1950/11/09 - 1951/11/09
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ソフィさん
1930年11月9日、私の生まれた日は、日曜日だった。
昼頃産気づいた母は、クラブの囲碁大会に出ていた父に報せたが、出産には間に合わなかった。
母が囲碁嫌いになったきっかけだ。
33歳で初産だった母は、思ったより安らかに私を生んだようだ。
私の出産は、予定日を40日間も遅れていた。
胎児も大きく育ち、事実生まれた時の重さは3950グラムだったと聞く・
生まれた場所は、大阪府箕面村桜井五番丁東端、地籍上は箕面村半町の自宅。
1910年に開通した阪急(当時有馬箕面電気鉄道)が開発した桜井駅周辺の住宅地の東端に位置し、隣の牧落駅とのほとんど真ん中あたり。
10歳年上の姉と、8歳年上の兄が通っていた箕面小学校は牧落駅前にあったから、ちょうどいい位の通学距離、また父が通う浪速高校までは徒歩30分ほどだから、これまたちょうどいい通勤距離である。
浪速高校は阪急の石橋駅に近く、小さな丘の上の松林に建っていた。
父が通った道は、電車の線路を越えて西国街道を渡ってからちょっとした山道。
普通は皮底の革靴だったが、小雨模様の日はゴム底の革靴、もっと雨が強い日は道に水溜りができるので、ゴム長靴を履く。
ゴム長靴は、中国で買った、イギリス製の高級品だった。
家の後は田圃で、その先を走る電車の響きが近代を伝え、庭の木の葉越しに信号が赤・橙色・青と変わるのが見える。
住宅地なのに、まだ水道がなく、井戸水を手押しポンプで汲み上げていた。
家族は父母、姉と兄、そして祖母の、私を入れて6人だったが、間もなく母がリューマチのためにねえやが一人増え、7人となる。
ねえやは近くの熊野田の農家から来ており、高等小学校を終えたばかりの若さ。
泊まり込みで家族の一員となり、家事手伝いとともに、私のお守りもやってくれた。
私に、この家のことをほとんど覚えていない。
私が二つになって姉が女学校に通学し始めたとき、暗くなってからも安全に歩くことができるよう、桜井駅近くの二番町に越したからだ。
姉は県境を越え、伊丹にある兵庫県立伊丹高等女学校に入学する。
ここに通うには、阪急箕面線で桜井駅から石橋駅に出、阪急宝塚線に乗り換え、能勢口の駅で降りていったん改札を出て歩き、当時単線だった国鉄福知山線川西池田駅から同伊丹駅まで、蒸気機関車の列車に乗らなければならなかった。
この学校は発足してから10年余りと新進の気に満ちており、何人かの先生は、80年近くを経て、当時幼かった私の印象にさえ残っている。
2014.12.19片瀬貴文記
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