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■ロマン氏の場合;「幼い娘に救われた」今でも思い出す<br /><br /> ジーマ氏と同い年で幼馴染のロマン氏は、若い時ボクサーを10年ほどやっていた。今はキーロフ市内でオーダーメイド家具製造会社(従業員30人)を経営している。<br /><br />「キーロフ行進には7年前に初めて参加した。それまでも何度か歩いてみようと思ったが、踏み切れなかった。ついに意を決して、友人と誘い合わせて2人で参加した。自分は全行程を歩くつもりだった。友人は前半の半分だけ歩くつもりだった。お互いにそのことに全く気付かずに、ベリコレツコエ村に着いて聖水の儀式を終えてから、それがわかった。友人は帰ってしまい1人残された。村の中をブラブラしていると、やはり後半1人になってしまったという仲間が2人も見つかった。それ以来、この時偶然一緒に歩いた仲間と親友になって、今でも付き合っている。」<br /><br />「娘の名前はエヴァ。4歳の時から参加した。1年目は1日だけ、2年目は2日間だけと、歩く距離を毎年伸ばしてきた。2年目に歩いたとき、ザガリエ村で雨に降られた。雨宿りする場所もなく、娘を胸に抱いて雨の中を歩き続けた。すぐに帰るつもりだったので着替えもなく、ずぶ濡れで、本当にどうしようかと泣きそうな気持で歩いた。その時、5歳の娘がむずかりもせず、『パパ、我慢するからね。私、大丈夫だよ』と気丈にも言ってくれた。娘に救われた気持ちになった。やっとの思いで歩き通し、仲間に追いついて合流した。仲間がタオルや着替えを貸してくれて何とか2日間をしのいだ。今でもしょっちゅう思い出す。あのときの娘の言葉が私に何とも言えないとても強い力を与えてくれた。」<br /><br />「普段はそれほど信仰深く生活しているわけではないよ。毎週教会に行くなんてことはない。年中、仕事で忙しいし、酒もよく飲む。夜遅く家に帰って、家族とゆっくり話す時間もない。しかし、正教は私にとって生きるよりどころだと思う。この行進に参加することで、妻とも、娘とも、家族の絆は確実に深まった。」<br /><br />■ジーマ君の場合;もう一度歩いてみたくなった<br /><br />  同行のジーマ君が言う。<br /><br />「ロシア正教を本当に真面目に信仰し、様々な戒律を厳格に守って生活しているロシア人はせいぜい数%(4?5%)ではないかと言われている。ほとんどのロシア人にとって、ロシア正教は生活習慣の一部として受け入れられているが、その信仰の程度は実にさまざまだ。たとえば、毎日教会に行く人はごく稀だし、断食のきまりなども多くの人が守っているわけではない。きまりを正確に知らない人も多い。若い人の中には、『あなたの宗教は?』と訊かれて、『ロシア正教という名の無神論です』という答え方があるほどだ。しかし、そういう人でも時には正教の行事に参加してみようかという気になるし、教会を訪れたりもする。これも事実だ。」<br /><br />「実は、ボクもそんなに真面目にロシア正教の信者という自覚があったわけではない。今回初めてこの行進のことを知って、実際に歩いてみて、やっぱりもう一度歩いてみたいという気持になった。信仰について考え直す機会になった。」<br /><br />■日本人は無宗教?<br /><br /> 歩きながら、宗教あるいは信仰の意味についてしばしば考えた。<br /><br /> 一般に、日本人は宗教的な関心が薄いとか、宗教的に無節操だと言われる。よく引き合いに出されるのは、「日本人は、生まれた時は神社に宮参りに行き、結婚式はキリスト教の教会で挙げ、葬式は仏式で行う」というものだ。複数の宗教と平気で関わりを持つ日本人は確かに無節操に見える。あるいは、こんな数字もある。文化庁編集の宗教年鑑によると、2005年に日本の各宗教団体が文化庁に提出した信者の総数は、2億1400万人と、日本の総人口の1.7倍だった。内訳は、神道系が1億人強、仏教系が1億人弱、キリスト教系とその他の諸宗派が1200万人。各宗教団体が自己申告した数字を集計したものだから、多少の水増しはあるだろうが、それにしても1.7倍というのは、たとえばキリスト教世界では考えられないだろう。しかし、日本人はこの数字にあまり違和感を抱かない。つまり、圧倒的多数の日本人は、自身は信者という自覚がないままに、神社の氏子と仏寺の檀家の両方に登録されているわけで、しかもそのことをごく自然に受け入れている。このような状況を指して、「日本人は無宗教だ」という言い方も広がっている。<br /><br /> 神道は、もともと自然界のあらゆる事物(太陽や海や山、大木や巨岩など)に神的なもの、霊的なものが宿っていると考える原始宗教(アニミズム)に発している。「八百万(やおよろず)の神」と言われるように、日本には様々な神が住んでいる。キリスト教やイスラム教のような一神教、「唯一絶対の神」というものは日本人には理解しにくい。一神教は、ただ一つ神を絶対的な基準として、その視点から世界を見る。善悪を判断する。しかし、多神教の世界では、神々に役割分担と縄張りがあり、どの神も絶対的な支配権を持っていない。日本人は自分の都合に応じて、いろいろな神様に挨拶し、願い事をする。いわば友達のように神様と付き合っている。仏教、神道は、宗教というよりも生活習慣として日本人の日常生活に深く溶け込んでいる。<br /><br />■日本人には理解しにくい一神教の世界観<br /><br /> このような日本人の感覚からすると、一神教の世界の人々は、唯一絶対の神を信じ、聖書やコーランなどに記された「戒律」を日々の生活の指針として生きる敬虔な人々と映る。「日本人は宗教的に無節操だ」、あるいは「日本人は無宗教だ」と私たちが言う時、そこには一神教世界の人々に対するある種のコンプレックスないし警戒心のようなものが潜んでいる。私個人は無宗教というよりは無神論に近い考えだが、「八百万の神」を奉ずる日本人の生活伝統は私の中にも深く沁み込んでいるし、人が大きな困難や不幸に直面した時、心のよりどころを求めて一心に神や仏に祈る行為をまったく無意味だとは思わない。しかし、唯一絶対の神に自分の生き方すべてを委ねたいとは思わない。人間の理性や可能性をもう少し信じたいという思いが強い。<br /><br /> キーロフ行進の間中、なんとなく私が感じていた違和感というかぎごちなさは、主としてこの宗教観の違いにあった。過酷で困難な行進にこんなに熱心に参加する人たちは、信仰心の篤い、熱心なロシア正教の信者に違いない、そんな中に私のような信仰を持たない人間が紛れ込んでいいのかという遠慮と距離感が、心の中にあった。確かに行進参加者は熱心な信者であることは間違いないのだが、しかし、歩きながらの対話を通じて、ロシア正教もまた生活文化の一部としてロシアの人々に受け入れられているのだと理解したとき、その距離感は一挙に縮まった気がした。<br /><br />■ロシアの生活文化としての正教<br /><br /> さらに、キリスト教を受容する以前のロシア人の信仰は一種の自然宗教だった。太陽、大地、とくに雷といった自然現象の中にひそむ神聖な力を崇拝していたし、森や川、野原に棲む精霊たちとごく普通に交流していた。ロシアの自然と大平原をこよなく愛するロシア人の心象風景は、万物に神性(仏性)を感じる日本人のそれと共通するものがある。<br /><br /> 元来、ギリシャ正教(東方正教会)は土着主義を原則にしており、それぞれの民族教会の自治独立権を尊重してきた。ローマ教皇という超民族的な宗教的権威のもとでラテン語文化圏を築いたローマ・カトリックと違って、東方正教会は各国名、地域名を冠した組織を形成し、それぞれの民族語による礼拝を認めた。したがって、ロシア人はキリスト教をギリシャ風でもラテン風でもなく、ロシア風に理解し解釈することができたのだと言われている。キリストの教えは、ロシアでは教義体系や制度としてではなく、何よりも「心に神への恐れをもち、惜しまずに施しをなせ」という「生き方」として受け止められ理解された。<br /><br /> 高橋保行著「ギリシャ正教」(講談社学術文庫)によると、西のキリスト教が、人間をまず堕落したものとみて、堕落した人間を救うためにキリストがきたと考える『原罪説』にもとづいているのに対して、東の伝統的なキリスト教は、人間が神に善なるものとして創造されたと強調する『性善説』にもとづいているという。このような東方正教会とロシア正教の特徴もまた、私にとっては多少なりとも親しみやすく感じられる。<br /><br />(つづく)

