金沢旅行記(ブログ) 一覧に戻る
<br />1926年ごろ<br /><br />1897年(明治30年)私の母さつきは、金沢市の海岸近く、粟ヶ崎に生まれた。<br />この地は北前船の基地、宮ノ越に近く、銭屋五兵衛などと同じく、国内の海運業に発して、日本近隣との貿易も盛んだったと推測する。<br /><br />彼女の母(私の祖母)の生家北川家は、このような海運貿易関係の仕事をしていたが、時の移り変わりとともにすたれ、1906年(明治39年)家を畳んでアラスカに渡った。<br />目的は砂金採りだったが、うまく行かなかったようだ。<br /><br />私の母は初婚後13年間子宝に恵まれず、離縁され実家に戻ってきてから、後継ぎのいない北川家の養子となることが決まっていた。<br />そこに現れたのが、妻を失って中国から戻り、金沢で静養生活を送っていた父だった。<br /><br />二人の出会いは列車の車中と聞くが、父が熱心に求めるので、長子を北川家の跡取りとする約束で、結婚が成立した。<br />その長子が私だった。<br /><br />アラスカでの事業に失敗した北川家は、アメリカのシアトルにやって来て、日本人排斥の流れの中で、ホテル、レストラン、菓子作り、散髪屋、クリーニング等々、次々に職種を変えながら粘り強く生きた。<br /><br />しかし益々吹きすさむ排日運動のさなか、夫妻そろって重い病に伏し、1938年(昭和13年)ついに断腸の思いで帰国を決意する。<br />だが時すでに遅く、あるじは船中で死し、妻ますは神戸で入国後、直ちに大阪の胃腸病院に入院するが、胃がんの末期と診断され、間もなく終末を迎える。<br /><br />ここで跡取りを予定されていた私が喪主となり、粟ヶ崎に墓を造って納骨する。<br />しかし片瀬家の跡取り、私の兄晶文の健康も思わしくなく、1940年(昭和15年)死亡とともに私が片瀬家を継ぐことになり、北川家は終わる。<br /><br />話は戻って、1927年(昭和2年)父に嫁した母は、1930年33歳にして初めて懐妊し、誕生したのが私だった。<br />母にとっては、自ら不妊症と考えていた中での懐妊は、夢のような喜びだった。<br /><br />父にとっても兄晶文の健康が益々思わしくない背景があり、8年振りの男子誕生は大きな希望を生む。<br />母は「神からの授かりものと」と呼び、父は「家の宝」と呼ぶ、私の誕生だった。<br /><br />ところがその喜びもつかの間、新たに試練がやってくる。<br />母のリューマチ発症だ。<br />私の産後毎日風呂を張るため、重い井戸ポンプのハンドルを操作したのが原因のようで、手足の関節が痛み始め、日によっては動かなくなることさえある。<br /><br />日とともに関節はコブのように腫れ初め、変形し、有効な治療方法もないままに、69歳の死に至るまで、戦うのだった。<br /><br />母は運命の波にもまれ、苦労も多かったが、喜びも多い人生を送った。<br />いまだに目の当たりに残るのは、姉が結核から立ち直って、超難関奈良女高師に合格したときの、大喜びした姿である。<br /><br />私の転勤にも、高齢にかかわらず未知の地、東京五反田、熱海、盛岡、東京巣鴨、東京外山が原と付き添ってくれ、各地で友人を作って楽しく生きてくれた。<br /><br />2014.12.18片瀬貴文記<br />

母さつき − 悲しみの後に喜びの人生

13いいね!

1950/01/02 - 1951/01/02

2321位(同エリア5126件中)

0

9

ソフィ

ソフィさん


1926年ごろ

1897年(明治30年)私の母さつきは、金沢市の海岸近く、粟ヶ崎に生まれた。
この地は北前船の基地、宮ノ越に近く、銭屋五兵衛などと同じく、国内の海運業に発して、日本近隣との貿易も盛んだったと推測する。

彼女の母(私の祖母)の生家北川家は、このような海運貿易関係の仕事をしていたが、時の移り変わりとともにすたれ、1906年(明治39年)家を畳んでアラスカに渡った。
目的は砂金採りだったが、うまく行かなかったようだ。

私の母は初婚後13年間子宝に恵まれず、離縁され実家に戻ってきてから、後継ぎのいない北川家の養子となることが決まっていた。
そこに現れたのが、妻を失って中国から戻り、金沢で静養生活を送っていた父だった。

二人の出会いは列車の車中と聞くが、父が熱心に求めるので、長子を北川家の跡取りとする約束で、結婚が成立した。
その長子が私だった。

アラスカでの事業に失敗した北川家は、アメリカのシアトルにやって来て、日本人排斥の流れの中で、ホテル、レストラン、菓子作り、散髪屋、クリーニング等々、次々に職種を変えながら粘り強く生きた。

しかし益々吹きすさむ排日運動のさなか、夫妻そろって重い病に伏し、1938年(昭和13年)ついに断腸の思いで帰国を決意する。
だが時すでに遅く、あるじは船中で死し、妻ますは神戸で入国後、直ちに大阪の胃腸病院に入院するが、胃がんの末期と診断され、間もなく終末を迎える。

ここで跡取りを予定されていた私が喪主となり、粟ヶ崎に墓を造って納骨する。
しかし片瀬家の跡取り、私の兄晶文の健康も思わしくなく、1940年(昭和15年)死亡とともに私が片瀬家を継ぐことになり、北川家は終わる。

話は戻って、1927年(昭和2年)父に嫁した母は、1930年33歳にして初めて懐妊し、誕生したのが私だった。
母にとっては、自ら不妊症と考えていた中での懐妊は、夢のような喜びだった。

父にとっても兄晶文の健康が益々思わしくない背景があり、8年振りの男子誕生は大きな希望を生む。
母は「神からの授かりものと」と呼び、父は「家の宝」と呼ぶ、私の誕生だった。

ところがその喜びもつかの間、新たに試練がやってくる。
母のリューマチ発症だ。
私の産後毎日風呂を張るため、重い井戸ポンプのハンドルを操作したのが原因のようで、手足の関節が痛み始め、日によっては動かなくなることさえある。

日とともに関節はコブのように腫れ初め、変形し、有効な治療方法もないままに、69歳の死に至るまで、戦うのだった。

母は運命の波にもまれ、苦労も多かったが、喜びも多い人生を送った。
いまだに目の当たりに残るのは、姉が結核から立ち直って、超難関奈良女高師に合格したときの、大喜びした姿である。

私の転勤にも、高齢にかかわらず未知の地、東京五反田、熱海、盛岡、東京巣鴨、東京外山が原と付き添ってくれ、各地で友人を作って楽しく生きてくれた。

2014.12.18片瀬貴文記

  • 風雪に耐えて

    風雪に耐えて

  • 故郷の山

    故郷の山

  • 故郷の山

    故郷の山

  • 雪と生きる

    雪と生きる

  • 源流

    源流

  • 雪の峡谷

    雪の峡谷

  • 雪だるま

    雪だるま

  • 雪だるま<br />白山市

    雪だるま
    白山市

  • 白山市の雪だるま

    白山市の雪だるま

この旅行記のタグ

13いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP