかは今となっては良くわからないものの、それらの伝承にちなみ北野天満宮には神使とされる臥牛の像が多数置かれている。伝承のうち「牛が刺客から道真を守った」というのは和気清麻呂を祭神とする護王神社や和気神社の猪の伝承との関連性が強く認められる。
(文章の一部は、Wikipediaから引用させて頂きました。) -
秀吉が信長の供養の地に選んだ大徳寺。
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織田信長が、本能寺の変にて明智光秀の謀反により倒れると、
天正十年(1582年)10月に、秀吉により大徳寺にて信長の葬儀が執り行われました。 -
お布施や葬儀の費用は一万貫、法要は、17日にも及んだ と云われます。
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本能寺の変で、信長の遺骸が発見されなかった為、秀吉は信長の木像を2体造って、1体を火葬し菩提寺として新たに建立した大徳寺総見院に埋め、
もう一体を本堂に安置したのだそうです。 -
火葬の際には、信長像が彫られた沈香という香木の香りが都に漂ったと言われています。
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法要の際の葬送のパレードが行われた際に、
その信長の木像が納められた金紗金襴の棺は、
金銀をちりばめた輿に乗せ、
棺の前後には揃いの装束に身を包んだ三千人の行列が連なった壮麗なものだったと云われます。 -
このパレードで、輿の轅(ながえ)を持ったのは
池田輝政と名目上の喪主とされた秀吉の養子となっていた信長四男の秀勝、
そして信長の位牌は秀吉が持ったと云われます。 -
秀吉は、信長の葬儀を取り仕切る事で、信長の後継者は自分である事を
世間に認知させようとした様です。 -
秀吉が信長公の追善供養の為に作った菩提寺が大徳寺山内にあります。
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その菩提所に倣って各地の大名が寺内に塔頭を営むようになりました。
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また、秀吉は母の大政所のために寺内に塔頭の天瑞院(廃寺)と大光院を建てました。
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大徳寺の勅使門をくぐると、朱色の三門がみえますが、これは金毛閣と呼ばれる門で、千利休によって造られましたが、利休はここに自身の像を安置したことから、秀吉の怒りを買い、このため利休は切腹を命じられたと言われます。
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大徳寺で有名なのが、大徳寺納豆で有る。
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大徳寺納豆は、京都市北区紫野の大徳寺門前で生産されている納豆である。
寺納豆の一種。 -
納豆ではあるが、現代一般的に呼ばれる納豆のような物では無い。
「粘り気があり、糸を引くような納豆」とは異なる。 -
塩味の、古来製法の納豆の一種であり、本来の納豆の語句はこちらの製法のものを指す。
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風味は味噌や醤、中国の豆鼓に近い。
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その製法は、麹菌を使用して発酵させ、乾燥後に熟成させたものである。
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中国から日本に伝来した当初は、「豉」と呼ばれ、調味料として用いられたと考えられている。
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室町時代以後、納豆菌を使用した納豆と区別するため、「久喜」と呼ばれ、中国に渡航した僧が伝来したために、「寺納豆」とも呼ばれるようになった。
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大徳寺では、一休宗純が伝えたとされる。
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他にも、「天竜寺納豆」・「一休寺納豆」、浜松市の「浜納豆」などが有る。
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酒肴やお茶請けとして用いられる他、原型となった豆鼓のように料理の調味料としても用いる事ができる。
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京都では、大徳寺納豆を用いた京菓子が各種存在する。
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此処が、裏口である。
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大徳寺の裏口を出ると、今宮神社参道が有る。
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今宮神社は、京都市北区紫野にある神社である。
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社格は旧府社。別名「玉の輿神社」とも言われる。
京都市北区・上京区において大きな氏子区域を持ち、
祭礼の規模が比較的大きな神社として知られている。 -
祭神。
大己貴命(おおなむちのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
奇稲田姫命(くしなだひめのみこと) -
現在の今宮神社がある土地には、794年(延暦13年)の平安遷都以前から
疫神スサノオを祀る社(現在摂社疫神社)があったとされる。
平安遷都後にはしばしば疫病や災厄が起こり、神泉苑、上御霊神社、
下御霊神社、八坂神社などで疫病を鎮めるための御霊会が営まれた。 -
994年(正暦5年)にも都で大規模な疫病が有り、朝廷は神輿2基を造って船岡山に安置し、音楽奉納などを行なった後、疫災を幣帛に依り移らせて難波江に流した。民衆主導で行なわれたこの「紫野御霊会」が今宮祭の起源とされ、京都の他の都市祭礼と同じく災厄忌避を祈願する御霊会として始まった。
1001年(長保3年)にも疫病が流行したことから、朝廷は疫神を船岡山から移し、疫神を祀った社に神殿・玉垣・神輿を造らせて今宮社と名付けた。 -
大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、
奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)の三柱の神が創祀された。
疫病が流行るたびに紫野御霊会が営まれ、やがて今宮社の祭礼(今宮祭)として定着して毎年5月に行なわれることとなった。 -
創祀以来、今宮神社に対する朝廷・民衆・武家からの崇敬は厚く、
1284年(弘安7年)には正一位の神階が与えられた。
15世紀-16世紀には、京の町が応仁・文明の乱(1467年-1478年)や戦国の兵乱などに巻き込まれ、今宮神社自体も荒廃。応仁・文明の乱では今宮神社も焼失した。1593年(文禄2年)に豊臣秀吉は今宮社の御旅所を再興し、
神輿1基を寄進した。 -
西陣の八百屋に生まれた「お玉」が徳川3代将軍家光の側室となり、
5代将軍綱吉の生母・桂昌院として従一位となった。
このことが「玉の輿」ということわざの由来になったとの説がある。
桂昌院は京都の寺社の復興に力を注いだが、今宮社に対する崇敬と西陣に対する愛郷の念が非常に強かったといい、1694年(元禄7年)には御牛車や鉾を寄進したほか、祭事の整備や氏子区域の拡充、やすらい祭の復興など様々な施策を行なった。江戸時代には社領として今宮神社に50石が与えられたと言う。
(文章の一部は、Wikipediaから引用させて頂きました。) -
晴明神社 ☆〜陰陽師 安倍晴明公をお祀りする晴明神社〜☆
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晴明神社は、京都市上京区にある神社である。
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安倍晴明を祀り、一条戻橋の北西にあった晴明の屋敷跡に鎮座する。
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全国各地に同名の神社が存在する。旧社格は村社。
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1005年に晴明が亡くなると、時の一条天皇は晴明の遺業を賛え、
晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、1007年、その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建した。 -
当地の社地は広大なものであったが、
戦火や豊臣秀吉の都市整備などにより次第に縮小し、
社殿も荒れたままの状態となった。 -
幕末以降、氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われ、
1950年には堀川通に面するように境内地が拡張された。 -
平成になると、漫画化・映画化もされた夢枕獏の小説のヒットにより、
安倍晴明のブームが起こり、全国から参拝者が訪れるようになった。 -
晴明歿後千年となる2005年には安倍晴明千年祭が行われた。
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陰陽師は、古代日本の律令制下の中務省の陰陽寮に属した官職の1つです。
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陰陽五行の思想に基づいた陰陽道によって占筮及び地相などを職掌とする方技「技術系の官人」。技官として配置された者を指す。
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それら、官人が後には本来の律令規定を超えて占術や呪術、祭祀を司るようになったために陰陽寮に属する者全てを指すようになる。
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更には中世以降の民間において個人的に占術等を行う非官人の者をも指すようになり、声聞師と重ねられることもあって「声聞師」と呼ばれる時もあった。
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現代においては民間で私的祈祷や占術を行う者と定義付けられており[要出典]、中には神職の一種のように見られる者も存在する。
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陰陽師は全ての事象が陰陽と木・火・土・金・水の五行の組み合わせによって成り立っているとする夏、殷(商)王朝時代にはじまり周王朝時代にほぼ完成した中国古代の陰陽五行思想に立脚し、これと密接な関連を持つ天文学、暦学、易学、時計等をも管掌した日本独自の職であるが、前提となる陰陽五行思想自体は飛鳥時代、遅くとも百済から五経博士が来日した継体天皇7年(512年)または易博士が来日した欽明天皇15年(554年)の時点までに、中国大陸(南北朝またはそれ以前)から直接、または朝鮮半島西域(高句麗・百済)経由で伝来したと考えられている。
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当初はこれら諸学の政治・文化に対する影響は僅少であったものの、推古天皇10年(602年)に百済から觀勒が来日して聖徳太子をはじめとして選ばれた34名の官僚に陰陽五行説を含む諸学を講じると、その思想が日本の国政に大きな影響を与えるようになり、初めて日本において暦(元嘉暦)が官暦として採用されたり、仏法や陰陽五行思想・暦法などを吸収するために推古天皇15年(607年)に隋に向けて遣隋使の派遣が始められたりしたほか、聖徳太子の十七条憲法や冠位十二階の制定においても陰陽五行思想の影響が色濃く現れることとなった。
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その後も、朝廷は遣隋使(後には遣唐使)に留学生を随行させたり、中国本土または寄港地の朝鮮半島西岸から多数の僧侶または学者を招聘して、さらなる知識吸収につとめた。諸学の導入が進むと、日本においては「日月星辰の運行・位置を考え相生相克の理による吉凶禍福を判じて未来を占い、人事百般の指針を得る」[要出典]ことが重要であると考えられるようになり、吉凶を判断し行動規範を得るための方策として陰陽五行思想が重視されることとなった。
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その後、天武天皇が壬申の乱の際に自ら栻(ちょく、占いの道具)を取って占うほど天文(学)や遁甲の達人であり陰陽五行思想にも造詣の深かった事もあり、同天皇4年(676年)に陰陽寮や日本初の占星台を設け、同13年(685年)には「陰陽師」という用語が使い始められるなどしてから陰陽五行思想は更に盛んとなり、養老2年(718年)の養老律令において、中務省の内局である小寮としての陰陽寮が設置されたが、そこに方技として天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士が常置されることも規定されると、陰陽寮は神祇官に属する卜部の亀卜(きぼく、亀甲占い)と並んで公的に式占を司ることとなった。
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陰陽寮は四等官制が敷かれ、陰陽頭(おんみょうのかみ)以下の事務方である行政官と、方技としての各博士及び各修習生、その他庶務職が置かれたが、方技である各博士や陰陽師は大陸伝来の技術を担当するだけに、諸学に通じ漢文の読解に長けた渡来人、おしなべて中国本土の前漢・後漢・代わって大陸覇権を握った隋、朝鮮半島西岸に勢力を有した高句麗・百済、まれに当初朝鮮半島東岸勢力であった新羅から帰来した学僧が任命され、特に天智天皇2年(663年)に日本が親密国であった百済に援軍を出した白村江の戦の敗戦により新羅が朝鮮半島を統一して百済王朝が滅亡した際の前後には、百済から大量の有識者が亡命者として渡来し、その中から多くの者が任官されており、また、方技は官人の子弟にとどまらず民間人からの登用も可能であった。
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陰陽寮成立当初の方技は、純粋に占筮、地相(現在で言う「風水」的なもの)、天体観測、占星、暦(官暦)の作成、吉日凶日の判断、漏刻(水時計による時刻の管理)のみを職掌としていたため、もっぱら天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって予言するだけであって、神祇官や僧侶のような宗教的な儀礼(祭儀)や呪術は全く行わなかったが、宮中において営繕を行う際の吉日選定や、土地・方角などの吉凶を占うことで遷都の際などに重要な役割を果たした。
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(西陣織会館)
京都で織物作りが始まったのは、桓武天皇によって平安京が築かれるよりも前の5世紀頃のこと。また、平安遷都とともに宮廷の織物を管理していた「織部司」と呼ばれる役所が置かれ、今の上京区黒門上長者町あたりに住んでいた職人に、綾・錦など高級な織物作りを奨励したのにともない、発展したといわれています。 -
平安時代も半ばを過ぎると、こうした官営の織物工房も衰えてきますが、
職人たちは織部司の東の大舎人町あたりに集まって住み、宮廷の管理下を離れた自由な織物作りを開始。「大舎人の綾」、「大宮の絹」などと呼ばれる織物などが作られました。また、宋から伝えられた綾織の技を研究して、独自の唐綾を開発。神社や寺院の装飾にふさわしい重厚な織物として重宝されました。 -
1467年に起こった応仁の乱が終わると、各地に離散していた織物職人たちも京都に戻り、戦乱の際に山名宗全率いる西軍の陣地が置かれていたあたりで、織物作りを再開します。戦乱以前から織物の町として栄えていた京都北西部の一帯が「西陣」と呼ばれるようになったのはこの頃から。西軍の陣地跡だから「西陣」というわけです。今も上京区堀川通五辻西入るには、宗全の邸宅跡が残っています。
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西陣織の源流は、遠く古墳時代にまで求められます。5、6世紀頃、大陸からの渡来人である秦氏の一族が山城の国、つまり今の京都・太秦あたりに住みついて、養蚕と絹織物の技術を伝えたのです。
飛鳥時代や奈良時代を経て、やがて平安京への遷都が行われると、朝廷では絹織物技術を受け継ぐ工人(たくみ)たちを織部司(おりべのつかさ)という役所のもとに組織して、綾・錦などの高級織物を生産させました。いわば国営の織物業が営まれていたわけです。織物の工人たちは現在の京都市上京区上長者町あたりに集まって、織部町といわれる町をかたちづくっていたといわれます。 -
平安時代も中期以降になると、こうした官営の織物工房は徐々に衰えました。律令政治のタガがゆるみ始め、工人たちが自分たちの仕事として織物業を営むようになったのです。彼らはやはり織部町の近くの大舎人(おおとねり)町に集まり住み、鎌倉時代には「大舎人の綾」とか「大宮の絹」などと呼ばれ珍重された織物を生産していました。
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また、大陸から伝えられる新しい技術も取り入れ、つねにすぐれた織物づくりに取り組みました。
室町時代には、大舎人座(おおとねりざ)という同業組合のようなものを組織し、朝廷の内蔵寮(うちのくらのつかさ)からの需要に応えながら、一般の公家や武家などの注文にも応じていました。 -
西陣織の完成までには20を越えるプロセスがあり、
それぞれの工程が専門家によって分業化されています。
伝統的工芸品産業の振興に関する法律により指定されている「西陣織」の品種は、全部で12種類。各品種により
生産工程が微妙に違います。それぞれの工程と歴史を
解りやすく解説してみました。
西陣織は昭和51年2月26日付で伝統工芸品に指定されました。 -
きものショー上演時間
(約15分の上演です)
1回目10:00
2回目10:50
3回目11:45
4回目13:15
5回目14:15
6回目15:15
7回目16:00
1階ステージ・無料
※すべて立見となります。 -
西陣織会館|京都着物|きものショー
http://www.nishijinori.jp/
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