キーロフ十字架行進 歩きながらの対話 生活の一部としてのロシア正教(14)

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2012/06/03 - 2012/06/08

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JIC旅行センター

JIC旅行センターさん

■ロマン氏の場合;「幼い娘に救われた」今でも思い出す

 ジーマ氏と同い年で幼馴染のロマン氏は、若い時ボクサーを10年ほどやっていた。今はキーロフ市内でオーダーメイド家具製造会社(従業員30人)を経営している。

「キーロフ行進には7年前に初めて参加した。それまでも何度か歩いてみようと思ったが、踏み切れなかった。ついに意を決して、友人と誘い合わせて2人で参加した。自分は全行程を歩くつもりだった。友人は前半の半分だけ歩くつもりだった。お互いにそのことに全く気付かずに、ベリコレツコエ村に着いて聖水の儀式を終えてから、それがわかった。友人は帰ってしまい1人残された。村の中をブラブラしていると、やはり後半1人になってしまったという仲間が2人も見つかった。それ以来、この時偶然一緒に歩いた仲間と親友になって、今でも付き合っている。」

「娘の名前はエヴァ。4歳の時から参加した。1年目は1日だけ、2年目は2日間だけと、歩く距離を毎年伸ばしてきた。2年目に歩いたとき、ザガリエ村で雨に降られた。雨宿りする場所もなく、娘を胸に抱いて雨の中を歩き続けた。すぐに帰るつもりだったので着替えもなく、ずぶ濡れで、本当にどうしようかと泣きそうな気持で歩いた。その時、5歳の娘がむずかりもせず、『パパ、我慢するからね。私、大丈夫だよ』と気丈にも言ってくれた。娘に救われた気持ちになった。やっとの思いで歩き通し、仲間に追いついて合流した。仲間がタオルや着替えを貸してくれて何とか2日間をしのいだ。今でもしょっちゅう思い出す。あのときの娘の言葉が私に何とも言えないとても強い力を与えてくれた。」

「普段はそれほど信仰深く生活しているわけではないよ。毎週教会に行くなんてことはない。年中、仕事で忙しいし、酒もよく飲む。夜遅く家に帰って、家族とゆっくり話す時間もない。しかし、正教は私にとって生きるよりどころだと思う。この行進に参加することで、妻とも、娘とも、家族の絆は確実に深まった。」

■ジーマ君の場合;もう一度歩いてみたくなった

同行のジーマ君が言う。

「ロシア正教を本当に真面目に信仰し、様々な戒律を厳格に守って生活しているロシア人はせいぜい数%(4?5%)ではないかと言われている。ほとんどのロシア人にとって、ロシア正教は生活習慣の一部として受け入れられているが、その信仰の程度は実にさまざまだ。たとえば、毎日教会に行く人はごく稀だし、断食のきまりなども多くの人が守っているわけではない。きまりを正確に知らない人も多い。若い人の中には、『あなたの宗教は?』と訊かれて、『ロシア正教という名の無神論です』という答え方があるほどだ。しかし、そういう人でも時には正教の行事に参加してみようかという気になるし、教会を訪れたりもする。これも事実だ。」

「実は、ボクもそんなに真面目にロシア正教の信者という自覚があったわけではない。今回初めてこの行進のことを知って、実際に歩いてみて、やっぱりもう一度歩いてみたいという気持になった。信仰について考え直す機会になった。」

■日本人は無宗教?

 歩きながら、宗教あるいは信仰の意味についてしばしば考えた。

 一般に、日本人は宗教的な関心が薄いとか、宗教的に無節操だと言われる。よく引き合いに出されるのは、「日本人は、生まれた時は神社に宮参りに行き、結婚式はキリスト教の教会で挙げ、葬式は仏式で行う」というものだ。複数の宗教と平気で関わりを持つ日本人は確かに無節操に見える。あるいは、こんな数字もある。文化庁編集の宗教年鑑によると、2005年に日本の各宗教団体が文化庁に提出した信者の総数は、2億1400万人と、日本の総人口の1.7倍だった。内訳は、神道系が1億人強、仏教系が1億人弱、キリスト教系とその他の諸宗派が1200万人。各宗教団体が自己申告した数字を集計したものだから、多少の水増しはあるだろうが、それにしても1.7倍というのは、たとえばキリスト教世界では考えられないだろう。しかし、日本人はこの数字にあまり違和感を抱かない。つまり、圧倒的多数の日本人は、自身は信者という自覚がないままに、神社の氏子と仏寺の檀家の両方に登録されているわけで、しかもそのことをごく自然に受け入れている。このような状況を指して、「日本人は無宗教だ」という言い方も広がっている。

