1950/01/02 - 1951/01/02
2321位(同エリア5126件中)
ソフィさん
1926年ごろ
1897年(明治30年)私の母さつきは、金沢市の海岸近く、粟ヶ崎に生まれた。
この地は北前船の基地、宮ノ越に近く、銭屋五兵衛などと同じく、国内の海運業に発して、日本近隣との貿易も盛んだったと推測する。
彼女の母(私の祖母)の生家北川家は、このような海運貿易関係の仕事をしていたが、時の移り変わりとともにすたれ、1906年(明治39年)家を畳んでアラスカに渡った。
目的は砂金採りだったが、うまく行かなかったようだ。
私の母は初婚後13年間子宝に恵まれず、離縁され実家に戻ってきてから、後継ぎのいない北川家の養子となることが決まっていた。
そこに現れたのが、妻を失って中国から戻り、金沢で静養生活を送っていた父だった。
二人の出会いは列車の車中と聞くが、父が熱心に求めるので、長子を北川家の跡取りとする約束で、結婚が成立した。
その長子が私だった。
アラスカでの事業に失敗した北川家は、アメリカのシアトルにやって来て、日本人排斥の流れの中で、ホテル、レストラン、菓子作り、散髪屋、クリーニング等々、次々に職種を変えながら粘り強く生きた。
しかし益々吹きすさむ排日運動のさなか、夫妻そろって重い病に伏し、1938年(昭和13年)ついに断腸の思いで帰国を決意する。
だが時すでに遅く、あるじは船中で死し、妻ますは神戸で入国後、直ちに大阪の胃腸病院に入院するが、胃がんの末期と診断され、間もなく終末を迎える。
ここで跡取りを予定されていた私が喪主となり、粟ヶ崎に墓を造って納骨する。
しかし片瀬家の跡取り、私の兄晶文の健康も思わしくなく、1940年(昭和15年)死亡とともに私が片瀬家を継ぐことになり、北川家は終わる。
話は戻って、1927年(昭和2年)父に嫁した母は、1930年33歳にして初めて懐妊し、誕生したのが私だった。
母にとっては、自ら不妊症と考えていた中での懐妊は、夢のような喜びだった。
父にとっても兄晶文の健康が益々思わしくない背景があり、8年振りの男子誕生は大きな希望を生む。
母は「神からの授かりものと」と呼び、父は「家の宝」と呼ぶ、私の誕生だった。
ところがその喜びもつかの間、新たに試練がやってくる。
母のリューマチ発症だ。
私の産後毎日風呂を張るため、重い井戸ポンプのハンドルを操作したのが原因のようで、手足の関節が痛み始め、日によっては動かなくなることさえある。
日とともに関節はコブのように腫れ初め、変形し、有効な治療方法もないままに、69歳の死に至るまで、戦うのだった。
母は運命の波にもまれ、苦労も多かったが、喜びも多い人生を送った。
いまだに目の当たりに残るのは、姉が結核から立ち直って、超難関奈良女高師に合格したときの、大喜びした姿である。
私の転勤にも、高齢にかかわらず未知の地、東京五反田、熱海、盛岡、東京巣鴨、東京外山が原と付き添ってくれ、各地で友人を作って楽しく生きてくれた。
2014.12.18片瀬貴文記
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