 神道は、もともと自然界のあらゆる事物(太陽や海や山、大木や巨岩など)に神的なもの、霊的なものが宿っていると考える原始宗教(アニミズム)に発している。「八百万(やおよろず)の神」と言われるように、日本には様々な神が住んでいる。キリスト教やイスラム教のような一神教、「唯一絶対の神」というものは日本人には理解しにくい。一神教は、ただ一つ神を絶対的な基準として、その視点から世界を見る。善悪を判断する。しかし、多神教の世界では、神々に役割分担と縄張りがあり、どの神も絶対的な支配権を持っていない。日本人は自分の都合に応じて、いろいろな神様に挨拶し、願い事をする。いわば友達のように神様と付き合っている。仏教、神道は、宗教というよりも生活習慣として日本人の日常生活に深く溶け込んでいる。

■日本人には理解しにくい一神教の世界観

 このような日本人の感覚からすると、一神教の世界の人々は、唯一絶対の神を信じ、聖書やコーランなどに記された「戒律」を日々の生活の指針として生きる敬虔な人々と映る。「日本人は宗教的に無節操だ」、あるいは「日本人は無宗教だ」と私たちが言う時、そこには一神教世界の人々に対するある種のコンプレックスないし警戒心のようなものが潜んでいる。私個人は無宗教というよりは無神論に近い考えだが、「八百万の神」を奉ずる日本人の生活伝統は私の中にも深く沁み込んでいるし、人が大きな困難や不幸に直面した時、心のよりどころを求めて一心に神や仏に祈る行為をまったく無意味だとは思わない。しかし、唯一絶対の神に自分の生き方すべてを委ねたいとは思わない。人間の理性や可能性をもう少し信じたいという思いが強い。

 キーロフ行進の間中、なんとなく私が感じていた違和感というかぎごちなさは、主としてこの宗教観の違いにあった。過酷で困難な行進にこんなに熱心に参加する人たちは、信仰心の篤い、熱心なロシア正教の信者に違いない、そんな中に私のような信仰を持たない人間が紛れ込んでいいのかという遠慮と距離感が、心の中にあった。確かに行進参加者は熱心な信者であることは間違いないのだが、しかし、歩きながらの対話を通じて、ロシア正教もまた生活文化の一部としてロシアの人々に受け入れられているのだと理解したとき、その距離感は一挙に縮まった気がした。

■ロシアの生活文化としての正教

 さらに、キリスト教を受容する以前のロシア人の信仰は一種の自然宗教だった。太陽、大地、とくに雷といった自然現象の中にひそむ神聖な力を崇拝していたし、森や川、野原に棲む精霊たちとごく普通に交流していた。ロシアの自然と大平原をこよなく愛するロシア人の心象風景は、万物に神性(仏性)を感じる日本人のそれと共通するものがある。

 元来、ギリシャ正教(東方正教会)は土着主義を原則にしており、それぞれの民族教会の自治独立権を尊重してきた。ローマ教皇という超民族的な宗教的権威のもとでラテン語文化圏を築いたローマ・カトリックと違って、東方正教会は各国名、地域名を冠した組織を形成し、それぞれの民族語による礼拝を認めた。したがって、ロシア人はキリスト教をギリシャ風でもラテン風でもなく、ロシア風に理解し解釈することができたのだと言われている。キリストの教えは、ロシアでは教義体系や制度としてではなく、何よりも「心に神への恐れをもち、惜しまずに施しをなせ」という「生き方」として受け止められ理解された。

 高橋保行著「ギリシャ正教」(講談社学術文庫)によると、西のキリスト教が、人間をまず堕落したものとみて、堕落した人間を救うためにキリストがきたと考える『原罪説』にもとづいているのに対して、東の伝統的なキリスト教は、人間が神に善なるものとして創造されたと強調する『性善説』にもとづいているという。このような東方正教会とロシア正教の特徴もまた、私にとっては多少なりとも親しみやすく感じられる。

(つづく)

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